志情(しなさき)の海へ

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四間四方の張り出し舞台で見た御冠船時代の組踊「孝行の巻」、イミダスで演劇を執筆する鈴木先生も!

2012-05-13 13:06:17 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他
        (組踊も琉球歌劇も人間の情(肝ぐくる)の世界を描いている!「伊江島ハンドー小」)

四間四方ではなく、三間四方の張り出し舞台で見たい。前座の踊りは3人単位である。女踊「天川」はお二人。横浜の能楽堂で見た時も醜童の4人が精一杯だと感じたのだが、今回は四間四方の張り出し舞台に3人である。立ち位置が橋掛かりを意識して幾分異なった。隅切りの線状で、横一列ではない動きを演出している。北表と南表、そして奥にある橋掛かりを意識した立ち位置だが、中央をどこにもってくるのか、もっと工夫が必要だと感じた。

孝行の巻は実にシンプルさが良かった。大蛇の登場の場面のシンプリシティがいい。背景幕の中央から首を出しただけだが、それでいいと思った。従来の額縁舞台での大蛇の胴体までせり出した舞台とはまた異なるよさを見たと思った。ただ動きがまだぎこちなく、うないやうぃきーの唱えに違和感を覚えていた。従来の唱えではない。稽古を積んだはずでなぜこのような唱えなのか、指導者の責務であろうか?全体的に奥行きのある動きにはその立体性に興を覚えるが、唱えなど、迫力がほしいところだ。母親役はなかなか存在感があったと思う。地謡の迫力もほしい。

劇場ロビーで日本演劇学会の会員でイミダスの演劇の項目を担当している鈴木先生とお会いしたのにはびっくりした。芸大の板谷先生とタイムスの記者玉城氏をご紹介した。たまたまその場に居合わせたのである。共立女子大の鈴木国男先生は国立劇場おきなわの会員で、たまに沖縄に来られ、舞台をご覧になっているという事で驚いた。イミダスはネット版もあるようだ。組踊まで網羅されているとのお話だった。

渡嘉敷流の手について板谷先生は強調されていて、興趣があった。

M先生は「どぅーちゅーむにー」とおっしゃった。

ブログのエッセイや批評は「どぅーちゅーむにー」ではない。現に200人前後の方々がアクセスするこのサイトである。多い時で一日500人以上、それは真喜志康忠氏が亡くなられた時のことで、例えばCoocoの出演する映画や番組について言及したり、水谷八重子さんについて言及したら300人という反応など、テレビメディアの兆候と比例したりする。

200人を超える数値がなぜか、それは全国的な中身だと増える。早稲田復帰40年記念シンポジウムの記録など230人台だった。だから決してこのブログは「どぅーちゅーむにーで、批判的視点にレスがない、ということはない」と考えている。ツイターともリンクしているが、ツイターの会員はここまでまたクリックする。

国立劇場おきなわの現状への賛辞や批判も、一日200人として30日でも6000人が中身にコミットすることになる。2010年にこのブログを大阪のホテルで開設して以来10万人以上の訪問者である。

多目的ホールのような国立劇場おきなわである。張り出し舞台にしても三方から舞台が見れる空間ではない。死ぬ席がある。どうしても席として成り立ち得ない空間をもっている。額縁舞台と同じで、正面から見るのは張り出し舞台も同じ。村々の三間四方のゆるやかな、たおやかな空気が流れない。これは何?横浜能楽堂のあの空気、光、のびやかさがここにはありえないのである。こんな劇的空間を専門的に了承した方々の責任が問われているのではないだろうか?三方から見れる張り出し舞台がほしいね!これでは欠陥商品の舞台を常に見せつけられることになっている。第一張り出しである意味がどうも、三方から見れる立体性を感じたいと思う。ボクシングリングのような舞台構造もあったようで、円形劇場の雰囲気であろうか?多良間の8月踊りのある開けた空間がある、またやんばるのあしびな~はやや斜面を観客席にして仮設舞台が設営される。あの雰囲気を小さい頃から体験してきた者として、国立劇場の張り出し舞台は不満である。

現在でもやんばるの村芝居はあしびなーで三間四方の仮設舞台で見ている。多良間の八月踊りなどもまさにそうである。あの空間を室内にもってこれないのだろうか?

文化も多様だが、芸能・音楽文化は一般大衆の根から沸き起こるものであると考える。だから根っこにある喜びや痛みがリズムに歌詞に身体に刻まれる。それを大事にしたい。


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