うろ覚えライフ。

巷の旬な話題と情報への個人的意見、日々雑感。懐古・郷愁。漫画・映画・小説・ポピュラー音楽。

妖怪の王様・水木しげる先生、逝く

2015年12月02日 | ブックログ

○水木しげるさん死去:悼む声、各界から

 

  ◇同志であり戦友 敗戦後、中国からの引き揚げで苦労した漫画家のちばてつやさんの話

水木さんとは、年はひとまわり以上違うものの、70年以上前、同じように戦争で死線をさまよい合った。その後の漫画週刊誌の黎明(れいめい)期から今日まで、共に締め切りと闘ってきた「同志」であり「戦友」であり、我々漫画家たちの優しい「お兄さん」でした。訃報を聞き、今は言葉にできないほど悲しくて、寂しいの一言です。

 ◇戦争悲しく描写 哲学者で国際日本文化研究センター顧問の梅原猛さんの話

一度対談しただけだったが、印象的だったのは「自分の漫画は梅原さんが研究した神話からこぼれ落ちた妖怪たちを描いたもの」と言っていたこと。戦場では、辛うじて生き残ったと聞いた。戦争をあのように描いた悲しい漫画はない。戦後を代表する芸術家だった。

 ◇気取らず純粋な人 初代鬼太郎役の声優、野沢雅子さんの話

テレビアニメのシリーズで、初めて主役を務めたのが「ゲゲゲの鬼太郎」でした。声優としてここまでやってこられたのも鬼太郎との出会いがあったからこそ。先生は気取らず、生まれっぱなしのような純粋な人でした。いろんなところに行くのが好きでしたから、今もきっと旅に出られたんだろうなと思っています。そちらでも旅をしながら作品を書いてくださいね。

 ◇不条理をユーモアに 吉村和真・京都精華大副学長(思想史・マンガ研究)の話

 戦争の実体験を基に、余人に代え難い作品を残した。救いのない戦争や、人間とは異質の妖怪の描写が際立っているが、不条理を「そんなものだ」と引き受けたうえで、明るいユーモアがある。そこには当たり前の日常の幸せを実感させる大きな思想があり、戦後を生きる人にとって救いになった。

 ◇偉大な指標失った 小説家で、妖怪研究家としても知られる京極夏彦さんの話

 唯一無二の偉大な指標を失い、言葉もありません。水木しげる大先生(おおせんせい)の遺志を継ぎ、弟子筋一同「妖怪」推進に励むことを誓うとしか、今は申し上げられません。ご冥福をお祈りいたします。

 ◇雰囲気憧れでした NHKの連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」で、水木さんをモデルにした漫画家役を演じた俳優の向井理さんの話

 初めてお会いしたのは撮影の数日前でした。作品の中では、私はしげるさんの背中を追いかけるのが精いっぱいでしたが、多くのものを感じ、影響を受けました。もうあの時のようにお会いすることができないという現実を受け止めるのには時間がかかりそうですが、どこかで見守っていただければうれしい限りです。「女房」である布枝さんにもお会いできたのは私の財産です。お二人の醸し出す雰囲気が大好きでした。憧れでした。

 ◇天国で漫画描いて欲しい 同テレビ小説でヒロインを演じた女優の松下奈緒さんの話

 突然の訃報に深い悲しみでいっぱいです。撮影が始まる前に、初めて水木先生と奥様にお会いさせていただきました。本当になんてすてきなご夫婦なんだろうと思ったことを今でも覚えています。天国でも大好きな漫画を描き続けていただきたいです。ご冥福をお祈り致します。

 

○家族も僕もファンもみんな水木作品 京極夏彦さん追悼文

 

  ■水木しげるさんを悼む 小説家・京極夏彦

 いつも、必ずどこかにいる。いちいち確認しなくても、ずっといる。いることがわかっているから、安心できる。僕にとって水木しげるさんは、そういう人でした。僕が生(うま)れた時、もう水木漫画はありました。その後ずっとあって、今もある。物心つく前から水木作品にふれて、水木作品と共に育ち、水木作品と共に老いて、今の僕はあります。

 九十三歳、画業は六十年以上。その長きに亘(わた)り、常に第一線に立ってひたすら娯楽を生み出し続けてきた水木さんの功績は、いまさらくり返すまでもないでしょう。それは僕たちの血となり肉となり、そして日本文化の一側面を築き上げたといっても過言ではありません。日本文化の持つ創造性や特異性を「妖怪」という形で結実させ、再発見させてくれたのは、誰あらん水木さんその人でした。

 水木さんには左腕がありませんでした。戦争という抗(あらが)いがたい魔物が水木さんに消えない傷を刻みつけたのです。その残酷な目に見える現実世界と、妖怪という目に見えない精神世界との間を自在に往還し、水木さんは「生きることは愉(たの)しいし、生きているというだけで喜ばしいのだから、もっと喜べ」と、作品を通じ、また身をもって教えてくれました。

