アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

8000m峰登頂と死の覚悟

2019-04-30 06:27:02 | 究極というものの可能性
◎本気で生死ぎりぎりを追及する

8000m峰が14座地球上にはあり、うち9座がヒマラヤ山脈、5座がカラコルム山脈にある。14座すべてに登頂成功した人物は、1990年以前はわずか2名であったのに対し、21世紀になってからは続々と出現しており、いわばいまや8000m峰登頂は大体死なないスポーツと化してしまった感がある。

1990年以前は、登頂にトライしたら60%以上は死ぬ確率を有する山がナンガ・パルバット、アンナプルナと2座あったが、これが最近では、10%台に低下しており、全く別の山になってしまったかの様である。もはや1990年以前と同様のスポーツとは見れない。1990年以前は、8000m峰登頂は、死ぬかもしれないスポーツだったのに。

スポーツではないが、禅も大死一番を求められ、クンダリーニ・ヨーガも自分が死ぬことを求められる。

勿論死ぬかもしれないスポーツにあって求められる覚悟とは死の覚悟である。標高8000mになると空気が三分の一になり、酸素マスクなしで長くいると、反応が緩慢になり、思考力が鈍くなり、一つのことしか考えられないようになるが、感情の方は、絶望や歓喜に大きく振れる。

スポーツをやる人間も、突き詰めて行く人ならば、死を賭す方に向かって行くものである。ギャンブル、博打も賭け続けるにつれ、すべてを賭けようという方向に進みがちなものである。

手順を踏んで脳内にバーチャル・リアリティを作り、そこに居ようという点では公案も観想も似たようなところがある。だが最後はすべてを捨てる。

死に向かう冥想(再生を期す場合もあるが)と死を回避しようというスポーツは異なるが、死を回避しようというスポーツにあっても、生と死のぎりぎりまで試そうという心理は働くものだ。
そこがスペクタクルであり、スリルの極みであり、醍醐味というものなのではないだろうか。

ノー・リターン・ポイントには、保険はかからず、安心、安全などない。空、空性の悟り、色即是空とは、この世には何も頼りになるものがないことを示す。それを承知で皆誕生してきたのだ。

本気の生き方の先には、ノー・リターン・ポイントが必ず見え隠れしているものだと思う。

蛇足ながらチベットは標高4千メートルはあるが、高度馴化しないでいきなり飛行機で入ったり、列車でラサに入ったりすると結構な確率で高山病で重体になったり、死亡したりする人が出ることは、チベットものを読むとよく出てくる。
8000m峰登山は容易になったかもしれないが、フツーの人が富士山頂より高い4000mより高い所に行くということはいまだに危険なものである。

またヒマラヤには聖者たちがいるらしいが、スワミ・ラーマのを読んでも相当に肉体コントロールもできた修行者の生態であると思う。素人が一朝一夕で真似することではない。
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人を祀った神社

2019-04-29 05:59:26 | 古神道の手振り
◎徳川家康からカルトの教祖まで

名古屋出張の折には、徳川美術館を参観したいものだと思いつつ、果たせずにいる。

出口王仁三郎は、例の高熊山のトリップにて、地獄でもなく天国でない中有である、天の八街にあって、生きている人死んでいる人の行きかう様を見ていた。

『甲冑をつけし老武者ひょろひょろとわが前にたちて苦笑いせり

何びとと言葉かくれば老武者はわれは時川安家と宣(の)る

三百年のむかし身失(う)せし安家が何故(なにゆえ)生きてゐるかとなじる

業因の未だ果てねど地獄界を救はれ八街にありと答えぬ

月光山 うづの宮居に祀られし身ながら魂(たま)は八街と嘆く

汚れたる身を神宮に祀られて吾はひとしほ苦しと嘆けり

汝(なれ)こそは三千世界の救世主われを救へといひつつなみだす

三百年の天下を治めし汝(なれ)にしてこの有様はとなじり問ひける

道ならぬ道をたどりて天ケ下握りし罪の今に消えずも

音楽の音さやさやに聞こえつつ言霊別(ことたまわけ)の神くだり来ぬ』
(歌集 霧の海/出口王仁三郎P79-80から引用)

