コメント
 
 
 
あれ!? ()
2017-08-07 10:30:34
トーク会いけなかったので、動画見たかったのですが有料なのですね…。
でもぜひ、見てみたいと思います!

悟りと成功哲学の融合がこれからの潮流なんでしょうか。

ノンデュアリティや目覚めで、とても分かりやすいおススメの覚者さんがいます。
今月本を出されるのですが、それもまさに悟りと引き寄せをテーマとしているらしく、見事なシンクロに驚いてます。
(引き寄せからハートへっていう本で、私もすでに予約してます)


これまで自分の中では真逆の位置づけでしたが、動画と合わせて勉強させていただきます。

 
 
 
その動画見ました (黒斎さーん^^)
2017-08-07 12:44:02
その動画冒頭だけ見ました。
凄いおもしろいです^^
つづき楽しみにしてます
というのは
見ると寝てしまうから何回かはじまりの辺だけを聴いている。。

こくさいさんは収入がもうちょいって感じなのかな?こくさいさんがいっぱい儲かりますように!
わたしも、あべさんもね^^

しつこいけど
わかりかけのレイディオまたやってほしい
一番の楽しみ、癒しでした
だっておもしろいんだもん♡♡

日本の暑い夏、セミの声、花火、団扇、風鈴、
母さんのキュウリのぬか漬け、父さんがお庭で育ててるゴーヤ
畳の上でお昼ね
したいです 
まだまだあるよ〜

今年はわたしは夏はなかった?
だってもうまじで

すでに秋ファッションです 笑
もう夏は終わった 笑

日本の暑い夏ー
引き寄せたい(⁰▿⁰)◜✧˖
 
 
 
Unknown (ともこ)
2017-08-09 16:52:31
たぶん、感覚が優先しすぎて、言葉にするのが
苦手なんです

これは、昔からなんですが^^



引き寄せの動画、拝見しました

阿雲のお二人×奥平さんのトーク、とても楽しかったです

引き寄せというとどこか作為的なイメージがありましたが見方が変わりました

非二元と引き寄せの共通点・・・

もう少し、深く知りたくなりました









 
 
 
ありがとございます〜 (白い稜線)
2017-08-09 20:38:58
黒澤さん、お知らせありがとございます〜
ダベリバの日にちが難しそうなので、出来れば三鷹のライブにお邪魔したいと思っております〜
感謝です!
 
 
 
ほとんど見ました! (黒斎さーん^^)
2017-08-10 14:10:26
久しぶりに雲さん登場!うれしー♡
黒斎さんのお話はおもしろい、聴き心地がいい。
もっとお話ききたいです。

 
 
 
ふと試しに「先祖供養」と検索してみた (広島東洋哲学)
2017-08-11 09:16:36
時期が時期ということもありブログ内の検索で「先祖供養」と入れてみた。

先祖供養自体意味などない、供養しないからといってバチなど当たらない的な説明をなんとなく期待していたが、おかげで結果「罠」という181コメントを記録している7年半以上も前の記事を読むことが出来た。

この記事の内容が腑に落ちているかどうかで、それ以降の記事の捉え方も変わるであろうシンプルでかつ答えそのものが書かれているはずの記事だったが、この内容が腑に落ちている方への言葉とそうではない方への書き分けは本当に難しいだろうなと感じた。その内容の詳細、補足を書けば書くほど「エージェント・スミス」を相手にしているだけなのだから。

企画ものみたいになるかも知れないが、こういう今となっては隠れた名記事となった過去記事をコメント数、アクセス数のベストテン形式で順次再アップしていくのも面白いかなと思った。当時と今と集まるコメントの内容に変化があるかどうかも確認出来たらと思うので。
 
 
 
Unknown ()
2017-08-13 23:39:40
あのさー黒斎さんのんびりしすぎー
早く更新してくれー
黒斎さんならではの真理のお話とか
聴きたいんだよねー

もういい加減にしてねっ^^
 
 
 
ラブ、安堵、ピース (めい)
2017-08-14 01:54:33
こくさいさん こんばんは **

いま オーディオブック
1枚目 きき終わりました。

本で読ませてもらっていたけど
ひろがる世界観に
お話の中に引きこまれるみたいな感覚で
たのしくきかせてもらいました。 ✩

お話の中では とくに 第11章が
こころに響きました。

**

お話会 今月は行けるといいです。 ✩
 
 
 
雲さんに質問🙇 (Unknown)
2017-08-14 02:25:40
この間、現代社会の授業を受けていて気になることがありました。
最近は医療器具が発達してきたので、脳死でも機械でなんとか体を生きさせることができるようになったみたいなのですが、
その場合、どこからを死と考えるか、という問題について。
「あの世に聞いたこの世の仕組み」では、体をレンタカーに例えてレンタカー屋さんが期日に迎えに来ると書いていましたが、
もし脳死で機械によって身体だけ生き延びてた場合だと、魂は体によってあの世に行けないのですか?成仏されなくても魂だけ抜けてあの世に行くのですか??
 
 
 
閑話休題 (スピリチュアルにひたすら質問、批判を繰り返す人は「愛」も言葉に出来ない、証明出来ない、だったら愛なんて嘘、存在しないって言うんだろうか?)
2017-08-14 13:45:51
スピリチュアルに批判的な人ほど単に「愛」を知らないだけの話なのでは?ということに気が付いた今日この頃。愛を知らない人間ほど「私をもっと愛して、ムキーッ」って色々屁理屈並べて書き込みをしてるように見えて仕方がないという話であり、「愛を説明しろ!」と言われて「そりゃ無理だわ、あなたが気が付かないと」という話です。
 
 
 
 ()
2017-08-14 16:44:28
ちょっと待って。

否定的だからといって、「嘘・存在しない」と主張しているとは限らないのでは?

少なくとも私は、「証明できないのなら断言するべきではない」と思いますよ。

わかりますか、もう一度言いますよ。「断言するべきではない」と思いますよ。

現状、存在することを証明することが不可能で、且つ、存在しないことを証明することも不可能な場合、わざわざ白黒つけて強弁する必要はないと思うわけです。

白黒つけられるのは証明できた時でしょ?

そして、それを主張する者がそれについて証明できるか否かは確認しなければわかりませんよね?

だから質問するわけです。「何故、そう思ったの?」と。

ちなみに、愛は言葉で説明できますよね。だって、辞書に載ってんだもん。(笑

思い込みが激し過ぎでは?統合失調症の可能性もあるし、病院に行ってみては?
 
 
 
愛という日本語の定義の説明ではなく (Unknown)
2017-08-14 19:52:32
「貴方」が「愛されていること」を他人に言葉のみで「証明」出来るのかという話なんだが。
 
 
 
えぇ!?そんな話だったの? (Unknown)
2017-08-14 21:36:00
あの文章からはそんなこと読み取れないと思いますよ。

やっぱり、思い込みが激し過ぎませんか?

ちなみに、貴方の問いに答えると、

現状、愛されていることを証明することが不可能で、且つ、愛されていないを証明することも不可能なので、わざわざ白黒つけて強弁する必要はないと考えます。

貴方は、私が誰からも愛されていないことを証明できますか?(笑

貴方自身が私を愛していないことは証明できるかもしれませんが、他の人が私を愛していないことを私の知人全員に確認するのはムリでしょ?
 
 
 
と言ってるのと同じ (Unknown)
2017-08-14 23:31:05
現状、気づきを得たことを証明することが不可能で、且つ、気づきを得ていないこともを証明することも不可能なので、わざわざ白黒つけて強弁する必要はないと考えます。

貴方は、私が気づきを得ていないことを証明できますか?(笑

他の人が私が気づきを得ていないことを私の知人全員に確認するのはムリでしょ?
 
 
 
条件付き「証明できないのなら断言するべきではない」 (棚に上げれば何とでも)
2017-08-14 23:34:20
貴方の場合正確に言えば「証明できないのなら断言するべきではない」ではなく「『言葉』で証明できないのなら断言するべきではない」。

「愛」を例えとして言えば、「愛されていること」を言葉で他者に証明、説明など出来なくても「私は愛されている」で十分であり、もしくは言葉などいらない、ただ愛されていると自分が「思えれば」それが真実、愛の真理なのだと私は考えるが、あなたは「他者に証明できないのなら断言するべきではない」と相手が享受している愛に対し横から「愛されてるなんて断言して白黒つけるな。愛されてる『かもしれない』と他人には言えw」と言っているようにしか毎回見えない。

世の中には愛の存在のように「言葉で証明出来なくてもその存在を各人確信、断言しているもの」があるにも関わらず、なぜ他人の貴方がそれを踏まえないで毎回言葉による証明のみを正解とする前提の質問を繰り返し、相手を否定出来るかのかがどうしてもわからない。

論破の先に愛の証明などは決してない。

だから貴方のことを「愛を知らない人なんだろう」と思ったのです。
 
 
 
というか (宙さんさあ)
2017-08-15 00:04:23
なんで別に貴方宛でもない他人のコメントにいつもいつも絡むの?何年そんなことやってんだ?

「スピリチュアル批判する人」って別に貴方以外にいるだろうに真っ先に自分のご指名だと思って論破しに絡んでくることこそ「思い込み」でしょうが。

頼むから絡まないで下さい。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-15 20:43:15
>現状、気づきを得たことを証明することが不可能で、且つ、気づきを得ていないこともを証明することも不可能なので、わざわざ白黒つけて強弁する必要はないと考えます。

いや、だからさ、だからこそ「気づきを得た」と断言するのはおかしくない?ってことだよ。


>貴方の場合正確に言えば「証明できないのなら断言するべきではない」ではなく「『言葉』で証明できないのなら断言するべきではない」。

いやいや、証明できるなら別に言葉じゃなくてもいいと思いますよ。証明できるならね。

>「愛」を例えとして言えば、「愛されていること」を言葉で他者に証明、説明など出来なくても「私は愛されている」で十分であり、もしくは言葉などいらない、ただ愛されていると自分が「思えれば」それが真実、愛の真理なのだと私は考えるが、あなたは「他者に証明できないのなら断言するべきではない」と相手が享受している愛に対し横から「愛されてるなんて断言して白黒つけるな。愛されてる『かもしれない』と他人には言えw」と言っているようにしか毎回見えない。世の中には愛の存在のように「言葉で証明出来なくてもその存在を各人確信、断言しているもの」があるにも関わらず、なぜ他人の貴方がそれを踏まえないで毎回言葉による証明のみを正解とする前提の質問を繰り返し、相手を否定出来るかのかがどうしてもわからない。だから貴方のことを「愛を知らない人なんだろう」と思ったのです。


「ただ愛されていると自分が「思えれば」それが真実、愛の真理」というのは単なる貴方の感想ですよね。それを真実・真理なんて言っちゃてるところに違和感を覚えるんだよなぁ。自分が愛されてると思っていて、相手が密かに嫌っていた場合、真実って言えますか?

「愛されてる『かもしれない』と他人には言えw」と言いたいのではなく、証明できないのだからその事について断言するのはおかしいよね?、取り立てて言う必要もないよねってことです。『愛されてるかもしれない』、『愛されてると思う』だと何が問題なんですか?

てかね、別に何が何でも断言するなというわけではなく、根拠がないことを甘んじて受け入れるなら別に断言しても問題はないと思ってるんですよ。

例えば、私がどうしてもどうしても「私は愛されてる」と断言したくて断言した場合、そう思った理由を答えるとしたら「根拠はないけどそう思ったから」と答えると思います。理由に根拠がないのだから証明なんて必要ありませんよね。聞いたほうも納得せざるを得ないですよね。簡単な話です。

しかし、君らは「愛を知らない人」だとか下らないレッテルを貼ったり、「愛の真理」がどうとか「論破の先に愛の証明などは決してない」だとかわけのわからないこと言いだして誤魔化すばかり・・・

「毎回言葉による証明のみを正解とする前提の質問を繰り返し、相手を否定出来るかのかがどうしてもわからない」と言っているが、別に言葉以外で証明できるなら、その他の何で証明できるのか言えばいいだけなのでは?


>なんで別に貴方宛でもない他人のコメントにいつもいつも絡むの?何年そんなことやってんだ?
「スピリチュアル批判する人」って別に貴方以外にいるだろうに真っ先に自分のご指名だと思って論破しに絡んでくることこそ「思い込み」でしょうが。頼むから絡まないで下さい。

「貴方以外にいる」ってことは私も含まれると貴方も思ってるんでしょ?じゃあ、私が反論してもおかしくないのでは?

私としては、絡んだり、論破したりした覚えはありませんよ。

貴方こそ、頼むから絡まないで下さい。
 
 
 
「証明できないのなら断言するべきではない」への違和感の理由 (Unknown)
2017-08-16 02:38:02
この言葉に対する「気づき」は証明出来るという前提が、「気づき」を得てない人間達によって設けられているということにまず違和感を感じる。

ブログ主を含め、「気づき」を得たとする各メッセンジャー達は「気づき、悟りは証明は出来ない、本人が目覚めない限り」という立場のはずなのに、なぜそれ以外の気づきを知らないはずの人間達が、「まず証明ありき」という「条件」を持ち出すことが出来るのか?

そもそも、気づきはあると断言するかしないか、気づきを得たメッセンジャーだから口に出来る権利であり、またそれを周りの人間が疑問を持つのも自由なはずでそこまでは理解出来るが、なぜさらにメッセンジャー、気づきを得たとする本人に「断言するな」と言えるのかその理由がよくわからない(メッセンジャーへの「断言するな」は疑いではなく否定であり批判の意味になる)。

「証明できないのなら断言するべきではない」は冤罪事件のような常に第三者にも因果関係がハッキリとした事案の例では有効な言葉だろうが、気づきを得た、得ていないなどという因果関係すら成り立たない話には不適な言葉だと考える。

スピリチュアルに対する「断言すべきではない」という言葉は、まず「気づきは証明出来る」とその理由を説明できずにそう「断言」している、「気づきを得ていない人々」に向けられるべき言葉ではないだろうか?
 
 
 
Unknown (めい)
2017-08-16 12:28:22
こくさいさん

身を守ること を 教えられてきて
そういうツギハギ いっしょうけんめい
身につけてきてたのかな と
ふと いま 思って
そうしていたら
こくさいさんの
ブリーフのお話
思いだしました。

きょうから 高知へ
帰ってきます。 **
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-17 09:21:54
>この言葉に対する「気づき」は証明出来るという前提が、「気づき」を得てない人間達によって設けられているということにまず違和感を感じる。ブログ主を含め、「気づき」を得たとする各メッセンジャー達は「気づき、悟りは証明は出来ない、本人が目覚めない限り」という立場のはずなのに、なぜそれ以外の気づきを知らないはずの人間達が、「まず証明ありき」という「条件」を持ち出すことが出来るのか?

「気づき、悟りは証明は出来ない、本人が目覚めない限り」ってのは単なる感想でしょ?その自称メッセンジャー達だって全てを知っているわけではなく、分からないことだって当然ありますよね。ならば、その感想を鵜呑みにする必要はないですよね。

例えば、飛行機を知らない大昔の人に「人間は空を飛べるか?」と聞いたとしたら、大抵は無理と答えるでしょう。しかし、現在では飛べるわけです。

現状、その自称メッセンジャー達が表現できないだけであって、ちゃんと表現できる人がこれから現れるかもしれないじゃないですか。(或いは、既にいるのかもしれない)

だから、表現できないと断言するのはおかしくない?ってことです。


>そもそも、気づきはあると断言するかしないか、気づきを得たメッセンジャーだから口に出来る権利であり、またそれを周りの人間が疑問を持つのも自由なはずでそこまでは理解出来るが、なぜさらにメッセンジャー、気づきを得たとする本人に「断言するな」と言えるのかその理由がよくわからない(メッセンジャーへの「断言するな」は疑いではなく否定であり批判の意味になる)。


てかさ、私は本当に「断言するな」と命令したんでしょうか?(笑)

過去に「断言するべきではない」と述べた気はしますが、それは私個人の感想ですよ。批判(良い所、悪い所をはっきり見分け、評価・判定すること。)を悪い事とお考えですか?

そこまで拘るのでしたら感想を撤回して「断言するのはおかしくない?」という疑問を持ったことにしましょうか?


>「証明できないのなら断言するべきではない」は冤罪事件のような常に第三者にも因果関係がハッキリとした事案の例では有効な言葉だろうが、気づきを得た、得ていないなどという因果関係すら成り立たない話には不適な言葉だと考える。

何故、気づきとやらには因果関係が成り立たないと思うのですか?誰かが言ってた?本に書いてあった?理由が分からないので妄想に妄想を重ねてるように見えるんですよね。

>スピリチュアルに対する「断言すべきではない」という言葉は、まず「気づきは証明出来る」とその理由を説明できずにそう「断言」している、「気づきを得ていない人々」に向けられるべき言葉ではないだろうか?


逆に言うと、自称メッセンジャー達は「気づきは証明できない」と断言してるわけでしょ?

だから結局、なぜそう断言できるの?って話になるんです。

なぜそんなに自称メッセンジャーを妄信して特別視するのですか?
 
 
 
自称メッセンジャーって (文体は人格を表す)
2017-08-17 10:12:14
どなたのことですか?

釈迦、キリストも自称メッセンジャー?

メッセンジャーと自称メッセンジャーの違いは?
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-17 21:59:25
>自称メッセンジャーってどなたのことですか?

前のコメントの方が言ってる「各メッセンジャー達」とやらのことです。その人達はただの一般人で「メッセンジャー」と自称してるだけじゃないの?と、或いは周りから「メッセンジャー」というレッテルを貼られただけじゃないの?と暗に示しただけです。(まぁ考えてみれば、レッテルを貼られただけなら自称というのはおかしいですが、「普通の人でしょ?」ってニュアンスが伝わればそれで結構です。)

具体的に誰のことを言ってたのかはコメントした人に聞いてみたら?

ま、「自称メッセンジャー」という表現が気に入らないのなら別に撤回しても構いませんよ。

>釈迦、キリストも自称メッセンジャー?

さてね。そもそも実在していたのかさえ知らんし。

>メッセンジャーと自称メッセンジャーの違いは?

まぁ、自称してるか、レッテルを貼られているかの違いじゃないですかね。
 
 
 
あのさあ (Unknown)
2017-08-17 23:20:52
>現状、その自称メッセンジャー達が表現できないだけであって、ちゃんと表現できる人がこれから現れるかもしれないじゃないですか。(或いは、既にいるのかもしれない)

だったらこのブログ主とこのブログにはサッサと見切りをつけて、証明、表現できる別の方を探すなり、募るなり、別の方が現れるのを待つなりするのが筋ではないの?

このブログ主は、「気づき、悟りは証明出来ない。本人が気づきを得るしかない」という大前提で、ヒント、指針を指し示すだけだという旨をブログ開始頃に明言して今に至っている。閲覧者もそのつもりで閲覧している。

貴方もこのブログ主のように個人でブログを立ち上げてコメント欄を解放し、何を書き込まれても良いリスクを背負って気づきの証明とやらを全国、世界から募った方が結果合理的だよね?そこまでの覚悟を持ってスピリチュアルの証明とやらにこだわっているのか知らんが。

匿名に甘えて、そんな「お門違い」の相手に、アップされた記事やコメントに対して後出しジャンケンで毎回質問を繰り返す行為をやめない貴方のやり方、考えに卑怯さを感じて不快感しか湧かないんだよ。
 
 
 
自分が答えづらい質問されるとのらりくらりとかわす卑怯さ (話をすり替えるこのズル賢さ)
2017-08-18 00:46:26
「自称メッセンジャーは誰?」って名前を答えるだけの質問なのに、気に食わないなら撤回しますとか言ってきっちり相手のせいにして回答拒否。

貴方の証明出来なきゃ自称という理屈なら、このブログ主も含まれてその名前を挙げるべきでしょう?
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-18 21:50:14
なんでそんなの相手にしてんのさ
道端で犬に吠えられたら吠え返すの?
吠え返したくなるなら犬と同じ要素が自分の中にもあるってことだよね
おまえら犬かよ

※犬を宙に置き換えて読んでくさい
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-18 23:01:24
>だったらこのブログ主とこのブログにはサッサと見切りをつけて、証明、表現できる別の方を探すなり、募るなり、別の方が現れるのを待つなりするのが筋ではないの?

何に対する筋?(笑)なぜ、見切りをつける必要があるのですか?ここに現れる可能性だってあるかもしれないじゃないですか?

>このブログ主は、「気づき、悟りは証明出来ない。本人が気づきを得るしかない」という大前提で、ヒント、指針を指し示すだけだという旨をブログ開始頃に明言して今に至っている。閲覧者もそのつもりで閲覧している。

あのさぁ、「ブログ主がそういう前提を作ったから、実際に気付き・悟りは証明できない」って、おかしな主張だと思わない?私が思うに、誰もいないところでブログ主に「気付き・悟りを証明できないことを証明できるか?」と聞いたら、ブログ主は「証明できないので、それは私の感想にすぎませんよ」ってなことを普通に言うと思いますよ。(笑)だって、それを認めることで困ることなんてないのだから。

>貴方もこのブログ主のように個人でブログを立ち上げてコメント欄を解放し、何を書き込まれても良いリスクを背負って気づきの証明とやらを全国、世界から募った方が結果合理的だよね?そこまでの覚悟を持ってスピリチュアルの証明とやらにこだわっているのか知らんが。

私には君らのほうが拘ってるように見えるんだよ。私は「証明できないなら断言するべきではない」って言ってるんですよ?もう一度言いますよ。私は「証明できないなら断言するべきではない」って言ってるんですよ?お分りですか?「気付き・悟りを証明できる」とは言ってないんですよ?

証明できるというならその理由を聞きたいし、証明できないというならその理由を聞きたいし、どちらも証明できないなら保留にしとこうという感じです。

なぜそんなに気付き・悟りが証明できないことに拘るのですか?普通に考えて、「気付き・悟りは証明できない」を証明するのは無理じゃないですか?私はまともな反論を見たことがありませんよ?

>匿名に甘えて、そんな「お門違い」の相手に、アップされた記事やコメントに対して後出しジャンケンで毎回質問を繰り返す行為をやめない貴方のやり方、考えに卑怯さを感じて不快感しか湧かないんだよ。

匿名に甘えてるのはお互い様、お門違いの相手かは聞かなければ分からない、後出しジャンケンは意味不明(笑

君らの質問に私は答えてるが、君らは私が質問しても無視してレッテル貼りで人格攻撃。

私は君らに卑怯さを感じるよ・・・

>「自称メッセンジャーは誰?」って名前を答えるだけの質問なのに、気に食わないなら撤回しますとか言ってきっちり相手のせいにして回答拒否。

どこが相手のせいなの?どこが回答拒否?思い込みが激し過ぎませんか?撤回提案は、君への配慮だよ(笑

>貴方の証明出来なきゃ自称という理屈なら、このブログ主も含まれてその名前を挙げるべきでしょう?

別に含めてもいいんじゃね(笑)ブログ主だって全てを知ってるわけじゃないのだから、普通の人でしょ。
 
 
 
雲黒斎さん、度々このようなコメ汚し本当に申し訳ございません (Unknown)
2017-08-19 00:33:33
>※犬を宙に置き換えて読んでくさい

溜飲が下ったわ。ありがとう。
 
 
 
アンケート (パーソナルスペース)
2017-08-19 09:04:47
ダベリバありがとございました。
会場にアンケートが無かったので、
ここに書かせて頂きます。
なので掲載されなくても構いませんので。
わたしの質問のご回答について以下の感じがあります。会場では沢山の人の質問時間を配慮して、聞き返しはあまりしない方が良いと判断しました。
パーソナルスペースという言葉は知りませんでしたが、体の周りにバルーンのような防御層をイメージするアドバイスは悩み始めの10年前あたりにも他の方からあり、それは実践し尽くしていますが、変わりはありません。温泉も人混みも体験的にわかっていました。これは批判や文句ではなく、黒澤さんが雲さんから受け取る情報をかなり価値観を上にしている様に感じたので、書きました。僕の経験で言えば、ガーディアンスピリットがインスピレーションという形以外でアドバイスする事は殆ど無いと思います。言っても自分で決めなさいと言うのが普通かと。
 
 
 
答えはみんなが持っている (連投すみません)
2017-08-19 10:01:35
連投すみません。
ダベリバのアンケートのようなものです。
ダベリバと言う印象が、みんなの忌憚のない意見の場と思っていましたが、殆ど黒澤さんが回答する場だったのが、意外でした。
みなさんそれぞれ経験を持っているので、それを分かち合いするのも良いのでは?
異世界の話よりも、みなさんの本来のパワーや智慧を出す場でも良かったかと。
 
 
 
正確に言うと (名古屋のバッチコイ)
2017-08-19 14:50:04
「(私の)悟りや気付きは(第三者には)証明できない」でしょうね。

日本語は省略化が激しいですね。

「言葉」に対しての反応はそれぞれで良いのではないでしょうか。

それはともかく、博多ですか…
美味しいものたくさんありますね、裏山(* ̄∇ ̄*)
 
 
 
動画見てみたい (くらら)
2017-08-19 22:40:06
あみいさん、大好きなので、お三人さんのトークショーめっちゃ楽しみです♪
今月、すでにお財布破綻中(^^;)なので、月末お給料が入ったら購入して見よう♪って想ってます☆

 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-20 00:42:43
>溜飲が下ったわ。ありがとう。

君はさ、私の主張がおかしいと思ったから反論したんじゃないの?

現状、ろくな反論が出来ておらず、君の主張が全く通らないにもかかわらず、私に対する下らない侮辱で溜飲が下がったということは、本当は侮辱が目的だったんじゃないの?

実は私の主張に納得してるんじゃないの?だから、ろくな反論が出来ないんじゃないの?

君の不快感はさ、「私の主張に異論はないが、私を認めたくない」というジレンマからきてるんじゃないかな。おかしいと思ったところを話し合うだけなら不快感は生まれないでしょ?

君はその不快感を「相手への侮辱」で解消したけどさ、私なら再考して相手の主張が妥当なら相手を認めることで不快感を解消すると思う。

相手の主張に対するまともな異論がないにもかかわらず言いがかりをつける君のような有様を「絡み」と言うんじゃないかと私は思うよ。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-20 19:38:00
最近、真我を開発するという講座の教祖様が、「前提」「悟りを証明する」とか訳の分からないこと言ってる方がいますね。しかも、前提って、前提セ○ナーのパクりじゃないかと(笑)
悟りを証明って、その証明が現実社会での現れなのだから、無記である悟りがそもそも証明できるはずがないのに、最近元幸福の○学の信者を取り巻きに於いて、猛威をふるっている教祖様がいるね(笑) キモイ。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-20 21:46:00
>スピにハマる人にありがちで、私も結構やってしまいがちですが、他人を見下すような行為(例えば、分かっていると思ってる自分と分かってない決めつけた他人を比べた際の反射行為)は、それをした時点で結局大差はありません。

>思い込みが激し過ぎでは?統合失調症の可能性もあるし、病院に行ってみては?

>どこが相手のせいなの?どこが回答拒否?思い込みが激し過ぎませんか?撤回提案は、君への配慮だよ(笑

>君の不快感はさ、「私の主張に異論はないが、私を認めたくない」というジレンマからきてるんじゃないかな。おかしいと思ったところを話し合うだけなら不快感は生まれないでしょ?

お、おう
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-21 09:31:42
それを書き連ねて何を言いたいの?(笑

なぜそう言ったかは、その前のコメントを読めば分かると思うけどね。
 
 
 
野球の練習をしてる子供達に、「野球の起源も知らないくせにお前ら勝手に野球するな!俺も知らないけど」と言って絡んでくる近所のオヤジ (一言で言えば、「ここの書き込み者達に絡むなよ」で済む話だが)
2017-08-21 12:37:18
>何に対する筋?(笑)なぜ、見切りをつける必要があるのですか?ここに現れる可能性だってあるかもしれないじゃないですか?

君の都合を心配してんじゃなくて、君の「個人的な」主張、要望である「証明できないなら断言するべきではない」の議論をやりたきゃ、このブログではなく、どっか別の場所でやってろって話。

ここで絡むなよと。

>あのさぁ、「ブログ主がそういう前提を作ったから、実際に気付き・悟りは証明できない」って、おかしな主張だと思わない?

何故「悟りや気付きは証明できないが、気づきや悟りの為のヒント、指針を示す」ことが目的のこのブログで、君が「証明できないなら断言するべきではない」にこだわった主張を元に延々と他人に絡み行為が出来るのかがわからない。

その主張の真偽なんかどうでもよく、場違いだし、赤の他人に絡むなと何度も何度も何度も言っている。

でまた言うけど「証明できないなら断言するべきではない」なんて主張を押し付けたければ他所でやれって。

こっちは気づきや悟りや目覚めのヒントを得たいが為に、ブログを閲覧してるんであって、気づきが存在するかどうかなんて赤の他人の君の議論討論に時間割いて絡まれまくって付き合って上げるのが目的じゃないんで。

逆にここの閲覧者達が、証明出来ないことを断言したところで、別に君にそれを強要してないし、君も困ることないでしょって。

ええやんそんなの。

>私が思うに、誰もいないところでブログ主に「気付き・悟りを証明できないことを証明できるか?」と聞いたら、ブログ主は「証明できないので、それは私の感想にすぎませんよ」ってなことを普通に言うと思いますよ。(笑)だって、それを認めることで困ることなんてないのだから。

感想でもなんでも「証明出来ない」と一言ここの運営ブログ主が言えば基本、話は以上おしまいってことでしょう、ブログの運営「主旨」に沿って考えれば。

あとは君のその主張、疑問は一旦君の胸にしまうなり、自分で別途個人的に勝手に調べれば良いんじゃないの?

で、今回みたいに勝手に絡まれた挙句「ほら負けを認めろ」と勝ち誇られても困るんです、絡まれた身としては。

>私には君らのほうが拘ってるように見えるんだよ。私は「証明できないなら断言するべきではない」って言ってるんですよ?もう一度言いますよ。私は「証明できないなら断言するべきではない」って言ってるんですよ?お分りですか?「気付き・悟りを証明できる」とは言ってないんですよ?

何度も何度もその君の個人的主張を繰り返されても「あーそうですか、頑張って下さい」としか。

「気づきや目覚めへの指針を記すことが目的」だというブログ主の運営趣旨をなぜ無視してまで君の「証明できないなら断言するべきではない」と言う議論をなぜコメ欄で吹っかける?

「悟りとは何か」を書いた証明まではいかないメタファー的な記事は過去あるはずだけど、それはあくまでもこのブログでは気づきの答えではなく参考記事のはず。

「証明できないなら断言するべきではない」という話がしたいんなら、興味ない人間に吹っかけるのではなく、他所でそういう話題をする人達とやれよと。

まぁ、このブログでその議論をやるにしても、相手が「証明できないなら断言するべきではない」と思っていて君との話し合いを望んでいれば別だとは思うよ。

だけど君の場合、「私、気づきを得たかも?!守護霊さんキタッー」みたいな他人の書き込みに対しても「本当かよ?!証明しろよ、出来なきゃお前、お花畑認定なw」とか絡んでいるから、それは違うでしょって言ってる。

あと「気づきの有無」と個人の「証明能力、表現力」の有無とイコールではないと思わないのが不思議。これってイコールなんですか?

※この部分が一番今回貴方に言いたい、自省すべきところなはずだけど今回も赤の他人に「絡んでいる」という自覚はある?

※まさか全く無自覚で書き込まれたコメントが全て「私宛だ」と思って絡んでいたとしたら、君こそ正に自分と他人との境目のつかない統合失調症、境界性パーソナリティ障害等を疑って、こんなところでスピリチュアルに救いを求めるのではなく病院に頭を診せに行った方が確実。

>証明できるというならその理由を聞きたいし、証明できないというならその理由を聞きたいし、どちらも証明できないなら保留にしとこうという感じです。

そうですか。保留しようがどうしようが君の勝手だが、議論するなら今後どっか他所でやってくれ。議論したい相手を見つけてくれ。

>なぜそんなに気付き・悟りが証明できないことに拘るのですか?普通に考えて、「気付き・悟りは証明できない」を証明するのは無理じゃないですか?私はまともな反論を見たことがありませんよ?

逆になんで君は、「証明できないなら断言するべきではない」という主張をこのブログのコメント欄で延々し続けることに拘るの?って同じことを繰り返し君に言うしかない。

「このブログでまともな反論見たことない」

なら尚更ここは見切りつけてどっか他所行って絡んだ方が良いじゃない?

なんで毎回毎回ここのコメント欄での絡み行為に固執するの?荒らし行為としか思えないんだよ、やってることが。

>匿名に甘えてるのはお互い様、お門違いの相手かは聞かなければ分からない、後出しジャンケンは意味不明(笑

私は君のように匿名に甘えて、ブログの目的と異なる「証明しなければ断言してはいけない」なんて個人的主張を振り回してないし、他人に強要もしてない。

「後出しジャンケン」は、上に書いた君宛でもない他人のコメントを後から勝手に尋問のように質問し続ける貴方の絡み行為を指している。

>君らの質問に私は答えてるが、君らは私が質問しても無視してレッテル貼りで人格攻撃。

>私は君らに卑怯さを感じるよ・・・

「人格攻撃」とはいきなり赤の他人に「精神病んでるから病院行け」とか捨て台詞を吐く君のような書き込みのことそのものだと私は認識している。

>どこが相手のせいなの?どこが回答拒否?思い込みが激し過ぎませんか?撤回提案は、君への配慮だよ(笑

君が質問に答えない理由を、自ら正当化する為にここでも相手に非があると言わんばかりに君への配慮どうこう言ってるけど、こういう「チンピラ」みたいに相手に因縁を吹っかけるまねを繰り返して絡むから、誰からも相手にされないんじゃないの?

>別に含めてもいいんじゃね(笑)ブログ主だって全てを知ってるわけじゃないのだから、普通の人でしょ。

「普通の人でしょ」ってこのブログ主が普通じゃないなんて誰がいつ言った?

まぁだけど、ブログ主を「自称メッセンジャー」とか言ってるけど匿名だと思って何書いてもOKって安心してるんだろうね。実際すでにネットの匿名って匿名じゃないんだけど、ここら辺はスピ関係ないので置いとく。


最後別の言い方で。


「証明できないなら断言するべきではない」と言うなら私は、

「他人に対してわざわざ証明など出来なくても説明などなくても気づき、悟り、目覚め、あの世の存在を『断言』してもらって構わない。

それが本当かどうか、このブログの言葉を通して『私』が気づきを得られるかどうか自ら試し、そして最後『自身』に向けてそれを『証明』出来れば全て良し」

と考えている。

以上

※「溜飲が下ったわ。ありがとう」に関しては撤回します。貴方への別の匿名者のコメントに同意してしまったことをお詫び致します。大変、申し訳ございませんでした。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-22 11:56:09
>君の都合を心配してんじゃなくて、君の「個人的な」主張、要望である「証明できないなら断言するべきではない」の議論をやりたきゃ、このブログではなく、どっか別の場所でやってろって話。ここで絡むなよと。何故「悟りや気付きは証明できないが、気づきや悟りの為のヒント、指針を示す」ことが目的のこのブログで、君が「証明できないなら断言するべきではない」にこだわった主張を元に延々と他人に絡み行為が出来るのかがわからない。その主張の真偽なんかどうでもよく、場違いだし、赤の他人に絡むなと何度も何度も何度も言っている。でまた言うけど「証明できないなら断言するべきではない」なんて主張を押し付けたければ他所でやれって。


あのさぁ、同じ事を長々と書いてるけどさ・・・
そもそも、「証明できないなら断言するべきではない」の議論をやりたいわけじゃないんだよ。まず、何かの主張に対して「なぜそう思ったのか?」を確認し、それに対する回答が曖昧な内容だったらどう思いますか?それって断言するのおかしくない?ってなるでしょ?これは拘るとか主張の押し付けとかではなく、至極当然で素朴な反応じゃないですか?
だから私は君らのほうが拘ってるように見えるんだよ。本当にこれが「絡み」だと思いますか?

こういう短絡的な考え方をするから君のことを「思い込みが激しい」と私は感じるわけです。

「断言するべきではない」と言われて君は、持ち前の思い込みの激しさで全否定されたと思ってるんでしょうけど、これは主張に対する否定でも肯定でもなく、「決めつけるのはまだ早くない?」と言ってるだけですよ?被害妄想でヒステリックになってるだけではないですか?

>こっちは気づきや悟りや目覚めのヒントを得たいが為に、ブログを閲覧してるんであって、気づきが存在するかどうかなんて赤の他人の君の議論討論に時間割いて絡まれまくって付き合って上げるのが目的じゃないんで。

「気付き・悟りが存在するかどうか」は、どうでもいいのに、「気づきや悟りや目覚めのヒントを得たい」とはこれ如何に(笑)

>逆にここの閲覧者達が、証明出来ないことを断言したところで、別に君にそれを強要してないし、君も困ることないでしょって。ええやんそんなの。

いや、私も強要した覚えないんだけど(笑)私個人の感想と言ったよね?被害妄想が酷すぎます。

>感想でもなんでも「証明出来ない」と一言ここの運営ブログ主が言えば基本、話は以上おしまいってことでしょう、ブログの運営「主旨」に沿って考えれば。あとは君のその主張、疑問は一旦君の胸にしまうなり、自分で別途個人的に勝手に調べれば良いんじゃないの?

だぁかぁらぁ、調べるために聞くんだよ。個人の感想の理由を、聞く以外の方法でどうやって調べるんですか?本やインターネットに載ってるの?(笑

>で、今回みたいに勝手に絡まれた挙句「ほら負けを認めろ」と勝ち誇られても困るんです、絡まれた身としては。

えぇぇ!?よく被害者面ができますね(笑)
君が最初に「スピリチュアルに批判的な人」に的外れな主張で絡んでるように見えますよ。しかも勝ち誇った覚えもありません。淡々と思ったことを書いただけですよ?被害妄想が酷すぎませんか?

>何度も何度もその君の個人的主張を繰り返されても「あーそうですか、頑張って下さい」としか。「気づきや目覚めへの指針を記すことが目的」だというブログ主の運営趣旨をなぜ無視してまで君の「証明できないなら断言するべきではない」と言う議論をなぜコメ欄で吹っかける?「悟りとは何か」を書いた証明まではいかないメタファー的な記事は過去あるはずだけど、それはあくまでもこのブログでは気づきの答えではなく参考記事のはず。「証明できないなら断言するべきではない」という話がしたいんなら、興味ない人間に吹っかけるのではなく、他所でそういう話題をする人達とやれよと。まぁ、このブログでその議論をやるにしても、相手が「証明できないなら断言するべきではない」と思っていて君との話し合いを望んでいれば別だとは思うよ。だけど君の場合、「私、気づきを得たかも?!守護霊さんキタッー」みたいな他人の書き込みに対しても「本当かよ?!証明しろよ、出来なきゃお前、お花畑認定なw」とか絡んでいるから、それは違うでしょって言ってる。


前述したとおり、「証明できないなら断言するべきではない」の議論がしたいわけではありません。当然の帰結として、その疑問にぶち当たるだけ。
あのさ、どのへんが「運営趣旨の無視」なの?君はそういうところを全く明らかにしないよね。

内容は覚えていないが、「お花畑」なんて言葉を使ったってことは、相当酷い内容だったのでしょう(笑)てか、本当に「出来なきゃお前、お花畑認定なw」みたいな書き方してた?これ、多少盛ってるでしょ?(笑)

>あと「気づきの有無」と個人の「証明能力、表現力」の有無とイコールではないと思わないのが不思議。これってイコールなんですか?

知りません。(笑)
これって何が言いたいんですか?君は「イコールではない」と思うんですよね?「イコールではない」からなんなんですか?(笑)

>※この部分が一番今回貴方に言いたい、自省すべきところなはずだけど今回も赤の他人に「絡んでいる」という自覚はある?

絡んだ覚えはありません。マジで君は「絡み」をどういう行為だと思ってるの?被害妄想でそう思ってるだけでは?

>※まさか全く無自覚で書き込まれたコメントが全て「私宛だ」と思って絡んでいたとしたら、君こそ正に自分と他人との境目のつかない統合失調症、境界性パーソナリティ障害等を疑って、こんなところでスピリチュアルに救いを求めるのではなく病院に頭を診せに行った方が確実。

なぜ「無自覚で書き込まれたコメントが全て「私宛だ」と思って絡んでいる」と思うのですか?凄い思い込みですね。そもそも、自分宛じゃないとコメントしちゃいけないんですか?(笑)自分に都合が悪いだけでしょ?(笑

>そうですか。保留しようがどうしようが君の勝手だが、議論するなら今後どっか他所でやってくれ。議論したい相手を見つけてくれ。

議論すら許さない場所にする気ですか。酷い有様ですね。

>逆になんで君は、「証明できないなら断言するべきではない」という主張をこのブログのコメント欄で延々し続けることに拘るの?って同じことを繰り返し君に言うしかない。「このブログでまともな反論見たことない」なら尚更ここは見切りつけてどっか他所行って絡んだ方が良いじゃない?なんで毎回毎回ここのコメント欄での絡み行為に固執するの?荒らし行為としか思えないんだよ、やってることが。

君は何回同じ事を言うんだよ(笑)「証明できないなら断言するべきではない」と主張することが目的ではないんですよ。何かの主張に「なぜそう思ったのか?」を確認した際の回答内容が曖昧なものが多いので当然の帰結としての「証明できないなら断言するべきではない」を言う機会が多いってだけでしょ(笑)これを「荒らし行為」だと思いますか?君が「荒らし行為」と思い込みたいだけでは?

>私は君のように匿名に甘えて、ブログの目的と異なる「証明しなければ断言してはいけない」なんて個人的主張を振り回してないし、他人に強要もしてない。

匿名に甘えて、「私が荒らし行為をしている」と個人的主張を振り回して、議論するな・議論するなら他所へ行けと強要してるように見えるけど(笑)

>「後出しジャンケン」は、上に書いた君宛でもない他人のコメントを後から勝手に尋問のように質問し続ける貴方の絡み行為を指している。

おいおいおい、「なぜそう思ったのか?」を確認してるだけですよ?これが尋問のように感じるのは貴方の被害妄想では?

>「人格攻撃」とはいきなり赤の他人に「精神病んでるから病院行け」とか捨て台詞を吐く君のような書き込みのことそのものだと私は認識している。

いきなりではないよね(笑)君が最初にスピリチュアルに批判的は人に対して『愛を知らない人間ほど「私をもっと愛して、ムキーッ」って色々屁理屈並べて書き込みをしてるように見えて仕方がない』と勝手な思い込みで侮辱したから言ったんですよ。目には目を歯には歯を人格攻撃には人格攻撃を。これでも君は自分が「絡まれた身」と思うのですか?

>君が質問に答えない理由を、自ら正当化する為にここでも相手に非があると言わんばかりに君への配慮どうこう言ってるけど、こういう「チンピラ」みたいに相手に因縁を吹っかけるまねを繰り返して絡むから、誰からも相手にされないんじゃないの?

ちゃんとコメント読んでんの?
まずさ、明らかに質問に答えてるよね。(笑)あの回答をなんで君は質問に答えてないと思えるの?あの配慮がどうして「相手に非があると言わんばかり」と感じるんだよ。なんでこっちが答える側なのに因縁をふっかけられたように感じてるんだよ(笑)被害妄想が酷すぎでしょ。

>「普通の人でしょ」ってこのブログ主が普通じゃないなんて誰がいつ言った?まぁだけど、ブログ主を「自称メッセンジャー」とか言ってるけど匿名だと思って何書いてもOKって安心してるんだろうね。実際すでにネットの匿名って匿名じゃないんだけど、ここら辺はスピ関係ないので置いとく。

君もブログ主が普通の人だと思ってるんですね。「普通の人でしょ?」ってニュアンスを伝えるために「自称メッセンジャー」と書いたと書きましたよね?それで気に入らなければ撤回してもいいとも書きましたよね?何が問題なんですか?感情的になってるだけでは?

まずはさ、なぜ頭ごなしに相手が「絡んでいる」と思い込んでしまうのかを考えてみたら?こんな一方的な思い込みでばっか話しされたらまともな会話にならないよ。(笑
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-22 12:16:00
大槻教授の音声で照明係さんのコメントを読んでみました(๑˃̵ᴗ˂̵)/超べり〜まっちでした(笑)
 
 
 
こうなるから「他所でやれ」って言ってるんだが? (都合の悪い文章は抜粋せず無視して、(笑)をあちらこちら多用して、よくこんな下品な文章を他人に読んでもらえると思えるよなあ。文体は人格、品格を表すよね。)
2017-08-22 19:22:45
>あのさぁ、同じ事を長々と書いてるけどさ・・・

しょっぱな、こういう書き込みを他人にしてる時点で、君が本当はスピの話し合いをしたいが為に絡んでいるのではないことがよくわかるんだよね。

もうめんどくさいんし、目にするだけで吐き気がするんで君の文章は流し読みで以下行きます。

君は延々と「証明できないなら断言するべきではない。それを断言している君らは間違い。なんで疑わないの?」と言ってるよね。

だけど俺は「余計なお世話。君の考えを押し付けられても知らんがな。そんなそもそも論やりたいなら、別の場所でやれ、ここの閲覧者を巻き込むな」と言っている。

君の主張の中身が間違いとかじゃなくて、ここの閲覧者達を相手にその話しても意味がないと言ってる。もしくは、相手選んで、あなたに付き合う人見つけてやり取りしてろと言ってる。

君のやってることって街中の知らない人間に後ろからコンクリで頭殴りつけてるのとほとんど変わりないのよ。コミュニケーションにすらなってないどころか犯罪と言ってもいいくらいの話。

匿名だから無差別に「証明できないなら断言するべきではない」とか言って赤の他人に絡めるんであって、実名晒してそんな真似君できます?ネット、リアル問わず。

こんな態度、君の主張の中身云々以前に「こいつヤベェな」と思われるのがオチでしょう。すでに君はそう思われてる、そう自覚があるから君は以前のハンネを隠す羽目になったのでしょう。

それが匿名の利点というならやってることは単なるテロ行為、無差別テロと同じことをやってる自覚くらいは持つべき。これがないから「質問して何が悪い」なんて簡単に言えるのよ。

顔が見えない何処の馬の骨だかわからん同士だと思ってるから出来るんだろうけど、だから「匿名に甘えるなよ」と言ってる。

個人的には「証明できなくても断言して何が悪い。それが本当かどうか自分で試して理解できれば良い、他人の証明など待たないで」なんだけど、これ言うと君の「なぜ?どうして」の答えなんか出るわけがない議論と言う名の匿名同士の前提違いから生まれる言葉遊びが始まるから、避けてるの、内心君の書き込みに呆れながら。

だけど、スピ的に言えば君はエゴ、自我に振り回されてる典型なんだよ。

またこれ言うとなぜ、どうしてが始まるだろうけど、そのなぜ、どうしてがエゴの叫びなの。

このブログでも何回も何回もエゴ、自我をテーマに扱ってる記事あるし過去記事「マトリックス」なんてその解説に触れてるから、このブログに張り付くなら張り付くで、他人に絡む前に過去記事の検索でもしたらどうかと思うよ。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-22 22:19:33
おまえらそろそろいい加減にしろよ。
やりたければ前記事のコメ欄でやれ。
それくらいの配慮もできねーのか?
ここを閲覧してるのはおまえらだけじゃねーんだよ。
黒斎は例年通り子供の夏休みを理由に記事の更新をさぼるだろうから、8月いっぱいおまえらのつまらない水掛け論がここで続くことになるだろーが。
勘弁してくれよ。
 
 
 
F◯UK IT 「思い込みをぶっこわせ (Unknown)
2017-08-22 23:15:20
>しょっぱな、こういう書き込みを他人にしてる時点で、君が本当はスピの話し合いをしたいが為に絡んでいるのではないことがよくわかるんだよね。

あれだけ説明したにもかかわらず、こうやって頭ごなしに相手が「絡んでいる」と決めつける有様を見たらさ、呆れを通り越して笑うしかないんだよね(疲

>もうめんどくさいんし、目にするだけで吐き気がするんで君の文章は流し読みで以下行きます。君は延々と「証明できないなら断言するべきではない。それを断言している君らは間違い。なんで疑わないの?」と言ってるよね。だけど俺は「余計なお世話。君の考えを押し付けられても知らんがな。そんなそもそも論やりたいなら、別の場所でやれ、ここの閲覧者を巻き込むな」と言っている。

あのさ、「なんで疑わないの?」って聞かれたら普通にその理由を答えれば済む話でしょ?なんでこの疑問が「考えの押し付け」になるんだよ(疲)だから被害妄想が酷いと言ってるんですよ。

>君の主張の中身が間違いとかじゃなくて、ここの閲覧者達を相手にその話しても意味がないと言ってる。もしくは、相手選んで、あなたに付き合う人見つけてやり取りしてろと言ってる。

確かに君のように思い込みが激しくて相手の言い分を全く聞き入れようとしない相手には意味がないだろうね。でもね、そうじゃない人もいると思うのよ。ここまで思い込みが激しい人は根拠はないけど稀だと思う。そうであって欲しい(願)

>君のやってることって街中の知らない人間に後ろからコンクリで頭殴りつけてるのとほとんど変わりないのよ。コミュニケーションにすらなってないどころか犯罪と言ってもいいくらいの話。

コンクリで頭を殴りつける行為とどこが似てると思ったの?(笑)確かに相手の言い分を聞き入れようとしない君とはコミュニケーションが取れてないけど、これって犯罪なの?(笑)被害妄想が酷すぎませんか?

