アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

フランシスコ教皇の来日

2019-11-23 06:56:56 | キリスト者の秘蹟
◎延び延びになっている時代の終わり

ローマ・カトリック教会のフランシスコ教皇が、2019年11月23日、38年ぶりに来日。これは、微妙な時期であって、10月は日本全国で水害が荒れ狂い、昨夜、韓国がGSOMIA(日韓の軍事情報包括保護協定)を急転直下継続することが決まったばかりのタイミング。東アジア大乱の前にやって来た。

天皇は、古神道のトップであり、「神事がまず先」とされ、立場的には、ローマ教皇と似ている。
カトリックも中世にはボルジア家など涜神の教皇もいたのかもしれないが、原則として見神(禅でいえば十牛図第三図)を体験した人物が教皇だったのだろうと思う。そうでなければ教皇となって大勢の聖職者、信者のトップにはなれないだろう。そして、天皇陛下ですら防弾装甲の特殊リムジンで移動されるのに対し、教皇は、防弾ガラスもない祭りの山車みたいな車で皆が見れるよう移動するのは、自爆テロも狙撃も恐れないという姿勢の表れ。

自らを守らないというのは、覚者の証明である。この個人の私権保護が強烈でプライバシー不可侵のうるさい時代に、「自分を守らない」宗教組織トップはそれだけで一つの驚異である。

さて全ローマ教皇を網羅し予言したという聖マラキー予言は、最後の「オリーブの栄光」が先代のベネディクト16世 (2005–2013)に照応し、今のフランシスコ教皇は、預言が尽きる最後の教皇である。ダライ・ラマも最後のダライ・ラマと宣言。

時代の終わりは、20世紀の覚者たちが見るところ1999年頃だったのが、もう20年近く繰り延べられている。

そうした延び延びな状況の産物がマラキー預言の終わりの教皇となったみたいなところはあるのであって、彼だけが特別ということではない。相変わらず私たちは、神知らぬ人間が大多数であるといういわば罰当たりな社会と人生を生きているのだから。
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アメリカは日本の飯の種

2019-11-22 06:35:46 | 究極というものの可能性
◎マネー、黄金、物欲を払拭し

マスコミの論調は、半分くらい左寄りであって反米的なものがある。日本の国益を考えれば、敗戦、GHQでの占領統治そして日本独立という経緯も踏まえ、反米という立場もあり得るとは思う。

だが、日本は米国の核の傘に守られているのであって、その庇護下で膨大な軍事支出を避けることで経済に注力した国家運営を行い経済的には世界の大国となった。

「日の出の日の字は朝日の日の字
 米国の米の字は米と書く
 やがて日の出の【まま】となる。」
(霊界物語第57巻) 第一〇章 転香から引用。

戦前の日本は、鉄鋼、石油などを米国に依存しており、戦前も米国は、日本の飯櫃(まま)であって、日米戦争開戦の主たる理由の一つは米国が石油の日本向け輸出を止めたこと。

戦後も米国は日本製品の主力輸出先として日本の飯櫃(まま)であり続けてきた。日本は防衛の主軸を米国に依存している以上は、貿易、金融などで米国からの無理難題を呑まねばならない。それは平和憲法と表裏一体の関係。

その上アメリカは、日本の「まま」となって、至福千年、弥勒の世の国家形態である実質武装解除国家を世界に先んじて実現し、戦後維持し続けたのだ。

さて霊界物語57巻の第10章は、物質欲とマネー、黄金、糞尿の言葉が連発し、浄穢不二なクンダリーニ・ヨーガ的世界観が展開する。浄穢不二とは、汚いのと清潔なのという意味でなく、価値あるものと価値のないものが同じであるという人間社会では困った世界観。それが実は魔術、超能力、神通力の世界のルールであるということ。それをまともに論じれるのは人間を卒業したか、ほとんど卒業しかけている人だけであって、俗人の関与できるところではない。

