いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
弥蘭陀王問経.1
上座部仏教に伝わる、パーリ語で書かれた仏典のひとつに、『弥蘭陀王問経(ミリンダ王の問い)』というお話があります。
これは、紀元前2世紀後半、アフガニスタンとインド北部(インド・グリーク朝)を治めていたギリシア人の国王、メナンドロス1世(ミリンダ王)と比丘ナーガセーナのやり取りを記録したもの。(ちなみに、作者不明)
そのやり取りを通じて、後にミリンダ王は出家し、阿羅漢果を得たと伝えられています。
一国の王を「社会」という枠から出し、悟らせてしまった、その問答とは…。
まるで落語を聞いているかのような軽妙なやり取りの中で、「存在の本質」「無常」「輪廻転生と業(カルマ)」について教えてくれています。
今日はまず、そのやり取りの一つ目、「存在の本質」についての問答をご紹介したいと思います。
*****
ある時ミリンダ王は、「すっげー人がいるぜ!」的な噂を聞いた。
それは誰かと尋ねると、ナーガセーナ、という答えだった。
よくよく話を聞くと、このナーガセーナ、比丘である。
比丘というのは、出家者として全く生産に従事しない修行者のことで、他者から布施されるものによって、生活を維持している。衣は糞掃衣(汚物を拭ったようなボロボロの衣)を着し、食は「托鉢」によって得たものを食し、住は森林や園林に生活した。
ミリンダ王から見れば、完全に乞食、社会性の欠落したニート同然。とても徳の高い高僧としては捉える事ができなかった。
そのような乞食が、なぜ人々から崇められているのか。
ミリンダは、世を治める一国の王として、そこに興味があった。
百聞は一見にしかず。ミリンダは自らナーガセーナの元を尋ね、その疑問を晴らそうとした。
「たのもう、たのもーう! ここにナーガセーナはおるか?」
「なんのご用ですか?」
森の中からひょうひょうとした小汚い男が現れた。出会い頭からがっかりである。
「お前がナーガセーナか?」
ミリンダの問い掛けにナーガセーナは答えた。
「はぁ、たしかに世間からはそう呼ばれてはおりますが、それはあくまで慣用的な名称や記号、概念であって、それに対応する『ナーガセーナ』という実体、人格は存在しませぬ」
「お前は何を言うとるのじゃ?」
「『ナーガセーナ』という名はあれど、『ナーガセーナ』という実体はありませぬ」
目の前に本人がいるのに、「ナーガセーナは存在しない」とはどういうことか。
訝しがって眉間に皺を寄せながら、ミランダは言った。
「なぁ、ナーガセーナ。それは私をからかっておるのか? それとも本気で言うておるのか?」
「なぜゆえ嘘をつく必要がありましょう。事実、存在せぬのです」
「ならば、まず先に、これまでお前に様々な布施を施してきた世の人々に詫びよ!
お前の生活全般、衣食住を支える様々なものを受け取っておきながら、『その当事者がいない』とは、恩を仇で返すような物言いではないか!
ましてお前は『修行僧』として托鉢をしている身。修行僧に実体がないのなら、誰が修行を実践しているというのか。
衆生の苦しみに対し、一体誰が、法を説くというのか。
実体のないものが修行僧を気取って布施を受け取っているのであれば、詐欺も同然。まさに、鬼畜の諸行、下衆の極み!」
「え? ハマカーン? ハマカーンの浜田?」
「なんだそれは!? とにかく、お前に実体がないのであれば、ここでお前を殺しても構わぬな!? いや、実体がないものを切るのだから、お前を殺しても、それは殺生ではないということでよいな?」
「そういうことではないのですよ、ハマカーン王」
「ミリンダだよ! だいたい、お前自身が『私はナーガセーナと呼ばれています』と言うのなら、そのナーガセーナとは一体なんだ。その身体が、ナーガセーナではないのか!」
ナーガセーナは首を横に振った。
「いいえ。この髪も、爪も、歯も、皮膚も、肉も、骨も、内臓も、糞便も、血液も、汗も涙も、ナーガセーナではありませぬ」
「では、そのような物のありかた、行為のありさま、五感や知覚、認識作用、そこにナーガセーナがあるのだな?」
「いいえ。違います」
「ぬぬぬ…。では、その意識こそが、ナーガセーナだ!」
「いいえ、それも違います」
その後もミリンダ王は、「それらの総体」「それら以外」など問うも、ことごとく「違う」と否定され続けた。
「ならば、もうどこにもナーガセーナを発見できないではないか!」
「ですから、最初からそう申しておるではないですか」
「もういい!お前はやはり、嘘をついて衆生をからかっておるのだな!
そのような出口の見いだせない嘘を用いて衆生を惑わし、ペテンにかけておるのだな!
ふんっ、いいだろう。私は、ここでお前を殺しはせぬ。
その代わり、金輪際そのような下劣なことが出来ないよう、国中に、ナーガセーナらの教えはペテンであると、広く知らしめてくれようぞ。
そうすれば、お前ら比丘がいままで通り布施を受け取ることなどできなくなろう。
乞食のようにも暮らせては行けぬ。
死にたくなければ社会に戻り、真っ当に働くことだな。覚悟しておけっ!」
ミリンダ王がその場を立ち去ろうとしたとき、ナーガセーナが口を開いた。
「ところでミリンダ王、今日はここまで、どうやっておいでなさった。歩きですか、牛車ですか?」
「こんなところまで、私が徒歩で来るわけがあるまい。牛車で来た」
「なるほど。ではミリンダ王、今度はこちらが問いますが、『牛車』とはなんですか?」
「なんだと?」
「牛が、牛車なのですか?」
「いや、違う。牛は牛だ」
「では、轅(ながえ:前方に長く突き出ている2本の棒)が牛車なのですか?」
「いや、違う」
「では、車輪が牛車なのですか? 車室が牛車なのですか? 鞭が牛車なのですか?」
「いや、いずれも違う」
「では、それら以外が牛車なのですか?」
「そんなワケがあるまい!」
ナーガセーナは次々と、一体どれが「牛車」なのかと問い続けたが、ミリンダ王は、「それらはすべて牛車ではない」と否定し、そして、ハッとした。
「ミリンダ王、おわかりになりましたか。『牛車』には実体がありませぬ。
牛車は、それぞれの部分が依存し合った関係性の元に成立する、慣用的な名称や記号、概念でございます。
ナーガセーナも同様。すなわち、ミリンダ王、あなたもまた、同様に実体がないのです。
実体のないものが、国を治めるとはいかがなものか。
あなたのしていることは、私同様、詐欺ということでよろしいですか?」
「……。ナーガセーナ、先ほどの罵詈雑言、すまなかった。よかったら、もう少し話を聞かせてはくれまいか」
こうして、王が乞食に教えを請うという、奇妙な関係が始まった。
【トークライブ・インフォメーション】
9月19日(土)、両国、KFCホールにて開催される大和田菜穂さんのイベントに、「阿雲の呼吸(阿部敏郎・雲 黒斎)」として、ゲスト登壇させていただくことになりました。
お話のテーマは、『世界が消えたときにある世界』。
詳細・お申し込みは、阿部さんのブログをご覧ください。
*****
平日のお話会「月イチ☆」の7月分の受付を開始いたしました。
各会場ともに、イープラスにてチケットを販売いたしております。
パソコン・および携帯電話でのお申し込み手続きが面倒な方には、ファミリーマートさんでの店頭購入をお勧めしております。
ファミリーマート「Famiポート」の使い方は、【コチラ】をご参照ください。
平日のお話会「月イチ☆」「月イチ☆WEST」「でら☆月イチ」
【兵庫】7月27日(月)19:30〜21:30(19:00開場)兵庫県民会館 会議室303 [詳細・お申し込み]
【名古屋】7月28日(火)19:30〜21:30(19:00開場)ウインクあいち 1207会議室 [詳細・お申し込み]
【東京】7月31日(金)19:30〜21:30(19:00開場)三鷹産業プラザ 701会議室 [詳細・お申し込み]
←「アイコン」は、ピクセル(色)が依存し合った関係性の元に成立する、慣用的な名称や記号、概念でございます。
これは、紀元前2世紀後半、アフガニスタンとインド北部(インド・グリーク朝)を治めていたギリシア人の国王、メナンドロス1世(ミリンダ王)と比丘ナーガセーナのやり取りを記録したもの。(ちなみに、作者不明)
そのやり取りを通じて、後にミリンダ王は出家し、阿羅漢果を得たと伝えられています。
一国の王を「社会」という枠から出し、悟らせてしまった、その問答とは…。
まるで落語を聞いているかのような軽妙なやり取りの中で、「存在の本質」「無常」「輪廻転生と業(カルマ)」について教えてくれています。
今日はまず、そのやり取りの一つ目、「存在の本質」についての問答をご紹介したいと思います。
*****
ある時ミリンダ王は、「すっげー人がいるぜ!」的な噂を聞いた。
それは誰かと尋ねると、ナーガセーナ、という答えだった。
よくよく話を聞くと、このナーガセーナ、比丘である。
比丘というのは、出家者として全く生産に従事しない修行者のことで、他者から布施されるものによって、生活を維持している。衣は糞掃衣(汚物を拭ったようなボロボロの衣)を着し、食は「托鉢」によって得たものを食し、住は森林や園林に生活した。
ミリンダ王から見れば、完全に乞食、社会性の欠落したニート同然。とても徳の高い高僧としては捉える事ができなかった。
そのような乞食が、なぜ人々から崇められているのか。
ミリンダは、世を治める一国の王として、そこに興味があった。
百聞は一見にしかず。ミリンダは自らナーガセーナの元を尋ね、その疑問を晴らそうとした。
「たのもう、たのもーう! ここにナーガセーナはおるか?」
「なんのご用ですか?」
森の中からひょうひょうとした小汚い男が現れた。出会い頭からがっかりである。
「お前がナーガセーナか?」
ミリンダの問い掛けにナーガセーナは答えた。
「はぁ、たしかに世間からはそう呼ばれてはおりますが、それはあくまで慣用的な名称や記号、概念であって、それに対応する『ナーガセーナ』という実体、人格は存在しませぬ」
「お前は何を言うとるのじゃ?」
「『ナーガセーナ』という名はあれど、『ナーガセーナ』という実体はありませぬ」
目の前に本人がいるのに、「ナーガセーナは存在しない」とはどういうことか。
訝しがって眉間に皺を寄せながら、ミランダは言った。
「なぁ、ナーガセーナ。それは私をからかっておるのか? それとも本気で言うておるのか?」
「なぜゆえ嘘をつく必要がありましょう。事実、存在せぬのです」
「ならば、まず先に、これまでお前に様々な布施を施してきた世の人々に詫びよ!
お前の生活全般、衣食住を支える様々なものを受け取っておきながら、『その当事者がいない』とは、恩を仇で返すような物言いではないか!