>匿名だから無差別に「証明できないなら断言するべきではない」とか言って赤の他人に絡めるんであって、実名晒してそんな真似君できます?ネット、リアル問わず。

だからさぁ、「証明できないなら断言するべきではない」と主張することが目的ではないって言ってんじゃん(呆)「なぜそう思うのか?」という問いに対する回答内容が曖昧なものが多いから当然の帰結としての「証明できないなら断言するべきではない」を言う機会が多いだけでしょ。こんな当たり前のこと、実名晒したってできるに決まってんじゃん。ネット、リアル問わず。だって、主張の理由を聞いて話し合うだけだよ?逆に何でできないと思うのですか?

>こんな態度、君の主張の中身云々以前に「こいつヤベェな」と思われるのがオチでしょう。すでに君はそう思われてる、そう自覚があるから君は以前のハンネを隠す羽目になったのでしょう。

君はさ、なぜ私にこういう態度をとられていると思う?君の態度もそれなりだからだよ。てか、いつの間に私はハンネを隠さなければいけない状況になったの?(笑)それは明らかに君の思い込みですよね。だから思い込みが激しいと言ってるんですよ。申し訳ないが、ハンネを使わなくなったことに特段の理由はないよ。なんとなくです。お望みとあらば使ってあげても構いませんよ?

>それが匿名の利点というならやってることは単なるテロ行為、無差別テロと同じことをやってる自覚くらいは持つべき。これがないから「質問して何が悪い」なんて簡単に言えるのよ。

ちょっと何言ってるかわかんない(笑)なんでテロ行為、無差別テロと同じ行為だと思うの?こういうところを全く説明しないから君の主張は意味不明なんだよ。

>個人的には「証明できなくても断言して何が悪い。それが本当かどうか自分で試して理解できれば良い、他人の証明など待たないで」なんだけど、これ言うと君の「なぜ?どうして」の答えなんか出るわけがない議論と言う名の匿名同士の前提違いから生まれる言葉遊びが始まるから、避けてるの、内心君の書き込みに呆れながら。

あのさぁ、別に証明できないことを悪いことだと言ってるわけじゃないんだよ。だから被害妄想が酷いと言ってるんだよ。

私は「根拠がないことを甘んじて受け入れるなら別に断言しても問題はない」とも言ってますよね。君は「答えなんか出るわけがない議論」と言うが、これが答えじゃないですか?「根拠がない」という答えを出したくないだけでしょ?

前提違いって何ですか?有耶無耶な言葉で誤魔化すのはやめてほしいですね。

>だけど、スピ的に言えば君はエゴ、自我に振り回されてる典型なんだよ。またこれ言うとなぜ、どうしてが始まるだろうけど、そのなぜ、どうしてがエゴの叫びなの。

「なぜ、どうしてがエゴの叫び」ってのも君の感想でしょ?他人の言い分を全く聞き入れようとしない今の君のような有様を「自我に振り回されてる典型」と私は思うけどね(苦笑

>このブログでも何回も何回もエゴ、自我をテーマに扱ってる記事あるし過去記事「マトリックス」なんてその解説に触れてるから、このブログに張り付くなら張り付くで、他人に絡む前に過去記事の検索でもしたらどうかと思うよ。

それは今の君にこそ必要なんじゃないかな?冷静になってもう一度コメントを読み返してみなよ。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-22 23:30:56
Unknown17/08/22 22:19さん

仰る通りです。誠に申し訳ない。私からのコメントは以上です。
 
 
 
「宙」復活 (Unknown)
2017-08-22 23:47:19
>申し訳ないが、ハンネを使わなくなったことに特段の理由はないよ。なんとなくです。お望みとあらば使ってあげても構いませんよ?

是非、宜しくお願い致します!
 
 
 
噛み合わないのも当たり前では? (Unknown)
2017-08-23 01:12:51
片方が『FUCK IT』を読んでる段階だから。
 
 
 
夏の議論は陽炎の如く (サム)
2017-08-23 05:34:35
極端な話、議論ってものは所詮噛み合う訳がないんだと。これ特にネット議論における真理でしょうか。(笑) 

僕が思う根本的な理由は二つ。

一つ目はそもそも議論が相手本人ではなく、お互い「自分が思い描いた相手像」に向かって行われる点。ずばり、幻想です。そもそもこれが思考の性質、自我の性質だと僕は言います。

二つ目は大抵の議論は着地点が相互理解では無いという点。相手に要求を飲ませたい。あるいは分からせたい。否定も自我の顕著な性質の一つだと思います。

(別に噛み合わないからダメって話ではありませんけどね。自我というものを考えるという意味では、ネット議論も結構興味深いですね?)



話は変わりますが、最近よく思うことがあります。

世の中には、正しさ、正義、こうあるべき、ルール、マナーなどなど、立派な社会通念が存在します。しかし近頃よく思います。これらの概念は全て上手く体裁を整えたエゴである、と。

社会常識を知る度、人は一つずつ新たなエゴを獲得して行けますね。

ネット、SNSが進化する度、僕らはそこに新しいルールという名のエゴを誕生させて行くことが出来ます。

そうして僕たちは日々、目の前の幻想に心を奪われ、その幻想に対して善悪の判断、好き嫌いの判断、賛成か反対かの判断を行っているのでしょう。

このようなスピリチュアルを語る場においても常にそれは行われるのですから、おお、我々凡夫の何と度し難きことか。(苦笑)
 
 
 
そもそも (Unknown)
2017-08-23 18:47:23
なぜ/どうして、問えるかもしれん、問えんかもしれん。
主張、根拠あるかもしれん、ないかもしれん。
やるべき場所かもしれん、ないかもしれん。
納得できるかもしれん、できないかもしれん。

わしゃ、しらん!
.....まぁ、いっか。
 
 
 
そこに「やさしさ」がなければ、「討論」にはなり得ない。 (Unknown)
2017-08-23 22:59:42
記事タイトル「討論」(2009年11月19日)より
 
 
 
Unknown ()
2017-08-24 01:08:39
>二つ目は大抵の議論は着地点が相互理解では無いという点。相手に要求を飲ませたい。あるいは分からせたい。否定も自我の顕著な性質の一つだと思います。

一つ目はなんとなく分かる気がしますが、二つ目は理由ではなく単なる傾向ではないですか?「大抵の議論の着地点が相互理解ではない」から噛み合わないのではなく、議論が噛み合わないことが多いから「大抵の議論の着地点が相互理解ではない」という傾向と言えるということではないでしょうか?

「相手に要求を飲ませたい。あるいは分からせたい。」という思いから相手に伝わるように説明する。

それなのに噛み合わない。

私が思うに、噛み合わないのはお互いに、或いは片方が「相手の言い分に聞く耳を持たないから」ではないでしょうか。

だって、相手の言い分をちゃんと聞いて意見交換をするなら普通に考えて噛み合わないわけないでしょ?

「大抵の議論の着地点が相互理解ではない」という傾向なのかもしれないが、大抵ってことは相互理解で終わる議論もあるということでしょ?

そういう議論はさ、やっぱり相手の言い分をちゃんと聞いて意見交換してるからと成り立たつと思うんだよね。

だから私は「議論ってものは所詮噛み合う訳がない」とは思えないんだよね。

そういう傾向というだけで、相互理解で終わらなかった議論も互いが相手の言い分に聞く耳を持った上で話し合えば結果は違ってくると思うんだよね。
 
 
 
時代は繰り返す (Unknown)
2017-08-24 01:49:04
記事タイトル「困惑」(2010年5月10日)を読んでの感想
 
 
 
自他の境界線を際立たせるのか、それとも取り払うのか。ベクトルの違いが議論の結果を左右するのでしょうね。 (サム)
2017-08-24 03:26:12
>だから私は「議論ってものは所詮噛み合う訳がない」とは思えないんだよね。

僕も理想としてはそうあればいいなと思いますな。^^

噛み合わないのが真理!ってのはまあ冗談として、

そう言いたくもなるほどネットでのやり取りは難しいものがありますね。

しかも承認制のコメント欄での議論だと、まるでブログ主は昭和の電話交換手かよ、みたいな。(笑)



ところで、

前に書いた「大抵の議論は着地点が相互理解では無い」というものですが、

言いたかったことと文章のニュアンスが違っていたことに気付きまして、

改めまして、

「大抵の議論は、相互理解を目指していない」
「議論が噛み合わない理由の一つは、目標(着地点)を相互理解としないから」

という感じに補足させて頂ければと思います。

(議論や対話以前に、自分の思っていることをその通り書くのが難しいわ。笑)



・・・

ちなみに相互理解という表現に含まれる僕なりの視点をもっと説明しますと、宙さんの書いたように「相手の言い分をちゃんと聞いて意見交換する」という事と、更に言うと、

相手の意見について理解出来た部分を確認し、お互いコンセンサスを得て少しずつ共有の足場を築いていく、という過程も入ってきます。

言い分を聞いた時に相手の意見を勘違いすることも結構あると思うので、そのズレを修正していく作業も必要だろうという考えです。

まあネットでは相当ハードルの高いことでしょうが、宙さんのように相手の考えを聞いて確かめようとする立場同士ならば、相当に時間をかければあるいは理想で終わらず噛み合った議論が可能かもしれませんね。


...但し、外野からのクレームを一切無視出来ればですが。(笑)
 
 
 
おひさしぶりですね (名古屋のバッチコイ)
2017-08-24 14:56:43
サムさん、お元気そうで。
また、あちらこちら覗かれてますか?  サムさんの探究は進まれてますでしょうか?


ま〜ったく関係のない話題ですが、マクドナルドの愛称(略称)が、支持率51:49で「マクド」になったそうです(東西対決イベント上ですが)

正に、新たなルールでエゴちゃんが誕生しましたね(笑)

あ、ちなみに真ん中の私は「マック」と言ってます(* ̄∇ ̄*)
 
 
 
Unknown ()
2017-08-24 19:10:27
>ちなみに相互理解という表現に含まれる僕なりの視点をもっと説明しますと、宙さんの書いたように「相手の言い分をちゃんと聞いて意見交換する」という事と、更に言うと、相手の意見について理解出来た部分を確認し、お互いコンセンサスを得て少しずつ共有の足場を築いていく、という過程も入ってきます。言い分を聞いた時に相手の意見を勘違いすることも結構あると思うので、そのズレを修正していく作業も必要だろうという考えです。

なるほど、仰るとおりですね!( ˘ω˘ )

>...但し、外野からのクレームを一切無視出来ればですが。(笑)

仰るとおりですね・・・(哀
 
 
 
「昭和の電話交換手」の例えはその通りですね 笑 (Unknown)
2017-08-24 22:03:20
サムさんの仰る通り、ブログのコメント欄、匿名掲示板というメディアは、「討論には"かなり"向いていない」ですよね。議論を噛み合わせることを"理想"とするのもごもっともかと。私も過去、ネット上で匿名同士の討論が成り立っているところを一切見たことがないものですから。と言いますか、討論に某かのメディアを挟むという、雲黒斎さんに電話交換手をやらせてまでやること自体がよくわからない話ですが。「よそでやれ」っていうクレームに耐えてまで、また雲黒斎さんにコメントを目を通してもらって取り次いで手間をおかけしてまでやる、承認制の元でやり続ける討論って一体なんなんだろうとは確かに思いますね。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-25 02:20:40
なんか笑えるな。
クレーマーはどっちだよ。
なんで議論にちゃんと応じないほうが悪いみたいな流れになってるのさ。
それじゃ相手次第じゃん。
そもそも悟りは議論のテーマには成りえないんだよ。
議論ってのは人間関係の中で必要に応じて生じるものでしょ。
自分と相手がいる相対の世界で使うツールでしかないんだよ。
そして、聞く耳をもつってのは一旦自分の意見を引っ込めて、まっさらな状態になることで、このまっさらな状態ってのが、このブログでずっと語られていることなんだよ。
そこには自分もいないし相手もいない。
議論なんて必要ないし、あるのはせいぜい簡潔な質問と応答くらい。
相互理解のために聞く耳をもちましょうというなら、まずまっさらになりなよ。
無駄に握り締めていたものは自然と消えていくし、必要なものだけが生じてくるから。
 
 
 
名古屋のバッチコイさん、どうもでございます。^^ (サム)
2017-08-25 05:11:52
先日久しぶりに阿部さんの所だけ少し読んで来たんですよ。

たまたま複数の読者間でコメント欄のルール的なことで討論になっておりまして。

たまらず阿部さんからも読者諸氏に新たなルールをお願いしたりして。

何となくこちらに投稿したのもそれと無関係ではありませんね。



それはさておき、

探究は進んでますかとの言葉に、改めて立ち止まって考えてみました。

探究は本当に始まったばかりという状況ですね。彷徨い求めていた探求はすでに終焉し、新たな、そして唯一の探究のベクトルが見出されました。

思えば今まで長い間、ポンコツ車に乗って大陸を横断してきました。横断が縦断になり、あるいは逆走になり、さんざん迷走してきました。

心境としては、今ようやく見晴らしの良い海岸線まで辿り着いたという感じです。

これから僕は車を下り、その大海に出るつもりです。

その為の学びと経験もいま少し必要です。帆の張り方も舵の取り方も、これからまだまだ実地の学びが必要ですね。

この先何年後かは分かりませんが、そう遠くない時期には大海原を走っていたいと展望しています。

そして、海と風と空と、共に在りたいと思う次第です。


・・・

ところで、大海原から突然マクドナルドの話に変わりますが、(笑)

僕は関西人ですが「マック」です。^^

せっかくなので昨日食べ比べてみたところ、揚げたてのサクサクのビーフカツが思いのほか美味かったのと、値段が50円安いってことでマクドに軍配でした。

(これからも心の中ではマックですけど。笑)

あと、食べながら思ったんですが、まんまと奴らの戦略にはめられたなと。しっかり売り上げに貢献してしまいました。^◇^ 


という訳で、

ハンバーガー万歳!
エゴ万歳!

大変満足した胃袋がそう申しておりました。(笑)
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-25 16:01:16
サムさんはやんわりと「このコメント欄以前にネットで議論は成り立たないよ」と諭しているというのに・・・
 
 
 
Unknown ()
2017-08-25 23:59:54
>私も過去、ネット上で匿名同士の討論が成り立っているところを一切見たことがないものですから。

私とサムさんとのやり取りってさ、噛み合ってたと思わない?あれってさ、議論(自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして、論じ合うこと。その論の内容。)であり、討論(その問題について是非を議論すること。)だよね。君は「過去、ネット上で匿名同士の討論が成り立っているところを一切見たことがない」と書いているが、気付いてないだけでは?

>討論に某かのメディアを挟むという、雲黒斎さんに電話交換手をやらせてまでやること自体がよくわからない話ですが。「よそでやれ」っていうクレームに耐えてまで、また雲黒斎さんにコメントを目を通してもらって取り次いで手間をおかけしてまでやる、承認制の元でやり続ける討論って一体なんなんだろうとは確かに思いますね。

そもそも、やり続けることが目的じゃないんで(笑)現にサムさんとのやり取りはすぐ終わったでしょ。ところで、君のコメントもブログ主に取り次いで手間を掛けてるわけだがいいのかい?(笑)

>なんで議論にちゃんと応じないほうが悪いみたいな流れになってるのさ。

それは君の被害妄想でしょ(笑)なぜ大抵の議論は噛み合わないのかと、どうすれば議論が噛み合うのかという話をしただけだよ?

>そもそも悟りは議論のテーマには成りえないんだよ。

君は「悟りは議論のテーマに成りえない」と主張しているが、私が「それって君の感想でしょ?」言ったら反論したくならない?反論したくなるならそれは議論(自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして、論じ合うこと。)のテーマに成り得るし、反論したくならないのなら本当にただの感想で根拠がないということだよね。

>そして、聞く耳をもつってのは一旦自分の意見を引っ込めて、まっさらな状態になることで、このまっさらな状態ってのが、このブログでずっと語られていることなんだよ。そこには自分もいないし相手もいない。

いや、だから「なぜそう思うの?」という話になるでしょ?これって聞く耳をもってない態度でしょうか?

>議論なんて必要ないし、あるのはせいぜい簡潔な質問と応答くらい。

矛盾してません?簡潔な質問と応答って議論(自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして、論じ合うこと。その論の内容。)に成り得ますよね?それにさ、「なぜそう思うの?」って質問は簡潔だと思わない?

>相互理解のために聞く耳をもちましょうというなら、まずまっさらになりなよ。無駄に握り締めていたものは自然と消えていくし、必要なものだけが生じてくるから。

お、おぅ・・・

>サムさんはやんわりと「このコメント欄以前にネットで議論は成り立たないよ」と諭しているというのに・・・

本当に?(笑
 
 
 
まだまだ残暑が厳しいようで ^^ (サム)
2017-08-26 03:57:04

秋の夜長はまだしばらくやって来そうにありませんが、今夜も相互理解についてまた一つ補足を書いてみようと思います。



あくまで僕の視点ですが、

両者の間に築いていく「理解」の意味ですが、これは必ずしも「賛同」ということではありません。

議論・討論には利害の対立もありますでしょうし、双方の主張が譲れないことも当然あります。

ではそんな両者の相互理解は不可能か?

そんなことはありません。

なぜなら、「理解≠賛同」だからですね。

スピ界隈でよく言われた言葉に「あるがまま」というのがありましたが、討論においても相手の視点・主張をあるがままに理解してみるのです。賛成か反対か、好きか嫌いか、善いか悪いか以前の段階です。

相手が言いたいことをそのまま相手の視点で見られること。

もちろん完全には出来ることではないので、そこは確認を重ねてコンセンサスを得ていく。

相手の視点・立場が十分に理解されてこそ、此方も適切な主張を立てることが出来、反対意見があればそれを十分に尽くせるでしょう。

ネットでは言いっぱなしが当たり前と言っても過言ではないですから、なかなか議論が成熟しない環境だと思います。

でもスピリチュアルな視点で見ればこそ、むしろ議論がスマートに行えるのだという風に僕は言います。

相手の意見でも、反対意見でも、相手の側に立ってあるがままに観られる。

それは即ち自らの思考の幻想を破るということです。

分からないこと、理解が足りない所は相手に教えてもらって共通の土台を作っていく。

それは即ち相互理解を育むということです。

噛み合わない議論を噛み合わないまま放りだすことも出来ますし、またそれをきっかけとして周囲の人も含め、各々が自身のエゴを破り、有意義な意見交換が可能な土壌を作り出すことも出来ますね。


・・・

ちなみに僕が先の投稿をしたのは、誰かをどうにかしたかった訳ではございませんで、

「フォーカスを変えればコメント欄というのは結構興味深い場所なんだよ」と、提示をしてみた訳でした。



以上、

黒澤さん、接続を宜しくお願い致します。(笑)



追伸

Unknown、略してUさま方。

何かお返事をしようと思ったのですがちょっと時間切れでございます。

もし僕本人に聞きたいことがありましたらまた気軽に呼んで下さいね。^^
 
 
 
別の視点から (匿名でお願い致します)
2017-08-26 13:05:26
今回の皆さんの意見を読まさせて頂きふと気が付いたのは、ネット、またはこのようなコメント欄でのやり取りがなければ話し合いができない、理解を深められないという前提でブログを閲覧をされている方が一定数いらっしゃり、そのような方達が中心となりこのコメント欄での討論、議論を肯定し、成り立つとしているのだろうということです。

私は単純に話し合い、理解を深める目的であれば、リアルでの口頭による議論に勝るものはないだろうに、何でこんな面倒な手続きをわざわざとってまで議論をするのか?(議論成立までの速やかさが「リアル>ネット」であることには異論はないと思います、Skypeなどは別にして)と半ば不思議に思っていたのですが、それが何らかの事情で出来ない方にとってはネットによるやり取りこそ全てと考えるのは当然の話ではないのかと。

ましてや例えば、ブログ主のライブ、動画への参加、閲覧を物理的、金銭的な事情、もしくはそれ以外の理由で出来ない可能性もあるとすれば、このブログによる書き言葉、視覚情報のみでスピリチュアルを触れざるを得ない、そしてその理解を深める為にこのコメント欄でのやりとりにこだわざるを得ないという方もいらっしゃって当然なのでは?と私なりに理解出来たのが、今回のこの見解の理由です。

このブログによる文字媒体でなければスピリチュアルに関われない、ここのコメント欄を利用しなければその理解を深められないという方は一定数いらっしゃって、それを他者が責めたり非難出来る理由はどこにもない。それが出来るのはおそらくブログ主ぐらいだろうと。

そういう私もそもそもこのブログでスピリチュアルを知り、今もこうやって書き言葉という文字情報のみで皆さんに意思表示をしている、そして出来ているはずであろうことをまずは肯定しなければならない。

改めてそう考えました。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-26 13:40:08
>私とサムさんとのやり取りってさ、噛み合ってたと思わない?あれってさ、議論であり、討論だよね。
なんで乙女みたいになってんだよ。気持ちわりい。
しかも議論でも討論でもねーし。ただのおしゃべりじゃねーか。
宙は単にサムの言うことに納得したから引き下がっただけだろ。
理解できれば納得する。理解できなければ質問する、自分の意見を言う、反論する。
一般の社会ではそれでいいけど、この世界は違うんだよ。
なにか相手に言いたくなるとき、まずそれが頭に浮かぶだろ。
それをすぐ言葉にするのではなく、浮かんだそれに気づくこと。
すでに頭の中で言葉になっていたら、その言葉に気づくこと。
このワンクッションが習慣になれば、それでもう済だ。
やろうと思えば今すぐできるだろ。やれよ。
 
 
 
Unknown ()
2017-08-27 00:25:51
>議論成立までの速やかさが「リアル>ネット」であることには異論はないと思います、Skypeなどは別にして

果たしてそうでしょうか?例えば、このコメントを書いた顔も名前も住所も知らない君とやり取りする場合、わざわざ名前と住所を聞きだして、移動時間とお金を掛けて会いに行きますか?(笑)そのほうが面倒じゃないですか?(笑)君は違うかもしれないが、大抵の人は気軽で便利だからネットを選ぶと私は思うけどね。

>しかも議論でも討論でもねーし。ただのおしゃべりじゃねーか。宙は単にサムの言うことに納得したから引き下がっただけだろ。

認めないと予想はしてたが、まさか「おしゃべり」と主張してくるとは思いませんでした(笑)

一般的に議論とは「自分の考えを述べたり他人の考えを批評したりして、論じ合うこと。その論の内容。」ですよね。

サムさんの主張を私が批評し、サムさんは主張の修正と補足説明、私が納得(批評)

これって議論じゃないですか?
なぜ議論ではないと思うのですか?

>理解できれば納得する。理解できなければ質問する、自分の意見を言う、反論する。一般の社会ではそれでいいけど、この世界は違うんだよ。

え?(笑)なぜこの世界は違うんですか?

>なにか相手に言いたくなるとき、まずそれが頭に浮かぶだろ。それをすぐ言葉にするのではなく、浮かんだそれに気づくこと。すでに頭の中で言葉になっていたら、その言葉に気づくこと。このワンクッションが習慣になれば、それでもう済だ。やろうと思えば今すぐできるだろ。やれよ。

ちょっと何を言いたいのか分からない(笑)気づくとどうなるの?
 
 
 
匿名でお願い致します さんのコメントを拝見して (サム)
2017-08-27 00:42:05
日常生活ではなかなか悟りやスピを語り合うって出来ないですからね〜。^^

その点がこうした一種のコミュニティの大きなニーズでありメリットじゃないかと感じます。

考えてみれば、簡単にアクセス出来て交通費も無料、しかも24時間いつでも自分のタイミングで閲覧・参加出来るって、実はすごく有能なコミュニティだなと。

リアルにはそんなコミュニティはありませんね。

匿名さんも仰るように人それぞれに事情や動機がありますから、皆それぞれの動機でこの無料のコミュニティを訪れ、またそれぞれの受け止め方で明日への糧を得てらっしゃるのでしょうね。



それからふと思ったのですが、

ネットでの議論は成立が難しいという点について改めてフォーカスを変えてみますと、

ここがスピや悟りといった人間の意識構造を扱ったブログに付随する場所であるならば、

むしろ、「ネットでの議論の難しさ」という事さえも人の意識の現れとして立派な観察対象であり、考察のテーマだと言えます。

何なら、なぜ難しいのかを根本の根本まで掘り下げられるのがスピリチュアルの本懐でしょう。

つまりある意味、議論を扱うのがどのコミュニティよりも本来適しているんじゃないでしょうか。(笑) こうしてやり取りすること自体が全てフィールドワークになり得るのですから。^◇^



(やめてくれ〜!という声が容易に想像出来ますが。笑)
 
 
 
サムさん、ご丁寧なご返信、誠にありがとうございますm(_ _)m (匿名でお願い致します)
2017-08-27 02:55:20
サムさん

ご返信ありがとうございます。

>匿名さんも仰るように人それぞれに事情や動機がありますから、皆それぞれの動機でこの無料のコミュニティを訪れ、またそれぞれの受け止め方で明日への糧を得てらっしゃるのでしょうね。

このようなご理解、コンセンサスをお取りになったコメントを頂くと、このコメントの場が改めて書き込み者自身の学びになると改めて感じます。まさに全てがフィールドワークです。

誠にありがとうございます。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-27 22:21:04
>ちょっと何を言いたいのか分からない(笑)気づくとどうなるの?
なに言ってんだ、おまえ。
黒斎が語っているのはすべてこの気づきのレベルの話だろーが。
気づくとどうなるの?ってなんか笑えるな。
おまえはそれがわからないから文章をただなぞることしかできないんだよ。
行間を読むことができないし、やっぱり本当の意味で聞く耳をもてていないんだって。
議論とか、学ぶとか、理解を深めるとか、そんなことはどうだっていいんだよ。
スピリチュアルは学問じゃないんだから。
気づくとどうなるの?じゃねーよ。
どうもなんねーよ。
あとはただ気づきとの親和性を高めていくだけだ。
 
 
 
サム (落ち着いてきたので燃料を投下しよう。(笑))
2017-08-28 03:20:13
なんちゃって。^◇^



>気づくとどうなるの?じゃねーよ。
>どうもなんねーよ。



昨日か一昨日から二人が話題にしている「思考に気付く」こと。

二人の話とは直接は関係ありませんが、思考に注目するということに関連して、よくスピ界隈で重宝される「気付き」。

気付きが起こるとどうなるか、って話なんですが、

僕なりの言葉で言えば、やっぱり気付くと何かと自由になれますね。

エゴだったり、錯覚だったり、

まあいわゆる幻想から自由になれます。



んで、自由になったらなったでその先また色々と新しいエゴの罠に落ちるんですが、

まあまたそれに気付いてその場所から自由になる、と。

この繰返しが何度となくあります。

そしてその七転び八起きが一体どこに向かうかと申しますと、

目的地は「マインドの終焉」という場所でございますね。



で、

マインドが終焉した世界とは何を意味するか、というと、

そこからは言わば思考を超越した「不立文字」的な世界で、

言葉でなんてはっきりと説明することが出来ませんからね〜、

という構造になっている訳ですね。



で、さらに、

マインドが終焉してそれで終わりか、と言うとどうやらそうでも無いらしく、

その先に何やら「解脱」という、も一つぶっ飛んだ展開もあるらしいよ、と。

ただ、多くの人がそのような噂を聞くんだけれども、あんまりぶっ飛び過ぎて誰も確かめようがなく、

さらには、最初はそれを確かめようと修行を始めるんだけど、やっぱしマインドが終焉しなくて、

そのうちマインドに絵で描いた「悟り」って名前の餅を売り始める人ばっかりになっちゃったんですね。←イマココ

だから結局、一般の人にはよく分からない話のままなんです、と。



とすると、

「俺、気付いちゃった。。」というのは、

幻想から自由になれたのだとも言えますし、

あるいは、

その気付きそのものが、マインドの中で起こっている幻想だという場合もあるということなんですね。



だから昔から、「ちゃんと解脱した人」の元で教えてもらいなさいよ、って言われ続けて来てる訳なんですが、

どうしてそうでなきゃ駄目なのかは解脱した人たちに検証されてまして、

実は、「気付きというものが一体何なのか、それがどこからやって来るか、当の本人には識別する能力が無い」っていうのが大きな盲点だという話なんですね。



なので、

気付きというものに興味津々でスピ界隈を散策している方がいらっしゃいましたら、

もしそれが自分に訪れた場合、「それが一体何なのか正確に知る識別力が自分には無い」という事実は予め知っておいた方が良いだろうと思います。

人は訪れた気付きを正確に識別する力が無いので、

そこにマインドによる解釈を与えて「真実」と結論します。

その真実は、又の名を「絵に描いた餅」と言う訳ですね。



・・・

絵に描いた餅は何故かスピ界隈では人気商品なんですが、(笑)

まあ、「絵に描いた餅ってのはどうも食えないな」と "気付く"人もこれから徐々に増えて来るのかもしれません。



以上、

餅を焼くときの燃料にどうぞ。(笑)

(ジョークです)
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-28 04:35:07
>果たしてそうでしょうか?例えば、このコメントを書いた顔も名前も住所も知らない君とやり取りする場合、わざわざ名前と住所を聞きだして、移動時間とお金を掛けて会いに行きますか?(笑)そのほうが面倒じゃないですか?(笑)君は違うかもしれないが、大抵の人は気軽で便利だからネットを選ぶと私は思うけどね。

果たしてそうでしょうか?例えば、このコメントを書いた顔も名前も住所も知らない君とのやり取りなんてはじめからする気もない人間が、わざわざ名前と住所を聞きだして、移動時間とお金を掛けて会いに行くと思いますか?(笑)相手を選ぶに決まっているじゃないですか?(笑)君は違うかもしれないが、大抵の人は気軽で便利だから絡んでくる君のような人間がいるからネットでの議論を避けていると私は思うけどね。
 
 
 
Unknown ()
2017-08-28 11:09:04
>ちょっと何を言いたいのか分からない(笑)気づくとどうなるの?
なに言ってんだ、おまえ。黒斎が語っているのはすべてこの気づきのレベルの話だろーが。気づくとどうなるの?ってなんか笑えるな。おまえはそれがわからないから文章をただなぞることしかできないんだよ。行間を読むことができないし、やっぱり本当の意味で聞く耳をもてていないんだって。
議論とか、学ぶとか、理解を深めるとか、そんなことはどうだっていいんだよ。スピリチュアルは学問じゃないんだから。気づくとどうなるの?じゃねーよ。どうもなんねーよ。あとはただ気づきとの親和性を高めていくだけだ。


難解過ぎる(笑)
君は「気づき」をどういう意味合いで使ってるの?一般的に、何かに気づくというのは「それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を理解する」ことだよね。理解を深めることはどうでもいいことですか?(笑)「気づきとの親和性を高める」というのはスミマセンがマジで意味不明です(笑)

「スピリチュアル」を語るなら当然その言葉の知識(ある事柄について、いろいろと知ること。その知りえた内容。)が必要ですよね。だって、知らないものを説明するのは不可能でしょ?

ということはスピリチュアルは学問(学んで得た知識)なのでは?(笑)

こんな支離滅裂では行間なんて読めませんよ。

いやはやこの有様は「ポスト・トゥルース(世論形成において、客観的な事実より、虚偽であっても個人の感情に訴えるものの方が強い影響力を持つ状況。事実を軽視する社会。)」のようですね。
 
 
 
なんというか (さむらい)
2017-08-28 12:40:50
いやぁ〜この前あった記事「スメルマン」、あれ最初にぱっと見て「スルメマン」だと思っちゃったんですよ。
記事内容読んですぐ間違いに気付いたから良かったものの、あれそのままスルメマンだと思って読み進めていたら大変な事になっていた筈。

ていうか黒斎さんも忙しいとは思いますが、そろそろ記事の更新お願いしますね!
 
 
 
自身コメントへの補足 (匿名でお願い致します)
2017-08-28 14:30:27
補足①

>ブログ主のライブ、動画への参加、閲覧を物理的、金銭的な事情、もしくはそれ以外の理由で出来ない可能性もある

投稿時には「それ以外の理由」と書きましたこの部分は、聴覚に障害をお持ちの方、また音声情報による理解、他者とのその情報の共有が何らかの理由で困難な方、また外出が出来ない方、対面のコミュニケーションが難しい方等を前提として記しております。

このことを踏まえて考えますと他者との「議論」をする時に、ある方にとっては対面による口頭でのやり取り(Skype等も含む)こそが速やかに議論が出来ると判断するでしょうし、ある方にとっては視覚情報のみで可能なネットの文字情報の入力と読み取りのやり取りが、物事の理解、やり取りの方法の全てであるとお考えになるのは、共に自然なことであろうと思われます。

当初私は前者の立場で、議論そのものの速やかさに関して「リアル>ネット」と記しましたが、後者の方からすれば「ネット>リアル」であるとすると考えられますので、この部分は「立場によって異なるものである」と改めて訂正致します。

補足②

>議論成立までの速やかさが「リアル>ネット」であることには異論はないと思います、Skypeなどは別にして

この元々の文意ですが、不特定多数の人間との議論に至るまでの経緯に手間、時間、お金が掛かる、掛からないという意味ではなく、特定他者との議論そのものののやり取りの方法論としてのリアルとネットを比較した場合、どちらが速やかに成立するのかを記した意味の文章のつもりでした(上記補足①の通り、これは立場によって違う)。

しかしこれは全体の文脈、口頭であれば話の流れ、全体の趣旨を汲んで読み取ってもらえるものとした、リアルでの議論に主軸を置く書き手側の、ネット上の読み手の方に一方的に甘えてしまった説明不足、またはリアルの口頭でのやり取りにありがちな説明の省略、簡略化を不特定多数の人間が存在するネットの場で起こしてしまった、リアルの感覚をネットに持ち込んだが故に誤読されがちな事例であると考えられた為、以上補足として付記させて頂きます。
 
 
 
届いた!! (白い稜線)
2017-08-28 18:04:41
黒澤さんこんにちは!!
本屋でなかなか黒澤さんの老子の本が見付からず、ネットで注文し、今日届きました。
まだ未読で、パラっとめくっただけですが、これは面白そう!!
読みおわったら、Amazonレビューなど書きたいなぁと思っております。
黒澤さん、面白そうな本をありがとう!!
 
 
 
Unknown ()
2017-08-28 20:18:27
>マインドが終焉した世界とは何を意味するか、というと、そこからは言わば思考を超越した「不立文字」的な世界で、言葉でなんてはっきりと説明することが出来ませんからね〜、という構造になっている訳ですね。

ここで言ってる「マインド」というのは「心、精神、意識」という意味合いでしょうか?仮にそうだとして考えると、「心、精神、意識が終焉した世界」というのは、例えば「眠っている時のように意識がない状態」という表現ができそうな気がするのですが、これだと問題があるんですかね?

>だから昔から、「ちゃんと解脱した人」の元で教えてもらいなさいよ、って言われ続けて来てる訳なんですが、どうしてそうでなきゃ駄目なのかは解脱した人たちに検証されてまして、実は、「気付きというものが一体何なのか、それがどこからやって来るか、当の本人には識別する能力が無い」っていうのが大きな盲点だという話なんですね。

「気付きというものが一体何なのか、それがどこからやって来るか、当の本人には識別する能力が無い」というのは、解脱した人は例外なんですかね?そうでなければ教えることなんてできませんよね。うーむ、解脱した人はどうやって検証したんでしょうね?
 
 
 
「わかりかけのラジオ」をYouTubeでアップしろという書き込みがあった理由 (匿名でお願い致します)
2017-08-28 23:22:51
それはYouTubeだと字幕機能があるからなんですよね。雲黒斎さんが出演されてるラジオなのに「このブログにその感想を書くな」というコメントもあったはずですし。

もしかしたら今後、動画配信の第2弾を計画されているなら、この辺りもご考慮された方が良いかもしれませんね。

各閲覧者のご事情がわかると、何でこんな苛立った雰囲気が伝わる書き込みを毎回続けるのだろう、何でリアルの対話、お話会等の参加、そして動画の閲覧を否定してまでこのブログ、コメント欄の文字だけのやり取りのみを絶対とするのかが理解できるかと。

だからこそこのブログは更新間隔が開こうが続けて頂くべきだと思いますし、逆にコメント欄をあえて解放されているのもこの辺りが理由かと思いますし。

この点私も一閲覧者として全く無理解、無関心であったことは反省しております。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-28 23:26:53
>一般的に、何かに気づくというのは「それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を理解する」ことだよね。
まあ、そうなんじゃねーの。
気づきと理解はこの場合ほぼ同義ってことでいいよ。めんどくせーから。

>理解を深めることはどうでもいいことですか?(笑)
学びを深めるというならわかるけど、理解って深められるの?
理解が生じた瞬間、そこで完結じゃん。

>「気づきとの親和性を高める」というのはスミマセンがマジで意味不明です(笑)
気づきや理解は深めようがないの。
なじむことはできるけど。
親和性を高めるってのはそういう意味。
 
 
 
宙さんへ (サム)
2017-08-29 02:16:23
すみません今日時間切れでして、

明後日にはお返事を出来るようにと考えてます。

宙さんを落胆させるような内容になる予定です。(と思う。)

でも誠意を持って書きますので、どうぞ宜しくお願いします。
 
 
 
あははははは (ただの「自分」)
2017-08-29 13:16:50
さむらいさん

>(前略)あれそのままスルメマンだと思って読み進めていたら大変な事になっていた筈。

・・・・・「ふぐり」どこじぁなくなってましたね(^^;;;;;;;;;;

ただなんとなくこのコメント欄開いて、なんとなく上に遡っていって、
初めて目に止まったコメントがコレでしたが、
お陰様でゆるませて頂きました。ありがとうございます。
 
 
 
Unknown ()
2017-08-29 15:45:32
>「わかりかけのラジオ」をYouTubeでアップしろという書き込みがあった理由。それはYouTubeだと字幕機能があるからなんですよね。雲黒斎さんが出演されてるラジオなのに「このブログにその感想を書くな」というコメントもあったはずですし。

「このブログにその感想を書くな」なんて言う人がいたんですね(笑)けしからんですな(笑)

私も「わかりかけのラジオ」を聞かなかったし、YouTubeにアップして欲しいと思ってる人達のうちの1人ですが、少なくとも私は好きな時に手軽に無料で見たいからという理由ですね。(笑)そこまで興味もなかったから、見たい欲求より登録手続きの面倒さが勝ったし、後から見ようとすると無駄にお金が掛かるでしょ。

>各閲覧者のご事情がわかると、何でこんな苛立った雰囲気が伝わる書き込みを毎回続けるのだろう、何でリアルの対話、お話会等の参加、そして動画の閲覧を否定してまでこのブログ、コメント欄の文字だけのやり取りのみを絶対とするのかが理解できるかと。

なぜ、「このブログ、コメント欄の文字だけのやり取りのみを絶対としている」と思うのでしょう?私には君が単に決めつけたがってるように見えるんですよね。

例えば、毎日、仕事終わりに近くのコンビニでお酒を買う酒好きな人がいるとしましょう。その人はそのコンビニでお酒を買うことを絶対としていると思いますか?(笑)近くて便利だから寄ってるだけで、もしそのコンビニがなければ別のところで買うと思いませんか?

だから、私には君が根拠なく決めつけたがってるように見えるんです。

君は本当に各閲覧者の事情を理解してるの?独り善がりで理解した気になってるだけじゃないの?

>学びを深めるというならわかるけど、理解って深められるの?理解が生じた瞬間、そこで完結じゃん。

一般的に「理解を深める」とは、対象についてより詳しく知り、事情をよく理解すること。」です。

例えば、見ず知らずの人のことを理解しようとした場合、大抵は一目で男か女かは理解できますよね。しかし、見ただけでは名前や年齢等はわかりませんよね?これでも理解が生じた瞬間、そこで完結だと思いますか?

>気づきや理解は深めようがないの。なじむことはできるけど。親和性を高めるってのはそういう意味。

よくわかりませんが、気づく(それまで気にとめていなかったところに注意が向いて、物事の存在や状態を理解する)ことに慣れてしっくりくるということですか?しかし、気づいたところで全てを知るわけではないし、支離滅裂なことを理解できるようになるわけでもありませんよね。結局、何を伝えたいんですか?(笑)
 
 
 
これお前宛じゃないんだけど? (Unknown)
2017-08-29 19:15:55
>各閲覧者のご事情がわかると、何でこんな苛立った雰囲気が伝わる書き込みを毎回続けるのだろう、何でリアルの対話、お話会等の参加、そして動画の閲覧を否定してまでこのブログ、コメント欄の文字だけのやり取りのみを絶対とするのかが理解できるかと。

これのどこ読めばお前宛になるの?
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-29 19:17:20
>例えば、このコメントを書いた顔も名前も住所も知らない君とのやり取りなんてはじめからする気もない人間が、わざわざ名前と住所を聞きだして、移動時間とお金を掛けて会いに行くと思いますか?(笑)相手を選ぶに決まっているじゃないですか?(笑)君は違うかもしれないが、大抵の人は気軽で便利だから絡んでくる君のような人間がいるからネットでの議論を避けていると私は思うけどね。

君宛のこれには絡まないの?
 
 
 
スルー出来ない君へ (Unknown)
2017-08-29 19:26:14
・ネットでの口論は無意味です。「勝ち」はありえません。ただ「あなたの大切な人生を使って、どうでもいい相手との時間を過ごした」という事実が残るだけです。

「うわぁ、全くもってあなたの仰る通りです」
「一切の反論もできないほど完璧な論理!自分が恥ずかしい!」
「全面的に論破されました!私の発言は全て間違っておりました!」

何てことは絶対にあり得ません。

「どんな人も間違いなく黙らせる方法」はありません。それこそ物理的に殴るしかありません。言葉は、相手の中に「聞こう!」という気持ちがあるときにだけ有効なのです。

・人は討論によって唯一の真実を見つけようなんて思っておらずただ「相手より俺がすごい」と言って欲しいだけだから大半の討論が時間の無駄。

ゆうきゆう(精神科医)
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-29 22:50:07
>一般的に「理解を深める」とは、対象についてより詳しく知り、事情をよく理解すること。」です。
おまえが言っているのは「対象について理解すること」
俺が言っているのは「理解そのもの」
誰かがなにかを理解するのではなく、そのとき生じた理解そのもののこと。
理解の中身じゃなくて、生じたそれのこと。

>結局、何を伝えたいんですか?(笑)
俺なりにおまえと向き合ってコメントしてきたつもりだけど、この辺でギブアップするわ。
単純に飽きてきたってのもあるし、伝わらないということがわかっただけでもまあいいわ。

最後にひとつ聞きたいんだけど、俺がこのブログを読み始めた頃コメント欄に磁石の威力ってヤツがいたんだけど、これおまえじゃないよな?
 
 
 
Unknown ()
2017-08-30 00:10:22
>これお前宛じゃないんだけど?これのどこ読めばお前宛になるの?

前にも言ったけど、自分宛じゃないとコメントしちゃいけないんですか?(笑)

>君宛のこれには絡まないの?

再三説明したにもかかわらずに根拠もなく頭ごなしに絡みと決めつけてるので、敢えて今回はわざわざ反応してあげなくてもいいかなって思ってね(笑)それに、あの傍から見ておかしなコメントを放置するのも一興かと(笑)

>「うわぁ、全くもってあなたの仰る通りです」
>何てことは絶対にあり得ません。

私とサムさんとの最初のやり取り見てなかったの?(笑)君がそう思いたいだけじゃないの?(笑)

>・人は討論によって唯一の真実を見つけようなんて思っておらずただ「相手より俺がすごい」と言って欲しいだけだから大半の討論が時間の無駄。

「大半」ってことは時間の無駄ではない討論もあるってことだよね?(笑)理由が分かってるならそれに気をつければいいでしょう?(笑)だからサムさんと大抵の議論が噛み合わない理由についてやり取りしてたんだけどね(笑)
 
 
 
黒斎さんのツイートで (ただの「自分」)
2017-08-30 03:34:33
>「探求が終わる」ことと「探求を辞める」ことは、イコールではありません。
>言うなれば、前者は「卒業」であり、後者は「中退」です。
>しかしながら、こと精神世界において、後者でありながら「スピリチュル卒業」と話されることが多いと感じます。
>勿論「中退が悪い」と言いたいのではありません。

とありますが・・・・・
『中退者』が『輪廻転生』の『元』となり、
次の『精神』、『肉体』の『一部』となる・・・・・という解釈にもなるでしょうか?

とりあえず、ちゃんと『卒業』しないと、かなぁ・・・・・
・・・・・と言うかちゃんと『入学』できてるんだろうか自分?
なんか、勝手にキャンパスに紛れ込んで、『学生』を冷やかしたり『遊んでる』気しかしないんですが(笑)
 
 
 
Unknown ()
2017-08-30 10:11:55
>俺が言っているのは「理解そのもの」誰かがなにかを理解するのではなく、そのとき生じた理解そのもののこと。理解の中身じゃなくて、生じたそれのこと。

「そのとき生じた理解そのもの」ってのは「対象についてより詳しく知った状態」のことでしょ?じゃあ、「生じたそれ」というのは「理解の中身」のことでしょ?(笑)

それともまさか、もしかして、理解という言葉自体の意味はもう決まっているからこれ以上は深めようがないという話ですか?それなら納得ですけど、話の流れ的にそれを言うのも変ですよね?(笑)

>俺なりにおまえと向き合ってコメントしてきたつもりだけど、この辺でギブアップするわ。単純に飽きてきたってのもあるし、伝わらないということがわかっただけでもまあいいわ。

あれで向き合ってたつもりだったんですか?(笑)相手の言い分を聞かず、よく考えもせずに支離滅裂な話をする人だなぁと感じていました。まあとりあえず、お疲れ様でした。

>最後にひとつ聞きたいんだけど、俺がこのブログを読み始めた頃コメント欄に磁石の威力ってヤツがいたんだけど、これおまえじゃないよな?

誰それ?(笑)私じゃないですね。
 
 
 
噛めば噛むほど味が出るスルメの様な男の話かと思ったんです (さむらい)
2017-08-31 00:05:19
ただの「自分」さん
いえいえ!こちらこそありがとうございます。
そうですね!ゆる〜く、いきましょ。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2017-08-31 00:19:31
>誰それ?(笑)私じゃないですね。
それを聞いて安心した。
あいつが今でもこんなんだとしたら不憫でしょうがない。
さすがにあの頃よりは柔軟になってるだろうな。
おまえは頭カチンコチンのまま、気の済むまでここでいちゃもんつけてりゃいいよ。
俺のコメントに付き合ってくれてありがとうノシ
 
 
 
マインドの終焉 (サム)
2017-08-31 10:40:48
>ここで言ってる「マインド」というのは「心、精神、意識」という意味合いでしょうか?仮にそうだとして考えると、「心、精神、意識が終焉した世界」というのは、例えば「眠っている時のように意識がない状態」という表現ができそうな気がするのですが、これだと問題があるんですかね?


