アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

猫に自分を見る

2019-12-12 05:34:07 | 現代冥想の到達点
◎猫の時代と万人の大悟

現代人は、知性が発達している。知に働けば角が立つ(夏目漱石)が、知性はその旺盛な好奇心が裏付けであって、知性の強い人は猜疑心が強い。怜悧であって執拗なのだ。

怜悧であって執拗とは、出口王仁三郎による猫への評言。この時代、世界的に猫が歓迎されているのは、人類は、自分の特徴を猫に見ているのだろう。
もっとも出口王仁三郎は猫のことを霊的に怜悧、執拗と言ってはいる。猫は霊を追うので。

知性の発達と、悟りに堪え得るボディは獲得された。後は冥想するだけだ。神仏道と日常的にコンタクトできれば冥想の必要性を殊更に説く必要はない。

クリシュナムルティは、只管打坐で悟った日常とは何かを盛んに説いたが、冥想せよと説かなかった。たまたま彼を子供の頃から知る老女がいて、彼の50年間のすべての講演に出席していたが、彼に『どうやって瞑想するのか』と質問をしてのけたという(アティーシャの智恵の書 上p432/OSHOバグワン)。冥想法を呈示しない咎ではある。

七つの身体はそれぞれ別次元であるがゆえに現代人からみれば、連続性はないかに見える。だが、死に際して肉体とエーテル体はまもなく崩壊し、万人がアストラル体以上の構成で生きる。

また第七身体ニルヴァーナ、第六身体アートマン(本来の自己)を獲得するためには体験とは言えない体験を経過しなければならない。

そして七つの身体を自証するためにはニルヴァーナに到達するしかない。七つの身体の存在を証明するためには、第七身体ニルヴァーナを体験せねばならないという恐ろしい自家撞着がある。

第七身体の実在を万人に証明できるのは、万人が大悟した時だけなのだ。
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本当にしっくり来るものを求める時代

2019-12-11 05:35:03 | 究極というものの可能性
◎バーチャル・リアリティーは頭の延長

バーチャル・リアリティーは低層霊界であることは、以前述べた。

頭、マインドは、視覚や聴覚で得られる情報で世界を構築したがる。見えるもの、聞こえるもので大枠を構成し、見えない部分、聞こえない部分は過去の経験や推測で補う。これがバーチャル・リアリティーの姿。

中世日本人は、肚人間であって、人間はができているかどうかが問われた。
現代は、悪いことを人に隠れてやっていても、頭・マインドが良いことが第一とされる頭人間の時代。

感覚刺激と既成概念だけで作り上げた世界には珍奇、物珍しさはあるかもしれないが、人をうんと唸らせる本物感と神秘の深みはない。

バーチャル・リアリティーを感じさせるゴーグルの開発が盛んだが、数時間の着用でも頭が痛くなったりするのだろう。バーチャル・リアリティー用ゴーグルは、洞窟で一人で長期間暮らす実験のモバイル版のようなものだ。

21世紀中葉にもなろうとする今、人は内に向かい七つの身体という新たな地平を神仏とコンタクトを欠かさぬように生きる時代となっている。

頭・マインドをいじる道具は無数に増えた。動画チャンネル、youtubeなど動画提供ツールが花盛りすぎて、余暇のすべてを充てても見られるすべての映画や動画を見る時間がないことを皆感じる時代となった。

外的刺激のピークの時代になったのだ。
外的刺激を卒業する時代になったのだ。

本当のもの、本当にしっくり来るものを求める時代となったのだ。
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誰にでも起きる天地創造と終末SEKAI NO OWARI

2019-12-10 04:42:09 | 密教
◎チベット死者の書と世界の運命

10代、20代でチベット死者の書を買う人は多くとも、ちゃんと読み進める人は意外に多くないのではないだろうか。

多くの若者にとって死は暗いし、わけわからないし、楽しいことの方がいいし、ゲテモノ好きしか読まないのが、チベット死者の書だろう。かつての自分もそうだった。

チベット死者の書では、肉体にまつわる四大(地水火風)の各元素が滅び切る8ステップを過ぎると、天地創造である『光明=原初の光、一切空』が起こる。

屁理屈かもしれないが、この原初の光を起点に死の8ステップを逆順にたどれば、肉体が創造されるのだろうという説も成り立つ。

世界全体の成立プロセスを語る時に個人間から窮極のモクシャに至るルートがあって、それと逆にモクシャ(ニルヴァーナ)から個人間が発出されるプロセスがあるというのは、定説というべきものだから、このような推論はいわば基本である。