ましてお前は『修行僧』として托鉢をしている身。修行僧に実体がないのなら、誰が修行を実践しているというのか。
衆生の苦しみに対し、一体誰が、法を説くというのか。
実体のないものが修行僧を気取って布施を受け取っているのであれば、詐欺も同然。まさに、鬼畜の諸行、下衆の極み!」
「え? ハマカーン? ハマカーンの浜田?」
「なんだそれは!? とにかく、お前に実体がないのであれば、ここでお前を殺しても構わぬな!? いや、実体がないものを切るのだから、お前を殺しても、それは殺生ではないということでよいな?」
「そういうことではないのですよ、ハマカーン王」
「ミリンダだよ! だいたい、お前自身が『私はナーガセーナと呼ばれています』と言うのなら、そのナーガセーナとは一体なんだ。その身体が、ナーガセーナではないのか!」
ナーガセーナは首を横に振った。
「いいえ。この髪も、爪も、歯も、皮膚も、肉も、骨も、内臓も、糞便も、血液も、汗も涙も、ナーガセーナではありませぬ」
「では、そのような物のありかた、行為のありさま、五感や知覚、認識作用、そこにナーガセーナがあるのだな?」
「いいえ。違います」
「ぬぬぬ…。では、その意識こそが、ナーガセーナだ!」
「いいえ、それも違います」
その後もミリンダ王は、「それらの総体」「それら以外」など問うも、ことごとく「違う」と否定され続けた。
「ならば、もうどこにもナーガセーナを発見できないではないか!」
「ですから、最初からそう申しておるではないですか」
「もういい!お前はやはり、嘘をついて衆生をからかっておるのだな!
そのような出口の見いだせない嘘を用いて衆生を惑わし、ペテンにかけておるのだな!
ふんっ、いいだろう。私は、ここでお前を殺しはせぬ。
その代わり、金輪際そのような下劣なことが出来ないよう、国中に、ナーガセーナらの教えはペテンであると、広く知らしめてくれようぞ。
そうすれば、お前ら比丘がいままで通り布施を受け取ることなどできなくなろう。
乞食のようにも暮らせては行けぬ。
死にたくなければ社会に戻り、真っ当に働くことだな。覚悟しておけっ!」
ミリンダ王がその場を立ち去ろうとしたとき、ナーガセーナが口を開いた。
「ところでミリンダ王、今日はここまで、どうやっておいでなさった。歩きですか、牛車ですか?」
「こんなところまで、私が徒歩で来るわけがあるまい。牛車で来た」
「なるほど。ではミリンダ王、今度はこちらが問いますが、『牛車』とはなんですか?」
「なんだと?」
「牛が、牛車なのですか?」
「いや、違う。牛は牛だ」
「では、轅(ながえ:前方に長く突き出ている2本の棒)が牛車なのですか?」
「いや、違う」
「では、車輪が牛車なのですか? 車室が牛車なのですか? 鞭が牛車なのですか?」
「いや、いずれも違う」
「では、それら以外が牛車なのですか?」
「そんなワケがあるまい!」
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牛車は、それぞれの部分が依存し合った関係性の元に成立する、慣用的な名称や記号、概念でございます。
ナーガセーナも同様。すなわち、ミリンダ王、あなたもまた、同様に実体がないのです。
実体のないものが、国を治めるとはいかがなものか。
あなたのしていることは、私同様、詐欺ということでよろしいですか?」
「……。ナーガセーナ、先ほどの罵詈雑言、すまなかった。よかったら、もう少し話を聞かせてはくれまいか」
こうして、王が乞食に教えを請うという、奇妙な関係が始まった。
【トークライブ・インフォメーション】
9月19日(土)、両国、KFCホールにて開催される大和田菜穂さんのイベントに、「阿雲の呼吸(阿部敏郎・雲 黒斎)」として、ゲスト登壇させていただくことになりました。
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コメント ( 138 ) | Trackback ( )
« 主観 ≠ 主体 | 当選はっぴょー! » |
『私』を構成する細胞を構成する原子を構成する量子を構成する何かはとても数えきれませんし、
『私』の感情も絶えず状態を変え、こちらは数えようがありません。
それはひとつひとつは『私』ではありませんが、
でも、それらが『私』を構成していると、『私』という一人の人間であると、このように実感している事は確かです。
『私』なら、このように答えます。
わかったよ。きみの本意が。
わたしがいないのがどういう状態かは解ってないのでともかくとしても、
私がおちる、ということを『私』が引き寄せることは可能ですか??
引き寄せの法則がそもそもあるなら、それも可能のような気がするのですが。
全てはおこることなので無理ですかね。
無理ともいえるし、無理でないともいえる、みたいなやつでしょうか。
雲黒斎という概念の何かさん。
ミリンダ王という概念があって、その概念が国を治めているということですね。
実態が無いということだけ強調して概念があるという説明をしないから、説明不足、詐欺師と言われるわけです。
ナーガセーナと呼ばれる存在の主張や目的(概念)はあるわけです。
スピリチュアル業界で横行している論理のすり替えですね。
わたしはないといいながらお金儲けは一生懸命というのは、金儲けが目的という概念がある。
これが「自分」と言えるのか?
どうやって「自分」を説明するのか?
突き詰めて、突き詰めて、突き詰めてみたら・・・
あれれれれ?????になりました。
途中、恐怖に襲われ、でも、そのままにしていたら
ん? これはなんじゃ?になっちゃいましたよーーー
黒斎さーん。
何故、『この私』という感覚が、『この私』という感覚のまま、
延々と続いてるんでしょうかね・・・
ただ「起こっている」だけであるなら、『この私』が、突然『黒澤さん』に変わったっていいはずなんです。
そして『この私』は突然どっかの子供になっていてもいいはずなんです。
でも『私』は、酔っ払ってる間ですら、『この私』の意識を実感し、忘れられないんです。酒呑んでもつまんないんです。
あー・・・永井均さんは、この事を言っているんですねぇ・・・
今更実感した感じです。
黒澤さんにご紹介頂いた「残酷人生論」で、池田晶子さんも、『私』の不思議さについて考えられていたようですが、
こう実感してみると、
ほんと、なぜ、数えきれない存在、数えようもない存在たちが、よりにもよって、
『この私』を構成し続けるのかっっっっっっ!!!!!!!
いやー、五蘊やばい、マジやばい。
googleのdeep dreams見てしまったのも手伝ってるかな・・・あー、ちょっと精神的に参ってる人、
トラウマになりやすい人、今後も食事を楽しみたい人は、絶対、検索しないでください。
「似たものを抽出する」とこうなる、て事らしいですが。
スピリチュアルの「ただ起こる」が、いかにとんでもない事かというのも、より実感しました。
面白かった。
実際私もよく分からないのですが、王さんは普通の感覚だと思います。
こういう話の中ではそれに反対する激しい意見は出ないので爽快感もありましたね。
ここから坊さんの反撃にも期待しています。
次の話が楽しみです。
ところでラマナマハルシも自分はないと言ってますがカルマ等についても黒斎さんと同じ考えなんでしょうか。
ミリンダ王。
けっこう柔軟ですね。
王という役割をしているだけはある。人の話をちゃんと聞いている。
出来事だけが起こっていく。
身体が動く思考する感情を感じる意識がある。わたしは誰?
わたしはいない。
起こる出来事にわたしはいない。
ナーゼカーナ
に、見えてしまう(^◇^;)ナーゼカーナ?
雲さんは何て言ってますか?
黒斎さんあなたはどう思う?
選択が近いですね。
森の中から、巻き髪で、メイクバッチリ。胸元の少し開いた、エレガントで色気ある女性が現れた。
ミリンダ王
「貴女がノンデュアリティですね」
乙女
「私以外私なの♪」
気持ち悪いです。
私は本当は在ります。
四次元以上の非物質ゆえに、三次元的「教え」での説明は不可能なだけなのです。
私とは魂(命)のことではありません。
私とは。
あの世にもっていける
私の実体とは
魂(命)を包みこむ衣ころも。魂(命)を包みこむ想念体(心)のこと。
私は衣ころもとして在るのです。
今、この主観てんこ盛りの文章を読んでくださったのは あなた
他人ではない「私」でし
ょ
(*^_^*)
気持ち悪いです
本当は知っていますよね
阿部さんは小悟止まりって
>ミリンダ王がその場を立ち去ろうとしたとき、ナーガセーナが口を開いた。
↑今ここですね。
阿部さんは何を言うのでしょう。
「すべてを水にナーガセーナ」とでも言うのでしょうか。
今日のブログは何だか笑えますね^◇^
一連の騒動もちらつきますし。
ま、あれは思想に対する批判ではなくて、事務的なことについての苦情だと思いますがね。
自分自身に行き詰まってみちをさがしても、自分自身の上に積み重ねるようでは結局のところなにも変わらない。変わらないどころか悪化する。
答えに幸せを求めるから苦しみを取り去るだけでは満足できないのか。そんなはずはないと思って腹が立ってしまうのか。
幸せになりたかったら今幸せと思え、
満足したかったら今満足だと宣言しろ、
変わりたかったら今変われ、
という答え以上を探したくなるのかな。
でも好きなだけ探して何年もさ迷って文句垂れて知識溜め込んでストレス溜め込んで人間関係悪化させて病気になったら行き詰まって気が狂って自我か崩壊するかもしれませんね。
どんな道でもたどり着けるものかもなあと思います。
悪道極めて聖人となるみたいな。
証拠はないし金銭も発生するので疑いや批判があるのは当然かと思います
スピリチュアルを知れば知るほど分からなくなるのは誰かが間違ってるからかも知れません。
何せスピリチュアルでも色々な説がありますし、従来型スピリチュアルはニューエイジワンネスには冷ややかに見ている人もいますよ。
従来型とはつまり江原系ですが、課題克服とか善をするとか地獄に落ちるとかですからね。
ニューエイジワンネスは今のままでいいんだよですから全然違いますよね。
自己否定型の人が取り合えず安心したいためにワンネスに嵌まってるという考え方もありますから。
勿論どっちが正しいとは言えません。
ワンネスも素晴らしいお話ですから。
ただ迷ってたり疑ったり批判したりしてる人の考えが間違ってるのかどうかはわかりませんよと言いたいのです。
黒斎さんなら分かると思いますが。
とにかく最後は自分で悟るしかありませんよ。
その為には性欲を抑えて菜食にして運動もしてヴィパッサナー、利他行してたらその内悟りは出るんじゃないかな
ポテチ食いながらブログ見てるだけじゃ悟れないと思う。
黒斎さんレベルになると定期的に悟りはあるみたいですね。
1度悟ると定期的になるみたいですね。
実存すると思ってたものが概念だとわかって、その結果気持ち悪くなるほど、物の見方が偏っていたことに気づいたというか。
木の根っこを見てリバースしちゃう小説があるって聞いたことあるけど、解る気がしました。
水面が波立っても、海底の水は波が立たない。
いろいろあるかと思いますが、私は黒澤さんのお話大好きです。
「わかっている」と思っていたものが、実は「わからない」と気づく、ということは、
けっこうな衝撃だと思います。
他人事(どこか別の世界の話)だと思って読んでいると、なんてことないのですが、
自分事(他でもない「これ」のこと)と思って読むと、「ひょえ~!」という感じになってきます…(笑)
続きを楽しみにしています。
必死にブログ主を批判してる人が突然悟ったり、
ポテチ食べながらブログのコメント書いてる人が悟ったりするかもしれませんね。
掃除して悟った人もいるようですし。
なんだかこれはこうですよ、ということを言ってしまうのが怖くなりました。なにせそんなこと保証できませんので。。
しかし聖人によれば執着はないほうが悟りやすいと言ってました
執着があれば悟れないわけではないが。
しかし欲望は消すよりも飽きる方が早い気がしますが。
最近の悟った人は素行悪いのに悟ったりしてるらしいが、果たして本当かどうかは分かりません。
どちらにしせよワンネスとか神と繋がりやすい周波数になるのは有利かなとは思いますがね。
その為にはやはり利他行とか瞑想、掃除とかいいんじゃないでしょうか。
執着も少ない方がよさそう。
それはさておき最近のスピリチュアルは穏やかではありませんね。同じ宗教でも宗派がたくさんあるじゃないですか。
そんな感じになってきましたね。
全て目指してるとこは同じとは言えない状況になってきました。
江原さんは個的魂論ですからずっと成長の道を歩みますが
黒斎さんは個的な魂もカルマも個性も否定しています。
来世の個性やカルマもランダムという理論ですね。
疑問なのはワンネスなら今世でランダム的に急に例えば私が知らないおじさんに入れ替わっても良いような気がするんですが。
ワンネス、一体化した時に何故また自分に戻るのか。全てが一体なら悟ったついでに、他人に入れ替わってもおかしくないし、それこそ抽選で関係ない人の体に入ってしまいそうなものですが、今のところそういう体験者はいるにしても聞いた事はありません。
黒斎さんの理論は好きですし私も支持はしていますが、凡人には宇宙レベルの話ですね。
来世で抽選にならなきゃならない理由はなんでしょうか。
今世で入れ替わりは流石にまずいんですかね。
神との対話でも個的魂は継続されるようにいってますし。もしかしたら言葉足らずなのかも知れませんが。
私は貴方で貴方は私なら入れ替われるはずですが、ワンネス体験の後に結局自分に戻るなら、あの世でワンネスになってもやはり自分に戻ってしまうのではないかなとも思えてしまうわけです。
だとしたら安易にカルマを背負ったら最悪な事になってしまいますね。
我々悟ってない人は何も分かりませんね。
自分で悟るしかないですよね。
それまでは黒斎さんか、神との対話か、江原さんか、どちらを信じるかですね。
「ただ起こった」結果が、個的魂の継続になっても、矛盾は無いじゃないですか。
ただ、なんでその「ただ起こった」結果が、よりによって『この私』になってるのか、
いつだってどんな時だって『この私』に戻るのかー、
多重人格の人の人格が入れ替わったって、
チャネリングで一時的に体を明け渡したって、
認知症の人だって、
結局、『その人』ですよね?
