アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

事実と伝聞とマスコミの作った想念

2019-05-31 05:01:18 | 冥想アヴァンギャルド
◎自分に向き合うことほど恐ろしいものはない

近所の火事のニュースであっても、事実とマスコミ報道の内容が異なることはある。また公式発表が、事実と異なることもままある。

常時天眼通を発揮していた出口王仁三郎は、周囲の者が知らない事件を誰もが知っている事件として口にして、周囲をしばしば困惑させていたが、彼らは後に新聞報道で後に知ることになることがあったという。

ことほど左様に、事実あるいは現代史というのは、「実際に起こった事実の積み重ね」ではなく、「実際に起こったとされる事実の伝聞の積み重ね」である。「実際に起こったとされる事実の伝聞の積み重ね」は、個人の頭の中の想念で形成される世界であり、実際の出来事が起こった世界とは異なるもの。

このメカニズム故に、現代人の頭の9割はマスコミでできており、「マスコミをとってしまうと、ほとんど何も残らない」などと言われるのである。

世論形成は政府・官公庁、政党にとって重要な仕事だが、事実と異なる情報ばかり与えられる側にとっては、そのギャップがどこかで顕在化する。それが一つにはうつ病の生涯有病率の高さ(6.5%)だったり、生涯未婚率(2015年の国勢調査では50歳男性の23.4%、50歳女性の14.1%に一度も結婚歴がない)の高さではないかと思う。

未婚者は概して既婚者よりリッチなのだ。

だが、人は本来食べられるだけで満足するものでなく、飯を食べ少々の金を貯めるだけに生まれてきたものではない。本気で生きることによって、人間の限界と無力、虚無にぶち当たり、更にその先に進もうとすることで、別の次元に向かおうとするものではないだろうか。

菓子パンは口に甘いが、それだけで生きれば、何か大切なものを失うことを皆感じている。

事実とされる伝聞の世界でなく、事実そのものに向かうのは、例えば只管打坐の坐り方がそれだ。まず外から入る余計な情報をシャット・アウトし、事実そのものなる自分に向かうのだ。

「自分に向き合うことほど恐ろしいものはない」(ダンテス・ダイジ)
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和気清麻呂と偽チャネリング事件

2019-05-30 05:49:54 | 古神道の手振り
◎巨大な満月相を示す

政界にかつて偽メール事件というのがあって人が死んだり、失脚したりした。奈良の昔にも、道鏡の偽チャネリング事件というのがあった。

称徳天皇は、今話題の女性天皇。女性であれば、男性の愛人があっても不思議はなく、称徳天皇は看病僧であった道鏡を愛人としてご寵愛されていた。

761年から称徳天皇の近侍であった道鏡は、既に60台ではあったが、愛人として公私の相談相手として勝手が良かったのだろう。
764年孝謙上皇は、藤原仲麻呂の乱の鎮圧後、天皇に復位し、称徳天皇となった。

この国難の時期の女性天皇を支えた道鏡は、765年には僧籍のまま太政大臣となり、翌766年法王となった。

769年5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神(だざいのかんづかさ)の習宜阿曾麻呂が「道鏡を皇位につかせたならば天下は泰平である」という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、世間に道鏡が帝位につくことの観測気球を打ち上げた。

既に50台の称徳天皇には、夫もなく子供もいなかった。有力貴族は、道鏡が皇位に就くことに抵抗が強かったのだろう。有力貴族側でもなく、道鏡側でもない和気清麻呂を選抜し、宇佐八幡に一度出された神託の真偽を問うという外形的には不敬なチャレンジに派遣する。

清麻呂は、769年8月、宇佐神宮の禰宜の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣したが、よりましでありながら、和気清麻呂の宣命を訊くことを拒むという挙に出た。こうした諍いを経て、清麻呂は「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」という大神の神託を都に持ち帰った。

ところが、この神託に激怒した称徳天皇は、清麻呂を鹿児島に流刑に処す。流刑地に赴く途中、清麻呂は追っ手に足の筋を切られ足萎えになったという。

翌770年8月称徳天皇は崩御。道鏡の目論見は終わった。

運命のいたずらか、道鏡には政界財界の強力なバックグラウンドはなく、おそらくイケメンで話上手だっただけなのだろう。仮に道鏡に強力な門地あれば、容易に帝位を簒奪できたのかもしれないと思う。