人を祀った神社は、偉人を顕彰するものとして津々浦々にあるものだが、その参拝する善男善女の虚心な思いが、却って祀られた当人を苦しくするものなのだろう。

公共面での事業、事績や、巨額の寄付など顕彰される世間的な事績は多い。だが祀られるとなると、本人が大悟覚醒したのかどうかが常に問われる。

日本には、人を祀った神社は多くそれが神国の一つの風物ともなっており、そういう神社、祠への信仰であっても純粋な思いであれば、通づる場合がある。

だからといって国家神道で国を挙げて大々的にあのようなことをやった結果敗戦となったことを忘れてはいけないと思う。

人を祀った神社にはこの両面あることを踏まえて、出口王仁三郎は、終戦直後の吉岡発言で、人を祀った神社の危険性を改めて説いた。

人を祀る宗教とはカルトのことでもある。
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観想法専用ルーム サムデ・プク

2019-04-28 06:01:25 | 密教
◎タシルンボ寺郊外の洞窟修行

20世紀初め、スェーデン人スヴェン・ヘディンは、チベットのシガツェのタシルンボ寺に逗留した。タシルンボ寺は、巨刹ではあるが、中共成立時以降さんざんに破壊された。

ヘディンは、タシルンボ寺の郊外のサムデ・プクという絶壁の麓に作られた冥想用石小屋を見た。洞窟には戸も窓もなく、石で封じられている。

この洞窟の奥には泉が沸いており、一条の狭い溝が壁の下の地面に沿って通じていた。これは上下水完備し、環境的に恵まれている。この溝を通してツァンパとバターの食事が差し入れられる。6日連続で食事を受け取らないときは、死んだものとして洞窟の入り口が開けられる。

中には一人のチベット密教僧が修行していて、既に3年になるという。通例山の封鎖された洞窟での観想修行は数か月なのだと思うが、3年は長い。この洞窟の主は死ぬまでここに居ることを誓ったという。
3年前にこの洞窟で死んだ先住僧は12年ここで生きたという。

食事の差し入れが毎日あるだろうから、ヘディンが気にするように真っ暗闇だけの生活ではないと思う。

ただ社会性を一切断ち、一生洞窟で修行することを選んだ僧の覚悟には凄みを感じる。キリスト教でも一室から一生出ない修行もあった。補陀落渡海はこれに似ているが、数日で勝負がつくところは厳しい。

20世紀の感覚遮断実験の環境は似たような環境だが、ギブアップ・ボタンを押せば出れる。

さはさりながら、観想修行を邪魔されない環境は得難いものである。
(参考:チベット遠征/スヴェン・ヘディン/中公文庫p368-375)
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米海軍が未確認飛行物体(UFO)を目撃したら報告をと求める

2019-04-27 05:57:35 | 超能力・霊能力
◎神なき霊覚は無免許運転に近い

米海軍がUFOの報告手順を正式に定めた指針の作成に着手したそうだ。

UFOを見るということは、霊界を見るということ、アストラル体を見るということ。人間のエーテル体が肉体の近傍にあることを考えれば、UFOはエーテル体ではなく、アストラル体次元と考えるのが妥当だろう。

物質レベルの第一身体の次元からエーテル体の第二身体の次元やアストラル体の第三身体の次元を見るには、物質レベルで連続していると認知している世界の連続の途切れ目に気づかなければならない。

それが世界の隙間。隙間は、トランスから覗き込むこともできるし、大きな衝撃、心身のショックから入り込むことができる。

途切れ目、隙間に入れば、幽霊も見れるし、UFOも見れる。それは現実かといえば、肉体レベル、物質レベルの現実ではないが、アストラル体レベルの現実ではある。

どうして「米海軍が未確認飛行物体(UFO)を目撃したら報告を」と言っているのか、結局それはUFO認知する兵士が増えたということなのだろうと思う。

霊感、霊覚を持った兵士が増えたということは、視点を変えれば現実の時間の連続の間の隙間が広がって認知しやすくなっているということでもある。

そうした傾向はここ5年10年で一挙に進行したものでなく、中山みき出口ナオの昔から言われていることである。

至福千年とは、漠然と言えば皆が幸福である時代だが、その一つのアスペクトとしては、全員が神を知りアストラル感性つまり霊覚を有するということは、意外に無視されがちである。

