YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

不愉快なイスラエルの初日~テルアビブの旅

2021-12-08 09:13:47 | 「YOSHIの果てしない旅」 第8章 イスラエルの旅
・昭和43年12月7日(1968年)(土)曇り後晴れ後雨(シーラおばさんと出逢う)
*参考=イスラエルの1ポンドは約86円、1アゴロは約86銭 
 アテネを去る日が来た。出発まで私は和田、そしてインテリの日本人と共にアラブ大使館(現エジプト)へ行ったり、行き付けでない食堂で昼食を取ったりして過ごした。いつも20ドラクマ(200円)以内で食事を済ませていたが、アテネ最後の食事なので2人に合わせ、普段より奢ってしまった。食事後、1人45ドラクマを請求されビックリした。他の2人も一応、『高い』と認識し、店主に抗議した。しかし言葉が通用せず、埒(らち)が開かなかった。この様な状況下、4ヶ国語も5ヶ国語も知っているインテリも所詮、私と同じであった。そこで和田が主人の見ている前で店の名前をメモした。店を出る際、私は100ドラクマ紙幣で清算すると、お釣りは55ドラクマであるのに6ドラクマ多くお釣が帰って来た。他の2人もそうであった。お店の主人は不当に値段を釣り上げてぼろうとしたが、和田が店の名前を書いたので、店の信用を落とす事に心が引っ掛かったのか、主人は値段を改めたのだ。いつもふざけてヒョウキンな和田だが、中々頭が良いと感心した。
 その後インテリ―と別れ、イスラエルへ旅立つ為、和田と共にエール・フランスの営業所まで行った。和田が付いて来てくれた事は、未知への旅立ちに不安を抱いている私にとって心強く、有り難かった。和田も「キブツへ行きたい」と言っていた。彼とキブツで会う約束をし、握手してバスに乗り込んだ。バスが出発し、見えなくなるまで彼は手を振って見送ってくれた。つい2日前に彼とユースで知り合い、親しく話した。彼はトニー タニーに似て、ひょうきんに振舞って人を笑わせていた、そんな彼との別れは寂しかった。友達を又、失った感じであった。彼は私の後を追ってキブツに来ると言うが、この時点で私が何処のキブツに入れるのか、まだ分らなかった。
 バスには乗客5~6人しか乗っていなかった。間もなくしてバスはアテネ郊外に出て、海岸通りを走った。車窓から夕日が沈むエーゲ海の光景は、旅情溢れる美しさであった。私はその光景を考え深い想いで見惚れていた。気の合った旅人との出会い、彼等と楽しかった束の間のアテネの滞在、別れの寂しさ、そして新たな旅立ちへの不安と期待を抱きながら一路空港へバスは走った。  
 ベングリオン国際空港に到着し周りの乗客を見ると、私の様なリックを背負い、ジャンバーにジーパンスタイルは誰もおらず、場違いの感があった。私のフライトナンバーは、Trans World Airlines(TWA)の840便、フライト予定時刻は午後4時50分であった。
 そうこうしている内にTWA840便の案内放送があった。私の乗る飛行機は遅延の理由は分らなかったが、1時間30分遅れである事が分った。暫らくたってから再び、出国手続きや搭乗手続きの案内放送があった。私はその案内に従って行動した。待合室へ戻ると隣の席のおばさんに「何か飲むか」と言われ、喉が渇いていたので、おばさんの行為を有り難く受け取り、コーラをご馳走になった。おばさんの年齢は45歳を過ぎた位で、名前は「Sheila Franker」と言って驚いた事に、私の文通友達のシーラと同じであった。名前の通り彼女は英米系の顔であった。彼女はJerusalem(エルサレム)に住んでいて、ギリシャに観光に来て、イスラエルへ帰ると言うのであった。おばさんに私のシーラの事を話したら、彼女もビックリした様子であった。私はおばさんにスッカリ親近感を覚えた。彼女は私に「エルサレムに来た時は、私の家に立ち寄って下さい」と住所と電話番号を書いたメモを渡してくれた。
 そうこうしている内にTWA840便の搭乗案内があった。私は彼女と共に所定のゲートを通り、そして搭乗バスに乗った。それで飛行機の所へ行き、タラップを昇って機内へ入った。おばさんの席は、私の席より前の方であった。
