電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

木曜時代劇「風の果て」第7回を観る

2007年11月30日 06時57分33秒 | -藤沢周平
NHKの木曜時代劇「風の果て」第7回、たいへん面白く観ました。「果し状」という題名なのに、まだ最終回ではない。では、最終回はどうなるのだろうと懸念しましたが、実際の番組は、原作ではいたってさらりと流している、失脚後の杉山忠兵衛の動きや後任の家老の人事などを丁寧に描きます。

原作では、失脚後の杉山忠兵衛について、

友吉の話によれば、閉門の沙汰を受けたわけでもないのに、杉山家の畑は荒れているという。忠兵衛はひょっとしたら、政争はまだ終わったわけではないと思いながら、最大の政敵である又左衛門に市之丞をさしむけ、息を殺してその結果を見守っているのではないか、と又左衛門は思ったのである。

としているだけです。

それにしては、杉山忠兵衛の屋敷に訪ねて行くし、加代さんと話もするし、後任の家老を一人一人説明するし、やけに具体的にふくらませています。権力と権勢欲という抽象的なものを映像で描くには、いささか時間がかかる、ということでしょうか。

素人考えですが、たとえばもらった賄賂を貧乏に困っている家士にそっと与え、自派を増やすしくみを作る場面など、悪どい権力の乱用ではなくても権勢欲を満たす結果になりうる、という表現は可能なのではなかろうかと思います。その意味で、

----多分、それは……。
と又左衛門は、かつて考えたことがある。富をむさぼらず権力をひけらかしもしないが、それは又左衛門がやらないというだけで、出来ないのではなかった。行使を留保しているだけで、手の中にいつでも使えるその力を握っているという意識が、この不思議な満足感をもたらすのだ、と。
(文春文庫版『風の果て』下巻、p.227「天空の声」より)

という作者の意識は、業界新聞の編集長という、小さいながらも権力を一度手にしたことのある人のものでしょう。よく似たプロットで先に描かれた山本周五郎作品『ながい坂』(*3)での、権力の重荷にあえぐ主人公の意識とはだいぶ違いがあり、このあたりは藤沢周平と山本周五郎との大きな違いになっているように思います。

テレビドラマとして印象的な場面をいくつか。

(1) 市蔵にあのようなことがなければ、としゃあしゃあとぼやく類さんは、さらにご「家老様」に暮らしの金をねだります。やっぱり宇宙人です(^o^)/
(2) 働き者の普請組の兵六は、「人生がいやになったことはないか」という市之丞に、すぐに「ない」と答え、ついでに「野瀬は頭もいい、腕も立つ。この世に不足があるのは、当り前だ。」と市之丞に言います。この言葉は、なかなか含蓄がありますね。

さて来週は、市之丞との実際の果し合いの場面と、若い家老の反逆に悩む場面。それに関連して、杉山忠兵衛がもう一度出てくるようです。もう最終回です!残念ですが、また楽しみでもあります。

■『風の果て』関連記事リンク
(*1):藤沢周平『風の果て』上巻を読む
(*2):藤沢周平『風の果て』下巻を読む
(*3):「ながい坂」と「風の果て」
(*4):NHK木曜時代劇「風の果て」公式WEBサイト
(*5):木曜時代劇「風の果て」第1回を観る
(*6):木曜時代劇「風の果て」第2回を観る
(*7):先週の木曜時代劇「風の果て」第3回
(*8):木曜時代劇「風の果て」第4回を観る
(*9):木曜時代劇「風の果て」第5回を観る
(*10):木曜時代劇「風の果て」第6回を観る
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