 一介の熱心なファンだった僕は、そのうちひょんなことから水木さんと知り合う機会に恵まれ、やがて一緒にお仕事をさせていただくことになりました。ご一緒する機会も多かったのですが、同じ場所にいるだけで「意味もなく幸せな気分になれる人」というのは、そういるものではありません。水木さんはそういう人でした。

 

○水木しげる漫画があったから、この世界に「自分がいてもいいかもしれない」と思えた

 

   水木しげるさんが亡くなった。たくさん「死」や「死後のこと」について描かれた方なので、「ご冥福をお祈りします」でいいのか、ちょっと分からない。とにかく、「ありがとうございました」という気持ちだ。

かなり色々なものを、こんなにたくさん作って残した。未来の人にも読まていくだろう。

人間が死んでも、その人が作ったものが残ってくれて、本当にありがたい。残ってくれなかったら本当にやばい。歴史を変えた発明とか法律だけじゃなくて、漫画だってそうだ。水木漫画なんて、とくに僕はそう思う。

水木しげるは手塚治虫みたいな「漫画のスーパーエリート」って印象が薄い。戦争や貧乏で苦労しまくったイメージが強くて、絵も独特だから、なんとなく「王道じゃなくてもいいんだ」という勇気がもらえる感じがある。「本当はどうか」は別にして。

鬼太郎も悪魔くんも、スーパーヒーローって感じじゃない。薄汚れてたり、お小遣いも少ない(たぶん)。いじめられたり弱さを持った悪魔くんの仲間たちが集まる「見えない学校」も、フリースクールみたいな雰囲気を僕は感じてた。なんかそういう「僕だって!」感が良い。

そんな水木漫画のおかげで「変わった漫画」を作る道に進んだ人も多いと思う。たとえば、勧善懲悪も感動スポーツも、刺激的恋愛とかもないような漫画。そういう漫画を描く人にとっては、「世の中に多様性があって、変わった場所からでもうまくいった先生がいる」って、本当に心強い。

もちろん「鬼太郎みたいな大ヒット作品が作れる可能性が自分にも!」ってことじゃない。「変なもの」って、その存在を認めてもらえないと、ただ作ってるだけでも心が削れる。だから水木漫画みたいなのはすごく心強くて、「自分がいてもいいかもしれない」「自分の好きなものを好きなままで大丈夫だ」って思える。僕も、心の支柱のうち一本は水木漫画だ。

兵庫県の神戸市に、水木通りっていう場所があって、水木しげるの「水木」の由来だ。僕は25ぐらいの頃、その通りのアパート1つ裏、中道通りっていうところに住んでた。彼がここに住んでいたのも僕と同じ頃だった。

だから自然と、頻繁に水木しげるの人生を思い浮かべたりしていた。彼は戦争で腕を失って日本に戻って、画家を諦めたり、紙芝居や貸本で食べられなくなって漫画に至った。ままならないことばかりだけど無鉄砲なわけでもないし、彼の人生はとても参考になった。

「マイペース」という彼の有名なイメージについてもよく考えてた。

 彼のマイペースは、「頑固」「執念」、強く自分を持って「嫌なものは嫌だ」と突っぱねる精神と一式な気がする。僕も自分でいるために、「自分らしくないもの」を避けたり、「自分を脅かすもの」から逃げたりするのは大事だなと思う。そう思うことは、今でも多い。

思うことはたくさんあるけど、とにかくまず第一に、今は「ありがとうございました、これからも作品にお世話になると思います」という気持ちだ。

水木作品は、いろんな出版社から様々なまとめ方をされてて僕は混乱することもあるけど、もし自伝的なものなら『完全版 水木しげる伝』が僕のおすすめだ。講談社から文庫で出ていて、ほどよい長さで、入手もしやすいと思う。

 

○【追悼】妖怪の世界を描き続けた「水木しげる」さんの魅力について / “水木力” あふれる名言3選

 

  突然の訃報に日本全国民が言葉を失った……2015年11月30日、心不全のため漫画家・水木しげるさんが亡くなったのだ。93歳という高齢であったが、いつまでも生き続けてくださることを信じて疑わなかったのは記者だけではなかろう。

この世ならざるモノに大きな関心を寄せ、次々とカタチにしてきた水木さん。きっと今頃、あちらの世界でも「フハッ!!」と鼻息荒く、興味津々で楽しんでいらっしゃるに違いない。残された私たちにできることは、そんな水木さんの思いをつないでいくこと。水木さんの魅力を振り返ってみよう。