※死の8ステップ
(陽炎)
(煙)
(蛍)
(燈明の炎)
(顕明)
(増輝)
(近得)
(一切空)

 チベット死者の書での死-1
 チベット死者の書での死-2

時間の成り立ちを考えると天地創造に対するものは、ノアの洪水の如き世界の終末。

ノアの洪水は、あらゆるものを水要素に還元し、文明を破壊せしめる。文明を破壊するパワーも四大のうち三(風水火)が知られている。

地大の破壊が想定されていないのは、人間は、生存する惑星を変えて転生するので、それを指してと言う。それがあるので、「地災」については、仏教でも出口王仁三郎でも言及しないのかも知れない。

死の8ステップにおける『ノアの大洪水』は、第一ステップである“(1)地の元素が衰え、水に溶け込む。(陽炎)”なのだろうと思う。

ノアは、死ぬことなく生き延びたが、ほとんどのまともな聖典は、一旦は死にそれからの復活が真の生であることを示している。そこは結構なトラップではある。
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天上と地上の往復タイム

2019-12-09 05:31:05 | 現代冥想の到達点
◎パノラマ現象など

世界は、太古に創造されたことになっており、悠久の時間を経て現在に至る。そういうものが、時間のある世界での時間認識。

だが、そういうものは、幻影であり、今ここが過去から現在、未来に至るまで無限に変転展開していると認識する『今ここ』という非二元な立場もある。

この立場は、いわば二時間の映画が一巻のフィルムとして存在しているのに似ている。

スイスの地質学者アルバート・ハイムが登山中に落下した。その5秒か10秒間に起きたことは、まるで遠い舞台で彼の過去の人生すべてが次々と果てしなく演じられているのを見ているような気がしたという(出典:時間の発見/コリン・ウィルソン/三笠書房/P130)。

これは、パノラマ現象と呼ばれ、数秒のうちに過去現在未来を見るものであって、どちらかと言えば、現在が展開しているフィルムを一気に見る方に属しているのではないかと思う。

こういうシーンは、思いつく限りだと以下のようなものがある。
死のプロセスにおける閻魔大王面前での自分の人生回顧
邯鄲の夢
天界から地上の往還が数秒で起きること(ムハンマドの夜の旅)。

こういうのは時間のない世界で、起きているのだから、本来0秒で発生するのが本当だろうと最初に思うものだが、それがどこでかかっている時間なのかは、今後の研究を待ちたい。
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危険な沖縄、期待された沖縄

2019-12-08 06:28:06 | 時代のおわり
◎ダンテス・ダイジの超宗派的冥想

『危険な沖縄 親日米国人のホンネ警告/ケント・ギルバート/ロバート・D・エルドリッジ/産経新聞出版』は平成28年の本だが、尖閣に中国船は入ってきても文句を言わない県知事が辺野古反対ばかり唱える事象を筆頭に、ほとんど中国の一自治区みたいになった沖縄の実態を浮かび上がらせる。

沖縄は、地理的にみて、上海、台北、釜山、福岡からほぼ等距離にあり、中国、台湾、韓国を睨むには絶好で、軍事的要衝であり、これがゆえに米軍基地が多い。ペリー提督が日本来航前に沖縄を測量したのは、その軍事的価値の故である。

だから戦前沖縄が捨て石作戦の犠牲になったから手っ取り早く沖縄に米軍基地が多くなったということではないと理解している。

ダンテス・ダイジは、自らの禅的悟りの修行場として沖縄を選んだ。なぜ沖縄を選んだかについて、その座談の中で、沖縄人は本土の人よりも因習的な先入観が少ないということを語っている。