出口王仁三郎は、死後に中有(バルド)で、物質・マネー優先思想を払拭できなければ、地獄に行くし、あるいは中有で時間をかけて払拭し天国に行く人もいれば、最初から払拭できていれば即天国に上がるとも説明している。

払拭のイメージは、理智を捨て、意識レベルを意志と想念に落として払拭。
『暫らく理智を捨て、意志を専らとして研究すれば神の愛、仏の善、及び信と真との光明がさして来るのだ。
(中略)
現世に於て心にもない事を云つたり、阿諛を使つたり、体を窶(やつ)したり、
種々とやつて来た其外念をスツカリ取り外し、第二の内部状態に入り、内的生涯の関門を越えるのだ。』
(霊界物語57巻第12章から引用)
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シュトーレン、パネトーニ

2019-11-21 05:41:47 | 時代のおわり
◎自分も貧しくなった日本人

収穫の時期が終わり、クリスマス前の今の時期には、シュトーレンや、パネトーニなどのクルミやドライフルーツ入りの菓子パンが、店頭に並ぶ。キリスト教国では、庶民には決して安くはない値段だが、店頭に天井まで積み上げて置いてあったりする。

シュトーレンは、長くコッペパン型だが、パネトーニ(パネトーネ)はお鍋型と形は違うが菓子パンに変わりはない。

18世紀以前の篤信の時代は、主の降臨を願う人たちが、実際にイエスの降臨は叶わずとも、飢えと困窮に苦しむ人々もシュトーレン、パネトーニを口にすることでひと時のこの世の憂さを晴らしたに違いない。

寒い季節は暖かいもの甘いものが身に沁みる。

ここ5年くらいでケーキの大きさは同じ値段で三分の二くらいの大きさになった。日本人の困窮の度合いも深まり、国民の半数近くで非正規雇用を主因とする「子供の貧困」という名で貧困の深化が進んでいる。

夏は、薄着なので、服装で貧困を見分けることはできないが、冬はサンダル履きだったり、安くなったダウンすらも着ていないことで貧者であることがわかって愕然とする。

生活が苦しいのは年金老人だけでなく、勤労世代も相当に苦しい。こうした時代が続くと、出口を求めて青年が動き出すものだが、青少年含めて団塊の世代より下は、あまりにも外的に対して無防備、脳天気に過ぎる。気がつけば、中国の乱獲などで、サンマもイカもスーパーに並ばないようになり、うなぎなどは、その価格はフグ料理に接近しつつある。

日本は貧しく、周辺諸外国に貪られているという方向へ現実認識への切り替えが必要なのだろう。
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蓮如六歳にして生母と生別

2019-11-20 05:39:38 | 冥想アヴァンギャルド
◎つくづくと思いくらして

蓮如の父存如は、親鸞の嫡流の七代目であった。存如の時代は、本願寺といっても天台宗青蓮院の末寺に過ぎず、豊かな財産、盛名があったわけではない。

一説に存如は身の回りの世話をしていたメイドの女性蓮の前と関係ができ、そこで生まれたのが蓮如。

蓮如が六歳になったある日、蓮如の生母蓮の前は、絵師を呼び、蓮如の姿を描かせた。これが鹿子(かのこ)御影呼ばれる蓮如の尊像。

まもなく蓮の前は、行き方知れずとなって、蓮如は生母と生別した。存如は後妻に五月の前を迎え一子を儲けたが、蓮如がいては本願寺八世を我が子が継げないと思ったのか、後妻から蓮如は盛んにいじめを受けた。

第三者の目からはいじめの方を注目しがちだが、生母との生別の喪失感、無常感は、その後の一生に影響を与える。

つくづくと思いくらして 入りあいの鐘のひびきに 弥陀ぞ恋しき
  (蓮如)

この弥陀は、蓮如の目には生母と見えていたのかもしれない。
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生まれ変わり死に変わり