その辺が今更マイブームです(笑)このブログでも、その辺が出るのでしょうか?楽しみです。
あと、我ながら安直かつアホな考えだとは思いつつも、前からなんとなく思ってる事がありまして、
「悪い事をしたら地獄に行くよ」ての、あるじゃないですか。
その地獄って、『この夢』=『この世』なんじゃないかなぁ?(笑)
「悪い事をしたら自ら地獄の観念を作って来世に生まれ変わるよ」
て訳です。
それだと、なんか納得してしまうんですが。
以前は記事を読む度に押してました。
ここの所黒澤さんやコラボされてきた方のブログを読むことも減りました。
黒澤さんは信頼云々ともおっしゃってましたが、以前は信頼していても、今は出来なくなりました。
信頼出来ないようなことをしている人に信頼してと言われても無理でしょう。
黒斎さんは書籍のなかで個的魂の存続とか有り得ないとバッサリ切りましたからね。
来世に持ち越されるもないと。
それはそれで新しい考え方でかっこいいのですが、山川さんとは対立する考え方ですよね。
山川さんは紛れもなく江原さんの方ですし、いっても神との対話までですよね。
最終的には繋がりがあるとしても、生き方の方針は完全に真逆になりますよね。
極端に言ったら、やりたい放題と、我慢の哲学と。全然ちがいますからね。
江原さんもワンネスは知ってますし、黒斎さんも個的魂も知ってますが。
ここに来て黒斎さんの新説で繋がりはなくなった気がします。
生き方においては完全に違いますからね。
でも、続きが気になる!
前回の章のコメント欄で、地球や宇宙の言葉を入れながら、全部ひとつなんやよと書かれてた方がおられました。
宇宙=私って、これかな、と。わからないことの、大切ななにかに掠った気がして。でもまた逃げていった。一瞬、遠くまでいくけど、つかめへん。
ときどき、キラッとした宝石のようなコメントを見られることも、うれしいです。
ありがとうございます。
『そう、まあそれは置いといて何かしたいことはあるかい?こうならハッピーだなあってことさ!』
「これが解決できないと何もできません、どうしたら解決できるでしょうか、教えて下さい」
『OK- OK- 旅行なんてどうだろう?行きたいところを想像してみよう、とても快適な旅さ!どうだワクワクするだろ!』
「実は人間関係で悩んでいて、とっても嫌いな人と関わっているんです、毎日胃が痛くて」
『大丈夫、大丈夫さー、美味しいものを食べにいくというのはどうだろう?想像してごらんよ、夢の世界のような豪華なレストランの豪華な食事さ」
悟りを開いている人と閉じている人ではこれぐらいの温度差があるのかなと最近思います。
「とても苦しいんです、悩みがあるんです、なんとかしたいんです。」
『どこが苦しいのかな?胸?お腹?』
「これが解決できないと何もできません、どうしたら解決できるでしょうか、教えて下さい」
『体の苦しいところを癒やせば、悩みも解決に向かうよ。騙されたと思ってやってごらん』
「実は人間関係で悩んでいて、とっても嫌いな人と関わっているんです、毎日胃が痛くて」
『それはね、心が必死に自分を守ろうと頑張ってるから、それで胃も疲れてしまってるんだよ。
だからまず、胃を癒してごらん?
僕は、げっぷを出しまくってるよ。自分でも驚くくらい、出てくるんだ。それだけでもスッキリする事が多い。
あと、お腹に手を当てて、
「ごめんね、酷使して。ありがとうね。これからもよろしくね」
とか語りかけつつ、お腹に手からエネルギーを送ってみるんだ。
そんな感じでスッキリしたり癒やされると、答えが浮かんだり、違う考え方が出てくる事も多いよ。
僕とあなたは違うから、僕のやり方でうまくいくかは分からないけど、
体を癒せば、何かが変わっていくのは確かだと思うよ。
やってみてごらん?』
最近、『私』は、もっぱらコレです。
全的魂
私の見解では、エゴのなかに今はない
エゴをなくせば今になるし、今に在るならエゴは消えてるはず。
だから怒りや欲を出しながらでは今にはないと思う。
怒りながらいまここは不可能だと思う。
批判や悪口も同じ。
いまここなら冷静な指摘くらいにとどまるし、全ての立場への理解に尽力する。
利他や無欲の状態が真我であり、いまここである。
何が言いたいのかというと、つまりいまここの人なんて基本的にはいないと思う。
いまここだと思い込んでるだけ。
単なるエゴから抜けれていない
例えば儲かった ざまあみろ 俺は最低だ あのこ可愛いな そういう感情が出た瞬間にエゴ
それを消せたら真我だが、いくら見つめても消せないならいまここはゲームセットだ。
つまりいまここ何てのはかなり努力と知恵とコツと指導がないと無理なんですよ。
私は、指をぱちんとはじいたこの瞬間にすべてがはじまる、その連続なのかな、みたいな感覚でいます。
その「すべて」の中には、私という「過去」ソフトも持ち合わせているから、基本的には「私」継続中な感じがする。そして、いまここ、にいると、たしかに、さっきまでほんとに、私が「私役」だったかどうか、誰にもわからないですよね~
むしろ、昨日まで私が私だったという確信をもつほうが難しいな、と。
もしかしたら、さっきまで、違う誰かだった、とか。でも「私役」は、いつでも時間の過去ソフトが自動付帯なので、結局こたえは、わからなーい!
ただ、時間の概念はいつでも容易にふっとぶので、あてにならないですねー
たぶん、時間がふっとんでいるときは、ボーダーないので、あれはワンネスの一側面かも。
ふっとぶけど、ふっとばせることはできない。
スピリチュアルな活動をする際の「正」は個
ナーガセーナも個
「ナーガセーナ教」や「ナーガセーナ会」をつくったり、
他の高僧とコラボレーションしたとしても
記述に残る、個のナーガセーナには及ばない。
だから努力が必要だという。
悟りの境地すら維持しようとする。維持しなければ意味がない、価値がないと囁く。
一言で言ってエゴは堅苦しい。堅苦しいものはエゴ。
堅苦しさから抜けて、楽しいとか、穏やかだとか、落ち着くという境地がソレなのかなと。
堅苦しくなくても生活はできるし、仕事もできる。むしろ捗る。
勉強も捗る、他人を意識して競争の中にいないから集中もできる。
こうでなくてはいけないというものを持たないから、変化にも柔軟。いつもそれでいい。
人生を味わいつくせると。
名(慣用的な名称や記号、概念)はあるの?作ったから?
なら、実体も勝手に決めつければ存在することになるのでは?
なんか無理やり「わたし」を無くそうとして複雑にしているように見える。
話は面白いけど( ´ ▽ ` )
それをちゃんとやってたら分かるんです
エゴが出た瞬間に今ここじゃなくなるのが。
こいつ立ちしょんなんかして下品って思った瞬間に今ここじゃなくなるんですよ。
でも、この人監禁されてて脱出して二日ぶりにオシッコしてるかも知れない 膀胱大丈夫かな
と思ったら今ここに戻るんです。
相手の立場になるのは真我なんです。
真我なら今ここです。エゴなら今ここじゃない
今ここと真我は繋がってるんです。
つまりワンネス、自己肯定、とか言っても、怠けたり怒ったり、欲情したりの中には真我も今に在るもないように思います。
そういう自分を結局は否定しますし、努力して困難に打ち勝つ自分を人間は肯定するように思います。
ふしだらな心や生活にはいまここは不可能です。
まともな利他や自己規制の生活の中に真我もいまここもあります。
時々過ちはありますがまた仕切り直せばいいんです。後悔もエゴですから
自己中心はエゴですからワンネスもくそもありません。
他人の幸せを願う中には真我もいまここもあります。
普通に自分の歴史を振り替えれば自分以外の誰かになったはずはありません。
なったなら黒斎さん以上の大発見ですよ。
例えば犯罪しながらヴィパッサナーはし難いのです。八正道を実践しながらヴィパッサナーは容易いのです。
ご飯がすすむのです。これがわかりますか。
ニューエイジワンネスはしんどいとか努力とか嫌いで今が楽しければいいというかたが多いですが、そこにいまここはありませんよ。
八正道とか10善の中にいまこことか真我があるんですよ。
そういうのは今ここじゃないんですよ。
実は昨日ずる休みしましてん。テヘ
俺は明日死ぬから、金はいらんわ、家族のために遺産として置いておこう
それが今ここなんです。
正直勇気誠実利他 全部真我でしょ、すなわち全部今ここなんです。
真我と今ここは一体
エゴと心ここにあらずは一体
怒りや欲、傲慢等の自己中心は心がざわめいて制御不能です。
何か後先考えずに楽しむのが今ここみたいに思ってませんか
いつやるの、今でしょとか、今を楽しむとか、明日のためより今のためだよとか、そんなの全部今ここと関係ない。
全部とは言わないがエゴが多い
理解できますか
未来の楽しみより今の楽しみなら計画性ないからサーロインばっか食べるか、仕事おわってからにしたらいいのに仕事中に避け飲んだり、自慰したり、定年前に退職したり、出先で急に読みたくなったから同じ本買ったり。
要するに未来のために頑張るのも今ここだと思います。
俺は政治家になって日本の柱になって国を助けたいと思ってたら今未来のために勉強してても真我だし今ここだし。
明日の風は明日ふく、俺は今日を楽しむってゲームしてたり、ダイエットより今ここだと言うことでポテチ食ったり
しつこいようだけど今ここじゃないからね。
人生はゲーム ロールプレイングゲームかも知れない
レベルあげたり徳をためたり、来世での中ボス対決のためにスキル磨いたり。
それも壮大なゲームでしょ
自分にを磨くのも充分ゲームとして楽しめますよ。頑張ったぶんだけ成長していけるんだから、成長したらそれまでの困難も軽く乗り越えられます。それも楽しいゲームではないですかね。
分かりやすいです。
王は、これで気がつくとか才能ありますね、笑
全体が生きていることが伝わって、みんなが笑顔になれるといいなあ
実際ラリって破滅的な人生を送ってる人っていうのは現実(自分の経験した過去)を考えすぎてストレスを溜め込んで現実(自分の経験した過去)から目を背けようとしてギャンブルや酒に溺れたり無計画な夢に突進したりする人のことで、本当に観念を捨て去った境地の落ち着きと、その上での人生を楽しむという感覚とは別物ですわ。
そもそも自分の経験の範囲ないからでた計画的人生なんて行き詰まる元ですし、やれることがあるのにもうダメだと思ったりね。
結局自我が手放されるのを怖がって抵抗してるから無計画な人生なんて危ないと思ってるんでしょうが。
大体今の日本の借金はギリシャの20-30倍はあるわけで、この国の人間が計画的ななんて言葉を使うのがおかしい。
どうせよくわからないけど日本は大丈夫なはずだ程度にしか認識してないんでしょう。
日本の政治家だって
このまま行って何年後かに昔東洋に日本という国があったと過去形で語られることのないように
なんて言ってるぐらいですからね。最近の話ですよ。
これからはより柔軟に変化に対応していかないとやってけないのに半端な知識の計画性なんて足を引っ張るだけですよ。
映画おおかみこどもの雨と雪にでてくるお母さんの何かあったらその場で勉強してみんなの手もかりながら、周りと助け合いながらなんとか切り抜けながら心から楽しくやってる姿、大変なはずなのにいつもくったくのない笑顔を見せてる姿、あれがこれからの生き方なんじゃないですかねぇ。
指しているもの全てが、ないではないですか!