悟りの修行は、多くの部分が先入観を取り去るということだが、沖縄の人はその土台のところで一歩リードしていると見たのだろう。

その成果がダンテス・ダイジの超宗派的冥想という小冊子。この小冊子を今眺めてみると、後の『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』の骨組みの外形が現れているのに気づく。当時これを読んでも腑(はら)落ちしなかったのだが、ダンテス・ダイジ自身がこれは沖縄人向けに書いたのだというコメントがあり、また沖縄人の精神には戦争の影響が大きいことも言っていた。そのことが、この小冊子がバランスを欠いた印象を与える原因かと自分を納得させていた。

今読み返すと、七つの身体論がないところが、今一つ説得力を欠く理由なのかと思う。ダンテス・ダイジは「超宗派的冥想」以後に、クンダリーニ・ヨーガでのニルヴァーナを得たので、そこで初めて七つの身体を実証したのだろう。

映画『涙そうそう』(なだそうそう)は、2006年の日本映画。主演は妻夫木聡と長澤まさみ。借金返済のために過労のお兄ちゃんが、はかなくも病死する話。正しく、生きて死ぬ。人間のまともさという点では、よい。だが、今の人間は既成の先入観の人間という枠をジャンプ・アウトしなければならない。

沖縄の人には海外移民が多いというのは、その可能性という点ではベースが高いことを示しているのだろう。

だが、今の沖縄人はどうなのだろうか。
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娼婦、男娼、風俗産業など

2019-12-07 06:46:56 | 冥想アヴァンギャルド
◎前世では女性だったり男性だったり

映画『新宿スワン』や『探偵はBARにいる』を見て、世の中には娼婦をスカウトする人たちがいて、結構金回りは良いが、いろいろなハードシップに見舞われるものであることを知った。男娼にも類似した状況があるのだろうが、娼年はそういうのとは違う映画。

『中世娼婦の社会史/ジャック・ロシオ/筑摩書房』を見ると、女性の性暴力被害者が、地域のスカウトにマークされ、やがて娼婦となっていく例が多いなどとショッキングなことが書いてある。

コンベンショナルで、よそ者以外出会う人すべてが誰であるか知られた社会での娼婦はそのように残酷に発生するものなのだろうと思った。

性暴力は、加害者の半数以上が顔見知りであるが、政治学者三浦瑠麗さんのカミングアウトは、有名人がそれをカミングアウトするということそのものがエポック・メイキング。

さて今、匿名の人が大勢闊歩し出会いまくる社会にあっては、SNSもあるのだろうが、公然とそういう職業の求人広告が為される時代となってしまった。主流は手っ取り早くお金の必要な人。

生涯一人だけの人と関係を持つのが良いとされる時代は、20世紀前半まで長く続いた。『操を一夫のために守る』というのは、魂の伴侶=ソウル・メイトを思えば当然だが、生涯未婚者が増え、離婚率がこれだけ上がると絶滅危惧種のようなものかもしれない。女性の力が大きくなるプロセスの中で、複数男性との関係は昔ほど自責の念に駆られることではなくなったのだろう。

ダンテス・ダイジは、その重要な前世の一つが娼婦であったことを明かしているが、それを知った時は、何のためにそのようなことを語るのかと、微妙な気持ちにさせられたものだ。

およそ大悟覚醒し、この世の初めから終わりまで見た人物が、何を血迷って、男性でありながら、娼婦の前世だなんて、大衆宗教だったら大スキャンダルものだ、ぐらいに感じられた。

出口王仁三郎の自分は男性でありながら変性女子というのも似たようなことではある。

われわれも、前世では、女性だったり、男性だったりしているので、そのように思うこと自体変なのかもしれない。
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意識と自由

2019-12-06 05:27:27 | 究極というものの可能性
◎愛をもって自由に生きる道

意識が自由に七つの次元を動くと言っても、人間の人間たる所以は社会性と幸福にある。社会性があるということは、孤独でないという側面である。幸福に生きるというのは、生まれたということはやがて死ぬということであり、死により現世に築き上げたすべてを失う運命を片目で見ながら、それでも満足できるということ。

すべての人間はそうした過酷な運命に生きるが、それでも自由に生きたいと願う。20世紀以降、愛なしで自由に生きる道と、愛をもって自由に生きる道の二つが起きた。これは、ライフ・スタイルの孤立化に伴って起きて来た。

