当家の過去帳忌日は全て7、8、9月、3か月のうちに集中している。沖縄は、12月から翌3月くらいまでが冬と言えば冬なのだが、気温はほぼ10度を切ることがないのでどちらかと言えば本土の秋に近いのかもしれない。思わず本土と比較してしまうが、実は、真夏7、8、9月以外の月には、春めいた景色と秋めいた風情がふいっと俄かに醸し出され、これには本土並みの何気ない気配を感じ、懐かしさを覚えることがある。どこかに四季のはっきりした雰囲気が肉付けられ、時折それを外付けしたがる傾向があるのかもしれない。というわけで、沖縄の肉付けされた印象は、夏が圧倒的な主流となっていることは言うまでもないが、その中でも微かに春や秋を感得するのは結局元本土の住人だったからで、この微妙な肌感覚が寒期の数か月をよりうすら寒くとらえるものと思われる。凍結や降雪のない冬というものが、ここにも確かにある。暖房設備を要しないとはいえ、風邪をひきやすいのもこの時期だ。あるだけの重ね着をするのが避寒の方法で、格好なぞかまっていられない。逆に夏場の殆どは肌脱ぎが普通で下着一枚で家じゅう闊歩するのは他人さえいなければ日常茶飯だ。
一方、本土並みに肉付けされた皮膚感覚が、無意識に見ようとする本土並みに生きる沖縄というものを微妙に探ると、実は10年に満たない在沖経験からは何一つ得ることがなかった。あるいはそういうものを見たくない心理が自然に働いて、これを無意識に遠ざけているのやもしれぬ。昨今翁長氏(県知事候補)に対して大向こうは、仲井眞氏の辺野古埋立承認取り消しを言質に取ろうと躍起になっているようだが、これを公約にと氏をけしかけても恐らくは無駄であろう。この安倍政権は、仲井真承認によって数か月後には埋め立て準備工程(海底ボーリング調査)に入ったし、これを押し通すために全国規模の警備体制をしき、海保のかつてない不法な?強権行使実態も明らかになり安倍晋三の独裁的強行路線上の具体的なやり方が明白になった。と同時に、国家の司法行政立法3権と大新聞メデアジャーナリズムの大半が安倍政権の支配下にはいってきたことも徐々に見えてきている。つまりこの政権は1党独裁ファシズムの実権をほぼ手中に収めたといっていい。あるいは収めつつあるのであろう。その方向性のはっきりしていることには、およそ公的な、と称すべきあらゆる機関はもとよりあらゆる言論行動機能にわたってその統制力が及び始めたことを実感させられるのである。
ヒトラーの敗北と自殺は必然であり、彼の人道的な犯罪はいずれ人類の名において裁かれるべき悪魔的な所業にほかならなかった。我々はそこに実際に示された一民族の抹殺という事実の具体的な明証を目の当たりにし、そのおぞましさに慄然とせずにはいなかったが、東条英機たちの「犯罪」はこれに比すればおよそ戦争という名の人間的過ちに共通する愚かしさに満ちていたといえる。さりながらそのありふれた愚かしさは、国家の主導的な人間たちについてその責任性と補完性を免罪することはない、という単純な倫理観さえ持てば済むことだ。安倍晋三は自身の係累がA級戦犯であるがゆえにこそ、時機的には戦後70年で禊は済んだとばかり汚名返上の企てにおいて戦前的価値観の復活を言揚げしようというのだろうが、あの戦争とその多大な影響力の故に、これをなかったことにする歴史的客観性など誰も認めはしないだろう。彼の歴史認識の甘さは、大新聞の少なからぬ過誤をもって当の歴史的事実そのものを消し去ろうと画策する発言に至ったことにみられる。
倫理観も論理性もない安倍晋三に一国の舵取りを奪われている今、彼が繰り出す強行手法に激しく抵抗し実質的な政治的ダメージを与えなければ、彼のやりたい放題、彼の脳髄が欲するがままに、安倍晋三という個人的政治家のエゴが国政を決定することになる。(つづく)