nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

摂津・兵庫城

2014年05月26日 | 兵庫県の城郭・環濠

 兵庫城は、天正9年(1581年),織田信長軍の武将の池田恒興が、織田信長に謀叛をおこした荒木村重が籠る花隈城を落城させた(花隈城の戦)。その功により織田信長より兵庫の地を得て、その花隈城を廃し石材を転用して築かれた平城(海城)です。湊川の支流が縦横に走り天然の堀の役割を果たして、前面に港を持つ防御の拠点としての海城として築かれた。天正11年(1583年)池田恒興は、美濃国大垣城へ転封となり、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城した。元和元年(1615年9大阪城落城後は、尼崎兵庫一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城には、陣屋(兵庫津奉行所)が置かれた。明和6年(1769年)には、天領となり、陣屋が勤番所に改築された。明治以後、兵庫県庁がおかれ伊藤博文が初代知事となった。明治時代以降には兵庫港の大規模な改修や都市化により遺構は失われてしまった。現在、兵庫城址に案内看板と石碑が立っている。

[所在地:兵庫県神戸市兵庫区中之島(摂津国兵庫津)]

アクセス>JR西日本/神戸線・兵庫駅下車徒歩約15分

兵庫城址の案内板と石碑

 

 ▼兵庫新川運河

 

2014/05/24 訪城

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近くの『能福寺の兵庫大仏』と『平清盛塚』に参拝して帰りました

能福寺(能福護国密寺)      ▼兵庫大仏

 

兵庫大仏

 平成3年5月,多くの市民の強い要望により、市内の有力企業多数の協賛を得て実に47年ぶりに再建された真の「民衆立」の信仰大仏である。身丈11m、耳の長さ2.1m、蓮台3m,台座4m,地上よりの総高18m・重さ(蓮台共)60トンである。兵庫大仏は、奈良大仏・鎌倉大仏と共に日本三大佛に数えられている。

平清盛塚石造十三重塔(兵庫県指定文化財

清盛塚  

十三重塔             ▼平清盛像

 

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神戸事件   慶応4年・明治元年(1868年)

 徳川氏譜代の大名尼崎藩松平遠江守に備える為に、慶応3年12月下旬、備前藩主池田備前守(茂政)に、西宮警備を命じられ、翌4年(明治元年)正月元旦出動を命ぜられ、同5日までに 総勢2,000騎を繰り出した。その中軍の内・兵力約450騎及び大砲方を率いた一軍は、津高郡金川在住のの老臣、家老日置帯刀忠尚の軍勢で、陸路をとり、正月10日明石に宿営し、翌早朝出発して兵庫に入り、正午本陣に着いて昼食をとり、尚ほ進んで、三宮の森林にさしかかろうとした時に(午後2時),突如として備前藩兵の隊列をフランス水兵が横切ったことに端を発した紛争で、アメリカ、イギリス、フランスの水兵・海兵が出撃。備前藩兵と銃撃戦。一時外国軍隊が神戸中心地を占領するまでに発展した事件。明治政府は、2月9日その隊列の隊長(第3砲隊長)であった備前藩士滝善三郎正信を兵庫県南仲町の永福寺で外国事務係・外国人代表の前で割腹自決させ、これによって解決を見た。備前藩家老日置帯刀忠尚は謹慎。この問題の行方によっては、神戸が香港の九龍や上海の様に理不尽な植民地支配下に置かれる事態に進展する可能性があり、滝善三郎正信の犠牲によって危機回避がなされたことは、日本史上重大な事件であった。 



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