アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

肉体離脱の時

2019-03-31 06:27:56 | 古神道の手振り
◎メンタル体トリップ

出口王仁三郎は、人間を霊と肉に区分して説明する。
これは天人にコンタクトできていることから、いくつかある体外離脱中のメンタル体トリップだと思う。

霊界物語第47巻第一一章手苦駄女から
『人間は如何にして肉体を脱離し、精霊界に入るかと云ふに、此時の人間は睡眠にも居らず、覚醒にもあらざる一種異様の情態に居るものであつて、此情態に在る時は、其人間は、只自分は充分に覚醒して居るものとのみ思うて居るものである。而して此際に於ける諸々の感覚は醒々として、恰も肉体の最も覚醒せる時に少しも変りはないのである。

五官の感覚も、四肢五体の触覚も特に精妙となることは肉体覚醒時の諸感覚や触覚の到底及ばざる所である。此情態にあつて、天人及び精霊を見る時は、其精気凛々として活躍するを認むべく、又彼等の言語をも明瞭に聞く事を得らるるのである。

尚も不可思議とすべきは、彼等天人及び精霊に親しく接触し得ることである。此故は人間肉体に属するもの、少しも此間に混入し来らないからである。此情態を呼んで霊界にては肉体離脱の時と云ひ、現界より見ては之を死と称するのである。

此時人間は其肉体の中に自分の居る事を覚えず、又其肉体の外に出て居ることをも覚えないものである。』

さらに呼吸が想念と連動するのは、OSHOバグワンの所説だが、同じクンダリーニ・ヨーギとして出口王仁三郎も同じことを言っている。

(上掲巻から)
『精霊と呼吸及心臓の鼓動との間に内的交通なるものがある。そは精霊の想念とは呼吸と相通じ、其愛より来る情動は心臓と通ずる故である。夫だから肺臓心臓の活動が全く止む時こそ、霊と肉とが忽ち分離する時である。肺臓の呼吸と心臓の鼓動とは、人間の本体たる精霊其ものを繋ぐ所の命脈であつて、此二つの官能を破壊する時は精霊は忽ちおのれに帰り、独立し復活し得るのである。』

この説明は、ある意味で物理法則的ではあるが、出口王仁三郎の云うところの人間の内分は、大神とつながっていることが条件である(内流)。神を知って、初めて肉体離脱この説明は、ある意味で物理法則的ではあるが、出口王仁三郎の云うところの人間の内分(精神、生活態度)は、大神とつながっていることが条件である(内流)。神を知って、初めて霊肉離脱なのである。

昨今悟っていない人が多くなりすぎて、この世には地獄的現実が現出されているが、まず人間は神知ることである。
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出口王仁三郎入蒙記の評価

2019-03-30 06:18:20 | 古神道の手振り
◎みろくの世への征戦 幾人か生還できる

霊界物語の『入蒙記 霊界物語特別編』は、81巻の霊界物語中で番外に位置し、それだけで重要性がわかるもの。

だが読んでみると、出口王仁三郎と植芝盛平一行は、パインタラで銃殺寸前まで行って奇跡的に助かったとか、このツアーで植芝盛平は、敵の銃弾の来る前に光の玉がくるので、それでもって銃弾を見切ったなどという、冒険活劇的エピソードに目を奪われがちである。

だが、入蒙記を全体として見れば、出口王仁三郎一行6名が、モンゴルに入り、奉天からハロンアルシャン付近まで北上し、パインタラ経由で4か月で帰国したという物語ではあるが、重要なポイントが隠されている。

入蒙中は戦乱に継ぐ戦乱。このモンゴル・ツアーの後援者は、張作霖と並ぶ馬賊の頭目盧占魁だったが、結局このツアーの時期に張作霖の手で数千の将兵諸共殲滅された。
この入蒙を支援してくれた支那人のほとんどが生命を落としてしまったのだ。