愛なしで自由に生きる道とは、金儲け、出世、名誉、リッチな生活など自己実現専一の道で、わりと他人のことはおかまいなし。これは、高い離婚率と独身者の多さに反映されている。全体として見れば地獄拡大、不幸な生活の蔓延となる。

一方愛をもって自由に生きる道とは、神仏を一度は見たことがあり、その上で、天国的なうまいこといっている状況にあっても誇ったり、自慢することなく、謙虚で。また他人に感謝されるようなことをしても感謝を期待しない。

逆に地獄的な状況にあっても、その状況を受け入れ、気まぐれ、気ままに行動しない。

神仏を一度は見たことがあるとは、一種の悟りのことだが、見仏見神はなくとも神仏の思し召しを感じ取ることのできる出来事は、誰でも生涯に一度や二度はあるものではないだろうか。

それをきっかけ、動機とし、冥想を習慣とし、それを深めて愛をもって自由に生きる道を目指すのが現代的ライフ・スタイルだと思う。たとえ度重なる天災、人災に遭ったりしたとしても。
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エネルギーと次元

2019-12-05 05:15:03 | 究極というものの可能性
◎多次元を貫くエネルギー、一気通貫

量子力学の発展により、物質レベルは漸く半物質の世界に踏み込もうとしている。だが、そこは本丸ではなく、まだまだ入り口付近のようなものだ。

意識は、顕在意識、潜在意識とあるように、あるいは欲界、色界、無色界とあるように、複数の層の次元を自由に動く。

エネルギーは意識だから、多次元を自由に動くエネルギーがあるということである。

これは、道教慧命経の挿絵化身図第六などに端的に表現されている。肉体からエネルギーが出離して、真源あるいは法界にジャンプアウトするのだ。

肉体はその肉体・物質次元を出ず、気なるエーテル体もそのエーテル次元を出ないが、多次元を貫くエネルギーがある。
道家がこれを一気通貫と表現したのは、誠に痛快な表現だと思う。

これだけでは霊能力指向、超能力指向になりがちだが、各宗派では最終ステップを必ず示し、ブラック・マジックに陥らないように戒めている。
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エネルギーは意識である

2019-12-04 05:33:43 | 究極というものの可能性
◎クンダリーニ、ガネーシャの鼻、アスクレピオスの杖の蛇

仏教では、淫欲食欲など物質を対象に欲望する欲界があり、清らかで純粋な物質を欲望する色界があり、精神的なものを欲望する無色界があるとする。これらに共通する考え方が、意識、思念は現実化するものであり、エネルギーは、精妙な側の意識から粗雑な側の意識に働きかけて物質を現実化するものだということ。

意識とは、その現実形成力ゆえにエネルギーである。

想念とか感情とかのままで現実化する以前の意識は、エネルギーの形態としてはやや精妙であって、その中は意識、無意識に区分され、個人の意識の層の奥には、様々なレベルでの集合的無意識がある(家系の集合的無意識、地域の集合的無意識、組織の集合的無意識、人種の集合的無意識、国家の集合的無意識等々)

このあたりは、エネルギーの活躍の場の区分。

神と人との関係を見るに、神も、観察者(見る人)もどちらもエネルギー(力)であって、最終ステージでは、観察者の立場を棄てることを求められ、その彼我のエネルギーは合一されることを望む。

これが、意識であるエネルギーの最高次の姿だが、個なるエネルギーの姿をクンダリーニとよび、蛇と呼び、ガネーシャの鼻と呼び、一気通貫と呼び、アスクレピオスの杖の蛇と呼ぶ。これは筒を上昇するようなので、筒男は古事記で登場。

かくの如く、神秘家、スピリチュアリストの間では、エネルギーは意識であるというのは、常識の一部である。
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私はソーマを飲んだのか?