神を知る時点でその感覚は発生するものだと思うが、今は神を知る人は百人に一人いるかどうか、霊覚のある人は10人に一人くらいのものだと思うが、来る千年王国では、全住民が神と霊を普通に感じる。
その時間認知では普通に時間の連続に隙間があるのが当たり前。

そうなって初めて、UFOという反重力メカニズムを搭載したマシーンは、「神の許しを得て」、物質世界に現実化するのだろうと思う。

UFOは、ある日ポッと誰かが発明しただけで世に出るわけではなく、人間の神とのコンタクトとそれに付随する霊的感覚の方も実現のための十分条件だろうと思う。

そしてUFO出現のための地ならしとしての感覚は徐々に進化しつつある。

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最近地震が多い

2019-04-26 03:44:04 | 時代のおわり
◎強欲と気晴らし

日本は、神国。天神地祇の恩寵は、津々浦々まで行き渡っているが、財産や名誉への強欲があたり前となり、つまらぬ快楽を貪ることなどで人の神を忘れる程度がひどくなると神からの報いがあるもの。あまりその程度があまりひどくない場合は、人震。それで収まりがつかない場合は、地震。

《最近の地震:マグニチュード6以上のみ》
1.4月23日にフィリピンでM6.4。
2.4月22日、フィリピンのルソン島でM6.1。
3.4月18日、台湾東部でM6.1。
4.4月12日インドネシアのスラウェシ島付近でM6.8。
5.4月11日の17:18に三陸沖でM6.0。

ところが、一般的な感覚はそうではない。財産や名誉への強欲は、自己実現における当然の方向性であり、自分が挙げた成果を隠さず他人に披歴したり、その利益・名誉のためには人を騙したり陥れたりするのが通常であるとされるハイソでセレブな感覚。
スマホやモバゲーでつまらぬ快楽を貪ることは、文明の利器の活用によるリラクセーションと手軽な気晴らし。

ことほど左様に、「財産や名誉への強欲があたり前となり、つまらぬ快楽を貪ることで罰があたる」という感覚は、極々少数派の感覚なのだろう。

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科学という冥想科学

2019-04-25 05:29:10 | クンダリーニ・ヨーガ
◎プリマ・マテリアが黄金へ

ゾシモスの頃であっても、それ以後であっても、クンダリーニ・ヨーガは秘教だった。

現代科学は、物質科学であって、肉体の次元、第一身体の次元しか扱っていない。第一質料プリマ・マテリアが黄金に変成するとは、大悟覚醒するということで、七つの次元をぶち抜けるということ。

段階を経て黄金となるには、手順と材料という冥想段階に応じた注意事項と坐法そしてグルが要る。それを表現するのに、世間に気取られず、余計な関心と欲心を抱くものが、この道に入って来ないようにするため、金属変成というアナロジーをとったのだろう。

それは、中国でも同じだった。本質は内丹だったが、外丹にも何かあるように見せてきた。ただし、外丹という薬物によっても、カルロス・カスタネダのシリーズが開陳したようなソーマ・ヨーガの道もある。

ソーマ・ヨーガだって、サイケデリック・ドラッグの出てきた20世紀以降のものでなく、アヴェスターの古代インドこそは、ハオマというソーマ・ヨーガ全盛の時代だった。
(私はソーマを飲んだのか?)

秘教、密教は、為政者の護持体制がなければ潜航せざるをえない。だが為政者は時代とともに変わるが故に、政権政治体制が変わっても、伝承されるようなスタイルを考えると、それは金属変成や外丹だったのだろうと思う。

西洋では、金属変成の方ばかり目が向けられて、冥想的錬金術の方については、中国で見るような大覚者の系譜が見られないのは特徴的だが、それが近代西欧文明の本質的な運命であるとも言える。今、物質科学の粋である核兵器によって、人類の危機を惹起し、そこでようやく人間の本質を俯瞰して一歩進むという危険極まりないシーンに向かおうとしているのだ。

東洋人(除く中国人)は、西洋人に比べると意識の上で2、3歩神に近い。この2、3歩の差が、近代西欧文明のアブナイ特徴を作り出しているのだと思う。
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ゾシモスの賢者の水銀