藤原仲麻呂の乱後に皇族和気王もチャネラーに皇位を狙うお墨付きを得ようとして後抹殺されたらしいので、託宣を得るというのは、皇位就任の前手順みたいなものだったのだろう。

王法不思議、仏法に対座すという言葉があるが、和気清麻呂は称徳天皇の意図をくみ取って動かなかった空気の読めない奴だったのだろう。そこで、巨大な満月相を示して天皇位の聖なるものであることを、改めて保身せず覚悟をもって神意を表明したのだろうと思う。
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出口王仁三郎の七つの身体考-4

2019-05-29 03:49:32 | 古神道の手振り
◎小松林命-4

常時憑依の小松林命だが、以下の2つの理由から、私は、小松林命は、出口王仁三郎の本守護神だろうと推測する。

また出口王仁三郎の治安維持法裁判速記録から。
『裁判長 訊いて見ませうかね、どうぢや王仁三郎。
答 小松林命は私が鎮魂を修業した結果、体中に収つて居るのです。
 さうして、始終、それが耳に触はられたりして、其の霊を通じて素盞嗚尊或は国常立尊がそつと私に物をお教へになつたり、お告げになつたり、或は精霊の目を通し、耳を通して……
 我々はそれを霊代と言うて居るのです。
裁判長 今、弁護人の言ふことと違ふぞ。素盞嗚尊の如きえらい方は通常憑いて居られないのか。
答 始終居られませぬ。
 小松林命が媒介天人になつてお願ひするから、精霊を通して素盞嗚尊がお降りになると云ふのです。それは間接になります。
 小松林命と言へば直接内流、私は間接内流と云ふ神様から来るのを──外から来たのは外流です。』
(大本史料集成3 事件篇/池田昭編/三一書房P473から引用)

ここで出口王仁三郎は、『小松林命と言へば直接内流(神との直接コンタクト)』と断言。よって、小松林命は出口王仁三郎の本守護神と断定。直接内流(神との直接コンタクト)は、チャネリングではない。

さらに同日の裁判速記録では、
『出口 それは神が憑つて来るのに付ては、自感、他感、神感と云ふ銘々に深い浅いがありまして、自感は自ら感ずる、他感は他から感ずる、神感は直接内流です、他感は直接外流です。
 それから、さう云ふ具合に神の移る場合が違つて居ります。』
(大本史料集成3 事件篇/池田昭編/三一書房P473から引用)

ダメを押すとすれば、いろは歌の作者は、小松林命になっていること。

以上をもって、小松林命は、出口王仁三郎の本守護神だと思う。
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出口王仁三郎の七つの身体考-3

2019-05-28 03:45:03 | 古神道の手振り
◎小松林命-3
◎小松林命は何時も居る

また出口王仁三郎の治安維持法裁判速記録から。
『問 それから、霊代とか、顕現と云ふことはどう云ふことを云ふのですか。
答 現れて来ることです、移つて来ることです。
問 どうなるのだ。
答 神様が身体に移るのです。
問 身体に移るとは──。
答 詰り私の耳を使うたり、目に移つたりして、移るのです。
問 移ると云ふのは、つくと云ふ意味か。
答 懸ることです。神憑りとも、神つきとも云ふのです。神憑とも云ひます。それを神憑りと読むのです。
問 普段もついて居るのか。
答 精霊は何時もついて居ります。
 小松林命は何時も居ります。』
(大本史料集成3 事件篇/池田昭編/三一書房P391-392)

このやりとりでは、常時憑依の小松林命は別格。また『精霊』とは出口王仁三郎の用例では、輪廻の主体であり、微細身。コーザル体かメンタル体か。素直に読めば、小松林命という出口王仁三郎のとは別個の精霊が常時出口王仁三郎に憑依しているということ。

以下の文では、精霊とは本守護神だと断言している。本守護神とは、本来の自己にまで展開する有の部分から、エーテル体、アストラル体まで含んだ自己の部分。

『仮令人間は知らずとも、天知る地知る、自分の精霊たる本守護神も、副守護神も皆知つて居る。』(霊界物語第21巻第2篇是生滅法第6章小杉の森から引用)
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出口王仁三郎の七つの身体考-2

