修行には肉体的修行を一般には思い浮かべますが、
これには限界があるのですね。
ここでの実践は、お釈迦様の教えである“心の修行”を
伝えているのです。
ご承知のとおり肉体は自然ですから、
生まれてから成長して最後にはまた自然に還っていきます。
ですから、そこに苦しみとか悩みとかの私(自我)が
在ることは“無い”のです。
心は生きることもなく、そして死ぬこともなく
“自由自在”に動いているのです。
本来は心と身体は“ひとつ”であり、そしてそれが宇宙とも
自然とも呼ばれています。
私(思考)は困った時の“神仏”頼みをしますが、それは
本来は自分自身に両手を合掌しているのですね。
ここは私(思考)が“神仏”を創り上げ、それにお願いして
いるのです。(笑)
事実は「思考自我」が居ないときに、自然に両手を合わせる
ものでしょう。
その心が“自由自在”に動いているということです。
これまでの人生の長い間には、様々のことが在ったなと
お思いでしょうが、事実には“何も無い”のです。
これを体得すべき、弛まぬ“只なる実践”の持続です。
これには限界があるのですね。
ここでの実践は、お釈迦様の教えである“心の修行”を
伝えているのです。
ご承知のとおり肉体は自然ですから、
生まれてから成長して最後にはまた自然に還っていきます。
ですから、そこに苦しみとか悩みとかの私(自我)が
在ることは“無い”のです。
心は生きることもなく、そして死ぬこともなく
“自由自在”に動いているのです。
本来は心と身体は“ひとつ”であり、そしてそれが宇宙とも
自然とも呼ばれています。
私(思考)は困った時の“神仏”頼みをしますが、それは
本来は自分自身に両手を合掌しているのですね。
ここは私(思考)が“神仏”を創り上げ、それにお願いして
いるのです。(笑)
事実は「思考自我」が居ないときに、自然に両手を合わせる
ものでしょう。
その心が“自由自在”に動いているということです。
これまでの人生の長い間には、様々のことが在ったなと
お思いでしょうが、事実には“何も無い”のです。
これを体得すべき、弛まぬ“只なる実践”の持続です。