私も同様、私という概念はあるけど、ない…
実に奇妙だ~(・・;)
あ~なんてゆうか…拒んでるのがわかる!!
この先を知るのが怖い。。
昨日は酔っぱらってて
黒斎さんの話している事も今ここあってこそのお話。
真我主体の人じゃないと絵に書いた餅なんです。
五蘊とか幻とか真我の次元じゃないとわからない。
エゴ主体なのに全て幻だーってニヤニヤふにゃふにゃしてても、ありもしない100億の使い道を考えているような物。
私は完璧だーと言っても精神病院行きだし、自分の感情と頭がバラバラで実現不可能なマニフェストみたいで苦しくなるばかり。
つまり絵に書いた餅ですよね。
理論も大切ながら、自分で今ここに在って真我主体になって冷静に見極められないと意味がない。
真我主体になったらこれは五蘊だとか、幻と見極められる。
その為には八正道的な感覚がツールになると思う。
だから普段の振る舞いや生活態度とか、努力とか利他や克己が大切だと思う。
まだ分からないが、今ここは時間ではなく意識が大きくなっている状態かと思う
エゴは意識が小さい状態かと思う
意識が今に在るわけだし。 利他や克己は意識拡大。
だるい眠い、さあ寝よう、あいつこらしめたい、やーめた、あいつバカじゃないか、恥ずかしい奴、もう死にたい、俺はバカだ、テレビみよ、等は意識収縮。
意識拡大して今に在り真我主体で生きたら成長もするし、あの世で江原さんが出迎えてくれたら誉めてくれて天国に案内されて来世もウハウハ人生になりますね。
あの世で出迎えてくれるのが阿部さんだったら、そんなに頑張らなくてもいいのに。だけど全体としては浄化されたから御苦労さん。
さあくじ引き引いてくれるかい、君の来世のカルマ、性格、スキルを抽選するから。
てな具合か。
好き放題やってたら
阿部さんがあの世で、楽しんだかい、じゃあ来世も楽しもうって感じかな。
生まれない方が楽しいし、人生はお気楽ゲームにしては全然楽しくない
人生は真剣ガチンコゲームだったら面白いよね、というか納得がいく。超ハードレベルの難易度で、弱小主人公が経験値つんで日々進歩してボスを倒すってのなら、この地味で地道な地球生活もつじつまがある程度はあうよな。
お気楽ゲームならもっと空飛べたり、派手な事が必要だよね。お気楽にしてはあまりにも退屈過ぎるよな。
でも人生ってそんなに楽しい類いの物じゃない気がするし。
死ぬ気で生きるのも楽しいが、世の中ケンカで成り立つならいいが、大概は地味な仕事で忍耐力、集中力が問われる事が多いし。
今に在る、進歩、地球生活、繋がってるように感じたりもする。
私は悟ってもないし、あの世を知らないからハッキリどうとは言い切れないが。
計画性とかラリってるとかは言葉のあやというか私が間違ってたならすいません。
政治の話は深くは知らないですしバカと言われても当然です。
ただ全ての政治家が今に在ればほぼ防げていたでしょうねという話ですね。
己の懐事情に近いくらい国全体の事を考えてたらそういう自体にはなってないですよね。
詳しくはわからないですがワクワク楽しいは否定しませんよ、いい事だと思いますよ。
私が言いたいのは五蘊だから自分じゃないから幻だから、とかの理論は八正道とか真我あってこそなんです。
黒斎さんの話は必ず真我と繋がってるはずなんですよ。
私はないからもうどうでもいいや的になるのが違うよなぁ という話をしている訳です
私はない だけど真我はある。黒斎さんに言わしてみたらワンネスはあるわけです。
要するに怠慢、ネガティブ、攻撃はないが、利他、克己、謙虚、慈悲、誠実、勇気等はあると言う事です。
それは全て繋がっているように思います
私という概念はあるけれど、実体は「説明」できない。だから無い。
宇宙全体の95.1%であるダークマター・ダークエネルギーという概念はあるけれど、実体は「説明」できない。だから無い、とはいわない。
「依存するな」と言われそうですが、早く続きが読みたいです。
どこにあるの?
ずっと同じことしてたんだ。まずはこのループから解脱せねば。という発想も過去のパターンの繰り返しか?
僕もわからないんですが、おかさあんがそう言ってたんです。
真我自体でも素晴らしいが、源が一番ですね。
全ての魂は源に戻るゲームをしています。
地球で肉体に宿り、エゴを破り真我主体になればより源にちかずくのだと思います。
私はないけど私はないと認識している者が在るわけです。
宇宙が始まる前には何があったのか?
て本をちょい読みすると、何も考えずめくったところに、
認識できる宇宙は、ダークマターの中にわずかしか無い
ような事が書かれていました。
なんとなく、認識可能な宇宙の中に、ダークマターも含まれていると思ってました。
あー、逆なんだー、てかむしろその方がスピリチュアル的解釈とも一致してるよなー、あー・・・
・・・凄いなぁ~、また、スピリチュアルと科学がつながってきてる事を知ったよ・・・
こうして、全てがつながっていく訳ですね~。これからがますます楽しみです。
お母さんなら知ってるのかな( ? _ ? )
何が「わたし(エゴ)」で
何が「真我」なのか
ボーダーなんてないんじゃないですか?
聞こえの良い「利他、克己、謙虚、慈悲、誠実、勇気等」には目を向け、
「怠慢、ネガティブ、攻撃はない」と臭いものに蓋するのは、なんか都合良く解釈しすぎだと思う。
例えば、ある人が「利他」だと思って子供を躾けていたとして、客観的に見てそれが虐待に見える場合
どっちなんだろうね?
魂の漂泊の為に輪廻天性するんですよね?
魂もないと言われたらもうわけわかんなくなっちゃいます。
魂は一つのエネルギーからひとつまみになったものが身体に宿っているんですか?
みんな書きたい事書いてていい感じの場ですね。
ノンデュアリティの表現で言えば、すべて起きてるですね。
おもしろい。
真我のある場所は胸の右側だそうです。
そしてその真我は全てと繋がってると。
聖人が言ってましたよ。
綺麗事なんてくそくらえですよね。
でもね、釈尊もキリストも綺麗事の固まりですよね。
今に在るってのはヴィパッサナーだと思うんですよ。
ヴィパッサナーやってたら、不謹慎な考えが出たらすぐわかるんです。
その瞬間ヴィパッサナーができてないんです。
でもすぐに気付いてエゴを見破ればまたヴィパッサナーが再会されます。
試しにヴィパッサナーやってみて下さい。
他人の悪口言いながら集中力は出ませんし、実況するのもかなり難解ですよ。
利他の心を持つと凄くヴィパッサナーも捗るんですよ、克己とかしてたら凄くヴィパッサナー出来ますよ。
邪な考えをしたらヴィパッサナーが終わってしまうから直ぐに煩悩リセットしたら、またヴィパッサナー再会。
欲、エゴを見破ればその瞬間に集中力が増えてヴィパッサナー再会します。
綺麗事な考えを出したらヴィパッサナーが簡単に捗るんですよ。怒りや慢心、見栄とか出たらまたエゴでヴィパッサナーが消えます。
で、今に在るのがヴィパッサナーだし、それが真我の視点だからその内に悟れるんだと思いますよ。
だから、釈尊は八正道を説いたんだと思います。良心を出してたら今に在りやすくなるから。
今に在れば、真我主体の割合が増えて、やがて、真我そのものを観、真我からの視点で全てを達観して、エゴに惑わされなくなりそうです。
真我とエゴのボーダーですが、真我の定義を私はヴィパッサナーとか、今に在るという事にしましたので、ヴィパッサナーが捗る性質の物と、ヴィパッサナーをやめてしまう働きのある性質の物という事でボーダーとしました。
ヴィパッサナーとはつまり今ここですからね。
今ここは真我か或いは真我の卵ですからね。
今ここ以外、つまり、心が定まらない種になる考えはエゴそのものです。
エゴがある以上反対の真我があって然るべき。
で、多分ですが、真我イコール源みたいなもんでしょ、多分ね。
その辺がよくわかりませんが。
真我が既に源なのかも知れません。
だって源にはエゴがありませんからね。
真我もエゴじゃないですからね。
エゴって真我の光を歪んで反射させたものらしいんですけどね。
まぁ分離意識とか色々言い方はありそうですが。真我イコール源なら納得しやすいですね。
躾に関しては良かれと思ってやってる分には愛があれば仮に間違っていても真我ですが、そこに、私は絶対正しい、他の奴は絶対間違ってるという決めつけとか、頑固、プライド、怒りが混ざってればエゴでしょうね。
それは自分の良心に照らし合わせればわかる事です。
良心に従い適切な躾をして、もしかしたら私は間違ってるかも、子供の気持ちはどうか、等、心配り出来てればそれは真我だと思いますよ。
後、仮に悪事をしても、また気付いたら改めたらまたそこからヴィパッサナー始めたらいいだけの話です。 ウジウジするのはやめましょう。って聖人が言ってました。
要するに完璧なんて無理だけどなるべくヴィパッサナーしながらなるべく真我の視点で生活してワンネス目指しましょうって事かな。
我々求道者はね。
今こことかヴィパッサナーが御飯ですね。八正道とか利他や黒斎さんの知恵やコツをおかずとして活用しながら悟りを目指す。
こんな感じでどうでしょうか
牛車の会話に入る前の
ミリンダ王
「余は、ナーガセーナの意見に反対の立場であるが、あなたがそれを言う権利は 命 を懸けて守りましょう。」
なんだ、量子の振る舞いも、ただ起こっているだけか。『エネルギー』なんていうのは説明の為の言葉であり名付けであり概念なんだな。量子は、ただ、そのように振る舞っている。
『気』という概念もそうだな。ただ起こっていることに言葉による概念を当てて、意識というか理性を納得させてるんだな。意識は何でも理解したがり、掴みたがるから。
『起こることが、ただ起こっている』これは端的にそうであるだけで、そう思い込んで、自分を楽にしようとか、虚しく感じるとかいうものじゃないんだな。
だから、とりたてて、エネルギーという言葉を使って説明されることに対しても別に批判することはない。方便だから。
そして、実体があると思い込むことが
執着や苦しみの原因になりますね。
訪れているんだけど、みなさまのコメント
もう凄すぎて、
ひゃー!! (≧◇≦) なのです。
とてもお勉強されてるんですね!