2019-05-27 05:53:05 | 古神道の手振り
◎小松林命-2
◎小松林命神懸判定

出口王仁三郎は、チャネラーにしてクンダリーニ・ヨーギ。チャネラーである場合は、彼自身に何が憑依しているかは、審神者で判定してもらわなければならない。

そこで、彼に霊学のてほどきをしてくれた静岡県清水の稲荷講社の長沢雄楯が、審神者となって、憑依神霊の判定をした。

『そのころ長沢先生はまだ四十歳の元気盛りであった。霊学上の話や本田親徳翁の来歴など立て続けにしゃべりたて、その日は自分の住所氏名を告げただけで終わってしまった。

長沢先生の御母堂の豊子刀自は、本田親徳翁の予言した丹波からの修行者はお前さまのことだろう、と本田翁が遺したという鎮魂の玉、天然笛、神伝秘書の巻物を渡してくれた。

翌日は喜楽は自分の神がかりに至ったいきさつを長沢先生に詳細に物語り、その結果、先生が審神者となって幽斎式を執り行うことになった。その結果、疑うかたなく小松林命の御神懸ということが明らかになり、鎮魂帰神の二科高等得業を証す、という免状もいただいた。』(霊界物語第37巻第3篇阪丹珍聞20章仁志東から引用)

どんなすぐれた聖者、覚者、霊能力者であっても、最初から十全にその覚醒の能力を開発発揮できているとは限らず、また能力として潜在的に有しているとしてもそれを他人にすべて語っているとは限らないものである。

さらに様々な人間的体験、人間を超える体験を経て、日々彼らは自分の境涯を進化させているということはある。

出口王仁三郎で言えば、明治30年代に自分が3年間に書き溜めた著作500冊を役員に焼かれた(霊界物語第38巻第5篇第26章 日の出)が、その後の彼自身の進化で、後には惜しいとも思っていないシーンがある。

蛇足ながら、この引用文では彼が生涯に一度だけであったとされる本田親徳の形見の品の伝授が行われたのは印象的である。縁があるとは、そういうものなのだろう。

明治20年代から大正初期まで、彼にとってはチャネリングが最大の関心事であって、実際高級神霊の話ばかり出てくる。小松林命も、当時の彼の視野では高級神霊の一柱である守護神そのものだったのだろう。
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出口王仁三郎の七つの身体考-1

2019-05-26 06:38:16 | 古神道の手振り
◎小松林命-1

出口王仁三郎の話では頻出の小松林命。

出口王仁三郎の治安維持法裁判で、出口ナオの金釘流の判読しにくい神諭を出口王仁三郎自身が神がかりになって解読したと証言している。その最後のほうで、自分の神がかりについて微妙な解説をしている。

『答 私は、始まりは嬉しいが、落着かぬ。
 穴太に居つた時分には、ちよつと人から見たら、気違ひぢやないかと、随分云はれました。自分でも気違ひぢやないかと思ふ程、ぢつとして居つても飛び上り、声が喉から催す。
 それで長沢先生の所に行き、鎮魂をして貰うた。
 私の体には、小松林命の精霊が何時も入つて居ります。其の精霊を通さぬことには、間接内流も、直接内流も出来ない。其の精霊を通して見ると、霊界の消息も、幾分か判るのであります。』
(大本史料集成3 事件篇/池田昭編/三一書房P362から引用)

出口王仁三郎自身も正座して膝ジャンプしたそうだが、それは本筋の話ではない。

小松林命は、一般には、常時憑依の守護神と思われているようだが、『其の精霊を通さぬことには、間接内流も、直接内流も出来ない。』という発言を見ると、出口王仁三郎自身の微細身、アストラル体、メンタル体、コーザル体ではないかとも思われる。
なお間接内流はチャネリングのこと、直接内流は、見神、見仏、見性などの直接コンタクトのこと。
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七つの次元を貫く命の炎

2019-05-25 06:01:47 | 究極というものの可能性
◎牝牛、蛇、猪、蔦、ワイン、ビール

七つの次元を貫くもの、そしてそのエネルギーの源泉。それは、思春期から青年期にかけて激しく、おそらくほとんどの若者が感じていることではないのだろうか。多くは性欲という認識を出ることはないのかもしれないが。

