杉浦日向子さんの新聞の切り抜きが出てきました、1998年 今から17年も昔の。
私たちは若さと健康にだけ固執してますけど、それは一つの面しか見ていない薄っぺらな価値観ですね。
江戸は生老病死を春夏秋冬のように受け止めて、享受して、老いは老い、病は病、死は死として迎え入れていた。
巡りくる季節のように、生き物としての人間の生も死もあると。
だから老いることも病むことも決して悪いことではない。それは自分の上に起こるメッセージだから、
しっかり受け止めて。つまり闘病という言葉がない。病は闘うものではなく、受け入れて平らかにいやす、平癒と言う。
頑張らない生き方というのがキーワードとしてある。間尺に合った暮らし、八分目というか、背伸びしない。
十二分に物を持ったり、自分の器を十二分に見せたりすることに意味があると思えないんです。
江戸の双六は上がり詰めていくものではなくて、飛び双六で、いつまでたっても上がらない場合もある。
それが人生を象徴しているようで、あちこち物見遊山をして、
うろうろふらふらで、ああ、面白かったなで終われる一生で良いのではないかと。
今読んでも 気持ちが楽になって安らぎます。
この当時杉浦さんは30代後半です、すごいなと今も変わらず尊敬しています。
私たちは若さと健康にだけ固執してますけど、それは一つの面しか見ていない薄っぺらな価値観ですね。
江戸は生老病死を春夏秋冬のように受け止めて、享受して、老いは老い、病は病、死は死として迎え入れていた。
巡りくる季節のように、生き物としての人間の生も死もあると。
だから老いることも病むことも決して悪いことではない。それは自分の上に起こるメッセージだから、
しっかり受け止めて。つまり闘病という言葉がない。病は闘うものではなく、受け入れて平らかにいやす、平癒と言う。
頑張らない生き方というのがキーワードとしてある。間尺に合った暮らし、八分目というか、背伸びしない。
十二分に物を持ったり、自分の器を十二分に見せたりすることに意味があると思えないんです。
江戸の双六は上がり詰めていくものではなくて、飛び双六で、いつまでたっても上がらない場合もある。
それが人生を象徴しているようで、あちこち物見遊山をして、
うろうろふらふらで、ああ、面白かったなで終われる一生で良いのではないかと。
今読んでも 気持ちが楽になって安らぎます。
この当時杉浦さんは30代後半です、すごいなと今も変わらず尊敬しています。