2019-12-03 05:40:44 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ

ソーマ賛歌は、古代インドのヴェーダの中にも類似したものがあり、向精神性薬物であるソーマにより大悟徹底、神人合一、宇宙意識への突入を目指すものであるという立場が明らかにされているが、散佚したのか、最初からバラバラに採録されたのかは解らないが、通して読んでも盛り上がりを欠く。

そこで、ダンテス・ダイジが、それを翻案し、『ソーマ賛歌』を歌い上げた。

『ソーマ賛歌
果てしなく吹きあれる嵐のごとく
それが私の眼を目覚ましめた
私はソーマを飲んだのか?

たくましき軍馬が戦車を引いて天翔るように
それが私を限りなく成長させた
私はソーマを飲んだのか?

母なる牛が子牛を抱くように
激しい歓喜が私を包んだ
私はソーマを飲んだのか?

戦士が戦車のうちに魂をこめるように
私はこの歓喜にすべてを委ねた
私はソーマを飲んだのか?

世界のあらゆる国々なぞ
私の眼のちりほどにも価値はない
私はソーマを飲んだのか?

天上の神々なぞ私の爪の垢にも匹敵せぬ
私はソーマを飲んだのか?

輝かしい光明のうちに
私は天空と大地のかなたを越えた
私はソーマを飲んだのか?

私は地球やあらゆる星星をつまみあげ
ここに あるいはあそこに置いてみては戯れる
私はソーマを飲んだのか?
それともソーマが私を飲んだのだろうか?

ハリ・オーム・ソーマ
ソーマ・アムリタ・ソーマ』
(ダンテス・ダイジ/メディテーション・トラベルガイドから引用)

不思議なことに似たような情景を歌った出口王仁三郎の歌もある。
『日地月あはせて造る串団子星の胡麻かけ喰ふ王仁口

日地月星の団子も食ひあきて今は宇宙の天界を呑む』
(出口王仁三郎著作集 第2巻第2部社会批判の展開/吾人の現代観)

出口王仁三郎は、明らかにソーマ・ヨーギではないが、その境地は卓絶したソーマ・ヨーギ、例えばヤキ・インディアンのドン・ファン・マトゥスと同様のものであることがうかがい知れる。

ドン・ファン・マトゥスは、カルロス・カスタネダにより、1960年代、70年代アメリカのドラッグ・シーンに大きな衝撃を与え、その影響は未だに続いているし、悪影響も大きい。

ソーマ・ヨーガは廃人になったり日常生活ができなくなる危険性をはらむが、クンダリーニを勝手に上げたり、我流で気を回したり、ただ固定した姿勢で静坐し続けたりしても、妄想にとり殺される様なことがある。またセックス・ヨーガであるカーマ・ヨーガにも依存性とカルマをぐちゃぐちゃなものにされる危険性をはらむ。

どんなまともな行法であっても、人生のすべてを賭けねば大きなリターンはないという原則は共通しており、賭けたからといって必ずしも成功するとは限らないものである。

だが道教の魏伯陽の故事を見てもすべてを賭けられるものだけが、道に至る。

それでもソーマ・ヨーガは、古代インドでもゾロアスターのペルシャでもハオマと尊称され、重要な悟りに至るメソッドとして命脈を保ち続けている。

ダンテス・ダイジの別の詩にはソーマを水先案内人と見ているものもあり、もう少しで大悟しそうな人や、一度大悟した人がもう一度それをゲットしたり、維持したりするためにソーマを用いる場合もあることが唆めかされている。

酒をソーマとして使う人もいる。
北欧神話では、ミーミルの泉の水である。
インドラ神は、卑しい漁師の姿になって、不死の聖水アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。この尿もソーマである。
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美術館巡り、博物館巡り、寺社巡り

2019-12-02 05:38:07 | 究極というものの可能性
◎代替品を捨てる

真善美を見るため、宗教画、仏像、イコン、曼荼羅、伽藍を見に美術館や博物館や寺社巡りをする人はいる。

だが、そこに神仏の属性である真善美はない。それは、本来何か神聖なものであって、触れたり、見たり、描いたりできないものなのではないか。

冥想修業の窮極に身心脱落、神人合一、即身成仏などと称する状態が存在する。それは、第七身体ニルヴァーナに到達した状態で、そこに居ることをニルビカルパ・サマディーなどと呼び、坐っている個が存在しないような姿である。 