2019-11-19 05:45:17 | 道教
◎進士陳堯咨が前世のヒントをもらう

唐末から宋にかけて陳搏(ちんはく)という仙人がいた。
その弟子に陳堯咨という者がいて、進士の試験に合格して、陳搏に挨拶にきたところ、その座に一人の道人がいて、彼を見て「南庵、南庵」と呼んだ。道人が去ってから、陳堯咨は、師に南庵というのはどういう意味かと問うと、陳搏はいずれ自分でわかるとし、答えなかった。その道人は鍾離権であった。

後に陳堯咨が閔中に行き、ふとある村を通りかかると、そこの婦人が一人の子供に「南庵に行って父を迎えに行ってきなさい」と言いつけているところに出くわした。その婦人に南庵とは何かと問うと、一つの廃れた伽藍に案内され墓を見ると南庵主人という人物の逝去日が書いてあった。その日は、陳堯咨の出生月であり、自分は南庵の生まれ変わりであると悟ったという。

それにしても鍾離権はほのめかししか言ってくれないのは、前世を知るということの軽重は、自分自身で能動的に知るべきことなのだろうと思う。

易占というものがあるが、現状の自分の周辺の事物はすべてほのめかしであり、将来のサインであり得る。筮竹を用いなくても。

あるものをきっかけに自分をのぞき込むとはそういうことなのだろうと思う。他人に言われるのでなく、自分で覗き込むのだ。
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言霊の威力-2

2019-11-18 05:42:52 | 古神道の手振り
◎心に誠あるときは知らず識らずに言霊澄むなり

出口王仁三郎の歌集「言華 下巻」P347-347から
『来るべき世の変遷も言霊(ことたま)の力によりて明白となるなり

時じくに鳴り鳴り鳴りてとめどなき主(す)の言霊に地上は生くるも

神人は常住不断言霊の助けを受けて生き栄(さか)ゆなり

言霊の光に一切万有はいや永遠(とこしえ)の生命(いのち)を保つも

食物に含める五味のことごとは皆言霊の力なりけり

言霊の正しき人は久方の天(あめ)の恵みを満たせる神なり

肝向かう心に誠あるときは知らず識らずに言霊澄むなり』

空海は阿字本義を唱え、出口王仁三郎はス字本義を唱えた。あらゆる宗教の根本は同じという万教帰一説はあるが、それと同様にスで統一されるべき確信が出口王仁三郎にはあったのだろう。

人類には頭があって二本の手と二本の足があるように、人類共通に起こることと言えば、死の時に青いサンスクリットのオームの字が見え、チベット死者の書に描かれた8段階で肉体死が起こり、原初の光を見るということなのだろうと思う。

これを現代人に対して証明することは、現代人の側がその死のプロセスを感得できるほどの精妙な感覚と、意識の清明を維持できれば可能なのだろうと思う。だがそれには、然るべき訓練、準備が必要であって、この価値観の自由、思想信教の自由が認められた社会においてすら容易なことではない。

心に誠あるときは知らず識らずに言霊澄むというが、これだけ正気を保つのも厳しい日常において、心に誠を持ち続けるのも相当な修練が必要である。
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行為の道、事上磨錬とバガバッド・ギータ

2019-11-17 06:56:06 | 究極というものの可能性
◎為すべきことしても解脱できる

人は為すべきことをすることでも、最終解脱に至る。

それをカルマ・ヨーガと言ってのけるは簡単だが、実際にそれをするのは簡単なことではない。

王陽明は、政府高官であって、禅もたしなんでいたが、自分の歩んでいく道の本質は、日々なすべきことをなすことで、大悟覚醒に至る事上磨錬であると認識していたのではないだろうか。働きながら悟る、家事をやりながら覚醒する、学びながら光明を得るものだが、王陽明は静坐と呼ばれる冥想法に取り組んでいた。

訓読:人は須く事上に在って磨錬し、功夫をなす、すなわち益あり。(人須在事上磨錬、做功夫、乃有益(伝習録 下))