最近よくマインドという言葉を用いるのですが、この言葉を使っている人は僕も含めかなり都合の良いように使っているかもしれません。概ねその使われ方は宙さんの書かれた「心、精神、意識」といった意味はしっかり入っていると思います。一方、僕の意図するものは場合によって他の意味も含まれることがあります。

僕の視点において狭義では「心、精神、意識」のニュアンスの通り、例えば「マインドを一点に集中させる」など精神統一の意味も表せると思いますし、広義ではマインドとは我々の自我が認識する「わたし」にまつわる心や身体、そしてその認識の延長線上にあるこの物質界全体までも射程範囲に入っている言葉だとも考えています。
(必ずしも物質界に限る訳ではないですが。)

自我というものがいつの日か終焉する時、それまで自我を通して認識していた世界は果たしてどんな終焉を迎えるのか。あるいは認識は生まれ変わり世界は新たな姿を現すのか。今回僕が書いた「マインドの終焉」の"マインド"は、認識する自我と認識される世界を別々なものとは見なさず、その一連の働きや現れの総称として用いられています。

(上記のことから「マインドの終焉」を迎えてもそれを観ている知覚力がある、という捉え方を僕がしているのをお察しになれると思います。そのことについては別途。)


・・・

ここまで僕の視点の枠組みをひとまとめに書きましたが、また色々と質問が生じてきます...よね? ^^; しかし宙さんには残念ですが、さらなる質問についてはここで一度ストップをお願いしたいと思います。

なぜなら、やはり論じている対象が人の思考を超えた世界という訳で、中々ここでも思考では対処しきれないのが実情となります。ですから先の投稿でも「マインドの終焉」の中身そのものには踏み込みませんでした。

今回も僕の視点がどんな立ち位置かということは書けても、そのものズバリについては理解が全く足りません。否、思考が理解するはずが無いと言うのが正確でしょうか。

もし推測を書いたところでやはり絵に描いた餅になってしまいます。ですから、まさにこの先僕はその「思考」を超えていく世界へと航海を進めようと思っているところです。

「マインドの終焉」...これを描写するのではなく、実際にフィールドワークに向かいます。現在このような状況であるということを宙さんにお伝えして、マインドの終焉に関しては議論の中断をお願いする次第です。
 
 
 
気付きを識別する力 (サム)
2017-08-31 10:47:27
>「気付きというものが一体何なのか、それがどこからやって来るか、当の本人には識別する能力が無い」というのは、解脱した人は例外なんですかね?そうでなければ教えることなんてできませんよね。うーむ、解脱した人はどうやって検証したんでしょうね?


例外という表現で適切か僕にも分かりませんのですが、なぜ検証自体が可能なのか。本人はどうしたのか。根本的には「解脱した人の持つ"識別力"とは一体何なのか」という所に遡っていきますね。

前の投稿で、僕は「マインドの終焉を迎えてもそれを観ている知覚力がある」という捉え方をしていると書きました。

ここで話を整理すると「解脱した人の識別力の源泉、それはマインドの終焉をも観た知覚力、それ自体である」というのが僕の見解です。

ならばその知覚力とは如何なるものか...と詰めたい訳ですが、やはりそれも前の投稿同様まさに思考の及ぶ範疇ではありません。ですからまた残念ながらここで議論をストップせざるを得ない訳です。

たださすがに解脱までフィールドワークするなんてことは軽々しく申し上げられませんので、この議題に関しては一旦保留というより終了と言うべきかもしれません。

解脱者について触れた僕の言葉に対する宙さんの質問はごもっともなものだと思います。スピ界隈での議論においてはしかし、そのもっともな質問をスキップして両者がお互いの絵に描いた解脱、解脱者、悟りを論じ合うのが常でしょうか。その意味で宙さんの質問には誠に意義があろうと思います。

しかし、その質問の答えを真に理解出来るのは解脱者自身だけであるため、極論を言えば、「宙さん自身が探究に突入して実際に確かめるしか道は無いのだ」ということになろうかと思います。

この返信に落胆したかどうか分かりませんが、以上が僕の率直な心情となります。


・・・

ところで、マインドの終焉という航海を踏破し、彼岸へと至った幾多の解脱者たちが歴史に燦然と輝いています。

そうした方々の史実や書籍は後世の人による創作などもあり、その全てが参考とはいかず薬にも毒にもなり得ると思います。

しかし、解脱した方々が我々に伝えて下さっていることの根本は、おそらく我々人類の誰もが共通して持っている基盤に依っていることでしょう。

ゆえに、誰もが大洋に船出してもいいと思いますし、誰もが大空へと飛翔して構わないのだと思います。もちろんしっかりと準備をし、然るべき教師にその術(すべ)を学んだならば。



という訳で、ご返答として色々と書かせて頂きましたが、例によって宙さんへのレスにかこつけて書きたいことを書いただけとも言えますので、(笑) お返事には及びませんです。このまま流して下さって全然構いません。

どうぞ宜しくお願いします。
 
 
 
サムさんへ確認させてください (ただの「自分」)
2017-08-31 20:12:09
まず、

>今回僕が書いた「マインドの終焉」の"マインド"は、認識する自我と認識される世界を別々なものとは見なさず、その一連の働きや現れの総称として用いられています。

これ、仰る通りだと思います。

自分も、結局『マインド』ってなんだろう?と思って、
いろいろ湧いてくるものを検証していたところ、
最近、実感してきたことがあります。
と言っても、べつに見性体験等無いです。ただただ、自身の思考、感情、感覚を
眺め続けた感想というだけで、その気になれば誰にでもできる事だと思っている
レベルの事を書かせて頂きます。

例えば『重い思考』が湧いている時に、『重い思考』に対して、
「こっちの方が楽だよ」
と『説得する思考』が湧いてきて・・・又は、敢えて意識して湧かせて・・・
『説得する思考』は、必死に説得し続けます。
そのうち、「こっちの方が楽だよ」と指し示しているはずの『説得する思考』が、
「あれ?なんか辛い、必死過ぎ・・・」と気付いてきて、それから
「あ、こうして『説得』する事で『重い思考』を、わざわざ『掴んでいる』んだ、あれーーーっっっ」
と気付いて、そしたら『重い思考』も『説得する思考』もゆるんで『解放』されます。

その経験から、『マインド』は何かって、自分としては、『重い思考』でも『説得する思考』でもなく、
両方を『掴んでいる』感覚の事だと思いました。
ほんと、『重い思考』も、『説得する思考』も、両方共『マインド』の『自作自演』なんですねぇ~(笑)
しかも、今のところ自分としては、いちいち一旦『はまり込まない』と、
『自作自演』と気付けない感じです。こんなものでしょうか?
 
 
 
Unknown ()
2017-08-31 21:10:47
>なぜなら、やはり論じている対象が人の思考を超えた世界という訳で、中々ここでも思考では対処しきれないのが実情となります。ですから先の投稿でも「マインドの終焉」の中身そのものには踏み込みませんでした。今回も僕の視点がどんな立ち位置かということは書けても、そのものズバリについては理解が全く足りません。否、思考が理解するはずが無いと言うのが正確でしょうか。

ここがいつもわからないんですよ。なぜ「思考を超えた世界」「思考が理解するはずが無い」という結論に至ってしまうのか。何か「思考が理解するはずがない」と思う理由があるはずですよね。「マインドの終焉」の中身についての質問はストップで構わないのですが、この一点だけ、何故そう思うのかを教えて頂けませんか?

>ところで、マインドの終焉という航海を踏破し、彼岸へと至った幾多の解脱者たちが歴史に燦然と輝いています。そうした方々の史実や書籍は後世の人による創作などもあり、その全てが参考とはいかず薬にも毒にもなり得ると思います。しかし、解脱した方々が我々に伝えて下さっていることの根本は、おそらく我々人類の誰もが共通して持っている基盤に依っていることでしょう。

例えば、実在した人物で解脱者と呼ばれる人は誰がいるでしょうか?恐らく、その人達が伝えたことは人々を唸らせる内容なのでしょう。しかし、解脱者といえども人に何かを伝えたということは、伝えることを考え(思考)、言葉にしたと考えるのが普通ではないでしょうか?そう考えると余計に「本当に思考を超えた世界の話なのか?」と思うし、「解脱者」というのは単なるレッテルに過ぎないのではないか?という疑問も生まれます。

「どこからが解脱なのか?」、それは「どこからが国境なのか?」と同じように人々が勝手に決めたことで本当は思考を超えた世界などないのではないか?

こういう疑問を否定できる材料が、今現在、見当たらないのです。

だから結局、「なぜそれが思考を超えた世界の話と言えるのか?」という素朴な疑問に至るんです。

これが分かれば、当然ながら「思考を超えた世界」が実在することに疑いがなくなり、私でも「思考では辿り着けない」と気づけますよね。

すみませんが、もし良ければご教示頂けませんか?
 
 
 
ただの「自分」さん、宙さんへ (サム)
2017-09-01 04:40:51
ただの「自分」さん、こんにちは。
つぶさに思いを観察してらっしゃいますね〜。^^

「掴んでいる」感、まさにマインドって感じですよね。

自我ってある意味、「重力」みたいな所があると思うんです。
放っておくと雪ダルマのように掴んで、中に取り込んで行っちゃうような。

一旦はまり込まないと気付けない感じ、という部分にも何となくそうした面もあるのかなって。ちょっと思いました。

幾重にもなった自我の投網というのを痛感してきた僕ですが、ただの「自分」さんの投稿を拝見して、

僕の中にある気付くということや、開放されるということにも、実は裏でこっそりと重力がかかっているのかもしれないと、新たな視点、観察のしどころを得たような気がしました。

マインドの自作自演という視点は僕にとってけっこう斬新なご意見でした。またじっくり読ませて頂きますね。レスをありがとうございました。



そして宙さん、率直なお気持ちを書いて頂いて、
何と有意義な対話だろうかと。どうもありがとうございます。

お返事に十分な推敲の時間を掛ける必要がありそうなので、週末はどうぞのんびりして頂いて。(笑)

週明けに投稿出来るようにしたいと思います。

それから、僕はどんな対話のお相手も完全に対等な間柄だと思っていますし、同じ旅をゆく同朋だと思っています。何もお気遣いなきよう、どうぞ宜しくお願い致します。^^
 
 
 
自作自演 (サム)
2017-09-02 03:00:03
ただの「自分」さん、改めましてこんにちは。

マインドの自作自演についてなんですが、

本当に自作自演という言葉は「マインドの別名」とでも言えるようなピッタリな言葉ですね。



自分も、舞台も、台本も、

もちろんその作品全体を貫く世界観も、

全てが自我の織りなす創造であると。



広義においてマインドとはその全ての現れを指し示すものだと、僕はそのような視点を持っていた訳ですが、

一方、思考の中に自作自演性が現れるとも取れる、ただの「自分」さんの視点は今回新しい感覚としてなるほどと思いました。

と言うのも、今まではあまりそれを感じた機会が無かったのかもしれません。


・・・

ちなみに、僕の普段の感じと言いますか、思考を見ている感じを書かせて頂きますと、



例えばもし「重い思考」というものが湧いてきたとしますと、

まず最初はその重い思考に同化しています。支配されています。

で、ふと「重い」という感覚に気付きます。そこで「今思考に支配されていたな」と気付きます。

そこまでの時間はまちまちです。瞬時の場合もあれば、長ければ2〜3分でも支配が解けないこともあります。

まあそれで、ほとんどの場合そこで終わります。


ですが幾つかパターンがあるので改めて書き出してみます。


1. まずほとんどの場合を言いますと、気付き、というブレイクによって一連の思考の流れと、その支配とが終わります。これが大抵のパターンです。



2. 次のパターンとしては、なぜその思考が湧いたのか、何かしらの理由を感じる場合があります。

例えばその重い思考が、一つのケースとして「誰かを罰したい」みたいなものだったりしますと、

その思いが湧いたのは、「○○っていうのはこうあるべきなんだ!」みたいな観念、内面に蓄積された思いぐせに依るのだ、という原因に気付き至ります。

誰かを「許さない」「懲らしめなきゃ」というグツグツした思いと感情は、多くの場合その時に消えていきます。



3. その際なのですが、そのグツグツした感情がまず心の奥に蓄積されていて、それが為に「誰々を罰したい」と思ってしまうシチュエーションが目の前に現れたのでないか?と感じる時が少なからずあります。

その時は、そのグツグツした感情をただ見守ります。変な話ですが、半ば愛情を持って見守り、ただ見つめます。

するとどうなるかと言うと、怒りや、許せない、といった感情がやがて溶け行き、まるで感情を構成していた成分がただの分子・原子に還元されていくかの如く昇華され、そののち心に平安が訪れます。

(この3番目の過程は、ネットで近年のスピリチュアルブームというものに出会って初めて知った感情の取り扱い方でして、すごく興味深く、「悟りを求めずとも自我の範囲内で感情を自己治癒することも出来るのだ」という、素晴らしいアイデアだと大変関心しました。)



4. 最後ですが、これがちょっと厄介でして、繰返し、繰返し、一つの思いに捉われたり、あるいは逆に混沌とでも言うような思いに晒されることがあります。

あくまで僕の意見ですが、この場合は要注意で、

他者が介在して想念の支配を受けている場合があるだろう、

...そんなパターンです。

他者とは、生きている人間だけとは限りません。

スピリチュアルブログのコメント欄ですから、まあ大丈夫でしょうか?(笑)

職場で言ったらヤバイ奴確定ですね?^^



話が逸れてすみませんが、

でも過去に幾度か、こうした想念の支配と言いますか、アタックに遭遇したことがありまして、

その経験から、僕は僕の思考・想念を全てがそのまま自分のものであるとは信じません。

ある思いに取り憑かれても、それが全て本当に自分の意見であるとは断じません。

で、そんな場合どうするかなのですが、

極力、思考・感情との同化を避けます。「またきた」と思ったら、思いの内容ではなく、思いの出どころに集中するか、あるいは日常の雑事の方に気持ちを向けます。

経験上、そのような繰返し現れる思いは潜在意識を通じてやってくるように感じられますが、僕には潜在意識を見通す霊的視力がありませんので、深入りはしません。

深入りはしないけれど、極力、識別の目を効かせられるよう冷静に努めます。



(過去には思い出したくもない恐ろしい経験をしたこともあるので、もしこのコメントを目にされた方の中に、潜在意識や無意識といったものに興味がある方がいらっしゃいましたら、スピリチュアルの一つの潮流である、そうした潜在意識などにアクセスしようとするような試みにはまず関わらない方が無難だろうと申し上げます。)



・・・

以上、

>今のところ自分としては、いちいち一旦『はまり込まない』と、
>『自作自演』と気付けない感じです。こんなものでしょうか?

というご質問に対して、僕自身の普段の思考との関わりを書かせて頂きました。

ただの「自分」さんの、思考の自作自演を見つめる視点も今回なるほどと学びになりました。



という訳で、

あんまり重い思考にははまり込み過ぎないようにご注意くださいね。^^

たかが思考と言っても場合によっては底無し沼のように深いものにもなると思いますから、ただの「自分」さんが帰って来れなくなると困りますので。(笑)
 
 
 
Unknown (ブロッコリー)
2017-09-02 18:01:25
思考を超えた世界を言葉では説明できないのは、
「思考が働ける範囲を超えているから」です。
何故そう言えるのか?
「思」ったり「考」えたりする事が可能なのは、
「既に知っている事柄だけ」だからです。
この通りであるなら、
思考(言葉)とは既知そのものとも言えます。
既知を用いて未知は説明できないのです。
このような思考の持つ性質上、
思考(言葉)では説明できないのです。

思いや考えを内に留めたものが思考で、
それを記したり、発したりと、
外に表現されたものが言葉であるなら、
両者は本質的に同じものですね?
 
 
 
Unknown ()
2017-09-02 23:06:28
>思考を超えた世界を言葉では説明できないのは、「思考が働ける範囲を超えているから」です。何故そう言えるのか?「思」ったり「考」えたりする事が可能なのは、「既に知っている事柄だけ」だからです。

ということはつまり、人によって「思考を超えた世界」は違うということですよね?例えば、私はパソコンのプログラミングのことを全く知らないので、私にとってプログラミングは「思考を超えた世界」というわけですね?

>既知を用いて未知は説明できないのです。このような思考の持つ性質上、思考(言葉)では説明できないのです。思いや考えを内に留めたものが思考でそれを記したり、発したりと、外に表現されたものが言葉であるなら、両者は本質的に同じものですね?


未知とは「まだ知らないこと」ですよね。

まだ知らないから思考(言葉)では説明できない。ここに異論はありません、仰るとおりだと思います。

この通りであるなら、
例えば、「気づきや悟り」について語り合っているときに相手が「思考の範疇を超えている」や「言葉では表現できない」等と言った場合、それについて私は知らないと言っているのと同義ということですよね?

つまり、「気づきや悟り」を知ってる人にとっては思考の範疇であり、言葉で表現できるということでしょうか?
 
 
 
サムさん、ありがとうございました (ただの「自分」)
2017-09-02 23:10:27
お陰様で、模索していた内観の基本方針が定まりました。

>半ば愛情を持って見守り、ただ見つめます。

ただ、これのみ、ですね。

これ、自分としては、もはや変な話でもなんでもないです。
「半ば愛情」の『半ば』含めてです。
『この世』は『二元』であり、という事は『愛情』も『二元』の『一側面』で、
だから『半ば』であるという事に、もう何の疑いも無いです。

『重い感情』が湧いたからと言って、それも『全て』ではなく、『半ば』です。
『半ば』と『半ば』が出会って、『全て』=『一元』に還る。

という意識で在り続けるように試みます。
 
 
 
Unknown (ブロッコリー)
2017-09-03 14:28:08
>ということはつまり、人によって「思考を超えた世界」は違うということですよね?例えば、私はパソコンのプログラミングのことを全く知らないので、私にとってプログラミングは「思考を超えた世界」というわけですね?

「貴方にとっては」その通りです。しかし、
プログラミングは他の誰かには既知ですから、
貴方の「既知とする事ができる類のもの」です。
件のテーマはそうした類の範疇にありません。

>この通りであるなら、
例えば、「気づきや悟り」について語り合っているときに相手が「思考の範疇を超えている」や「言葉では表現できない」等と言った場合、それについて私は知らないと言っているのと同義ということですよね?

思考の範疇を超えていて、言葉では表現できない「なにかである」とは知っているのです。が、知らないと言った方が手間は省けるでしょう。
 
 
 
ただの「自分」さんへ (サム)
2017-09-03 18:12:56
ただの「自分」さん、

定まった所なのにすみません。 ^^;

内観というものが意味するものを僕は正確には知りませんで、

その知識にきちんと接したことが無いのですが、

ただ、知らないで当てずっぽうで申し上げたいことがあります。

少しの懸念があるためですが、もし的外れでしたらご容赦を。


・・・

僕が書かせて頂いた思考との関わり方は、

実は僕自身はやがてそれを捨てなければならないと思っているものです。

僕が車を降りて航海に出ようと思っている先は、

そうした思考への取り組みを去っていく世界なんです。

航海への下準備にある現在の僕の感覚としては、

たぶん内観と言われるものが観ているのは、「内」ではなく「外」です。

つまり、僕の感覚からすれば「心」というのは自己の「外側」にある粗大な世界です。

降りるべき車です。

(もちろん肉体より精妙であるのは疑いないことですが。)

先の投稿で書いた「ただ見つめる」は、見ているのは自我です。

そうして自我が自我を治癒できる仕組みに感心したのは事実ですが、

その先に見つめるべきなのは、

「そもそも自我になぜその見つめるという知覚力が宿っているのか」

というものであり、

つまり心さえ去った根源の知覚力そのものへ向けられる視点が、

僕の目指す航海の景色となります。


・・・

説明が下手で伝わらなかったら申し訳ないのですが、

当てずっぽうながら、内観というのは潜在意識に取り込まれてしまう、

幻想に捉まえられる、という根拠の無い懸念がありまして、

今一度、ただの「自分」さんにはこれから行こうとしている道の安全確認をして頂くようお願いする次第です。

仏陀は「心に立ち入るな」、「心の深みを覗き込むな」と、

その危険性を教えたと、人から聞いたことありまして、

それに自分としては結構うなずける部分があった為、

現在も疑いもなくそう思っている状況ですが、

懸念が単なる杞憂であればそれに越したことはありませんが、

ともかく、ただの「自分」さんには念のためお伝えをさせて頂きました。

何かと的外れでしたらどうぞご容赦を。<(_ _)>
 
 
 
Unknown ()
2017-09-03 18:37:25
>「貴方にとっては」その通りです。しかし、プログラミングは他の誰かには既知ですから、貴方の「既知とする事ができる類のもの」です。件のテーマはそうした類の範疇にありません。

なぜ「件のテーマはそうした類の範疇にない」と思うのですか?気づいたり、悟ったりしている人がいるのだから、「既知とする事ができる類のもの」ではないのですか?

>思考の範疇を超えていて、言葉では表現できない「なにかである」とは知っているのです。が、知らないと言った方が手間は省けるでしょう。

どうやって、「思考の範疇を超えていて、言葉では表現できない「なにかである」と知ることができたのですか?

大変興味深いですね。

やはりキーポイントは、なぜ「件のテーマはそうした類の範疇にない」と思うのか?ですね。
 
 
 
あ、やっぱり?(笑) (ただの「自分」)
2017-09-03 21:00:59
サムさんへ

>たぶん内観と言われるものが観ているのは、「内」ではなく「外」です。

自分も正直、そんな気がしています。
(表現が適切かわかりませんが)
なんか、まずエネルギーが外から『入ってくる』感じがしますね。
自分が試みているのは、そのエネルギーが『重い』なら、
それに直接的に関わろうとするのではなく、
『軽い方』に在ることで、『軽い方』を『思い出す』ことです。
その『軽い方』すら『エネルギー』で『重さ』があることを実感してますが、
『自作自演』とも気付いたので、『軽い方』に在り、『思い出す』ことで、
『重い方』も『軽い方』も、同時にゆるんで、ほどけて『解放』されるはずと思っていて、
今のところ確かにそうだと実感しています。
ちなみに『解放』するために、丹田意識してセンタリングや呼吸法を併用しています。
『解放』してスッキリしてから、『目の前の現実』を見直して、
改めて考え直すようにしています。
そうすると、いかに『見えてなかったか』がわかりますね。

『重い』のに馬鹿正直に付き合うことで、
『重さ』が際限なく増えていって危険という事は、イヤと言う程体験しました。
自分の思考、感情、感覚は、うっかりすると、『それが全て』と『誤解』しがちです。
その『誤解』を解くよう、黒斎さんが言われている「ウロコポーロ」「ブリーフアウト」は常に意識しています。

自分の文を読んだ事で、少しだとしても、サムさんを『懸念』にハマらせてしまったのが
申し訳無いので、うまく書けていないとは思いますが、
これで少しでもサムさんの『懸念』が解ければと思います。
ありがとうございます。

>つまり心さえ去った根源の知覚力そのものへ向けられる視点が、
>僕の目指す航海の景色となります。

自分も今、この『過程』を辿っているんだろうと思ってます。
 
 
 
念の為(笑) (ただの「自分」)
2017-09-03 21:11:40
自分も、「サムさんに懸念を抱かせてしまった」という思いにハマらず忘れるので、
サムさんも
『「サムさんに懸念を抱かせてしまった」と心配させてしまった』
みたいなのにハマらず忘れてくださいね(笑)
こうして『苦しんでいく』という事は、イヤという程知っています
↑すらうっかりすると『イヤになる原因』になる事も知っています

↑こんな感じで『気付いて』『手放し』を実践してます。
 
 
 
ただの「自分」さんへ 了解です。^^ (サム)
2017-09-04 00:28:57
と言うか、すっかり忘れてた。(笑)

宙さんへの返信を書いてたから。^◇^
 
 
 
サムさんへ ()
2017-09-04 01:04:02
>先の投稿で書いた「ただ見つめる」は、見ているのは自我です。そうして自我が自我を治癒できる仕組みに感心したのは事実ですが、その先に見つめるべきなのは、「そもそも自我になぜその見つめるという知覚力が宿っているのか」というものであり、つまり心さえ去った根源の知覚力そのものへ向けられる視点が、僕の目指す航海の景色となります。

私も便乗して当てずっぽうでちょっと書いてみようと思います。(笑)

心さえ去った状態というのをちょっと想像してみたら、単純ですが、感情のないロボットのようになるのではないかと考えました。(笑)

私は、AIと人間の脳は本質的に仕組みは同じなんじゃないかと思っています。勝手な想像で書きますが、AIは物事に対して溜め込んだデータベースを自動的に参照して最適解を出しているだけで自由意志はないと思います。私は人間も同じように、物事に対して溜め込んだ知識や過去の記憶を自動的に参照して反応を起こしているだけで自由意志はないと思っています。

サムさんは、「そもそも自我になぜその見つめるという知覚力が宿っているのか」と言っていますが、

私が思うに元々宿っていたのではなく、日々増える溜め込んだ知識や記憶を自動的に参照しているうちに、AIのように自我が日々自動的にアップデートされ、「自我を見つめる」というアース線のようにエネルギーを逃すような新機能が加わったという考え方もできるのではないかと。

こう考えると「根源の知覚力」が指すものというのは、

脳が自動的導き出した最適解の結果、新たに加わったアース線のような機能なのではないかと(笑)

なので私的には、あくまで私的には自我を捨てる必要はないと思うし、そもそも自由意志がないと思うから捨てることはできないと思うし、航海にでる必要もないと思うんですよね。

むしろ、自我をどんどんアップデートしてカスタマイズするべきではないでしょうか(笑

例えば、脳が最適解を出す際に変な答えを参照しないように、過去にデータベース(記憶)に入れてしまったエラーデータ(変な思い込み等)を削除したり、前述したような新機能を加えたりね。

まぁこれも私の単なる感想に過ぎないので「絵に描いた餅」なのでしょうが(汗
 
 
 
宙さん、週末のんびり出来ました?  ...微妙かな? ^^; (サム)
2017-09-04 03:23:49
思考というテーマについて何か宙さんの疑問に少しでも参考になることはないか、改めて僕の視点を述べていきたいと思います。

まず初めに、思考というのは「現れ」なのだということに僕は注目します。一般的には思考とは考える行為を指していたり、考えている内容を指していたり、あるいは行動を起こす際の要因の一つとも言えると思います。しかしそれらの解釈ももちろん思考ですから、その解釈を与える前に注目してみます。

個々の思いの中身はさておき、そもそも思考とは一体どういった成り立ちを持ったものであるのか。それを観察するなら思考とはやはり「何らかの現れ」に違いありません。それは何の原因もなくただ忽然として在った訳ではなく、何らかの素子があり、作用があって生じてくるものだと僕は見ます。

宙さんが質問を書いてくれました。それは僕の投稿を読んだ時、以前から心にあった気持ちや考えを改めて推敲し言葉にしたものだと思います。そうして先の思考から次の思考という連鎖が起こり、さらに書き込みに至るまでという一連の具体的な現れが生じました。ではその各時点での思考はその都度一体どのようにして立ち現れたのか。一体どこから生じたのか。

そこでこの度、僕がその検証に踏み込んで行こうとする所を改めて書きますと、僕はその一連の現れが起こる”前”の、原因の発生する地点に向かいます、ということになります。あるいは原因すらもまだ生じていない場所に向かうんだと。そんな風に表現してみます。

表現を変えれば、それは自我の機能の一つである思考が作動しない段階。さらにはその先の自我そのものがその運動を停止する段階。その場所から定点カメラを設置して観察するが如く、時に生まれ行く思考の生成過程とその素子をあるがままに観ようと試みるものです。

(さてどのようにして? もちろんその為の知覚力が必要です。残念ながら具体的には僕の体験がまだ不十分なのでこのコメント欄ではお話することが出来ません。)

宙さんは「思考を超えた世界」には懐疑的かもしれませんが、「思考の起きていない状態」というものにはさほど違和感はないのではないかと思います。先の投稿でも「眠っている時のように意識がない状態」について考えておられましたね。

また瞬間的な空白というものは誰しも経験のあることと思いますが、僕はそのように起きて活動している場合でも人は時折思考していない状態のことがあると見ます。ですから「超越」といった言葉のアヤを除いて平たく言えば、僕はそんな「思考の起きていない世界」「起きる前の世界」をフィールドワークしてみようという訳なんです。

まあ、世間的な目からは「んなバカなことあるかよ」と云われるのだと思います。「頭おかしいんじゃねえの」と。しかしそのように言われて何ら構いません。全く仰る通りですと。(笑) そこに理解の谷があったとしても相手に偏見など抱きません。

ただ、僕は思考の起きていない場所に実際に向かうつもりですので、その立場であるなら「この先を思考で論ずるのは難しい」という説明は、むしろ論理的なものだと言えるのではないかと思っています。宙さんもそのように受け止めて下さるのではないでしょうか。



・・・・

ところで解脱者についてお尋ねの件ですが、僕が薦められて唯一書籍を持っている方がいらっしゃいますので宙さんにも是非ご紹介させて頂きます。お名前はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ師という方で、僕は師の著作の内でラージャ・ヨーガという本を持っています。

この本の中で師は、丁寧に、詳しく、そして温かく力強く、探究者の進むべき道を示して下さっていると思います。解脱者についての視点がたぶん変わると思いますので、機会がありましたらどうぞ触れてみて下さい。ちなみに

他にも世の方々に深く愛され、その本人の言葉を読むことの出来る覚者は幾人もおいでだと思います。僕は今一つの方法論を掘り下げている最中なので、まだ他の聖者と云われる方についてはその威光を仰ぐのみ、といった所です。


>例えば、実在した人物で解脱者と呼ばれる人は誰がいるでしょうか?恐らく、その人達が伝えたことは人々を唸らせる内容なのでしょう。しかし、解脱者といえども人に何かを伝えたということは、伝えることを考え(思考)、言葉にしたと考えるのが普通ではないでしょうか?そう考えると余計に「本当に思考を超えた世界の話なのか?」と思うし、「解脱者」というのは単なるレッテルに過ぎないのではないか?という疑問も生まれます。


なるほど、もっともなご意見です。確かに解脱者の中には言葉を伝え続け、人々を啓蒙し続けた方がいらっしゃいますね。お名前を挙げたヴィヴェーカーナンダ師もまさに、全人類の知性の向上を目指すが如くエネルギッシュに活動を続けられたようです。解脱者ではない僕にはその疑問の解答は出せない部分ですね。

僕の視点で出来る限りその疑問を考察すると、実際には彼らは思考を超えた世界のことは話していないと思います。代用品としての言葉でしか伝えることが出来ないので、その場にあったのは喩え話や、聞くものの理解の範囲内に収まる概念だけだったでしょう。しかし時にはその文脈から「思考を超えた世界の話をしている」のだと聞く側のマインドが判断するのでしょう。

宙さんが疑問を呈するのは当然で、もし言葉で本当に全て語れたならそれは全く思考の範囲のお話でしょう。またどのみち、聞く側は耳から入ったことを全て思考で受け止めるのですから、思考を超えた世界があるにせよ無いにせよ、結局「思考を超えた世界の話(仮)」は伝達されなかったのだとも言えるのかもしれません。

ちなみに僕が解脱者のお話に触れるとき、痛感するのは「解脱者の心中は、解脱者にしか分からない」ということです。その意味では僕は宙さんとさほど変わらない立場にいると思われます。僕は解脱者を真には理解出来ないのです。

一方、一定の疑問が生じるからといって本当に思考を超えた世界は無いのかと言うと、それはまた宙さんも断言出来ないのはご承知の通りでしょうから、ゆえに「僕は自分で実際に確かめようと思います」という流れになっていく訳ですね。

あと余談ですが、覚者は言葉というツールを使うものの、それは相手を貫くその響き、振動が相手の思考ならざる次元の気付きを呼び覚ますのだという別な視点があります。僕の視点によれば、それが行われる時は対峙する者の思考・自我の鎧が一時崩壊します。また、覚者の存在そのものがそれに触れた者の内奥の本性を呼び覚ますものとも感じています。

極論を言いますと、直接に会う、あるいは直接に見ただけでも人に真理との結び付きをもたらすのが解脱者というものの存在だと僕は見ます。つまり解脱者は言葉を交わさずとも相手のマインドに変化をもたらすだろうと。その意味において、スピリチュアルの世界で解脱者との直接の交流、教師の臨在というのが非常に大事だと云われることには僕は賛成します。

あと、個人の感想で言えば、やはり彼らは僕より思考の性質を知っており、思考そのものを掌握しており、心、意識を知っており、それらを掌握しているという、紛れも無い識別力の差があります。別に彼らに抗うつもりは無いのですが、実際その力の差に何の太刀打ちも出来ないと感じます。これはテレビショッピングさながら個人の感想なので論点にはなりませんが。^^



・・・

ということで、何やかんや言うとりますが、(笑) 最後に思考というテーマについてもう一つ僕が注目する点を書きます。それは、「思考、そして自我は、気付かぬ内に自らを罠に落としめるものだ」ということです。


>本当は思考を超えた世界などないのではないか


宙さんの思いがこうして言葉になりました。これも一つ、宙さんの思いの核ではなかろうかと思います。だからこそスピ界隈の色々な言葉や、僕の投稿にも疑念が生じたのでしょう。思考を超えた世界の存在や解脱など、そもそも世の人が根拠なく勝手に決めたことではないのかと。

僕の視点で言うなら、この思いに対して今後宙さんが目を向けたら良いと思うのは、やはり宙さん自身しかないのです。何故なら誰かの思考というエゴの残骸物の中に宙さんにとっての真実があろうはずが無いと思うからです。

もしも誰かの言葉の中に気付きのヒントを感じたなら、それは元から宙さんの内側にあるものの反射光です。元々自身から光りが漏れているからその反射光に気付けるのだと僕は言います。だから、宙さんは他者の意見に何らも影響されることなく、自身の中にある真実知を目標になされば良いのだと思います。

そのように僕が書くと、もしかしたら「そんな真実の知覚って本当にあるんですか?」という風に、また判断の材料をどこかに探そうとされるかもしれませんね。^^ でもその考え方って、まるで罠に自ら入ろうとするようなものなんですよね。

何故なら、仮に「思考を超えた世界」や「真実の知覚」が本当にあるのだとしましょう。もし宙さんがその様を観るのならそれは宙さんの直接の知覚でしかあり得ないのであって、他者の意見も材料もそこに介在する余地など無い訳です。他者の意見や判断材料が介在する認識は思考そのものですから、宙さんが普段からそれを求めるということは、思考を超えた世界の実在を自らが排除しているということに他ならないのです。

つまり、宙さんが知りたい答えに向える道があるのに、そこに今宙さんによって知らず知らず罠が設置されている訳ですね。その罠は出口の無い迷路なのか、無限ループさせられるのか分かりませんが、いずれにしても面倒なことであるに違いありません。



・・・

ということでございまして、出来れば僕は宙さんにはその罠をちょこっとどけて頂いて、

一旦、材料の吟味やコメントの調理法は横に置いて頂いて、

「やることが無くなってちょっと手持ち無沙汰かも...」ぐらいの感じで、自分をしばらくのんびりさせてあげたらどうかな? なんて思う今日この頃なのでした。^^

以上、ただただ長くなりましたが、僕の視点が何か僅かでも参考になれば幸いです。

どうぞ宜しくお願いします。


...あ、返信無用! のんびりして。(笑)
 
 
 
「論理的に説明できないのだから断定するべきではない」 (サイレントマジョリティ)
2017-09-04 07:17:15
これが質問者側の前提にある限り、この議論は絶対に終わらない。
 
 
 
思わず食い付きそうになりました。^^ (サム)
2017-09-05 02:37:50
宙さんの描いた餅、とても秀逸な出来映えですね。^^

SFやファンタジーが好きなので、このアイデアを元に脚本が出来たらすごく面白そうだと思いました。

そして実は前半の所で、宙さんの書いた視点と僕の持っている視点とがクロスオーバーする部分がありました。とても興味深いことで、一瞬目を見張りました。

秋が深まる頃にはこのコメント欄もやっと過去記事になっているでしょうから、ひっそりと返事を書こうと思います。(笑)
 
 
 
Unknown ()
2017-09-05 11:11:40
>ただ、僕は思考の起きていない場所に実際に向かうつもりですので、その立場であるなら「この先を思考で論ずるのは難しい」という説明は、むしろ論理的なものだと言えるのではないかと思っています。宙さんもそのように受け止めて下さるのではないでしょうか。

つまりは無意識を観察しようという感じでしょうか。サムさんのやろうとしてることって脳科学だと思うんですよね。科学というくらいですからそれは論理的に語られていると思うので「この先を思考で論ずるのは難しい」とは今のところ思わないのですが、ひとまずサムさんのお考えは分かりました。

>ところで解脱者についてお尋ねの件ですが、僕が薦められて唯一書籍を持っている方がいらっしゃいますので宙さんにも是非ご紹介させて頂きます。お名前はスワーミー・ヴィヴェーカーナンダ師という方で、僕は師の著作の内でラージャ・ヨーガという本を持っています。

ありがとうございます。今度、アマゾンで買ってみます(笑)

>何故なら、仮に「思考を超えた世界」や「真実の知覚」が本当にあるのだとしましょう。もし宙さんがその様を観るのならそれは宙さんの直接の知覚でしかあり得ないのであって、他者の意見も材料もそこに介在する余地など無い訳です。他者の意見や判断材料が介在する認識は思考そのものですから、宙さんが普段からそれを求めるということは、思考を超えた世界の実在を自らが排除しているということに他ならないのです。つまり、宙さんが知りたい答えに向える道があるのに、そこに今宙さんによって知らず知らず罠が設置されている訳ですね。その罠は出口の無い迷路なのか、無限ループさせられるのか分かりませんが、いずれにしても面倒なことであるに違いありません。ということでございまして、出来れば僕は宙さんにはその罠をちょこっとどけて頂いて、一旦、材料の吟味やコメントの調理法は横に置いて頂いて、「やることが無くなってちょっと手持ち無沙汰かも...」ぐらいの感じで、自分をしばらくのんびりさせてあげたらどうかな? なんて思う今日この頃なのでした。^^

これは、ぐうの音も出ません(笑)本当にあるのならたしかにそのとおりですね。「材料の吟味やコメントの調理法は横に置いて」という表現は見事ですね。なんというか毒気が抜かれたように感じました。推敲、大変だったと思います。ありがとうございました。
 
 
 
チャンチャン♪ (Unknown)
2017-09-05 23:36:43
やっと終わった。

愛に飢えただけの自己肯定感の低い女が、愛ある優しい理解ある大人にやっとめぐり会えたっていう絵が浮かぶけどなあ、このやり取り。

とりあえず、良かった良かった。
 
 
 
宙さんへ (サム)
2017-09-06 04:10:24
こちらこそありがとうございました。

宙さんの意見は僕にとって新鮮な視点が多かったので、なるほどそんな風に考えていたのかと毎回発見させられ、有意義な対話だと常に感じました。

それから相互理解と着地点の話、僕の補足修正を酌み取ってくれていたのを見て、こんなキャッチボールが出来ることはネットでは中々無いよと思ったものです。^^

ちょっと間が空くのですが、宙さんの視点で目を見張ったこと、雑談的にはなりますが後日お彼岸が過ぎた頃にひっそりコメントさせて頂きたいと思います。気が向いたらまた見てやって下さい。

その頃には黒斎さんがこの記事を随分過去に押しやってくれるでしょうから、(笑) 他の方に目障りになることも無いでしょう。

では、失礼します。

黒斎さんもどうもありがとうございました。

<(_ _)>
 
 
 
わかるなあ (Unknown)
2017-09-19 15:54:14
コミュ障でリアルのやり取りが出来ない人にとってネットってとても便利。ネットのやり取り自体が距離を取ってくれているから気楽にコミュニケーション取れるし。交通費とか手間とかの問題じゃなくて、ネットにこだわるのはそこだよね。
 
 
 
そりゃそうだ (Unknown)
2017-09-20 09:47:23
こんなキツイ物言いしか出来ない喧嘩腰の人間、リアルで付き合うなんてごめんだわwネットだから相手にされてたんだって自覚くらい持って欲しいわ。

質問するにしても何にも調べないで質問してくるもんだからポイントが毎回ずれて曖昧で回答者はその修正から必要だし。手間かかるわムカつくわで。

質問に答えたら答えたで批判や揶揄ばかりで時間割いて付き合ったことに礼一つ言わないし。

だから互いの為にもネットの付き合いで十分なんだよ、こんなやり取りwリアルで知り合いたくないわw
 
 
 
お餅とお団子、どっちが好きですか? (サム)
2017-09-23 06:18:05
>私は、AIと人間の脳は本質的に仕組みは同じなんじゃないかと思っています。勝手な想像で書きますが、AIは物事に対して溜め込んだデータベースを自動的に参照して最適解を出しているだけで自由意志はないと思います。私は人間も同じように、物事に対して溜め込んだ知識や過去の記憶を自動的に参照して反応を起こしているだけで自由意志はないと思っています。



宙さんの、「私は人間も同じように、物事に対して溜め込んだ知識や過去の記憶を自動的に参照して反応を起こしているだけで自由意志はないと思っています。」という視点には本当に驚き、思わず目を見張りました。実を言うと僕もほとんどその通りだと思っているんです。

ちなみに僕の視点は、たぶんヨーガや仏教的な思想に影響を受けた上でその結論にたどり着いていると思われます。

と言うのも、「溜め込んだものと記憶による自動反応」のような捉え方は、我々人間の日々の思い・行いの在り方、引いては来世にまで持ち越す「業(カルマ)」と云われる概念に対するヨーガ・仏教的な説明の内容とほぼ相違ないからです。(学説によっては異なると思いますが)

宙さんが如何にしてAIと人間(脳)の類似性という見解を持つに至ったか分かりませんが、誠に勝手ながら、一見別々な視点を持っていたと思われた宙さんと僕がある点に関して結論を同じくするという様相は、まるで別々な道路を走行していた車の立体交差での一瞬の出会いのようでありとても面白く感じました。

AIとの関わりについて思っていたことは、僕の書き方でいうと脳というよりかは自我となる訳ですが、僕は常々、人間の自我とはAIのような存在だと感じているんです。その名の通り自我に目覚めている訳ですから遥かに進化したAIです。

なおかつ生体を基盤としているので、我々とはAIと自己増殖機能を搭載したバイオロイドのようなものだと思っているんです。

僕の絵に描いた餅も中々のもんでしょう。
お彼岸にバイオロイド印のおはぎは如何ですか?(笑)



・・・

以前この場で、『思考しているのは、実は自分じゃない...』なんてコメントを書いたことがあったのですが、その事と今回のバイオロイドの話は繋がっています。

ざっくり言うと、今僕たちが認識している「我々」とは、自己の本質ではなく外部のデバイスとそのプログラミングの部分を「我々」と錯覚しているのだ、というお話です。

「自我に芽生えたプログラミングが、本質的自己という知覚の源に背を向けて延々と自動演算を繰り返している状況」が、日々起きているこの思考とそれに基づく行為なのだ、と僕は見ています。

今、この瞬間においても、「宙さんも僕も、思考しているものの正体は本質的自己では無いのだ」という見解を持っています。

つまり、「本質的自己に知覚力を与えられたバイオロイドが、芽生えた自我のままにそのAI(心)やデバイス(身体)をまごう事無き自分自身であると錯覚し、思考し、生きていのが僕たちの存在の現実なのだ」という訳です。

宙さんは現在そうした根源の知覚、本質的自己というものには懐疑的かもしれませんね。そのような認識機能がもしあるとしたら、それは元々AIが持つ機能の延長線上における発現であろうと。

また人によってはそんなものは存在せず、プログラミングのバグによる誤作動・誤認知か、または何らかの事情によりその人にだけ起こった、配線ショートのような事象による偶然の産物でしかないと。そう思う人もいるかもしれません。世間にはそのように見えて仕方もない逝っちゃってる自称覚者もいるでしょうからね。

しかし、僕はそれらの意見から全く一線を画します。再度言いますが、「本質的自己」こそが自我AIに電力を供給しているエネルギーの源であり、かつ「知覚力の根源」であると。確信を持ってそのような仮説を取り上げます。そしてそれは人類の全てが持つ共通の基盤であるとも。

これは僕が言う相互理解の根本的な基礎です。我々はあらゆる人種、国、宗教、性別、その他何らの格差にも関わらない、共通の基礎を持っているがゆえに相互理解を育むことが出来るのだというのが僕の見解です。

そして上記の仮説とそれに基づく見解に自分自身で完全な確証を得るべく、僕はこの先、自身の自我AIのシャットダウンを試みるでしょう。仮説が正しければそれは可能だと思います。そしてAI機能は、本質的自己がこの物質界で活動する上での最適なOSとしてリブートされるでしょう。デバイスとしての身体もまた、新しく作り変えられるのかも分かりません。

もしそんな仮説が間違っていても何も困ることはありません。ただ人より少しだけ自分というものに向き合い、自己とは何かを模索した人生を送ったというだけのことです。何を失うことも何を損することもありません。

また、「自由意志などまるで無くて、只々プログラミングのまま動いているだけ」が本当に人生の全てなら、僕が自我を終焉させる航海に出ようというのも只そのバージョンのプログラミング通りな訳ですから、結局何をしようとどう転がっていこうと何の問題も無い訳ですね?
(それはそれで、むしろ気楽なもんだと言えるでしょう。笑)

ということで、ある点においてクロスオーバーした宙さんと僕の視点は、ここからまた遠ざかり、それぞれの道でそれぞれの景色を展望するのでしょう。

しかし、やがてまたどこかで交差する時がやってくるのかもしれません。その時は改めて、お互いが見た景色を語り合うのも一興ではないかと感じる次第です。

(そのような機会がありましたら、どうぞ宜しくお願いします。^^)



ところで、

今のAI技術発展の重要なテーマの一つはAIに自我が芽生え得るか否かだと思いますから、その進化如何によっては、「AIに自由意志はない」という宙さんの見解もやがて変化を余儀なくされる時が来るかもしれません。

100年後、自らの意志を持つロボットが当たり前の世の中になっていたら面白いでしょうか? それとも著名な宇宙物理学者が危惧しているように、AIが人類に終末を下しているのでしょうか?(笑)

乞うご期待ですね。^◇^



・・・・

それはそうと、僕の行こうとしている道は脳科学なのかどうか、脳科学について不勉強なので分からないのです。脳科学との関わりについて何か見解を得た時にはまたお話し出来ればと思います。

という訳ですが、最後に、今年はお月見が10月4日ということで、科学にまつわるモチフワのお団子を作りましたのでお届けしたいと思います。どうぞ月や宇宙空間に思いを馳せながら召し上がって下さい。^^



【文明的大発見】


ある宇宙からこの銀河に旅行者たちがやってきました。

彼らは途中で地球を通りかかって大変驚きました。



「ほら、見て、この星の人間という種族は言葉を使っているよ!」※

「何だって!? 何て大発見なんだ!」※

「この科学の進んだ第七宇宙で、まだそんな原始的な種族がいたとは!」※

(※テレパシー)



…彼らの星では高度に進化した科学に基づき、全ての生命体がダイレクトに意識を共有しておりました。地球人の言葉や論理という原始的な営みは、彼らに大いにカルチャーショックを感じさせる光景だったようです。



おしまい。
 
 
 
お団子です。 ()
2017-09-25 22:18:21
返信、ありがとうございます。

>しかし、僕はそれらの意見から全く一線を画します。再度言いますが、「本質的自己」こそが自我AIに電力を供給しているエネルギーの源であり、かつ「知覚力の根源」であると。確信を持ってそのような仮説を取り上げます。そしてそれは人類の全てが持つ共通の基盤であるとも。これは僕が言う相互理解の根本的な基礎です。我々はあらゆる人種、国、宗教、性別、その他何らの格差にも関わらない、共通の基礎を持っているがゆえに相互理解を育むことが出来るのだというのが僕の見解です。

AIはデバイスへの電力供給が不可欠であり、自我も脳内での生体電気によるやり取りが不可欠ですよね。ここでも類似性を感じますね。私がサムさんのコメントを読んで漠然と感じたのは「本質的自己と言われているものは本能(ある行動へと駆り立てる性質)のことなんじゃないか?」ということです。そしてなぜ本能が生まれるのかといえば、DNAやホルモン(生体の外部や内部に起こった情報に対応し、体内において特定の器官で合成・分泌され、血液など体液を通して体内を循環し、別の決まった細胞でその効果を発揮する生理活性物質)に要因があると思っています。

人間以外の動物も多少は単純な相互理解ができてますよね。例えば、親鳥が空腹のヒナにエサを与えたり、親鳥に促されて育ったヒナが巣立ちしたりね。人間については、ここまで世の中が(社会性が)発達してしまったので普通に生きるためにより深い相互理解が必要となってしまいましたが、人間とDNAがかなり似ていると言われているチンパンジーが普通に生きているのだから、本来は(自然界では)単純な相互理解で十分なのでしょう。だから人間の深い相互理解って結局、サムさんの言葉を少し借りれば「自我が持つ機能の延長線上における発現」なんじゃないかと思うわけです。


>今のAI技術発展の重要なテーマの一つはAIに自我が芽生え得るか否かだと思いますから、その進化如何によっては、「AIに自由意志はない」という宙さんの見解もやがて変化を余儀なくされる時が来るかもしれません。

これは逆に更に確信が深まる気もします。最適解しか出せなくても自我が形成できるのなら、ますます「人間に自由意志はない」という主張を否定できなくなるのではないでしょうか。