これぞ神聖な状態であるが、これを長く続けるのは、なかなか大変な技である。ラーマクリシュナは、しばしば太母カーリー女神と合体したが、トランス状態、三昧にあって、その間何もできない状態が続き、醒めては、虚弱体質で、日常家事などもなかなかできないほどであったらしい。

ニルビカルパ・サマディーは神聖な状態の現出だが、他人がラーマクリシュナを見るというのは、その神聖な状態を見るというよりも、恍惚にあって坐っている人を見ているだけということになろう。

ほとんどの人は自分の願いを叶えてくれる神仏を求めているが、神聖さそのものの実現を求めている人はそう多くないものだ。他人との会話の中で、「神人合一を目めざして修行しています」などと言えば引かれるのがオチだ。

本当の神聖さは、見物できたり、触れたり、願望を実現したいという功利性にはない。自分の内側に、本当の神聖さを発現させるしかないものだ。

その神仏は願いを叶えないと言った瞬間に大衆は集まって来なくなる。釈迦の開いた仏教は、日本に残っているが、インド、中国では滅亡済みとなり、イエスは、あまりにも本当のことを言い続けたために在世中に刑死するようなことになった。

いまや人類はその知性の発達により、エゴ・トリップの限界を見切り、自分の内側を覗き込む時節が到来した。いつまでも本物の代わりのおもちゃで遊んでいる場合ではない。
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人類は死にかけていると見る

2019-12-01 06:41:09 | マインド・コントロール
◎死の不安と意識の裂け目をふさぐ努力

死にかけている人は、例の死の受容のステップにあるように、初期段階では、死と葛藤する。その葛藤の中で、残された時間が少ない中で、何かをものすごくしたいという衝動に駆られることがある。

不安とは、凍りついた恐怖のこと。その恐怖を内部で押し殺すことで不安の内的圧力は増大し、動作はせかせか、緊張は高まり何か刺激があると極めて敏感に即時に反応しがちで、呼吸も心拍も上がる。

人類を何十回も全滅できる核兵器が世界じゅうにはりめぐらされ、それを知っていたり、管理したりする人たちの恐怖が、集合的無意識経由で大衆に感知されて漠然とした不安となる。人類は、予期せぬ誰かの核の一撃をきっかけにプログラムで定められたように核で全面反撃し、ある日突然自殺できるのだと内心知っている。

人類を洗脳する手法は、共産主義国において無辜の自国民を何十年も洗脳し続けたノウハウの蓄積に加え、資本主義国でもマスコミ、商業宣伝、薬物の発達でサブリミナルな洗脳が日常的に大規模に行われ続けている。

大衆の耳も目も開けさせたままで、24時間膨大な商業、政治、社会、宗教プロパガンダを流し続けることで、立ち止まって考える心理的余裕を与えないことにより、宣伝で期待される行動を取るようにしむけていく。

要するに意識の隙間を感知できないように人を無感覚にし続けることなのだが、この手法には大きな弊害がある。プロパガンダのないわずかな時間帯に不安のエネルギーは、ストレスとなって亢進するのだが、その症状が急速で激化しやすいということ。キレやすくなるのだ。

いまや人は携帯、スマホを持ち、ますます目と耳を洗脳用AVに晒す時間を稠密にさせている。かくして隙間がわずかとなり、行き場を失った大衆の膨大な心的エネルギーは、スーパー台風などの異常気象を現出したり、映画ジョーカーのように、低所得であって失うものが何もなくて、何が正しいかどうかわからなくなって、殺人したり暴動したりすることに共感するようになり得る。

金もなく、心をほとんどハイジャックされれば、人は暴発するしかないだろう。

どつき漫才は、いまやパワハラ芸と名を変えたが、TVのお笑いの半数はパワハラ芸。芸人は笑いを取る商売だが、人に素行を嗤われるのもマスコミの商売ネタとなった感がある。このように他人を慈しまない心理は、「苦しむのもまんざらではない」という自虐的心理の延長ではあるが、それは倒錯的ではあると思う。

真の愛なき時代は、民主主義という名の下に大衆の心的成熟を醸成してきた。組織宗教の終わりの時代、この民主主義主力の時代はいつまでもつのだろうか。

日々冥想を。
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