このやり方は、現代のライフスタイルに適合しているが、冥想が深まれば、働けなくなったり、家事ができなくなったりする段階もあり得る。

古代インドでは、どうしても坐る冥想に力点が置かれがちだが、為すべきことを為すことでニルヴァーナに達することができることもバガバッド・ギータには描かれている。

それは、戦争に向かう若い王族アルジュナが御者にクリシュナを従え、戦場に立つのだが、殺生してはならないという人間として当たり前の徳目を破ることに抵抗があったり、敵方に親族がいたりするので出陣を渋る。これを見てとったクリシュナが、行って殺せ、人は為すべきことを為すことで窮極に至ると諭す。

為すべきことをなすとは、仕事は精密に、家事は手抜きなくなどということ。その積み重ねが人を変えて行く。

こうしたやり方は、一足飛びな冥想に比べれば速度は遅いかもしれないが、「起こることは起こったが、何が起こったのかわからない」とか、別の隘路にはまり込むことを慎重に避けられるということはあるかも知れない。

この時代は既にカウントダウンな危急の時期に入っているのだ。つい先月首都圏は大規模な洪水の危機に晒されたように。
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大嘗祭、出口王仁三郎の見方

2019-11-16 06:26:39 | 古神道の手振り
◎天皇と民草は、祖先に神を通じて同胞

大嘗祭についての出口王仁三郎の見方は次のようなものである。

1.大嘗祭とは、天皇位に即位後、京都を中心として全国東西の地方を代表した悠紀、主基両斎国より奉献の新穀を以て、初めて親しく天祖天照大神を始め奉り、八百万の天神地祇を請饗し給い、尚天皇自身も之を食せられ、臣下にも賜る大祀である。(出口王仁三郎全集第1巻第4篇日本精神の真髄第6章大礼の意義)

2.神武天皇が、日向より東征の軍を起しあまたの賊徒を誅戮して天下平定の後、皇祖天神を祭って荘重なる御即位の式を行ったが、これが大嘗祭の嚆矢。また即位後四年に天神を祭祀するために、霊畤(れいじ。即位後最初の新嘗祭の行われる神の庭)を大和国宇陀郡榛原村の鳥見の山中に立てて皇祖天神の大祭を行った。(出口王仁三郎全集第2巻【宗教編】第5篇宗教と政治第2章歴朝の施政方針)

3.諸外国は、最高権力者と人民のつながりの基本は権利義務の契約に置いている。これに対して日本では、天皇と民草は、祖先に神を通じて同胞であり、頭上に日の御子たる天皇を戴いて一体である。神はわれらの父であり、皇室はその御本家にまします。
(惟神の道/天国の国体や如何)

この天皇と民草が、祖先に神を通じて同胞である姿こそ、天国における国体のあり方であって、西洋風の権利義務法律で成る国はさに非ずと、出口王仁三郎は語る。これぞ国体の本義。大嘗祭は、その要である。

そこで、彼は「心を空しくして神に祈り、われらは天孫の臣であり神国の民であるという自覚に生きなさい。」とする。

まず大神があって、人類181位階(トップは大神)という全体像があって、人類の代表として天皇がおわしますなどというヒエラルキーは、この国連中心、五大核保有国中心の世界秩序からすれば、絵空事なのだが、万人が神を知り、霊界の全体構造を知れば、常識となるのだろうと思う。

なお大礼とは、即位の礼と大嘗祭のこと。

758年の頃からの大極殿御斎会では、大極殿の高御座に盧舎那三尊像が据えられ、天皇が鬼門の方向に座ったこともあったという(出所:天皇の即位儀礼と神仏/松本郁代/吉川弘文館p35)。古神道は、仏教などでわやにされたところは大いにあるのだろう。
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ボクシング井上尚弥、集中が切れる瞬間を狙う

2019-11-15 06:11:12 | 気功、導引(冥想法2)
◎人は3分間も絶対に集中できない

2019年11月7日、プロボクシング:ワールド・ボクシング・スーパーシリーズ(WBSS)バンタム級決勝(さいたまスーパーアリーナ)が行われ、3階級王者のWBA・IBF世界バンタム級王者井上尚弥(26)が真の階級最強王者の称号を手にした。倒した相手は5階級王者のWBAスーパー王者ノニト・ドネア(36=フィリピン)。3-0の判定で勝利を手にした。

