いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
マトリックス.9
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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【chapter.11/ネブカドネザル号のメンバー】
「ようこそ。現実の世界へ。」
ザイオンまでの地底を進む老朽船「ネブカドネザル号」で目を覚ましたネオ。
この「ネブカドネザル号」は、旧約聖書に登場する「ネブカドネザル2世」という人物から名付けられたものだと思います。
ネブカドネザル2世は、エルサレムにあったユダヤ教の寺院を略奪、破壊した新バビロニアの王。
なぜこの船に彼の名が付けられているのか、その理由は僕には紐解けませんでした。
どなたか、旧約聖書に詳しく「ダニエル書」とこの映画との関連性に気付いた方がいらっしゃいましたら、ご教示願います。
…
ベッドの上で目覚めたネオは、自分の身に何が起こったのか、まだよく理解できていません。
「俺は死んだのか?」
「いや、その反対。“新しい誕生”だ。」
アンダーソン改め「ネオ」。まさに「新」を意味する言葉ですよね。^^
これは、一度“目覚め”を体験すると、その意味がハッキリとわかります。
本当に「新たに生まれてきた」というニュアンスがしっくりくるんです。
それゆえ、この前のチャプターは「出産」を想起させる演出で描かれていました。
そして、続くこのセリフ。
ベッドの上で治療を受けているネオ。
「何をしている?」
「退化した筋肉の再生だ。」
「目が痛い。」
「初めて使うからな。」
“目覚め”を経験すると不思議な感覚が訪れます。
自分はこれまで確実に「生きていた」はずなのですが、実は全然「生きていなかった」ということに気付くんです。
僕も、齢30を過ぎて初めて「生きる」という事を実感しました。
視覚だけに留まらず、聴覚、嗅覚、味覚、触覚…そして、それらを超えて広がる壮大な世界との一体感。その全てが研ぎ澄まされ、圧倒的な『生命力』に驚愕するんです。
「生きるとは、こういうことだったのか!! “見る”とは、“触れる”とは、“感じる”とは、こういうことだったのか!!」
見ることも、聞くことも、味わうことも、ずーっと「感じているつもりでいただけ」だったことに気付くんです。
自分の中に秘められていたその機能が100%発揮された状態。それはまさに、自分に備わっている感覚器を「初めて使う」感覚です。
体中を駆けめぐる血流の音がありありと聞こえ、内臓の様子まで手に取るように“見える”という不思議な状態。
自分の中に流れる『生命力』を通して、喜びや安堵が、自分の奥底からあふれ出してきます。
さて、映画のストーリーへと戻りましょう。
目を覚ましたネオの前に見えるのは、先ほどとは全く異なったクルー達の姿。
あれほどスタイリッシュな衣服をまとっていたはずのモーフィアスも、トリニティも、その他のクルー達もみんな、質素で飾り気のない姿になっているのです。
そう。
マトリックス(幻想世界)は、自分を「着飾る」ことで作り上げられる「後付けの個性」が重要視されている世界です。
その世界では、男は男らしく、女は女らしく、子供は子供らしく、老人は老人らしく、社長は社長らしく、学生は学生らしく、賢者は賢者らしく、主婦は主婦らしく…と、その境遇・肩書きに相応しい姿を強く求められます。
アナタもきっとこれまで「お兄ちゃんなんだから、もっと逞しく。」とか、「女の子なんだから、もっと慎ましく。」、「社会人なんだから、もっと常識的に。」、「学生なんだから、もっと真面目に。」…などのように事あるごとに“その役割・肩書きに相応しいイメージ”を要求されてきたことと思います。
その世界にどっぷり嵌り込んでしまうと、今度は「もっと私らしく」と、自らの手で「個性(自我の作り出す自己イメージ)の後付け」をすることになってしまいます。
その人の「ありのまま」に根付いた姿ではなく、「役柄」に対しての佇まいが要求されている世界。
マトリックスに繋がれた者達は、その人の「ありのままの姿(本質)」ではなく、肩書き・役割に見合った「イメージ(幻想)」を見ているんです。
マトリックス(固定概念・先入観など、思考によって作り上げられた価値観)の呪縛から解き放たれた者達は、着飾ることもなく、自分を演じることもなく、何者でもない、ありのままの姿で向かい合うことが可能になります。
ヾ(≧▽≦)ノ あ~。「何者か」を演じずに、「ありのまま」で生きるって、なんて楽なんだろう♪
しかしながら、そんな「何者かを演じない生き方」は、マトリックス内では「奇異」の眼差しを向けられ“エージェント”に狙われる羽目になってしまいます。
ヾ(;▽;)ノ あ~。「何者か」を演じずに、「ありのまま」で生きるって、なんて大変なんだろう♪