・最高傑作は “水木しげる” さんご本人

生涯現役を貫いた漫画家・水木しげるさん。『ゲゲゲの鬼太郎』『悪魔くん』など、数々の名作を世に出してきたことは誰もが知るところ。亡くなる半年ほど前の2015年5月まで、ビッグコミックで『わたしの日々』を連載していた。 

曲がりなりにも “妖怪文化研究家” を名乗っている記者は、直接言葉を交わしたことはないが何度かそのお姿を拝見し、お話を拝聴したことがある。そのたびに話の内容はもちろん、水木さんそのものからあふれ出す魅力がハンパないと感じた。

あんな93歳はほかにいない。作品はもちろん、何よりも “水木しげる” さんご本人が一番の傑作だと断言できるほどだ。水木さんが幸せになるための知恵を説いた『幸せになるための七カ条』は有名だが、それ以外にも数々の名言を残しているので紹介したい。

・ “水木力” が感じられる言葉3選

その1:餓死です、そういう連中を待ってるのは。私はそういうヤツには「死にたければやれ」と言うんです。「死んでもいいです」と言ったところから、出発するんです

軽い気持ちでマンガ家を志望する人について聞かれた時の水木さんの言葉だ。戦争を含め、数々の難局を乗り越えて来たからこそ言えるセリフ。ひょうひょうとした様が印象深い水木さんだが、その実、かなりガッツのある方でもあった。私たちも、少々のことで文句を言ったり投げ出したりしてはいけないと、気を引き締めさせられる一言だ。

その2:戦記物をかくと、わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。たぶん戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う

戦争を体験し、戦場で左腕をなくし、激動の時代を “絵を描き続ける” ことで生き抜いた水木さん。あまり積極的に戦争体験を話すことはなかったようだが、私たちが想像し得ないほどの苦しい状況を、かいくぐって生きてきたことは確か。心の内に秘めた思いが垣間見える貴重な一言。

その3:人生はあんた、面白くなりかけたころに寿命がくるんです。秘密がわかりかけたころに。神様がわからないようにしてるんだ。

いつだったか、水木さんがテレビの取材で「人生は90歳からが面白い」というお話をされていたと記憶している。些細なことに囚われなくなるから、といった内容だったはずだが、93歳で亡くなったのも水木さんが人生を楽しみ始めていたからか。そうであったらイイなと思う一言だ。

以上、名言を3つ紹介したが、ここでは語りつくせないほど数々の偉業を成し遂げていることは周知の通り。とにかくユニークでお茶目で、とても賢い人だった。間接的にしか存じ上げない記者でも、人間力というか「水木力」が全身から放たれている、魅力的な人だということを知っている。

是非とも、一人でも多くの人に水木さんの作品を読んでもらいたい。そして水木さんの魅力に触れ、彼の遺したものを次の世代へつなげていってほしい。水木さんが、あの世で楽しんでいらっしゃることを願いながら。今までお疲れさまでした。そしてまた、そちらの世界でお会いできることを楽しみにしています。

 

 ああ、ついに水木しげる先生も逝ってしまわれた。世間では、水木しげる先生は妖怪の世界へと戻ったのだ、という声も大きいけど、やっぱり先生は現世を退場してしまって、もうこの世には居ない。寂しいですね。

 このブログでも他のブログでも何度も書いてるけど、僕の子供時代、僕に取っては紙の漫画が一番で、つまり印刷された紙面の漫画作品が、もうとにかく、まだこの世に生を受けて何年か、せいぜい十年くらいでも、とにかく紙に印刷された漫画がこの世で一番のもので、とにかく人生一番は漫画というか、絶対漫画という子供時代だった。その次がTV番組で、次が何だろう?家族か友達か。僕は、学校は小学一年から大嫌いだった。

 小学生で漫画が命、みたいな思いで生きてて、学校は嫌いだし、行きたくないけど母親に怒られるから仕様が無いから行ってただけで、担任教師に対しても、今から考えても、正直、そんな「恩師」ってほどの思いもない。全部の学校時代、忘れられない印象に残り続ける先生、とか、ごめんなさい、正直な話、一人も持ってはいない。勿論、いろんな先生、憶えてはいるけれど。学校では授業時間はいつでも、ずーっと、ボーッとして過ごしてた。落書きか窓の外を見てるか、空想・妄想に耽ってるか。だから学業成績もひどいものでした。

 そんな、漫画にどっぷり浸かった、身も心も漫画の子供時代、毎日毎日、熱中して読んでた漫画は、僕の第一番目の教科書でした。その次の教科書がTV番組。次が映画。次が家族と家に来るお客さんとか親父や母親の友達・知人、そして学校の友達。そこから、う~んと離れて教科書。いや、学校の教科書は面白くなかったなあ。宿題しないから、家で開くのも嫌だったし。