なんか、このコメント欄だけで
本出せそうな感じ!(笑)
個人的には、アカデミックな知の分野でのご活躍を期待しています。正式な学位をとって、大学で教鞭をとられては?
コメントが盛り上がってるのは黒斎さんの懐の深さですね。ありがとうございます。
チケット関連以外では返信はありませんが、大物マスターだから仕方ありません。
黒斎さんも私のコメントに呆れている事でしょう。ごめんなさい。
ヴィパッサナーにしても、モチベーションが大切ですね。
真我は真我だけど、やっぱり腹に落ちてないから。心底わからないと意味がないかも
名前は実態がない。全ては概念、エゴ。でも腹に落ちてないから意味がない。
で、私思い出しましたよ、昔、瞑想してたら自分の魂と言われている光の玉を見たんです。
もう忘れてました。
あの頃は知識が薄くて黒斎さんの黄色本に出会う1年前だったかな。
でも神との対話見てたから少しは理解できたんですが、あの本分かりにくいのでね。
ワンネスではないにしても、真我は存在するんですから、何でも達観出来ますよ。
でね、ヴィパッサナーしながら、その真我にフォーカスしたら凄いエネルギー出て、パワフルに家事をしたりできますよ。そしてそれは意識拡大でありヴィパッサナーも捗り今ここに有りました。
体を無視しやすい感じですね。
全ての苦しみはないんです。痛みもないんですから。
聖人の話と瞑想体験をミックスさせたらふにおちました。
だから皆がないないと言って苦悩してるのは、ないは分かったが、何が有るのかを知らないからじゃないかな、もしくは知ってるけど実際に見てないから。
やはり覚醒体験しないとだめなんでしょうか。
私は光の玉だから、この身体はないし、思考も苦悩も痛みもない。
てな具合に考えてみました。
明日目が覚めたら効果なくなってたりして。
楽天に
アハ体験を誘う?パワーストーンブレスレットと言うのがありましたが
アハ体験と言う言葉は黒澤さん独自の造語だと思っていたんですが、、、
なんかビックリしちまっただよ( ̄▽ ̄)
https://m.youtube.com/?#/watch?v=Jza9z_n7Ju0
https://m.youtube.com/?#/watch?v=NRMx87tfxkE
左脳(時空間、記憶に対する認識)の機能低下による相対的右脳活性化。
こうなると外科手術による覚者も現れるかな?
理を越えし 真理もあらば
理のそと(外)の 真理もありて
永久(とわ)の道かな
昔の覚者は布施は貰うが基本営業活動はしてませんでした。
宗教のお坊さんは偽者だらけで、修行僧も昼間は真面目な顔して夜になると、酒やらタバコやら、やりたい放題。
教祖は正しくても弟子?は腐敗しています。
教祖は金銭欲自体少なかった。
今の坊さんは電車でも我先に座席キープ。
階段はエレベーターで。
スピリチュアル界では神との対話で金儲けは良い事とされたので、みんな正直に頂いています。
何か違和感はありますが、確かに理屈ではビジネスでも問題ありませんね。
しかし、ビジネスと言うことは悟りを開いた人がいたらそれはライバル企業になりますし、客も減ります。
その辺りが難しいですね。微妙な塩梅が。
小池龍之介さんは昔、ただで瞑想指導してくれてたんですが、いつの日か有料になりました。
時代が変わりましたね。
これは1つは私達にも問題あると思います。
ただで当たり前とか、金あるのに布施を出し惜しみしたり。そういう背景も影響しますよね。
でもスピリチュアルで有料って違和感はありますが、生活かかってますからと言われたらその通りだし。
黒斎さんはマスターの中でも天才ですから、うんと儲けても文句はありません。
この方は違う仕事しても成功する方だと思います。
総ては 観念の遊びの中での金儲け。
別に 止める必要もない訳ですよね?
この頃は日々自分と向き合い、紆余曲折ありますが様々な感情の中で精一杯、しかし淡々と生きています。
Jさんのような意見に同感です。
私見ですが、「悟り」は世間を対象とした生業とするより、何らかの本業の傍ら、人生をかけて日々体得されるものである方が良いと思いました。
少し「芸術」そのものの側面と似ています。
レクチャーする者・される者の関係(精神的・金銭的な授受において)は、徐々に崩壊しつつあるような気がしています。
「教師」のレクチャーはあくまで参考程度になり、自分が自分の教師となり生徒となることへの流れが来ているのではないか、その流れを皆で作っているのではないかという感じがしています。
「エゴがある以上反対の真我があって然るべき。」とありますが
エゴ(わたし)は無いって話をしてますよね?では、真我もないのではないですか?(´・_・`)
聖人が言っていることは全て正しいのでしょうか?悟っても全知を得るわけではないと以前の記事で雲黒斎さんは述べています。
「良心に従い適切な躾をして、もしかしたら私は間違ってるかも、子供の気持ちはどうか、等、心配り出来てればそれは真我」
これでは、真我は常に気持ちが落ち着かない状態ってことになりませんか?瞑想とは対極に位置する気がします。
質問ばっかですみませんf^_^;)
あの人に降りてきたものと自分に降りてきているものは同じ。でもそれが個人化されたときに付帯してる事象はぜーんぜん違う個別のことになってしまう。
記憶や個人的事象からの意味アテはまるで超テキトーでいい加減なアニメのアテレコみたいなもので降ってきたものがなんなのかわからなくしてしまう。いえいえ、よーくみるとわかることもあるのですが…
同じ骨格が降ってきてるんだけどテキトーに肉がくっつけられてしまうというか…
牛車。ナーガセーナ。ミリンダ王。自分。誰か。
くっつく肉の役割とかは、まだよくわからず「なんなんだー!」って言ってる状態です(;´∀`)
全然関係ない質問をしてすいません。
原点回帰に近い質問なのですが、
ふと思った事・・・、スピ系の本を読む意味って
あるのでしょうか?
これまで沢山のスピ本を読んできました。そして、
その度に「なるほど」とか「えぇぇ!」とか、
まぁ、色々な驚き、発見、等沢山のビックリ事実
等を経験させて頂きました。
山川夫妻、阿部さん、大和田さん、バシャール、その他もろもろ・・100冊近いです。
で、で、で。気づいたんです。
その、読んでいる最中には「なるほど!」とか、
「そうだったのか!」とか、沢山気づいたり、
するわけです。
でも、本を閉じて普段の生活を送ると、
全然そのまんまの 私がいるんです(笑)
(私はない というノンデュアルティの話を
してる時に、こんなこと言ってスイマセン)
読んでいる時には「ふむふむ」なんて心境でいられるのに、それ以外はそのまんま。
「私、そのまんまじゃないか!読んでも、読まなくても一緒じゃないのか!?」
と、いう、極当たり前のところに行きついたというか、
気づいたのです。
「あれ、読んでいる意味ないんじゃないの?」って。
それでも気づけばその手の本を手にしてしまう、
本を出版されている黒斎さんに「買う意味ないのでは・・・?」なんて聞くことはナンセンスだと分かっているのですが、スイマセン・・。
きっと、大和田さん風に言うと「意味は無い。起こることが起きているだけ」なのだと思います・・・
コメ欄ご覧の方からも、「読んでも自分が変わるわけではないのに、スピ本読む意味は何なのか?」についてお答えいただけたら嬉しいです。
ここで凄そうなことを書いてる人に感心することはありません。ほとんど、刷り込み受け売りにチョット自分流の言い直しにしたぐらいの能書きです。
もちろん僕も含まれます。
一連の動き、熱狂は、これがビジネスだからこそだというのを覚えておいて下さい。
ツンデレ喜ばし商売だってことを分かってやってる人は良いんです。
間違っても、風俗やホストクラブに行って「愛がない!」なんて悔しがるようなハメにならないように気をつけましょう。繰り返しますが、分かってやってる人は良いんです。あとあとゴネない人は良いんです。上客です。
何しろ、指一本、手一本動かすだけでも、思った通りに動かずどっかにぶつける、てのを繰り返していたので、
当然、どうすれば自分の体をコントロールできるか、考えざるを得なかったんです。
ある時ふと、思った通りに動かないなら、逆に、体に任せてみればいいんでないの?で、ただそれを感じて、
その感覚を覚えて、それから調整していけばいいんでないの?
と思いました。
それから、体の動きを感じて、覚えて、調整して、調整したつもりの体の動きをまた感じて・・・を繰り返していき、
まぁなんとか、思い通りに体を動かせるようになってきました。
以来、心身を観察癖が付きました。
疲れた時とか、ただ心身を観察するだけで、エネルギー感じたり、不調の根本が分かったりするんですよね。
今日も偏頭痛がして、まず呼吸を観察し、そうすると喉の奥に痰が絡まっている事に気付き、
会社帰りに自然と駆け足気味になり、そうすると腹にガスが溜まってる事に気付いてげっぷで出し、
その後首や肩の凝りを感じ、回すと気持ちよくて、一緒に胸や腹の奥から深いため息が出てきてと、
そう繰り返しているうちに頭痛も軽くなり、後はただ歩くのを観察している間に全く頭痛も無くなりました。
そういう意味で、心身の観察は、STAGE1でもかなり「使える」と思ってます。
有り難いお話レベルなら布施くらいが誠実で自然ですね。
悟りを確実に伝授できるなら有料でもいいですよね。
悟れなかったら返金しますみたいな。
それでも何か違和感はありますが。
昔の日蓮なんかは、本尊を全民衆に総与すると宣言。
信者から供養はあったものの、勿論無料で悟りの種の本尊を広めるために幕府に処刑されかけたり、国家カンギョウ、念仏軍団に一人でケンカ、流罪、最悪人生で、ますます地獄の中でどんどん生命力が溢れまくっていたそうです。
一方麻原は有料で己の排泄物や風呂の残り湯を飲ませていたようです。
今の坊さんは福沢諭吉を本尊にしています。
やはり自分の徳を高めるためとか日蓮レベルだと無意識に利他への願いがあるから金はいらないんだろうな。
黒斎さんもさらにレベルが上がると無料になったりして。
或いはレベルを越えたらやはり有料が真理というのもあるかも。だから今は有料なんだと。
でも案外有料より布施のが一攫千金有り得ますよね。
こんな話を鵜呑みにする人がいるのかな?と感じます。特に牛車のくだり。
精神年齢の低い人は納得するのかなあ?
つじつまがあわなくても、
優れてなくても、
負けたままでも、
非難されても、
嫌われても、
かまわない。
結局怪しいものにしてしまっているような。
社会とのバランスが取れていないと難しい。
と言ったところです(*^^*)
ただただ、楽しませて貰ってます♪
ところが依存心のあるひとが群がってきてねちっこい議論を始めてしまった、称賛されるのは気持ちが悪い、意図せず新進気鋭の教祖様になってしまった、悟りをとは反対方向だし何より自分がめんどくさいなと思っている感じですかね。
ひとに優しくして恨まれてしまった
社会のために何かしようとしてなにもできなかった
助けようとしてかえって自立を妨げてしまった
一般的に良いとされていることで真逆の結果を得たひとにとってスピリチュアルのいってることは理解しやすい。一般的に良いとされていることで良い結果を得ているうちはスピリチュアルのいってることは堕落のススメにしか聞こえない。
そんな感じじゃないかと
衣食住が満たされようと、人間関係や健康に問題が全く無くなろうと、「知的欲求」という欲だけは無くせないと思います。
よって、辛い状況に苦しんでいる人は心を安らかにするために読めばいいし、現状に満足してる人は嗜好品として読めばいいと思います。
>「私、そのまんまじゃないか!読んでも、読まなくても一緒じゃないのか!?」
>と、いう、極当たり前のところに行きついたというか、
気づいたのです。
「なんだ、そのまんまでいいんだ」
とは思いませんか?
