YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

仕事と部屋探し~自分で仕事を探す

2021-09-20 08:57:13 |  「YOSHIの果てしない旅」 第6章 ロンドン滞在
・昭和43年9月20日(金)晴れ(自分で仕事を探す)
 今日も昨日行った例のスタッフ エイジェンスィ(職業斡旋所)へ行ったが、返って来る言葉は、「仕事は無い」であった。
 受付係は「午後、又来なさい」と言ってくれたが、イギリスは経済不況の為、イギリス人さえ失業者が多いのだ。例の図書館の光景や街のあちこちで失業者が目立った。そんな状況下で、言葉が上手く話せない、何の技術もない、しかもイギリス人にとって私は得体の知れない外国人、そんな私に仕事がある筈がない、と思い始めた。そして自分で直接職を探すのが一番だと思い、レストランを当たる事にした。
 いざ直接レストランにトライしようと思っても、恥ずかしさや勇気がいるもので中々店に飛び込めず、店の前をウロウロするばかりであった。心臓がドキドキするのが自分でも分る程であった。「羞恥心など糞食らえ。1・2の3で飛び込め」と自分に言い聞かせた。 
最初、イタリア風のレストランに飛び込んだ。マネージャーを呼び出して貰い、「ウェイターでも皿洗いでもしますから、仕事がありますか」と尋ねた。しかし、「ソリー、ノー ジョッブス」の返事であった。
昼食の時間帯であり、大勢のお客さんの見ているその前でのやり取りであるから、余計に恥ずかしいやらドキドキするやらであった。1回や2回断られて、諦めるつもりはなかった。何回もトライする(当たる)つもりであった。
 2回目は、オックスフォード通り(ロンドンの中心地)にあるWinpy House(ウィンピー ハウス)と言うレストランへ、清水寺の舞台から飛び降りる覚悟で飛び込んだ。店内は広く、客で各テーブルは埋まり、忙しそうな店であった。私はそんな店内で忙しそうに働いている1人のウェイトレスにマネージャーを呼んでくれるようお願いした。すると少し肥満気味の、怖い顔した40歳台位の女性のマネージャーが対応してくれた。
「私はどんな事でもしますので、何か仕事がありますか」と私は尋ねた。
「午後5時から11時までの皿洗いの仕事ならある」とマネジャー。
「それで結構です」と私は即返事をすると、「明日から来て下さい」と言われた。
「それでは明日の5時からお願いします」と私は言ってレストランを出た。
レストランを出たら気温は低めなのに、大汗をかいていた。その理由は、日本なら決してこの様な事はしないであろうし、出来ないであろう。そのしない出来ない事を言葉の不自由な外国で、しかも客の注目、視線を感じながら、恥も外聞も捨てての行為であったからであった。
 トライ、アタックしてしまえば簡単であったが、皿洗い如きの仕事だからか、マネージャーは私の国籍、名前、住所も聞かなかった。私も時給、週給幾ら貰えるのか尋ねなかった。『何でも仕事があれば良い』とこの時、私はそう思った。   
一応仕事が見付かり、 昼食は少し自分にご馳走をしようと、街を彷徨っていた時に気
付いた中国レストランへ入り、チャーハンを食べた。モーガン家を去ってからこの3日間、昼は何も食べていなかった。久し振りに米の飯が食べたくなったから、とても美味しく、それに勘定はそれほど高くなかった。
 ウィンピー ハウス レストランの皿洗いの仕事が見付かったが、もっと良い仕事があるか、例の職業斡旋所へ行って見たが、「何も仕事は無し」との事であった。この斡旋所は私が他に5~6個所尋ねた中で一番感じが良く、又ホテルの仕事を見付けてくれて、親身になって接してくれたが、何度も来たが、いつも仕事は無しの状態であった。私はここに来るのをこれで最後にしようと思った。
 帰り際、その受付係の女性に、「レント ルーム(貸し部屋)を探しているのですが、何処へいったら探し出せるのですか」と尋ねた。「YMCAへ行って聞いて下さい。レント ルームの場所を教えてくれますよ」と彼女は教えてくれた。
 早速、教えられたYMCAへ行って、「2ヵ月間程貸し部屋が欲しいのですが」と尋ねると、3ケ所教えてくれた。私はその中でアルチュウェイ駅近く、週7ポンドの1番安い部屋に決めた。
 ユースに帰ると7人程の日本人が宿泊していた。その内の何人かと本当に久し振りに日本語で思い切り話が出来たので、少し精神的ストレスは解消した。


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