志情(しなさき)の海へ

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「比謝川遠望」:吉屋チルーの歌碑が立つ風景

2012-07-08 12:10:14 | ジュリ(遊女)の諸相:科研課題

比謝川遠望

「4・25米軍普天間飛行場の早期閉鎖・返還と県内移設に反対し、国外・県外移設を求める県民大会」の会場から歩いて比謝川へ。同行していた方は宜野湾市長の話が一番良かった、と話した。曖昧な態度の沖縄の知事さんがいて、こころの距離は深い。 

沖縄にある基地はすべていらないと宣言し、先住民族決議をして、あらゆる日米利権を奪取する覚悟で自立した琉球弧を目指す機運がそろそろ起こっても不思議はないのだけれども、いつまでたっても同じ事を繰り返さざるをえない哀れな島(人)を生かされている。しかし、今島は燃えている!何かの兆しなのかもしれない! 

熱い思いを抱いて、結集した多くのウチナーンチュがいて、バス停で黄色い素敵なサマージャケットを身に付けた女性ともであった。バスの中の人々、多くの車の列、それぞれが読谷を目指していた。70歳の元生物教師の方が、ただ基地はいらない、という意志を示したくってね、と話したように、「基地は嫌だ」と、身体で伝えたいという思いで、頭痛はしたが参加することにした。こんなフェンスの多い島はやはり異常で、醜い!

比謝川の川の水は豊かで、比謝橋から海への距離はあまりなさそうな雰囲気。その川の橋の近くの空間に吉屋チルーの歌碑が立っていた。

「 恨む 比謝橋や 情きねん人ぬ 我身渡さと思てぃ 架きてぃうちぇら」 

やはり向き合わざるをえない女性たちがなぜか自分にまとわりついているような感じもして、この歌碑との出合いのための一日だったようなそんな気もしていた。人はまた目に見えない何かに突き動かされて生きているのかもしれないと、自らに催眠をかけたような自縛を生きているのかもしれないーー。

遊女、ジュリ(傾城・尾類)、自らの身体を売るという商いが古来から人の世にあって、人は計り知れない宿業をまた生き、生かされている。生きながらのエロス、遊女は巫女であるという中山太郎の説はその通りなのだ。線香花火のような命のゆらめきを生きる宿命があり、そのたまさかの命の交わりは性の交わりの刹那が重なる。それを商いにする人の世の仕組みは、人がまた本能を生き得なくなった悲しみをひそめている。悲しみを身体にため込んでまた人は生きる。

生きる役割を義務を日々の繰り返しを身体の老いるままに生かされ生き、死んでいく。19歳で自ら命を断ったという少女の命の影が杜の中をさすらっているような気配も感じられ写真を撮る一瞬、ぞっとした。

幸せとは何だろう?叫びたいような悲しみ!絶望的な目線、ただ痛みが感じられた目にハッとしたあの日からそう遠くはたっていない。内にある絶望・地獄と表の顔はそぐわない。なぜそんな目をしているのだろう?

断食して命を断ったといわれる吉屋チルーがいて、やはり孤独の中で食を断っていた名優を思いだす。自らの決意で食を断つ、その痛々しいほどの決意と潔さに、崇高ささえ感じられた。生涯の最後にあなたは食を断った!よしやちるの思いは絶望の果て、自らの思いの深さゆえに思いと心中した。死は思いの塊、幻想・美・夢・愛の結晶!現実を超える手段は死!耐えられない関係の糸の綾は殺すに限る?絶望の淵、孤独の淵、それでもそう、それでも生きていかなければーー。生存の悲しみと歓びは状況・基地を跨ぐ。(ああ、なんだこれは?)


<比謝川界隈>

 

 
作成者 なさき : 2010年4月28日(水) 09:50
多様に編集中:
 

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