しかし、「自由意志がない」と断言できないのも事実ですし、この先もそれは変わらないだろうとも思っています。そして、それで構わないとも思います。


色々とありがとうございます。
それと、サムさんから紹介された本ですが、Amazonで注文したら、二週間後くらいに「入荷の見込みがない」という理由で強制的にキャンセルされました(笑)人気があるのか縁がないのかわかりませんが、とりあえず他で再注文しております(笑
 
 
 
どうぞ美味いお団子と、良いお月見を^^ (サム)
2017-09-26 05:34:56
こちらこそ、毎度僕の言いたい放題にお付き合い頂いてありがとうございます。

この度の宙さんの視点も僕にとって新鮮かつ興味深いもので、「そうだ、対話というのは面白いものだった」と久々に感じたような気がします。^^

あんまり引き止めても悪いので今回は詳細な返信を避けますが、この先また、宙さんの文面を改めてじっくり読ませて頂いて、その視点への理解を深めてみたいと思います。

(そんな風に、手紙を読み返すような味わい深さや、時間を置いたりすることによって読み手にも心情の変化が訪れたりするところが、ネットでの対話の粋な部分ではないだろうかと。柄にも無くそんな詩的な情景を想う秋の夜長でございます。笑)


ところでラージャ・ヨーガを再発注とのことで何やら恐縮ですが、もしそれでも入手出来なかった場合は、発行元の日本ヴェーダーンタ協会のホームページから直接購入出来ると思います。ご参考までによろしくどうぞ。


最後に一つ、宙さんの文中にあった言葉「本能」ですが、アマゾンで表紙のサムネイルなどでお気付きになりましたか? ラージャ・ヨーガという書籍の副題。

「ラージャ・ヨーガ 本能的性質の克服」なんです。(笑)

手元に届いたら読む前に表紙を見て放り出しやしないかと心配になった為、先にお伝えしておきます。^^

中身も宙さんの許容範囲から果てしなく逸脱している部分があると思うので、(それも多々)予め本を放り投げる心の準備をしてからお読み下さい。^^;


それではまたいずれ、機会がありましたらどうぞ宜しくお願いします。
ありがとうございました。<(_ _)>
 
 
 
一閲覧者の感想 (Unknown)
2017-09-28 08:48:16
抽象的理解を徹底的に否定する具体的理解の崇拝者、論理信者、左脳人間の行方は、AIという時代の流れや人類という他者が作り上げる現実の後を追うことでしか結局スピリチュアルを理解できないという話か。

人それぞれ千差万別の気づきや悟りへの道があるんだなあと改めて感じる。
 
 
 
2017 秋 (サム)
2017-09-29 04:55:16
>抽象的理解を徹底的に否定する具体的理解の崇拝者、論理信者、左脳人間の行方は、AIという時代の流れや人類という他者が作り上げる現実の後を追うことでしか結局スピリチュアルを理解できないという話か。


...という様な一方的な思い込みを脇にどけて、

ネットを通じ生身の人間同士が胸襟を開いて語り合った、という話です。

また、

それは目の前で行われたのですが、あなたの目は開いておらず自身のマインドに沈澱していた、という話です。あるいは今もなお。



おお、気付きを尊ぶ人よ、

この優れた観察の機会をどうぞ逃すことなかれ。



(信じるか信じないかは、あなた次第です! ^^)
 
 
 
サムさん、参りましたm(_ _)m (一閲覧者)
2017-09-29 07:50:30
>おお、気付きを尊ぶ人よ、
>この優れた観察の機会をどうぞ逃すことなかれ。
>(信じるか信じないかは、あなた次第です! ^^)

こういう反論に対して相手を罵倒するでもない、挑発したり捨て台詞を吐くわけでもない、冷静で紳士的な言葉を返されると何も言えませんね。

感服ですm(_ _)m
 
 
 
ポジショントークじゃないですか? ()
2017-09-29 13:37:26
あのコメントが紳士的なら、全てとは言わないが私のコメントも結構紳士的に見られているんだろうなぁ(笑
 
 
 
もちろんじゃないですかw (一閲覧者)
2017-09-29 15:54:14
もちろん宙さんの過去のコメントも決して相手を罵倒するでもない、挑発したり捨て台詞を吐くわけでもない、冷静に礼節を重んじる、相手をリスペクトした書き込みばかりだと思ってますよ。

特に、ナツメグさんとのやり取りとか。
 
 
 
ヨーガが本当に科学的なのかはさておき ()
2017-09-30 03:13:02
一閲覧さん

>もちろん宙さんの過去のコメントも決して相手を罵倒するでもない、挑発したり捨て台詞を吐くわけでもない、冷静に礼節を重んじる、相手をリスペクトした書き込みばかりだと思ってますよ。特に、ナツメグさんとのやり取りとか。

そうですか(笑)


サムさん

無事に本が届きました。今、読んでる最中ですが、お世辞にも読みやすい本とは言えませんね(笑)意外だったのは、ヨーガって結構現実的な考え方なんですね。現時点で印象に残っているのは以下のような点です。

※神秘を売りものにすることは、人間の頭脳を弱くする。古代に遡るほど、それの著者は論理的であり、近代になるほど、注釈者がより大きな誤りを犯している。盲目的に信じるのは間違い。

※惑わされた人々は、人間のハートを変える奇跡的な力を、雲の上なるある御方から授けられたと思って喜んでいる間に自分は、将来の衰退の、罪悪の、狂気の、そして死の種子をまいているのだ、ということを夢にも知らない。

※ある人が、「私は霊感をうけた」と言いながら不合理なことを話すのを聞いたら、それは拒否せよ。なぜなら、これら三つの状態、すなわち本能、理性及び超越意識、または無意識状態、意識状態および超越意識の状態は同一の心に属しているのだから。本能は理性へ、理性は超越意識へと発達する。だから、どの一つの状態といえども、他と矛盾するものはない。真のインスピレーションは決して理性と矛盾はせず、むしろそれを成就する。

※ひとつの言葉が話される、すると私は、慎重にその意味を考えることをせずに、直ちに結論に飛びついてしまう。それは、チッタ(心)の弱さのしるしである。

これ、私より辛辣な気がして読んでて吹き出しそうになりました(笑

そして以下の点、

※見えたり聞こえたりする対象への渇望を捨てた人々のところにやってくる、そして対象を支配しようと決意する、その結果は、無執着である。

※離欲は解脱への唯一の道である。

本の中に、ヨーガの熟練者は何でも意のままというような記述があったので胡散臭くて既に何回か放り投げそうになりましたが、

なるほど、無執着ならば離欲なのだから望むものがない、

故に既に全ての願いが叶っている、常に願いが叶っている、全ては思いのまま

というような痛烈な皮肉に思えて、なんだか痛快でした(笑)

私にとっては難解でなかなか読み進められませんが、ゆっくりじっくり読んでいこうと思います。(本当は読み終わってからコメントしたかったのですが、まだまだ掛かりそうです笑)

面白い本をご紹介頂きありがとうございます(^^)
 
 
 
一閲覧者さんへ (サム)
2017-09-30 03:53:05
即座に諸々のマインドを手放されたご様子。

僕も常にそうありたいと願う者です。

折角の機会なので、いつの日かまたあなたと語り合える時が来た時の為に、

今現在の僕の正直な思いをお伝えしてみようと思います。

9月が終わればこのコメント欄を去ろうと考えていたのですが、最後にちょっとだけお付き合い下さいまし。m(_ _)m



・・・・

何がウソか何がホントかわからないこの世界で、虚と実を語り合うのは誰にとっても難しいことですね。

みな自分自身が虚構を見ているなどとは夢にも思わないものですから、当然、自分の目に映った相手像はいとも簡単に実像だと思います。

現実社会でもネット世界でも皆がもし容易く実像を見ているのであれば、争いや行き違いはほとんど消滅してしまうでしょう。

しかし実際のところは悲しいかな、何一つ実像が見えていないと言っても過言ではないのが我々の有様だろうと思います。

一体それは何故なのか。なぜ僕たちはそれほどまでに実像を得るのが難しいのか。

その答えは僕自身この先の航海において見出すつもりですが、

胸中には一つの仮説が有ります。

それは、「”この思考する我”は、人の知覚の本体、実体では無いからだ」というものです。



・・・・

元々仮性としての現れであったこの肉体生命に内在した認識機能(とその器官)が、いつしかその知性の大本であった根源の知覚力を見失い、「いま思考する我が実体である」という意識的・無意識的な心を形成してしまった。

その無自覚な心が遥かな時を転生し続け、様々な生において「我が思い」と「我が行い」という痕跡を心の奥深くに刻印し、人それぞれの個性という姿を彫刻されながら、

やがて、根源の知覚力がまるで忘却の彼方へと去ってしまったかのように、その光を観ることが出来なくなってしまった。

それが我々という存在だと。

つまり僕たちは今この瞬間にも、他者のみならず自分自身をも錯覚し、誤解して生きているのである...と。

そんな実体とは言えない我々に、そして心と身体という物質次元に束縛された我々に、物事の実像やあるがままの真理を捉えることは土台無理な話だと言えます。

そのような仮説を僕は抱いているのです。



・・・・

では一体、どのようにしたら我々は物事の実像や、真理や、同胞への真の理解を手にすることが出来るのだろうか。

もう金輪際そんなことは不可能なのか。

初めから全てが間違っていたのか。

しかしながら、...そこで僕はまた一つの仮説を見出します。

「そんなことはないはずだ。我々は知覚の縁(よすが)は持っているのだ。だからその縁を手繰り寄せ、もと来た道を辿って行けるはずだ」と。

そして、忘却の彼方へ去ってしまったかのように思える根源の知覚力は、全く何処へも去ってはいないのだとも。それは遥か遠い過去から今現在まで、常に自身の内に在り続けて来たのだと。

ゆえに人々は皆、「自己を照らせ」と僕は思います。

根源の知覚力は己の内に在る。

それこそが本質的自己であり、それこそが人々の真の姿だと。

だからこそ自己を深く探究し、強く照らせと。

我(われ)に内在する知覚の縁は大本と決して途切れてはいないでしょう。

僕はそれが根源へと確かに繋がっていると確信を持つ者です。

なぜなら、この知覚の縁に絶えずエネルギーが供給されているのを見ればそれは明らかだからです。

ゆえに我々の探究が真摯なものであるなら、それは大いに実りあるものとなるはずです。



...僕の仮説によれば。(笑)



・・・・

自灯明ということを語った古の賢者がいらっしゃいます。

僕はその言葉の意味や、伝えられている内容を学んだことは無いけれど、しかし、自らを照らすという眼差しには大いに賛成し、また心から敬服致します。

彼がその道を切り拓き、彼岸へと渡ったなら、そのことはきっと僕自身の航海における最大の道しるべとなることでしょう。

一閲覧者さんもご存知の通り、僕たちが日々迷い込む自身のマインドは、灯台ではありませんね。

我々の本質が灯台なのであって、マインドはその明かり・エネルギーを投影する機能であり、また投影された銀幕世界です。

(僕に言わせればですが。)

誰もがこれまでそうだったように、この先もついついマインドが様々な銀幕世界を投影するでしょう。この先も色々なコメント投稿者が、それこそ色とりどりの極彩色の世界をキーボードで入力するでしょう。

僕自身もそうですし、誰もがその永い永い時を経て培ってきた習慣からは簡単に自由になれません。

しかし逆を言えば、常に自分が灯台なのだということに気付くことも、自分をマインドから自由にするという行為も、また習慣として我れに根付いて行くのだということです。

先のコメントは少し辛口で申し訳ないところもありましたが、

気付きを尊ぶあなたに向けた、同志の思いという事でどうぞご容赦下さい。

そして、僕がマインドに流され他者に虚構を投影していたなら、あなたが僕に同じようにして下さればありがたく思います。

またいずれ機会がありましたら、そんな風に気付きを語り合える仲でありたいと願います。



昨日の真摯なレスをありがとうございました。長々とすみませんがどうぞ宜しくお願いします。<(_ _)>
 
 
 
サムさんへ (一閲覧者)
2017-09-30 20:49:57
ご丁寧なご返信、誠にありがとうございます。

そして、失礼な書き込みをしたことを改めてお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。

またの機会がある時に、ゆっくりと個別にやり取りをさせて頂ければと考えますが、私からも少しだけのお付き合いを頂ければ幸いです(長文ですが)。

※サムさんの「肉体生命に内在した認識機能(とその器官)に依存するが故、人類は真理を見失っている」、という旨のお話とは以下異なる内容になっているかもしれませんが、ご了承下さい。

私事で恐縮ですが最近、臨済禅師の言葉である「逢仏殺仏」(ブッダに会ったらブッダを殺せ)という言葉を知り、大変感銘を受けておりました。

「逢仏殺仏。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱」

(仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん)

要は、疑うことなく妄信しがちな権威、すなわち観念化しやすい存在を全て手放せば悟り、気づきを得られると。

そんな中、サムさんから私の書き込みに対し、それは思い込みであるとさらりと喝破され、「マインド」への沈澱というご指摘を受け、それは言葉を変えれば、最近のスピリチュアル界隈でよく耳にする表現である「ストーリー」への埋没に陥り続けてきることを指しており、私はまさに無自覚にその状態に陥ってしまっているんだろうな、と今回改めて考える機会となりました。

上に挙げた臨済禅師の言葉も、頭では「インパクトがあって面白い」くらいの字面への理解でしかなかったようで、実際に肚の底のレベルで親やブッタや親戚の存在を殺す、観念レベルでの全否定と放棄は出来てはいないことに改めて気が付きました。

そして、そんな自然な流れを汲めたからでしょうが、今日になって全くこれまで興味が持てなかった雲黒斎さんの「FUCK IT」に自然と意識が向き、AmazonでKindle版をポチリとし、マインドへのさらなる疑念と手放しのきっかけとなるべく現在、目を通している最中です。

マインド、思い込みを打ち破るには、それがまずマインドだと気付くことから始めないといけないと私も思いますが、私の考えるそれは現状の自分自身の全否定の作業となるはずで、場合によっては、かなりつらい作業となると想像しております。表現が極端かもしれませんが、もしかしたら死んだ方が楽なくらいのケースもあるかも知れないと。

要は、そんなきつい通過儀礼のような過程があるのなら、そのまま気づきも悟りも得ないで、現状維持のストーリー、マインドへ埋没したまま生きていた方が、結局楽ではないのか?という考えです。

逢仏殺仏に沿って考えると、例えば親に対する固定観念を捨てるという場合、愛してくれた親だろうと毒親だろうと「妄信している」という事実に正面から向き合い、親に対する固定観念を自ら疑い一旦手放す。すなわちそれは、自分が親に対して持ってはいけないと考え、しまい込んでしまったかもしれない憎しみや悲しみ、憤りといった感情に気づき、もしくは新たに湧いてくる感情を受け入れる、とことん向き合う意味も含まれるはずで、それがどんなに難しくてつらいものになるかと。

親というだけで尊敬すべき、愛すべきと思い込んで出来上がった観念をただ取っ払えば良い、と口にするのは簡単だけれど、その観念にこびりついた自身の感情を目の当たりにすることが、固定観念へ向き合う際の一番の苦しみになるだろうと。

気づきへの過程とは、おそらく出家した坊さんの苦行のように山籠りして滝に打たれるという、単なる外的要因による心身の追い込みでなく、こういったサムさんも指摘されている自己の内面の追求のみを指しているのではないかと。

そしてこれが、「根源の知覚力」、すなわち「本質的自己」へと近付く、辿り着く作業の一つになるのではないかと、サムさんのご返信を読みながら今回考えておりました。

また私は、「無為自然」といったタオイズム(雲黒斎さんが訳された老子道徳経)に以前から薫陶を受けていながらも、バシャール、アセンション、アセンデッドマスター、エーテル体と言った言葉にも反応している人間ですが、サムさんにこの辺りの見解を、このブログ記事で関連がありそうな話題になった時に改めてお尋ね出来たらと思います(雲黒斎さんが記事で地球外意識体とか、エーテル等に触れることはなさそうですが)。

最後になりますが、このような匿名同士でも、匿名同士だからこそ、年齢や職業、肩書きといった互いの条件付け、思い込みを自然と除外しながらやり取りができるということを改めて認識出来たことに感謝を申し上げ、今回の書き込みを以上とさせて頂きたいと考えます。

またの機会、宜しくお願い致します。
 
 
 
面白い(笑)私もぶっ壊してみよう ()
2017-10-01 01:24:20
>「逢仏殺仏。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱」

本当に観念を捨てろという意味合いなのだろうか。

仮に、文字通り物理的に仏・祖・羅漢・父母・親眷・その他諸々を殺戮や破壊していったとする。最終的にその人はこの世に未練が無くなり、無欲となり、結果的に解脱するんじゃないだろうか(笑

つまり、「これができるなら悟れるぞw」という痛烈な皮肉である可能性もあるのではないだろうか(笑)(或いは、遠回しに「そんなものは目指す意味も価値もない」と諭しているか。)

大抵、「悟り」は 良いものとして語られるが、案外それは狂気なのかもしれない。

知性の大本が根源の知覚力なのではなく、悟ったと言われる人達が狂気により根源の知覚力といわれている異常性を身に付けた(或いは、異常性を身に付けたと錯覚・誤解している)という可能性もあるのではないだろうか。

そして、

果たして答えは出るのだろうか(笑
 
 
 
続・一閲覧者さんへ1 (サム)
2017-10-01 05:52:12
一閲覧者さん、本当に率直なご返信を頂きましてとても嬉しい限りです。やや興奮気味の僕です。(笑)

何もお詫びすることなんて無いですよ。誰しもそうだと思います。お互い様ですし、自分の胸に手を当てれば読者の中にも一閲覧者さんに本当に文句を言える人は誰もいないでしょう。

かく云う僕も人よりも多くのマインドに埋没してきたというだけの話で、もしも誰かにお詫びする量が計れるなら断然僕の勝ちです。^^; フフフ



>私事で恐縮ですが最近、臨済禅師の言葉である「逢仏殺仏」(ブッダに会ったらブッダを殺せ)という言葉を知り、大変感銘を受けておりました。

>「逢仏殺仏。逢祖殺祖。逢羅漢殺羅漢。逢父母殺父母。逢親眷殺親眷。始得解脱」

>(仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親眷に逢うては親眷殺せ。始めて解脱を得ん)

>要は、疑うことなく妄信しがちな権威、すなわち観念化しやすい存在を全て手放せば悟り、気づきを得られると。


「逢仏殺仏」...初めて知りました。これは強烈な言葉ですね。確かに学びの徒にとっては突き刺さるでしょうね。この破壊力は相当だと思います。

しかし一閲覧者さん、僕は初めてこの言葉に出会いましたが、この言葉にすらマインドの罠に落ちる危険性があることが分かります。

一閲覧者さんの何か参考になるかもしれないので、続きのご返信へのレスを挟みながらなぜ罠に落ちるのか書いていきたいと思います。僕の下手な説明ですがどうぞご容赦を。
 
 
 
続・一閲覧者さんへ2 (サム)
2017-10-01 05:57:59
>そんな中、サムさんから私の書き込みに対し、それは思い込みであるとさらりと喝破され、「マインド」への沈澱というご指摘を受け、それは言葉を変えれば、最近のスピリチュアル界隈でよく耳にする表現である「ストーリー」への埋没に陥り続けてきることを指しており、私はまさに無自覚にその状態に陥ってしまっているんだろうな、と今回改めて考える機会となりました。


今回、八月の下旬からコメントさせてもらって、宙さんや一閲覧者さんとこうして対話させて頂けたのは、僕にとってとても良い時間でした。この秋の収穫は本当に豊かだったなと嬉しい限りです。

宙さんは僕にとって全く新鮮な視点を幾つも持っていて、まるで姿が見えない前方をソナーで探知しながら進んでいるような、反響音を拾って宙さんの居場所や全体の輪郭がぼんやり浮かんでくるような、とても面白い対話が経験出来ました。

一閲覧者さんとお話しさせて頂くと、上記の文面からも分かりますが同胞が気付きに向かう姿というのは本当に素晴らしいことだと改めて感じ、同じ道を行く同志として祝福を送りたいと思います。



>上に挙げた臨済禅師の言葉も、頭では「インパクトがあって面白い」くらいの字面への理解でしかなかったようで、実際に肚の底のレベルで親やブッタや親戚の存在を殺す、観念レベルでの全否定と放棄は出来てはいないことに改めて気が付きました。


この文面を読んで、一閲覧者さんに面白いことをお伝えしてみようと思いました。

臨済禅師の言葉を含め、実は世のメンター達の言葉には初めからマインドの罠が存在しているんです。

一種のパラドックスかと思うような話ですが、

臨済禅師の言葉も、例えば仏陀の言葉でも、その他、優れた観察者の方の言葉でも構いません。その彼らの真意を的確に捉えることが出来るのは実際には“悟った人だけ”なのです。解脱を果たした、真実知に到達した方々でなければ本当の意味を解すことが出来ません。

もちろんメンター達が罠を仕掛けている訳ではありません。彼らの言葉を聞く我々がマインドに拠って立つ認識で聞いている為、僕たちに起こる気付きや理解は、「マインドがそれを見、マインドがそれを聞き、マインドが理解した」というのが実態だということです。

しかし新しい考え方になれたり、感銘を受けたり、心が一変したり、または場合によっては一瞥とでも言われるような意識の変容が起こる時、僕たちはそれを「本当に気付いた」と錯覚する訳です。仕方もありません。本当に何かが変わった感覚になりますし、実際にマインドが前後裁断されて新しいマインドになっているのでしょうから。^^

これは中々抜け出すのが難しい罠で、この罠に嵌っているとどうなるか、というのが下記の一閲覧者さんのご返信にもきちんと現れています。



>そして、そんな自然な流れを汲めたからでしょうが、今日になって全くこれまで興味が持てなかった雲黒斎さんの「FUCK IT」に自然と意識が向き、AmazonでKindle版をポチリとし、マインドへのさらなる疑念と手放しのきっかけとなるべく現在、目を通している最中です。


マインドが、「もっとよく理解したい」、「もっと深い気付きを得たい」と言っていませんか?

その想いを心中に感じるなら、それは紛れもなく「マインドの言葉」なんです。そして心を、眼を、外部のものへと向けようとさせるでしょう。ネットを検索し、ブックマークを巡回し、新しい本を手に取ろうとするでしょう。

しかし、たとえ手に取った本に惹かれる言葉が書いてあったとしても、それを見ている眼はマインドであり、それを読んでいる心はマインドであり、それを理解したと思うのはマインド自体なのだという観察を我々は忘れてはいけません。

つまり僕たちは、マインドの土台・基礎の上に新たなメンター達の言葉をせっせと集め、「さあ、素晴らしいものが出来上がるぞ」と考えているのです。そして夢中になってマインドに投影した家やらビルやらを建てようとばかりしているのです。

「砂上の楼閣」という言葉がありますが、僕たちが一般的に行うスピリチュアルへの取り組みは、正に砂上の楼閣を作り上げようとしているのに他なりません。

スピや悟りを求める人は、幻想の上に幻想を、罠の上に罠を積み上げている訳ですが、人によってはかなりの金額を費やすでしょう?

でもほとんどの場合その金額に見合った価値は無く、むしろ海辺で見かける本当の砂の塔の方が、アートとして価値があると言ってもいいでしょう。(笑)
 
 
 
続・一閲覧者さんへ3 (サム)
2017-10-01 06:05:18
>マインド、思い込みを打ち破るには、それがまずマインドだと気付くことから始めないといけないと私も思いますが、私の考えるそれは現状の自分自身の全否定の作業となるはずで、場合によっては、かなりつらい作業となると想像しております。表現が極端かもしれませんが、もしかしたら死んだ方が楽なくらいのケースもあるかも知れないと。


これについては注意しないといけないと思います。意外に思われるかもしれませんが、僕はマインドを否定しません。自我を否定しません。それらは純粋なエネルギーの現れであって、そこに否定的な意味を与えているのはこれまたマインドな訳です。

僕もあんまり「罠だ、罠だ」と、ネガティブな言葉を使わないようにしないといけないのですが、マインドの特性を言い表すのに便利なためよく使います。^^;
(でも必要ならこの文章のようなことを書き添えるようにしているんです。)

あるマインド、思い込みを思い込みであると気付くとき、人はただ「自由」になれるんです。そして自由になるとどうなるかと言うと、即座に、あるいはやがて心に平安や解放が訪れます。

だからこそ解脱者は、人々に解脱への道を歩みなさいと仰るのでしょう。解脱者は、生きとし生けるものが限りない平安の境地へと歩めるよう、遍く慈悲の想いを注いでいらっしゃるだろうと思います。

だから一閲覧者さんも、マインドへの観察と気付きに関しては祝福されたものとして、素晴らしいものとして受け止められて構わないと僕は思います。また僕は同胞としてその素晴らしい道のりを共に分かち合いたいと思います。



>要は、そんなきつい通過儀礼のような過程があるのなら、そのまま気づきも悟りも得ないで、現状維持のストーリー、マインドへ埋没したまま生きていた方が、結局楽ではないのか?という考えです。


僕の経験上、マインドへの観察、識別力の高まりが辛さを引き起こすようなことは一度もありません。逆に自らのマインドの滑稽さに笑ってしまうことや、マインドを去ることによって人を許せるようになることが多くなるので、何かと楽になれるものだという実感です。

また別な観点ですが、引き寄せ系の、マインドを意図的に特定の方向に放つという手法ですが、僕はそれも有用な部分があると思っています。

悟り系のものは時に厭世的な考えに傾いてしまい、それが本当に悟りに向かっているなら構わないのでしょうが、先に書いた通り幻想の上に幻想を積み上げているような「悟りもどき」なら、単に精神が参っていってしまうだけなので困りものです。

マインドは、やはり僕には純粋なエネルギーの発露だという面があるように思うため、例えばそのマインドが喜びや他者への愛を内包しているようなものであれば、あるがままに美しく咲くことを運命とする花のように、遠慮なく開花していけば良いのではないかと思っています。

そのことと、マインドを凌駕する真実知へ向かうこととは、T.P.Oの違いと言いますか、人生の局面、局面で適切に切り替えてみればいいのかな、と考えています。

一年365日、24時間も我無しを目指すというのは、生きていくこと自体が無理になってしまいますのでね。(笑)

あと余談ですが、上記の一閲覧者さんのような考えと逆に、スピリチュアルに目を向ける方たちの中に起こる思いでよくあると僕が感じるのが、「苦悩を経験しなければ気付きは訪れない」という考え方です。

僕は率直に言ってその考え方は取りません。僕の感覚で言うと、そうした思いが浮かび上がるのは心の奥に蓄積された思いと行いの痕跡、いわゆる転生を跨いだ思い癖、といったものだろうとの意見です。

またこの考えは、現在ただいま苦悩の最中にある方にとっては「まだまだこれからも自分は苦しまねばならないのか」という追い打ちを与える、残酷なものとなります。

確かに人生の苦悩に直面して心の世界に目が向くというのは、精神世界に興味を持つ方の常道のようなものですので、そうした経緯が多いということは否定出来ません。

しかし苦悩と気付きに無理に因果関係を持たせるのはそれこそ勝手なマインドですし、そこに霊的な意味合いを吹き込むスピリチュアルカウンセラーや霊能者の温床にもなっていると思います。

ですから、きっかけとしては苦悩があったとしても、気付きへの興味を持ったならその先は苦悩のことは忘れて、純粋に心の作用への観察に集中していくのが得策だろうと考えています。
 
 
 
続・一閲覧者さんへ4 (サム)
2017-10-01 06:14:16
>逢仏殺仏に沿って考えると、例えば親に対する固定観念を捨てるという場合、愛してくれた親だろうと毒親だろうと「妄信している」という事実に正面から向き合い、親に対する固定観念を自ら疑い一旦手放す。すなわちそれは、自分が親に対して持ってはいけないと考え、しまい込んでしまったかもしれない憎しみや悲しみ、憤りといった感情に気づき、もしくは新たに湧いてくる感情を受け入れる、とことん向き合う意味も含まれるはずで、それがどんなに難しくてつらいものになるかと。


第一に、初めの方に書かせてもらった通り、一閲覧者さんが「逢仏殺仏」を見た、感じた、受け止めた土台はマインドで出来ておりますので、その上に築いていく見解は砂上の楼閣です。

ならば、上記の一閲覧者さんの考えは、果たして臨済禅師が意図した射程範囲に含まれるものかどうかという、「待った!」が必要です。

ここで僕は今回の返信の核心に触れて行きますが、

極論を言いますと、全てのメンター達の言葉は理解してはいけないのです。繰り返し説明したようにその理解が「マインドの理解」だからです。

すなわち、僕の返信の核心は、「あらゆるメンター達の言葉から離れろ」というものです。

パラドックスなのか何なのか本当に変な説明ですが、実際問題、「メンター達の言葉を受け取る“前”に、マインドから離れていなければならないのだ」ということに注意していなければなりません。

まあそうは言っても中々出来ることでは無いですので、もしマインドが彼らの言葉を見たり聞いたりしても、それをそのまま心の中で放置すること、それらから「離れている」という心的態度が必要です。少なくとも「聞いたつもり、分かったつもりになっているのはマインドだ」という冷静なワンクッションが大事です。

そのワンクッションが無ければ、人はすぐ思考が走って行くからです。そしてあるひと固まりの考えを作り上げ、そのひと固まりの思考とイメージを基に、また次の考えを走らせて行くことになります。

逢仏殺仏についても一閲覧者さんは結構な距離、思考を走らせたでしょう。かつその思考は「しまいこんでしまったかもしれない憎しみや悲しみ、憤り」などを想像で生み出し、また実際に心中に「つらい感情」などを生じせしめたでしょう。

元々マインドが理解した「逢仏殺仏」は投影だったはずです。しかしその投影をまるで実像のように土台に据え、湧き出した諸々の思考と感情は一体何なのでしょうか。もちろんそれらも幻想です。

これはその一連の流れが悪いことだと言っているのではありません。普通のことです。何のおかしな所もない、普通の思考の流れです。

ですがそこに「待った!」を掛けて思考への観察を入れることによって、マインドの動きが一旦止まる訳です。こうしたマインドへの気付きによって思考はブレイクします。その時、意識は砂上の楼閣から自由になるんです。

振り返れば、僕たちは歩んで来た道のりに一体どれだけの砂の城を築き上げて来ましたか?

後ろを見渡せば、まるで大きな城下町、砂上の一大都市国家の如き幻想を建築してきたのではないでしょうか。(笑)

そのような都市国家を解体するのは一苦労ですから、砂の城はその都度、波に洗い流してもらった方がいいですね。海辺を臨んで美しい砂浜と広大な海を見渡すのは本当に気持ちの良いものです。それは誰にも与えられた精神の自由です。

そのようにマインドへの気付きにおいて僕が感ずるのは、「自由」になるということなのですが、

ではその自由というものをもう少し説明すると、

「マインドから離れるのも自由」、また「それに同化することさえも自由」という、本当に自由なんです。特定の考えに束縛、制約されていないということなんですね。

また右からでも左からでも、上からでも下からでも、表からでも裏からでも、過去からでも未来からでも、自由に観察が効けばこそ意識はマインドを的確に把握することが出来るのだろうと思います。

一閲覧者さんの上記の文面を見る限り、「気付き」というものを観念化し、それに束縛されているのが見て取れる感じがします。



>親というだけで尊敬すべき、愛すべきと思い込んで出来上がった観念をただ取っ払えば良い、と口にするのは簡単だけれど、その観念にこびりついた自身の感情を目の当たりにすることが、固定観念へ向き合う際の一番の苦しみになるだろうと。


初めて接した臨済禅師の言葉ですので何とも言い難い部分はあるのですが、僕の感覚からすると、弟子を導くのにキャッチ―な言葉をチョイスしたところが多分にあるんじゃなかろうか、という気がします。

仏を殺せ、父母を殺せ、と師から言い放たれれば、弟子は頭をガツンとやられたように衝撃を受けます。そして、迷い込んでいた思考をブレイクする訳です。

禅にはあまり馴染みが無いのですが、何となく禅の歴史には伝統的にというか、独特の導きの手法のようなものがあるのかなあと思ったりします。

しかしそれは時代を下って行けば文字でしか伝えられませんから、当時の、その場の空気感がよく分からなくなっていくものだと思います。

逢仏殺仏も、元々はズバッとその場の弟子の目を覚ますような感じで言ったかもしれないし、あるいは日頃師の言葉を聞いていた弟子がそのような逸話として編纂したものが伝わったのかもしれないし、全く当てずっぽうで書いておりますが、率直に言うと逢仏殺仏のお話しは「なるほどな、すごい話だな、」ぐらいに留めておいた方が無難ではないかと感じます。

と言うのも、いつの時代もスピのメンターは、キャッチフレーズが好きなんです。
ガツンと来る言葉で人の注意を向けさせる仕事だからかどうか知りませんが、今も昔もキャッチ―な言葉やセリフで溢れています。

いまここ、ワンネス、わたしはいない、全てはストーリー、みんなが仏陀、○○の法則、などなど。

それらを受け止める聴衆が、それを全てマインドで理解し、思考の堆積物にしてしまうというのに、です。そのことを聴衆に伝えないメンターは、人々に気付きをもたらしているのでは無く、人々のマインドに自身のキャッチコピーを植え付けているに過ぎないのです。

つまり人々はマインドにキャッチコピーをプリントしてもらった対価として、メンターに金品を提供しているのです。

もちろん好きでそうしたいのですから、会いに行けるアイドルと同じく会いに行けば良いし、何枚でも何十枚でもCDでも書籍でも買って良いでしょう。

ですが、一閲覧者さんは探究者でありたいのならそのことはお薦めしません。必要なことは外側に目を向けることではなく、やはり自身の内面を観察することです。そしてその背後にある知覚の根源への洞察をどう深めて行くかが問題です。
 
 
 
続・一閲覧者さんへ5 (サム)
2017-10-01 06:18:37
>気づきへの過程とは、おそらく出家した坊さんの苦行のように山籠りして滝に打たれるという、単なる外的要因による心身の追い込みでなく、こういったサムさんも指摘されている自己の内面の追求のみを指しているのではないかと。


仰る通り、心身の追い込みは外側の世界、投影の世界へと出て行こうとする心を制御し、集中させるための手法、ないしは方便だと思いますね。マインドが習慣化されるという性質を利用して精神の集中を成就する訳です。

一つの行法に打ち込めばマインドもあちらこちらに興味を分散することが出来ず、訓練が為されればある程度の心の支配力が生まれるでしょう。

それらは本来、内面を如何に制御していくかという修行者たちの実践の痕跡だったと思いますが、現代では苦行することや山籠もりをすることが目的化していたりする気がしますので、(笑)
こちらも深入りする必要は特に無いだろうと思います。



>そしてこれが、「根源の知覚力」、すなわち「本質的自己」へと近付く、辿り着く作業の一つになるのではないかと、サムさんのご返信を読みながら今回考えておりました。


根源の知覚力についてまた一つの仮説ですが、おそらく、マインドは知覚の縁を持ってはいますが、根源そのものを知覚することは出来ないでしょう。ここは実際にその境地まで行けなければ何とも言えないのですが...

マインドがそれを知覚するのではなく、エゴの終焉、マインドが終焉した時にそれを観ている知覚力が本質的自己の知覚であり、それが覚醒の主体であろうという推察です。

つまり、僕も航海に出るとか言ってはいますが、実際にはもちろん向かうのではなく、マインドの停止、さらには終焉がその意味です。

ある日の静寂の中、それを直感したのですが、しかし、今の僕にはそのことを検証出来る識別力が備わっていません。だからこの先、それを確かめてみようという予定です。

航海で難破しなければ。(笑)
 
 
 
続・一閲覧者さんへ6 (サム)
2017-10-01 06:25:49
>また私は、「無為自然」といったタオイズム(雲黒斎さんが訳された老子道徳経)に以前から薫陶を受けていながらも、バシャール、アセンション、アセンデッドマスター、エーテル体と言った言葉にも反応している人間ですが、サムさんにこの辺りの見解を、このブログ記事で関連がありそうな話題になった時に改めてお尋ね出来たらと思います(雲黒斎さんが記事で地球外意識体とか、エーテル等に触れることはなさそうですが)。


せっかくなので書かせて頂きますと、冒頭から述べてきた通りそれらのことを見ているのは自身のマインドですから、「いずれのメッセンジャー、マスターの語る事からも離れなければならない」というのが僕の見解です。僕たちにはそれを正確に識別する力はまだ無いのです。

有象無象のマスター連中や、あるいは真の聖者について、それを本当に識別出来るのは解脱者しかいなだろうと思います。

しかしやはりマインドの終焉に向かうには教師の臨在が必要です。難しい選択ですが、識別の方法を教えて下さる教師は求めなければなりません。

ではどうするか。

それは自分が一度全てのマスターから離れたのち、マインドからまるで離れられないマスターを除外すればいいのです。そこまで行ったら、マインドに埋没している自称マスターの戯言は嫌でも分かります。

それで、ある程度マインドから離れられるようになってから、次は教師の下で今度は集中を学ぶのです。マインドはただ掃いて捨てるようなものではなく、やはり大事なツールです。マインドを集中させることを学ばなければ、その先には行けないだろうと思います。

それを実際にやってのけた解脱者の臨在が本当に必要です。

僕は以前、もう悟りへの願望も無くなり、まるで自由で、マインドから解放されたように思っていました。でもある時それが通過点であると知って、そこから今度はマインドの終焉という航海のプランが出来てきました。

世の様々なメッセンジャー、マスターは、残念ですがそのことを教えない人が多いと思います。なぜなら本人がまずそれを知らないし、また僕は彼らをスピリチュアル業者と呼ぶのですが、彼らにはスピリチュアル消費者が必要なのです。

スピ業者とスピ消費者は共にお互いに依存しており、両者がマインドのテーマパークで和気あいあいと楽しくやっている関係性です。

それに、出した本は買ってもらわなければ困るのです。開いた講演会には来てもらわないと困るのです。だからスピ消費者のニーズに合わせた催しを行います。読者にリクエストしたりなんかして。それをマインドと言わずして何と言うか、という話なのですが、ともかくスピ消費者も好きでそれを求めているのですから両者は運命共同体です。

その運命共同体のことをワンネスと言うかどうかはさておき、(笑)

黒斎さんが訳本を書いたり、他のメンターの言葉を黒斎さん流に説明したりしていますが、ここまで申し上げてきたのでもうお分かりの通り、それらは黒斎さんのマインドが理解した内容であり説明である訳です。

そしてそれを読む人はさらなるマインドによる解釈を生み出します。

一体これは何なのでしょうか?

これはつまり、人の数だけ元のものが分離して行ったに過ぎないのです。誰一人として共有出来ない“ワンネス”の欠片です。
 
 
 
続・一閲覧者さんへ7 (サム)
2017-10-01 06:31:16
ということで、

いずれにしても、一閲覧者さんの識別力が高まればやがては何もかも明白になる訳ですから、マインドに生じる疑問というものは、別段取り合わなくても構いません。

疑問が沸いたなら、その疑問が起きることこそがマインドの性質なのだという観察と気付きがあれば、そこから自由になれるのです。

自己探究において、外部世界、投影世界への渇望は果てしない遠回りに他なりません。そこにあるのは誰かの盗掘した遺跡です。宝箱の蓋を開けても財宝はありません。また宝石らしきものがあったとて、それはそもそもイミテーションなのです。

そのように外側世界に出て行こうとする心をブレイクし、自身の内面、本質的自己への探究を深めていくことこそ実は最短の疑問消滅への道のりだろうと思います。

なぜなら、マインドの終焉と共にあらゆる疑問は永遠に消滅するでしょうから。



>最後になりますが、このような匿名同士でも、匿名同士だからこそ、年齢や職業、肩書きといった互いの条件付け、思い込みを自然と除外しながらやり取りができるということを改めて認識出来たことに感謝を申し上げ、今回の書き込みを以上とさせて頂きたいと考えます。

>またの機会、宜しくお願い致します。


こちらこそ、このような対話の機会を得られたことを改めて感謝致します。ぼちぼちこの場を去りますので、出来る限りという思いで全文レスになってしまいました。長々とすみません。もちろんご返信には及びません。

一閲覧者さんが晴れやかに自由を享受する日の近いことを祈念致します。

どうもありがとうございました。<(_ _)>
 
 
 
宙さんへ ラージャ・ヨーガ届いて良かったです (サム)
2017-10-01 06:55:05
そして、まだ手元にあって良かったです。(笑)

今しばらくの愛読を宜しくお願いします。^^



ヴィヴェーカーナンダ師は人物としても面白く、

彼自身が師匠をボロカスにけなしたりして、

師匠が神に「彼が酷いことを言うのです」などと相談した、なんていう逸話も聞きました。(笑)



今回のラージャ・ヨーガの内容はともかくも、

彼のことを知ることで解脱者について宙さんの視点に何かしら幅が出れば幸いです、というのが僕の意図ですので、

気軽に「ああ、こんな考えもあるのかな」というぐらいに読み流されて下さい。

特に後半の章は僕にも難解過ぎますので。^◇^
 
 
 
世にも奇妙な物語 ♫〜 (サム)
2017-10-02 02:59:30
>本当に観念を捨てろという意味合いなのだろうか。


僕も初めて出会ったお話なのですが、観念を捨てろという趣旨であるのには違いないと思います。

なぜって、仏教伝来の各地において修行者が親族をこぞって殺戮してきた歴史は無いでしょうし、後代の人間には仏陀も先祖も殺せませんからね。(笑)

だから所謂、「心の中を占める諸々の観念を捨ててしまいなさい」というお話でしょう。それがたとえ父母や御仏への想いであったとしても、ということで。



>仮に、文字通り物理的に仏・祖・羅漢・父母・親眷・その他諸々を殺戮や破壊していったとする。最終的にその人はこの世に未練が無くなり、無欲となり、結果的に解脱するんじゃないだろうか(笑

>つまり、「これができるなら悟れるぞw」という痛烈な皮肉である可能性もあるのではないだろうか(笑)(或いは、遠回しに「そんなものは目指す意味も価値もない」と諭しているか。)


そんなヤツ臨済禅師が真っ先に止めたでしょう。「YOU!バカじゃないの!?」って。(笑)



>大抵、「悟り」は 良いものとして語られるが、案外それは狂気なのかもしれない。

>知性の大本が根源の知覚力なのではなく、悟ったと言われる人達が狂気により根源の知覚力といわれている異常性を身に付けた(或いは、異常性を身に付けたと錯覚・誤解している)という可能性もあるのではないだろうか。

>そして、

>果たして答えは出るのだろうか(笑


宙さんはSFだけじゃなくてサイコサスペンスの脚本も書けそうですね。(笑)

トワイライト・ゾーンかっていうね。(世代じゃないけど ^^)



・・・・

しかし、答えはもう出てるんですよ。

なおかつそれは宙さんのすぐ眼前に。

数千年語り継がれたその答えを、現代社会の世界数十億人のように信仰や祈りの対象とするか、あるいは現代においても答えを実際自分自身で確かめてみるか、あるいはその身で経験するのではなく遠巻きに只ただ否定するか。

宙さんは自由にその選択が出来る状況にあるのではないですか? ^^
 
 
 
船出 ()
2017-10-02 15:33:20
>そんなヤツ臨済禅師が真っ先に止めたでしょう。「YOU!バカじゃないの!?」って。(笑)

そこなんです。恐らく止めるでしょう。私がまずあの言葉について感じたことは、「なぜこんな回りくどい言い方をしたのか?」です。その臨済禅師だって何回も同じ作業をしてたら飽きるだろうし、何か呆れるようなシュチュエーションになれば皮肉の一つも言いたくなることもあったのではないかと思ったわけです。(笑)(或いは、ジョークか)

まぁそもそも本当に解脱したのなら無欲になるだろうから呆れることもないのだろうけど、しかし、無欲になったのなら自分の家族や友人が死のうが何も感じないでしょう。それだったら、あの言葉を文字通りの意味で言い放ってもおかしくはないとも思うんですよね。(笑)

なので凡人の私には狂気と感じたわけですが、もちろんこれは相対的なもので、解脱者目線なら普通のことなのでしょう。

そしてこれは否定ではなく単なる推測で、可能性の提示のつもりなんです。そう決めつけるのは早いのではないか?と思ったわけです。

>数千年語り継がれたその答えを、現代社会の世界数十億人のように信仰や祈りの対象とするか、あるいは現代においても答えを実際自分自身で確かめてみるか、あるいはその身で経験するのではなく遠巻きに只ただ否定するか。宙さんは自由にその選択が出来る状況にあるのではないですか? ^^

そうですね、どうすれば確かめられるのかまだ分かりませんが自分自身で確かめられればいいなぁとは思います(^^)

しかし、ふと思ったのです。仮に確かめてわかったとして、その理解は結局は、サムさんが言っていた「マインドの理解」なのではないか。思い込みの域を超えないのではないか。と。

まぁこれは単なる言い訳で、今思えば、確かめようともせずにそんな心配をしても意味はありませんね(^^;)

いずれにしろ、他人に聞いて分かるものではなく、知りたければ自分で確かめるしかない、サムさんのおかげでそのことは分かりました。ありがとうございました。

のらりくらりやってこうと思います。( ´ ▽ ` )ノ
 
 
 
サムさんm(_ _)m (一閲覧者)
2017-10-02 17:51:04
9月でこの記事のコメント欄から離れられるとのことで慌ててサムさんに、自身の現状も誠に勝手ながら無性にお伝えしたくなり、今回このような書き込みを勢いに任せしてしまいましたが、そんな私のコメント全文に対し一言一言ご丁寧なご返信を頂き、大変感謝、感激しております。

お時間、お手数をお掛けしてしまったと思いますが、誠にありがとうございますm(_ _)m

サムさんの各コメントに自身の所感を申し上げるべきだとは思いますが、今はただただ、その言葉を繰り返し目にして噛みしめるのが精一杯な状態です。

最初から最後まで、私のコメントの私なりの真意を汲んで頂いたであろう、サムさんの各ご説明の言葉にひたすら圧倒され、感想を述べようにも、出てくる言葉がその思いに追いつかない状態であると同時に、私はこれまでスピリチュアルに「気分」か何かで腰掛け程度に浸っていただけで、今まで一体何をしてきたんだろうと、現在大変良い意味での心からのショックを受けております(こういうことを述べるには、それがマインドの仕業かどうかの注意が必要かもしれませんが、「砂上の楼閣」に気付けるかもしれない状態かと)。

正直申し上げますと、今回のサムさん宛ての投稿は、我ながらどこか「エゴ満載の文章だよなあ」と思いつつ、スルーされても仕方がないレベルのことを書いてしまったと恥を忍びながら、私の精神世界に対する現時点での認識を、そのままお伝えさせて頂きました。

しかし、それに対し易しく「マインドの罠」として詳細のご説明をされ、それだけではなく「マインドの終焉」へと向かわれているからであろう、文面から伝わるそのスピリチュアル、精神世界に対するサムさんの言葉の造詣の深さもそうですが、人としてのその心の広さを持ってお付き合いして頂いたことにも大変感動しており、あわせて投げかけて頂いた「同志」、「同胞」という言葉にも恐縮しきりで今はおります。

「スピリチュアル」という、まだまだあまり公には口にしにくい分野で、このような膝を交えさせて頂くような形で話し合える、大変貴重と言えるやり取りをさせて頂くと、さらに詳細お話を続けたくなってしまいますが、これ以上お時間お手間をとらせぬようここはグッと我慢しなくてはと思うと共に、まだ圧倒されているだけで腑には落ちていないかもしれないご返信内容にしばらく繰り返し目を通すべく、サムさんが7つに分けて投稿して頂いた各コメントを、まずはスマホのメモにしっかりまとめて保存せねばと考えつつ、以上、お礼の言葉に代えさせて頂きたいと思います。

もしかしたらこのまましばらく、このブログから離れることになるかもしれませんが(サムさんの返信の言葉とだけしばらく向き合いたい為)、またの機会がございましたらご迷惑かもしれませんが、是非ともまたお付き合い頂ければ幸いです。

出来ましたら、サムさんが仰ってくれた「晴れやかに自由を享受する日」を迎えた時に、そのご報告が出来たらと思います。

本当にありがとうございましたm(_ _)m

【追記】
以下、余談です。

実は、この「逢仏殺仏」(ブッダに会ったらブッダを殺せ)は故・岡本太郎さんも言及しており、さらに太郎さんならではの独自の言葉、解釈を付け加え、こう述べられております。
--
父に会ったら父を殺せ。
母に会ったら母を殺せ。
師に会ったら師を殺せ。
仏に会ったら仏を殺せ。