それでも、スピ系の本を読むというのだけでも、楽しくないですか?
もしそうなら、それでいいと思うのですが。
多分『私』も、一周巡って、
「あ、なんだ、これでいいんだ、やりたい事やってていいんだ、
と言うか、やりたい事やっとくしか無いんだ」
みたいな事に気付いてる感じなんです(笑)
でも、そう知っているか、知らないかでは、全然人生が違ってくると思うんですよね。
「なんだこれでいいんだ」とか思う事によって、迷いを手放すという事を得るんです。『私』の場合。
その気付きとかが楽しくて、ここにもお邪魔しています。
左脳がなければ何も体験できないのか~。
なんとなく瞑想的になってみました。
今にいるコツが掴めつつあるのです
(´ω`*)すると…
バスが走ってるだけで面白いwww
人がいっぱいいて、バスが動いてる!
あー!そっかー!こうだったっけー!
http://www.mumyouan.com/e/eorebel.html
もう亡くなられたEOさんという方のブログです。
一部抜粋
今の瞬間、とは絶対に未知であり、それを知ることは出来ない。
それは今の瞬間においてすら知ったり、確認したり、認識は
一切出来ないのである。
しかも、それは永久に、『知られる可能性すらない』、絶対の未知なのだ。
それは和尚ラジニーシが再三語ったように『知られざるもの』なのだ。
それは、「いつか知られるようになる未知」なのでは決してない。
絶対に知ることが出来ないもの・・・
それが今であり、瞬間であり、停止であり、軸であり、静止であり、
見性、大悟、光明そのものだ。
今ここに生きている事を
否定しているのではなくて
(わたし)という実体など、どこを探してもない。と言う事ですね。
この前の記事で
何を指しているか分からなくなるって
言っていましたが
私も同じ感覚です。
「スピ本読むのに意味がある?」
というのは、思考(過去または未来)にいる気がします。
「スピ本を読みたい」
のは、「今」なのかなと。
で、観念が「意味のないことはする価値がない」という方向に、少し偏ってるのかも知れないと思います。
風俗を極めて、風俗には愛がなかった。これ深いですね。スピリチュアルは愛を説いてますから知らない私でも愛されてると思ってた。
子供すら充分には愛せないのに愛なんてあるわけないし。
周りが優しいまともな人ばかりな世間知らずが陥る罠ですね。そして人は少しづつ歪んで分離を強めて大人になっていきます。
かやともさん
絶対変化はありますよ。知識が増えるから多少は変わります。
でも覚者とか無敵とかを期待してたら全く×
有り難いお話とか死後の話とかくらいしかないからね。
深いい話をテレビで見ても何も変わらないのと同じ。
後最近のワンネス系スピリチュアルは実践的要素がありません。
人生で活かし方が難しいですね。
江原とかならまだ具体的実践的な心が説かれてますからね。
かといってワンネスがダメとか江原さんが優れているとか言いたいわけではないですよ。
私も続きが気になります でも結局落ちをみても、凄く感動はするけど、で、具体的にどうしたらいいんだろ、になりそうなパターン。
それで死ぬまでblogを見続ける事になります。
かと言って本当にためになる話だと思いますよ結局悟るか悟れないかそれだけ。
ヒントはたくさんくれてるから早く悟りたいですね。
今の日本の環境からすれば、薄給でもちゃんと社会人として働いて、その中で真理を見付けていく…淡々と生きていく、そんな至極当然なことを再認識しました。
メッセージャーを本業にしてる方の真理より、40云年リーマンを勤め上げて隠居生活してる隣家のおじちゃんの背中が、
黙って見ているだけでも何よりも勉強になる。
そんな感じでした。
檀上のメッセージャーより、隣家のおじちゃんが禅僧に見えました。
んな訳で、急に色々なブログを読むことが激減しました。
これも一連の騒動があったことによる学びになりました。
でも、黒澤さんは陰ながら応援してます。
これからこの世界がどうなるか分からないけど、頑張って下さい。
私が聖人と言っているのはラマナマハルシの事です。
つい最近知った伊勢白山がラマナマハルシをべらぼうに誉めちぎってたので極最近知りました。本も買いましたしブログも見てます。
黒斎さんの話と似ていますし、インドの最高覚者と評判です。1度検索したら面白いですよ。それで私はまだまだそちらには初心者で、アホ丸出しだったらごめんなさい。
私の話に間違いは沢山あります、御指摘有難うございます。
訂正も兼ねて私のバカ話にお付き合い下さい。
真我ってどうやら黒斎さんの言うワンネス、源だと多分思います
全ては幻で体も幻で全ては概念ですが。
一応チャクラとかってあるじゃないですか、ハートのチャクラが胸の右にあるのかな?真ん中より若干右に。目視はできません。
要するに真ん中より若干右胸のハートのチャクラがワンネスと一番近いというか、源に繋がってる部分なのかな。
そんな感じです 私も瞑想でそこに集中して私は誰だろう?と問いかけたら思考が激減しました。
これは驚くべき事でした。思考も概念も右胸から出ていたのです。
真我は気持ちが落ち着かないとありましたが、自信がないとか傲慢は心は落ち着きませんが、弱い立場の相手の心を理解したり、気持ちに沿うとか、謙虚な精神は心が凄く穏やかだと思いますよ。
虐待罪で逮捕されるかもと思慮したら混乱ですが、相手のための思慮なら慈悲ですから心は穏やかなのです。
瞑想が進むと思いますよ。
慈悲が真我かどうかは分かりませんが、瞑想が進み、真我主体になりやすい波動的な物を出していると思います。
私はまだラマナマハルシについてほとんど知りませんので間違えてるかも知れません。
ふらかぜさん
身念処いいですね。今度右胸に集中して見てください。
他の場所と雑念の出具合を調べて見て下さい。
右胸にワンネスがあってそこから全ての幻が出ているので、そこが悟りの急所のようです。
右胸に集中して私は誰だ?この意識は誰だ?という問いがよいそうです。
聖人の話に対して私の捉え方があってる保証はないしその聖人についてもまだまだ知らない事だらけですが。
更新がない間はそちらを見たりしてますが、コメントが多いと更新も滞るんでしょうかね。
更新楽しみにしています。
心が静まるからです。
普段はやりませんが。酒飲んだ翌日、射精した後や翌日、妄想生活した後。
心がソウネンを出しまくってたら呼吸集中くらいでは止まらないからです。
普段なら身念処で静まりますが幻世界での楽しいイベントの後は苦行系を活用していました。
しかし右胸瞑想は素晴らしいです。
雑念が一気に静まります。
さんまがうるさいからと言っても一向に黙りませんが口を塞いでしまえば黙ります。
妄想の出所、口にあたるのが右胸なんですね。
皆さんも試してみてはいかがでしょうか。
またワンネスについて色々知りたいです。
が問われているように思えますね。
本来仏教は布施で成り立っていたはずです。
それがビジネスとなると取引関係になるので
こういう問題はおこって当然でしょうね。
まあ今の社会では布施では生活が成り立たないのかもしれませんが。
今後この業界はどうなっていくのでしょうか。
ナーガセーナ(私)の実体は目に見えない。
ナーガセーナ(私)の実体は心でしか、見ることはできない。
たいせつなものは目に見えない。
たいせつなものは心でしか、見ることはできない。
それが無意識に落ちて何故だか人間関係が苦手な自分が完成した。
あの謝罪の記事を見て。彼はまた自我を育て始めるのかなあとか。あの
はじまりましたね!!\(^_^)/
というテンションの自分は危ういから注意しないとおけないとか思って。
自我は望んだから生まれたものなのかあと。
いろんな詐欺事件の犯人の『言い訳』を、ネットでも本でもよいので調べてみて下さい。
謝罪しつつ核心部分は正当化する。とぼける。都合の悪い指摘には、それはあなたの偏見だと言い張る。
なぜ彼が、ことあるごとに「悟っても、欲が無くなるわけじゃない!聖人君子になるわけじゃない!」と言うのか。
僕は単なる『前フリ』だと思う。何かあったときに「前に言ったじゃないですか~」と言える。支持者はそれで納得します。彼の言葉にはよく、この手の仕掛けがされています。
欲があり、聖人君子ではないことと、楽して必要以上に稼いだり、権威を保つためにズルやウソ、大げさ、ゴマカシ、ほのめかしをすることは同じではないのにね。
あ、「お金払えば、(大金ならなおさら)人は真剣に取り組む」も、そういう人もいる程度の限定的な傾向を普遍化したレトリックですね。
読む意味があるの?と聞いていらっしゃる時点で、
必要性は無いと思います。
実生活に活かしたいのに、活かせないのであれば
もう本を買う必要は無いですよ。お金かかるし。
人間はいかに生きるか、が大事だと思いますよ。
こんな宇宙の法則があるそうですよ、
どんな状況においても、感謝をして生きる事が出来れば
物事が好転していく。
その感謝が難しいのかもしれませんが。
それかただの屁理屈。
将軍様なら打ち首かもね。
あ、もちろん幕府の方のね。
わたしも心情的にはあなたと同じです。
金銭的、精神的、身体的に弱っている
人たちから大金を集めることなど、
私ならできません。
ただ、悟りに関する解釈は違います。
禅宗でも悟りは無い派、悟りは一回派、
悟りは小悟大悟何回でも派などさまざまで
悟りの定義など決まってないようです。
まして魑魅朦朧のスピリチャルの世界など
大半は勘違いで商売していると思います。
私自身以前黒澤さんの記事のコメント
に見えたまま、聞こえたままが悟りであると書き込んだことがあります。
わたしはあたりまえが悟りと思っているので悟った人が聖人君子とは思っていません。
だからほらふきがいようが悪人がいようが
不思議でないと思っています。
問題は上に書き込んだように仏教が本来からはずれてしまっているということです。
布施からビジネスになった時点で、お金を得るための様々な企みがでてくるということです。
しかし今回の騒動を契機に改善されればと思っているしだいです。
経験と努力、やっぱりこれが大切なんだと妙に切なくなりました。私にとって、道のりは長い。「目に映る~すべてのことはメッセージ♪」。昔月イチで黒沢さんが紹介してくださったこの歌の通りだと思います。お釈迦様も努力したんですよね。狭き門って聖書の言葉も頭に浮かんできます…。深刻にならずに真剣に、これ究極ですよね。
有名な店でも産地偽装が度々ありましたし、ばれてないのは20倍以上はあるでしょうね。
スピリチュアルを求めてる人は絶望してる訳だし社会生活もままならないし、無職者も沢山いそうだし。
だったら無料の人に学べば良い。
釈尊、キリスト、伊勢白山、ラマナマハルシ、123神示 黒斎さんのブログも無料です。
スピリチュアルテレビに出てた人でポテチ大好きな人がいた、その人は怒るし、蚊も殺すよ。って言ってた。
あんまり悟る意味ないかなって思った。
いじりおかだみたいな人相の人もいたし
これが悟りのかってガッカリみたいな。
悟らせ屋って仕事しながらボランティアでも出来るよな。
黒斎さんは輝いてますし理論が素晴らしいので頼りにしてますし、今後の活躍にも期待しています。
はい。少し表現が違いますが、僕は悟りと悟りに気づいた『人(個性、人格)』は別だと感じます。だからこそ、「悟りました」と言う人がいたら、それは単に不適当な表現で「悟りに気づきました」と言わければ正確ではありません。
で、あるならば、悟ったと称して以前よりもエゴが肥大しているのならば、それは勘違いか、変性意識下での躁状態か、確信犯的悪用などでしょう。
自称覚者で「命が私を生きている」と言う人もいますが、悟りは「命」と「命に生かされている私」の両方に、ただ気づいているだけであり、決して「命が私を生きている」と気づいた「私」が特別であったり、レベルアップしたりということはないのです。悟りは『心』でも『意識』でもなく、それらに気づいている気づきであり、それ以上でもそれ以下でもありません。これのどこに商品価値があるのか分かりませんが、恐らく売り買いされているのは『悟りに対するイメージや期待』なんだろうなとは感じます。
悟りに気づくのは無料で気づけますね。
そして、『私』が気づく気づかない以前に、『私』はずっと悟りに気づかれ通しですしね。まとまりなくて、すみません。完全に言葉足らずです。
そしてそのあとの「ミリンダだよ!」が
思いっきりアンジャッシュの児嶋で再生されまし。
まだ続き読んでないので最後はどうなるか分からないですが
このやり取りを小学生向けの演劇にして、小学校をまわる巡業を
やってみたいとか思ってしまいました(笑)
続き待っております!!