その井上が、意識の隙間について述べている。試合の途中では、ぼんやりと相手の肩の動きとか、全体を見ながら、目とか、呼吸とかで、相手の集中力が途切れた瞬間を逃さずパンチを打ち込む。(この「ぼんやりと」が、同時に別の深い意識で見ているということ)


井上尚弥曰く、人は3分間も絶対に集中できないし、自分も無理、と。だがその息を吐く瞬間というか、たぶん相手が反応できないだろう瞬間に間髪を入れずに打ち込むからこそ、1ラウンドでのKOが多い。

人には意識の隙間がある。吸う息、呼く息の間には隙間がある。老境にさしかかって思うのは、その意識の連続の隙間の回数は増えているし、隙間の時間も長くなっていること。(この延長線で死の直前に青いオームの字を見るのだろう)

意識の隙間は、現実の隙間であり、第一身体である肉体意識、肉体・物質という現実の隙間である。その隙間で人は別の次元別の世界を感じることで、この世界の不安定性、寄る辺なさを感得する。

彼の試合は、相手が攻める気の時はかわして、ちょっと緩んだときに逃さずに攻めるように見える。これは、合気道にも通じるところがあるように思った。ネットに植芝盛平の演武シーンがあるが、その狙う隙間は同じであるように思う。

白隠の師の慧端が、団扇で武芸者の木刀をあしらうシーンがあるが、その隙間を完全に見切ってこそなのだと思う。

※井上尚弥の発言の出典:NHKの番組(2019年11月12日(火)プロフェッショナル 仕事の流儀「モンスターの素顔~プロボクサー・井上尚弥」)、スポーツニュースサイト「THE ANSWER」のインタビュー(2019.01.02)「井上尚弥インタビューvol.1 強さの秘密は達人級の集中力「人は3分間集中できない」」
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言霊の威力-1

2019-11-14 06:58:17 | 古神道の手振り
◎言霊の原理を夢にも知らない

出口王仁三郎の歌集「言華」P346-347から
『天地(あめつち)は一切万事言霊(ことたま)の水火(いき)に即して生くるものなり

国学者なるもの沢にありながら 学王学の言霊知らざり

我が国の皇道を説く物識(し)りも 言霊の原理夢にも知らなく

天界は言霊の水火にもとづける意志想念の世界なりけり

言霊の清濁によりて その人の善悪智愚の程度はわかるも

森羅万象(よろずのもの)悉く皆言霊の助けによりて生まれたるなり

主(ス)の神の生言霊(いくことたまの)大原理知らずば天地の成立(なりたち)解(わか)らず』

生言霊の大原理とは、主の神第七身体から発出されたリーラ世界遊戯を構成するパワーが、第六身体「有、アートマン、本来の自己」、個の窮めであるコーザル体、メンタル体(天界)、アストラル体、エーテル体、肉体と下降し、現界の事物現象を展開すること。

大覚者の言行録や古伝承の中には、時に世界の始まりを見た記載がある。それは列子天瑞篇の太素古事記の葦牙や、ゾーハルの一条の黒ずんだ焔というようなものになる。

これを目撃するということは、人間をほとんど卒業、輪廻転生をほとんど終わりかけているということであって、欲得、便利追求、セックスで頭が一杯な人には縁遠いことである。

言霊の清濁と申してもアナウンサーの言霊は清澄であるということではない。
神を知り、善を行い、悪をしないで言霊はスミキル

生言霊の大原理を活用し、空海は、各地に池や井戸を掘った。出口王仁三郎は、大教団を形成し弾圧されることで日本の将来の布石を打った。

神を知り、世界の根源、世界の始まりを目撃できるレベルでないと、言霊の活用などできないと言っているように思う。
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無想三昧到達者の次の生

2019-11-13 06:19:48 | 究極というものの可能性
◎解読キーの隠されてきたヨーガ・スートラ

ヨーガ・スートラ無想三昧到達者の次の生のことが書いてある。

ヨーガ・スートラ1.19
『離身者たちと自性に没入したひとたちとには、存在の想念を含むところの似て非なる無想三昧がある』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治P52から引用)