と続け、「では、仏を殺した後は何が残るのか?」と聞かれて「己、自分自身。」と答えたと。

そしてさらに「では、己、自分自身が残ったとしたら次にどうすれば良いのか?」という問いに対して、

「己、自分自身(自我)を殺せ。」

と答えたと。
--
サムさんとのやり取りを終えた今となれば、これこそキャッチーな、いかにもマインドをくすぐる「私はいない」的なフレーズに聞こえますし、かつ、岡本太郎ご本人にしかわからない真意不明な言葉だとは思います。解釈に解釈を加え、それをまた私が解釈しようとしているという。

まさに「マインドの罠」に対する注意が必要かと。

しかし、サムさんのお話を踏まえさせて頂いた上だからこそ、この岡本太郎の発言に対し改めて思ったことがあります。

それは、探求者にとっての自我、マインドと芸術家、アーティストにとっての自我、マインドは共に同じ「純粋なエネルギーの現れ」として本来違いなどはないはずで、あるとすればそれは扱い方、捉え方にしかないのではないかと。

前者にとっては、自我=自分であると同一化しているばかりに、単に苦しみをもたらすだけの厄介な代物になり果てているだけなのかもしれないけれど、後者はそうではなく、「自我の」苦しみとして捉えるのでなく、自我を殺す(横にどける)ことで、所有者不明の「苦しみ」だけが残り「苦しみ」という名のラベルがされた単なる「純粋なエネルギーの表れ」として扱うことが出来ているのではないかと。

自我、マインドと同一化するか、観察対象とするか、そしてそれを利用対象とするか。

岡本太郎の場合、観察、利用対象として、芸術活動の創造力のエネルギーとして、マインドを活用していたのではないのかと。

だとしたら、探求を続ける人間も、この芸術家のように殺しに殺して(観察し続けて)最後自分、自我さえ殺す(横にどける、観察する)ことで、悲しみも苦しみも感じる自分がいない、何とも同化していないマインドという「純粋なエネルギーとしての表れ」しかそこには残らないだろうから、例えばそれを、サムさんの仰る「引き寄せ」として意図的に享楽、快楽の為に使って人生を楽しんでみても良いだろうし、試しに岡本太郎のように、芸術の分野で創作エネルギーとして昇華させて何か表現してみるのも良いのではないのかと。

また、もしかしたら我々がよく知っているあの「芸術は爆発だぁ!」の岡本太郎の姿そのものが、実はマインドが終焉した一つの姿、「本質的自己」の表れの姿だったのかなとも思ったり。

あの岡本太郎の常にカッと目を見開いた、パッとみ「変人」(失礼!)にしか見えていなかったであろう我々の方こそが、実は「本質的自己」に到達していたかもしれない岡本太郎からすれば、逆に変わり者の集団ぐらいにしか見えなかったのかもしれないと想像したり(「本質的自己」に到達した方が、未到達の人間を捕まえてそんな蔑むような思いを抱くのか分かりませんが)。

このようなお話も、まだまだ観念的でマインドの解釈、罠ゆえ生まれた考え、マインドによる知覚の範疇の話なのかもしれませんが、サムさんとのやり取りをさせて頂いたことで、このようなことをフト思いました。

改めて、サムさんとやり取りをさせて頂き本当に感謝ですm(_ _)m
 
 
 
宙さん、一閲覧者さんへ (サム)
2017-10-03 06:02:08

レスどうもありがとうございます。^^

ちょっと、きちんと読める時間が無かったので、

ご迷惑でなければ明後日にまた、と考えています。

よろしくどうぞ。<(_ _)>
 
 
 
航海を展望するあなたへ (サム)
2017-10-05 06:06:56
ようこそ同志。^◇^

(止めろって?笑)



>可能性の提示

概ね伝わってましたのでご安心を。^^ 可能性ってちゃんと書いてくれてましたもんね。

ただレスを見ている内に、「殺人鬼と化す弟子に慌てふためく臨済禅師」みたいなのが浮かんで来たもんで、つい。(笑)


ところで同志、

(あんまり同志って言うと共産圏の人になった気分ですが ^^)

知性の大本や自己の本質について、また解脱者というものへの理解を深めることについて、その”理解”がマインドの理解になってしまうのではないか、ということが頭をよぎったようですが、

お世辞ではなく、正直大したもんだと思いました。そのような考えが生じたということは、すなわち僕が提示した「マインドの理解」という構図を宙さんは普通に消化しているということですから、全く立派なものだと思います。

別に宙さんにそれが出来ないと思っていた訳では全然無いのですが、上記のことを観察出来るまでかなり時間が掛かる人が多いのも事実でしょうから、正直素晴らしいことだと思いました。なぜならそれが識別の始まりだからです。

先日も、僕がネットの議論というものが噛み合わない理由の一つとして、「そもそも議論が相手本人ではなく、お互いに自分が思い描いた相手像に向かって行われる点」と書いたら、宙さんは「この点はなんとなく分かる気がする」と言ってましたね。

その時も僕は内心、「む、そうか。分かるか。」と思ったんです。^^ だからやはり宙さんはマインドの性質の一端を見つめる観察力を持っているのだと分かります。

それで、「自分で確かめる(=自己探究)際における理解も結局、マインドの理解になってしまうのではないか」という懸念に話を戻しますと、仰る通り、探究者は先ずその問題に取り組まなければいけない訳なんです。

一閲覧者さんへのレスにも記したのですが、ゆえに探究者は先ずある程度自分のマインドから離れられるようになるのが最初のステップだと僕は言います。それが識別力を高めていくことにつながります。

このあたりのことと、そして「自分で確かめる(=自己探究)とは果たして実際どうやって進めていけば良いのか」ということについて、僕の個人的な見解とはなりますが、今書きかけている一閲覧者さんへのレスに盛り込んで行きたいと思っています。

二人の同志、二人の友に、何かしら参考になることが書ければ良いのですが、ちょっとまた時間切れになってしまったので、少々お時間を頂いて土曜日には投稿したいと思っています。

宙さんが船出と書いた気持ちは、仏教的にはおそらく「預流」と言って、これから悟りに向かう流れに自然に合流していく所、今その心境に差し掛かっていると思います。

ここから先、大海を臨むまで、のらりくらりではないですが (笑)、のんびりと川下りを楽しむくらいの気持ちで参りましょう。^^

きっと想像していなかった景色に出会えると思いますよ。



・・・・

ということで、

レスが一緒になってすみませんが、一閲覧者さん、ご覧になってましたらまた土曜日にお返事をさせて頂きますので。どうぞ宜しくお願いします。

そこそこのボリュームになりそうなので、(笑) 改めてお時間を頂戴致します。<(_ _)>
 
 
 
閲覧同志、宙同志へ ^^ (サム)
2017-10-07 06:05:05
一閲覧者さんへのレスという体裁ですけどね。↑言ってみたかったという。(笑)

宙さんもお時間がありましたら&気が向いたらどうぞ読んでみて下さい。

あと、今日と明日で予定の内容を書き終えたらこの場を去るつもりですので、万一、レスを頂いてもしっかりしたお返事が出来ないかもしれません。どうぞ宜しくお願いします。(_ _)

前回は、様々なメッセンジャー・マスターから離れることの意味を重ねて説明するために、敢えて全文にレスをする形で一つ一つ順々に書かせて頂きました。

今回は既に一閲覧者さんの認識は新しくなっており、上記のことは重点的にお話する必要はありませんので、頂いたご返信を見て感じたことや僕が持っているその他の幾つかの認識を、気の向くままに書いてみたいと思います。

先ずは、いきなり余談へレスを。(笑)



・・・・

>父に会ったら父を殺せ。
>母に会ったら母を殺せ。
>師に会ったら師を殺せ。
>仏に会ったら仏を殺せ。

>と続け、「では、仏を殺した後は何が残るのか?」と聞かれて「己、自分自身。」と答えたと。

>そしてさらに「では、己、自分自身が残ったとしたら次にどうすれば良いのか?」という問いに対して、

>「己、自分自身(自我)を殺せ。」

>と答えたと。



僕は長年大阪に居て、太陽の塔があることから岡本太郎氏のお名前には馴染んでおりましたが、氏がこのようなことに言及されていたとは初めて知りました。

しかも僕自身、「人はあらゆる観念から自由になることが出来るのだ」、「そして、やがてはその自分からも自由になるだろう」という視点を持っており、かつ過去にそのような趣旨のコメントをしたことがありました。

その意味で改めて岡本太郎氏にシンパシーを感じた次第です。

氏のことをWikiで見て、なるほど、と思った箇所を一部抜粋します。



>芸術一家に生まれ、少年期より既存概念にとらわれる事がなく育った岡本太郎は、人間としての自由や権利を阻害する者、権威を振りかざす者、かさにかかって押さえつけようとする者には徹底的に反抗した。この反逆児ぶりは生涯貫いており、またそれが創作への情熱にもなった。

>著書『今日の芸術』[13]の中で、芸術は「うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。」[14]と宣言している。これは手先の巧さ、美しさ、心地よさは、芸術の本質とは全く関係がなく、むしろいやったらしさや不快感を含め、見る者を激しく引きつけ圧倒することこそが真の芸術と説いている。



上記の説明を見るとどうやら、氏自身が芸術というものに見る者の既成概念をぶち壊すようなパワーや真実性の内包を常々感じておられたようですね。また芸術とはそのようにあるべきだという強い信念を持たれていたのだなと感じます。

かようなことを知るにつけ、「芸術は爆発だ!」という氏の代名詞のような言葉が、今また僕の心に新たな色彩を持って蘇ります。



(何故か松尾貴史?のモノマネで脳内再生されるのは困ったもんですが。笑)
 
 
 
マインドについて、もう一つの落とし穴 (サム)
2017-10-07 06:07:49
ところで氏について一閲覧者さんが感じられたこと、またそれを広げて想像して行った様々な見解がレスに語られていましたね。そしてそれが自身のマインドによるものだという観察も含めて。

ここで一つお伝えしたいのですが、もしその観察の中に、「マインドだから持っていてはいけない、握りしめてはいけない」という感覚がうっすらとでも存在していましたら、その思い自体もやがては手放すのが賢明でしょう。

僕は前の投稿で「マインドに気付く時、人はただ自由になるのだ」と言いましたが、その自由の意味をさらに、「マインドに同化することさえも自由だ」と書きました。

様々な見解がマインドであるという気付きの背後で、それはダメなことだという無意識的な捉われがあるならそれはまた別なマインドに束縛されていると言ってよい訳です。

これは修行者の陥りやすい罠の一つだと僕は思っているのですが、今回、一閲覧者さんは実際どうでしたか? マインドを持つ自分を無意識的に自己否定していませんでしたか?

実際どんな気分だったか一閲覧者さん本人しか分からないのですが、仮にマインドを持つこと自体を否定する気持ちがうっすらとあったなら、あるいは今後の人生においてそのようなことが出て来たなら、良いとか悪いとか全然気にする必要はありません。

ただ単に、「自分はこのように見た。感じた。」という事実や、「これはマインドがそのように見た、と言っていい話なんだろう。」ということに気が付いただけでOKです。

もっと言えば、マインドなんて自由に同化してやればいいんです。(笑)

僕はファンタジーやSFやミステリーが好きで、雑用しながらよくドラマや映画なんか見ますけど、目に映るストーリーに同化してその名の通り物語を楽しみます。^◇^

例えば映画なら、僕はその内容はもちろんのこと、制作に携わる全ての方々の情熱や彼らの人生を愛します。仏道的観点においてはそれこそ銀幕世界でありマインドそのものな訳ですが、だからと言ってそれらを否定しません。

あるいは、ネット上で形成される様々なコミュニティもまた否定する必要など何処にもありません。そこに展開する様々な人々のマインドは、それぞれが人生を精一杯生きていることの軌跡だと言えます。

また目の前に人生の苦悩に打ちひしがれている人が居たとしたら、その悲しみや苦しみを分かち合いたいと思います。僕はその人の悲しみに同化するでしょう。

「そのような他人のマインドに拘泥するな」という神がもしも現れたなら、僕はそんな神を殺すでしょう。放っといてくれと。

だから僕は自分のマインドからも神からも自由です。(笑) 



...なんて冗談は置いといて、^^

マインドとは、言わば人が生きていることの証でしょう。

そもそも人のマインドに光を与えているのが他ならぬ本質的自己だとするなら、マインドとはその始まりにおいて穢れなきものです。

故に僕はマインドに気付く者であると同時に、その営みを愛する者でありたいと思うのです。
 
 
 
臨済禅師の教えについての考察 (サム)
2017-10-07 06:12:42
今回のことで少し臨済禅師に興味が湧いたので検索してみましたところ、「黄蘗三打」という逸話でよく知られた、1200年ほど前の中国を生きた方だと知りました。

黄蘗三打とは、臨済さんが教えを乞うて師匠を三度訪ねたけれども、三度とも棒か何かでぶっ叩かれて辞去したと。(しかし後にそれが機縁で大悟した。)そんなお話のようですね。

要するに三回もマインドを叩き落されていたことに気が付いておらず、後で別の和尚に「せっかく親切に叩いてくれたのに何でわざわざうちに来るのよ」と言われて、その瞬間全てに気付き至り、仏の教えの奥義に眼が開いた、というお話かと思います。(違ったらごめんなさい。)

先日の投稿においてご自身で書かれていたのですが、一閲覧者さんは老師に留まらず、人類規模の次元上昇?やアセンデッドマスターと云われる高次な世界の存在、またそれらのメッセージを伝えているとされるチャネラーなど、各方面のスピリチュアルへの関心を持たれているご様子。

そこで一つのファンタジーを思いましたが、もしも臨済禅師が時を超えて一閲覧者さんの前に姿を現したなら、

「そなたは今まで自分が溜め込んできた諸々の観念(種々のメッセンジャーの言葉)を以って御仏を推し量ろうとするのか!」と大いに喝を入れられるか、

あるいは黄蘗師匠に倣って3回ぶっ叩かれるかも分かりませんね?(笑)

(ジョークです。殺して下さい。^^)



ちなみに「禅」自体のこともあんまりよく知らなかったので同じく検索してみたところ、Wikiで日本においての禅の項目になるほどと思う説明を見つけたのでご覧下さい。



>禅宗においては、そもそも禅宗とは何かといった、メタな問いかけを嫌う傾向にある。そのような疑問の答えは、坐禅修行によって得た悟りを通して、各々が自覚する事が最上であるとされ、もし人からこういうものだと教わりうる性質のものであるならば、それは既に意識が自身の内奥ではなく外へ向かっているため、内面の本性に立ち返るという禅宗の本意に反するとされるからである。もう一つの理由として、概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達して後に、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。

>文字や言葉で教えることを避けて坐禅を勧める理由として、世尊拈華、迦葉微笑[注 14]における以心伝心の故事を深く信奉しているという以外にも、自分の内奥が仏であることを忘れて、経典や他人の中に仏を捜しまわることが、かえって仏道成就の妨げになるからであると説く。

>沢庵和尚が、たとえて言うには「水のことを説明しても実際には濡れないし、火をうまく説明しても実際には熱くならない。本当の水、本物の火に直に触ってみなければはっきりと悟ることができないのと同様。食べ物を説明しても空腹がなおらないのと同様」で、実際に自身の内なる仏に覚醒する体験の重要性を説明し、その体験は言葉や文字を理解することでは得られない次元にあると説き、その次元には坐禅によって禅定の境地を高めていくことで、到達できる[注 15]とする。


このような説明は、前の投稿で僕が一閲覧者さんにお話したことと同じような内容を含んでいる訳ですが、なぜ僕が禅というものを学んだことが無いにも関わらず、そのベクトルが禅の教えることと軌を一にするかを観察するなら、結局、「それがシンプルな真理へのアプローチだから」ということが言えるのだと思います。

重要なものは自己であり自身の内奥にある訳ですから、時代を超えても、地域を超えてもそこは不変な訳です。

心に鎮座する様々な観念を捨て、御仏への想いすらも殺しなさいというのが臨済禅師の言葉なら、世の様々なメッセンジャーの本や言葉や催し事など、さらなる外部の粗大なガラクタです。

「真理を洞察せんとするなら、外部のものに目をくれている場合か」という話ですね。^^

そんな風にマインドから離れることの最初の意味を知るのが、真理や本質的自己・根源の知覚(上記では「自身の内奥が仏」と書かれている)への識別の始まりだと僕は言います。

知ってみればそれはもっともなことで、基礎が幻想で出来ているならその上に真理の柱は立ちようが無い。この最初の認識が識別のスタートです。

ゆえに、その始まりの識別の無いままに取り込む諸々のメッセンジャーやマスターの言葉は、単なるマインドの堆積物と化し、その粗大ゴミは常に我々の思いと行動の邪魔になっていくでしょう。

ですから、まずは今ある粗大ゴミを捨てましょう、そして「片付けられない」あるいは「ゴミ屋敷」になる要因の、不要なものの収集癖も止めましょう、ということですね。

そして整理整頓の習慣を身に付けつつ、一番大切なものをいつも見える場所に飾りましょう、と。

そうすれば、何を買わなくとも、何処に行かなくとも、何を聞かされなくとも、真理のライフラインは内側から供給されていると気が付き、そして今後何が必要かも自ら知れるでしょう。

たとえ勉強したことが無い宗派の教えが沢山あったとしてもご心配には及びません。

そもそも人類や生きとし生けるものに共通の土台があるとするなら、自己を探究するというただ一つの道が、その様々な宗派のベクトルを統べる、唯一なる到達点に収斂されてゆくでしょう。

宗派も、人種も、時代も、地域も何ら関わりなく、一番我々に近い、そして我々にとって全てに勝る真理が、我々自身という生命の現れです。

例え世界人口が70億あろうとも100億になろうとも、それぞれがその最も身近な「自己」という真理の現れを探究することが可能なのですから、もしも気になるメンターが一万人居ても何らの心配も要りません。探究する場所は一人一人の自己で構わないのです。^^
 
 
 
自分の考えと 他者の考えについて (サム)
2017-10-07 06:16:53
岡本太郎氏のことから発展して、一閲覧者さんがアーティストについて考察をなさっていましたので、僕自身も氏やアーティストやその他、感じたことを述べてみたいと思います。

その際、一つのお願いなのですが、

一閲覧者さんは僕の視点に無理に入り込まないで下さい。先に一つの線引きをさせて頂きます。

僕が述べることを一閲覧者さんの心の中で別なファイルとしておいて下さい。

ご自身の考えとは離しておき、仮にパソコンで例えれば、デスクトップ上やフォルダ内では別のファイルとして、別々のタブかウィンドウで開くことが出来るような形です。

僕はそれを「視点の複眼化」と勝手に名付けますが、そうすることには二つの効用があります。

一つの効用は、他者の意見を自分のものと離しておくことで、自我はそれにあまり干渉しなくなります。

自分の意見と他者の意見を離しておかないのは、コメント欄などで相手の意見に干渉したくなることの一つの原因でもあり、逆に心の中で「別な意見フォルダ」に入れたものは、自我は案外素直に”別な意見”として落ち着いて取り扱おうとします。

もう一つの効用は、意識の中に主観以外の別な意見をファイルしておくと、主観から離れてみたり、別な意見と主観を俯瞰して引いた絵で見たり、あるいはその両方から離れてみたりと、心が主観の束縛からも離れやすくなるということです。

これは僕の観察によれば、「心は複数のことに同時に囚われるのは難しい」という、言わば一つのものに執着する心の性質を逆手に取ったような現象で、大変メリットが大きいですからむしろ進んでファイルを分けて視点が複眼化されるようにし向けるのです。

一つ目の効用は、相手の意見に干渉しようとする自我が弱まること。
二つ目の効用は、自分の主観への執着から離れやすくなること。
つまり、自他両方への囚われから離れやすくなります。

誠に不思議ですが、実際そうなります。



またこうした心の性質に関連して、人の知覚機能について面白い現象があります。

試しに、目の前にあるもの、コップでもいいですし、スマホでも構いません。一つの対象に意識を向けつつ、さらにもう一つ対象にも同時に意識を向けようとしてみて下さい。

そして、単に一つの対象に意識を向けた場合との違いを比べてみて下さい。試験的にやってみると、その感覚の違いが感じられると思います。

異なる二つ、あるいは異なる複数の対象に同時に意識を向けようとすると、心はそれぞれの対象と、さらにそれぞれの対象から離れた”空”を同時にうっすらと知覚します。

ちょっとモヤモヤしますが、(笑) 面白い知覚状態です。

複数を意識しようとすると一つの対象だけに注意しておれないので、意識が結局、両方から離れてしまう瞬間があるのだろうと思います。結果、周辺の空間認識が同時に生じる訳です。

聖徳太子のモデルとなった人物が実在したなら、彼は優れて悟っていて、自在に空の意識に入ることが出来たのでしょう。なのでたとえ10人を同時に相手しても何ら偏ることなく、全員の話の内容を易々と認識したのだと思います。

(あ、ファンタジーです。殺して下さい。笑)



話を戻しますと、

一閲覧者さんは、僕の書くことに距離を持って下さい。次項に色々と書きますが、それを見ても別なファイルに仕分けて下さい。

またそれが誰の意見であれ、距離を保つ効用はとても大きなものだと、今後ご自身で体験し納得頂けることだろうと思います。

どうぞ宜しくお願いします。
 
 
 
アートマン (サム)
2017-10-07 06:22:33
改めまして、岡本太郎氏やアーティストという存在、その他、感じたことです。

・アーティストの創作への没頭、
・自己探究者が唯一の根源に向かうこと、
・また数学者や科学者が彼らの分野での真理に到達せんとすることなど、

それらは別々な方面における取り組みでありながら、一つの点において一致しているところがあると思います。

それは「集中し、没入していく」という点です。

結果としてマインドは、虫眼鏡で太陽の光を一点に集めるが如く、あるいはレンズによって放たれるレーザー光線のように、強力な光(強力に集中された知覚力)となって対象を捉えることが可能になるのだと思います。

マインドは単に幻想の投影機能でしか無いかというとそういう訳ではなく、それはそもそもの始まりとしては知覚の光を対象へ照射し、またその反射光を知覚の元へと返す機能だというのが僕の視点です。

ゆえにマインドは純粋なエネルギーの現れだと言いますし、またそれが本当に純粋に一点に集中されるなら、透徹した知性、類まれな感性として顕れてくるだろうと思います。

だから時に優れたアーティストや優れた科学者は、世界の神仕組み、宇宙の深淵を垣間見るのだろうと。または、中にははっきりと悟りの境地に到達したような方々もきっといらっしゃることでしょう。

そのように”マインドの純粋な集中”という点において考察すると、色々な分野における営みでありながら、その照らし出すものが同じになることがあるというのが僕の感想です。そのようなエゴ無きマインドは、時には電子顕微鏡のように精妙なものを観、時には宇宙望遠鏡のように遥かなるものを観るでしょう。

一方、さらなる自己探究、仏道探究のお話ですが、

本質的自己から知覚力を与えられたマインドは、やがて精妙なる力を持った透徹したレンズとしてあらゆる対象を精密に見通し、ついにマインド無き世界へといざなわれる時には自らその活動を停止するでしょう。

もはや対象すら存在しない、究極に集中された瞑想だけが在り続け、その究極な瞑想という”ただ唯一”が完成した者は、唯一すなわち”根源”として意識の全てを支配下に収めるのだろうと思います。それが僕の言うマインドの終焉であり、また探究の終焉です。

それはサマディー、三昧の境地とでも呼ばれるのだと思いますが、マインドはその時こそ本質的自己の完全なしもべとなるでしょう。

もちろん、上記のことを解脱と言い涅槃に入ると言っても何ら差支えは無いでしょうが、最終解脱者はさらにそれを超越し、場合によっては肉体の生死をも支配し、世を去る時にはただ唯一なる根源に一切合切を没入させ、身体をも消滅させてしまうほどの業を持つ方です。



以下、改めて僕の視点を補足的に書くなら、

探究者にとって当初は幻想の元だったマインドですが、

・その銀幕投影のオート機能から自由に離れられるようになり、
・そしてエゴなき純粋なレンズとして、集中の力とフォーカスの方法を訓練し、
・さらにレンズに磨きを掛け、透明度と知覚の光の照射力を強め、
・その光はあらゆる対象物を貫き見通していく、全体を照らしていく、

ということなのですが、

では歴史上の解脱者がなぜそれをやってのけることが出来たのかと言えば、結局のところ、自身の内に本質的自己という「光源」が内蔵されているからだ、ということなのですよね。

ヨーガ的に言えばそれは”アートマン”です。アートマンゆえに全ては存在する、とヨーギーは語ります。

三世を見通す悟りの知覚力は、その光源は解脱者自身です。逆に我らのマインドが幻想を投影するのも、やはり自身が光源であるからなのですね。

ですから、僕たちにとってマインドとは常にその光源の存在を教えてくれる気付きの呼び水なのです。

探究者はその水の流れ(知覚が投影したもの)を見たなら、水脈(知覚の成り立ち)の存在に気付き、またを自己探究という掘削作業によって、きっと水源(アートマン・根源)まで辿れるに違いないのです。



・・・・

という訳で、

僕はアーティストにも、その他の分野の卓越した精神の持ち主にも、やはりその本質的自己(アートマン)ゆえの輝きを見い出すのです。

そして勿論、このような視点を持っているということを述べる一方、僕はちゃんとフィールドワークに出ないとそれぞれの”実際”はさっぱり分からないということを自覚していますので、(笑) 一閲覧者さんはこれらの書き込みを単なる意見として取り扱わなければなりません。

もう十分にお分かりの通り、意見は意見であって、実際のものとは異なります。そのことが常に明確になっているのが賢明な探究者の識別だと言えますね。



(アーティストとアートマンを掛けるのはどうなのさって? ええ、殺して下さい。笑)
 
 
 
自己探究の進め方 (サム)
2017-10-07 06:31:26
さて、悟りの世界のお話における諸々の真実とは如何なるものか。それを実際に確かめる方法は?と考えても、誰しも漠然としたものに思えるに違いないですね。

そこで今回は、僕自身の個人的な見解だと念を押した上で、どうやって探究に取り組んでいくかを述べたいと思います。

まずここまでの数日の投稿で、自身のマインドをマインドだと気付くということが識別の始まりだと書いて来ました。

その始まりの識別を得るため、またその識別力を確かなものにしていく為に、かつて僕が学び、そして実践してきた方法をご紹介します。

それは「ビデオカメラのレンズの如き眼」という視点です。



・・・・

物事を見る時、普通、全員が全員、即座に思考が湧いてきます。

ボケっとしててはっきりとした思考が無くとも、言葉以前の感覚ぐらいは内部に起きます。好き、嫌い、見たい、見たくない、欲しい、欲しくない、善い、悪い。また喜び、怒り、悲しい、可笑しい、困惑、などなど。

その内部から湧き出した感情を基に、理性が強い方は立ち止まって思考を組み立てますし、感情的な方は体が先に動いて声を上げたり、歩み寄ったり、そっぽ向いたりしますが、

誰しもその一連の行動の後は、それを振り返って考える、反芻するという記憶に基く本格的な思考が流れ出します。

自己探究において、そんなこんなの内部の動きを観察する為には、その一連の流れに同調しない、同化しない視座が必要です。

その為の練習として、「まるでビデオカメラのレンズがただ景色を映しているかのように物事を見る」という方法があります。

目に映るもの、例えば人、物、景色。何でも構いません。それらが視野に入ったなら、それが単にビデオカメラのファインダーに収まっているだけのように、「ただ目に映っているだけ」と見てみるのです。

例えば音が聞こえます。ならそれらを、ただマイクが拾って録音しただけのように、「ただ聞こえただけ」で放置する訳です。

で、最初はもちろん、見たり聞いたりしたら、それをきっかけとして感情や思考が流れ出します。その時は色々な感情や思考をどうするのか。

何もしません。その流れていくものはただ映っているVTRのように、誰もいない室内でただ点いているテレビ画面のように、「ただ流れている」という風に放置します。そこで流れている内容を追いません。

その内、テレビが点いているということが分かった時、テレビが自動で消灯するようになる時があります。

目は見ているが関心を持ちません。音は聞こえているが関心を持ちません。思考が始まりましたが追いません。

そのようにして、外部の刺激を知覚するものの、その刺激をきっかけとして内部に起きる反応に対して静かでいるのです。

もし内部に起きる反応に囚われたなら、それをまたビデオカメラがただ撮影しているのです。

慣れてくれば、心が感情や思考にしばらく同化した状態でも、感情や思考に同化していない意識の領域が同時にそれを撮影し始めます。

そして、まるでカメラのスイッチングが切り替わるように、思考している自分の姿が画面に映し出されるとき、その思考は止まります。思考テレビジョンは放送を休止するのです。

このような取り組みは、常にしなければならないということはありません。

最初はふと思い出した時、たまに実践してみるぐらいで大丈夫です。

これらの取り組みがどのような作用をもたらすかと言うと、自身の内部のより精妙な領域に対する感度が少しずつ高まって行きます。

自身の内面、マインドの中における、精妙な働きと、逆に粗大な働きに対する識別が徐々に高まってくるだろうと思います。

それは意識の振動数とも、波動とも言ってもいいのかもしれませんが、ともかく、荒い、粗大な振動よりは細かな振動を、喧噪よりは静寂を、識別し、選択出来るようになって来ます。

外部の粗大な現れへの関心を持たず、その刺激から内部に起こる反応に対し関心を持たない時、人の心は内部の中にもう一段精妙な領域があることを感知するでしょう。

そのより精妙な内部感覚への気付きを、ゆっくりと、何もあせることなく、徐々に徐々に養っていくこと。特に養うという気持ちも必要ないですが、ただ徐々に静寂に親しんでいくこと。

それが自己探究の始まりの識別へと繋がっていくと思います。こうした内部感覚が養われてくれば、自身の粗大なマインドは手放せますし、慣れてくれば発動もしませんし、マインドからの自由度が増してきます。

内部感覚が養われれば、他者のマインドの粗大さも深く感知してしまうことがある訳ですが、しかしそれを感知した時の自身に起きる反応も、もちろん手放していけます。

ところで、

世のメッセンジャー、マスター達のマインドの様子も勿論感知する訳ですが、彼らのマインドが私たち自身のそれよりも粗大であると分かる時、もはや彼らに金品を差し出して教えを乞う人は誰もいないでしょう。(笑)



・・・・

という訳で、

ことわざに「石の上にも三年」というのがありますが、上記に挙げた「ビデオカメラの如き眼」をたまに思い出した時に実践するなら、僅か三ヶ月でもマインドの状態は変化してくるでしょう。

それを何気なく実践しながら三年でも五年でも過ごすなら、徐々に、徐々に、静寂への感覚は高まり、またマインドを手放すことが何の造作もない普通のことへと、自分でも気付かぬ内にすっかり変わってしまうと思います。

まあ日によってある程度の波はありますが、マインドが離れていくのが習慣になってくると、例えばですが車を運転していて、マナー知らずのおっさんが自転車で信号無視をして交差点に飛び出して来ても、ブレーキを踏みハンドルを切っても心が動いていないことに気付きます。

またそんなおっさんに対しても、特に観念が発動していないことに気付きます。交差点を通り過ぎた後、もしかして今、実は何も起こっていなかったのではないか?と自分でも思うぐらいに、マインドが動かないことが実際に起こって来ます。

僕の住む大阪の街はマナーという概念の無い自由なドライバーや歩行者も多いので、(自由って素敵。笑) もちろん毎日、毎回そんな静寂な心境とはならない時もありますが。^^



・・・・

上手く伝えられたかどうかあまり自信がありませんが、同胞の少しの参考にでもなれば幸いです。

僕は「マインドなんて自由に同化してやればいいのだ」と言い、実際その通りに日々を過ごす一方、精妙な内部感覚への気付きは上記のような囚われなき時を実際に生み出します。

このような精妙な内部感覚への取り組みは僕自身今でも続いておりますし、その識別力の高まりにはきっと限度が無いことだろうと思っています。

今回このようにして一つの方法論をお伝えはしましたが、僕も同じ道を歩む探究者ですから、あくまで友として、同志としての個人的見解として受け止めて頂ければと思います。

決してこれをしろ、という指図ではありませんので、何卒宜しくお願いします。m(_ _)m

それから、

マインドから自由に離れられること、マインドを集中させる力を養うこと、それが出来るようになってから実はようやく本当の瞑想が始まるのだということや、あと瞑想というものの危険性なんかについて書こうと思っているのですが、まだ下書きもしていないので続きはまた明日に投稿させてもらおうと思います。

どうぞよろしくお願いします。(_ _)
 
 
 
瞑想について1 (サム)
2017-10-08 06:11:24
黒斎さんも公演やら移動やらでお忙しいと思いすみませんが、またご面倒ですが投稿させて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します。

昨日書いた、「マインドから自由に離れられること、マインドを集中させる力を養うこと、それが出来るようになってから実はようやく本当の瞑想が始まるのだ」ということを書いていきたいと思います。

なぜそう思うに至ったのか、少し遡って僕の視点を説明させて頂きます。



・・・・

まず近年の僕自身の自己探究の状況がどんなものか改めて簡単に書かせて頂きます。

数年前から自他のマインドに束縛されることが殆ど無くなっており、その日の心境や体調というのもありますけれど、基本的な精神状態における心の振り子は徐々に静止へと向かっていました。

ここ2、3年というものは時折その振り子が静止状態となり、日常生活を送りながらも静寂な内部感覚を感知していたり、あるいは仕事中でも、身体は動いているけれど軽い精神統一のような状態が一時間ほど続いたり、という状況がありました。

それで、当時の僕は悟りというものに対する渇望もまるで消失し、日々静寂を知覚するありがたさを感じつつ、また一方、ただあるがままに与えられた生命を生きることや、そしてその精神の自由を謳歌することなどへの鮮烈な喜びを享受しておりました。

それは相対的な何かを得ることを全く必要としない、自分自身がただ喜びそのものである、ただ感謝そのものである、といった感覚が溢れてくる誠にありがたい心の状態でした。

正直なところ、「もう求めるものも無く、探求は終わり、別にこのまま死ぬも生きるも何らの後悔もない」という風に考えていました。もはや僕はマインドから自由だったのです。

ところがちょうどその時期、以前から存じ上げていたある偉大な智者との再会がありました。そしてそれを契機として、当時の僕の状況が解脱へと到る道の一先ずの通過点であったのだと、自ら気付き至ることとなった訳です。

ちなみにラージャ・ヨーガは再会後の彼に頂戴しました。

(正確には一緒だった弟子の方が私物のものを下さいました。^^)



僕はそのようにして新たな知見を得ることが出来ました。

それを簡単にご説明すると以下のようになります。

「人はマインドから離れ、自他に由来する囚われから離れ、晴れやかに精神の自由を享受する。しかし、ただ単にそれで終わってはいけない。その囚われから離れた自由な精神を以って、自己の本性を発見しなければならない。自己の本性こそ探究すべき唯一のものである。」

またヨーギーは言います。「探究とはその明確に知られたものを見出すことである」と。

探し出すものを知らない人は、ただ好奇心にうろつき回ったまま人生を終えるのだと語るのです。



・・・・

そんな中、頂いたラージャ・ヨーガを読み進めていたある日、とあることに気が付いて驚きました。

ヴィヴェーカナンダ師がご説明されているヨーガの実践のステップを、最初に見た時はただの順序立てた説明だと思って読んでいたのですが、日にちを置いてまた目を通す内に、実は自分自身がそのステップの初期の段階にいるのだということが分かったのです。

見ていたそのステップ、ルートにふいにGPSの現在地ピンが刺さったように、自分の居る位置が分かりました。

そして僕の中に、マインドの終焉についての航海プランが具体化してきました。為すべきことが自ら知れたのです。ヴィヴェーカナンダ師は正に探究者を導いていた訳です。

悟りというものを求める思いも消失していた僕だったはずですが、人は変わるものです。(笑) 

どのように変わったのか?

悟りを求める思いというマインドは湧かないのに、逆に本質的自己とのつながりの感覚が次第に強まっていることを感知するのです。

何ら求めていないのに、その絆が強まっていきます。マインドを離れる習慣が、より精妙なものへの知覚力を高めているからです。

そのように、偉大なる智者・解脱者との出会いは人の意識に変化を及ぼし、日々の歩みの意味を変えてしまうのです。



・・・

そして、ラージャ・ヨーガに学ぶところによると、諸々のマインドから自由に離れられること、つまり諸感覚器官の知覚から自由に離れられること、あるいは自由にその感覚を効かせられるようになることが一つの通過点です。

それから次のステップが精神を集中させる力を養うことです。師は心は集中すればするほど強力になると仰います。そしてまた諸々の現れは粗大なものほど脆く、弱く、精妙なものほど強いものだと教えます。

これは本当にその通りで、僕たちは固い岩石、岩盤であれ、つるはしを用いて砕いていくことが出来るでしょう。しかしそれより精妙なものはどうでしょうか。岩石を構成する原子を、我々はつるはしを以って砕くことが出来ません。

そのつるはしも火にかざし原型のない塊にしてしまうことが出来ますが、その金属塊の元である精妙な元素を破壊するには、果たしてかまどの火の何万倍、何十万倍のエネルギーをもって衝撃を与えなければならいか想像も付きません。

そのように我々の通常の観察であっても、精妙であればあるほど強い力を持つのだと知ることが出来ます。そして心も同じように、より精妙な、より集中されたものが強い力を発揮するでしょう。

ラージャ・ヨーガによれば探究者は、その精妙な、集中された心を以って次の段階に進むのだと書かれています。

それがようやく瞑想だという訳です。
 
 
 
瞑想について2 (サム)
2017-10-08 06:18:10
>ラージャ・ヨーガによれば探究者は、その精妙な、集中された心を以って次の段階に進むのだと書かれています。

>それがようやく瞑想だという訳です。


これを読むなら、同志のお二人にも巷で行われている「瞑想」なるものの実体が知れるというものでしょう。

最低でもそれは興味本位や、何万円か支払って「何日かお泊りして皆で一緒に実践出来ます」といったものとは無縁のものです。

最近ちらほら聞くようになりましたが、企業などでも取り入れられる5分間程度のマインドフルネス瞑想といったものは、リフレッシュの効用を謳ったエクササイズとして、まあ海外における東洋風のものへの興味や、その流行の逆輸入として理解出来ますね。

しかし、スピリチュアル界隈でしょっちゅう聞く瞑想会や、瞑想を取り入れたセミナーとは果たしてどういったものでしょうか。

僕はそれらの試みに最大限の注意を払えと言います。



・・・・

そうした催しを導くのは、アセンデッド・マスターと言って高次の霊的存在だ、などと言いますが、我々はこの目にはっきりと見える人間同士でも簡単に詐欺に遭うものです。果たして目に見えない世界のことについてどれだけの識別が可能だと言うのでしょうか?

仮にこの世界を去った後に様々な霊的な世界があるとして、そこに暮らしているであろう住人たちは誰でしょうか? それは現世で人としての生を終えた者たちです。

この現世で多種多様な人生を終えた者たちが、肉体を去った世界に赴けば皆すぐに穢れなき精神となり、慈愛と自己犠牲を体現する天使として生まれ変わるか?と言えば、そんなはずは無いでしょう。

ただ肉体を去ったというだけでそれが出来るぐらいの簡単なものなら、この現世であっても多少未完成であれ天国が招来されているでしょう。

我々が今生きているこの世界で、天災を除いて恐ろしいものは何でしょうか。それは人間です。

ちなみに、地球上で人間を年間一番殺めている生物は意外にも”蚊”だそうですが、人間を騙しているものをカウントするならそれは間違いなく人間、人間同士でしょう。

現実にはそうした同胞に害を為す意識体が、地上を去った世界にひしめき合っているのだとしたら、そのような見えない世界からのメッセージを何の疑いも無く信じるということは危険なことだということが分かるでしょう。

なぜそれが本当に高次な世界からのメッセージだと識別出来るのでしょうか。いいえ。識別は為されていません。それがどこから来ているか精密に識別出来る霊的視力を、マインドを去らない我々はまだ持っていないのです。

ただ信じたいものを信じるという、マインドの一種がそこにあるだけなのです。
 
 
 
瞑想について3 (サム)
2017-10-08 06:21:54
では、禅などを謳った瞑想の集まりはどうでしょうか。



その発祥以来連綿と続いてきた修行者たちの研鑚、師と弟子の真剣な交流とは、果たして数万円払って気軽にお泊り会気分で参加するようなものであったのでしょうか。

また彼らは二泊三日の瞑想会に常連で参加したが故に、ついに仏道を悟り、行を修めたのでしょうか?

瞑想とは、皆で集まって心を静かにしてみるサークルでしょうか?

また、何時間かの瞑想タイムが終わったら和気あいあいと参加者で人生のあれこれを語り合う、といったコミュニティでしょうか?

そしてそれを指導するという導師は、果たしてマインドを去ったエゴなき心の集中を監督出来る精密な識別力を持っているのでしょうか?

そのような識別力を持った導師なら、なぜ瞑想を商品としての「瞑想ごっこ」にしてしまうのでしょう? 

そこには識別の欠片もあるようにも思いません。

遥かな時を超え法灯を継いで来た師なら、僕は人生を掛けて弟子の悟りを見つめ続けたことだろうと思います。

日本に法灯を継いだ方々は、命を懸けて海を渡って真理を求めたのではなかったでしょうか? その陰には、嵐に遭い難破して命を落とし、その名が残らなかった多くの修行者がいたのではないでしょうか?

そんな命懸けの末に行を修め、また命懸けで法灯を日本へ伝えた師は、果たして毎度毎度の告知を行い、参加者に対価と引き換えに瞑想会を行ったり、対価と引き換えにマントラを売るなどするでしょうか。

否、「そのような粗大なる外部への囚われこそ打ち捨てよ!」と厳しく叱咤することでしょう。

その主催者は単なるイベント企画者なのです。コンテンツとして仏教やその他の精神世界の教えを展示し、また、マインドが観た彼のなけなしの神秘体験を売り物にしているに過ぎません。

彼らの姿が禅そのものへの冒涜だとまでは言いませんが、なぜ禅を謳うものが禅をそこまで引きずり下ろすことが出来るのでしょうか。

もはやそれを観察する気も起こりませんが。^^
 
 
 
瞑想について4 (サム)
2017-10-08 06:27:45
スピリチュアル業者に対して僕は、かなり辛口な視点を持っている方だと思います。

まあ、だからと言って別にこの先直接的に干渉していこうとは思いませんが、ただこのようにして対話の機会を得た友人には、一つの見解として敢えてスピリチュアル業者の行う瞑想の危険性を提示してみたいと思います。

その危険性とは、

僕が見るに、彼らが主導する瞑想とは総じて、「集中された意識が囚われなき観察を行うこと」に導くのではなく、「心が理性から遠ざかる無意識の世界」に誘おうとしているのだということです。

前述に偉大な智者と記した解脱者は、集中された意識が囚われなき観察を行う時、自身の大脳までも精密に、その内部構造や各部の働きを観るのだと語りました。また、物質の原子や更なる微細なものまで人は観ることが出来るのだと。

(そのお話自体は別に信じなくて構いませんが、)僕の言わんとすることは、「瞑想とは、理性の麻痺や意識の混濁した世界への没入では決して無い」ということです。

解脱者の導く瞑想なら、見るべきものを精密に見る、透徹した理性が発揮されるような全くクリアな意識状態へと導いて行くでしょう。

それが瞑想における僕の第一の観察です。

とするなら、巷のスピリチュアル業者が誘う瞑想状態とは一体何でしょうか?

それは、「理性というガードが下がった抵抗力の無い裸の心を、霊的世界の住人の前に無防備に晒す」という、あたかも自らが自らの心を餌としてぶら下げるが如き行いです。

(僕は精神世界を語るからといって理性というものを蔑ろにはしません。思考や理性は、ある意味で人の意識を無防備から守っているものでもあると考えています。)

もちろん全てのスピリチュアル業者がそうだとは言いません。

しかし、主催する側にその観察が無ければ結果は同じ事です。

主催者に精密な識別力が無ければそもそも瞑想は功を奏することは無いでしょうが、話はそれだけに留まらず、最大の問題は「なぜそのメッセンジャーやマスターは人を寄せ集め、瞑想会を開くのか」という自身の想念についての識別力を持っていないことなのです。

上記に書いたような瞑想の本懐といった知識が無いのみならず、自身がメッセージするその想念がどこから来るのか、その識別が無い、識別力を持つことをしない、そもそもその必要性も識別が何かもよく分かっていない、という状況の主催者があちらこちらにゴロゴロ転がっている訳です。

これは何を意味するかというと、主催者本人が参加者を騙す意図など全く無くとも、その想念を寄こした存在にとっては人を寄せ集めることに目的があるのだ、ということです。

それが第二の観察です。

それは金品などの即物的なものだけではない、参加者の心自体が標的である、餌であるということです。

なぜ人を寄せ集めるのでしょう。なぜ集団心理、群衆心理を働かせようとするのでしょう。なぜマントラや祈りの言葉を唱えるのでしょうか?

それらの試みは過去様々な新興宗教で行われて来ました。その結果はどうでしょうか?

理性を失った操り人形に変えられた善良なる魂が、今なお数万人、数十万人単位で教団の為の駒になっており、また、日々金品を搾取され、教祖の様々な欲望の餌食となっている姿を誰もが見て取れるでしょう。

現代日本のオレオレ詐欺でさえ、危険性が浸透すると姿や手法をいくつもに変え、相変わらずお年寄りから年間数百億円の金をだまし取っています。

そうした人間たちが永遠の転生をしているのだから、肉体を失ったからといってその業(ごう)はおいそれとは消え去らないのです。

否、肉体の制限なき霊界とは、あるいは地上の方が天国かと思えるような実態かも分からないのです。

重ねて申し上げますが、瞑想会を主催する人たちの全てがそうだとは言いません。しかし、当の本人にその識別力が無く、参加者にもまた識別力が無いなら結果は同じことなのです。

ゆえに僕は、「瞑想会や瞑想を取り入れたセミナーには、最大限の注意を払え」と言うのです。
 
 
 
 (サム)
2017-10-08 06:36:20
人は集団になると、さほどの人数でなくともその場の特有の心理に支配されます。心の強くない人なら、集団になっただけで理性は麻痺しがちになります。これらの心理は誰しも日常で思い当たることがあると思います。

デパートのバーゲンセールやつい隣で買う人に乗せられる実演販売もそうですし、極端な低価格の広告商品を用意してお年寄りを集めた、高額健康グッズの契約会とかは正にそのくちですね。

(またある集団に事故や事件が起きるとき、そこに集団心理が働いたというのはよく聞く話です。怖いので僕はあまり見たくありませんが、興味があったら集団心理とか群衆心理などで検索してみて下さい。)

この社会で詐欺師の犠牲になる人にも種類があると思います。

一つは儲け話に釣られる人。これは自業自得なので仕方ないです。

気の毒なのは、お人好しで善良な方々です。悲しいかなその大多数は相手が自分を窮地に追い込む詐欺師とは見破れず、逆に相手を気にかけ、心配してやり、力になってあげようとするのです。そこに付け込むの人間がいるというのは誠に信じがたいですが、明らかに実在します。

それらの善良な方々に識別力という智慧の明かりを灯すのが、本当の導師の姿だと僕は思います。

捉われを去った意識による精密な観察眼を持つ導師なら、その見通す眼力には現代社会であれ霊的世界であれ何の障壁もありません。

僕自身は霊的世界やその力には何の興味も無いのですが、もしも僕がそうした眼を持ったならば、対価を取って言葉を売るようなことはせず、ただそこに明かりを灯すだけの者で在りたいと願うばかりです。



・・・・

今回の一連の投稿は、「信じるか信じないかはあなた次第」の面が多分にありましたが、心の片隅にでもあって、決して損は無い話だろうと思います。

実際に僕の苦い過去の実体験も含まれていますしね。(笑)

という訳で、

以上で概ね念頭にありました同志への思いは書き終えたと思います。

この一ヶ月で向こう数年分のお喋りをしたと思いますので、^^ ここからは静寂に戻り、自分の為すべきことを為して行きたいと思います。

文中にも触れましたが僕はマインドからただ離れていればいいと思っていたので、その集中ということについてはまだまだ未熟です。これから数年間、よく実践しかつ学んで行きたいと思います。

そのようにしっかり教師の下で航海技術を身に付けてから、ようやく航海には出られるのです。

一閲覧者さん、宙さんに、僕の書き方がまずくて全く意味が分からなかった箇所があれば、連休中は言って頂ければ返信したいと思います。

ただ、マインドを去ること、そして探究の意味を知ったお二人にはもうそれも必要ないかもしれませんね。^^ 今後のお二人の自己探究を心から祝福致します。

そして今までこの場で言葉を交わさせてもらった方々、そしてもちろん黒斎さんにも(スピリチュアル業者に辛口でいつもすみませんでしたが)、それぞれの晴天と良き景色を心よりお祈りしております。

では失礼致します。<(_ _)>
 
 
 
「殺してください(笑)」が引っ掛けているのは? (名古屋のバッチコイ)
2017-10-09 14:40:43
物騒な言い方を使うな〜と思いましたが、

「仏に会っては、仏を殺せ」
からの、
「サムの笑えないギャグに出会えば、ボケ殺せ」
ということですねd(^-^)


いってらっしゃいませ( ´∀`)/~~
 
 
 
む、さすがはバッチコイ同志 ^^ (サム)
2017-10-09 20:37:30
臨済禅師の言葉に習って、同志諸君はぜひ僕を亡きものにして下さいね。
無論、親兄弟よりも先に。(笑)

僕はあくまで皆様にとって外部のものであり、その本意は「皆様自身の、かけがえのない自己をこそ照らして下さい」ということに尽きますので。

しばらく入江でちゃぷちゃぷしてますが、数年後に航海に出たなら、いずれ珍しいお土産の一つも持ち帰りたいと思います。

もちろん無料で差し上げますから。^^
 
 
 
時間切れかな? ()
2017-10-10 00:06:25
>概念の固定化や分別を、わがままな解釈に基づく「とらわれ」「妄想」であるとして避けるためであり、坐禅修行によってとらわれを離れた自由な境地に達して後に、そこから改めて分別することをとらわれなき分別として奨励するからである。

この文章、とても良いですね。色々なとらわれから自由となって改めて分別が、できるようになること。これが、スピリチュアルや悟りや解脱や本質的自己を学んだ際のメリットであり、ゴールなのではないかと感じました。

ふと思ったのです。「あれ?なんで本質的自己を探求するんだっけ?」と。奥の奥まで探求して分かったとして、それは知識欲を満たしたかっただけなのではないかと。しかし、上記のことがゴールならば、奥の奥まで探求する必要はなく、今後の人生において大いに役に立ち、少なくとも私にとっては学ぶ意義があると感じました。

>悟りを求める思いというマインドは湧かないのに、逆に本質的自己とのつながりの感覚が次第に強まっていることを感知するのです。何ら求めていないのに、その絆が強まっていきます。マインドを離れる習慣が、より精妙なものへの知覚力を高めているからです。そのように、偉大なる智者・解脱者との出会いは人の意識に変化を及ぼし、日々の歩みの意味を変えてしまうのです。

うーむ、ここが分かりませんでした。サムさんは自己探求をするつもりですよね?それは悟りを求める思いとは本質的に違うものなのでしょうか?

