電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

ビットとなった音楽録音

2009年03月08日 06時59分17秒 | クラシック音楽
音楽の演奏が録音され、SPレコードやLP、CDなどの媒体に記録されパッケージ化されて流通し、これを購入することで、多くの音楽ファンは、音楽を聴く経験を広め、深めてきました。実演の感銘はもちろんすばらしいものですが、LPやCDを通じ、多種多様な音楽を反復して聴くことの意味は大きいものがあります。
今、リッピングにより音楽がビットに変換され、コンピュータやデジタル・オーディオ・プレイヤーで聴かれるようになってきました。CD数百枚分に相当する曲目を、ポケットに入れて瞬時に再生することができる。これは、第二次ウォークマン革命とも言うべき事態でしょう。

ビットになった音楽は、複製が容易でお手軽に持ち運び再生することができますが、同時にまた、安易に飽きられ、ハードディスクやフラッシュメモリ等のセクタの谷間に埋没することにもなりかねません。ビットになった一つ一つの音楽が、どんな年代のどんな時期によく聴いた音楽なのか、いわばその人にとっての意味が大切なのでしょう。若いころに聴いたシューマンのピアノ音楽を、中年になって懐かしく聴き直すように、音楽の持つ意味合いは、たぶんメディアの種類には無関係なのかも。モノとしてのSPレコードやLPレコードは、ある年代の人たちにとってはノスタルジーの対象ではありますが、音楽の中身の持つ意味合いは、たぶんメディアの種類によらない。だから、デジタル音楽プレイヤーは普及しているのでしょう。

一般に、デジタル化されたデータは、形を変えやすいという意味で、流動性を持つようになる(*)、と言われます。たとえば文字の場合、著者の手書き原稿は昔は活字を拾って単行本になると、文庫本にするには再び活字を拾って組み直すしか道はありませんでしたが、著者の手で入力されテキストファイルになると、組版は相当に自由自在ですし、絶版となった著作物を著者がネット上に公開してしまう、ということも起こり得ます。
同様に、音楽録音も、以前はLPやCD等の形でパッケージされ、流通機構の中で商品として流通させるしか道はありませんでした。ところが、デジタル化されビットとなった音楽データは、パッケージとして流通させることも、一部あるいは全部を、ネット上で紹介したり配信したりすることもできますし、そもそも流通業者や配信業者の手を経ずに、ネット上で公開してしまうことも可能です。

提供する側には大きな変革ですが、受け取る側は一日は24時間と決まっています。様々なメディアがユーザーの時間を獲得しよう、あるいはお金を出させようとする争いをしている、ということでしょうから、品質とともに、自由度が高く制約が少なく、物語性のあるほうに傾くのかもしれません。そのとき、「生産者は儲からない」という原則は生きているでしょうから、生産者に報いるしくみができるのかどうか。なかなか難しいものです。

(*):「印刷のデジタル化、来し方、行く末」~中西秀彦さん

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2 コメント

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pfaelzerwein さん、 (narkejp)
2009-03-11 20:21:04
コメントありがとうございます。なるほど、そういう見方もありますね。当方はそこまで深くは考えておりませんで、LPやCDの場合は、パッケージデザインやライナーノートなど音楽以外の要素の助けもあり、印象に残りやすいのですが、デジタル音楽プレイヤー等に集積したビットとなった音楽は、一つ一つの音楽が印象深く記憶に残るものだろうか、という程度の意味です。
圧縮音源、当方は Linux がメインの関係で、特許等による制約の少ない Ogg Vorbis 形式で聴いております。MP3 等と比べて、携帯デジタル音楽プレイヤーの選択の範囲が狭まる欠点がありますが(^o^;)>
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オリジナルの価値を喪失した質の悪い複製? (pfaelzerwein)
2009-03-11 11:14:11
「流動性を持つようになる」は理解出来、それ故に複製によって「オリジナル」が商品価値を失っているのが現状ですが、「同時にまた、安易に飽きられ」は次の様な意味でしょうか?

「デジタル化されたものにはオリジナルが存在しない」ので複製化されたものとの差が消失して、所謂オリジナルが放つオーラがなく、飽きられやすい。

もし、それが事実ならばやはり忌々しきことです。なるほど楽曲という著作権に関するものはデジタル化してもそこにオリジナリティーが生じるように、著作においてもそれはデジタル化によって失われるものはないですね。

すると、この流動化して「飽きられやすい」というのは、文字や映像表現の場合に生じるのかどうかによって、例えば音響の場合を吟味出来るかと思います。

私の印象は、所謂デジタル録音ソースの圧縮化は実写フィルムをアニメーション化したものと同じで、結局はオリジナルの価値を喪失した質の悪い複製でしかないと思うのですが如何でしょう?

私は因みに、ネットでのお試し音源以外に、圧縮音源を聞く習慣はありません。ありようによっては楽譜・MIDIに続くある種の新たな表現再現手段のようにも感じられます。
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