名邑十寸雄の手帖 Note of Namura Tokio

詩人・小説家、名邑十寸雄の推理小噺・怪談ジョーク・演繹推理論・映画評・文学論。「抱腹絶倒」と熱狂的な大反響。

∞ 文学論 【長編小説の書き方】

2017年04月29日 | 日記
 将来作家を目指す若者達が、無駄な苦労をしない様にと願い記します。言葉の修辞論は世に溢れているので省略します。思想的な文体論は別段で御説明致します。

 ①先ず物語を脚本化します。映画台本は得意の異なる作家五六名がたらい回しで書くのが常です。それを一人で行うと、全体的な均衡と共にエピソードとプロットが繋がります。改稿毎に一つの観点に集中するのが長編の秘訣かも知れません。複数の観点から総体を仕上げる映画脚本の作法です。

 ②人物や題材の現実味と全体の思想表現に力を注ぐのは当然の事ですが、本ものを仕上げ様と思えば肉体と頭脳を酷使します。拷問の様な作業ですが、真摯な作家は皆同様の苦労がある筈です。通常、初稿は一週間程度殆ど徹夜で書き上げます。初稿だけは、期間を置くと主題・題材・人物・物語が分裂します。頭脳が破裂する直前となり、危険を感じる程身体が疲弊する破局点を過ぎると、すんなりと書ける様になります。その時点で全ての要素が繋がるからです。しかしながら、その感覚を体力のある若い内に乗り越えると、その後は演繹的に全体が観えます。何事も慣れと云えるでしょう。恐らく絵画や音楽の世界も似ており、同じ苦労を何度もする必要はありません。自然と身に付いてしまうのです。

 ③主題に絡む部分は、登場人物が憑依したかと思う程集中します。実在する俳優を思い浮かべるのも一つの方法です。喩えて云えば「藤原釜足氏が演じたらこんな風に話すだろう」と、人物を演じる役者になった気持ちで書くのです。最近書きあげた新作では、油の乗り切った三船敏郎、若い時の勝新太郎、ちゃめっ気のある三木のり平、惚けた緒方拳、老いて尚風格のある山田五十鈴などを架空の人物と仮定しました。演技を感じさせない生きた人物である点が重要ですが、余程の名人を想定しないと失敗します。

 ④悪人や心の病んだ人物は実在の人物の心理を想定します。モデルは多く居るので主役より楽な作業です。が、喩え悪人でも、自分を正当化しようとする現実的な根拠が無いとプロットがだれてしまいます。自分に無い部分を描く為、病的な気分になり得ます。それは危険ですので、客観的に観る著者が神の様な存在として傍にいなければなりません。

 ⑤物語には、将棋の中盤の一手の様に決定的な全体を統括する場が幾つかあります。推敲や空想から生まれるエピソードには作為的な印象が生じる為失敗します。執筆の瞬間は、その場面の現実を生きる必要があります。絵画の創造や音楽の生演奏に似ているとも云えます。故意有為を排し自然に生じる不為の表現が、多くの作家に共通する姿勢と云えるでしょう。蓋然性が必要条件、必然性が十分条件とも云えますが、究極の感性を要します。どんな作家にもそれなりの苦労があるかとは存じますが、不可能の壁を打ち破る天性を持つ方々には個人的な因果がある様に思います。ひと言で云えば、何も望まぬ境地に至る心構えでしょうが、放下から至る本ものの世界観と云えるかも知れません。優れたエピソードは偶然出逢うものです。その想念を四六時中頭に描いているとふと生じます。時間では、計算出来ません。たった一行の詩想に二年掛かる事もあります。修辞とは何ら関係のない、究極の想念を突き詰めるからです。

 ⑥地の文やエピソードの調整は、愉しみながら無為の音韻で書き上げます。そこに油断も生じますので著者校閲を繰り返します。校閲は間違いを捜す作業ではなく、新たな発見です。人様の作品を読むと、「予め定めた題材通りに書いた作品」と「書きながら作家御本人が真理を発見した作品」の違いが良く見えます。学者タイプの作家と、藝術思想的な創造者とは全く異なる文学と云えるでしょう。

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 気を使う点は、幾つかあります。

1)主題を直接言葉で表現しない。というよりも、単語の意味で表現出来るものなど多寡の知れた概念です。

2)体験ではなく推敲から昇華された経験思想を描く。嬉しい、哀しい、怒りや喜びは感覚的な体験です。それが、一即多の直観に包まれれば思想的経験と云えます。が、かなり難しい。これは、精一杯人生を生き抜く他に善い修行法はありません。

3)主題は言葉ではなく文体で表現する。これは作家の生き方の問題です。文学を書こうとせず、詩や小説を生きる姿勢が善いでしょう。音楽で云えば、メロディではなく対位音で描く。それが、交響曲となる様な感覚です。昔はQC工程図(魚の骨の構図)の様なもので試作しましたが、エピソードが理屈で繋がると失敗します。過去に名作と云われるものの中にも、作為的な駄作が山ほどあります。若い頃の経験で云えば、百枚の原稿用紙の隅々まで丸暗記して夢の中で校閲した時に、文学作法がふっきれた様に思いました。今は千枚を暗記出来ます。処が、最近は不思議な感覚があります。別に暗記しなくても、全体が自動的に繋がるのです。主題の線が中核意識で繋がっているという感覚です。