2019-04-24 05:13:43 | 錬金術
◎すべての中のすべて

心理学者ユングは、ゾシモスと呼んだが、この本では、ゾシムス。以下は彼の「権威ある報告の一部」。ここで、彼は賢者の水銀とは聖水のことだと言っている。

『〈聖水(1’eaudivine)について。ここに,とりわけ入を魅する,聖なる偉大な神秘がある。それがすべてである。二つの自然と一つの源。

というのは,それらのうちの一つが他方を導き,支配するからである。これは液体の銀(水銀)であり,常に動いている両性のものである。

なにごとも経験しない聖水である。その性質は,理解しがたい。それは,金属でも,水でも,物体(金属性)でもない。人は,これを征服することはできない。

これは,すべての中のすべてともいいうる。これは,生命とその息吹きをもっている。この秘密を理解するものは,金と銀を所有することになる・・・・・・・力は隠されている。それは、色情根エロティル(Erotyle)の中にある。』
(錬金術の起源 古典化学シリーズ 1/ベルトゥロ/内田老鶴圃P167から引用)

二つの自然とは、男性女性、光と闇、火と水などあらゆる二元対立。双方を具備した両性具有が、聖水である賢者の水銀。

賢者の水銀は、常に変動しているが、すべての中のすべてであるので、これは「この一つながりのもの」なる一者を指し、有の側であり、第六身体アートマン。

なにごとも経験しないとは、見ている自分がないということ。

最後に、金と銀なる二元性を征服する力が色情根エロティルにあるとし、修行の基本は禁欲であることも示す。
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ジャイナ教の呼吸覚醒

2019-04-23 05:36:48 | 現代冥想の到達点
◎シュヴァーサ・プレークシャー

ジャイナ教でも呼吸覚醒を用いる。「ジャイナ教の瞑想法/坂本知忠/ノンブル」では、呼吸覚醒法として3段階設けており、最初はリラックス、次はルン・気息を意識し動かす。
三段階目にシュヴァーサ・プレークシャーという呼吸覚醒が入っている。

シュヴァーサ・プレークシャーにも3段あり、最初は、腹の筋肉の動きや、鼻腔内の空気の知覚、吐く息、吸う息すべてを見逃さないで全部知覚。

2段目は、吐く息と吸う息が途切れないで一つの輪になったように観じ、そのつなぎ目を強く意識する。そして呼吸がチェンジするその瞬間を観じる。次に膨らんだりへこんだりする腹に意識を向ける。

3段目は、マントラも用いず、イメージも用いず、自然に出たり入ったりする呼吸を一つも見逃すことなく観じる。呼吸と一つになる。

2段目の息の途切れない観想はきついかもしれない。

OSHOバグワンは、実家がジャイナ教。彼は、教祖聖者が全裸など奇矯なエピソードを披露したがるのだが、呼吸覚醒は、釈迦もこれで悟ったといわれる正統的なもの。小乗で、盛んにヴィパッサナーを言うので、呼吸覚醒は小乗のものと思いがちだが、その歴史は釈迦以前からあるもの。

呼吸覚醒や、様々な宗教修行に限らず、モバゲーなどでも、ある姿勢を固定化し、ある肉体動作を伴う精神作業を3時間もやれば、人は特殊な精神状態に入りがちなものだ。

それは、依存症の入り口でもあるが、指導よろしきを得て、本人の向かう方向性が正しければ、人は天国にも向かうことができる。

ミャンマーやインドの叢林で、呼吸覚醒修行を行うのは、日本でやるより修行環境は快適だったかもしれないが、修行が成就するかどうかは別物。

呼吸覚醒では、師匠による変性意識コントロールが、狂わないために重要と思うが、それすらもあまり問題にしなかったのだろうか。
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NGT48山口真帆さんが卒業宣言

2019-04-22 05:21:36 | 時代のおわり
◎青森の女

NGT48から被害者である山口真帆さんが卒業宣言したが、会社から彼女が会社を攻撃する加害者だとまで言われていることを明かし、それがNHKのトップニュースに並ぶほどの扱いになっている。

