明澄五術・南華密教ブログ (めいちょうごじゅつ・なんげみっきょうぶろぐ)

明澄五術・南華密教を根幹に据え、禅や道教など中国思想全般について、日本員林学会《東海金》掛川掌瑛が語ります。

密教姓名学《音声篇》 「なまえ」とは何か?

2018年06月18日 | 仏教


 人間と動物との違い、つまり人間の人間たるゆえんは、「類」という概念を持つことにあり、この
「類」という概念は、別に学習しなくても、人間として生活さえしていれば、必ずそなわるものであり、同時に、全人間と全自然との「疎外」関係を、ひとりの人間としても共有することになります。
もちろん、ひとりの人間にとっては、他の人間や社会も、大きく自然の一部ですから、やはり「疎外」の関係が生じます。
 「疎外」とは何か、と言えば、「自他」を「分別」することであり、「分別」するには、「識」が必要であり、「識」がなければ「分別」する主体には成り得ません。
人間が「識」によって「自他」を「分別」するためには、「自分」「他人」「ママ」「パパ」「人類」「山」「川」「自然」などのような「名」が必要であり、「名」がなければ、「分別」はもとより、「感受」できないし、認識することもできません。
十二縁起の表をもう一度見てみましょう。

 

   無明→行→識→名色→ 六入→触→受→愛→取→有→生→老死

 

「名色」だけ「色」の字がついていますが、六入(感覚器官)、触(接触)、受(感受)、のほうこそ通常「色」とされるものです。
「色」とは、あらゆる存在や現象の意味ですが、人間の感覚器官に触れることによって感受され、「識」によって、存在や現象として認識されるものです。
 ところが、『老子』が言うように、人間が物事を認識するためには、「名」がついていることが必須条件であり、「名」がなければ「分別」できないし、「疎外」することもできません。
 この世に生れたばかりの赤ん坊である人間が、初めて「感受」する場面を考えてみましょう。
 その順序は、識(意識)、名色(言語)、六入(感覚器官)、触(接触)、受(感受)、となっており、「名」つまり「言語」がなければ、「認識」どころか、「感受」も成り立たないでしょう。
 人間の赤ちゃんがこの世に生れて最初に話す言語は、世界共通に「ママ」であり、世界共通に「母親」「母乳」「ご飯」などの意味で使われています。「ママ」ではなく「パパ」「ババ」「ファファ」などの場合もありますが、いずれも「ア段」の「唇音」という共通点があります。
室町時代に編纂された、日本で最初のなぞなぞ集とされる「後奈良院御撰何曾 」という文献に次のようなものがあります(後奈良天皇の父である後柏原天皇の「なぞだて」にも見られる)。

 「ははには二たびあひたれども、ちちには一どもあはず」
 (母には2回逢うけれど、父には1回も逢わないものは何?)

 その答えは「くちびる」であり、当時「はは」という音声が、現代のような「喉音」ではなく、「唇音」だったことがわかります。つまり「ハハ」ではなく、「パパ」か「ババ」か「ファファ」と読まれていたことになります。
なぜ「ア段」の「唇音」が、最初の言語になるのかと言うと、乳児が母親の乳首を銜くわえたそのまま
の口で発声すると「ママ」や「パパ」という音声になるためと言われています。
母乳のことを「パイパイ」と呼ぶのも、ここから来ているのでしょう。昔から、ご飯のことを「マンマ」と呼ぶのも同様です。
赤ん坊は、「ママ」と発声すると、母親が母乳をくれることを憶え、母親の「名」が「ママ」であることを認識するようになり、同時に、「自分」と「ママ」は違うもの、つまり「自他」の関係として「分別」し、「生れて最初の他人」として認識します。これは吉本隆明が『共同幻想論』において述べる「対幻想」であり、「自己疎外」つまり「個的幻想」の始まりでもあります。
 また赤ん坊が、母乳が欲しくて「ママ」と呼ぶときには、「ママ」は母親の意味だけでなく、「母乳」の意味でもあり、「空腹」の状態も「感受」することになります。
 つまり「空腹」という「感受」は、「意識(識)」「感覚器官(六入)」「接触(触)」だけでもたらされるものではなく、「マンマ」とか「パイパイ」などという「名(名色)」があって、ようやく「感受」されるのです。
 つまり、一般的に、「言語」よりも「感受」のほうが先にあるのではないかと思われがちですが、「人類」であれば、先に「名」がなければ「感受」できない、つまり、人間が「空腹」という状態を「感受」するためには、「空腹」に相当する「名色」があって初めて「感受」できる、ということが言えます。

 よく、「ストレス」とか「肩こり」という言葉を知らない人は、「ストレス」も「肩こり」も感じたことがない、などと言うのも、根拠のないことではないのです。
以上のように、老子と釈迦は、いずれも、人間の認識には「名」が必要であることを論じています。つまり「言語」なしには「思考」できないのが人間です。
老子は実在の人物ではない、とも言いますが、『史記』に拠れば、孔子が老子に教えを請うたとされ、この三人は、いずれも紀元前六世紀ごろの人と考えることができます。(14~17ページより抜粋)

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「記号」と「言語」


「記号」と「言語」の違いは何なのでしょうか。
『老子』を借りて言うなら、「万物の母」である「有」が生み出す「万物」の一つひとつには「記
号」がつけられますが、「有」や「無」には「記号」がつけられません。なぜなら、「有」も「無」も
「概念」であり、「関係」を表す「言語」ですから、「記号」で表すことができないからです。

 同じ「WATER」でも、水の入ったボトルに貼られたラベルなら「記号」であり、英語を知らなければ、それが、水のことなのか、ボトルのことなのか、他の液体のことかもわかりません。
 ところが、「WATER」が「水」のことだと理解できると、「WATER」は「記号」から「言語」に変化します。つまり、「WATER」は水が入ったボトルに貼られたラベルであり、かつ「WATER」は「水」を意味する「名前」という重層的な「関係」として認識されるからです。
 もう一度、「言語」と「思考」の関係を考えてみると、人間が「言語」を知る前には、「言語」なしで「思考」することができた可能性はありますが、「言語」を知ってからは、「言語」なしで「思考」することはできません。
 「覚醒」前のヘレン・ケラーは、「言語」なしで、「記号」や「イメージ」だけを用いて「思考」していたように見えますが、いったん「言語」を知ってしまった彼女は、もう「言語」なしで「思考」していた時に戻ることができません。
 「名なまえ」とは「言語」そのものであり、「老子」や「釈迦=十二縁起」の言うとおり、「名」がなければ「感受」も「認識」もできないのが人間ですから、「孔子=論語」の言うように「名」が間違っていると、「思考」や「認識」も間違ったものになる可能性があります。(19~20ページより抜粋)

 

 

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