沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩261 人民への挑戦

2010年12月13日 23時16分36秒 | 政治論
 今、菅や仙石がしていることは、人民への挑戦である。彼らが沖縄にお百度を踏むのは一切のプライドを捨ててアメリカにギブアップしたということだ。つまりこの国は未だに敗戦国として自国の民をも守護できないことを露呈してしまったのだ。この国の民はこの事実をしっかりと見定めなければならない。そして改めて沖縄を見、自身を省みること。何故この国はこうした体たらくを甘受しなければならないか。65年前のあの敗戦を総括し、戦後日本を再建する精神とは何かを見極め、自己自身の問題として捕らえ返さなかった戦後がある。そしてその典型的な負の遺産が日米安保であり置き去りにされた沖縄問題である。この国が犯した罪は自国の民を外国の統治下に置き、不断に危険な戦争準備施設の中に人民を放置したことである。そして今なおその状態は続き、更に一方を解除したら別の県内にこれを移設するという、恐るべきペテンをもって、県民を愚弄している。同じ日本人でありながら、このような仕打ちに会わねばならない日本人とは一体何者だ?この不公平不平等非民主的行為が国家という名の下に破廉恥に実行されようとしている現状に鑑み、同じ日本人としてまことに慙愧に耐えぬ。このような見識のない文化的省察を欠いた、非近代的な政治手法を許すわけにはいかぬ。今、沖縄県民は鳩山のときよりもっと激しく怒っている。

詩260

2010年12月13日 10時50分52秒 | 政治論
 日米両国の安全保障に関する協約、通称安保は少なくとも現在、内容の変遷に伴って明らかな軍事同盟になったのであり、概説当初から憲法9条に背反する内容を持っていたが、日本国の戦後人文的精神傾向は、吉田ドクトリンにいう経済復興専心一途という方向性を以って確定し、この矛盾する普遍的考察対象を度外視して戦後65年を無戦的状態で通過した幸運の結果、安保抑止力、核の傘、というレーゾンデートルがさも大いなる根拠を有するがごとく喧伝される始末とあいなった。日本人は古来、その心性傾向として、そこに実際はないがさもあるかのように語られる内容を信じ込む傾向があり、それが先の大戦における神国日本の神風さえ信じられ、負けるわけがないと思い込み、それが一億玉砕的精神主義により国民を戦争一色に染め抜き最後の一人まで戦えという戦陣訓に殉じた悲劇を多く生んだ。(沖縄県における所謂集団強制死もまたこうした心性における無残で惨たらしい例である)鴎外ではないが、「かのように」はある方面では必要な、いわゆる「仮定」だが、多くの場合、これは、ないものをあるという「嘘」もしくは欺瞞としてある。そして「かのように」が国家権力的に伝播力を有する場合は、権力者はもちろん国民もこの内実が本当に存在し実効し物的証拠を挙げているのかどうか真剣に検証する必要がある。そこで普天間を巡る沖縄県と国政政権の関わりを見てみると、客観的に第三者的に眺める限り、一般住民が普通に暮らす幅わずか数十キロの細長い島にイラクアフガンベトナムなど海外遠国の戦争に向け発着する軍隊が県土の20%を占める基地に、実戦訓練もありの軍事的活動を昼夜を問わず絶え間ない騒音を撒き散らしながら永続的に展開しているこの異常事態は、誰が見ても許容範囲を超えた生存権の侵害というべき事態である。こうした本来避難勧告乃至避難箇所設置なる対策対象というべきところの危険地帯に戦後65年間国民を放置したこの国の政府は、人道的に見ても許しがたい罪を負っているといわざるを得ない。もし国連がその理念どおり本来の機能を発揮できる機関なら、諸国の公平な視点を望めるとして、満場一致でこうした国際社会の一員である国家の永年にわたる人権蹂躙を糾弾するがものなのだが、如何せん現在のところ当事者たるアメリカに一極集中する非連携機関なのでまずは今後とも決してかなわぬ願望というものらしい。無力にして非力な沖縄県民は、複雑な心境のまま結果的には「不服従」精神で現況の国家権力との住民闘争に挑み続ける。所謂沖縄振興策もまた「さも経済興隆があるかのように」喧伝されながらその実、大企業本土企業にその利権を吸い取られ、地元還元は微々たる物に成り下がっている。施政権返還時の再現がずっと続いているのだ。根本的に沖縄のための善政は永久に望めないのか。アメリカと手を切れば済むことなのに。