疑似恋愛を男を釣る餌にする商売は昔から尽きないものだが、それをショービジネスにした場合、舞台裏はこうなってしまうのだということがわかる事件となった。

実業の世界では、大組織であればあるほど、人のローテーションや給料の配分は、業績、挙績、あるいは年功序列で行われる。これが虚業芸能界になると永世お山の大将が至るところに君臨し、取り分をほぼ独り占めし決して民主的、公平になど分配はされないし、そういうところにまた反社会勢力やスキャンダル専門マスコミがつけこんでくる部分があるのだろうと想像される。

さはさりながら、合法的奇麗事だけでは現実は回らないということもあり、唐人お吉の昔から外交面などで女性の必要が必ずあったもの。昔フォード大統領が京都にいった時に接待する芸妓さんのインタビュー(怖くないって言われました、みたいな)をやっていたが、よくインタビューするものだくらいに思ったものだ。

カリフォルニアの映画産業では、役者などのユニオンがよく整備されていると聞くが、映画がビッグビジネスであるが故に歴史的に整備せざるを得なかったところがあるのだろうと思う。

やくざ映画ばかり作っていた日本の映画産業はいつのまにか衰退し、インディはできるが、資金調達には大変苦労しているらしい。

実業の頂点は、昔も今も世界的には軍需産業であることは変わりなく、そのテクノロジーが民生に時々こぼれてくる。虚業サイドは、暗幕の裏を明かさないことで命脈を保っているが、それも賞味期限切れは近いのかもしれない。

山口真帆さんも青森の女、ダンテス・ダイジの奥さんも青森の女というところは、日本の辺境から来た女ということで注目される。歴史学者トインビーは、文明の変革は必ず辺境から起こるとしている。
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新婦の部屋で結ばれる

2019-04-21 06:07:40 | キリスト者の秘蹟
◎聖なるものの聖なるもの

フィリポによる福音書で、イエスがマグダラのマリアにしばしば口づけするのを見て、あなたは我々弟子のすべてよりもなぜマリアの方を愛すのですかと質問したところ、イエスは、なぜ私は、あなた方をマリアのように愛さないのだろうかと問い返してきた。


フィリポによる福音書§76では、洗礼が聖なる家であり、「聖なるものの聖なるもの」とは新婦の部屋のことである。さらに洗礼には復活と救済があるが、救済は新婦の部屋の中にある、と新婦の部屋を解説する。

さらに§79では、女は、新婦の部屋で夫と結ばれるものであり、新婦の部屋で一つになったものたちはもはや離れることがないだろうが、アダムとエヴァは新婦の部屋でないところで結ばれたから分かれたのだ、と。

復活と救済の先にあるので、神を知っていることは勿論のことだが、不可分の両性具有の起きる場が、俗人の想像するような場ではないことを強調して、「新婦の部屋」と言っているように思う。

この両性具有のことを花婿と花嫁から成ったものと説明もしているが、それでは却ってわからないのではないだろうか。
古事記でも両性具有の伊都能売について全く解説していないように、準備のできた者だけに語るべきことなのだろう。
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第二次世界大戦の構図と次

2019-04-20 06:01:31 | 時代のおわり
◎ナチスドイツと出口王仁三郎

第二次世界大戦の構図を見ると、フリーメーソン対アンチ・フリーメソンという構図がまずある。連合国側がフリーメーソンで、枢軸国側がアンチ・フリーメソン。

ヒトラーのブレインの一人だったカール・ハウスホーファーは、グルジェフの弟子にして日本の研究者。この時代のドイツは、霊的パワーを個人の覚醒に用いるのではなく、結果的にフリーメソンを撃退するという方向に集中的に動いた。

当時霊的パワーが国家的に機能しているという点では、チベットと日本だったのだろうが、日本は明治維新の開国で、既にほぼフリーメソン陣営に組み込まれ、一方チベットは鎖国のままながら、物質文明的には非常に遅れた状態であって、そのままでは、欧州のどちらの陣営でも使いものにはならなかったのだろうが、結果的にナチス・ドイツが、ハーケン・クロイツを始め様々なテクニックをつまみ食いしたに終った。

戦後、チベットは、中国による大虐殺とチベット密教寺院、僧尼の殺害を蒙り亡国となった。現代日本もチベット亡国前夜に似ていることは既に指摘したし、その後のモンゴルへの展開も暗示されている。

