南風おじさんの4畳半生活

世人悉く春南風を歓ぶ。肖りたく号すが及ぶや否やを知らず。茅屋より世を管見すること60有余、腹膨るる思い止み難く…

大宮の普門院

2006年03月05日 | Weblog
大宮に出たついでに、久しぶりに「普門院」に行ってみた。ここには小栗家(一番槍の又一や幕末の上野介忠順で有名)の墓地がある。

上野介は知られているように幕末の外国奉行を務め、将軍慶喜が大阪から逃げ帰った後の御前会議では主戦論をぶち、慶喜に見放された知将である。

万延元年の遣米使節ではナンバー3として渡米、事実上の日本側交渉の筆頭を務めた。当時、金銀の交換比率が国内と海外とで大きな違いがあり、日本から膨大な金が流出していたのを、米との交渉で国際的な水準に訂正して、日本の損害を防いだ功績もある。経済の分かる幕臣でもあった。

当時の米紙にも使節団の中で一番に評価されている人である。ご存じ通りこの上野介は、知行地の上州権田村に帰って閑居していたところを、中山道を上ってきた東征軍に近くの河原に引き出され斬首された。

近年は、横須賀に我が国初の造船所を築いたなどの功績が知られるようになり、再評価されている。三野村利左衛門(三井の番頭)が最も信頼した人でもある。

この小栗上野介の墓が大宮にあるのも面白い。由来によると、大宮・大成町あたりに小栗家の知行地が500余石あり、大宮に縁に深い人物であることが分かる(「埼玉人物事典」に小栗上野介はもちろん小栗一族が掲載されていないのは残念)。

小栗家の墓前に手を合わせて、周辺の墓石を見て回った。

すぐ近くに「新藤家」の奥津城があった。真新しい墓石の脇に「大宮市名誉市民・新藤元吉」とある。新藤享弘大宮市長の父親でやはり大宮市長を務めた人だ。墓石は享弘氏が新設したものと分かる。

そのすぐ近くに「角井家」の奥津城があった。「もしや」と思って、埋葬された人を刻んである石を見ると、一番最後に「信覚院禅安勲光居士」との戒名があり、その下に「俗名信、平成十年二月十六日、行年72歳」と書かれていた。

やっぱり、あの角井信氏(埼玉県知事特別秘書、企画財政部長、テレビ埼玉第二代社長)だった。お世話になった人である。

公職を言うより、現在の大宮駅前周辺の大地主。現役の頃は東口の飲食店街の中にお住まいで私も何度かお邪魔したが、今は「角井家」の表札が架かっているだけで、ご遺族は別の場所にお住まいである。

懐かしいお名前の墓石に心から合掌してきました。