これでは何だかよくわからない。

OSHOバグワンのヨーガ・スートラ講話Yoga: The Alpha and the Omegaの第二巻では、釈迦は直前世で無想三昧に達していたが、カルマの種は残していたので、再転生したなどと書いているので、この離身者とは、脱身でなく再転生であると見ている。

さらにOSHOバグワンは、無想三昧の後は1回の転生だけが可能であって、最後の生では、彼はカルマの種が動くに任せ、目撃者であることに徹するなどと、意味深長なことを書いている。

それにしても語義だけ追っても意味のとれない日本語になってしまうのだから、パタンジャリのヨーガ・スートラを現代語訳しようという無謀な挑戦をしようという猪武者がほとんどいなかったのは、この1条だけ取り上げてもわかる。

七つの身体論は、その解読キーになるべきだが、20世紀になるまで、隠されてきたのだと思う。
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十和田湖の噴火と男装坊

2019-11-12 05:54:14 | 冥想アヴァンギャルド
◎男装坊が人間として再出世

秋田では、十和田湖と八郎潟のバトルの民話があるのだが、これを漫然と聞くとそのままに終わってしまう。

出口王仁三郎には、十和田湖と男装坊の逸話があるが、これだけでは男装坊が20世紀に出口和明氏と転生して、出口王仁三郎周辺の小説などをものした程度の理解となる。
この逸話は、十和田湖に蟠踞していた八郎という龍を法力によって男装坊が八郎潟に追放し、20世紀に出口王仁三郎が十和田湖訪問の折、男装坊は十和田湖の守護を卒業し、再度人間として再生することになったというもの。

ところが十和田湖と男装坊の逸話は、十和田湖の噴火は、日本においては過去2000年間の最大級の噴火であったことを枕にしないと全貌がわかりにくいのではないかと思うに至った。

915年(延喜15年)8月、十和田湖は大爆発を起こし、その火砕流は周囲20キロのあらゆるものを焼き流したと思われる。

富士山は、日本の立替立直しの最終シーンでの噴火と言われるが、その前段として出口王仁三郎がわざわざ男装坊と八郎の霊界での法力バトルを描いているように、十和田湖の噴火もあり得るとほのめかしているのだろうか。またそれは先年の東日本大震災において、やや解消減衰せられたのだろうか。

出口王仁三郎が十和田遊覧のおり、土地の民話に感じて男装坊と八郎の争闘を改めて書き起こした動機を推測せざるを得ない。いずれにしても、東北は目が離せない。

十和田の噴火の後、946年白頭山(長白山)の噴火があり、これは過去2000年で、十和田湖の噴火を上回る世界最大規模の噴火と言われる。

長白山にも守護神仙がいたが、それは存命なのだろうか。
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知れば迷い知らねば迷う法の道

2019-11-11 05:44:54 | マントラ禅(冥想法7)
◎何が仏の実(まこと)なるらん

至道無難禅師「即心記」の冒頭。

『知れば迷い知らねば迷う法(のり)の道
 何が仏の実(まこと)なるらん

(大意:知れば迷い、知らければ迷う仏の道
 何が仏の真実なのだろうか)

この歌の核心が明らかになれば、大道が明らかになるだろう。』

仏道を知らなければ迷うのは当然として、仏道を知って迷うとはどういうことなのか。

この後に説明があるが、悟りを持って生きるのは日夜安楽だとある。安楽と言わねばならないほどに、悟後も苦があるというのが前提になっている。

至道無難は、すべてのカルマを尽くし果てれば、生死もない、なしということもないというところに行くが、それは非常に到達しがたいところである。よって禅は悟りを先にして、カルマを果たし尽くして行く道をとるのだ、と。

こうした意味でも若年のうちの見性というのは、重要なことなのだとわかる。
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シャンカラからOSHOバグワンへ