私はその偉大な智者に会っていないので、その人がどんなことをしてどんなことを話したのか分かりませんが、その人もスピ業者の一種ということはないのでしょうか?

例えば、智者と同じこと見窄らしいホームレスが言ったとしても納得できる話だったでしょうか。

正直な話、ヨーガのぶっとんだ話はまだ半信半疑なんですよね。
 
 
 
あ、とっとと殺して下さいね。^◇^ (サム)
2017-10-10 19:57:53
やあ同志! ^^

色々と感じられることがあったご様子。


>悟りを求める思いというマインドは湧かないのに、逆に本質的自己とのつながりの感覚が次第に強まっていることを感知するのです。何ら求めていないのに、その絆が強まっていきます。マインドを離れる習慣が、より精妙なものへの知覚力を高めているからです。そのように、偉大なる智者・解脱者との出会いは人の意識に変化を及ぼし、日々の歩みの意味を変えてしまうのです。


>うーむ、ここが分かりませんでした。サムさんは自己探求をするつもりですよね?それは悟りを求める思いとは本質的に違うものなのでしょうか?


さて、僕の感知するそれは”実際”どうなんでしょうか。

そしてそれをいま耳にして、果たして宙さんがメリットだと感じた、「色々なとらわれから自由となって改めて分別が、できるようになること。」を体現した理解となりますかどうか。^^

何しろ、宙さんが感じたメリット、かつゴールに向かうのは僕ではありませんしね。^^ フフフ


>私はその偉大な智者に会っていないので、その人がどんなことをしてどんなことを話したのか分かりませんが、その人もスピ業者の一種ということはないのでしょうか?

>例えば、智者と同じこと見窄らしいホームレスが言ったとしても納得できる話だったでしょうか。


彼がスピ業者であるのかそうでないのか、
あるいは本当に智者と言えるのか言えないのか、
そもそも全部がサムの作り話ではないのか、
どうしてそれを信ずる根拠があるのか、

それらは何ら受け入れる必要も、賛同する必要も無いでしょう。肝要なのは、宙さんが自身が自己の本質について掘り下げ、洞察を深めることのみです。宙さん自身にそのベクトルが無ければ、どうしてその道の智者に対する判断がなし得るでしょうか。^^

ラージャ・ヨーガは改めてそれを僕に教えてくれます。

上記の幾つかの質問は、宙さんが今なお「自分の外部にあることに目を向け、その辻褄が合っているか、そうでないか」を問題にしている事を意味しています。

別にそれは悪いことでも何でもありませんが、ただ、それは宙さんがメリットだと感じた「色々なとらわれから自由となって改めて分別が、できるようになること。」とは異なる取り組みである、

ということはご一考に値するのではないでしょうか。


>正直な話、ヨーガのぶっとんだ話はまだ半信半疑なんですよね。


僕自身も、何を信ずるか何を信念とするかは自分で決めます。それは人から強制されるべきことではありませんね。

自身の経験と観察に基づき、ある時にある洞察がなされたなら、それを仮説として自分自身がその確証を得るべく道のりを進むのみです。僕はそうしています。

もし人が、経験も観察も洞察も未だ無い状態なら、半分信じているだけでも信じ過ぎかもしれませんね。^^

まあ、それは言葉のあやでジョークですが、「とらわれから自由となった分別」とは、信ずることも疑うことも去った心の状態でしょう。その心になった時に改めて何を信念とするかを見つめてみられては如何でしょうか。


では、ご機嫌よう同志! ^^
 
 
 
聖徳太子にロマンを馳せて... (サム)
2017-10-11 04:03:21
宙さんへ

どうもついつい外部に気が行ってしまって、まだ自分の心の様子や、知らず知らず描いたマインドに目を向けるのが難しいようでしたら、

ちょっと裏技と言いますか、とある方法を思い付いたのでご紹介します。

それは、いきなりとらわれから去るのではなく、「逆にもっとマインドに乗っかってみる」という手法です。

他者の言うことに対して、「それって◯◯って言うけど、✕✕という可能性もあるのでは?」という風に、宙さんの想像(マインド)をぶつけたくなったら、

一旦立ち止まって、

その自分自身に対して「他の可能性は?」と意見をぶつけたい、マインドの分身を更に描くのです。

自分を他者と見なして、別な想像をぶつける訳です。

例えば、先のコメントを10人の宙さんで議論してみます。


A: その偉大な智者という人、スピ業者の一種という可能性は?

B: スピ業者の一種? 一種どころかスピ業者の元締めって可能性は?

C: ? スピ業者とそうじゃないマスターの違いは?

D: ?? というかマスターの定義って? 勝手に言ってるだけでしょ?

E: そもそもスピの話すること自体に意味ある? 全部デタラメという可能性は?

F: 全部デタラメ? デタラメじゃないのがあるかもしれない可能性は無視?

G: ホントかウソかどうやって確かめる? 智者本人に聞く?

H: その智者って人が言ったこと、同じことをホームレスが言っても納得出来る?

I: ?? 君たちが納得したらそれが真実なの? 決めつけるの早くない?

j: というか君たち、その智者って実在前提? 言ってる人の作り話では?


...などなど。

冗談言うなよと怒られるかもしれませんが、実際、可能性の提示というのは幾らでも話を広げられるのであり、単に可能性と言うならどんなに突飛な話も完全には否定出来ない訳です。

そんな思考法に埋没した日々を送り続けやがてそれが習い性になってしまうなら、いつかマインドの無限ダンジョンから出られなくなる日が来ると言っても過言ではありません。それが思考の罠であり、転生を跨いだカルマと成り行く思い癖ってやつです。

今回の僕の思い付きは、その「際限の無い可能性の提示」を逆に利用して敢えて複数の意見を創出し、自分に対してぶつけ続けることで、心を揺さぶってみるのです。

ちょうど頭脳明晰な人がチェスやボードゲームを自分同士で対局させるように、仮想の自分同士の意見を向き合わせてみるなら、それが結局マインドの盤上にあった陣形だったと気付けるでしょう。


・・・・

これを十人の声を同時に聴く”空”の御業、皇子の豊聡耳にちなみまして、「自我観察の豊聡耳」と呼んだかどうかは分かりません。(笑)

太子様にインスピレーションを受けたこのお話、
「信じるか信じないかはあなた次第です!」^◇^



(...信じる訳ねえだろって?笑)
 
 
 
最後に ()
2017-10-11 18:43:48
なんだか手段が目的になっちゃってる気がするんです。

一般的に「分別」とは「物事の善悪・損得などをよく考えること。」という意味で使われることが多いと思います。仮にあの言葉がその意味合いならば、それは外部に目を向けることですよね。これは「識別」という言葉も同じことが言えるのではないでしょうか。

色々な捉われから自由となって改めて外部に目を向ける。

内部に目を向ける行為は「色々な捉われから自由になる」ための手段の一つであって、

内部に目を向ける行為(自己探求等)を目的とすることはベクトルがズレてるのではないかと感じたんです。

確かに可能性はいくらでも広げられますよね。だからこそなんです。だからこそ、その「可能性が広げられる状態」の認識は「捉われから自由になる」ための材料になり得ますよね。可能性の提示は、他の可能性の一つに固執したいからするわけではないのです。

むしろ自己探求を目的にしてしまうことのほうがマインドの無限ダンジョンにハマる恐れがあるのではないかと感じています。

>僕自身も、何を信ずるか何を信念とするかは自分で決めます。それは人から強制されるべきことではありませんね。自身の経験と観察に基づき、ある時にある洞察がなされたなら、それを仮説として自分自身がその確証を得るべく道のりを進むのみです。僕はそうしています。

これは今の私でも仰る通りだと思います。そして、自己探求も結局は答えを自分で決めて信じ込むことが探求の終焉なのではないかと感じています。

もちろん、サムさんが言っていたとおり、人は変わるものですから、この考えは今後変わるかもしれません。またいつかどこかでお互いの心境の変化を語り合えれば良いですね^ ^

本当に色々とありがとうございました。
 
 
 
御礼と餞別 (サム)
2017-10-13 01:54:38
宙さん、どうもご丁寧にありがとうございます。(_ _) この二ヶ月足らずですが、宙さんと対話をさせてもらったのは本当に貴重な経験でした。僕は宙さんのような思考の流れを持つ人とは今まで出会ったことが無かったです。今回の宙さんの視点を見ても正にそう感じ、ちょっとテンションが上がったほどです。

この先は僕自身、本質的自己へと徐々に集中していきますが、またいつか率直な意見交換が出来ればいいなと思います。その際はどうぞ宜しくお願いします。^^

ちなみに、黒斎さんの ”感情の素” という記事にもコメントされてましたか?(違ってたらごめんなさい。その正誤はご返信には及びません。)あの記事に僕は置き土産をしました。

何故かと言うと、あの記事は「捉われのない分別」ゆえに書かれた文章ではなく、「マインドの気付き」を土台にした砂上の楼閣(マインドの延長線上の見解)だからです。

その砂上の楼閣について更なる例えを求めた僕のすぐ後のコメント者は、つまりは黒斎さんの創作・フィクションに対して作者の別な角度からの説明を知りたがった、ということになる訳です。

両者がそのことに気が付いているのであれば、それは映画のコメンタリー的な、作品を介した監督と視聴者の交流と言えるのですが、自分の発表しているものが幻想だと気が付いていない監督と、それが幻想だと知る由も無い視聴者の間の交流というのは、僕には少々気の毒に思える光景です。

だから監督に、「その脚本はノンフィクションではありませんよ」、「視聴者が勘違いして、『この作品は実話を基にしています』と思い込んだまま人生を過ごしますよ」というお便りを差し上げた訳です。

その黒斎さんの記事は、「自身のマインドに対する観察が為されていないと、スピリチュアルに首を突っ込んで10年以上の人でも何ら幻想から離れられないのだ」ということを現していると思います。

宙さんの感じた「色々なとらわれから自由となって改めて分別が、できるようになること」というのは、「自己観察が出来ない、しない人」には無縁のものとなります。

十年、二十年とスピを学んでも、またスピを教えるというメッセンジャーでも、常に自己に目を向けること無くば、「色々なとらわれから自由となって改めて分別が、できるようになること」とは行かないのです。

そんなことに関するお話を、この2ヶ月を振り返って少し書いてみたいと思います。

旅立つのは僕の方ですが、宙さんと、そして黒斎さんへの別れのしるしです。



ええ、「分別」だけに。(笑)
 
 
 
とらわれの正体よ、いざさらば (サム)
2017-10-13 02:07:07
8月の下旬から今に至るまで、僕は宙さんに何ら偏見も無く、宙さんから発せられた言葉はそれをただスナップ写真のようにアルバムに納めてきました。別な表現をすれば、ジグソーパズルのピースをただ一つずつ置いて行っているような状態です。

そのパズルの現在の状態はと言いますと、宙さんから手渡された10個や20個ぐらいのピースをそっと目の前に置いて、特に形を合わせるでもなく眺めています。

角が一つ含まれているのですが四隅のどこかはまだ分かりません。他のそれぞれのピースは色と形は分かるのですが、どの位置のものかはまだ見えません。

このパズルの大きさは分かりませんが、もし数千ピース級だとするとぼんやり全景が見えるまであとたったの数千ピースです。(笑)

なぜそんなジグソーパズルに喩えたかと言いますと、「捉われから自由になる」という状態について丁度いい説明になると思ったからです。

以下、その説明となります。

もし我々が捉われから自由になったなら、その認識の在り方はどうなるでしょう。捉われのない心とはどんな状態でしょう。

それはパズルで言うなら、「ピース(対象物)をそのまま原型で配置することが出来る心の状態である」と喩えてみます。

たまに擦れたり、ちょっとぶつけて縁が曲がったりするでしょうが、ほぼピースは元の状態のままです。当然きちんと組み合わせていけば元の全体が完成するでしょう。

では、「捉われから自由になっていない心」、「捉われた心」はどんな状態でしょう。

それは同じくパズルで言うなら、「ピースを原型から自分勝手に改変してしまう状態」だと喩えます。

別な型に圧縮してみたり、輪郭を裁断してみたり、また時には違うパズルのピースを混ぜ込んだり、といった状態です。

当然それを組み合わせると元の全体ではなく、全く別なもの、原型を留めない形や色の何かを貼り付けた「モザイク画」が出来上がるという訳です。


・・・・

パズルが元のように完成すること。一方、それが全然別のモザイク画になってしまうこと。前者と後者は一体何が違うのでしょうか。「捉われのない心」と「捉われた心」。結局、何が違うのでしょう。

これを読む人の探求の遠回りを省くため、その答えを先に言ってしまいます。彼がその探求を楽しみにしていたとしたらごめんなさい。ネタバレです。(笑) でも彼に永い無駄足を踏んで欲しくないので言います。

その違いは、実は「動き」なんです。

上記を別な言葉で言い換えるなら、「動かない心」と「動いている心」です。あるいは「静止した心」と「揺れ動く心」と言ってもいいかもしれません。

—パズルのピースが目の前にあった。

なら、「捉われた心」はそのパズルのピースを、元あったようにしておけないのです。何か改変を加えずにはおれない。何か形を変えずにはおれない。その動きが止められない。そしてまた動作に夢中で自分のその状態を自覚していないのです。

一方、目の前に置かれたピースを、ただ目の前に置いたままにしている心があります。ある対象物をただそのままに認識し、そして自身の状態もただそのまま自覚しています。その静止した心が「捉われのない心」です。

ではどうやってその動きを止めるのでしょうか。

ここにコメントする方々が他者のコメントに捉われている時、また黒斎さんの記事に合点が行かず、ああしろ、こうしろと言っている時、リクエストとしてあれを説明してくれ、これを説明してくれと言っている時、

動いているのは何ですか? 

動いているのは彼以外の誰かですか?

それとも、それも黒斎さんが言う、『「誰のもの」と言えない状態で絶えず空間全体に漂っている、といった感じ』ですか?

いいえ、違いますね。

僕に言われなくともお分かりのように、動いているのはそのいずれでも無い、「彼ら自身の心」です。

マインドの動き。心の動き。それが常にうろつく思考として現れます。それらを静止させ、捉われという運動状態をなくすには、まずその動いている自身の内面へ目を向けるのが始まりです。

だから外側を離れ、外部へ目を向けることを止め、知覚を自己から動かすなと言うのです。

極めてシンプルな道理ですね。そしてこれが分別というものであり、また識別の始まりだと僕は言います。

僕がそのように言ったら、「その分別の定義はそれで合っているのか?」とか、「分別と識別とは一緒なのかそれとも別な意味なのかはっきりしないぞ」とか一生懸命言うのが「捉われた心」です。

そんな彼の外側にある言葉の解釈などは、どうとでも放っておけばいいのです。彼がそれに関わらなくとも、世界中の大勢が代わりに死ぬまで延々とやってくれるでしょう。いえ、死してもなお、また次の生を受けてもなお、と言うべきか。


・・・・

思考といい、マインドといい、それらは絶えず動き回っています。絶えずうろつき、本当の意味での内省というベクトルを持ちません。

何故なら、その動きに気付くとマインドは力を弱められ、気付きの状態に完全に移行するならマインドはその運動の力をまるで失うからです。

知覚の主体がマインドからそれに気付く意識に移行すると、マインドは投影のエネルギーを失います。だから映し出されていた思考や観念も消え去ってしまうのです。(知覚の主体=エネルギー源ゆえ)

マインド・自我は、そんなことはまっぴら御免な訳です。マインド・自我は「在りたい」のです。ずっと自分で居たい。存在を失いたくない。今日までずっとそうやって生きてきた。それを失うことは受け入れないのです。

誰しも「自分を変えたい、変わりたい」なんてよく言いますが、いざそれが出来る状況になったら突然、変わらないでいる理由、変わる必要が無い理由を探し出し、作り出し、自分と周囲を納得させようとするもんです。

若い頃は死ぬことなんて全然怖くないとうそぶいていても、死期が近付いたら死にたくないのです。

そのように、自身を失うこと、またその存在にメスを入れられること、そんな恐怖心をマインド・自我は持っています。でも、捉われから自由になりたいなら、そうしたマインドの動きは必ず断たねばなりません。

マインドの動きこそが、そしてマインドの動きによる現れである思考・観念こそが、捉われという言葉の指し示すものです。

そして内省がその動きを止めることを可能にします。マインドに気付き、マインドの動きを掌握するのが本当の内省であり、またそれは内省の全ての中でほんの初歩の初歩です。

その実践なくしてあれこれ言うな、あれこれ言うなら実際に自分で確かめてからにせよと、ラージャ・ヨーガもその実践の大切さを教えてくれているでしょう。


・・・・

翻って、黒斎さんが記事 ”感情の素” で書いた下記の文章はどうでしょうか。


>(  ̄Д ̄) 『いや、そうじゃない。
>さっき言った通り、思考エネルギーも感情エネルギーも、黙っていれば音のように消えていく。
>「共振・共鳴」(思考や感情の鐘を打つこと)を続けなければいいだけだよ。

>その為にはまず、一つになった思考と感情を解体することだ。
>思考は思考、感情は感情。
>その結びつきを解いてみなさい』


黙っていれば消えていくと自分で言っているのに、その思考や感情を、その一つになった状態のエネルギーを解体するとはどういうことですか?

思考と感情の結び付きを解いてみよとはどういうことですか?

それは、黙っていれば消えていくと言いつつ、自分や他者に新たな動きをせよと指令を出しているのです。

思考と感情を、また次なる思考で捉えさせ、「(思考によって)思考と感情の結び付きを解いてみよ」という難解な実行指令を、黒斎さんは読者のマインドに与えています。

なぜ読者にただ黙っていさせないのでしょうか?

なぜ「沈黙のうちに自己を見つめよ」と言わないのでしょう。

なぜ10年以上の長きに渡って、数多くの角度から読者の思考を賑やかにするのでしょう。

なぜ読者に呼びかけ、告知し、集客し、本を買わせ、その思考や感情を常に揺さぶり続けるのでしょうか。

雲さんとやらはなぜ彼らのマインドを常に動かそうとするのですか?

黒斎さんはその正体不明の想念をただ盲目的に受け入れ、信じているのですか?

プロの精神世界メッセンジャーとして、そのことを精密に観察しようとなさらないのですか?

以前黒斎さん自身が、ある女性とパパジ師の対話を納めたYoutube動画「4分で目覚め」をブログにアップしていたと思います。それは単なるブログのネタですか?

思考といい感情といい、黙っていれば消えていくのですから、そのようにだけ伝えればいいのです。なぜそのように読者に実践を求めないのですか?

読者が各々の内省においてその実体験を積めば、「これは事実だ」と必ず分かる訳です。

それがシンプルな識別であり、読者への最良の福音です。

なぜなら、どんな苦悩の想いも、スピメッセンジャーに依存することなく、多種多様な瞑想セミナーに大金を払う必要もなく、読者が読者自身で滅することが出来るのですから。


・・・・

冒頭に書いた通り、そのことを知る由もなく、ただメッセンジャーを頼っていく読者が僕には少々気の毒です。また混乱させられ、あれも知りたい、これも知りたいとマインドを掻き立てられている姿も気の毒です。

黒斎さんも良かったら、今回の僕の置き土産を機会に、静かに自己を見つめられては如何でしょうか。



では、黒斎さん。そして宙さん。どうもありがとうございました。数年後ぐらいからは僕も本格的な内省そのものとなります。またいつかお会いする機会があればどうぞ宜しくお願いします。

<(_ _)>
 
 
 
黒斎さんへの追伸 (サム)
2017-10-15 12:13:07
一つ、黒斎さんに伝え忘れていたことがありました。

しかも黒斎さんにとって最も、最も重要なことです。

(これ完全に黒斎さん個人宛てなのでコメントとして掲載しなくて構いません。)



その前にまず、

黒斎さんのお話で、非二元・ノンデュアリティでよく聞く「わたしはいない」は、

わたしという『現象』はあるけど、わたしという『実体』は存在しないという意味ですよ、

という説明。



これ、まだ幻想なんです。

これは「この世界は幻想だったんだ」と観じた人の中で、時に頭の良い人が落ちる別の罠なんです。

確かに上記の説明でよくある非二元のモヤモヤを解消させていくことが出来ると思いますし、論理的にも完結しているし、何より「実際そのように観察出来るじゃないか」と思うかもしれません。

でも、まだそれも罠の内なんです。マインドが投影した気付きであって、すなわち夢の中で夢から覚めたと思っている状態です。

もしもいま瞬時に意味が分からなかったらすみません。でも黒斎さんならそんなに期間を要せず気付ける罠だと僕は思ってます。



わたしという『現象はある』けど、わたしという『実体は存在しない』という説明。

僕たちは、またまたイメージ・思考の中にそんな想像の世界を創ることが出来る、というのが現在地です。

「非二元は言葉で説明出来ないんだよ」とよく言うのですが、

その意味は、本当に何も捉えてはいけないんです。本当に思考を去らなくてはいけないんです。

本当にマインドの全てを去らなくてはいけないんです。

つまり、解脱者でなくては何も分からないので、僕たちはそもそもタッチしなくていいんです。

タッチ出来ないんです。

タッチしている、説明出来る、と思うこと自体がまだマインドの投影であって、

非二元の説明と「それ」にタッチしているかの如きフィーリングは、マインドの中で起こっている気付きとフィーリングなんです。



改めて書くと、

「言葉で説明出来ないけど、伝えずには居れないんです。」 ←完全アウトです。

「それは言葉で説明出来ないものです。」 ←アウトです。

「非二元? それは・・・」 ←ファウルです。

「 ・・・  」 ←惜しいけどファウルです。

「      」 ←これだけがセーフです。



つまり、今僕がこれを書いているのはアウトです。

しかし、これがアウトだとちゃんと自覚するのが識別の始まりなんです。

これは良い悪いをジャッジする観念ではなく、今自分がマインドと同化しているか、マインドからどれくらい離れているか、という自覚、分別です。投影の方を見ているか、投影を止めているかという識別です。

阿部さんは30年間その自覚が無い、未だ何の識別も無い、つまり連続アウトの打席記録を30年間更新中です。

さて黒斎さんはこれからどうするか、です。



禅宗の修行をしている僧侶の方や、さらに出世した高い位の方でも何の関係もありません。

地位、名誉、有名企業、有名マスター、

何の関係もありません。

必要なのはただ唯一のことです。

それは、「生きながらにしてマインドの動きを完全に停止させることが出来るかどうか」です。



敢えて黒斎さんのエゴを突付く為に言いますが、

黒斎さんが捉える「非二元の肝」みたいな部分は、全てマインドの投影です。実は。

そんなことで人様からお金を頂いて生活するのはお止しなさい。

スピリチュアルを生業にするのはおすすめしません。それは単なる読者、視聴者、購入者、イベント参加者への心的、経済的依存です。

読者はあなた一人か、他に好きなメッセンジャー数名に依存しますが、メッセンジャーはあなたに依存する全ての人、つまり誰よりも多くの人に依存しているのです。それが現実です。

僕がスピ業者やらスピ消費者という言葉を皆さんに当てるのも、皆さん自身にそのエゴ性を発見してもらうためです。

スピリチュアルは人の心を弱くする麻薬であって、幻覚剤です。

それは人を真には強くしないのです。



あらゆる思考は実際のそれとは別なもの。

思考で捉えるあらゆる真理は、実際のそれとは別なもの。

すなわち真理をメッセージして正解を出せるのは、本当に解脱した方、あらゆるマインドの動きを停止させることが出来る方のみです。

その識別が無ければ学びの途にある我々に探究の先は無いのです。

もし黒斎さんがこれを見て気を悪くしても謝る気はありません。なぜなら黒斎さんも大事な同胞だと思うからです。

同胞ゆえに言うべきことを言います。そのためなら僕は喜んでマインドに同化します。



そして冒頭に書いた、

>一つ、黒斎さんに伝え忘れていたことがありました。
>しかも黒斎さんにとって最も、最も重要なことです。

というものですが、それは、

黒斎さんの「わたしという実体は存在しない」という考え方は単にマインドの投影だという話だけでは済まなくて、

「観察の場所を間違えているのだ」という決定的な誤りがあるのです。

黒斎さんは「わたしという実体は存在しない」の話をするのに、自身が投影した世界を観察して諸々のことを説明に援用したのですが、観察すべきはそこでは無いのです。

観察すべきは「黒斎さんに知覚があること自体」なんです。純粋にそこを真っ直ぐに掘り下げて行かなくてはいけないんです。

自分に湧いた思いを見て、あるいは目に映る世界を見て判断や論理を組み立ててはダメなんです。それは投影世界だからです。

まずは大前提としてマインドの動きを静止させること。それにより投影が止むこと。

その上でこの知覚力の源に集中していくこと。

それが僕らに必要な観察の要諦です。

それを実践していけたら、

「わたしという実体は存在しない」
「本質的自己というものは存在しない」

という幻想は必ず破れます。実践したら絶対にその幻想を破れます。

それが遠い時代において修行者が迷い込んだ、無我論という思考の迷路だったと気付けるでしょう。



マインドが見る解脱者と、”解脱者の実際”にどれくらい開きがあるものか個人差があると思いますが一例を挙げたいと思います。

下記の話は信じなくても構いません。しかし現実です。

知覚の源を体現した実際の解脱者は、普通に生活してる中でも必要があればわずか一秒、いや瞬時にもマインド無き世界(サマディー)に到達し、またその状態を何時間でも続けます。

その間、呼吸も必要とせず、また心臓の鼓動も必要とせず、生命活動を原子・分子レベルで行います。また中には人生のほとんどを睡眠も必要とせず、食物も取らずに過ごす究極的な聖者もいらっしゃいます。

心がマインドであるのと同様、そのマインドの粗大な現れである身体も、マインドを超越した解脱者にとっては何の制限にもならない単なる物質であって、その物質身体に生命を与える根源のエネルギーは不死であり、聖者が必要とあらば肉体も不死でいるし、根源にはその明滅をコントロール出来るのです。

それが解脱者の実際です。

(無論信じる必要はありません。)



...これらを信じる必要はありませんが、ただ、黒斎さんに言いたいのは、本質的自己はあるのだということです。解脱者の存在自体がそれを明らかに示しているんです。

だからあなた自身にも、あなたの大切なお子さんにも、「わたしという実体など存在しない」などとは決して言ってやるな、という事です。

その非二元の謳い文句は、過去の修行者が煩悩を断つ為に使った単なる方便です。

黒斎さん自身にも、そしてお子さんにも、かけがえのない本質的自己が内在しています。

的確な観察によって幻想を破れば、それは自ずと知れます。

どうか、ご自身と読者のお子さん、そしてこれから生まれ行く全ての子らに対し、

「君たちに実体など存在しない」と言うなかれ。

これを僕は黒斎さんにお伝えしたいのです。



「自灯明」、かけがえのない自己を照らし、その智慧の明かりで世も照らして行けと、

そのようにお子さん達には言って欲しい。

黒斎さん自身と、大事なお子さんをどうぞ空っぽにしないで欲しい。

それが僕の追伸です。



では、ご機嫌よう。さようなら。<(_ _)>
 
 
 
ある方の書き込みを不快に思い続けた理由 (Unknown)
2017-11-02 10:07:47
「ピュア」「他人を愛せない」「他人を見下す」「冷酷さ」「特別意識」=共鳴力がない。

これが理由なのだとやっとわかった。

と同時に、自分にその要素があるからこそ、他人にそれを見せつけられると不快に思えてしまう、そういう感覚が湧いてしまうということをまず踏まえないといけない。

なかなか認めにくい点だけど、現実は自分と同じものしか目に出来ない。他人を責める前に自分に目を向けなければいけないんだよなあ。
 
 
 
雲の向こうはいつも青空 (サム)
2017-11-04 00:12:45
お察しするにコメント欄で色々あったようですが、結果的にUさんが内省へと思い至ったのが素晴らしいことだと思います。

そんなあなたに祝福を込めて更なる気付きへのヒントを差し上げたく、また性懲りも無く投稿させて頂きます。



>ある方の書き込みを不快に思い続けた理由

>「ピュア」「他人を愛せない」「他人を見下す」「冷酷さ」「特別意識」=共鳴力がない。


>これが理由なのだとやっとわかった。

>と同時に、自分にその要素があるからこそ、他人にそれを見せつけられると不快に思えてしまう、そういう感覚が湧いてしまうということをまず踏まえないといけない。


>なかなか認めにくい点だけど、現実は自分と同じものしか目に出来ない。他人を責める前に自分に目を向けなければいけないんだよなあ。



上記の気付きや納得は一応心がスッキリしたのだろうとは思うのですが、残念ながらそれも「マインドが投影した気付き(理由付け)」だということに観察が効くなら、もうUさんはこれからそんな思いをしなくても済むようになります。

どういう事か順を追って書かせて頂きます。



まずUさんが最初に「ある方の書き込み」を見た時に第一のマインドが出現します。

「見た」という単なる動作の後、Uさんに心の動きが生じました。

「ただ単に目に映った」のではなく、そこにあった文字情報にUさん独特の好き嫌いや、こうあるべき・こうあるべきでないといった観念による造作が加えられ、Uさんの思考の中にしか存在しない相手を創造しました。

これが第一のマインドです。



Uさんが見たものは相手や相手の文章そのもの(実物)ではなく、Uさんの思考の中にしか存在しないマインドが投影した相手”像”でした。

そして、それらの投影はまた次なるマインドを出現させました。

Uさんの観念に不適格だった「ある方の書き込み”像”」はUさんの心に不快な感情を生み出し続け、そして不快だということについての説明などの思考を生じさせました。

相手の文章を読みながらなぜ不快かということを度々心の中で反芻したでしょう。

それら一連の感情と思考が第二のマインドです。



第一のマインド、Uさんの中に元々根付いていた観念に基づいて生み出された相手像に対し、第二のマインドはあたかもそれが本人であるかのように不快の表明や、反論の思考・コメント行為を始めました。

相手像は単なる像から、動き出した人形、ゴーレムのように力を持ち始めました。

そのゴーレムに力を与えているのは、他ならぬそれを投影しているUさん自身です。

マインドは単なる投影を超えて創造力を持っており、それが実際に影響を及ぼし、時に自他にダメージを負わせます。



ここでUさんには答えが必要でした。

あるいはUさんは起きる物事、この世界の色々、自分の心についてなど、様々なことに理由がなければ居られないのかもしれません。

(それはUさんがスピ界隈に関心を持ち、過去や今回コメントをした理由でもありましょう。その潜在的な答え探しはマインドの根本的な特性と言えます。)

そしてある気付きが起こりました。”分かった”のです。

しかしそれが第三のマインドです。



それは正確には”分かった”のでは無く、何かの事象について「自分が納得行くような説明を思い付いた」のです。

時に人はそれを”気付き”と呼びますが、その”分かった”がマインドの自縄自縛を強固にする仕上げの固結びと言っても過言ではないでしょう。

それはUさんのマインドが投影した、Uさんの創作物としての”分かった”であり気付きです。



念のためなぜUさんの今回のコメントの”分かった”がマインドの投影なのかを書きますと、

「ピュア」と書いていますが、ピュアには無限のピュアがあります。

「他人を愛せない」と書いていますが、それにも無限の在り方がある訳です。

「他人を見下す」「冷酷さ」「特別意識」も同様です。

にも関わらず無限の解釈が存在するそれらを最終的に「 =共鳴力がない。」とまとめられ、

それが「ある方の書き込みを不快に思い続けた理由」だとわかったと書いておられますが、

それらの全ては、Uさんの中に元々根付いている諸々の観念(第一のマインド)を基礎にした見解なのであり、また相手の存在を完全に無視しUさんが勝手に作り上げた解釈なのです。

話の土台もその上の建物もマインドの上で建設されているので、当然その中で起こる”わかった”も気付きもマインドの上で起こった投影なのです。

だから、

>と同時に、自分にその要素があるからこそ、...

と続く見解は、「ただUさんが納得出来る説明付け」というだけのマインドの論理です。



振り返って、では「ある方の書き込みを不快に思い続けた理由」を考察するなら、一体Uさん自身は何にフォーカスしなければならないのでしょうか?

それはやはり上記にも冒頭にも書いた、第一のマインドの発生地点です。

相手の投稿を見た時に、ただ単に「見た」、あるいはただ「このような意見が書かれてある」とだけ認識していれば、その後のことは存在しませんでした。

だから自分が心乱されたりあらぬ思考が走ったことの発端は、観念の発動という第一のマインドです。

しかし、

Uさんがそこで投影としての相手像を立ち上げ、投影に向かって感情や思考を増大させ、その一連の経過の後は、また様々な理由付けを投影したのです。

今なら最初から最後まで100% Uさんのマインドの投影だったと気付けるでしょうか?

すなわち、

「Uさんがマインドの投影を止めないこと」が「ある方の書き込みを不快に思い続けた理由」の原因の100% を占めているという訳です。

今回のように自身が納得できる色々な説明をもし思い付いたとしても、それらは全て砂上の楼閣であり根本的な原因とは言えません。



決してUさんを責めている訳じゃありません。我々みんながそうやって果てしない道のりを歩んでいる訳ですから。

また、人はそうして納得を得たいからこそ様々なスピリチュアルや宗教や霊能を信じたがるのです。

しかし、この探求の果てなき道を終わらせるのが自己に目を向けること、内省です。

その意味で、

>他人を責める前に自分に目を向けなければいけないんだよなあ。

というUさんの思いを僕は心から応援します。

元々Uさんが意図したであろう「自分に目を向ける」とは少し意味が違うことに気が付いて頂ければ幸いですが、

Uさんが書かれた「自分の中にある要素」という点は全人類が多かれ少なかれ皆持っていますので、それがどれくらい性格や言動に特性として現れるかということはあまりクローズアップしなくても構いません。

人それぞれのスイッチで怒る時は怒るし、許せない時は許せないもんです。

念頭に置くべきは、そうした観念が発動した時に「”ただ”そのことに気付く」という事です。

思考が走ったなら、”ただ”思考した我に気付くだけでいい。

その観念や思考が発動したことへの理由付けも不要です。

それが「自分に目を向ける」の入り口です。

つまり心に起きていることへの自覚です。

気付きという意識に移行すればマインドは感情への同化と思考の投影を止めますから、ただそれだけでUさんの心は自由になれるのです。(慣れれば瞬時に)

思考していた内容は追わなくて構いません。下手な反省とかも要りません。それはまた別なマインド・囚われが増えるだけで実際は解決から遠のきますから。



改めて書きますと、

人には観念というマインドが根付いており、それが物事を見る眼を曇らせます。

その眼で見たものは”あるがままのもの”で無いと知らず、感情や思考というマインドの動きを走らせます。

そして自我は「分かりたい」という根本的な欲求を持っています。それが「マインドの中での気付き」という、少々厄介な罠へと人を閉じ込めます。

このように、ザックリと言えば大きく3つのマインドが僕たちの知覚に現れてきます。

というより、知覚は常にそれらが混沌とした状態に同化していると言っていいでしょう。

僕たちの知覚力は常にそうしたマインドの錯覚に晒されているのです。その自分の状態を自覚していくこと、目を向けていく事が内省です。

(このことに無自覚のままスピにどっぷり行く人の中には、「世界を分かった」「宇宙を分かった」「この世とあの世を分かった」といった錯覚、つまりスピリチュアルリーダーというキツい罠があります。ここに落ちたら相当な苦労をしないと出れませんので、世のスピメッセンジャー、メッセンジャー予備軍の方々は今からどうぞご覚悟を。笑)



この先Uさんは観念が発動したことへの気付きを少しずつ実践すれば、物事が起きた時に自分を納得させる説明も理由付けも不要だと自身の心がはっきりと知ります。

気付けばその投影は止み、マインドの自縄自縛から自由になれるのです。

自由になった心には内的な平和が訪れるでしょう。そして、やがてその平安がUさんの普段の居所になるだろうと思います。



Uさんに爽やかな秋空のような、マインドから開放された心が訪れることを願って止みません。

どうぞご機嫌よう。<(_ _)>
 
 
 
マインドと非マインドによる言葉の違い、またはお金に対するスピ的な考察 (一閲覧者)
2017-11-05 07:53:31
サムさん、ご無沙汰しております。

改めて前回はマインドに関しご返信頂き、誠にありがとうございましたm(_ _)m

そして今回名前を伏せて投稿をした「ある方の書き込みを不快に思い続けた理由」は、お察しだったかもしれませんが、私が書きました。

仰る通りこれは気付きなどとは無関係の内容で「ピュア」等は決め付けの言葉であり、「共鳴性の有無」という結論は私の主観による、単なるつぶやきのような書き込みです。

しかし「黒斎さんに置き土産」という書き込みをされてっきりブログを離れられていたとばかり思っていたサムさんから、真っ先に反応があってとても意外に思いましたが、せっかくですのでこの場を借りて改めて2点ほど質問、お話をさせてください。

>それ、別な思考にすり替わってるだけだから。

>黒斎さんのファンは、植え込まれたその観念にずっと縛られるから。

>黒斎さんは、自分が「雲さんっていう名の想念(マインド)」から自由になってみせることが、読者に対する一番のお手本だと思うよ。^^

>では、スピ業者道の益々のご発展を。(_ _)

>またいつか。ノシ

まず1点目ですが、上はサムさんが先日投稿された「黒斎さんへの置き土産」と題された書き込みですが、これはサムさん個人のマインド、観念の仕業にあたる内容とは違うのでしょうか?

1ヶ月前、サムさんから頂いた私宛のコメントには心から感謝しております。

しかしだからこそ上にあげた「雲黒斎さんへの批判」とも取れるサムさんの書き込みを目にして以来、正直に申しますとサムさんに対する失望のような気持ちが湧いておりました(大変申し訳ございません)。

この私の意見も私のマインド、観念の仕業、思考と感情に同化してる故だと言われればこの話はそれまででしょうし、実際そうだと思っておりますが、 雲黒斎さんを「スピ業者道」としたサムさんの書き込みに対しては、雲黒斎さんのブログを愛読する読者としては大変残念な気持ちになりました。

批判がいけないとは決して申しませんが、サムさんが雲黒斎さんを「スピ業者」扱いすることは、サムさんのマインド、観念、思考でそう決め付けている、解釈しているだけのようにしか思えず、そういった意味では、今回の私の「マインドの罠」にあたる書き込みとの差異は、一体どこにあるのだろうかという疑問は湧きました(私の書き込みに関しては冒頭述べたように、マインドの代物と自覚しております、そしてこの書き込みも)。

マインド=思考、観念、感情、主観、思い込み、自我、想像、心と様々な意味を含むだけに、「それマインドだよね」という言い回しは、それ自体が使い方によっては「決め付け」の類になる可能性が大ですし、言われた方も「それはあなたのマインドだよね?」で切り返すだけのやり取りになりかねないことを、サムさんは自らされてないのかなと感じました。

2点目は、精神世界を語る方全般に感じている違和感と申しますか、覚者も人それぞれだと感じるのが「お金」に関する時のその語り口です。

雲黒斎さんは「お金とは、感謝と応援の表れ」「お話会は赤字が出てまでもやらない」「野菜という生命を育み商いをする農家、農業関係の方は何も言われないのに、なんでスピリチュアルでは文句を言われるのだろう」という趣旨の話をしていますが、私はこれに同意しております。

スピリチュアルでお金を得て何が悪いんだ?という立場です。

確かに、覚者の方でも、悟ってからも貧しくタバコ屋を営み体を壊しながら教えを説き続けたという方もいるみたいですが、資産家といえるような財産を築く方もいるようですし、お金云々の話とは異なりますが、20世紀最大の覚者と呼ばれながらも死後に浮気が発覚したという方もいるみたいです(見方によってはこれも愛の形だとは思いますが)。

要は、「教え」と我々が考える人間性の是非は、全く別物だと考えていて、釈迦なんかも短気で変人だったと言われている人物ですが、その人間性は世俗的には否定されても教えそのものまで否定されてはいないという(本当に彼は実在したのか、教えが真理を説いているのか云々の検証は置いとくとして)。

そう考えると、雲黒斎さんや阿部さんを批判するもので最も的外れに思えるのは、スピリチュアルでビジネスを営む、または名を残す=だから言ってる内容は間違っている、覚者として堕落していると評価することだと考えていますし(これこそマインド云々という言葉以前の個人的な主観の押し付けかと)、覚者が金銭欲等の欲を持つのは間違いだとするのもおかしいと考えます。悟れば、よりその人間のパーソナリティが強くなるだけで聖人君子になることではないと考えているので。あとこのお2人のスピリチュアルの広め方、教え方が間違っているというのなら、それも教えそのものへの批判とはまた別の話になるかと思いますし。

悟りとは、無、全て、ワンネス、光、愛、分離のない世界、ただ在るなどと抽象的なことばかりを語る方が多い割には、ことお金に関しては途端に世俗的だったり、清貧の思想をベースにしたかのような、お金儲けをする人間=堕落した人間とでも言わんばかりの言葉しか耳にしないのが、本当に不思議だなとは常々思っております。

スピ関係なく考えても、お金を稼ぐ=税金をそれだけ支払うことですし、雲黒斎さんに関していえば本の印税を寄付されたりしてますし、要はお金をどのように「使う」か、世の中で「回している」のかまで考えていない方ほど、お金を手にする=私腹を肥やすという決め付けしか出来ていないのではないのかと。

サムさんの場合は、もっと深いところで精神世界とお金の話をお考えになっていると思いますし、上に書いたことには当てはまらないとは思いますが、改めて「お金」とはどのようなものだとお考えなのか、精神世界的な表現でいえばお金とはどう言えるものかを改めてお聞かせ願えればと感じました。

以上、宜しくお願い致します。
 
 
 
どうもです! (サム)
2017-11-05 17:54:40
一閲覧者さんとは全然知りませんでした。^o^

僕を殺さずに捉えておいたのですね?(笑) 真っ先に殺すべき相手をまだマインドに閉じ込めておくとは、一閲覧者さんもお人が悪い。^^

というのはジョークですが、

ポツリとコメントされた方は、僕が書き込みをする前に長らく人と応酬された方かな?と思っていたのですが、

ともかく自分で自分を縛って心を苦しめてきた方だと思い、気の毒に感じてまたしゃしゃり出てきた次第です。

「自分の思いの根本は、実際の相手は100%完全に無関係でっせ」ということがレスの骨子でした。




また返信を詳しく読ませて頂いて、出来る限りお答えしてみたいと思います。

再び訪れたこの観察の機会に、一閲覧者さんも何か追加がありましたら全部アウトプットした方がいいかもしれません。

というのも、僕自身の昔からの体験でもありますが、今回のように率直な思いを書いて形にした方が、自分が何を考えているのか可視化出来て意外と雲が取り払われるという経験則があります。

他者への議論は傍流にして、重点を「自分の視点をクリアにすること」においていると、2〜3ヶ月もすれば雲がうっすら晴れてくるかと思います。

その先も行ったり来たりが結構長い期間掛かるのですけど、ある時期を境にマインドに錯覚された知覚からマインドを観る醒めた知覚へと移行する地点があります。

残念ながらその眼は目覚めた意識といったものではありませんで、やはり未だマインドの範疇です。

しかし、ここは重要な部分ですが、

AI進化の技術的特異点みたいな感じですけど、日常生活でマインドに翻弄される身でありながら、一方でマインドを冷静に観察する機能がマインドそのものの中に芽生えてくるのです。

この現象は、自己観察を為そうという思いが、実際に自己観察機能を創造、あるいは強化していくのだと僕は見ます。

その観察機能に遠く背後から知覚の光とエネルギー与えているのは本質的自己です。

本質的自己(アートマン)から力を与えられているからこそ、マインドにもそうした創造力が備わるのだというのが僕の視点です。

一閲覧者さんも僕も、探究者であるならば醒めた眼でマインドを去り、その本質的自己へ向かわなければいけないのです。

このような対話はお互いにとってその一助となり得るでしょう。




ではまた明日にでも。<(_ _)>
 
 
 
ご質問の件、 (サム)
2017-11-06 18:03:58
すみません、まだしっかりと読み切れなかったので少々お日にちを頂戴致したく。

思考が極端に遅いのでどうもご迷惑をお掛けします。(_ _)

平日は主に深夜にコメントを検討する時間が取れますので、8日(水)の早朝ぐらいを目標にお返事をまとめたいと思っています。

どうぞ宜しくお願いします。
 
 
 
お忙しいところ大変申し訳ございませんm(_ _)m (一閲覧者)
2017-11-06 21:32:43
>僕を殺さずに捉えておいたのですね?(笑) 真っ先に殺すべき相手をまだマインドに閉じ込めておくとは、一閲覧者さんもお人が悪い。^^

いえいえ、恐れ入りますm(_ _)m

本当は、「本質的自己で自由になりました!」というようなご報告をさせて頂きたかったのですが、改めてこのような形でご返信を頂き恐縮しております。

また今回、多分にサムさんに対し失礼かと思えるコメントをしてしまい、大変申し訳ございませんでした。

しかしこれは決して批判ではなく、サムさんが投稿された内容の真意を僭越ながら確認させて頂きたかったというだけの意味なので、その点ご容赦くださいm(_ _)m

>再び訪れたこの観察の機会に、一閲覧者さんも何か追加がありましたら全部アウトプットした方がいいかもしれません。

>というのも、僕自身の昔からの体験でもありますが、今回のように率直な思いを書いて形にした方が、自分が何を考えているのか可視化出来て意外と雲が取り払われるという経験則があります。

>他者への議論は傍流にして、重点を「自分の視点をクリアにすること」においていると、2〜3ヶ月もすれば雲がうっすら晴れてくるかと思います。

ありがとうございますm(_ _)m

私にとって、とても贅沢でありがたいやり取りを前回からさせて頂いていると感謝しております。

またこれからもお言葉に甘えるかも知れませんが、サムさんのご都合、お時間が許される限り、お付き合い頂ければ幸いです。

>その先も行ったり来たりが結構長い期間掛かるのですけど、ある時期を境にマインドに錯覚された知覚からマインドを観る醒めた知覚へと移行する地点があります。

>残念ながらその眼は目覚めた意識といったものではありませんで、やはり未だマインドの範疇です。

ここは私的には「目からウロコ」でした。

思考、マインドを観察出来たはいいとしても、そのその観察者、観照意識は一体何なのか?と最近疑問に思っておりました。

表で慌ただしく動いていたエゴが、おとなしくマインドの最後尾に移動しただけの、結局これもエゴ、マインドなのではないのか?と。

>しかし、ここは重要な部分ですが、

>AI進化の技術的特異点みたいな感じですけど、日常生活でマインドに翻弄される身でありながら、一方でマインドを冷静に観察する機能がマインドそのものの中に芽生えてくるのです。