ディオニュソスで表象される命の炎は、牝牛、蛇、、蔦、ワイン、ビール、男根などというシンボルで、彫刻、絵画、文書に現れる。

ディオニュソス。その燃え盛る命の躍動を、教育、法治、因習などで縛り、社会秩序を維持させていく。

そうした社会人として抑制することをわきまえた常識人であっても、外国へ行くと、全く別の思考、感覚体系で社会ができあがっていることを感じるものだ。

またテレビ、スマホなどの刺激のない時代には、人は集会、祭礼、儀式などで、その社会の秩序の様式ではない非日常を見せられたものだ。年に一度の無礼講やほら吹き大会などで、現今の社会構成が永遠絶対のものでなく、いわば一過性のものであることを感じさせることで、社会全体のガス抜きを行い、次の一年の秩序の安寧を図るとともに、その秩序が相対的で不安定なものであることを察せしめる。

その燃え盛る命の躍動は、死の世界であり、古事記の世界の萌芽である葦芽(あしかび)は死の世界に出現した。死と共存せず死を忌み嫌うこの文明はいびつである。

肉体という不安定な夢
個人という不安定な夢
現実という不安定な夢
なにもかもないという伝説
トータルで、諸行無常、色即是空。

古来社会には、死があることに由来する慣習や祭礼などの装置が組み込まれていたが、特にテレビが出てきてからは、商品を売らなければいけないせいか、明るく楽しくの一方通行のアポロン的側面が強く、ディオニュソス的側面は日陰に追いやられている。抑圧されたディオニュソスは、冥想によりコントロールされながら正当な成長過程を進むか、暴発するかとなる。

死は個人の肉体だけが死ぬのでなく、それをとりまく宇宙そのものも死ぬ。なにもかもないという蜃気楼に到達するには、人によっては何度も死なねばならない。

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熟睡中に眠らなければ夢も見ない

2019-05-24 05:03:36 | 丹田禅(冥想法8)
◎信心銘でアートマンの後先

信心銘の続き。
『眼(まなこ)若し睡らざれば 諸夢 自ずから除く
心 若し異なざれば 万法一如なり
一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず
万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり』

※眼(まなこ)若し睡らざれば:
熟睡中に眠らない自分。ウパニシャッドの頻出テーマ。荘子大宗師篇にも寝ても夢見ないというのがある。ケン・ウィルバーが、自分では悟ったと思っていた時期に、熟睡中に眠っている自分を発見して愕然として、修行をし直した例もある。

※心 若し異なざれば:
臨済録に、『如何なるか是れ心心不異の処?」と弟子が問うと臨済が云く、「あなたがこれを問おうとしていることは、既に異であって、いけない。』というのがある。これに続く言葉である万法一如(ア―トマン)と心が異なってはならない。

※一如体玄なれば 兀爾(こつじ)として縁を忘ず:
万法一如(ア―トマン)は、この一つながりのものであって、万物も時間も空間も物質もあらゆる生物無生物の想念も感情も意思も含まれる今ここしかない今。これが玄(神秘)なのだが、ごつごつとした石くれのように取り付くしまがなく、非人間的な乾いたもの。
そこでは、あらゆる人間ドラマを起こす原因である縁すら忘れられている。

※万法 斉しく観ずれば 帰復 自然なり:ここで斉(ひと)しく観ずるのは、男女、天地、有無、善悪、貧富、貴賤などあらゆる区別。万法アートマンという石ころの心から一歩出て区別がスタートしたら、以前とは別の本来のナチュラルな自分らしい自分が始まる。
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智者は無為なり愚人は自縛す

2019-05-23 05:31:39 | 丹田禅(冥想法8)
◎信心銘から

禅の三祖僧璨(ソウサン。達磨の弟子の慧可の弟子)の信心銘から。三祖僧璨は、中風を病み、臨終時は立ったままだった。仏教禁令の時代を片腕のない慧可と過ごした。

『智者は無為なり 愚人は自縛す
法に異法は無く 妄(みだ)りに自ら愛著す
心を将(も)って心を用う 豈に大錯に非ずや
迷えば寂乱を生じ 悟れば好悪は無し
一切の二辺は 妄(みだ)りに自ら斟酌する
夢幻虚華 何ぞ把捉を労せん
得失の是非 一時に放却す』

