YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

鉄道と空の旅~初めて見る外国と鉄道技師との出逢い

2021-07-15 14:31:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月15日(月)晴れ(初めて見る外国と鉄道技師との出逢い)
*参考=ソ連の1ルーブルは、約400円(1コペイカは約4円)
 早朝から晴れていた。旅にとって天気が良いのは一番、身も心も晴れ晴れであった。海も穏やかで、ハバロスク号は一路ナホトカ港へ向かっていた。船旅は3日目になり、航海も終りに近づきつつあった。船酔いも治り、体調は良かった。午前中、デッキで大海原を眺めていたり、日光浴をしたり、写真を撮ったりして過した。
 午後1時30分頃、遥かかなたに陸地が見えて来た。段々近づくにつれて山脈が連なり、山々が真っ白な雪で覆っているのが確認できた。何と言う山脈であろうか、知る由もなかった。空は青々と何処までも続き、山脈とのコントラストが美しかった。『ようこそソ連へ』と言ってくれている様で、ソ連の旅が楽しみであった。
 午後4時30分頃、船は静かにナホトカ港に入った。『あぁ、やっと、そして、とうとう外国に到着したのだ』と感激も一塩であった。しかし、港湾労働者達はする事がないのか、ボケーと座っていて、デッキから見たソ連のナホトカの第一印象は、何か活気がなく、寂しい感じがした。
 やがて税関士が船室に入って来て、トランクに何が入っているか、所持金は幾ら持っているか等々の検査があり、関税申告書にその金額を記入した。これは通貨交換の時に必要な物であった。橋本さんは私と小田より、大分時間を掛けて役人に厳しく調べられていた。
 フィニシュカード(入国手続き完了証明書)を貰って、我々一行は下船した。それは私にとって勿論、他の人達にとっても初めての異国の地、その第一歩であった。ガランとした静まり返る港に革命50周年を祝うレーニンの赤旗や横断幕だけが我々を迎えてくれた。ソ連(ソビエト社会主義共和国連邦)は、ロシアと言うイメージが強いので、私はヨーロッパの感覚を持っていた。しかしウラル山脈を境にして東はアジア、西はヨーロッパだとすれば、私の旅の第一歩を踏み入れたナホトカは、同じアジアであった。
  我々は港から駅へバスで移動した。バスの中から垣間見たナホトカの町は、道路や街並みが良く整備され、落ち着いた何かヨーロッパの雰囲気があった。車は日本と逆で右側を走っていた。駅に着いた時、既に電気機関車が牽引するハバロスク行きの列車が停車していた。翌朝見たらジーゼル機関車に変わっていたので、途中までしか電化されていなかった。いずれにしろ列車は午後7時15分、ほのかに薄暗くなったナホトカの駅を後にした。
   
