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詩の終わり (再掲)翁長雄志第7代沖縄県知事の死が意味するもの

2019年01月08日 11時55分35秒 | 政治論

 15年戦争の敗北(それは世界史的には、単なる国際間の相対的地位低下という意味しかない....つまりは競争世界でのごくありふれた一敗北事件にすぎない)は大和民族の有史以来の精神的選良意識(それは見方を変えれば単なる井の中の蛙、単純な島国根性にほかならない)や不敗神話の瓦解という結果を用意した。

 敗者が勝者に平伏する、という、児戯じみた関係性が今の日米関係である(これを自業自得の敗北主義という)。これが敗戦後自民系保守政治の専横と、旧帝国官僚体制の倦む事なき存続によって変わることなく持続されてきた。ここに形成された固定的な関係性がすべてを決した。

 米国の、日本に対する二つの原爆使用の罪過を糊塗するがための「平和利用」という名の欺瞞、偽善が、この関係性の中で「原発」54施設の建造という、強要され強制された亡国的対応を繰り返させた。その中心はおそらくは旧帝国官僚的官僚存続がもたらした、近代日本が陥った誤った国策の選択という官僚的差配であり、これを無批判に受容しなべて政治目途とした自民系保守政治家と、「現実主義」の美名のもとに体制迎合で礼賛した学者、そして便乗する産業界という、複合化した原発マフィアのなせる業だった。この質はそのままいわゆる安保マフィアに体現されている。

 こうした、通底するこの国の保守政治家の「敗北主義」は、彼ら自身の「歴史修正主義」という、とんでもないまがいものを公然とひけらかす事態となった。彼らには最早、通常の意味の良識は通用しない。通用しない相手に挑みかかることはドンキホーテ的行為というほかない。翁長知事の壮絶なドンキホーテ的行為は、氏自身の肉体を過酷なまでに痛めつけ、満身創痍のまま帰らぬ人となってしまった。保守政治家でもある氏が一身を賭して守ろうとしたのは何か。思想、信条、そんなけちくさいものではない。

 沖縄は、いずれにしろ翁長知事が守ろうとした同じものを守るために、ここまで闘い続けてきた。その通底する意思には感動的な草の根的民の、たゆむことない精神的高貴さがにじみ出ている。辺野古に土砂が投入され埋め立てられても、安部一派やヤマト的傲慢さが埋め立てえない、リュウキュウマブイがそこに必ず生き続ける。あらゆる局面で、安部一派やヤマト的傲慢さが間違っていることは、ただちに白日の下にさらされるだろう。

 翁長知事のいわゆるオール沖縄は、非政治的なものであり、この時点で氏は自身が政治家であることを実質的にやめたのだ。それは超党派の超政治であり、これに呼号しない他の政治家の存在性をいたく醜いものにしてしまった。県民は、この事実を痛いほど知っている。宜野湾も名護もこの醜い政治家たちをあぶりだした。敢然と本土内地ヤマトウの日本人に闘いを挑んだ翁長知事の、オール沖縄の足を引っ張り、体制と権力におもねる裏切りの行為でしかないことを、彼らは知っているだろうか。本土内地ヤマトウの日本人と同じ穴の狢にしかならないことを。

 つまり、永遠性という意味では、翁長知事のことは、普遍的な価値の生きた証という表現以外にない。この価値は、県民の宝だ。一粒の麦がもし落ちて死ななければただ一つでしかない、死ねば多くの実を結ぶ。氏の死はそういう意味がある。(つづく)

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