※大錯:大間違い
※寂乱:寂と乱の対立、差別
※夢幻虚華:夢と幻想と空虚な華
大意:
心をもって心を用いるのは、大間違い。心が静まったり乱れたりするのは、実体のないことで、迷うから起こるもの。男女、天地、貧富、貴賤など一切の二辺の区別は、心が起こすものであって、そうした実体のないものをことさらに追うべきではない。メリット、デメリットの判断は捨て去ることだ。

これを哲学と見るようなことは禅者はしない。このメリット・デメリットでの区別全盛の時代に、それをほおっておくことを求める。

ほおっておくためには、まずスマホを離し、イアホン・ヘッドホンをはずし、テレビ・ラジオを止めることから始めなければならない。最初は、そのこと自体が惑乱と感じる人も多いのだろう。そして坐る。
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日本のレイライン

2019-05-22 05:24:06 | 超能力・霊能力
◎日本人全体の心の穢れが結界をわやにする

Google earthを使って日本地図上に、随意に直線を引けば、八百万の神々のおはします日本ではその直線上にいくらでも神社仏閣が出てくる。

また延喜式に由緒ある神社が載っているとか、江戸時代には、寺が役所の代わりをしていたり、また明治維新では廃仏毀釈をやったなどで、今残っている寺社を以って、直線を引いてみるのが妥当かどうかはわからない。だが、日本のレイラインがいくらでも作れるような感じなのはわかる。

そうしたレイライン説の中で、北緯34度32分に東は鹿島神宮、香取神宮、西は出雲大社と美保神社(松江)のラインが、日本列島を横に輪切りにした場合、最長のラインであるという。これは、何かわかったような気分になるかもしれないが、本当のところは、大物超能力者の施した結界の位置をならべてみないと真偽はわからないのではないかと思われる。

日本の歴代の大物超能力者といえば、役行者、空海、天海、出口王仁三郎など。彼らの結界のやり方は、出口王仁三郎の記録などに出てくるが、夜中に人に見られないようにして執り行うのであって、他人に見られれば破れる。よって、アストラルな目をもつ人物でなければ、結界をどこで張ったかはわからない。

だからレイライン説というのはわかりやすすぎるので、どうなのかと思う。

一方日本の重心、あるいは臍。これはまず淡路島で、古事記にそうあるし、戦後の大三災は関西淡路の震災で始まった印象がある。一方で、国内勢力の角逐場所として、関ヶ原、そして本山博の指摘する丹波篠山。更に江戸時代から関東の地震は、鹿島神宮、香取神宮が根源と目されていた。一方関西・東海・四国では、南海・東南海地震の根源は範囲が広すぎて一神社に帰することはできないのではないか。大阪なら四天王寺、名古屋なら熱田神宮などなのだろうが、東日本大震災のように東北関東の東側海岸線全体がやられるような地震では一寺社がどうこうということでなく、日本民族全体の汚れたカルマの消化という位置づけなのだろう。

それでも重要な結界は残っているのだろうが、そうした結界をもほとんど無にして、大災害や、外国による日本の立替を招くのが日本人全体の心の穢れぶりということになるのだろう。

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人間(じんかん)至るところ外国人あり

2019-05-21 06:22:06 | 時代のおわり
◎聖なる空間と貧困大国

コンビニの店員でもスーパーの店員でも軽食屋の店員でも、建設労働の場でも外国人を見ることの方が多い。朝の通勤電車では、中国人、朝鮮人は言うまでもなく、東南アジア系、中東系、場所によってはブラジル系などいくらでも出会うようになっている。

日本の亡国の相については、過去書いているが、このような外国人の跋扈跳梁については、日本人の魂が日本に再生してくることを避けているという傾向を抜きにしては語れない。

外国人の増加については、聖書の「荒らす憎むべき者が、聖なる所に立つのを見たならば云々」を思い浮かべる人も多いと思う。

外国人観光客という日本の寺社信仰的に白でも黒でもない人が大勢押し寄せれば、当然に寺社なる地のパワースポットのパワーは減衰する。本来そのパワーはその地に縁ある善男善女によって維持継承されるべきものだからである。