    △ナホトカ駅構内の光景-この列車でハバロフスクへ

私が乗った車両に女性の車掌(乗客係と言うべきか)2人が乗務して、我々を接待してくれた。彼女達は初々しく、感じが良かった。そして英語が話せるので、コミニュケイションが計られた。話をして分った事は、2人とも大学生で夏休み期間中、(日本人観光客の為)車中で働いていて、9月になったら又、学校へ戻る、との事でした。他国でどんな言葉でも良いから、少しでも理解し合える事は、楽しい事であった。
 夕食後、通路に出て仲間達と話をしていたら、「コンバンワ」と日本語が耳に入って来た。振り向くと鉄道係員が話し掛けて来た。私はこの列車の車掌だと思い、同業意識を出して「私も鉄道員で、運転士をしていました」と英語言った。
「そうですか、運転士ですか。私は英語より日本語の方が良く分ります。こちらへ来て話をしませんか」と日本語の返事が帰って来た。この車両の後部にある乗務員室に案内された。そこは国鉄の乗務員室と同じ、室内は薄暗かった。でも、日本語の分るソ連の鉄道員と出会うとは、驚きと同時に大変嬉しかった。
「大変日本語が上手ですね。何処で習ったのですか」と私。
「私は独学で2年間勉強しました。2ヶ月前に日本へ行った事もあります。1週間位の新幹線の視察が目的でした。日本の新幹線は素晴らしいですね」と彼。
「そうですか。日本は如何でしたか」と私。
「素晴らしい国ですね。私は日本が好きになりました」と彼。
「視察と言いますと、この列車の車掌さんではないのですね」と私。
「私は鉄道技師です。国から派遣されて行きました」と彼。
私達は鉄道の話題で意気投合してしまった。第二シベリア鉄道建設計画の為、日本へ視察派遣された技師であったのだ。私はこの様な人に出会えた事が、本当に嬉しかった。
「日本では鉄道事故、例えば列車衝突とか自動車と衝突した時の踏切事故等、新聞やテレビ等でニュースになりますがソ連も同じですか」と私。
「ソ連も同じ様な事故が起っていますが、新聞には載りません。テレビや新聞で報道されたら、返って乗客の人が恐怖を感じるでしょう」と彼。
成る程、と思った。いちいちその様な記事やニュースをマスコミに報道しないソ連の官僚的・独裁的・報道の自由がない一面でもあろう。ニュースとして出すと国家としてのマイナス面があるのかも、思った。しかもソ連は広い国、一共和国、一地方の交通事故で一々載せる紙面を持ち合わせていないし、ニュース源としても乏しいのも事実であろう、と思った。
「ソ連の運転士さん、例えばこの列車の運転士さんは、月どの位給料を貰っているのですか」と私。
「月に120ルーブルから150ルーブルは貰っています。私も150ルーブル以上は貰っています。私の妻も仕事をしていて、100ルーブル貰っています」と彼。
待てよ、1ルーブルは400円(1コペイカは4円)であるから48,000円から60,000円か。私が辞める直前の平均給料は諸手当込みで32,000円位であったから、80ルーブルか。物価はこちらの方が安いし、私より高い給料を取っているので生活は、ソ連の方が日本より住み良い、と思った。
「テレビとか車等、自由に買えるのですか」と私。
「その様な物は買う気なら買えます。しかし、現状は〝計画生産〟の為に順番制になって、いつでも買えると言う訳には行きません。しかも、それらは割高です」と彼。
「そうですか。日本は家を購入するのは高く、大変です。ソ連はどうですか」と私。
「私は政府から与えられたアパートに住んでいます。多くの人はそうですね。私の住まいはハバロスクですから、着いたら是非、遊びに来て下さい」と彼。
「有難うございます。是非とも貴方の家へ行って見たいのですが、ハバロスクに着いたら直ぐに飛行場へ行き、モスクワへ飛び立たなければならないのです。時間的余裕がなく、本当に残念です」と、私は彼の親切な誘いを断らざるを得なかった。
相手の家に招かれるのは、最高の『もてなし』と欧米では言われている。私の1年間の旅でその様な事は2・3回程度で、その様な機会は滅多に無かった。この世界は、米ソの2大国家があらゆる面で凌ぎを削っているのが現状で、その一方の家庭を垣間見たかったのは事実であった。
「それは残念ですね。もう遅くなりましたから、そろそろ休みましょうか」と彼。
「そうですね。今夜は本当に楽しく、大変有意義でした。お休みなさい」と私。
「お休みなさい。良いご旅行でありますように」と彼。
「有難うございます」と私。
彼との会話は為になったし、本当に楽しかった
 私は翌日も会えるとばかり思っていたが、彼は既に見当たらなかった。彼の名前も住所も分らず、本当に残念であった。今回の旅で日本人以外の出逢いは、彼が最初であり、そして最初の別れになった。余談であるが、私の1年間の旅行中、日本人以外の人と日本語でこれほど多くの事を語り合ったのは初めてで、これが最後であった。
  私が寝てからも列車は、一路ハバロフスクへ闇夜をひた走っていた。機関士さん、車掌さん、ご苦労様です。お休みなさい。


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