僕が住んでいる鈴鹿市は、三重県では四日市市、津市に次ぐ3番目に人口の多い市で(合併により津市に追い抜かれ、津市が2位に)、特に最近はとなりの亀山市にシャープの大きな工場ができたりして、ますます人も集まってきてます。
そして、それに関連して、大きなショッピングセンターが最近いくつも出来てきてるのです。
今日お客様とそんな世間話をしていて、ふと鈴鹿市にまつわるいろんなことを思い出しました。
そもそも鈴鹿市は、もともとは小さな農村の点在した、土地だけがだだっ広い平野だったんですね。
それが集まって市になり、その後1960年頃本田技研工業鈴鹿製作所ができ、ほかにも大きな工場を誘致して、鈴鹿市はその後急速に発展していったわけです。
シャープ亀山工場の誘致にしてもそうですが、やはり大きな会社がその街に来るというのは、街にとってもそこの住人にとっても豊かになっていく大きな要因なのですね。
そういう意味で、本田の工場が来たのは鈴鹿市にとって、とてもラッキーなことだったんだと思います。
おかげで僕もこの鈴鹿を拠点にこうやって好きな仕事で生活をしていくことができるわけですし。
そもそも本田の工場を約50年前に鈴鹿市が誘致する、実はその時の裏話のようなことが、ずいぶん前の市報に載ったことがありました。
とても印象深い話だったので、うろ覚えなのですが紹介したいと思います。
当時、本田技研の新しいオートバイ工場をどこに建設するかをめぐって、鈴鹿市を含め、全国で確か3カ所ほどが誘致合戦を繰り広げてたそうなんです。
それで、当時の社長本田宗一郎氏がそれぞれの候補地を視察して廻ったそうなんですね。
それで鈴鹿市に来たときのこと。
その日はずっと雨が降り続いており、候補地はその雨でぬかるんでいるため、当時の鈴鹿市長さんは、市役所で本田氏を迎えるにあたって、人数分の長靴と雨合羽を用意して待ってたそうなんです。
やがて本田氏の一行が来て、市長さんはさっそく一行を現場にお連れしました。
本田氏はそれがいたく気に入って、鈴鹿市に白羽の矢を立てたということだそうです。
氏曰く、「ほかの候補地は、私ら一行が到着すると、まず、食事やら接待からはじまり、視察はそのあとであった。鈴鹿市は長靴から雨合羽までちゃんと準備して、すぐに現場に連れて行ってくれた。だから鈴鹿市に決めた。」ということだったそうです。
当時の市長さん、名前は忘れましたが、その方の相手の立場に立った発想と行動が、本田氏の心をとらえ、鈴鹿市の将来を大きく前進させたのですよね。
立派な市長さんで、鈴鹿市はラッキーだったし、その結果僕もその恩恵を今受け続けてるわけです。
その後、市内に鈴鹿サーキットも完成し、やがてご存じのようにF1も開催されるようになるわけです。
そして、そのF1シリーズがようやく鈴鹿で開催されるようになったときのこと。
レース場のF1スタート地点のコントロールタワーの上で、本田宗一郎氏と当時の揖斐鈴鹿市長がレースを観戦していたとき、本田氏が市長に言ったそうなんです。
「これで俺もようやく鈴鹿に恩返しができたかなあ・・・。」と。
この話も市報で当時の揖斐市長のコラムかなんかで読みました。
本田技研は、毎年夏になると、週末にはサーキットで花火大会が行われます。
1シーズンに何度もあります。
もちろん従業員のためでもありますが、市民にも開放されていて、我々市民のためにもやってくれてるわけです。
恩を受けてるのはこっちなのに、ありがたいなあって思います。
そんなホンダの姿勢を僕も見習いたいです。
僕は、今まで僕を育ててくれたお客様や、楽しませてくれた合唱仲間に、いつになったらご恩返しができるのだろう。
今できることは、いい仕事をすることと、仲間といっしょにいい歌を歌うこと、くらいしかできないのですよね。
もちろんそれが一番大事なことですけどね。
壮大な妄想のようなものですが、僕もいつかは本田宗一郎氏のように、「ああこれで僕もようやくお客様や世話になった人たちに、少しは恩返しができたかなあ。」と言えるようになれれば、と思います。
できれば生きてるうちに。
そして、それに関連して、大きなショッピングセンターが最近いくつも出来てきてるのです。
今日お客様とそんな世間話をしていて、ふと鈴鹿市にまつわるいろんなことを思い出しました。
