電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

岩波新書で『飯舘村は負けない』を読む

2012年07月12日 06時05分33秒 | -ノンフィクション
福島原発事故で全村が避難することとなった、福島県飯舘村の現状を、福島大学のベテラン教授、千葉悦子、松野光伸のお二人がレポートした岩波新書『飯舘村は負けない』を読みました。「土と人の未来のために」という副題を持つ本書は、もともと村をフィールドとして研究を続けてきた社会学と行政学の二人の研究者が、激変する村の姿を、震災以前の村の多彩な取り組みを含めて描いたものであるだけに、原発事故によって村民と自治体がどのように苦しんでいるかがよくわかります。

構成は、次のようになっています。

第1章 村に放射能が降った
第2章 村はどう対処したか
第3章 村づくりのこれまで
第4章 なりわいを守りたい
第6章 一人ひとりの復興へ

章ごとにコメントすることはとてもできませんが、研究者らしい視点は随所に見られます。例えば、噴火で全村避難となった三宅村の村長さんに聞いた話として、島に戻ったとき職員が50人いなくなっていたことを紹介し、飯舘村の村長さんは、役場職員に意を用いていかないと大変なことになると思い、人間ドックを全員に受けさせたとのことです。

難局を乗り切るためには、役場の職員に頑張ってもらわなければなりませんが、やはり人間ですから頑張るにも限度があります。ところが、住民にはそこがわかってもらえません。私は、挨拶のたびに、「うちの職員はこれほどやっています」という話を必ずしますけれども、住民には、今でも理解されませんね。だけど、そうやって住民に理解を求めていかないと、職員も、やる気がなくなってしまうので、今は職員の労働条件の維持に重きを置いています。(p.64)

このあたりは、津波で職員を多数失った三陸沿岸の役場の例を見ても、よく理解できます。

また、村の様々な取り組みには、「までいライフ」のように、「までい」という方言が頻出します。「までい」とは、「手間ひまを惜しまず」「丁寧に」「時間をかけて」「心を込めて」といった意味があるそうで、漢字を当てれば「真手」と書くのだそうです。(p.101)
説明されればわかりますが、それまではチンプンカンプンで、どこか東北を舞台にした時代劇で捕方が犯人に「までい!」と声をかける場面を連想しておりました(^o^;)>poripori
それにしても、「スローライフ」を「までいライフ」と訳したのは、実にぴったりの翻訳であると感心します。

3月15日の水素爆発から4月11日の計画的避難区域の指定、そして4月~5月の全村避難と、実際には数ヶ月かかりました。実測された 44.7μSv/h という数値は異常ですし、3月の時点でIAEAの避難基準の二倍に達していたのですから、避難が遅れたことは否めないでしょう。むしろ、健康手帳の作成が重要な点だと思います。亡父が救援に入ったヒロシマで被曝したことを裏付けるには、三人の戦友の証言が必要でしたが、遠く離れた山形の地で、三人の証言を得ることは困難でした。偶然の機会がなければ、被爆者の認定は行われなかったことでしょう。同様に、高濃度被曝による健康障害のおそれがあるときには、飯舘村で居住し生活していたことを証明するものが必要になってくるからです。この健康手帳は、そんな時に役立つ可能性があります。大切な取り組みだと思います。

さて、村で生活するということは、先祖代々受け継がれてきた土地や暮らしを次代に受け継いでいくことでもあります。よく耕され、有益な微生物や昆虫などが生息する土壌は、単なる砂や粘土とは違います。同じ面積の荒地を与えられても、同等の肥沃な土壌となるまでには、長い長い年月がかかってしまうことでしょう。週末農業ながら、土と接する生活をしてみて、先祖から受け継ぐ田畑の土が実に多くの努力の産物であることを痛感しています。そのため、表土をはがし除染を進めるという施策の方向に複雑な思いを持ってしまう人の気持ちがよくわかります。

報道で、二年で村に帰るという方針を聞いたとき、正直言ってやや唐突な印象を受けました。村民の考えも様々だったようで、このへんの施策も、一方的なリーダーシップでは片付かない。現実に即した、様々な意見の集積の上に立って方向性を打ち出さなければいけないのでは、と思います。その意味で、地方政治、自治のあり方が問われるところでもあります。事実に徹し、評価や意見を抑えた著者の姿勢は、ドキュメンタリー映画のようです。

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