出口王仁三郎は、同時代人でありながら、意図的にナチスとの連携を避けていたのではないかと思われる。アジアでは、中国の紅卍会、朝鮮の神人姜甑山と親密であり、オカルティズム・シーンでは、慎重に本物と偽物を区分しながら世界展開を図っていたにもかかわらず、ナチス・ドイツとは結ばなかった。

現在からみれば、三国軍事同盟により日本が枢軸国側についたのが敗戦の分水嶺だったのだが、あれだけ軍と親密だった出口王仁三郎は、昭和10年12月の段階で早々に収監され、その後日本がアンチ・フリーメーソン方向に動いて敗戦の道を辿ることに何の関与もしなかった。このことについては、出口王仁三郎自身が収監終了後に「(戦争に関与しなかったことで)結果的に教団を守ることができた」などと述懐している。

出口王仁三郎は、もともと親ユダヤであったが、昭和神聖会にあっては、なぜか反転してアンチ・フリーメーソンを掲げ大いに活動したが、それが第二次大本事件による収監につながったらしい。

第二次世界大戦は悪魔と悪魔の戦い、次は神対悪魔(学と知恵)の戦いだが、これは人間の限界を見せ、人間の最も見たくないものを見せることになるのだろうから、人間の感受性のキャパと深度、高さが試されることになるのだろうと思う。

ユダヤは大悪に見せて大善をやるとは、彼の言である。
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石は空裏に立ち、火は水中に向かって焚(や)く

2019-04-19 05:24:23 | 丹田禅(冥想法8)
◎大燈国師語録

大燈国師に弟子が、「慈明禅師に対し本来の面目は何かと問うたところ、慈明禅師は『一言既に出れば四頭の馬が追っても及ばない』と、これはどういう意味でしょうか」いう質問を仕掛けた。

大燈国師は、石は空裏に立ち、火は水中に向かって焚(や)くと。

別次元に居る師が、別次元に居るとも知らぬ弟子に仮想現実みたいな世界のことを説示する。それは、世界なのか、現実なのか、でたらめなのか。

師は教えてくれるものだが、そこばかりは教えてくれないというか、教えることなどできない。

禅では天啓とは言わないが、準備ができたら天啓なしには進まないのではないか。
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巴里 薔薇の街

2019-04-18 05:26:53 | キリスト者の秘蹟
◎栄光を授けられた我らの内なる薔薇

巴里は、古代ローマでルテティアと呼ばれた昔から、薔薇の街として知られていた。それは薔薇の栽培が盛んな街としてではなく、パリ盆地全体のうねった地形がまるで薔薇の花びらのように中心であるパリを抱いているかのようになっていたからである。

パリは、セーヌ河岸の街なのだが、セーヌ川が大蛇行を始める寸前の位置に、ルーブル美術館とノートルダム大聖堂が位置する。そしてこの位置は、まさにパリという薔薇の花芯の位置。

カトリックという母性の位置づけの弱い実質二位一体の宗教。その反動か、フランスでは、特に聖母信仰が盛んであり、南フランスでは黒い聖母像も見受けられる。ノートルダムの直訳は我らのマダム=聖母マリアだが、錬金術的なイエスの伴侶マグダラのマリアを指すという説もある。

いずれにしても、GAFA、ブロックチェーンなどで個人への社会からの抑圧が更に厳しさを増そうとし、また一帯一路をめぐる各国の踏み絵が第三次世界大戦の陣営分けにつながっていくかもしれないという、この微妙な時期に欧州の地母神、母性の中心である、ノートルダム寺院が焼け落ちた。空撮により、それが燃え盛る巨大な火の十字架となったのを目にした人も多かったのではないか。

第五身体コーザル体から第六身体アートマンに進むことが悟りなのだが、その時人はすべてを喪失しなければならない。

キリスト教世界観では輪廻転生がないので、死を経て大悟覚醒後の復活は説明しにくいが、金で贖える復活を神は期待されているわけではなく、金ではどうにもならない方の復活を神は期待されているのだろうと思う。

パラケルスス流に言えば、『栄光を授けられた我らの内なる薔薇』は再生を期待されている。
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寺社炎上

