電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

明治天皇の東北巡幸と山形師範学校における化学の天覧実験の記録

2015年06月06日 06時04分15秒 | 歴史技術科学
明治初期の翻訳教科書『小学化学書』は出版されましたが、明治初期の日本で、大学以外の学校ではどのような教育が行われていたのか。これを推測するうえで、明治14年の山形師範学校の天覧実験の記録が、興味深いものです。

明治14年、明治天皇は、二度目の東北巡幸を行います。これは、戊辰戦争の後に自由民権運動が盛んになっていた地域を巡撫することも目的の一つであったろうと思われますが、山形県でも三島通庸・初代県令の各種土木工事の成果を歩くほかに、山形師範学校を視察することとなります。

天皇陛下をお迎えすることになった山形師範学校では、化学実験を演示し、日ごろの教育の成果を示そうとなったのでしょう。付属小学校の生徒二名が、講堂において「火の燃ゆる理~物の燃焼について」と「空気膨張の力」というテーマで演示実験を行ったとのことです。前者は、ロスコウ著『小学化学書』上巻に掲載された実験の一つで、ガラス鍾内で黄リンを燃やし、空気中の酸素が消費されるために、大気圧に押されてガラス鍾内の水位が上昇することを示すものです。


(ロスコウ『小学化学書』上巻より)

この実験を担当した付属小学校1級生(現在の中2)の佐々木忠蔵君が、この時のエピソードを作文に記し、記録にとどめています(*1)。

すなわち、黄リンをいささか多くし過ぎたために、点火したら熱のためにガラス鍾が割れてしまい、黄リンが燃えた際の白いケムリが明治天皇のほうに流れていきます。お付きの人があわてて窓を開けに走り、佐々木君はこのとき「放校を覚悟」したそうです。けれども、次の実験では失敗しないぞと、かえって度胸がすわり、めでたく天覧実験を終えて、お褒めの言葉をたまわったそうです。


(高橋由一:「山形市街図」)



明治14年~15年に高橋由一が描いた「山形市街図」では、中央遠景に見える初代・木造の山形県庁の右に小さく見える時計塔を持つ建物が、このエピソードの舞台となった旧・山形師範学校で、現在のJA山形ビルにあたる場所のようです。当時、化学実験はデモンストレーション効果の高い「見せ物」でもあったようで、理科実験室ではなかったところに、明治初年の啓蒙期の科学教育の特徴がよくあらわれています。

(*1):小形利吉『山形県の理科教育史(上)明治・大正編』p.51-52、山形県理科研究同好会、1978
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