電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

スコット・ローゼンバーグ『ブログ誕生』を読む

2019年08月16日 06時04分19秒 | -ノンフィクション
2010年の冬にNTT出版から刊行された単行本で、スコット・ローゼンバーグ著、井口耕二訳『ブログ誕生』を読みました。「総表現社会を切り拓いてきた人々とメディア」という副題を持つ本書は、現題を『say everything』といい、「HOW BLOGING BEGAN, WHAT IT'S BECOMING, AND WHY IT MATTERS」という副題を持っていたようですが、邦訳の副題の方が本書の意図するところをよく表しているのかもしれません。
第1部「パイオニア」で、1990年代のWEBにおけるジャスティン・ホールやデイブ・ワーナー、ジョーン・バーガーらの先駆者が描かれます。第2部「拡大」では、しだいに拡大していくブログの熱狂とでも言えばいいのか、2000年代の前半のブログ拡大の様子が、どちらかと言えばジャーナリスト的視点で描かれます。
第3部「ブログのもたらしたもの」。ここは、「ジャーナリスト対ブロガー」、「誰もがブログを持つ世界」、「未来につながるかけら」の三つの章からなります。

うーむ、アメリカと日本の違いなのか、ジャーナリスト的視点とアマチュア愛好家の違いなのか、「へぇ~、そうだったのか~」と思うところと、「そんなことは考えたこともないなぁ」と呆れるところと、様々な感想が去来します。

例えば、世の中にはふだん全く筆記具を持たない人がおおぜいいることを実感として知っていれば、「誰もがブログを持つ世界」だの「総表現社会」なんて発想はそもそも出てこないでしょう(^o^)/
ヘザー・アームストロングの言葉(p298)を待つまでもなく、インターネットに仕事について書くのはやめたほうが良い。同僚や上司にはばれるものですし、職業上知り得た秘密に触れてしまう危険性は常にあるものですから、最悪の場合、職を失う覚悟が必要です。

また、「べき乗則、ウェブログ、そして不公平さ」(p275)という言葉について、ごく少数の人がアルファブロガーとして多数の読者を集めるけれど、その他の大多数の人々はロングテールとなってごく内輪の読者しか得られない、ということを「不公平」だと感じたことは一度もありません。むしろ、あまりに多くのレスポンスがあると私生活を破壊しかねないため、コメントやトラックバックについても、ほどよい適量というものがあるのではないか、とさえ書きました(*1)。要するに、積極的に目立とうと思う人と、あまり目立ちたくないと考える人とでは、ブログに対する考え方が違うのではないか。ジャーナリストは目立ってなんぼ、自分の主張を積極的に展開するための手段としてブログ等を考えていたのでしょう。だから、思うほど社会的効果が大きくないとか、アマチュアの域にとどまってしまう限界性とか、感じてしまうのでしょう。

当ブログ「電網郊外散歩道」は、天下国家を論じたりすることはせず人畜無害に、ぎらぎらした「主流」の道を離れ、電網世界の「郊外」をのんびりと散歩するというイメージで始めたものです。郊外にも魅力的な風景があるように、15年目を迎えた今、自分自身の個人的記録、備忘録としてけっこう役立っており、他の人にも参考になればなお幸い、というスタンスを守っています。肩に力を入れて始めていたら、今までとても続かなかったことでしょう。これでよかったと思う今日この頃です。

(*1):コメントもTBも適量があるのかもしれない~「電網郊外散歩道」2005年10月
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