志情(しなさき)の海へ

琉球弧の潮風に吹かれこの地を掘ると世界と繋がるに違いない。世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

琉球史または「琉球もの」歴史小説のはざま

2010-10-22 04:04:53 | 表象文化/表象文化研究会
大学院の授業らしい授業を高良倉吉研究室の琉球史「特論」で体験している。付け加えて仲程昌徳先生の「琉球・沖縄文化要論」がまたいい。組踊に関しては再確認と新しい資料の発見を加味した大城学先生の授業がある。少人数で討議しながら進むのがいい!学ぶことは発見につながり、知的快感があるのは確かである。

昨今のアジアの研究者や博士課程の学生の交流では、タイの博士課程の方々の研究発表を一部お聴きしたが、日本の学生たちより鍛えられたフォームで英語でしっかり発表していた。パワーポイントはもうどこでも共通の風景になったが、フォーマットにそっているのが印象的!(タイでは社会人の方々が多く博士論文に挑んでいる雰囲気である)

さて最もしかし怖い授業が肝心の博士論文のアウトラインやコンセプトを発表する「比較地域文化総合演習」である。博論の基本的なアウトラインの作成とその綿密な資料の収集と傍証に時間がかかる。

4月から正確には1月末から精神的にパニック状態が続いていた。その紆余曲折の嵐の波もひょっとすると凪に向かう可能性も出てきた?目に地獄を見たと錯覚した日から9カ月もたってしまった。応えがないままに波打ち際に立つ。明日はまた明日の風が吹く。新たな台風(狂い風)がどう吹きつけるのかは分からない。静かな諦念ーーー。辻の問題では、非常に重苦しい時が八か月も続いた。

論文も10月末、12月末、アメリカへの論稿が2月15日、と目白押しである。しかし、テーマははっきりしていて金縛りにあったように前に進めない時が流れたままで、もうこれ以上、月にあおられてばかりもおれない土壇場で、目覚めたわけでもない。ーー無力と能力のなさに追い詰められているのが正直なところ。集中して向き合えるのか?疑問は付きまとうが、立ち止まってパニック状態でも先には歩けない中で集中していると、少しづつ見えかけてくる気配もあり、そのまま掘っていこうという気になってはいる。しかし最も望んでいるものーー、学問が宝探しのスリルの中にあるのはそれは分かる。論文を書くのも宝探しのメタフォアーで語れる。それはそれでそうだと感じる。しかし最も求めているのは{X}に他ならない。X=Y(単純にM=F)

[琉球の風]の台本を見せていただいた。1993年のHNKの大河ドラマで放映された映像があり、その監修を務めた高良倉吉先生のお話は当事者としての面白さがあった。原作は脚本に直され、さらに時代考証やロケなど、具体的な本読み、も含め、その後のブーイングとの闘いなど、創作現場の興奮が伝わってくるように思えたのも確かーーー。池上永一の新作『トロイメライ』がテキストで、琉球史を専攻し、中国語も堪能な前田舟子さんが、琉球史を題材にした歴史小説をめぐって発表する。『テンペスト』をめぐっての題で修士の学生もまた発表することになっていて、何かと興味深い。歴史がフィクション化されそれが実際の表象として舞台なり映像として多くの目に晒される時、そこに感嘆か違和感などが起こる。歴史的事実とフィクションの狭間に何が起こりえるのか?

実際舞台芸術にしても事実なり規範的な歴史的事象とのズレはつねにありえるわけで、虚構の世界にちりばめられていく結晶のようなエキスはどう生かされどう共同体なり地域なり、国家なりの記憶や娯楽として残りえるのか?

昨今のコンテンツ売り/創造と市場と文化のマーケット化がある。ポップカルチャーのような売れる文化の到来がネットの中からまた生まれようとしているーー。それもそうなのだろう。文化のコンテンツ創りが始まっている。よく考えると「琉球の風」には琉球・沖縄のコンテンツが一杯含まれている。琉球・沖縄の歴史がまたデフォルメなりディコントラストの手法を得て新たな生命力を得る。

平田太一が世界遺産の琉球の城跡で似たような現代組踊を上演する。それもいい!多様なジャンルと組んで野外へ、城の世界へと誘う。同じパターンの物語で人の心を誘う。それは彼が見いだした創造・想像の果実でそのパターン(様式)はそれで感銘させる。

デンマークのクロンボー城の中で上演されたのは、デンマークを代表するイタリア人のバーバの「UR・ハムレット」だった。インドネシアの民族ダンスや歌、またその様式がお城の庭に繰り出した。日本の能役者もまたーー。多人種多言語、多身体、物語は復讐劇の物語を飲み込んで現代のテロと戦争の世界を描いていた。ダンスミュージカルではない、本物意識が充満していたと見た。パンフレットは安く中身が充実していたのを今頃思いだす。

そのクロンボー城で「胆高の阿麻和利」が上演されても観衆は感動するだろう。物語は悲劇のヒーローだからだ!沖縄の城で似たような若者たちのダンスドラマが繰り広げられる。それはまた世界に伝播する気配のあるエイサーと同じ様相であろうか?


繰り返し繰り返し上演されることによって歴史的事実とはまたかけ離れながらも地域密着のドラマが展開される。

歴史と小説!どれほどの歴史のディテールが網羅されるのか、あるいは全くの奇想天外な推移を辿るのか?歴史をフィクションにする時の手際の良さとは何?大胆な構想(発想)と緻密な傍証、イメージとしての音響・音楽、衣装、情景、声!時代は紙の媒体からネットや電子書籍に移行しつつある微妙な空間にわたしたちは生きているようだ!

望む物の正体を見た時、人は幻想から解かれる。そしてまた新たな幻想に向かう。人は生きている限り幻想を求める存在なのかもしれないーー。「X」と限りなく出会いたい。その夢なり希望は捨てないでおこう!

<写真は琉球大学法文学部研究棟の7階から見た夕日、最近はこの7階が日常の空間?>

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