>この現象は、自己観察を為そうという思いが、実際に自己観察機能を創造、あるいは強化していくのだと僕は見ます。

>その観察機能に遠く背後から知覚の光とエネルギー与えているのは本質的自己です。

>本質的自己(アートマン)から力を与えられているからこそ、マインドにもそうした創造力が備わるのだというのが僕の視点です。

これも私としては疑問がスッキリとしたご説明で、前回の私の「岡本太郎のような自我を殺したアーティストのマインドは、創造力として生かされているのでは?」という話に通づるかなと(違っていたらすみません)。

すでに前にサムさんが「マインドは悪いもの、否定すべきではない」と仰っていたのでそれは理解していたのですが、悪いどころか「本質的自己」の力によってマインドがさらにバージョンアップされると考えると、例えば予知能力的な特殊な力が加わったり、幽体離脱や「守護霊」と名付けるしかないもう一つの意識体が自身の元々の意識に加わることも十分ありえるのではないのかと思いました。

だから、何故サムさんが黒斎さんに「雲さんというマインドから離れてみせてはいかがか?」というコメントをされたかということも理解が出来ました。

守護霊(マインド)の話は悟りや気づきとは別の話であり、本質的自己の力が投影されただけの存在、意識体に過ぎないというだけの話であると(これはこれですごい話だとは思いますが)。

しかし、その点を読者にお伝えしないまま悟りや気づきの話をしても「悟り=守護霊とのコンタクト」と混同され、悟りの理解の妨げになることを危惧されてのことだったのではないか?と。

だからサムさんは、それをハッキリさせないまま活動をされているように見える黒斎さんのことを「スピ業者」とお呼びになったのかと思いました。

>一閲覧者さんも僕も、探究者であるならば醒めた眼でマインドを去り、その本質的自己へ向かわなければいけないのです。

私は、前回頂いたマインドに関するコメントを読まさせて頂いた以降、劇的にそれまでの「思考が思考している」ような、一人頭の中をぐるぐるしていただけの混迷状態からは抜け出せました(「仏陀や親を殺せ!」という一人殺伐とした思考状態は消えました 笑)。

そして、本質的自己の力とまでは言えないかもしれませんが、思考の奥から思考外の発想が発露し始めているというか、スッキリとした気分を伴いながら思考を扱える、観察している状態が明らかに多くなりました。

>このような対話はお互いにとってその一助となり得るでしょう。

ありがとうございます。サムさんの存在、お言葉は本当に心強く思います。

---

改めて度々、私の不躾な書き込みにお付き合いさせてしまい大変申し訳ございません。

もしかしたら、私の疑問の答えはサムさんの既存のコメントに書かれていることなのかもしれませんので、もう一度私は私でしっかりサムさんの過去のコメントの読み直しをさせて頂きたいと思いますm(_ _)m
 
 
 
最優先課題 (サム)
2017-11-08 06:16:57
昨日のコメントを読ませて頂きました。まだ先日のご質問に沿ったお返事が出来なくてすみませんが、一閲覧者さんご自身で幾つか得心が行った部分もあるようで一先ず良かったです。

今日はそれを受けまして、改めて自己探究というもののプライオリティについて投稿致します。

スピ×お金のこと、そして僕が言うスピリチュアル業者とは何かについてはまた週末にお返事をさせて頂きたいと思います。


・・・・

僕たちは永い永い転生による条件付けなのか、はたまた生まれて此の方慣れ親しんだ感覚器官ゆえなのか、意識を外部のものに向けていくことが習い性になってしまっています。

幸せになりたい多くの人が、探し求める答えがどこか外部にあるのだと思い込んでいます。と言うか、ほとんどの人の心はまるで考えもなく無意識に外をほっつき歩いています。

これは精神性の高みを求める人にしたって十中八九は同じでしょう。

スピリチュアル界隈では探しているものが気付きや目覚めだと自覚している方は多いでしょうが、そんな精神的なものを知りたがっているにも関わらず、ほとんど全ての方が目や耳や形といった、感覚器官を用いて物質ベースで認識出来る方法で答えを探そうとしているのです。

しかし探究者が念頭に置くべきは、それら外部のものはこの自己が存在しなければ影も形もない、自己があってこそ認識が可能な二次的な副産物だということです。

「この世界が幻想だ」というスピ的格言には、僕の視点で言えば二つの意味・解釈があると思います。

一つ目は、「人間は対象物をあるがままに見てはいない」ということ。マインドに錯覚されて物事を見ているということ。分かり易い幻想です。

二つ目は、「極論を言えば存在しているのは自己のみなのだ」ということです。

自分や周りとして認識出来る存在は極論を言えば「自と他」ではなく、その全ては自己に内包された、大いなる我の景色の一つだということです。

完成されたヨーギーは「唯一を知るものは全てを知る」と語ります。

二つ目はもちろん解脱者しか知覚し得ない境地であって、僕が語るのは単なる知識というか直感、洞察の部類です。

ただいずれにせよ、前者の意味も後者の意味も、対象物(外部)を対象物として見ようとするのは誤りだということを示しています。

一つ目の意味の幻想は、「積み重なった観念というマインドを去り、捉われの無い分別で物事を見よう」という訳ですから、先ずは外部では無く、その観念の鎮座する自分自身をよくよく見つめなければなりません。内省が優先なのです。

二つ目の意味の幻想は、マインドそのものが消滅し、全ての生きとし生けるものが有する根源そのものへの知覚ですから、知覚の主体以外の「他」、「外部」が存在しない、唯一、大いなる我、宇宙即我といった具合で、対象物が自体が存在しません。

つまり、どちらにしても探究者にとって最優先課題であるのは、

否、唯一の探究すべきものは、「自己」しかないのです。

外部のあれやこれに、探している答えは一切無いのです。

この自分自身のマインドと、宿っている知覚力そのものが全ての鍵であり、探究者が持つべき唯一のテーマです。

僕はマインド(自我)と区別するためにその遠く背後から射し来る知覚の光源のことを「本質的自己」と呼んだりしますが、そのことを指して真我と呼んでも、プルシャと呼んでも、アートマンともブラフマンと、魂と呼んでも大きな違いはありません。

一閲覧者さんがこれらのことを念頭に置き、また僕がそうであるように同じくおぼろげに理解して頂くなら、もはやスピリチュアルの一切合切は不要だということを身を以ってご納得頂けるでしょう。

それらスピリチュアルというのは優先順位の何番目かではありません。

順位の外、探究不要、取り扱い不要なのです。

必要なものは全て一閲覧者さんが既に持っている訳ですから。


・・・・

という訳で、

質問を頂いておいて言うのもなんですが、

以前にも書きましたが、マインドから離れることに慣れてくると、やがて質問や疑問が自然に消滅する時が来ます。

もちろん今は出来る限りお答えはしたいし、するつもりですが、

ただとても重要なポイントとして、僕が言ったこと、書いたこと、答えたこと、

「それら全ては一閲覧者さんにとって外部のものだ」という点、...ここを絶対に外さないで頂きたいのです。そこに明確にプライオリティを持って下さい。

もし外部から知覚したものにヒントとなるようなものあったとしても、それは一閲覧者さん自身の魂の光があってこその反射光です。鏡の中に光を見たとて、鏡の中を追ってはいけない訳です。

意識を鏡の世界から自己へと戻さなくてはなりません。

また、たとえヒントだと強く感じても、それが捉われの無い分別できちんと理解しているのか、いやまだマインドに錯覚されているのか、という識別は実際大変難しいところです。

そこは本来的には教師の臨在が必要なところなのです。

僕は先日、他者の意見は他者の意見として、自分から離して認識しておく方が良いと述べました。

ありがたいことに一閲覧者さんは僕のコメントをまた改めて読んで下さると仰ってくれているのですが、

しかし僕の書いた事どもは、流し読み程度、「これは外部のもの」、「ただそういった見解」という形で止め置き、決してむやみに同化、賛同することなきようお願いを申し上げます。


以上、重ね重ねどうぞ宜しくお願い致します。<(_ _)>
 
 
 
スピ×お金 1 当たり前の道理 (サム)
2017-11-12 04:53:59

一閲覧者さんとの対話というこの良き機会に、スピリチュアルとお金のこと、その他の補足的なことなど、出来る限り掘り下げてみたいと思います。

また結構なボリュームになると思いますので、まとまったものから少しずつ投稿致します。

まずは黒斎さんの立場と一閲覧者さんの現在のお気持ちを基に、感じたこと・思うことを書かせて頂きます。

今回の投稿は特に悟り系のスピリチュアルに関することが主眼です。目覚め、気付き、真理、悟りなどのメッセンジャーとお金の関係性についての見解だとお考え下さい。


>雲黒斎さんは「お金とは、感謝と応援の表れ」「お話会は赤字が出てまでもやらない」「野菜という生命を育み商いをする農家、農業関係の方は何も言われないのに、なんでスピリチュアルでは文句を言われるのだろう」という趣旨の話をしていますが、私はこれに同意しております。

>スピリチュアルでお金を得て何が悪いんだ?という立場です。


(上記のことを黒斎さんが現在も変わりなく思っていらっしゃると仮定してお話を進めますが、)

これを見る限り、スピ×お金に関してやはり黒斎さんはかなり業者的な見解をお持ちなのだと感じました。なので行く行くは黒斎さんからも、ご自身がスピリチュアル業者で相違ないとコンセンサスが得られるかも分かりません。

先日までは、一閲覧者さんは僕の言う「スピ業者」という言葉にかなり侮蔑のような感情を重ねてご覧になっていたでしょうか?

僕はメッセンジャーと読者の関係性を業者と消費者に例えますが、その言葉のチョイス自体はかなり適切だと考えており、

「黒斎さんに置き土産」と題したコメントの最後、「では、スピ業者道の益々のご発展を。(_ _)」という一行に関しては、「ちょっと黒斎さんのエゴを突っついた」という意図があります。

なぜそのようにエゴを突っつくかと言えば、黒斎さん自身がそのエゴに気付かねばならないからです。

マインドの中で生じる自分という見解、それが自我でありエゴな訳ですが、その仮の自己認識から見る世界は幻想であり錯覚されたものです。

錯覚されたままに幻想ばかりを見ていると、ごく当たり前の道理でも見えなくなってしまうものです。

真理といい悟りといい、ごく単純な話、それらはお金で買えるものではありません。しかしメッセンジャーは対価を取ってそれを与えようとし、読者はその矛盾に気付かずにお金を払います。

つまり、価格設定されたスピリチュアルセミナーは意図してイミテーションを販売している詐欺か、または本人は真理のメッセージを伝えているつもりでも実は全然別なものを販売してしまっている催しです。

黒斎さん自身がエゴを観察するというベクトルを持っていないことが、自分から出てくる見解や自分が取っている行動に対して何の検証することもなく、上記のような当たり前の道理すら見えなくなっていることの原因です。

名指しでエゴを突っつかれると黒斎さんも内心「何なんだよ」となるでしょう。しかしそれが気付きの呼び水になります。

その感情自体が黒斎さん自身にエゴの場所を明らかにしてくれますし、「こいつはなぜそのように業者と消費者に例えるのか」と考えるきっかけになるかもしれません。

最低でも僕に対しての引っかかりにはなるでしょう。

農家さんの話ですが、黒斎さんはスピでお金を取ることに何もおかしな所は無いように感じていらっしゃるかも分かりませんが、より事実に近く例えるなら、黒斎さんは農家さん相手に「太陽の光」や「雨の恵み」に値段を付けて販売しているようなものなのです。真理を題材にして対価を取るとはそういうことです。

それがおかしなことだと気が付かない農家さんが何十人か何百人かいて、太陽の光や雨の恵みのありがたさを感謝し、応援の気持ちかどうか知りませんが結果として黒斎さんにお金を渡してくれていると言っているのです。

要するに、農家さんたちも人が善いので「ありがたい」で終わってしまって気が付いていないのです。

それに対して、自分のしていることがある種の詐欺的行為になっていることに黒斎さん自身も観察が効いていないのです。

黒斎さんもこの10年間、ほとんど自己観察が無かっただろうと思います。仕方の無いことですが消費者(読者の皆さん)に目が向いていて内省がほったらかしなのです。

メンター(教師)は本来、その観察を精密、正確に監督出来るからこそのメンターであり、その最も優れた適任者が悟りを開いた解脱者です。

今のご自身の考えを基に黒斎さんが“覚悟を決めて”スピリチュアル業者として邁進していくなら、それについては何も問題は無いと思います。

でも無自覚にそのスピ業者としての道を邁進するならそれは気の毒なことですし、また僕は黒斎さんに対して、「真理を騙ることにはしっぺ返しが生じる」と改めて申し上げます。

ですから、ぜひこの機会にその諸々の幻想に気が付いて頂きたいと思います。

それは同じ時代を生きる仲間への想いであって、また同じく真理に関心を寄せる同胞としての想いです。

別途、黒斎さんに内省をお勧めしたように、自己に目を向けて行けば自分のやっていることの矛盾に本人自身が一番気付いて、また後悔も出てくることと思います。

人に言われても中々分かりませんが、黒斎さんがベクトルを消費者(読者)ではなく自分に向けた時にそれが徐々に明らかになるでしょう。

 
 
 
スピ×お金 2 スピリチュアル業者とは (サム)
2017-11-12 04:57:11

前項の観点とはまた別に、「やっていることが業者と同じなんだから、普通にスピ業者と言って差し支えないだろう」という観点もあります。

ごくごくシンプルに言って、一方が対価を設定し一方がそれにお金を払っているのですから、黒斎さんはまごうこと無き「スピ業者」なのです。(※法律的な意味合いではありません)

もし仮に一閲覧者さんがスピ業者(道)という言葉をことさら卑下するような意味合いで捉えていたなら、その観念を取り除いて実態を見て頂けますか? 

黒斎さんは事実、スピリチュアルで飯を食っているのです。

出版業者、配送業者(←僕はこれです)、建築業者、飲食業者、金融業者、サービス業者。色々あります。そしてそれぞれに消費者が伴います。

一閲覧者さんが僕に対して書かれた言葉の中の「スピ業者“扱い”」とは、「そんな扱いをするな」という思いをお持ちだということの表れだと思いますが、

黒斎さんはむしろ、掛け持ちでスピをかじっているのでは無い、広告マンを脱サラしてスピリチュアル講演、著作、物販などで生計を立てている“純粋な”スピ業者です。

経済社会であり、生活がある訳ですから、精神世界のお話をするからってもちろん全部が精神論って訳には行きません。経済制度、貨幣制度自体を否定するのも愚かしいことでしょう。

しかしながら、明らかに黒斎さんはよく宣伝もしていますし正にブログはそのツールと化しています。一閲覧者さんが書いた黒斎さんの農家さんの例えもありますから、考え方としては業者として確立していると言って良いですね。

その軸足は明らかに真理探究者ではありません。重点が相当に業者に傾いています。

だから、あくまで現状において黒斎さんは、「スピリチュアルで生計を立てているスピリチュアル業に専従している人」なのです。

そしてその現在の職場において、過去の職歴や才能を如何なく発揮されているのだと感じられます。

そんな風なシンプルな見解があります。
 
 
 
スピ×お金 3 メッセンジャーの本懐 (サム)
2017-11-12 05:00:37

という訳ですが、

では他に何か観察すべきことがありますでしょうか。一閲覧者さんご自身は、

>スピリチュアルでお金を得て何が悪いんだ?という立場です。

と書かれていましたが、スピリチュアルと称して詐欺を行っている人についても、黒斎さんと同じく善良な農家さんたちから礼賛されても大丈夫でしょうか?

新興宗教の霊感商法についてはどうでしょうか? 

その他色々な精神世界の闇については如何ですか?

それらの確信犯的な詐欺師たちは、当然「スピリチュアルでお金を得て何が悪いんだ?」という立場でしょうけれど、黒斎さんは本当にそれら詐欺師たちと同じ土俵に立つ必要があるのでしょうか。

詐欺師たちを擁護してしまうような論理を敢えて自らに背負うことは、今後常に黒斎さんにつきまとう批判の種を自分が蒔いているということであり、それは自らにストレスを課している自縄自縛ではありませんか?

そしてその縄でいずれ自分の首を絞める結果となりませんでしょうか?

やろうとしていることは、全ての人の心の中に“元々”ある灯に、初めから備わっている真理の灯に、ただ明かりを点すだけのことではありませんか?

または黒斎さん自身も、スピリチュアルを詳らかに解明して自分自身すっきりしたいのが本望なのではありませんか?

…それとも、黒斎さんが本気の本気でこのままスピ業者道を邁進して行くだろうと思いますか?

これは黒斎さんご本人が自問自答していくしか無いことだろうと思います。

ゆえに僕にも一閲覧者さんにも黒斎さんの実際の心の内や今後のことは分かり兼ねることですね。


・・・

余談ですが、

現在において一つ、別に観察すべきことがあるように思います。

それは一閲覧者さんご自身のことなのですが、

それは、「黒斎さんへのお気持ちは分かりますが、一閲覧者さんは僕に対して、黒斎さんの代弁者であってはまずいのではないか」ということです。

なぜなら、(一閲覧者さんの敬愛のお気持ちは重々に感じるのですが、)

黒斎さんとコンセンサスを得ないままの勝手な黒斎さんの代弁者である場合、往々にしてその気持ちと行いは宗教への一途な信奉者に見られるそれと同質のものがあるだろう、

というまた大きな観察のテーマが横たわっているからです。

なぜお気持ちが分かると書くかと言えば、僕自身がかつて人を崇拝した過去があり、またそれを脱却してきた過去があるからです。

このことについてはまた改めてのお話と致しましょう。


スピ×お金の続きはまた次回に。どうぞ宜しくお願いします。<(_ _)>
 
 
 
スピ×お金 4 伝道者と販売者 (サム)
2017-11-13 04:30:42

メッセンジャーというものが表す意味は多様ではありましょうが、真理、悟り、目覚め、気付きに主眼を置くならば、その分野のメッセンジャーの役割は昔からある言葉で言えば「伝道者」ということに当たるのだと思います。

「メッセンジャーの本懐は、元々人の中に備わっている真理の灯に明かりを点すことだ」という視点を僕は持っている訳ですが、彼らが伝道者と呼ばれた時代、悟りのお話をした際に対価として金銭を要求するという思想は彼らの中には皆無であっただろうと推測します。

皆無どころか、それがキリスト者だったなら、その身一つで未開の土地に参じ、キリストの教えを伝えるためなら命までも懸ける覚悟であったと思う訳です。

「私は主の御言葉を宣べ伝えるのだ。たとえこの道の果てに磔に掛ったとて何のことがあろうか。主がそのように為されたのならそれが私の本望である。」と、そのような覚悟と情熱が彼らの胸に秘められていただろうと思います。

現代では現代なりに、もっと新しい伝え方というものが出て来て当然なことではあるのですが、それにしても近年はスピリチュアル関連のイベントが馴染みのものになってきて、それこそライブやタレント興行のようにエンターテイメント化しておりますね。(笑)

そんな時僕はふと思うのです。今の世を賑わすメッセンジャーが例えばキリストの時代、仏陀の時代、あるいは老子の時代にいたならば、彼ら現代のメッセンジャーは果たしてどうするだろうか?と。

例えば身近な所に老子がいたなら、あるいは隣の村ででも老子が道を説いていたなら、黒斎さんはそれでも老子の言葉を題材にして有料の集まりを開いたり、老子の言葉を集めてきてそれに自分の訳で色付けして人に販売したりするのだろうかと。

例えば仏陀が托鉢の道先で人を悟らしめていた時、その内容を知った現代のメッセンジャーたちは、仏陀が去った後に人を集めて、お金を取って仏陀の言葉を聞かせるのでしょうか。

まあこればかりは本人にその気持ちを聞いてみなければ分かりませんが、もし万が一上記のことが出来たならそれは筋金入りのスピ業者だと言えるのかもしれません。

一方、もしそれが出来ないのなら、では一体なぜ現代なら同じことが出来るのか?というテーマが生まれますね。

仏陀も老子もとっくに死んでしまって居ないから?

当時は当時、現代は現代、昔の話なんて知らないよ、って?

メッセンジャーの皆さんはよく「時間というのは幻想だ」なんて言う訳ですが、時間が幻想という意味の実際はどうかは別にして、そもそも真理は時代を超えて輝く普遍的な真実です。

仏陀が解脱を果たし真理を説いたなら、仏陀の御心は時代を超えて我らと共にあるのです。もしメッセンジャーが真実の悟りを宣べ伝えるなら、その横には仏陀の眼差しがおわすのです。

それとも単純に、今までそんなこと考えたことも無かった?

まあもし考えたことが無かったなら、せっかくですからこの機会に考えてみては如何でしょうか。

仏陀や老子が悟りを説き、人に道を説いていた時、地域を超えてその教えを宣べ伝えたのが弟子たち伝道者です。

老子にはあまり多くの弟子がいなかったのかも知れませんが、現代にも老子は高名な方としてその名が広く伝わっているので、やはり当時から絶えることなく伝道者たちの想いが連綿と続いてきたのだろうと思います。

そんな当時、行った先々で師の教えを基に衆生から金銭を要求した弟子がいたら、それは「私は仏陀の弟子だ、私は悟りを知っている」と偽った詐欺師でしょう。

または、それはそれで伝道者でもボランティアでも無いと自覚する、割り切った業者です。

その場合、本人がそうだと自覚して商売でやっているのだから、立場的には今の出版業者、流通業者と同じようなものでしょう。むしろ出版・流通を仕事としてプロ意識を持って頑張ってもらった方が、教えが広まっていいのかもしれませんね。

研究や学術的な意味で世に出る出版物は別にして、本人がメッセンジャーだという立場を明確に否定するでもなく何となくそんな肩書をまといながら、しかし仏陀や老子の思想に自分の訳を付けて宣伝して売っている方々は、

身近にもし仏陀や老子がいらっしゃったなら自分のことをどのようにご説明なさるのでしょうか?

メッセンジャーによってその考えが違うと思います。僕はマントラを発売している阿部さんはやっぱり仏陀の居ないところを狙って訪ねて売るだろうと思いますし、逆に黒斎さんはスピ業者を止めるだろうと思います。

何故かと言うと、興行師の阿部さんとクリエイターの黒斎さんは、阿部さんが黒斎さんをスピ業者の世界に引っ張り込んだという面が結構強いのかなと思っているのです。

元々は「あの世に聞いた~」本の出版から端を発したお話だとは思いますが、ただ興行の世界を用意し道を開いてくれた阿部さんに対し、クリエイター気質の黒斎さんは、新しい創作の場を与えてもらったという恩義を今でも感じているのではないかと。

黒斎さんは本来的になりたくて業者化したはずではなくて、阿部さんとジョイントしたことで無自覚にここまで来てしまっただろうと思うのです。

そんな風に僕は受け取っているので、さすがに老子が近くにいらっしゃれば、その目を盗んで隣町で訳本を売っていくだけの度胸は無いだろうと。

一閲覧者さん、僕はそんな勝手な見方を持っている訳ですが、(決めつけてはいませんので怒らないで下さいね。^^;)

もし黒斎さんのお話し会に行く事があったら、良かったら裏でこっそり聞いてみて下さいますか。(笑)

黒斎さんは今、老子道徳経の訳本の重版がなるかどうか気を揉んでらっしゃるようなので、丁度こうした話題にも無関心ではないだろうと思いますので。^^
 
 
 
スピ×お金 5 お金に対する観念 (サム)
2017-11-13 04:49:14

今、ごく一般的な個人が自分のことを全世界に向けて発信出来るSNSが普及している時代ですので、覚者の言葉がこれほど無料で人々に浸透させることが可能な時代はかつて無かっただろうと思っています。

またすでに実際に多くの方がYoutubeなどでたくさんのメンター達の姿に触れているだろうと思いますしね。(動画の元の講演が有料かも分かりませんが。笑)

ですから、実際に無料で深いお話が色々聞けるのに何故さらにメッセンジャーの講演会のリピートをする人が居るかと言えば、

その大きな理由の一つは、「メッセンジャー側が無料のシーンでは言わないこと・書かないことを、有料の場を設定してそこだけで講演するから」だろうと僕は見ます。

黒斎さんが書かれていた感謝・応援の気持ちもお金を出す理由としてあるとは思いますが、全部無料のネット中継や録画放送でやったら多くの方は自宅で視聴するでしょう。

その無料の有り難みをしっかり享受した上で、応援の気持ちを算段するだろうと思ったりします。

(もちろんその場の楽しさがありますから、公開収録があればファンの方はたくさん行かれると思います。)

しかし、最初から有料という事はその応援にも価格が設定されているという事なので、結局お金自体をどうするかはスピ業者側が全部決めているのです。

主導権を持っているのは業者側であって、消費者、ファンはそれに従うのみです。または業者の決定を支持したり、その決定理由を自分としても受け入れて飲み込むだけです。

ここで肝心なのは、

改めて観察すべきは、「スピ×お金」に関して本当に決定的な観念を抱いているのは誰か? という事です。

再度記述しますが、決定しているのは誰でしょう。値付けをしているのは誰でしょう。

それは業者側です。特殊な場合を除き、消費者は最終的な判断する権利、決定する権利がありません。

よく「お金を問題にしてスピ批判をするのは的外れだ、それはお金に関して余計な観念を持っているだけだ」という議論があると思うのですが、

各スピ業者の値段設定を見て下さい。それぞれ異なります。自分の話す内容、ブランド力、来てくれる人の反応、その他諸々勘案していることでしょう。一番それら料金のことを気にしているのは本人たちなのです。あるいは運営スタッフ、または取り巻きを含めた方々です。

例えば、極論を言えば自分のメッセージが真実の悟りそのものだと本当に自分自身が確信しているなら、講演会に100万円でも200万円でも、もっと高額でも自信を持って設定したら良いのです。

仏陀が悟りを説けば、長者が財産を全て投げ打ってでも布施を行い、修行者たちの為に精舎を立てたでしょう。

無一文の人であれ、ただ唯一の所持品である自分の衣服を修行者の為に差し出したかも分かりません。

自分のメッセージが真実だ、真実だと阿部さんのように毎度語るなら、長者の財産分に相当するぐらいの高額でも、堂々と寄進を呼びかければいいじゃありませんか。それで衆生が確実に救われるなら。

しかしそのような大胆な訴えをするメッセンジャーは居りませんね。ソフト路線のメッセンジャーは新興宗教の教祖たちほどの度胸はありません。

何故でしょうか?

なぜ賑やかにイベントを行うメッセンジャーの皆さんたちは、料金を手頃な価格帯にし、あるいは黒斎さんのようにもっと良心的な価格設定にし、消費者の懐具合を忖度したりするのですか?

さて一体全体、誰が本当にお金についての観念を一番抱いているのでしょうか?

メッセンジャーの皆さんは、自分の言葉が真実だと思っているなら、なぜその料金設定の枠に自ら収まっているのですか?

逆に、粗末な托鉢者のままに道を求めたとて、それが仏陀なら自身は托鉢者のままなのに村に立派な精舎が立つのです。

だから僕は言うのです。

価格設定した講演などは消費者に対する依存であり、探究者としては逆のベクトルにあるマインドなんだと。

メッセンジャー本人がそのマインドに束縛されているのに、一体どうして聴衆の心を真実に開放することが叶うのか、と。

メッセンジャーが自らが読者との需給関係という足かせを築き上げ、彼らに依存して一体何をどうしていくのか、と。

歴史上において真理へのアプローチを決意した者たちは、出家するなり遊行へと赴くなり、皆それぞれしがらみを断って全てを放棄して真理探究に人生を捧げたのは皆さまがご存じの通り。

その決意と行いを心から尊び、それを何とか支えたいという衆生の想いが、托鉢の供物や修行場の整備として捧げられたのでしょう。

現代においてそれと全く同じであれとは言いませんが、新しい風として真理を伝えるメッセンジャーなら、自ら価格設定してイベントを開催したりせず、

逆に葬式仏教・セレモニー仏教と化し、教えが廃れてしまった現代のマインド仏教に、そもそもの原点を教える存在であっても良いのでは?という風に思います。

スピでお金を得ることが嬉しい人たちの中に、そんな僧侶業界もありますのでね。

その僧侶業界のマインドをぶっ壊して解体するのではなく、新しいマインドにリニューアルしてどうするのかと。(笑)

しかも僧侶とつるんでまた客から金を取るなら、リフォームしてマインドの看板を掛けかえただけじゃないかって。^^
 
 
 
スピ×お金 6 スピ業者が販売しているもの (サム)
2017-11-13 05:07:20

ついでに触れると、

黒斎さんは今でも無料ブログだけでやっていれば、読者に早くブログ更新しろとか、あれを教えろとかこれを説明しろとか消費者目線で言われなくて済むでしょう。^^;

何でメッセンジャーがそんなこと言われる必要があるのでしょうか。

むしろ、「お仕事もお忙しいのに、時間を割いて週一回でもブログ更新して下さって本当にありがとうございます」なんて涙されたかも分かりません。

業者だから消費者に突き上げられるんです。

それら読者が起こした諸々の想念は、自分が単なる個人ならスルーすればいいのですが、料金設定してお金を振り込んでもらってる業者なら当然背負っていなかくてはならない羽目になる訳です。自業自得と言いますか。

販売しているものが本当に価値あるものであるのか、または価格に見合ったものであるのか、販売者には責任がついて回るのです。それを購入した消費者が存在する限り。

しかしまあ...当たり前のことが見えなくなっているとは言え、一体全体、なぜ巷で賑わうメッセンジャーたちは悟りや非二元なんてものを題材にして業(ぎょう)を営むのでしょうか。

「言葉で言えない、説明出来ない」と一方で言いつつ、なぜそれの講演に対価を設定して受け取ることには躊躇が無いのでしょうか。(笑)

他の業界でそんなことは起こり得るでしょうか。 

「この商品は見えません。説明も出来ません。ですが今回は三千円です。」と。

しかしそれを買うお客さんが居るのですから、その対面販売は何とも不思議な情景ですね。

これらの状況を僕なりに観察するなら、

お客さんにも少なからず自覚はあると思いますが、それは「黒斎さんとの時間」を購入し参加しているのだろうという事です。

最初の投稿にも書きましたが、真理は買えもしないし対価を代償にしたサービスでも無い訳です。

だから僕は、「メッセンジャーの講演はAKBと似たようなもんで、会いに行ける偶像(アイドル)とのイベントなのだ。おっさん相手だけど。」と何度か書いても来ました。

先ほどは真実の悟りなら100万円でも200万円でもいいではないかと書きましたが、繰り返しになりますが実際には衆生が覚者や修行者に寄進するのは対価ではありません。それは言わずもがなですね。

彼らが行うのは心からのお布施であり、喜捨です。その悟りの功徳に衆生の側もやはり自らを投げ打つのです。

ですからスピ業者が自ら対価を設定して取るお金は「自分と過ごす時間」や「イベント企画」に対する価格です。真理は買えないのですから。

しかし、注意すべきはもしそれがお客さんにとって「真理を悟りたい、垣間見たい」と思って購入した気持ちがあるなら、「それは違います。僕との時間やイベントチケットを買ってもらっただけです。」とちゃんと説明してあげなくてはいけません。

その説明が無ければ、法律はどうか分かりませんが実質的に、「真理をその一端でも良いから感得したい」と思っている消費者に対する詐欺に値すると言っても過言では無いでしょう。

なぜなら広告で真理や悟りや非二元を掲載して集客をしているのですから。

しかし実態としては、現代のメッセンジャーの講演というのは、諸々のマインドに束縛された彼らから、「彼らなりのそれぞれのマインドの束縛のされ方」を獲得する催しに他なりません。

それについては各メッセンジャーのオリジナリティですから、対価を取ってしかるべきなのかもしれません。(笑)

僕はそこに何の価値も見出しませんが。^^


ということで、もう少し続きますがまた明日か明後日に。
どうぞ宜しくお願いします。<(_ _)>
 
 
 
話の腰を折るような書き込みで恐縮ですが (一閲覧者)
2017-11-13 14:14:15
「スピ×お金」の1〜6までを読まさせて頂きました。

内容は、実質雲黒斎さん向けたコメントになっていると思いますが、私のここまでの感想ですが、やはりこれは探究者、精神世界側から見たお金の解釈、説明ではなく、配送業者に携わると仰るサムさん個人の金銭感覚、現代の資本主義での経済観念に沿った一商売論に私には見えました。

だからそれは間違っているでは決してなく、1〜6までをサムさん個人の「お金、商売に対する哲学」として、読まさせて頂きました。

サムさん個人がお持ちの「哲学」として考えますと、1〜6の話は仰る通りだと思いますし、私が否定するような箇所は一つもありませんし、その権利もありません。

ただ、もう一度同じ問い掛け、疑問になってしまいますが、まず、ここまで語られた大前提にあろう「真理を商売にしてはいけない」が、どうしてもやはり私には今ひとつ理解が出来ません。

私とすればそれこそ、スピリチュアル、精神世界的表現を許されるとすれば、

「幻想でしかないこの世の現れとして雲黒斎さんがいる、サムさんがいる、私がいる、世界に70億人の人々がいる、ただしそれはただの現れ、ワンネスが分離した現れ、起こることが起きているだけ。

私達に出来ることは起きているそれを、コントロールできないそれを、ただ観察、観照するだけ、なぜなら個人はいないワンネスなのだから」等になるかと(もっとうまいスピ的世界観の描写はあると思いますが)。

この延長で考えるとお金をどのような方法で稼ごうと、それすらただの「現れ」であると説明された方が私としては腑に落ちるというか。

それが覚者であろうと真理を教える詐欺師であろうと、どんな稼ぎ方であっても「それは単なる現れなんだよ」と説明された方が真理を感じられるというか。

または、お金はエネルギー、循環するもの、感謝、応援の形、または、豊かさはお金の形でやってくることもあれば、本当の豊かさがあれば必ずしもお金という形でやってくることは限らない・・・等々の「抽象的」な話につながってもいいのかなと思うのですが、どうしてもことさらお金だけは「具体的」「批評的」つまり「言葉による結論付け」が出来るのかが不思議でならないと。

スピリチュアル全般が徹底して抽象的に、それこそお花畑感覚で語られているのに、お金に関する説明だけなぜそれが許されず、そんな稼ぎ方は間違っているという価値判断が出てくるのかなと。

また、農業の例えのお話の続きになりますが、太陽の恵みに値段をつけるのではなく、太陽光を生かした太陽光発電として電気を供給して値段をつける、または、雨水をろ過して飲み水にできる装置を製品として売ることが許されるとしたら、真理を、それを指し示す言葉として発表、伝達することをお金に変えて何が問題があるのか?と私は考えます。

真理をお金にしてはいけないという前提は、サムさん個人のお金に対する価値観をそのまま載っけてご説明されているだけに、やはりどうしても私には見えてしまいます。

そして、「詐欺の片棒を担ぐのは気の毒に思う」という表現も非常に引っかかりました。

私の中の詐欺の定義は不安を煽り、それを解決するために金銭を要求するという、お金の為に人を騙す行為をすることを指すと考えておりますが、私の中では雲黒斎さんも阿部敏郎さんもそれには当てはまらないと考えます。

それぞれの一瞥前の職業、技能を生かしてメッセージを発するメッセンジャーであり、お二人とも会社の代表者でもあるので、公の場で業者か否かと問われれば業者ですと答えるだろうなと。

それは芸能人が職業を名乗るときに、俳優、アイドルではなく芸能事務所と契約した個人事業主ですよね?と聞かれればハイそうですと答えるのと同じ話かと。

ただ、「スピ業者」という言葉に関するご説明は、辞書通りの言葉の意味と使用者の意図によって意味がそれぞれ異なる言葉、単語の組み合わせであることには変わりはないはずで、それを「揶揄した言葉に聞こえたなら観念のせいだ」とする言い方をされるのは、ダブルスタンダードではないのかなと私は思いました。


あと、今回はスピとお金の関係を質問させて頂いたのですが、もう一つ「スピと性」に関しても私個人としては思うところがあります。

私の中では、お金と性は結構密接な関係というか、似てるというか、つながる話だと思っているのですが、よく雲黒斎さんを否定するときに、「この覚者はAVを読者プレゼントする、下ネタを口にする、だから悟ってない」みたいな言い方があって、それが本当不思議だなあと。

私なんかは「面白いな、この人(笑)」で終わる話ですが、だから悟ってないっていう方は、ただご自分に刷り込まれた倫理観、貞操観念に基づいて下品にみえるという感想を述べているだけで、それと悟り、気付き、覚醒とは関係ないのでは?と感じます。

そして、お金と同様、性、異性の話になると途端に、それまでの精神世界の話は何処へやらという勢いで個人的と思われる反応を見せる方が多いだけに、この2つのテーマを持ち出すことで、その方が語る精神世界の信ぴょう性を結果知ることができ、またその方自身が悟りを説きながらも、同時にまだまだ観念に覆われているであろう姿が露呈してしまうのも、このお金と性に関する話なのではないかと最近は考えております。

というわけでお話の途中での返信で恐縮でしたが、私からは以上です。続きをお待ちしております。
 
 
 
スピ×お金の話はちょっと中断しまして、 (サム)
2017-11-14 06:41:27

話の腰を折ったなどとんでもない。むしろ核心に向かっているんですよ。こちらとしては素晴らしいことだと、けっこう興奮気味です。(笑)

「自分の視点をクリアにすること」「アウトプットしてみる」とお薦めしましたが、今回の投稿に一閲覧者さんが持つ世界観の核というか、大きな柱が可視化されているじゃないですか。

今回僕が初めて知ったのは、阿部さんの言う「起きることが起きているだけ」といった、阿部さん流・非二元論が一閲覧者さんの物事を見る視座の中心を為していたのか、ということでした。

Unknownさんとしての投稿は混乱して中々読み込めないので、もしかして過去に一閲覧者さんがそうして自分の価値観を投稿されていたのならすみません。ちょっと読めていません。

なので初めて知ったのですが、実際のところスピ×お金の話は枝葉と言いますか、僕の論ずることは一閲覧者さんにとってどうでもいい外側のお話で、前に最優先課題と申し上げた通り、

今回ご自身で可視化されたもの、それらを深く観察していくこと、一閲覧者さん自身についてのみ目を向けていくこと、それが何より重要、というかそれのみが重要だと改めてお伝えする次第です。

加えて、スピ×お金の投稿の中で少しだけ触れましたが、

僕が黒斎さんや阿部さんに対してあれこれ言うと発動する、一閲覧者さんの中のスイッチがありますね?

両者を敬愛されているかとは思うのですが、探究者はそれを乗り越えて行かなければ探究のスタートに立てないのだと僕はお伝えせねばなりません。

改めてその外部の敬愛対象について、ご自身の心の傾向性に目を向けていくこの上ない機会が訪れたと思います。

なぜ黒斎さんの防御のために一閲覧者さんが立ち上がるのか。

なぜ宙さんをこの場から除外するべくコメントの応酬を続けたのか。

それから推測するにはやはりかなり敬愛を超えて、黒斎さんや阿部さんに対して心酔しているところがあるのでしょうか?

実際のお気持ちが分からないので差し支え無ければ教えて頂きたいのですが、

黒斎さんや阿部さんに対しての心酔度合いというのは、0から10までの10段階として、数値で表すならどのぐらいの感覚ですか?

僕は過去に10段階中、マックスの10の心酔、妄信から脱却してきた過去を持ちます。

黒斎さんや阿部さんについてあれこれ言う僕に引っ掛かり感じてスイッチが入ること、

黒斎さんのホームでスピリチュアルにあれこれ疑問を呈する宙さんと色々な応酬があったこと、

それは黒斎さんを握りしめているがゆえの結果なら、臨済禅師が逢仏殺仏と言って教えたこととは反対の行動だとお分かりかと思います。

ということで、

全ての焦点は一閲覧者さんが自分の心の動きを観察するかどうか。

一つには黒斎さん、阿部さんのへの敬愛、心酔度合い。

二つには、阿部さん流・非二元論への傾倒。

それらへの自己観察がとても重要だと思う次第です。

ちなみに先走って書かせて頂きますと、阿部さんが言っている「起きることが起きているだけ」という言葉は、阿部さんへの観念を取り去った時にその実態がはっきりと分かると思います。

それが阿部さんの頭の中だけにあった思考であり、そして一閲覧者さんの思考にだけ存在した、事実でも何でもない幻想だったということが。

自分のマインド、心の振り子が静止した時、思考が止まった時、「起きることが起きているだけ」なんていう想像の世界は存在していません。

いまここも、時間は幻想も、わたしはいないも、そんな想像の産物は全て存在していません。

それが存在しているのはそれを説くメッセンジャーの思考の中と、それを聞く聴衆の思考の中だけなんです。

阿部さんはそのマインドを脱却していないので10年もブログを続けていられるんです。

本当にマインドから去ったなら、毎日毎日あんな言葉は出て来ないです。

僕はかつて10年間、心を閉ざしたのですから。

起きることが起きているのじゃなくて、誰の目にも明らかな阿部さんいう自我・個性がバッチリと思考し、思考したことを行動し、行動したその結果起きる因果を絶えず本人が享受しているのです。

その因果律がはっきりと存在しているからこそ、僕たちは朝目が覚めた時にまた僕たちであり、そして朝日が昇り、こうして昨日の続きのコメントを書いている訳です。今まだ暗いですが。(笑)

一閲覧者さんが今後その阿部マインドを脱却し、阿部さん流・非二元論から自由になれるかどうかは今は分かりません。

また自由になどなりたくない、もしかしたらずっと阿部さんと共に歩んで行きたいかも分かりませんが、

少なくともそれを自分の中で見つめる自己観察は誰にとっても最良のカルマとなりますから、今回、一閲覧者さんが自分の視点を可視化されたことは本当に良かったと思います。


あと、別件でちょっと気になることがあるのですが、unknownさんにコメントをみると吐き気がするとかテロ行為だと書かれていたunknownさんは一閲覧者さんとは無関係ですか?

別の記事でモッキンバードさんという方がバッチコイさんの投稿をきっかけにコメント欄が狂って見えると吐露されていたのもあって、

心酔がたたって、意見の違い過ぎる人と接すると体を壊すことがあるので、もし僕があまり黒斎さんや阿部さんにあれこれ言い過ぎると、もしかして一閲覧者さんに酷になるかなと、若干懸念しています。

僕も色々経験しているので、差支えなければ教えて頂けますか?

どうぞ宜しくお願いします。<(_ _)>
 
 
 
サムさん 1/2 (一閲覧者)
2017-11-14 17:44:33
>今回僕が初めて知ったのは、阿部さんの言う「起きることが起きているだけ」といった、阿部さん流・非二元論が一閲覧者さんの物事を見る視座の中心を為していたのか、ということでした。

>僕が黒斎さんや阿部さんに対してあれこれ言うと発動する、一閲覧者さんの中のスイッチがありますね?

>両者を敬愛されているかとは思うのですが、探究者はそれを乗り越えて行かなければ探究のスタートに立てないのだと僕はお伝えせねばなりません。

>改めてその外部の敬愛対象について、ご自身の心の傾向性に目を向けていくこの上ない機会が訪れたと思います。

>なぜ黒斎さんの防御のために一閲覧者さんが立ち上がるのか。


阿部さんに関しては、サムさんが仰る「スピリチュアルの業者の方」という言葉が当てはまる方、覚者という以上にイベント開催者、スピリチュアル・プロデューサーという呼び名に限りなく近い方だとは思っております(だから悪いという意味ではなく)。

阿部さんのブログはほとんど読んだことがなく、数回読んだ時には、そのブログの言葉はご自身の一瞥を元に学ばれた知識を元に言説を展開されていらっしゃると感想を持ち、各他の覚者に理解を持つスピリチュアル系のプロデューサーとして手腕を発揮されている方という認識はあります。そして、やはりそのような方がノンデュアリティ等で商売、講演活動をされようが構わないのではないかと改めて思います。

雲黒斎さんに関しては、「愛読」等の言葉がサムさんの誤解を招いてしまったとは思いますが、崇拝まではいかない、私の頭の理解を超えた覚者としての羨望感は正直申せばあり、ご本人が仰る「ギフト」という形で一瞥を得て今に至る姿は、羨ましいなと思う気持ちはあります。

ブログに関してはここ2〜3年、目にするようになり、その文体から伝わる人柄には大変好感を持っていることは事実です。決して居丈高ではない気さくな覚者、商売っ気がない方だなあとは感じております。


>それから推測するにはやはりかなり敬愛を超えて、黒斎さんや阿部さんに対して心酔しているところがあるのでしょうか?

>実際のお気持ちが分からないので差し支え無ければ教えて頂きたいのですが、

>黒斎さんや阿部さんに対しての心酔度合いというのは、0から10までの10段階として、数値で表すならどのぐらいの感覚ですか?