聖なる空間は、そうした氏子、檀家などによる祭儀、奉斎を通じて何百年何千年と継承されるものだが、そうした空間に異教徒が多数入り込めば聖なるバイブレーションも乱れようというもの。

金もうけのために外国人観光客を招請し、生活水準の維持のために外国人労働者を入れるのは、このように日本の聖なる空間を滅ぼす遠因になっていくのだろうと思う。

聖なる空間とは、世界の中心であり、今ここであるが、最初から世界の中心は寺社仏閣ではないと心得ている人は極めて少数であり、世界の中心は、教育、文化環境で育てられていくのが主流である。

聖なる空間に対して聖なる時間がある。聖なる時間は、時刻に影響されない時間のことだから、日の出であり、正午であり、永遠であり、今ここしかない今のことである。そこから展開する創造、発展、衰退、消滅、再生のサイクルもそこから流れ出す。
聖者覚者の蹤跡には、そうした聖なる時間の香気が残っているものだ。

日本は、戦後長く国民が「飯が食える」時代を享受してきたが、かつての経済大国はいまや貧困大国となり、「飯が食えない」時代も近いのだろう。実のところ今後貧困大国を見に来る外国人も多くはなかろうと思う。
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キリスト教でも輪廻転生

2019-05-20 05:05:46 | キリスト者の秘蹟
◎エリヤの復活

サッカーのゴール後のパフォーマンスで、よく見かけるのは、キリスト教徒らしい選手は、十字を切って天に感謝、イスラム教徒らしい選手は跪いてアッラーに感謝。これが日本人選手だとてんでんばらばらである。

天に視線を向ければ、物事を大きく全体、集団で考えたり感じたりしがちだが、地に視線を向ければ物事を身近なものから考えたり感じたりしがちだという説もあるが、スタートはそこであっても人生の最後にはそうでない反対説の側も感得するものなのだろうと思う。

キリスト教では一般に輪廻転生はないといわれるが、預言者エリヤは、なぜか例外である。マタイ伝17章では、イエスが、既にエリヤは輪廻転生済であって、事を元どおりに改めるであろうが、しかし人々は彼を認めず、自分勝手に彼をあしらったと語ったシーンが出てくる。

教義書である聖書に輪廻転生が書いてあっても、輪廻転生はないと教える。それでもなんとかなるのが宗教ではある。教義も重要だが、自分自身がどう取り組むかの方が重要なのだ。

この話の段階ですでにバプテスマのヨハネは斬首されており、イエスの弟子たちは、エリヤの再来はヨハネだと悟ったという。この辺がヨハネ大物説の根拠なのだろう。
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カルマの種子

2019-05-19 05:40:29 | 冥想アヴァンギャルド
◎悟っていなくても前向きに消化

前世のカルマというのは、厳密にいえば、個人の前世ばかりでなく、家系のカルマ、地域のカルマ、地方のカルマ、国のカルマ、民族のカルマまで複合的に背負ったものがカルマである。こうしたカルマが個人の人生上に発現する姿がカルマの現実化であり、カルマの消化である。

ところがカルマが現実化するにあたり、他人や社会のために最善を尽くして働いて、その結果に捉われないで毎日過ごすならば、悪因縁、カルマはだんだんと日がたつにつれて雲散霧消する。

他方カルマが現実化するにさいし、そのカルマを他人や社会が困るように仕向けたりしたりする場合は、カルマは未消化のままで残る。利己的行動は利己のカルマ、情欲的行動は情欲のカルマ、知的行動は知のカルマ、情的行動は情のカルマとして種子として残る。

誠に衆善奉行諸悪莫作(善いことをして悪いことをしない)というのは生活の知恵である。

しぐさ、良い癖、悪い癖、持病、体質、傷、財産の消長などまでカルマの種子から来るものであり、クンダリーニ・ヨーギ本山博によれば、もともとのカルマの種子はカラーナ体に保持されるという。(カラーナ体は、コーザル体かメンタル体かよくわからない)
発現するときは、物質・肉体のレベルまで降りてくる。