  午後4時50分のフライト予定であったが、結局アテネを飛び立ったのは7時頃であった。ハバロスクから乗った飛行機はプロペラ機であったが、今回はジェット機で、機内は静かであった。飛行機は墜落すると100%『死』であるし、私は慣れない所為もあり、機が揺れたり降下したりする度にビクビクしていた。テルアビブのロッド空港に着陸前、機は大きく揺れて降下した。墜落しているのではないかと、本当に怖かった。お茶やアルコール等のサービスがあったので、1時間30分の空の旅は、慣れる間もなくイスラエルに着いてしまった。
 何はともあれ無事に着陸し、ホッとした。私はシーラおばさんの手荷物を持ち、彼女と共にタラップを降りた。外は雨が降っていた。最近火事があったのか、空港待合室の天井は焼け落ちてポッカリと大きな穴が空き、空が見えた。彼女の話しによると、「昨年の六日戦争(第3次中東戦争)時、エジプト空軍の爆撃によるもの」と話してくれた。私は内心、『偉い所へ来てしまった』と思ったが、アラブ諸国とイスラエルはまだ戦争状態である事を承知していた。お世話になったシーラおばさんと、ここで別れなければならなかった。彼女はアテネ空港で私の航空券の事を心配してくれたり、コーラを奢ってくれたり、又彼女と話をしている内に不安が薄れ、搭乗時間が大幅に遅れていたが、待ち時間は苦にならなかった。彼女と一緒だったので、気を余り使わずに搭乗出来たし、イスラエルに入国する事が出来た。
外へ出ると空港利用者専用バス(?)が待っていた。私は、『これに乗ればテルアビブまで行ける』と思い、バスに乗った。市内へバスは移動していると思っていた。しかし暫らくするとバスは寂しい場所で止まり、全員降りた。バスは先に行かず、私にとっては降ろされた様なものであった。市内へ行く接続バスが無い場所、そして暗い場所で辺りがどうなっているのか、この場所がテルアビブからどの辺りなのか、全く分らなかった。
  市内へ如何して行けば良いのか、迷っていたらタクシードライバーが寄って来て、「4ポンド出せばNO5バス・ストップ(市内中央へ行ける停留所)まで乗せて行く」と言うので、仕方なくタクシーに乗った。このタクシーは乗合タクシーでこの時、乗り方を知らなかった。ヨーロッパや日本のタクシーより大きめで、車の中に他の乗客3人が乗っていた。乗車距離がどの位なのか分らないが、4ポンド(344円)は、どうも高い感じがした。他の人はいくら払ったのか、聞けば良かったが聞かなかった。ドライバーは他の乗客3人をそれぞれ異なった場所で下ろし、私が最後になった。一時止んでいた雨も再び降り出して来た。夜10時近く、雨の中を歩いてユース探しは大変なのでドライバーに、「ユースまで行って下さい」と言った。すると、「もう1ポンド払えば行く」とドライバー。不当な請求であるのか、そうでないのか、日本円に換算すれば大した額(?)ではないが、どうも『不慣れな旅行者を騙そう』としている気がしてならなかった。
 ドライバーは、私の希望に添うユースへ行かずホテルでもない、ある建物前に車を止めた。
「ここがユース ホステルです」と彼。
「ここはユース ホステルではない」と私。
「ここは、ユース ホステルです」と再度言った。
私は取り敢えず彼を信用して、建物の中へ入って見た。主人らしき人が現れた。ここは明らかにユースでもなければホテルでもない、ペンションである事が分った。しかし雨が降っているし、もう遅い(10時を過ぎていた)、ここに泊まる事にした。ドライバーに5ポンド札(約430円)を渡したが、色々言い訳をして結局、お釣りは無かった。それにしてもユースでないのに、如何して彼はユースと言ったのであろうか、理解出来なかった。このペンションの主人も凄く調子が良く、返って薄気味が悪く、過剰請求をされるのではないか、と思うほどであった。ペンション代7ポンド(602円)で朝食付きと言うが、何かごまかされている感じがした。とにかく不愉快なイスラエルの初日であった。    
寝たのは11時であった。

*後で分ったのであるが、やっぱり乗合タクシー(シェルート)の料金は、もっと安い様であった。私はここの国に遣って来たばかりの不慣れな旅人、弱みに付け込まれてしまったのだ。『ごまかされた』と気が付いても、後の祭りであった。

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