←「読者は読者らしく。」なんて押しつけはいたしません。
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【chapter.11/ネブカドネザル号のメンバー】
「ようこそ。現実の世界へ。」
ザイオンまでの地底を進む老朽船「ネブカドネザル号」で目を覚ましたネオ。
この「ネブカドネザル号」は、旧約聖書に登場する「ネブカドネザル2世」という人物から名付けられたものだと思います。
ネブカドネザル2世は、エルサレムにあったユダヤ教の寺院を略奪、破壊した新バビロニアの王。
なぜこの船に彼の名が付けられているのか、その理由は僕には紐解けませんでした。
どなたか、旧約聖書に詳しく「ダニエル書」とこの映画との関連性に気付いた方がいらっしゃいましたら、ご教示願います。
…
ベッドの上で目覚めたネオは、自分の身に何が起こったのか、まだよく理解できていません。
「俺は死んだのか?」
「いや、その反対。“新しい誕生”だ。」
アンダーソン改め「ネオ」。まさに「新」を意味する言葉ですよね。^^
これは、一度“目覚め”を体験すると、その意味がハッキリとわかります。
本当に「新たに生まれてきた」というニュアンスがしっくりくるんです。
それゆえ、この前のチャプターは「出産」を想起させる演出で描かれていました。
そして、続くこのセリフ。
ベッドの上で治療を受けているネオ。
「何をしている?」
「退化した筋肉の再生だ。」
「目が痛い。」
「初めて使うからな。」
“目覚め”を経験すると不思議な感覚が訪れます。
自分はこれまで確実に「生きていた」はずなのですが、実は全然「生きていなかった」ということに気付くんです。
僕も、齢30を過ぎて初めて「生きる」という事を実感しました。
視覚だけに留まらず、聴覚、嗅覚、味覚、触覚…そして、それらを超えて広がる壮大な世界との一体感。その全てが研ぎ澄まされ、圧倒的な『生命力』に驚愕するんです。
「生きるとは、こういうことだったのか!! “見る”とは、“触れる”とは、“感じる”とは、こういうことだったのか!!」
見ることも、聞くことも、味わうことも、ずーっと「感じているつもりでいただけ」だったことに気付くんです。
自分の中に秘められていたその機能が100%発揮された状態。それはまさに、自分に備わっている感覚器を「初めて使う」感覚です。
体中を駆けめぐる血流の音がありありと聞こえ、内臓の様子まで手に取るように“見える”という不思議な状態。
自分の中に流れる『生命力』を通して、喜びや安堵が、自分の奥底からあふれ出してきます。
さて、映画のストーリーへと戻りましょう。
目を覚ましたネオの前に見えるのは、先ほどとは全く異なったクルー達の姿。
あれほどスタイリッシュな衣服をまとっていたはずのモーフィアスも、トリニティも、その他のクルー達もみんな、質素で飾り気のない姿になっているのです。
そう。
マトリックス(幻想世界)は、自分を「着飾る」ことで作り上げられる「後付けの個性」が重要視されている世界です。
その世界では、男は男らしく、女は女らしく、子供は子供らしく、老人は老人らしく、社長は社長らしく、学生は学生らしく、賢者は賢者らしく、主婦は主婦らしく…と、その境遇・肩書きに相応しい姿を強く求められます。
アナタもきっとこれまで「お兄ちゃんなんだから、もっと逞しく。」とか、「女の子なんだから、もっと慎ましく。」、「社会人なんだから、もっと常識的に。」、「学生なんだから、もっと真面目に。」…などのように事あるごとに“その役割・肩書きに相応しいイメージ”を要求されてきたことと思います。
その世界にどっぷり嵌り込んでしまうと、今度は「もっと私らしく」と、自らの手で「個性(自我の作り出す自己イメージ)の後付け」をすることになってしまいます。
その人の「ありのまま」に根付いた姿ではなく、「役柄」に対しての佇まいが要求されている世界。
マトリックスに繋がれた者達は、その人の「ありのままの姿(本質)」ではなく、肩書き・役割に見合った「イメージ(幻想)」を見ているんです。
マトリックス(固定概念・先入観など、思考によって作り上げられた価値観)の呪縛から解き放たれた者達は、着飾ることもなく、自分を演じることもなく、何者でもない、ありのままの姿で向かい合うことが可能になります。
ヾ(≧▽≦)ノ あ~。「何者か」を演じずに、「ありのまま」で生きるって、なんて楽なんだろう♪
しかしながら、そんな「何者かを演じない生き方」は、マトリックス内では「奇異」の眼差しを向けられ“エージェント”に狙われる羽目になってしまいます。
ヾ(;▽;)ノ あ~。「何者か」を演じずに、「ありのまま」で生きるって、なんて大変なんだろう♪
←「読者は読者らしく。」なんて押しつけはいたしません。
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