 音楽や絵画を羨ましく思った事があります。音、色、構図、陰影そのものに美があるからです。言葉には感覚的な美しさが欠けている。言葉の背後にある想念が文学の命です。余程の名人が読まない限り、どんな名作にも物理的な美学は生じません。
 ある日気が付きました。想念には物理的な具体性が無い。だからこそ深い表現が出来る。文学は、絵画、音楽、映画、演劇と異なり完成された思想表現が可能です。逆に云えば、全ての場面を想像する文学こそ、究極の思想藝術と成り得ます。

 読む側には著者の予測を超えた想念が多々生じる為に、社会的責任があります。が、論証叙述は不要です。むしろ邪魔になる。直感的に掴んでいる確実な真理を表現すべきでしょう。読者に迎合すると、最大公約数的になってしまう。読む側は初め論理のみを追います。しかし、読後や精読の時は一即多の覚醒を直観するものです。現状認識されている「大衆文学と純文学の違い」など、現実には的外れな分類かと思います。本来は、最大公約数的な一般通念を表現するのが大衆文学、奥深い思想を表現するのが純文学と呼ばれるべきでしょう。が、西欧論理思想も殆どが屁理屈です。正しい思想そのものが、未知の世界と云える現実もあります。実際には、大きな世界観を描く大衆文学があり、喜怒哀楽の上っ面を描くだけの私小説が純文学と呼ばれています。

 要は、主義主張ではない何らかの世界観を表現するや否やと云う事でしょう。そう云う意味に於いて、松尾芭蕉、近松門左衛門、井原西鶴、夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介、太宰治、山本周五郎などは、どちらの分類にも属さない様に思います。僕の大好きな作品群は、大衆文学でも純文学でもありません。「善い文学」というジャンルに属しています。作品の背後に正しい世界観があり、間違いのない真理が描かれているのです。

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 常に以前の作品を超える次元を求めますが、ここにコツがあります。積み重ねるのではない。捨ててゆくのです。主題表現を丁寧に削り取りながら思想を暗喩し、文体で思想体系を描くのが今の作法です。

 思想は臨済禅師の云う「正しい見地」で表現すべきですが、主義主張と異なり生半可な観点ではありません。「何かが尽きた処にある真理」を描くのは容易ではありません。読者の想起を超えてしまうからです。が、そこにしか無い思想もあります。「万策尽きた処に妙案あり」「道の尽きた処に天が広がる」「色の尽きた処に絵画がある」「言葉の尽きた処に詩が生まれる」という様な想念は禅の放下思想が契機でしたが、実人生から得た直観的な確信でもあります。

 様々な非論理の禅思想に、子供の頃から慣れ親しんで来ました。今は、大方の禅僧や禅文学が、普遍の摂理から外れ表層意識に囚われている様に感じます。思想は変化しながら深まります。論理が消えつつ直観が鋭くなるとも云えます。その要点は、一即多にあります。哀しい物語や苦労話から一時の感銘を受けるものですが、それは表層意識を刺激するだけで却って不安や迷いの元となる。物語や題材の奥にある主題は論理の総体を示します。主題無き処にある主題、論理の矛盾を超えた宇宙観を描く様に考えます。

 どんな思想も、本ものであれば表現可能です。深奥の摂理は読者の意識を要する為、知的レベルというよりも真理に対する好奇心を持つ読者でないと理解出来ません。個人的に云えば、道心を持つ読者に正しい見地を伝えたいと云う基本姿勢があります。禅が目標と云う訳でもありませんし、真理に洋の東西はありません。仏陀、老子、達磨、慧能も思想史の中継者と捉えています。所謂仏教も、祖師と云われる方々の思想はどれも一即多の構造、宇宙全体と個の存在概念が「ひとつの存在」として伝わって来ます。

 例えば父が子に釣りを教えるという小津映画の小噺には生命体系の循環摂理が描かれるので、普遍性があり内に矛盾を含まない傑作と云える訳です。小津安二郎の溜めと間は、若い頃個人的な目標でした。が、真似だけはしたくない。氏の作風には他の追随を許さない独特の風格があり、真似ようと思えば奈落の底に突き落とされる。結果、全く異なる作風となりました。が、想念自体の本樹は同じなのです。

 臨済録は「放下の窮み」と深い感銘を受けました。痛快そのものですが、一筋縄では読破できません。その邪魔になるのは、各論の論理的解釈です。原本が失われ的外れな加筆もありますが、臨済思想には確固たる核があるので、全体を一つの想念と捉えれば然程難しい本ではありません。要するに各論を考えるのではなく、一即多の禅思想を一気に捉える事です。文学全般に共通する深奥の核ですが、ある壁を破るといとも単純に観えてきます。本ものの思想が、難しくなる事はあり得ません。難しいと感じるのであれば、作品と真理の間に人の思惑が入るからなのです。



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