P.S. これの1つ前の「主観≠主体」のお話がすごくガツン!ドカン!ズワーン!ときたので(どういう擬音)
数回読み直しに戻ります!
おっしゃるとおり悟りは本来だれでも
悟りなのでありお金など一銭もいらない
と思います。
それは商品のように売買されるような
ものではないと思っています。
そういう自覚がひろがっていけば、悟りのイメージ追ってだまされる人も少なくなるのじゃないでしょうか。
今、大阪の空は青くて白い入道雲がもこもこと浮かんで見えます。
9月19日の「世界が消えた時にある世界」申し込みましたよー!
イベントに行くのは未来だけど(思考)
イベントが楽しみで胸がプルプルっと震えるのは今、ですよね?
イベントに何を着て行こうってクローゼットの服をセットアップするのは今、ですよね?
山とか川とか建物とか車とか、なんでも作れるけれど全て砂。もし蟻がそれを見たら、そんなものの概念はないから相変わらず砂にしか見えない。
いつもと凸凹具合がちょっと違うなと感じるかも知れないけど分かるのはその程度。しかし人間は記憶に基づくフィルターを通して見るので「あれは城だ」と思ったりする。
動物の死肉を焼いたり炒めたり煮たりして喰らうことはできる。
それは、金儲けが悪で
動物を殺して食うことが善だから?
では人間を殺した場合は?
善悪なんて個人の偏見で曖昧なもの、結局はないんじゃないでしょうか。
悟り講座が有料だと悪で、無料だと善ですか?
有料だとなぜ腹が立つのか?
お金をいっぱい貰っているだろうという妬み、悔しさが心の底にあるんじゃないでしょうか?
それを「他人を騙して金儲けしてるから許せない!」と無意識のうちに勝手に決めつけて無理やり正当化していないでしょうか?
他人がだまされようが、本当はどうでもいいこと。
テレビで赤の他人が殺された事件が報道されようが何とも感じないことのほうが多いでしょう。
善悪や優劣にこだわってる時点でエゴに囚われていて悟りとは程遠い状態なんじゃないですかね。
僕は使えないし、使えてる人を知らない
。
非二元を説く人も、やっぱり、自他、好き嫌い、善悪、真偽、快苦の世界で選択しながら生きている。
非二元は、この現象世界にそういう対立、区別が無いと言ってるんじゃなくて、それらがある世界、あらゆる存在、起こることすべてを含めて一元であると観る認識があり、それは『私』が消えたときに明らかになるが『私』が戻れば、たちまちそれは記憶になり概念になり観念にもなり、語ればそれを指し示す指にしかならない、掴めず、所持出来ず、他者との折り合いには使えないものなんだと感じます。
そうじゃないと言う人は実生活上での様々な人間関係、そして時間、空間に対して非二元を使ってみてください。
どうやって使うか分かりませんが。
わたしは人殺しも、金儲けも悪だと言った憶えはありませんが???
…とくに政治やスポーツなどの…
(禁句ですかねえ(;´∀`))
…そうした二元的対立があるものに実によく顕れて、美しく表現されます…
でもそうした二元的対立を私が「美しい」と捉えられるのは、非二元に多少でも触れているからなんです。そうでなければ陰陽に埋没してしまう可能性が私も大です。
以前にほかのお話のコメントでも書いたのですが、空は空間ですが、陰陽世界は空に置かれたボードゲーム盤であり将棋盤です。
人間の実体は空に居ますがボードゲームのコマの視点に移入することもできます。レースゲームの視点変更ボタンを押すように。
しかし視点変更ボタンを押して視点位置を変更している実体は空の意識ですから、実はふだんから空、非二元を使っているんです。
ボタンの存在を忘れて夢中になってしまう可能性はありますけども(;´∀`)
おっとあぶない、と思ったら視点を引いてまわりを見る(笑)私はそんな繰り返しです。
ボードゲームの盤上の視点から空を意図的に使うのは難しいです。視点を引くボタンを押すことぐらいしか私にはできません。ですが視点を引いて空から盤を見下ろすことは容易にできます。(*´∀`*)
この『わたし』を超えたところには、常に『調和の完全体』そのものがあり、
この『わたし』を超えない所には、全ての『調和』が響きあっている。
の、調和の完全体だと感じたのは、グレーの世界が3色だったんです。黒とグレーと白。白は小さめで、その3色がただただ連なっていました。それしかなかった…。
でも、それが確かにありました。
その3色が存在していて…その3色が連なっていました。
多分その色事に、真実があると、今は感じてます。
この3色が連なっていた世界がそのまま調和の完全体の形そのもので、それが=0。
それ以上でもそれ以下でもなく、そのままその形が0…。
0だから、∞ですね。
そして、この『わたし』を超えない所で響きあっている『調和』を支えているのが、奇跡なのかもしれないと思ってしまいました。
この『わたし』を超えた所には完全体のみ存在しているけど、この『わたし』を超えないところには、完全体は有り得ない訳で…
こうやって、お話が出来るのも、手も動かせるのも、耳が聞こえるのも、人とのご縁も、そして、そのご縁の中で起きている事も全部、奇跡なしでは、調和が保たれない。
調和へと連れていってくれるのも、黒澤さんと奇跡がなければ、有り得なかったf(^_^)
調和を奇跡が支える事によって、この二元が保たれてる。
そのままほっぽらかしはないとずっと感じてたので、なんだかとても勝手にすっきりしました♪
完全体じゃないから、人生を楽しめるんですね(^_-)
それに、完全体じゃないこのままで、これも全て(調和)の表現なので、これも調和にとってみればちょうど良し♪ちょうど良しではないものは現れない。
そっかあ!!
だから最初にわざと自我を造ったのかな?
あー!!なんか、勝手にすっきりしました(*^_^*)
まだ体感一年生なので、今が何でも楽しくて仕方がない時なんですかね。
難しい事はさっぱりわからないのですが、こうやって色々とただ感じてるだけで、ほんと楽しいんです♪
忙しい時に、すみません
周りに話せる人がいないので、ついついまた送らせていただきました。
お許し下さい(^人^)
あっ!!これも載せないで下さい(T^T)
感じたまま、ただ書いてるだけで、難しい事は全くさっぱりチンプンカンプンなもので、すみません(T^T)
そういえば、黒澤さん方3人で行われるお話会、間に合いませんでした。残念です。
また機会がありましたら、楽しみにしています。 (*^_^*)
ありがとうございました。
私は「一連の騒動」の内容を昨日の夜に知りました。
てっきりここのコメント欄?と思ってました
(*^_^*)
(雲黒斎さんのブログも次元上昇中。シンクロ状態だったのでしょう。)
では結論から言います。
阿倍敏郎さんの「リーラ」というブログ、本日7/15コメント欄にて、わんころさんという方に返答されている、コメントがあります。
ぜひとも、みなさんに目を通して頂きたい。
これが現代人類のたどりついた最先端のスピリチュアルのすがた。
「非二元」の二元世界でのすがた。
スピリチュアルに関わって生きる身であるならば
今、このリアルの瞬間をとくと目に焼き付けておきなさい!
スピリチュアルに身をおくそれぞれの、自由な心にて
今 を感じてきてください。
他の方のコメントも読んでただ感じたことを羅列していました。
この世界は、二元の世界なのでしょうか?
そもそも「世界とは何か?」という認識さえ人によって様々。
自他、好き嫌い、善悪、真偽、快苦の認識も人によって様々
だったら、自分が生きやすいように、都合の良いように解釈・判断して、自由に過ごせばいい
これが非二元の活用じゃないですかね。
かと言って、他の誰かが勝手に作ったルールや決まりなのだから必ず破れと言ってるわけではありません。
トラブルに巻き込まれても面倒なので、揉めそうなら合わせるのも楽に生きるための一つの手ではないかと思っています。
知ってる人は、特に誰の肩を持つ訳でもない人でも恐怖を感じたと思うけど、
以後関わりたくないと思った。誰にとは言わないけど・・
同じものが降ってきて解釈が多様に変化し、それぞれの意味が付く瞬間をたくさん見てきました。
自分は違う解釈をしたけど、ああ、そういう捉え方もあるな、という瞬間や
あるいは悪口や愚痴のようなことを言ってしまって、それが言った相手ではなくて味方(と自分が思い込んでいる人)や自分自身に多方面ヒットする瞬間も沢山みてきました。
あ、いいこともありますよ!!(;´∀`)
これも同じ言葉が、つまり同じものがやってきて多方面にさまざまに受け取られて解釈されているわけです。「自由」ですよね。(*´∀`)
世界が何元かは、それぞれに「わが世界」はありますし、他の方の世界はわかりません。
しかしこうしてこのコメント欄でご縁があるということは私の世界とも重なる部分があるということですから二元的なモデルを採用しているところもあるのでしょう。
私の場合も二元モデルを沢山採用してきたからです。
どういたしまして。
ただ起きてるだけですから。
しかし不思議ですね。
単なる文字に心が反応してしまうのは(笑)
unknownさん、ふらかぜさん、ひろさん、のんびりかめさん、皆様ありがとうございます
一つの質問に対して、色んな角度から回答いただき、
驚きました。
ひろさんの
、本を読みたい!というのは「今」起こっている事、
でも、観念がそれに対して
「意味のないことはする価値がない」という方向に、少し偏ってるのかも知れないと
おっしゃっていた事は、まさにその通りだと思いました
また、ふらかぜさんのコメントを読んでいて、今、ふと気づきました。
「そうか。ふらかぜさんの「その気付きとかが楽しくて、ここにもお邪魔しています。」その感じ凄く、いいじゃないか!素直で素敵だぁ! ん?あれ?私はどうやら「楽しい」が分からないんじゃないか?・・と(笑)
結局のところ、「本」に限らず常に、何をしていても何故か漠然と「罪悪感」
を感じておりまして、(こんな事しているべきではない)というか・・・。
その罪悪感が自分の行動にいつの間にか制限をかけているのだなぁと・・。
だからこそ、何をしても「楽しい」という気持ちが全然感じられないんだ。 という事に気づきました。「楽しい」がわからなくなっているとは、我ながらちょっと重症な気が(汗
色んな、大切な気づきをありがとうございました!
金もらって×なら警察、医者、芸人、教師、作業員みんな×ですか?