 だから、毎日毎日、夢中になって読んでる漫画作品を描いている、漫画家の先生こそ、小学生の僕に取っては学校の先生そのものだった。中学でも同じようなもの。水木しげる先生は、子供時代の僕が非常に良く親しんだ先生だ。勿論、水木先生にお会いしたことなぞ一度もないけど、水木先生は僕に取っての恩師の一人だ。

 いつ頃だったっけ、2000年頃だろうか(?)。水木先生がTV番組の「波乱万丈」に出演されて、もう80歳くらいにはなられていたのかな、それほどはTVを見ない生活をしていた僕が、何十年ぶりかで、いや、実際、動画で水木しげるを見たのは初めてだったのかも知れない、お歳を召されても元気な水木先生の姿をTVで見て、どういう訳か、つうーっと涙が頬を伝った。それまで、少年マガジンの写真でしか見たことない先生を、お顔を何十年ぶりかで見て、僕は泣いた。後から考えるに、あれは、それこそ何十年ぶりかで恩師に会った涙だったのだ、と思った。

 水木しげる先生は、子供時代の僕に、怪奇と幻想とか異世界とか、イマジネーションを膨らませるものを教えてくれたけど、同時に何か、別の価値も教えてくれたように思う。それは、“生物多様性”と似たような価値観だろうか。この世界にはどんな生き物も居て良いんだよ、というような。上級も下級もない、もっと、地球上の全部の生き物を宇宙空間から見て、何だ、みんな生きてて、しょせん一緒じゃないか、というような価値観だろうか。一仕事終えた鬼太郎を称えて「♪ゲゲゲのゲ」と歌う虫たちや、赤塚不二夫の漫画で土管で暮らす猫も虫も、みんな生きてて同じだよ、というような価値観だろうか。水木しげる先生が漫画を通して、作風の怪奇と幻想だけでなく、何か、別のことを教えてくれたように思う。

 かつて、中島梓さん(小説家としての栗本薫さん)が、私は子供時代、学校のどんな教科や教科書よりも、人生で大切なことを、手塚治虫の漫画で学んだ、と書いていらっしゃったが、それと同じだと思う。僕は無論、手塚治虫先生からたっぷりいろんな事々を学んだし、もう少し大きくなって、中学生くらいになってからは梶原一騎先生から学んだものもある。子供時代、他にも、藤子不二雄両先生にも赤塚不二夫先生にも、石森章太郎先生にも学んでいるけど。

 そうやって考えると、楳図かずお先生も桑田次郎先生も入って来るし、キリが無いな。中学生から高一くらいになると、真樹日佐夫先生も入って来る。忘れてた、大きな影響受けた白土三平先生。他にもいろいろな漫画家先生を思い出す。みんな恩師みたいなもんだ。あっ、さいとうたかを先生。「鉄人28号」「伊賀の影丸」の横山光輝先生もだな。

 僕に取っての一番の恩師は、やっぱり手塚治虫先生と水木しげる先生だろう。“漫画の神様”手塚治虫を自分の恩師などと呼ぶのは畏れ多いけど。白土三平先生も大きいか。でも親しみを持つのは、やっぱり水木しげる先生だな。

 僕が子供時代、少年時代、青年時代に影響を受けた、各先生方は、もうあらかた亡くなられてしまったような感じだ。寂しい。残られた先生方もご高齢だし。

 高校生時代に夢中になって読んだ、五木寛之先生と野坂昭如先生は、まだご存命だな。ご存命とかいう表現は何か縁起悪い言い方だけど、両先生ともお元気なんだろう。野坂昭如先生は闘病生活みたいな、けっこう大変な状態なんだろうけど。青年時代に影響受けた小松左京先生は亡くなられたし。青年時に熱中して読んだ筒井康隆先生はお元気だ。まあ、影響受けたなんてたいそうな言い方で書いてるけど、この僕が、何かそんなたいしたものを自分に身に着けた訳でもないけどね。でも、五木先生、野坂先生、小松先生、筒井先生には著作物を通して、小さなものならいっぱい影響受けてるように思う。野坂昭如先生には思想的な面で明らかに影響受けたな。

 水木しげる先生があの世に行っちゃったのは、けっこうショックが大きいなあ。やっぱり寂しいですよ。何か、一つポカンと穴が開いたような‥。

水木しげる先生の特筆すべき、人間としての、一番の素晴らしい面、偉大な面は、文句なく、その“生命力”だと思う。多分、体力や免疫力も持って生まれた“力”は優れた方だったんだろうけど、何よりも精神力が凄い。人並み外れたもの凄い精神力と、やはり反骨精神だな。全てひっくるめて偉大な生命力。

あの常人ならざる生命力を支えた精神力は、現代人も見習わないといけないものかも。水木しげる先生は本当に、真に、偉大な人間です。

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 高部あい 続報2 | トップ | 野坂昭如先生逝く‥ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