志情(しなさき)の海へ

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大城立裕「カクテルパーティ」はなぜ舞台化されたのか?Frank Stewartさんの講演、論稿は分かりよく!

2012-01-26 22:42:58 | グローカルな文化現象

琉球大学「人の移動と文学」シリーズの第3回はハワイ大教授Frank StewartさんのAdapting The Cocktail Party for the Stage: Why It Was Necessary for Oshiro Tatsuhiro and Why It Was Finally Staged

である。風邪で調子は悪かったけど、参加した。ハワイの公演への関心だけではなく、大城立裕氏の作品論を書きたいと思っているからでもある。小説・戯曲・批評、実際の舞台も含め、大城立裕さんは凄い方であるだけでなく、その沖縄を背負った生真面目さが好ましい。氏とは劇場でよくお会いする。大城文学で論稿を書いている人の中で戯曲とその舞台にコミットしている人は多くはない。演劇論をまとめる上で大城氏の存在は大きい。もちろん小説と氏の戯曲はおおいに感応しあっている。根は同じだと思う。

強調したいのは、新作組踊のほとんどは「愛」がテーマである。つまり、カクテルパーティのようなどちらかというと政治的な匂いがぷんぷんする小説や戯曲より、この新作の愛の物語がいいね、などと言いたいのだが、されどやはり大城立裕氏が最今政治的な発言をされていることが、老境に至ってやはりかなり政治的になりアメリカ批判をかなりやっていたノーベル賞受賞者のハロルド・ピンターを思い起こさせる。氏がラディカルである証左でもある。おそらく琉大文学の面々よりラディカルなのかもしれない。(ただ大城的スタンスに批判がないわけではない!)

そこでFrankさんのお話は、すでに氏がまとめられた論文A4(14ページ)を読ませていただいたので、今反芻すると分かりやすい。お話はおおむねすでに書かれた論稿に沿っていた。

SOFA:Status Of Force Agreementの理不尽さの追求(それは今も変わらない)とUniversal and absolute ethics, and that an enduring peace is possible if we can transcend the tendency to see ourselves and other solely as either victims or victimizers.人間本来の絶対倫理、絶対的不寛容、すべての者が犠牲者であり加害者である!

のことばに集約されているようだ。パールハーバーの奇襲攻撃と広島・長崎への原爆投下の問題がある。その前には小説の中で中国大陸における上原の加害者=日本人の位相があり、駐留する沖縄でのCIAの諜報員だったミラーさんがいた。カクテルパーティーの仮面性が描写されるわけだが、パラレルな手法で大城さんが描き出す占領下の沖縄の姿は主人公上原の娘に対する彼の家の裏座を間借りしていた米兵ハリスによる娘洋子のレイプという形で象徴される。


レイプはシンボリズムに包まれている。沖縄そのものが洋子でありえたし、レイプされる島であり島民である。


フランクさんの論稿で気になったのは洋子のレイプが純粋牲の喪失としたこと、処女の喪失が沖縄の処女性の喪失とパラレルに解釈した点は、つまり沖縄そのもののアメリカによるレイプという解釈は分かるが、それが処女の喪失という描写・innocence is lost?

は疑問に思った。沖縄が純潔というわけではありえないので、単にレイプのセクシュアリティーの表象はわかるが、純潔なり処女のイメージはそぐわないと思う。

ただ彼の解釈はアメリカの自由と平等、そして民主主義のイメージが裏切られたという意味での処女性の喪失なら分からなくもないが、盲目的に洋子や上原が当初からアメリカに輝かしい信頼を持っていたと言えるのか疑わしい。作品の舞台は1971年である。ありえない。

講演の中でアメリカ(人)は日本や沖縄、中国のように他国の支配を受けたことがないので、沖縄(人)的被支配の立場に理解が疎いということ、その犠牲者に思い至る想像力の欠如というのはなるほどではあるが、すでに市民革命で奴隷制度を解放した国であり女性解放運動も盛んな国であって、しかし、国の意志と個人・市民レベルの信頼や友情の問題の『齟齬』や矛盾が起こり得るのは歴史が示している。永遠に復讐せざるをえない支配と被支配ではなく、また犠牲者と加害者の立場ではなく、互いに同様な立場に循環し得る関係性の複合性に思い致すこと、倫理観の絶対性ということは理解できる。普遍的な倫理性、互いに互いを犠牲にしない加害者にならない信念の構築、しかし、ナショナルな利害に踊っているのが現在の地球秩序の矛盾である。

決して楽観的ではないが、原爆と真珠湾攻撃に特化され得ない関係性、歴史・文化があり、地上戦における残酷さが登場しない(言及されない)のはなぜか?犠牲者・加害者という時日本と沖縄に差異はないのか?アメリカ人と言っても一応ではない。絶対倫理の枠組みがもっと語られる必要もあろうかと考える。パールハーバーと原爆だけではない残酷さがある。アメリカが原爆投下に罪を感じえない構造の問題が横たわっている。真珠湾攻撃は軍事基地攻撃であって原爆は無垢の市民の殺戮でもあった。その問題も問われるべきである。18歳の若者に絶対倫理について話すと、「戦争はそもそも大量に敵国民を殺すことが目的化されるからどんな手段でも、大量殺戮兵器でも良しとされたんだよね、今では国際会議でその是非が問われるみたいだけど」と言い切った。

しかし日・米・沖・中を含めて絶対倫理で人間の罪を問う時、作品の中で何かがまた仮面をかぶっているように思えてくる。アメリカ(人)の原爆投下の罪悪感の欠如には人種差別が含んでいるのではなかろうか。それは問題になってはいない。真珠湾攻撃だけとの対比にも無理があろう。絶対倫理のディテールが弱いのかもしれないね。人類の殺し合いの歴史がある。その連鎖を止める倫理が必要だと言える。それは確か!加害者にならない、そして被害者(犠牲者)にもならない。加害者であり被害者だと認識すること、それが原罪意識とどうからむのか関心がある。存在そのものの罪深さがないのか?存在そのものにすでにして加害者であり収奪者である属性が付着していないだろうか?原爆や真珠湾攻撃、地上戦の残酷さ、そして極限の戦争の裾野にある平和時の熾烈な生存競争という戦争の非情さもありえる。

変わらない沖縄への差別的法律・SOFA=Status of Force Agreementがある!こんな差別的法律が沖縄で実行されている現実をアメリカ人に認識させる意味において、有効でこの作品の大きな意義になりえるだろう!大城作品が作品として政治的メッセージを奥に秘めている所以でもある。


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