2019-11-10 06:08:34 | 究極というものの可能性
◎不二一元論から七つの身体論

不二一元論とは、ウパニシャッドなどを正当な根拠と見てブラフマンを唯一の真実在と見る考え方である。

『聖者たちのインド/春秋社P92』では、OSHOバグワンの悟りが不二一元論と同じ構造を持っていると書いてあるが、それだけではないと思う。

不二一元論の代表的な著作であるシャンカラのウパデーシャ・サーハスリーからそのさわりの部分。
『五  目覚めるまでは、夢は真実であるように、アートマンの知識が〔得られる〕までは、身体とアートマンとの〔同一性〕は〔真実であり〕、直接知覚などが知識根拠であることや覚醒状態も〔真実で〕ある。

六 虚空のように、一切生類のなかに住しつつも、私は〔一切〕生類の諸欠点から自由である。
私は目撃者であり、観察者であり、属性なく、清浄なブラフマンである。それゆえに私は絶対者である。

七 名称や形態や行為とは別のものであって(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャツド』1.6.1参照)、本性上、つねに解脱しており。私はアートマンであり、最高ブラフマンである。私は純粋精神のみであり、常に不二である。』
(ウパデーシャ・サーハスリー 真実の自己の探求 [岩波文庫] シャンカラ/著 岩波書店P42-43から引用)

私は観察者、見る者であると言いながら、ブラフマンなる私は純粋精神であり、常に不二と説明する。これでは見る立場と見られる立場は分離していない。

これだけでは、肉体と精神の分離はわかるが、個と全体、有と無の違いはわからない。
(シャンカラが原典と考えていたウパニシャッド。だがウパニシャッドを読むと相互に矛盾している記述は多いものだ。)

そこでOSHOバグワンは、七つの身体論を呈示し、知的に発達した現代人に対して、不二一元論を土台にした、より知的理解がしやすい人間像を呈示してきた。

宗教コミューンをつくったばかりに、逮捕を逃れて世界各国を流浪することになったOSHOバグワン。弟子に講演しない一時期もあったが、晩年は、コミューンを成功と見たのか失敗と見たのか根づいたと見たのだろうか。

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信仰者としてのベストなライフ・プラン

2019-11-09 06:07:09 | 究極というものの可能性
◎自分もマスコミも教育界も宗教界も政治家も変わらねば

人は自らの信じる宗教を通じて神と一体になることができるし、組織宗教の伝承しない方法でも神と一体となることもできる。一体となった暁には、その体験は、『体験とは言えない体験』である。体験する自分がいないからである。

ラーマクリシュナは、労働、家事、勉学などの社会生活を捨離して、神と一体化している恍惚のうちにあることを信者にも勧めた。この修行を一人で行えば、遠からず餓死するし、こういう人間ばかり増えては、社会の生産性は著しく損なわれる。

おそらく信仰者としてのベストなライフ・プランは、幼少時から只管打坐とかクンダリーニ・ヨーガなど坐る習慣をつけさせ、学校教育を通じて、思春期には見神、見性を体験。18歳から20歳ころまでには、神人合一、身心脱落、即身成仏、白日昇天という『体験とは言えない体験』を得て、社会人や家庭人として活躍する。

それが実現するためには、どの宗派の神仏道ゴッドも同じものであるという共通認識ができないといけない。その上、神人合一に近づいた人間ほど精神をやられやすく周囲の保護が必要であること、自分が傷つけられることを気にしないほどの積極的自己犠牲が社会通念になっていることなどが必要。土地など本来神のものは売買しないなどの禁制はあり得る。

こうして出来上がる社会においては、神を知っているのが普通であり、為政者も当然神を知っている。諸悪莫作衆善奉行。

以上のような社会通念ができあがるためには、自分もマスコミも教育界も宗教界も政治家も変わらなければならない。

だが日本が自国内で内発的にやろうとすれば、大本教弾圧のようにその芽を強権でひねりつぶしたり、戦国時代のような内乱になったりしがちなので、神は外国の手を借りて日本を立て替える(出口王仁三郎)などと言われる。

いづれにしても一本道ではないのだ。
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