しかし伊勢白山によれば神からのお告げとか、神のパワーを使うのとかに対して金をとるのは×だとの事
蛇の霊がつき人相や振る舞いも蛇のようになり、力もなくなってくるらしいです。
何でも都合よく柔軟に捉えて、文句言われたらそっちに意見を変えてとかってゴキブリの人生じゃないでしょうか。
要するにめんどくさい、だるい、しんどい、臭い不味い汚い苦しい
それを否定してますよね。
そういうのに対してトライするところにドラマがありますよ。
メタルギアをプレイしてるなら分かりますが
自分に負ける人は誰からも相手にされなくなりますよ。
病院行きになってしまいます。
黒斎さんとか悟ってる人はいんですが、悟ってない人は自分で見てもないのに何でそんなに自信あるんだろう。
口では達観して見下ろしても、実際には生活に追われてるだけ。
飯が一食なかっただけで空腹にがまんならない、反対意見にぶちギレ、劣等感、不安、ショック、歯医者に行くのが怖いから行かない、ナンパできない、クーラーないと死ぬ、テレビつけないと落ち着かない、痩せたいやりたい飲みたい。
居心地のいいとこだけを探して歩いてるだけ。
悟りとはこんなものではないでしょう。
金がなくても困らない。
キリストはわざとはりつけにされましたよ、手に釘を打たれましたよ。 執着も生存欲もない。痛みも恐怖もない。あっても少ない。
釈尊があーだこーだわめいたり動揺する事はない。
ポテチは身体に悪いし意識拡大してる人なら下品な味とわかります。
玉に食べることはあってもスピリチュアルテレビみたいにストックして自慢までするのはおかしい。
釈尊がポテチ好きとかあり得ません。
大体人相みたらわかります。
素晴らしい人は素晴らしい顔です。いい顔してます。
おかしな思想を持ってたら貧相になりますよ。
それって非二元を概念化してリフレーミングしてるだけじゃないですか?自己啓発や心理療法のリフレーミングと、どう違うんですか?もちろん、個人がモノを観るときにどのように心理操作しようと、その人の勝手ですが、僕が言ってるのはそういう意味じゃないです。
また、『空(くう)は空間』とも言ってますが、なにかの間違いですか?
そもそも幻とか非次元とかの話をしていますが、世間では世間話にもなりませんよ。
病院行きになってしまいます。
私の周りもこれが現実。
一瞥を垣間見た人には大和田さんもいいけど、見てない人、興味無い人からすれば「?」が本音だと思う。
その辺の伝え方のバランスが黒澤さんはうまいんだと思う。
私は日常を全く従来通りふつうに過ごしていれば二元に気づくことですら稀です。他の方はわかりません。
空は空間、スペースです。間違いではありません。
私には自分の世界を知ることしかできませんので、カゲマンさんの世界が二元モデルを採用されているのか私には想像のしようもありませんし、わかりませんけれども。
本当は
「私は在る」ともいえるし「無い」ともいえる。
これが0ゼロ。ふたつではない、真のひとつ。
現在のスピ界は
私はいない。あなたもいない。の無。
起こることがただ起きている
というスピリチュアル理論
個の世に投じたときに起こる不自然。
阿部敏郎さんの遅延が原因で、個人情報を晒された方がいる。そのことで恐怖を感じての生活を送られた。
その方の心情をくみ取れない。察しない。こころ配りできない。痛みをわかってあげれない。
非二元という片方世界にしか身をおかない現代の最先端のスピリチュアルの 今 を見て欲しかったのです。
僕は一元も二元も否定してないですよ。
それは、二元の世界で僕が『ネガティブに感じたりポジティブに感じたりすることがある』ということをも含みます。それが二元だと受け入れている、というか、もう、そのように生きてます。ただ、具体的に他者と僕のあいだで利害損得(例えば、金を貸したが返済されないとか、借りたが返済できないとか)が発生した場で、非二元の話などしないし、しようとも思わない。起こることが起こるとか、あなたも私もいないとか、損も得もないとか…この対立も素敵ですねとか、そんなやり取りがマジメに成立するのは、カルトの閉鎖的共同体ぐらいじゃないかな。
あと、やはり『空が空間』というのは理解不能です。本当にわからないんです。空間ならば限界があるわけで、時間もあるわけで、始まりも終わりもあることになりますが。それが空とは、どのような見解なんでしょうか。
この宇宙のどこかに空という空間があるわけですか?
禅は自分を追求する最高の方法であるはずなのに、日本で結局広まらないこと、禅宗自身が一般市民に広めようとしなかったこと、キリスト教においてのいわゆる宗教革命が起こった原因の一つが想起されます。宗教が現在に至るまでひきずってきた負の側面、そのままです。
あくまで私の経験からの話ですが、非二次元、この世の本質は一元であるとわかっている人ほど、五蘊を理解して人に接しているんですよね。私の道のりは長いですわw
悟りや気づきみたいなものは起こるときに起こると思います。
内も外も同じなのに、外側に何かを求めても仕方ないし、ましてや悟りや気づきを起こすために外側に何か頼れるモノがあるように見せかけるのはなぜなんだろう、と思います。
黒澤さんがなんども書いておられた、一緒に学びたいからこのブログがある、というスタンス、とても好きです。
確かに利害損得・借金のやり取りの現場などで「あなたも私もいない」とはなりません。(;^ω^)
そうですよね。そんなこと突然言い出しても…というのは理解できます。
あまり例え話ばかりでも分かりにくくなるかもしれませんが…友人から借金をして返せず困っている場合には「借金して返せなくて困りたいんだ」…と。
逆に貸して返ってこなくて困っている場合には「お金が返ってこなくて困りたいんだ」…と
当人同士が思っています。
エエエエエ(;´Д`)と思いますよねえ。私も思います。私も借金で苦しみました。ええ(笑)
それで互いに「じゃあ、お前の望みを叶えよう、ちょうどいいな」と互いに了承する瞬間があるんです。
奇妙なことですが、こういうことに気づく瞬間があるわけです。希望に沿ったそういう引き合わせとか調整みたいなことが行われる。
でもこれは、ぶどうのふさの位置でわかるわけです。ぶどうの実のまん丸の位置ではわからない。
また、ふさまで遡ってみてもぶどうの実は相変わらずぶどうの実として現存しますから、ぶどうの実レベルでの貸主、借主の関係は変わらないわけです。2つのぶどうの実のいっぽうは、もう一方のぶどうの実ではありませんから、そこは相変わらずです。
なので多くの覚者さんもブドウのふさ以上の部分を「(ぶどうの実とは)意識の大きさが違うから」「レベルがまた別にあって」のように、日常とは違う意識レベルがあるかのように方便を使うことが多いです。便利だから(;^ω^)
実際には世界の境目はないも同然なのですが、ぶどうの実というものは実在します。
実のレベルで決めた約束ごとは実に対しては有効です。
さらに言うと、実からふさまで遡っても「お前らの望み通りだ」「よかったなー」「素敵だなー」とニコニコしているわけですよ。ふさの辺りでは(;´∀`)
空について。
空というのはここで言うぶどうのふさの位置以上のことです。一(実)対一(実)、一(実)対多(実)の2次元平面で表せる関係を超えた領域です。
「単なる勝手な心象風景ではないか」と思うかもしれませんが、これがどうも実在するようです。
実のレベルから、ふさよりも上(根っこより)に行くと、別の実の元レベルとつながりますよね。そうするとある関係性のなかでの自分(実)の元レベルと相手(実)の元レベルが一緒の存在であることに気づくわけです。
というか、一緒の存在であるから気づくわけです。同じものが降ってきてることが、同じふさである場合、元を辿ればわかってしまうからです。
なので立体的なつながりそのもの≒ 空間という意味で空間という言葉を使いました。
申し訳ありません。ぶどうの例えも、空の説明もよく分かりませんでした。
ちょうど黒澤さんが記事にされてる問答にあるように『あらゆる存在、出来事は、様々な関係性で成立しているので、それ自体に実体は無い』ことを『空(あらゆる存在に実体は無いよ)』と言うと思うのですが…。
もう、終わりにしましょう。ぶどうの例えもジックリ考えてみます。
黒澤さんもありがとうございました。
いや…黒斎さん…かな?
「空」という言葉は、ものすごくよくできた言葉であると思います。
「関係性で成立しているので実体は無い」んです。
ぶどうの木のつながりは関係性です。
実と実、ふさ、風、空気、水、光。ぶどうのふさというモノ
自分はふさだった、木だった、土だった、アレ?アレ?となったりもするわけです。
突然なんの説明もなく「ぶどう」を出すなど、舌足らずのところがあり申し訳ありませんでした(;^ω^)
楽しかったです。(*´∀`)
今までも彼と同じように思ってブログに書いたり、そのまま黙って引き下がってきた方が多数だろうけど、
一時的?でも黒澤さんやさとうみつろうさんも抑えての影響力は(勿論気持ち悪い波動といいながら、ググった人の数もあるだろうけど。ワタシハソウハオモワナイ)、
同じ一般人の自分が出来るとは思わない。
彼は彼でかなりパワーのある方なんだと感心した。
それはナゼ?悟った誰かが言ってたから?悟っても全知を得るわけではないのだから、私なら根拠がないと納得出来ませんね。
「何でも都合よく柔軟に捉えて、文句言われたらそっちに意見を変えてとかってゴキブリの人生じゃないでしょうか。」
例えがよくわからないf^_^;)ゴキブリにそんな性質あるんですか?
「要するにめんどくさい、だるい、しんどい、臭い不味い汚い苦しい、それを否定してますよね。そういうのに対してトライするところにドラマがありますよ。」
そのドラマに意味はありますか?
・厄介事をクリアして得る充実感
・快適に過ごして得る充実感
優劣なんてありますか?
同じ充実感なら、私なら快適に過ごして充実感を得たいですね。
そのために柔軟に捉えることはとても効率的なことだと思うわけです。
わざわざ苦労する必要はないでしょう。
何故この考えを持っていると誰からも相手にされなくなるのでしょう?
私はいっぱい苦労したのだからお前も苦労しろ!という嫉妬心から?
それとも、理解ができないことからの恐怖心から?
そんなに悪く見えるもんですかねぇ(´・_・`)
どれも日本人が好きな言葉だけど思いの外中身がない
これらはじゃあ今何をするかという内容が一切入ってないから
絵描きだったら線を一本描く
配管工だったらネジを締める
主婦だったら食事の支度をする
会社員だったら会社に行って仕事をする
人それぞれ今の瞬間やることというのは違う結局ブログを読んでも戻っていくのは各個人の具体的な世界。
「やっぱり人間真面目にいきるべきなんだ」
となんかの記事をみて思ったとして、それでもまた記事を探すのは、あまりに中身がないから。自分の目の前のことに応用できるもっといい記事があるのではないかと思ってしまう。
おまけに漠然としてるうえに辛さを連想させる。これはこれらを心に刻んだ時人生を可能性のない制限の中でいきるべきと解釈させる。
決心すればするほど気分は重苦しくなる。最初はそうでなくても年々そうなっていく。そしてまた救いを求める。
どうせ漠然としてるなら
楽しもう、ラクに行こう、淡々とやれることをやろう、工夫しよう、いいところを探そう、
のほうが、こころに刻むには長期的には良い。
はっきり言ってこれらも抽象的で役に立つかどうかはわからないが、重苦しいスローガンよりはずっと自分を救ってくれる。楽しい気持ちが今自分の心身を害することはないからだ。
現実で起こってしまったことに関して自分がどうこうできることは少ないし、自分だけのせいであることも少ない。真面目に背負うほど周りに迷惑をかけることのほうが多い。
努力信仰者は自己責任信仰者でありかなりの割合のことを自分でなんとかできるという傲慢さも持っていると思う。
そういうことだったんだ。