2019-04-17 05:26:06 | 時代のおわり
◎道統を継承するのは人

ノートルダム寺院炎上の映像の向こう側にサクレクール大聖堂が映っており、イスラム移民、無神論などいろいろあるとはいえ、フランスは、流石のカトリック大国である。

日本は宗教大国であるがゆえに伽藍の破壊炎上は始終起きている。近年で最大であったものは、明治維新の廃仏毀釈
火災で炎上したものは、最近では、法隆寺、金閣寺が挙げられているが、靖国神社を外人が放火に来たりと物騒な時代ではある。

10世紀の高野山炎上では、高野山上に住む僧が一人もいなくなったという。

治承4年(1180年)、平家による南都焼き討ちで東大寺大仏炎上。
永禄10年(1567年)、東大寺大仏炎上。

その他兵火で寺社が焼かれるものは、応仁の乱、戦国時代を含めて無数。

昭和二十年四月十四日、伊勢神宮外宮神域、五カ所六発の爆弾投下さる。
昭和二十年七月二十八日夜半より翌朝にかけ皇居が大空襲を受け、宮城内に投下された焼夷弾は八百五十発。

このように寺社破壊に聖域はない。パワー・スポットはあるものだが、見る目のない人が大勢押し寄せたからといってそこがパワー・スポットとは限らない。

わが内なるパワー・スポットを巡礼する時代になって久しく、自分の外を拝みたい者には築山でも作って上げましょうなどとからかわれるものである。

道統を継承するのは歴代教祖とは限らないが、人であることは間違いない。

ただこうした寺社炎上を前兆と捉えるレベルもある。
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ノートルダム大聖堂で大火災

2019-04-16 05:31:49 | 時代のおわり
◎自分の内側が火災になっていないか

着工850年を経たパリ、ノートルダム大聖堂で大火災。二度の世界大戦を経ながら、更に無神論者がその戦争に参加しながら、戦場となったドイツ、フランスなどで各地の大聖堂だけは攻撃、破壊しなかったのは、聖遺物崇拝の強烈さに通底するある意識を感じさせられる。

その点で同じ個人主義の国ながら中国の宗教破壊は徹底的で、焚書坑儒から文化大革命、そして来るであろうブロック・チェーンによる個々人の思想・生活までの管理による無宗教の徹底まで、伽藍破壊、僧尼の還俗は勿論、個人の雑念まで抹消してしまおうという勢いであるのとは対照的である。

欧州は、心を外から叩いて、窮極に至らせるというメソッドについて共通理解があるが、中国では、目先の生活が厳しすぎるせいか、心を外から叩くばかりで、心理ストレスの出口を設けないかに見える。

軍事技術でも、攻城戦などで完璧に包囲しても場内からの脱出ルートを1か所は作っておくのは、戦争が終わった時のことを考えてのことである。締め上げるのは一時だが、その後の平時の方が長い。難治となる。

凝集した大衆の心理パワーの方向付けというのは、常に為政者の関心事であって、洗脳は3年たつと消えるの法則を踏まえ大衆には繰り返し洗脳していく。しかしその洗脳にも賞味期限があって、期限切れとなれば、易姓革命が起こる。ブロックチェーン(NHKのBS1スペシャル「アメリカVS.中国“情報・金融・ハイテク覇権”に挑む中国」2019年4月7日を見ました)による更なる国民生活管理は、その賞味期限を自ら短くしている行為に見える。

20世紀以降ナチスの宣伝や孫子の兵法は世界的に研究され、その成果の一つが特殊詐欺だといえるまで、人間の精神科学の悪用は極まった。

どんなすばらしいテクノロジーでもそれを用いたり研究したりしている自分自身が善なのか悪なのかわからないままに生きている人が多いのではないか。

毎日の電車の中では、地獄的なヴァーチャル・リアリティであるスマホを覗き込み地獄的センスを繰り返し味わう人々の多いことよ。

あいにく、こうした日常生活のペースは世界的に均質化されていることを海外ニュースで見ることができる。コンビニもスマホもそっくりだ。

こうしてノートルダム大聖堂で大火災が起き、人は自分の内側が火災になっていないかとちょっと気にしてみる。
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