そもそも鈴鹿市は、もともとは小さな農村の点在した、土地だけがだだっ広い平野だったんですね。
それが集まって市になり、その後1960年頃本田技研工業鈴鹿製作所ができ、ほかにも大きな工場を誘致して、鈴鹿市はその後急速に発展していったわけです。
シャープ亀山工場の誘致にしてもそうですが、やはり大きな会社がその街に来るというのは、街にとってもそこの住人にとっても豊かになっていく大きな要因なのですね。
そういう意味で、本田の工場が来たのは鈴鹿市にとって、とてもラッキーなことだったんだと思います。
おかげで僕もこの鈴鹿を拠点にこうやって好きな仕事で生活をしていくことができるわけですし。
そもそも本田の工場を約50年前に鈴鹿市が誘致する、実はその時の裏話のようなことが、ずいぶん前の市報に載ったことがありました。
とても印象深い話だったので、うろ覚えなのですが紹介したいと思います。
当時、本田技研の新しいオートバイ工場をどこに建設するかをめぐって、鈴鹿市を含め、全国で確か3カ所ほどが誘致合戦を繰り広げてたそうなんです。
それで、当時の社長本田宗一郎氏がそれぞれの候補地を視察して廻ったそうなんですね。
それで鈴鹿市に来たときのこと。
その日はずっと雨が降り続いており、候補地はその雨でぬかるんでいるため、当時の鈴鹿市長さんは、市役所で本田氏を迎えるにあたって、人数分の長靴と雨合羽を用意して待ってたそうなんです。
やがて本田氏の一行が来て、市長さんはさっそく一行を現場にお連れしました。
本田氏はそれがいたく気に入って、鈴鹿市に白羽の矢を立てたということだそうです。
氏曰く、「ほかの候補地は、私ら一行が到着すると、まず、食事やら接待からはじまり、視察はそのあとであった。鈴鹿市は長靴から雨合羽までちゃんと準備して、すぐに現場に連れて行ってくれた。だから鈴鹿市に決めた。」ということだったそうです。
当時の市長さん、名前は忘れましたが、その方の相手の立場に立った発想と行動が、本田氏の心をとらえ、鈴鹿市の将来を大きく前進させたのですよね。
立派な市長さんで、鈴鹿市はラッキーだったし、その結果僕もその恩恵を今受け続けてるわけです。
その後、市内に鈴鹿サーキットも完成し、やがてご存じのようにF1も開催されるようになるわけです。
そして、そのF1シリーズがようやく鈴鹿で開催されるようになったときのこと。
レース場のF1スタート地点のコントロールタワーの上で、本田宗一郎氏と当時の揖斐鈴鹿市長がレースを観戦していたとき、本田氏が市長に言ったそうなんです。
「これで俺もようやく鈴鹿に恩返しができたかなあ・・・。」と。
この話も市報で当時の揖斐市長のコラムかなんかで読みました。
本田技研は、毎年夏になると、週末にはサーキットで花火大会が行われます。
1シーズンに何度もあります。
もちろん従業員のためでもありますが、市民にも開放されていて、我々市民のためにもやってくれてるわけです。
恩を受けてるのはこっちなのに、ありがたいなあって思います。
そんなホンダの姿勢を僕も見習いたいです。
僕は、今まで僕を育ててくれたお客様や、楽しませてくれた合唱仲間に、いつになったらご恩返しができるのだろう。
今できることは、いい仕事をすることと、仲間といっしょにいい歌を歌うこと、くらいしかできないのですよね。
もちろんそれが一番大事なことですけどね。
壮大な妄想のようなものですが、僕もいつかは本田宗一郎氏のように、「ああこれで僕もようやくお客様や世話になった人たちに、少しは恩返しができたかなあ。」と言えるようになれれば、と思います。
できれば生きてるうちに。
「歓びを歌にのせて」というスウェーデンの映画でした。
音楽を通じて、沢山のひとを幸せにしたい、と思う音楽家の話でした。
町田さんならもう観られているかもしれませんが…(^^)
その映画を、この記事を読んでいて思い出しました。またわたしのブログに感想も書こうと思っています。
それでは。
あ…昨日の発表会は、如何でしたか?!
さっそく「歓びを歌にのせて」DVDレンタル予約しました。
ご紹介ありがとうございます。
こういう情報はありがたいです(^^)
発表会の結果ですね(^^;)
えっと、それは・・・ははは(汗)
まあ、前回よりは満足した、とだけとりあえずは報告しておきましょう(^^;)
もし書ければブログでも報告しますね。