大悟覚醒というのは、第七身体(神仏)とのダイレクト・コンタクトであるが、大悟覚醒するカルマがいつ発現するかは、今生なのか来世なのか、全然その先なのかわからないところがある。

だが、真正の覚者は、いつ覚醒するかと問われれば、必ず、いまここで直ちに、と答えるものだ。道元が、修行と悟りは一つ(修証一如)というのも本質的には同じことを言っている。

この時代、カルマを悪化させないというのは、最低限の作法であるが、社会通念、社会規範、流行に則ると悪事を犯してしまうことがあることには注意しなければならない。

悟っていない者にとって何が善悪か判断はつきにくいところはあるが、それでもできる限り前向きに日々努力は継続すべだと思う。
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施餓鬼から七つの身体論

2019-05-18 07:04:59 | チャクラと七つの身体
◎別次元ボディとカルマ・ヨーガ

人間の呼吸、感情、想念、気力、体力と七つの身体は密接に関連しており、肉体とエーテル体、アストラル体とそれ以上はそれぞれ別次元に存在しながら、いわば相互の次元、相互のボディにおけるエネルギー交換を日夜不断に継続しているものである。

それは、健全な精神は健全な肉体に宿るという格言から始まって、身体の不調が夢に出たり、集合的無意識が夢に出たりあるいは身体の不調として発現することもあることで、多かれ少なかれ万人が感じていることでもある。

クンダリーニ・ヨーギ本山博によれば、死んだ人はアストラルの世界においてアストラルのボディを持っており、そのボディがアストラルの食物やエネルギーを摂取して生きているように見えると語っている。

彼の説明では、施餓鬼では物理的供物から供物の持つアストラル次元のエネルギーをアストラルの人間が摂取している。また、生きている人間に死んだアストラルの人間が憑依するケースでは、死んだアストラルの人間が、生きている人間からアストラル次元の活力を得ているそうだ。(出所:カルマと再生/本山博/宗教真理出版P148)

こういった事象をみると先祖供養はおろそかにできないなどと思うのだが,功過格的にみると、施餓鬼にしても憑依されることにしても無償のエネルギー、資金提供のようなものであり、カルマ・ヨーガの一種であり、真理にたどり着くには、おそらく何生もかかる。

そういう道を辿る人ももちろんいるが、全員が真理を知る時代には、個々人が神とつながるのがストレートで、最速である。一人が真理を悟れば九族昇天すとは、カルマ・ヨーガのことではないと思う。とるべき作法はあるが、あまりそれにこだわりすぎるのもどうかとも思う。
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世迷い言

2019-05-17 05:12:49 | 冥想アヴァンギャルド
◎逃げ切れたとしてもそれは

出口王仁三郎は、戦後これからは米ソが大戦いをやると予見して、1990年代前半にソ連は破産して決着はついた。以後ロシアは、経済力はさほどでもないが(GDPでは10位以下)、軍事力は結構なものを持ち続けていて、“露国”の脅威は大本神諭でも日本の千年王国へのロードマップにおける基調の一つとなっている。

さて今やトランプの挑発に乗って中国が世界を相手に牙を剥こうとしている。独裁国家が外交で一歩も引かない姿勢はあまりにも前近代的だが、パックス・アメリカーナの支持基盤は本質的にそういうものであったから、アメリカに育てられてきた中国のそうした姿勢には、むべなるところがある。

やがてよき支那物を世界中が奪い合い、支那は4分裂になるのだろうか。そうした流れのどこかで日本が行司役を頼まれるタイミングがあって、日本が調子に乗って東京で戦後の世界構想樹立に動くようなことがあるのが、二度目の東京で仕組を駿河美濃尾張なのだろうか。

そのとき先のABCD包囲陣みたいなことが起こってしまうのだろう。

これらは、人の仕業。
風水火のご神業もある。大三災の中で“天地(あめつち)の自然の力に抗すべき 何物もなしと省みるべし”と詠んだのは出口王仁三郎。

人災、天災相俟って翻弄されるのはやむを得ないところがある。逃げ切れたとしてもそれは、何かうまくやった結果ではないだろう。

この時代に生きるというのは、どんな人であっても自分の生きる意味を他人に教えてもらうのでなく、自分で見つけようと努力するということではないかと思う。

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