電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

「食を軽視した過去の教訓」の指摘

2020年07月16日 06時01分29秒 | Weblog
7月4日付けの山形新聞の「マルチアングル」という土曜コラムらんに、同社の論説委員の鈴木雅史さんによる「食を軽視した過去の教訓」という文章が掲載されていました。これは、「新型コロナと文明」という大型連載でフランスの思想家ジャック・アタリ氏(*1)が示していた、現在の危機を乗り越えた先に起こるであろう「六つの重大な転換」に関連して、「命を守る経済」へのシフトを重視する点に共感するものです。

緊急時、暮らしに欠かせないものが不足するとどうなるか、マスクを求めて店に行列を作った記憶が生々しい方も多いだろうとしながら、特に農業に注目し、非常事態に政治が対応できなかった場合に生じた食料危機について内外の歴史を振り返るものでした。例えば江戸時代、天明3年の仙台藩の飢饉は、借金のために領内のコメを都市に運んで売りさばいたところへ襲った大凶作によるものでしたし、第一次世界大戦時のドイツで非戦闘員76万人が餓死した惨状も根底には同じ構造が潜みます。当時のドイツ国民も、中世ならばいざしらず20世紀にもなって、まさか餓死する運命とは思わなかったでしょう。では、今はどうか? と静かに問いかけるものです。

新型コロナウィルス禍の中で、いくつかの国が穀物や食料の国外への移動を禁じた報道が複数ありました。国際政治は冷酷なのだなと感じ、ふいに、大量の難民がA地域からB地域へと移動し、不安定化が次々に連鎖していく状況を想像してしまいました。幸い、最悪の想像は実現しませんでしたが、マスクが不足すれば手作りすることで対処できるけれど、食料が不足すれば代用できるものはありません。さすがに「パンがなければお菓子をお食べ」というわけにはいかないでしょう。たしかに、平時にはスーパー等で「買ってくればすむ」ものではありますが、いざというときのための備えは政治の課題であるとともに、私(たち)自身の課題なのかもしれません。そう考えると、楽しみが主体の定年農業・週末農業も、実は大きな意味の一環なのかもしれないと思えてきます。

(*1):健康や衛生(医療)、農業(食料)、教育、研究、国土整備、デジタル、治安、物流(流通)、クリーンエネルギーなど技術革新、メディアなど、誰かの役に立つ「利他的な共感のサービス」こそが、より良い社会に導くとする主張は説得的です。

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