ですので、阿部さんに関しては私が心酔しているか、していないかを申せば、心酔「0」であり、雲黒斎さんに関しては上記のような感想を書きましたがマックスではなく「5」くらいだと自分では思っております。

残りは全て疑いです。言葉を鵜呑みにせず、自分で日常で試して真偽を図ると言いますか。


>僕は過去に10段階中、マックスの10の心酔、妄信から脱却してきた過去を持ちます。


私は、サムさんのこの率直に包み隠さずご自身のことをお話しをされたので、今こうやって私も心を開いて回答させて頂いております。

改めてお礼を申し上げます。


>黒斎さんや阿部さんについてあれこれ言う僕に引っ掛かり感じてスイッチが入ること、

>黒斎さんのホームでスピリチュアルにあれこれ疑問を呈する宙さんと色々な応酬があったこと、

>それは黒斎さんを握りしめているがゆえの結果なら、臨済禅師が逢仏殺仏と言って教えたこととは反対の行動だとお分かりかと思います。


ただし、これは私なりの自己分析になりますが、私が元々「判官贔屓」な気質があり、カッコつけて聞こえるかもしれませんが、一方的に責められている方を助けたいという心情は、常に持っております。

つまり、雲黒斎さんであろうと阿部さんであろうとサムさんであろうとどなたであろうと、誤解を受けている(ように見える)、反論を一切しない方に一方的に匿名で身バレしないことをいいことにものを申す人間に対しては、強く反発心が湧くタチかと思います。

ですので、私が心酔している人間が叩かれているから代わりに応戦しているではなく心酔度0の阿部さん、心酔しきっていない雲黒斎さんへの書き込みに私が反応するのは、この方達の為、自己投影先が貶されたからというよりも、私の信条に反することをしていたからとなるかと思っております。

その信条とは、顔出し、阿部さんに関しては実名を出している方だと思いますが、そういう方が公開しているブログに対し、身バレの一切ない身分の方が、好き放題書く行為がフェアではない、むしろ卑怯だよなという思いが働いてのことです。

ですので、ある意味ファン心理が働いて崇拝対象を守ろうとする信奉者よりもタチが悪いと思います。自分の信条の為という、自分の為に勝手に身代わりになっているという、自分に心酔しているだけの話でしょうから。

だから、サムさんに対しても一転して「失望した」という言葉を平気で使ってしまうという(改めて失礼致しました)。


>ということで、
>全ての焦点は一閲覧者さんが自分の心の動きを観察するかどうか。
>一つには黒斎さん、阿部さんのへの敬愛、心酔度合い。
>二つには、阿部さん流・非二元論への傾倒。
>それらへの自己観察がとても重要だと思う次第です。


ですので、雲黒斎さんは上記で心酔5、気になる方、人柄は好感が持てる方とは申し上げましたが、だから私がサムさんに反論した、ではないとご理解頂ければと思います。

逆にサムさんが実名で顔出ししてブログを運営され、それに対し雲黒斎さんが匿名で批判めいたコメントをしそれ目にしていたら、私は今度は雲黒斎さんだろうと誰であろうと反論コメントをする信条を持つ「一閲覧者」だというふうにご理解下さい(と、ここまで自分で書きながら気が付きましたが、私のスタンスが一番タチが悪いかもしれませんね。なんやかんや自分も匿名をいいことに気楽に野次馬的に絡んでいることには変わりはないという点で)。
 
 
 
サムさん 2/2 (一閲覧者)
2017-11-14 17:48:41
>ちなみに先走って書かせて頂きますと、阿部さんが言っている「起きることが起きているだけ」という言葉は、阿部さんへの観念を取り去った時にその実態がはっきりと分かると思います。
>それが阿部さんの頭の中だけにあった思考であり、そして一閲覧者さんの思考にだけ存在した、事実でも何でもない幻想だったということが。
>自分のマインド、心の振り子が静止した時、思考が止まった時、「起きることが起きているだけ」なんていう想像の世界は存在していません。
>いまここも、時間は幻想も、わたしはいないも、そんな想像の産物は全て存在していません。
>それが存在しているのはそれを説くメッセンジャーの思考の中と、それを聞く聴衆の思考の中だけなんです。
>阿部さんはそのマインドを脱却していないので10年もブログを続けていられるんです。
>本当にマインドから去ったなら、毎日毎日あんな言葉は出て来ないです。


私が現在気になっている方は、

ラメッシ・バルセカール(ラマナ・マハリシ、ニサルガダッタ・マハラジという方のお弟子さん)
トニー・パーソンズ(欧米系の非二元の方)
じゅんころさん

であり、私が非二元の分野をウロチョロしているのは仰る通りかと思います(これらの方々が、日本国内で活動されている著名な非二元系の方と一緒にして良いのか、私もまだよく理解しておりませんが)。

中でも、特に気になっている方が最後に挙げた日本人女性の「じゅんころ」さんという方です。

話が逸れ続けて恐縮ですが、サムさんには是非この「じゅんころ」さんという方の真偽と言いますか、どのように思われるのかお聞きしたいと実は常々思っておりました。

「じゅんころ」で検索するとトップにこの方の動画がヒットしますが、是非お時間がある時で良いのでその動画をご覧になって頂ければと。

溝口あやかさんという非二元の方も後半出演されている3時間はある動画ですが、最初の20〜30分だけでもこの方の仰る話をお聞きして頂きたいと考えます。

※ご覧になって頂けるとして、ご覧になる前に先入観を持たせるようなコメントは避けたいのですが、この動画のタイトルに「ノンデュアリティ」とはありますが、ご本人も否定する箇所があったはずですが、私はノンデュアリティとは似て非なる別の状態に当たる方かなと思っております。


>僕はかつて10年間、心を閉ざしたのですから。
>起きることが起きているのじゃなくて、誰の目にも明らかな阿部さんいう自我・個性がバッチリと思考し、思考したことを行動し、行動したその結果起きる因果を絶えず本人が享受しているのです。
>その因果律がはっきりと存在しているからこそ、僕たちは朝目が覚めた時にまた僕たちであり、そして朝日が昇り、こうして昨日の続きのコメントを書いている訳です。今まだ暗いですが。(笑)
>一閲覧者さんが今後その阿部マインドを脱却し、阿部さん流・非二元論から自由になれるかどうかは今は分かりません。
>また自由になどなりたくない、もしかしたらずっと阿部さんと共に歩んで行きたいかも分かりませんが、
>少なくともそれを自分の中で見つめる自己観察は誰にとっても最良のカルマとなりますから、今回、一閲覧者さんが自分の視点を可視化されたことは本当に良かったと思います。


私としては、現在は非二元系周りにいながらも、日本国内で有名な非二元の方全般に関しては「何らかの理由で自我が抜け落ちただけの方」というのが結論で、それ以上でもそれ以下でもないというのが正直な感想です。確かに、自我が抜け落ちたら、分離に非ず、二元に非ず、自分の苦しみも自分もなければ人ごとのように思えるだろうなと。

そしてそれは、悟り、一瞥とはまた別物のことだろうなという認識です。

私も今思えばの話ですが、アスリート、演劇界の方が時々口にする「ゾーン」という体験、一瞥を指すと思われる経験をしたことがあります。

いわゆる、無我夢中で何かに没頭した、集中して作業して気付いたら何時間も経っていた、またはいわゆるランナーズハイになったというそれらの状態とは異なる、先日雲黒斎さんもラジオで表現されていたのですが、交感神経と副交感神経が同時に刺激されていたとしか思えない状態(いわゆる静かに集中しながらもハイになっている状態)を大昔にしており、その経験が一瞥だったのかなと。

ただ、それを再度味わう為に探求をしているのではなく、根本はなぜ生きているのか、もしくはいずれ死ぬのになぜ様々な経験、望みもしない理不尽とも言える経験をしなくてはいけないのか、その理由ぐらいは理解したいというのが大元にあります。もう少し申せば、もうかなり月日が経っているのに、毎日毎日昨日のことのように頭をよぎる、思い出したくない過去との決別はどうすれば果たせるのかという思いも強くあります。

実は私は、引き寄せ、自己実現、プラス思考、アファメーション、ホオポノポノという言葉に長くハマっていた時期があって、最近になってようやくこれらが無駄だと気付いたばかりです。

正確には、上記の全てがめんどくさいなと。

確かに、自分でも驚くぐらいその成果はありました。引き寄せ的な効果は自他共に認めるしかないくらいにです。

だけど、いちいち幸せになる為に、望みを叶える為に、思ってもいない「ありがとう」を何百回もつぶやけだの、成功者になったつもりで、憧れの人をイメージングするなどして生活をするだのが、だんだんと煩わしくなっていきました。いくら願望が叶ってみせてもです。

そしてだんだんそれらの日課めいた、幸せになる為の作業に、毎日毎日イメージングすること自体、素の自分(上にあげた思い出したくもない過去を引きずった自分も含めて)を否定(無視)しているだけのような気持ちの方が大きくなって辛くなり、結局全部やめて、今度はそんな願望を要求し続ける、過去を引きずるエゴ、自我をどうにかすれば、さらに言えば真我に目覚めれば何があっても楽に生きていけるのでは?という思いに至って、雲黒斎さんのブログを覗いたり、なるべく先入観なく幅広く精神世界系の書物を読むようにし、そしてこのような書き込みをしているというのが現状です。


>心酔がたたって、意見の違い過ぎる人と接すると体を壊すことがあるので、もし僕があまり黒斎さんや阿部さんにあれこれ言い過ぎると、もしかして一閲覧者さんに酷になるかなと、若干懸念しています。


これは先に書いた通りの理由が発端であり、売り言葉に買い言葉でコメ汚ししたことに関しては、今は反省をしているとだけお伝え申し上げます。


そしてやはり最後、サムさんにしっかりと申し上げなければならないことは、先のサムさんの雲黒斎さんへのコメントに対し、私が横から口出しするようなことは決してすべきではなかったと反省し、改めてお詫び申し上げます。大変失礼致しました。

長文となる返信となりましたが、以上、宜しくお願い致します。

追記

とここまで書き終えましたが、やはりまだ私の中には、私のコメントに対しては、観念、マインドという言葉を当てはめながらも、ご自身にはそれを適用しないサムさんには疑念を抱きながら、ここまでコメントしていることをご承知して下さい。

言葉で表現、コメントしている時点で私のコメントもサムさんのコメントも、ともにそれは観念としか言えない代物になっているのでは?という意味です。

また、サムさんも仰る観念という言葉には、時間、空間、他者も含まれ、それを観察する、本質的自己からそれを眺める状態になれば、「時間がない、空間はない、私はいない、全てが本当の私」になるのではないかとなるのではないかという考えが、私の中にあることも合わせてご了承下さい。
 
 
 
お返事誠にありがとうございます。(_ _) (サム)
2017-11-15 12:22:15
大体今頃に起床する生活です。^^


・・・・

今回は立ち入ったことをお聞きしてすみません。

そのご自身の内部の働きにこそ目を向けて頂きたかったもので。

率直に様々教えて頂きまして、僕としても一閲覧者さんのスイッチが奈辺にあるか、少し理解が深まりました。

パズルの残りはあと数千ピースですね。(笑)



ですが、

一閲覧者さんと僕の対話は、もうほぼ終局に、否、ほぼ最終局面に到着しております。

その意味は土曜日ぐらいにでも改めて。


先ずは御礼まで。<(_ _)>
 
 
 
探究の道程 (サム)
2017-11-16 07:01:39
動画を拝見しました。

急遽、僕が見た彼女たちの現在地点などについてざっくり書かせて頂きます。

参考に... ...はせず、「あっそ。」ぐらいで流しちゃって下さい。(笑)


・・・・

すでに何度も繰り返し解脱を果たしているにも関わらず、衆生の魂を救済するためにまた根源より下生してくる存在。救世主的な魂。←仏陀、キリストの御霊です。

    ↑

同じく根源から来る聖者。救世主を支える役目を持って共に下生。

    ↑

瞑想が完成し根源に合一した、転生を終える(解脱)自由自在な魂。

    ↑

集中された瞑想により根源への知覚が可能な魂。

    ↑

瞑想が訓練され、根源への知覚に向かって進んでいる魂。

    ↑

マインドや感覚器官から離れること、それと結び付くことが自由に出来る状態。
日常的に自我から離れていられる状態。心が静止している状態。

    ↑

【探究の入り口】

心が静止し始める状態。「捉われから離れた分別」が徐々に可能になってくる状態。
マインドによく気付き、そこから離れられる状態。

この状態は、出家せずとも誰しもが日常の習慣で至れる心の平安の状態です。

以前にも書いた通り、思考・感情に気付くこと。それをただ見つめること。根っ子の観念を観察すること。そんなただ目を向ける、ただ気付くことによってそれらの投影が止んで行きます。

目指すべきはまずこの段階だと思います。

    ↑


【探究以前】

外側の世界を見聞し、心に響くものを求めて渉猟している状態。あるいは迷走している状態。



【番外編】

一瞥、目覚めといった鮮烈体験、あるいはごく自然な自我の融解による、マインドから離れた感覚を認識した状態。


・・・・

あまりざっくり過ぎてごめんなさい。仏教研究者ならもっと細かく細かく分けることも可能だと思います。また諸説があろうかと思います。

探究の入り口以降のお話は僕が直感として感じていることと、ラージャ・ヨーガからの知識と、解脱者から聞いたお話を基に仮にまとめたものなので、実際の細々した感覚は違うかもしれません。僕の仮説、兼、自分自身が検証して行きたい内容だとお考え下さい。


一瞥に関してなのですが、自我の壁が一時崩壊した時、(慣れ親しんだ自我の一時喪失状態が起こった時、)「世界も私も存在していない」といった感覚を受けることがあります。

僕も3回ほど経験した神秘体験の中でその状態を認識しました。

しかし人によってはその「何も存在していないような感覚」が一体何だったのか分からず、その記憶を何度も反芻したり、本で読んだりネットで調べたりして、その過程でさまざまな非二元論の知識を得てしまい、自分の体験したことに後から知識で意味付けをする人がいる訳です。

そこには元々特に意味はなく、ただ自我が一時失せて普段と違う境界の無い感覚を味わっただけにも関わらず、結果、「起きることが起きているだけ」、「わたしという実体は存在していない」という世界観をマインドが投影するのです。

彼女たちが語っていることがほぼ100%分かりましたし共感も出来ましたが、体験したことや思考を見つめる感覚以外の部分は後付けの知識で語っているのがありありと分かりました。

あと、黒斎さんがネタ元なのか、彼女たちが黒斎さんのネタ元なのか全く同じ言葉を使っている所があったので、メッセンジャー同士、お互いに気になった人の動画を見合っているのかなと思いました。

これが彼女たちの現在いるところだと思います。

この罠にはまるともはや探究は成りませんので、もし一閲覧者さんに目覚め的なことが起こった場合はそれに解釈を与えないようご注意下さい。

「あ、こんなもんなんだな」くらいの受け止め方で大丈夫だと思います。人によって別に何の衝撃も無い人もいますし。


・・・・

仏陀は出家を決意して間もなく、まだ修行もする前に何人かの師に教えを乞うたと史実にあるようです。

そして初めの頃に上記のような「”何も存在していない”と観ずる」を瞑想で感得しようと教えていた師を訪ねたと。

しかし話を聞いて即座にその境地を超えてしまったそうです。

その師からは一緒に教団を運営してくれまいかと誘われるも、自分の目指している解脱の境地と異なっているとして去って行かれたというお話です。

現代においても通ずる示唆に富んだお話かと思います。
 
 
 
お忙しい中、ありがとうございます (一閲覧者)
2017-11-17 02:10:50
お忙しいところ動画をご覧になって頂き、その見解をお伝えして頂き誠にありがとうございました。

そして、私としては今回のサムさんのコメントを見させて頂いてまたふと思ったことがあるので、まずそれをお伝えさせて下さい。

それは、サムさんはもしかしたら過去、宗教団体の信者、もしくは団体に属さずとも宗教を信仰し、その教祖を崇拝されていたことがあったのかなと思いました。

スピリチュアルとお金の話で、私がそれを肯定する中で、「では、霊感商法のような詐欺行為も容認するのか」と、急に極論と思える例えを立て続けに持ち出して私の論を否定されようとする言葉を見て、ご自身が心酔されていたというその方(教祖?)、団体にもしかしたら相当嫌な思いをされた経験があるのかなと。そしてそれがサムさんの雲黒斎さんへのスイッチ、存在そのものへのスイッチになっているのかなと。

私が雲黒斎さんを擁護する理由が教祖のように崇める信者のそれに見えたのも、ご自身の経験が理由なのかと。

だから、雲黒斎さんとその支持する方達の姿を見て心酔している、宗教団体と化していると遠回しに指摘されているのかと。

(しかしこの点は、プライバシーに関わることと思いますのでお答えにならなくて結構です。ただ私はサムさんが、宗教団体への信仰で嫌な思いをされたことがある方としてのその言葉だと踏まえれば、ここまで全てのサムさんの一連のコメントの真意が見えてくるなと思ったまでなので。そしてサムさんの探究の視座の一角、もしくは大元にもこの経験があるのではないのかと推測したまでの話です)。


また、今回の丁寧に書かれたチャート図のご説明、誠にありがとうございます。その主旨は、私なりに探究者が歩む過程図として、理解致しました。

しかしあえて申しますと、それが私には「魂の序列図、格付け」のようにも私には見えてしまい、そのトップに釈迦、キリストを並べて説明されたところが、それこそ人類共通のマインドの現れ、象徴ではないのかと思ってしまいました。

そしてこの視座でもって、または上にあげた宗教団体、教祖の姿と重ね合わせて見れば雲黒斎さん、阿部さん、その他動画の方含めて、仰る通りの格付けの序の口、所詮は探究途中の方々という評価になるのだろうと思いました。そんな探究途中の身のくせに信者化した支持者、ファンからお金をかき集めて身の生計を成り立たせるとは何ごとか、となるのかと。

いや、おそらくチャート図に関しては説明上あえて著名なキリスト、仏陀という覚者の名前を私に理解させる為に提示されたのだとは思うのですが、あまりにも最高級(?)の魂がこの方達だとするのがステレオタイプな表現に見えてしまったというか、ならば仏典、聖書に書かれていることを通読すれば悟りへと繋がるのか?しかし人類の歴史はそれを明確に否定しているのではないか?と思ったといいますか。

あと、探究者として探究することと、現代社会の仕組み、序列、会社内の組織構成とそこに放り込まれ出世競争をさせられることとそう違いがないようにも見えてしまい、探究とはそんな息苦しい「現世的」な価値観をベースにしたものなのかなともふと思いました(またガンジーが、カースト制度を支持していたとか、マザーテレサがパブリックな聖女のイメージと実際の姿、拝金主義と呼ばれたその姿とのギャップに悩んで晩年は精神を病んでいた、などという話もなぜか思い出してしまいました)。

現世で生きる息苦しさの末、スピリチュアルをのぞいて見たら、またここでも似たような価値観(魂の序列)を元に説明されて、だったら会社の利己心の塊の出世競争を無慈悲にでも頑張った方が良いのかな、という気分になってしまったというか。

以上、マインドという言葉をサムさんに教わりながらも、師匠に楯突くお弟子さん、釈迦に説法のような書き込みになってしまい大変申し訳ございませんが、これも迷える「一閲覧者」の戯言、探究途中者の「一マインド」として受け止めて頂ければ幸いです。
 
 
 
僕の宗教体験 (サム)
2017-11-18 05:41:35

レスどうもありがとうございました。(_ _)


>しかしこの点は、プライバシーに関わることと思いますのでお答えにならなくて結構です。


全く大丈夫ですよ。^^ 若くして新興宗教にかなり傾倒しました。

その教団の教祖は仏陀の再来だと詐称しており、詳しい知識は無いのになぜか仏陀への思慕の念が強かった僕は、高校一、二年生の時に教祖の書籍に出会って心酔してしまったのです。

まあ本当に精神的に未熟でしたので仕方が無かったとは思いますが、元々の仏陀への知識が無かったことが仇となりました。その後は十数年間、お花畑で胸を張って幸せいっぱいの信者でおりました。苦悩も相当体験しましたが。(笑)

信者生活の後年から晩年、とある状況があったことで僕の中に次第に変化が起こっていました。

教団は仏陀を騙って仏陀の教えを盗用している団体でありましたので、教義に本物の仏陀が説いたことがエッセンスとして残っていたんです。その状況が僕にとって人生の転機となる方向に作用しました。

そのエッセンスは具体的には仏陀の教えとしてよく知られた八正道であり、中でも正見、正しく見るということへの考察が普段から自分の大きなテーマでした。

それが大きな作用となり、元々幼い頃から持っていた自分の心を見る習慣と、内面からの智慧とが結び付いたのです。

(小学校一年生の頃からすでに心をおぼろげに認識しており、仏壇があったのですが時にそのロウソクの炎を見つめて心を集中していた自分を思い出します。また小学校四年生ぐらいの時には、以前から時折話題になったコックリさんのような霊的な現象について、生半可な関心は危険だということを、クラスメイトに伝えたりしていました。笑)

仏陀の正見の教えと自己観察の習慣とそして内面からの智慧との結び付きは、僕がどのように教団から脱却したかというお話に繋がります。

僕の脱却は、一般の人がよくある新興宗教から脱会するプロセスとは恐らく全く異なっていました。

上記の結び付きは僕に、「本物の信仰者になるためには、今の自分自身が満足行かない諸々の捉われに根ざした信仰をぶっ壊し、捉われ無き視座を基にした確かな信仰を完成させねばならん」という、智慧の発芽をもたらしました。

僕はその知見に基づき、現状の信仰を一旦白紙に戻すことを決意したのです。

言葉に書くとそのように説明出来るのですが、それは想念において起こる理解や自分への言い聞かせではなく、夜明けの陽が地平を照らして全てが明るみに向かうように、言葉なくして鮮やかに感知される智慧の直覚なのです。

僕が当時の知見についてきちんと言葉として説明が出来るようになったのは、教団を脱退してかなり時間を置いてからでした。

しばらく経ってからネット掲示板で、信仰が変遷したことがおかしいと何故か教団批判者側から指摘を受け(脱会したのに。笑)、

ああ今思い出しましたが、確か「そんな脱会出来るような信仰は薄っぺらいもので元々あなたは信仰など持っていなかったのではないか? 自分で勝手に信仰と思っていただけではないか?」という主旨の質問をされ、それをきっかけに四苦八苦して当時の心の模様を言葉として確立したのだったという経緯がありました。

僕が今、思いをアウトプットして可視化することの有用性を感じているのは、当時そうして色々とネット掲示板で対話をし、議論を交わしていた頃に得た経験則ですね。

信仰を白紙に戻すという決意は元々脱会のためではなく、「真実の信仰のためにもう一度最初からやり直す」ということだったのですが、しかし、いざ信仰をぶっ壊してみるとすぐに教団オリジナルの教義の核心に重大な欠陥があることが明瞭に浮かび上がり、(笑) そこで信仰の解除とほぼ時を同じくして退会をしたのです。

これも無明から脱したことによって生じた鮮やかな知見でした。

そのようにして僕は十数年の信仰生活に別れを告げました。

たくさんの宗教をごった煮にしたような教団だったので時間がかかりましたが、ともかく仏陀のお陰で救われました。

まるで、盗賊の親分が自分が盗っ人であることを隠し「盗むのは犯罪だ」と世間にうそぶいていたところ、子分の方が「確かにそうだ」と思って堅気に戻ってしまったというような、寓話にでもなりそうなお話でした。(笑) 

そんなこんなで二十代、三十代と幾度か精神の地獄を体験したり、いわゆる目覚め体験をしたりとそこそこ色々ありましたが、お陰様を持ちまして43歳、今こうやってます。(笑)

下生した解脱者との邂逅もあり、聖者にも相まみえ、もう本当に他力というものの力をまざまざと感じさせて頂いております。

一閲覧者さんにも常にその慈悲が注ぐように、同胞全てがその聖者の想いで照らされるように、感謝と共におすそ分けをと思っています。

 
 
 
マインドの闇 (サム)
2017-11-18 05:43:29

ところで、

目覚め体験についての補足なのですが、いわゆる一瞥というのは実はほとんどの場合、マインドが見ているものです。

僕の経験上、境界が無くなる体験と言うのは、例えば自分がノートパソコンだとしますと、LANに接続したりインターネットに接続したり、IoTで家電に繋がったりというぐらいの、結構狭い範囲の知覚です。

確かにそれまでの認識の個の感覚からは変わります。でも「世界とは“これ”だけだったんだ!」は実際のところ言い過ぎです。阿部さんがその曲解の発生原因なのかもしれません。阿部さんにもネタ元があるのかもしれませんけれど。

インターネット接続に例えたとしてもただ境界なく繋がっているという感覚があるだけで、全世界のビッグデータを瞬時にダウンロード出来るようなことは全く起こりません。

ただ単にマインドがいつもと違う境界が消えた状態で周囲を見回している、という状態なんです。知覚が及んでいるのはやはり周囲の近いところだと僕は数回の経験を以って感じます。

それなのに、その体験を以って「世界は! 宇宙は! これしかなかったんだ!」という人は、誇大妄想の性質を元々持っている方だと言っても言い過ぎでは無いだろうと思います。

なぜそう言うかと言えば、僕自身が二度目の目覚め体験でそのように自ら妄想したからです。

ファンタジー好きなのが災いしたのでしょうか。(笑)


・・・・

改めて語ります。

何を隠そう僕自身の二度目の目覚め体験は、前述の教団によって起きたのです。

高校生で教祖の著書に心酔した僕は、成人してから本格的に団体に入信することにしました。

その入信の儀式において目覚め(?)が起こったのです。それは今から20年以上前、僕にワンネスのような知識が全く無かった時の話です。

入信に際して教団側は、導師の下で経文を聴き、また自らも読誦し、信者として信仰を誓うというセレモニーを用意していました。

その儀式が開始されて導師が経文を読誦し始めた時、突然僕の自我の壁が決壊したのです。

そして僕の中から内なる声が激しく響き渡りました。それは、「僕はこの教えを知っている! この奇跡にようやく巡り会えた! 僕はこのために生まれて来た!」というはっきりとした想念の形でです。

繰り返し繰り返しその想いが沸き上がり、僕は号泣しました。子供の頃のようにひっくひっくと息を切らしながら。

そして涙と鼻水が止めどなく流れる中、ぶっ飛んだトランス状態でそれこそ世界や宇宙や永遠を感じながら、軽く一時間ほど忘我の時を過ごしたのです。

ようやく落ちついて頬の涙も乾いてきて導師とゆっくり会話が出来るようになったのは、儀式開始から二時間近くも経ってからでした。

実際のところ、その時のことをはっきりと思い出せない部分もあるのです。まさに僕は我を失っていたのでしょう。

その時僕は、自らの中から沸き起こってきた強烈な想念によって、自分自身を更に強固にマインドコントロールしてしまいました。

「僕は過去生からこの人を知っているのだ!」、「僕はこの教えに出会うために生まれて来たのだ!」という、腹の底の底から沸き上がる震えるような心の叫びに、誰も抗える人はいません。その状態に対して冷静に識別を持って臨める人は誰も居ないのです。

そのようにして、僕は潜在意識からの支配を受け、「自らの内面から沸き起こる熱い想い」という疑いようのない強固な自己暗示化を施し、偽仏陀に対する堅い信仰を持つ信者として生まれ変わったのです。

如何ですか? 恐ろしい話でしょう?(笑)

それがハイヤーセルフ、守護霊などと呼ばれるものが居るとされる潜在意識の世界において、日常行われていることの実態なのです。

程度の差はありますが、人に想念がある限り誰もそれら潜在意識の世界の住人からの干渉から免れません。

もしもメッセンジャーに「私はあなたを守護している者だ」というインスピレーションが沸き、メッセージを発信してくる存在があったとしても、精密な霊的視力、識別力を持たない我々凡夫はその真偽のほどが全く分からないのです。

想念が発生する以前の段階を見ることの出来る知覚力を養わなければ、僕たちはそれらを打ち破ることが出来ません。

だからまだそこに至らない我々は、一切そのような霊的な干渉から離れているべきなのです。普段の論理的な思考や日常生活は、むしろそれらから僕たちを守ってくれます。

これらの考察から、僕が黒斎さんに「雲さんと名付ける得体の知れぬ想念から、黒斎さん自身が離れる姿をみせることこそが読者のためになる」と語ることの意味、その背後の危険性が伝われば幸いです。

ちなみに信者さんたちの名誉のために語っておきますが、その教団の信者さんたちはほとんど、飛び抜けて優しい善人か菩薩かというような、本当に心の温かい方々ばかりでした。新興宗教信者だからと言って何も狂ってなどいない、ただ世の人の幸せを願っている人たちの群れでした。

そして皆、その救世の想いから日常を削りに削って教団にお金と人生を注ぎ込んでいたのです。

最初のころは心からのお布施のつもりで喜んでお金を納めていましたが、多くの方が次第に疲れ果て、疑念に苛まれ、また疑念を抱く自分にきつい良心の呵責を感じ、ズタボロになって行きました。

誠に気の毒だったととしか言いようの無いことです。

新興宗教とはかなり妄信度の差はありますが、スピ業者のほとんどはお客さんをリピートさせます。決してそのような依存から離れよとは言いません。

そこに在る業者と消費者の関係、教祖と信者の関係は、程度の差こそあれ構造自体は同じようなものです。

背後にある想念の集団が、ルーツが大体同じなのです。彼らも彼らで競い合っているんです。

どれだけ地上の人を支配出来るかということでもって。

恐ろしい話ですからここまでにしておきましょうね。(笑)

 
 
 
幸せになるために必要なこと (サム)
2017-11-18 05:48:58

話を戻しますと、

メッセンジャーが言うワンネスとは、単にマインドが見た周囲の風景の描写、感覚の描写です。

それに対して解脱者が言う根源の知覚とは、ノートパソコンで言うならそれに供給される電力エネルギーの方なんです。

そのエネルギー自体に自在にアクセスし、エネルギーそのものが開放されることを意味しています。

コンセントを抜くか、バッテリーを抜いてエネルギー供給を止めたらノートパソコンは全く生命を失う訳ですが、

解脱者が自在に至る根源の知覚とは、そのような生命力そのものの支配を可能にする知覚であり、原子の成り立ちから星の運行に至るまでその全てを知覚するものだということであり、一瞥と言われる状態とは根底から異なるものです。

僕たちは捉われを去った後、改めて解脱者からそれを学ぶのです。それは本当に解脱者しか成し得ないことですから。

そしてそれが生きとし生けるもの全てに向けた、解脱者の願いだということです。

しかし、その探究に至る以前の入り口の所で、まだ何の学びも修行も必要としない普通の暮らしの所で、人生の苦悩、重荷はほとんど降ろすことが出来ます。

僕たち衆生は皆この心の平安に至れることが約束されています。そこに至るまでには探究は必要でないのです。

先の投稿にも書きましたが、普通に自分の内面に目を向けていくだけの習慣で大いに心の平安は成就します。

人は本当に安らかに、心から幸せになれるのです。何の世界観を感得せずとも。

起きることが起きている、わたしはいない、全部がストーリーで本当は何も存在していない、などの世界観、ラベリングなど全くもって不要です。

非二元論は僕に言わせれば、煩悩を鎮火させるために過去の修行者たちが編み出した、とりあえずマインドを静かにさせるテクニックです。

「起きることが起きているだけ、と観じてみよ。想像してみよ。そうすれば種々の煩悩や、種々の観念に惑わされることが馬鹿らしくなる」といった具合です。

じゅんころさんのように天然で、バットで思考をカキーンと場外にホームラン出来る人は、「起きることが起きているだけ」を信じていてあまり支障が無い部分もあるのですが、

普通に論理性のある人が「起きることが起きているだけ」を知識で知ると、実際には毎度毎度ラベリングが入ってきて思考が逆に増えます。だからはっきり言って余計なお荷物なんです。

「...というような思考が沸いただけ」という思考が幾つも幾つも増えるのです。

↑これもそのような思考が沸いただけです。

↑あ、これも思考も沸いただけです。

↑お、これもその(以下略)

これが楽しい非二元ループです。(笑)

おっとこの思考も、それが沸いただけ。^◇^

なんちゃって。^^ そのようなツールを無駄に獲得せずとも、ただ単に人は静寂に馴染む習慣が付けば、心がそもそも全くの自由であること、幸せであることを、豊かさに満ち溢れていることを自動的に感知していくのです。

なぜなら、知覚しようがしまいが、人には根源からの光、本質において不死なるエネルギーが実際に供給されているのですから。

 
 
 
対話者同士の立場について (サム)
2017-11-18 05:52:09

ちなみに、

僕は黒斎さんのブログのコメント者の上位5名に入るぐらいには、過去コメントを投稿してきたかと思います。

それで、数年前からずっとコテハンではやってきたものの、発言責任という観点でさらにきちんとした方がいいのではないか、なるべく言いっぱなしにしない方がいいのではないか、と考えていたので、

以前、「いつでも誰からもご意見を受け付けます」という形で連絡をして頂けるよう、コメントを保存しておく場所としてブログを開設していました。(今は自己探究を優先すべくブログは閉鎖しましたが)

僕がコメントを投じた先の各メッセンジャーさんにも連絡を取り、何か支障があればいつでもご連絡下さいということで、また必要とするなら個人情報も公開します、という形でお伝えしていました。

残念ながら黒斎さんからはご返信がなく、そのことが伝わったのかどうかすら分かりませんが、

例えば阿部さんからはすぐお返事を頂き、遠慮なくやってくれというような言葉を頂きましたし、

また実際に阿部さんのブログ上でコメントをやり取りしたり、阿部さんが僕の意見についての見解を記事にしたりという風に、顔出しするとかしないとか別段支障もなく対話・議論をしてきたという経緯があります。

なのでこれ関しては、あんまり一閲覧者さんは気にされなくても大丈夫かなと思います。たまたま僕のコメント内容が批判的なものだったとしても、それにどう対応するかはメッセンジャーさんの考え次第な訳です。

黒斎さんも気が向いたら誰かのコメント受けて記事化することもありますし、批判的なコメントについては場が荒れるのを避けるためにタッチしないというスタンスかも分かりません。確か以前は黒斎さん自身がコメント欄の動向に関与していた時期もあったかと思いますので。

あと、批判的なコメントも肯定的なコメントも、あるテーマについてただ対等に語り合うだけの両者なので、批判的なコメントについて卑怯なような感じを受け取られる必要はないかと思います。

その結果、批判的なことを言うのならその人たちは顔出しを、という考えをもし一閲覧者さんがお持ちの場合、かなりこの場所のコミュニティとしての存続が難しくなってくる方向になってくるのかな、とちょっと思いますので。

例えば僕が黒斎さんに辛口のことを言う。

例えば黒斎さんは黒斎さんの意図を持って僕には取り合わない。

ただそれで構わないのかなと思います。
 
 
 
僕の投稿姿勢について (サム)
2017-11-18 05:54:03

改めまして、観念についてのご指摘で僕自身の率直なところですが、

現在、僕はスピでお金を取ることが「悪いこと」だという観念も、心酔が「悪い」という観念も全く持っていないのですが、

なぜかと言うと、実は信仰心を持っている人が僕は基本的に好きなんです。自分を超えた存在に対し畏敬の念を持ち、心から敬う精神を持った方を僕はやはり尊敬します。実生活で本当に優しい人が多いですしね。

ただ探究者としてはそこは踏破していかなくてはいけない所だ、という部分がどうしてもあるのですね。

信仰、信条に反することが全て否定の対象、観念の創出になってくるので、人としては素晴らしいと常々感じているのですが、探究者としてはあらゆる対象について心酔度を0にしないと進めない、探究は成らないのだと正直にお伝えせざるを得ません。

お金をお取ることに関しても、それが悪い、汚い、なんてヤツらだといった観念は全く無く、(ちょっと伝わりにくかったかと思いますが)

「それは真理から遠ざかっていく、マインドの罠にはまっているのだ」という、当たり前の指摘と言いますか、その無明の行いをただ「無明である」とお示しするために、お金のことへの質問をきっかけにテーマとして諸々掘り下げてみた訳なんです。

あれだけ書いたがゆえに誤解を招いたと思いますが、色々とすみません。(_ _)

黒斎さんは当事者なのでやや切実な話として聞いてほしいのですが、マインドは真実の知覚を妨げるため、「魂を殺すもの」と解脱者は説いているのですね。

(魂は、アートマン・本質的自己の意。霊体の意味ではなく。)

それで、無明に陥っているメッセンジャーさん方は実のところ、他者が真実の知覚へ至るのを妨げる、言うなれば「他者の魂を殺す者」である訳なんです。

他者が真実の知覚を得ることを妨げることで生計を立てているのですから、無明中の無明、人間が出来る最大の無明です。魂を殺すヒットマン稼業とも言えてしまう訳なんです。

ですから僕はスピ業者の皆さんに、おしりをバシっと叩いて、「よしておきなさいよ。相当きついことになるから、同胞よ、早いうちにしっかり目を向けなさいよ」っていうぐらいの感覚で言っています。


ということで、

頂いた文章の個々に細かくお返事が出来なくてすみません。

大体の疑問についてなるべく書かせて頂いたつもりですが、ざっとですがちょっとは足しになりましたでしょうか?

この後、先日に用意していたスピ×お金の続きを2本投稿します。それでそのテーマは完結です。
 
 
 
スピ×お金 7 俗世と聖者 (サム)
2017-11-18 05:56:09

>確かに、覚者の方でも、悟ってからも貧しくタバコ屋を営み体を壊しながら教えを説き続けたという方もいるみたいですが、資産家といえるような財産を築く方もいるようですし、お金云々の話とは異なりますが、20世紀最大の覚者と呼ばれながらも死後に浮気が発覚したという方もいるみたいです(見方によってはこれも愛の形だとは思いますが)。

>要は、「教え」と我々が考える人間性の是非は、全く別物だと考えていて、釈迦なんかも短気で変人だったと言われている人物ですが、その人間性は世俗的には否定されても教えそのものまで否定されてはいないという(本当に彼は実在したのか、教えが真理を説いているのか云々の検証は置いとくとして)。


釈迦が短気で変人だったとは初耳なのですが、そのように見た、感じた人が居たかもしれない可能性はあるのかもしれませんね。

先日の臨済禅師のお話の時に書いた黄檗師もそうですが、お話を聞きに行って棒でぶっ叩かれたら、またはそんなお話を小耳に挟んだら、普通は「これはかなりおかしな人だ」と思うでしょう。

一方で本当に癒しの聖者みたいな解脱者もいらっしゃると思いますし、結構バリエーションがあるんじゃないかと思います。

だから結論として、我々は伝記などから得る覚者像という情報や先入観は、それが一つの見解であり、先入観だと分かっておいた上で親しむ方が賢明だと思います。

僕たちが描く歴史上の聖者像、覚者像は当たり前に実物とは違うだろうと思います。


>そう考えると、雲黒斎さんや阿部さんを批判するもので最も的外れに思えるのは、スピリチュアルでビジネスを営む、または名を残す=だから言ってる内容は間違っている、覚者として堕落していると評価することだと考えていますし(これこそマインド云々という言葉以前の個人的な主観の押し付けかと)、覚者が金銭欲等の欲を持つのは間違いだとするのもおかしいと考えます。悟れば、よりその人間のパーソナリティが強くなるだけで聖人君子になることではないと考えているので。


以前、覚者について興味深いお話を知ったのですが、

覚者の中には幼いころ、本当に世の中が滑稽なものだと感じている方がいらっしゃるのかもしれません。

幼少のころは世間の人間というものが不気味で、知覚の光が灯っていない、まるで死体が動いて活動しているように見えていたと聞いたことがあります。

その後は人間社会に適応するように成長して人間のあれこれを一通り経験しつつも、しかし長じてやはりそれら外部のことに満足することが出来ず、やがてその全てを超越していく訳です。

欲という体験は当然に経験しつつも、実際のところ長じれば眼中に無くなってくる感じなのだろうと思います。

僕も自我の壁が崩壊するという数度の体験をした時、欲やネガティブな想念が消失するという新鮮な気付きがありました。

「なるほど、それらは苦行によって取り払うのではなく、自然に消え失せる性質のものだったのか」ということが実体験と共に分かりました。

だから解脱者には欲が無いのです。なぜなら本質的自己、不死なる真我にその必要が無いからです。自己そのものがエネルギー源となるため、食欲も不要だからです。

たしか如来像には性別が無いように描かれているものがあるという話を聞いたことがあるのですが、真我・アートマンはなるほど性別というものが無い“唯一”ですから、性的な欲も不要です。

しかも、驚くことに根源を知覚した解脱者には生きるということにカルマが生じないというのです。

常人と同じく思いも行いもあるにも関わらずなぜカルマが生じないかと言えば、推測なのですが、

そこに生ずる振動、エネルギー波が精妙の極致にあるために、心と身体に深く存在する記憶素子に来世へのカルマとなるほどの痕跡がまるで残らないのだと思います。

仮に解脱者が僕たちにとって表面上は激しく見える想いを出したとしても、その実、エネルギー波が精妙の極致であれば粗大な物質の心身に何ら痕跡が残らないのでしょう。

そのような信じがたい聖者の存在に僕は感嘆するばかりです。

また中にはこの世界を楽しんでいる解脱者もいらっしゃるようで、解脱者にとってマーヤ世界(この幻想世界)はご褒美のようなものだ、ということを語った方もあったとか。

誰の言葉だったか忘れてしまったのですが、ヨーギーたちの中にそんな方がいらっしゃったらしいので、不食とか検索すれば出てくるのかも知れませんね。


>あとこのお2人のスピリチュアルの広め方、教え方が間違っているというのなら、それも教えそのものへの批判とはまた別の話になるかと思いますし。

これについては逆に、スピ業者としてはベストなやり方をされていると感じました。

 
 
 
スピ×お金 8 真っ当な業者として (サム)
2017-11-18 05:58:56

>悟りとは、無、全て、ワンネス、光、愛、分離のない世界、ただ在るなどと抽象的なことばかりを語る方が多い割には、ことお金に関しては途端に世俗的だったり、清貧の思想をベースにしたかのような、お金儲けをする人間=堕落した人間とでも言わんばかりの言葉しか耳にしないのが、本当に不思議だなとは常々思っております。

>スピ関係なく考えても、お金を稼ぐ=税金をそれだけ支払うことですし、雲黒斎さんに関していえば本の印税を寄付されたりしてますし、要はお金をどのように「使う」か、世の中で「回している」のかまで考えていない方ほど、お金を手にする=私腹を肥やすという決め付けしか出来ていないのではないのかと。


一閲覧者さんのコメントを通じて、黒斎さんが真っ当なスピ業者だということがよく理解出来たと感じます。常々感じてはいましたが、黒斎さんは良心的で優しい人だと思います。

僕は彼らが堕落した人間だとは思わず、それがマインドの罠であり、そんな罠に落ちるのも言わば人間のあるがままと言えばあるがまま、という見方です。

あとは、人はそこに閉じ込められていないで、ただただ自由になるべきだという考えです。心からの自由、心からの幸せを享受すべきだと思います。

黒斎さんがずっと今の道を行きたいのかどうかは一閲覧者さんにも僕にも分かりませんが、

僕にはっきり分かっていることは、黒斎さんが伝えているメッセージは自己探究において破れていくマインドの一種であるということです。

これは実際にそうして探究に向かえば誰しもが破れるマインドなのであり、僕がどうこう言わずとも誰もが実践すればいいだけの話ですから、黒斎さん自身もいつかは分かりませんがそれを自覚する時が来るのです。

しかもその段階というのは本当に悟りへの道の初歩の初歩だったという、我ながら頭を掻いて笑ってしまう状況です。まだスタート位置にも付いていなかったのです。(笑)

ですがその時、スピ業者だった人や宗教で幹部だった人などは「ああ、やっちまった、、、」って必ずなると思うので、僕はそれが気の毒ですから一応置き土産はせざるを得なかった訳です。

勝手なものですが、人は後悔に苛まれた際、「何で誰も教えてくれなかったのか!」と考えるもんです。だから僕一人だけでも黒斎さんにそれを伝えるのです。その為にマインドと同化するなら喜んで同化します。

非二元論者は多くの人を巻き込んで、彼らの思考にアナートマン(真我は実在しない)という論理を植え付けた結果、彼らに心酔した人たちが「思考が作り出す虚無」で心を空っぽにしてしまうのです。

それはエゴを去った自由な精神ではなく、思考が作り上げる虚無世界という罠です。

自分がそれに気付いた時、その良心の呵責に果たして黒斎さんが耐えられるのかどうか。

黒斎さんは優しい、良心的な人だと思うので、良心の呵責に苛まれた際は自分の心を壊してしまうでしょう。

阿部さんみたいに図太い感じならそんなことも無いと思うのですが、優しくて根が真面目な人は自分を責め、己のマインドの創造力を以って自らの心を破壊するのです。

かつて、「私がいない、わたしと万物との境界がない」と、ワンネスと言われる事象を経験したなら、そのような感覚を知覚した主体が黒斎さんにもあった訳ですから、「その神秘を体験した知覚とは何か?」が残されたテーマです。

それを体験し、記憶し、心で反芻しながら、いくら「私に実体は無いんだ」と言っても永遠の矛盾を彷徨うだけなのです。それら全てを感知した知覚の源が自己の本質としてあったからこその回顧なのですから。

その自己の本性に探究が向かう時、マインドの捉われなどもうほんの些細なことだったと言えます。

黒斎さんぐらい聡い人ならそんな幻想は破れる日が来るのですから、読者に幻想をばら撒いて生計を立てている場合ではありません。(笑)

いつの日か後悔で酷く落ち込むかもしれませんから、ばら撒いた幻想はなるべく早く回収に踏み切った方が賢明だと思います。

社会的に業者のコンプライアンスが高まっています。製品の自主回収、リコールが広く実施されるようになって久しいと思います。

スピ業者だって業者なんだから、そんなケースがあっても全然おかしくないでしょう。

そんな賢明な業者なら消費者は離れません。きっと今後も黒斎さんを応援してくれますから、一旦この10余年をリセットして、黒斎さんご自身、静かな時間の中で自己を見つめて行かれることをお勧めしたいと思います。

自己という実体は存在しない、などと言わずに。

 
 
 
対話の最終局面 (サム)
2017-11-18 06:02:49

ところでレスを読ませて頂いて、

一閲覧者さんがより自分の率直な思いにスムースに目を向ける感じになって来られたのかな、という感覚を持ちました。

もちろん、それを文字化するのが結構大変で、「ああ、こう書くと誤解されるかな」とか、「言いたいことはこの言葉で適切なのか?」とか、以前にもここで話題になりましたけれども、ネット世界、文字世界ならではの難しさというものと格闘しつつのこの何週間だったかと思います。

面白いもので、色々アウトプットしてみると、自分自身でも「ああ、やっぱり自分はこう感じているんだ」とか、「確かにこれが自分の考えだな」というような再確認が出来たり、それこそ自分の中の観念・先入観として固着していたものに改めて気が付けたり、というのがありますね。

今は「起きることが起きている」、「○○という思考がただ起きている」はちょっと一旦置いておきますが、 ^^

この先もまた気が向いた時に、自分の考えをまとめてみるという意味合いでこのようなコミュニティを利用されるのもいいかもしれません。

自分が一体何を考えているのか、ある期間においてはそれを形にしてみる。そしてある期間においてはそこから離れ、しばし思考を沈静化してみる。ただ静かで在ってみる。

そんな風な、季節の移り変わりにも似た自分自身へのアプローチがいつしか、時の力を得て一閲覧者さんをあるがままの生命の方へ、心からの自由を謳歌出来る世界へといざなってくれるのではないかと思います。


・・・・

さて、先日に一閲覧者さんと僕との対話は最終局面に到着していると書きました。それをお話させて頂きたいと思います。

一閲覧者さんが僕に疑念を持たれていると書かれたこと、

今まで僕が書いてきたことの更なる説明や、ご質問に沿ったもっともっと丁寧な共通理解への取り組み、使用した言葉自体の一閲覧者さんとの概念のすり合わせなど、

それらを時間が許される限り行えば、その疑念は随分と解消されていくものだろうと思います。

しかし僕はこの辺りでそれら全てを放棄し、未だ疑念があったなら致し方なくあったままに、

言葉足らずで伝わっていないことがあったならそれも申し訳ないけれどもそのままに、

もし逆に、もっと一閲覧者さん側から知りたいことがあったとしてもそれを丁重にお断りし、こちらを去るべき時が来ただろうと思っています。

なぜならすでに一閲覧者さんは自分を見ることを知ったからです。



この秋、

一閲覧者さん自身が内面のマインドを見つめるベクトルを持ち、あるいは元々あったそのベクトルを再確認、再稼働し、

そして僕はその背後にある知覚の根源とは何か?という、「やがてベクトルが向かう先」をお伝え致しました。

先日も思考の同化から離れたことの感覚を書かれていましたね。本当に素晴らしいことだと思います。

あとさらに今後、なるべく意識を外部世界への関心のままに夢遊させないことが重要になってくると思います。

解脱者は、「外部に探求する者は人生をうろついたまま終える」と戒めます。

前もってそのプライオリティをお伝えしたにも関わらず、僕自体が一閲覧者さんにとっての外部世界・足かせの一つになってはならん訳です。

それゆえ、積もる話もありますが僕は同志の下を去ります。


・・・・

最後にお伝えすることとして、

一閲覧者さんが僕に抱く疑念の思いは、表面的には疑念かも分かりませんが、裏を返せば真実を明らかにしたい、真理を知りたいという、本質的な願いの一つの現れだろうと思います。

その本質的な欲求は誰しも、最初は中々、自己のみには向きにくいです。

だから外部へのリサーチも当然あって構わないと思います。当面の間は、関心を持っている方々のお話を吟味して行かれたらよろしいかと考えます。

またそれはそれで一つの実証精神であるとも言えますね。

今まで一閲覧者さんが取り組んで来たものも、実証・実体験の過程であった訳ですから、今後関心を抱くものについても、やはり直接知ってみなければ分からないという事は確かではあります。

そんな中、僕が感ずることは、

恐らくではありますが、ホ・オポノポノやその他の取り組みに満足することの無かった一閲覧者さんは、今後関心を持っていく各種のスピリチュアルにもたぶん...十分な納得を得ることは無かろうと推測します。

一時的に、あるいは数年間は興味深く感じられても、同じことを繰り返し繰り返し言うだけのメンター達に、次第に心からの納得や満足、確信が感じられなくなってくる自分を見るだろうと思います。

また、年数を経て自分を見ることに徐々に長けていくなら、その一閲覧者さんの認識力が、彼らに包含されている無明・矛盾の姿を浮かび上がらせてくるでしょう。

メンター達の認識の多くは、特に非二元関連の方々は「探究は不要!」という立場であるので、探究の入り口に全然立てないのです。

ゆえに、マインドを見、さらにそれを超えて本質的自己を見んとするベクトルを持った一閲覧者さんの方が、やがて必然的に彼らの認識を超えて行くのです。

それを予見した時、一閲覧者さんと僕の対話はもう今後は必要がないことだと知るのです。

今しばらくの外部への関心も、一閲覧者さんにとって面白い実証過程の軌跡になって行くのかもしれません。

僕の本音からで言えば、一番最初の対話の始まりで書かせて頂いたように、出来得るならメンター達の言葉はまずマインドから自由になってから、観念をほとんど去ってから接するのがやはり最良です。

それは、マインドを去っていない状態ではほとんど誤解しか生まないからです。

しかし、マインドを去らない状態であっても、自分を見つめるベクトルを外さなければ、少々の誤解は後でリカバリーが効いてくるだろうと思います。

ただ、そのベクトルを外すと解脱者が仰るように人生を夢遊したまま終えてしまいますので、くれぐれもその点だけはどうぞお気を付け下さい。

それを愛すべき同志への最後の言葉とさせて頂き、投稿を終えたいと思います。

一閲覧者さん、長々とお付き合い頂きましてどうもありがとうございました。

黒斎さんも毎度すみません。またもやお騒がせしましたが、ご静観頂いてどうもありがとうございました。



では、皆様どうぞお達者で。 さようなら。 <(_ _)>
 
 
 
ご返事遅れましたm(_ _)m (一閲覧者)
2017-12-03 14:07:44
こちらこそ誠にありがとうございましたm(_ _)m
 
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