沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩258

2010年12月10日 16時10分57秒 | 政治論
 安直な平和主義とは何か。では鹿つめらしい軍国主義がいいのか。そうではあるまい。一くくりの論評というのは内実を検証されて初めて分類化された対象に適用されるので、平和主義らしさでもって平和主義と名づけるのはもっと安直な思考法だ。平和主義に程度問題が発生するのは彼がその信念のゆえにおのが現況のどこまでを賭けられるのかという問いに対する回答如何だ。幸か不幸か日本で戦後まともに現実的な戦争危機を経験しなかったために、この問いは想像の域を出ない。その限りでは安直だろうがなんだろうが軍国主義より平和主義の方がいいに決まっている。何故なら人民は如何に必死に学ぼうが政治も軍事も国際情勢もどこから来たか確固たる信憑性のある情報として確実に得られない限界にいるので、所詮自己判断の根拠を内なる自己自身に求めるしかないというのが、むしろ積極的自己認識として持たねばならない人民のあり方であろう。不可知論といってしまえばそういうことになる。これを個人主義と名づければそのとおりだ。この立ち位置では戦争なんぞ御免じゃあないか。平和という言葉が嫌いならとにかく非戦状態のほうがいい。徴兵など真っ平御免だ。国家が勝手に始める戦争を愛国的に考えることなぞできはしない。ましてや開戦する大本営は美酒美食に酔いしれ、机上に戦車を動かしていればいいのに片や砲弾銃弾掻い潜るしかない人民は割りに合わない。史上戦争はすべて人民兵士銃後の民が死地に追いやられ、塗炭の苦痛に叩き込まれた。戦争を画策した連中はのうのうと生き延び、平和主義者面して殉国美談に自ら酔うというわけだ。彼らが泥水を飲み、蛆のわく負傷した手足を引きずり、前線の兵士の盾になったら少しは美談になろうものを。

詩257

2010年12月10日 12時18分29秒 | 政治論
 菅君が訪沖するということはいよいよこの国の政府が沖縄の人民を懐柔する階段に足を掛けたということだが、果たして彼にそれにつき何らかの公算があるというのだろうか。そしてそのことは当然ながら県民総意の辺野古移設反対という事実に対してこれを覆すだけの理由を提示するはずなのだが、そんな有力な懐柔策が見つかったとは到底思えない現状では、かかる地元お百度は大向こうに対するパフォーマンスとしか思えない。懐疑的沖縄県民の視線から知事の変節公約破りは半々であり埋め立て許可の裁可が半々で辺野古に下りるという、県民の内臓に負担のかかる季節は四季を越えて無期限に続く。鳩山氏がオバマに肘鉄を食らったとき、この国は日本がアメリカに沖縄並みに軽視され侮られていることを実感として持ち、沖縄普天間問題の根本的解決を通して対米追随精神の自己破壊と独立自尊精神の再構築を革命的に目指すべきだったのである。日米安保は本質的に日本の安保でなくアメリカ世界戦略的安保であり、日本がアメリカに追随すべき実質的利益はない。軍事資本主義というジャンルがあるとすれば、資本主義的保険思想はただ顧客の意思のみに委ねられているのであり法精神からすると意思に反して業者が押し付ける商品は本来返還さるべき性質のものだ。顧客である日本国民(沖縄県民)に意思確認し、国民投票を通して日米安保の有効性無効性を問い、と同時に基地負担という担保につき国民均等分担の国家的法基準を確立すること。沖縄からすれば当然の要求だ。にもかかわらず菅は明らかにアメリカに言われて、この普天間を国内問題として解決しろという至上命令を完遂すべく動き出した。このアメリカの犬を沖縄県民は手なづけるしかないのだが、仲井真君ではどうにも心許ない。県民は知事の変節を監視し、いつでもリコールする準備をしなければならない。(中断)