YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ロンとの別れと座席の奪い合い~アジャンタ、エローラ見物とインド横断鉄道の旅

2022-02-19 14:21:37 | 「YOSHIの果てしない旅」  第10章 インドの旅
△テヘランから共に旅をして来たロン(右)~サルベーションアーミーにて

・昭和44年(1969年)2月20日(木)晴れ(ロンとの別れと座席の奪い合い)
 今日、仕事があると思ってサルベーションアーミーの前に行ったら、誰もいなかった。ロンに聞いたら、「今日も休み」との事であった。今日の休みについては私の耳に入ってなかった。荻が今日、「アジャンタ、エローラを見てからマドラスへ行く」と言うので、いつまでもボンベイに滞在していても意味が無いと思い、私も荻と共にそこを見物して、それからカルカッタへ行く事にした。本当に急遽な話で、決断も行動も早かった。
 午前中、私は早速Student Concession(学生割引許可証)を取りに駅へ行き、午後、カルカッタまでの学生割引3等切符を買った(私は偽の学生証を持っていた)。午後6時30分、私と荻はシーサイド・ホテルを後にした。旅仲間のロンに別れの挨拶をする為、サルベーションアーミーに立ち寄った。
 思えばロンと随分長い間、旅を続けて来た。彼と初めて会ったのが1月18日、テヘランのアミルカビル・ホテルであった。以後、我々はバスでシルク・ロードの旅へ、そしてパキスタンのクエッタ、ラホールを経てインドに入り、ニューデリー、アグラ、ボンベイへと1ヶ月間以上、共に旅をして来た。何人かの旅人と道中共に過ごした事があったが、彼ほどこんなに長く旅をした事はなかった。因みに鈴木との旅は、昨年の7月17日モスクワで知り合い、バルセロナで別れたのは8月6日で、21日間の旅であった。アメリカ人のロンと如何してこんなに長く旅をして来られたのか。気が合った理由は、(私の推測であるが)お互いに強い主張・意見等出さず又、互いに干渉しなかった事が、長く旅をして来られた第一の理由かもしれなかった。
 私がサルベーションアーミーへ行ったら運良くロンは、談話室でくつろいで居た。
「ロン、元気?実は・・・、私はこれから旅発ちます。別れの挨拶に来ました。」
「Yoshi、本当ですか。随分急な旅発ちですね。何処へ行くの。」
「アジャンタ、エローラを見学して、それからカルカッタへ行きます。ロンとは長い間、旅をして来たので別れが辛いです。でも、行かねばならないのです。」
「Yoshiと別れるのは、私も寂しいよ。オーストラリアへ行ってからアメリカへ行く予定でしょう。アメリカへ着いたら連絡して、住所を教えるから。」
お互いに住所交換をして、「ロンはインドの後、日本へ行くのでしょう。私はロンに日本を案内する事が出来なくて、本当に残念です。」
「Do not mind. 私はもう少しボンベイに滞在します。元気で旅を続けて、Yoshi。グッドラック。」と言ってロンは手を差し、私はその手をガッチリ握った。
「グッドラック(ごきげんよう)、ロン。」私とロンは硬い握手をし、そして別れた。
 寂しい様な、悲しい様な感じで、ロンとは何となく別れ難かった。大事な忘れ物をした感じでもあった。でも、これが旅なのだ。彼も元気で旅を続けられれば、と願うだけであった。荻は入口で私を待っていてくれた。我々はボンベイ最後の夕食を、例の中国レストランへ食べに行った。
 午後9時10分の列車(行き先不明)に乗る為、私と荻は1時間前にボンベイ・ヴィクトリア駅に着いた。それから間もなく列車に乗車する事になったが又、突撃態勢で〝陣地取り合戦〟(座席の奪い合い)が始まった。我々は〝敵〟(切符が無いのに座席を先取りして乗客に売り付ける人達、又は3等切符を持っている他の乗客)より奮闘したお陰で、陣地2つ確保する事が出来た。陣地確保後も敵から攻撃を仕掛けられるので、油断が出来なかった。案の定、我々が分捕った陣地をインド人特有の主張で奪い返そうと、攻撃して来た。私と荻は力を合わせ、敵を撃退した。そして列車が動き出すと、いつもの事だが合戦は終結した。


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