これを見ると、このモンゴルツアーでの生還率は、1%にも満たない。これは何を意味するかというと出口王仁三郎の型出し御神業ではあるが、残った人間は2%、3%どころではないという示唆ではある。

入蒙記は、責付出獄中を推してモンゴルに入った出口王仁三郎一行だけは、数々の冒険も行って、奇跡的に生還できて万々歳みたいな書きぶりだが、実は大量殺戮を経てみろくの世に入れたのは、実に厳しい確率だったという暗喩でもある。

これが、『入蒙記 霊界物語特別編』が天祥地瑞でもない別枠に置かれている理由なのだろうと思う。

このことは、植芝盛平の高弟の砂泊兼基『合気道開祖植芝盛平』を読んで気がついた。

ツアーのスタート日が2月12日であって、ダンテス・ダイジとのリンクを連想する人もいるだろう。本田親徳⇒出口王仁三郎⇒ダンテス・ダイジという流れはあるのだと思う。

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出口王仁三郎の未実現予言

2019-03-29 04:44:20 | 時代のおわり
◎戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず

大正六年十一月三日のいろは神歌に出口王仁三郎の未実現予言の一つが上がっている。

出口王仁三郎予言は、先の敗戦ですべて実現したなどと言ったり書いたりする人がいるので誤解されがちだが、いろは神歌は、明らかに未実現予言群であり、世の終わり、世の大峠における破壊と復興(破壊がノア、復興がナオ)が描かれている。

例えば、『〇保日の命の現はれて、海の内外の嫌いなく、降らす血雨の河と成り、屍は積みて山を為す、カラクレナイの敷島の、赤き心は日本魂、火にさえ焼けぬ国魂の、光り輝く時となり、体主霊従の身魂を焼き尽し、水火の国の中津国、下津岩根に現はれし、厳の御魂の勲功の、天照る御代の楽もしさ。』などは、最初に大量殺戮シーンがあって、後半は、みろくの世なる水晶身魂の人々の出現を示す。(※保日の命は、破壊殺戮の神)

さらに問題なのは、国を挙げて15歳の若者から50代の老人まで、かつ男女の別なく徴兵されるなどという、空恐ろしいことが書いてある。第二次世界大戦時は、上は45歳までで男子だけ。その上に坊さんもキリスト教徒も囚人までもが動員されるというから、政府が国民の個人情報を駆使して、1億2千万総戦闘員体制を敷くのだろう。GAFAの悪影響は他人事だと今は思っているかもしれないが、一朝事あれば、その刃は国民に向かうのだろう。
前回は国家神道で国民の団結を引き締めたが、次も大君を戴いてやるのだろう。

『○くに挙(こぞ)り上は五十路の老人より、下は三五の若者が、男、女の別(わか)ち無く、坊主も耶蘇も囚人も、戦争の庭に立つ時の、巡りくるまの遠からず、

遠津御神の造らしし、御国を守る兵(つわ)ものと、日本(やまと)心を振起し、

伊都の雄猛び踏み健(たけ)び、厳のころびを起しつつ、
海往(うみゆ)かば水潜(みづく)しかばね山往かば、草生(くさむ)す屍大君(おおぎみ)の、御為に死なむ徒(いたづ)らに、閑(のど)には死なじ一足も、顧みせじと弥進み、いや迫りつつ、

山の尾に、追伏せ散らし川の瀬に、追払ひつつ、仇軍(あだいくさ)、服従(まつろ)へ和(やわ)して浦安の、御国を守れ秋津人(あきつびと)、現津御神と大八洲(おおやしま)、国知食(しろしめ)す天皇(すめらぎ)の、高き恵みに酬(むく)へかし、日本(やまと)島根の神の御子。』

始まるのは突然で、進行も急速で、政府の管理・コントロールできない場所も増えていくが、それでも最後まで政府は管理しようと頑張るのだろうと思う。
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合気道 植芝盛平 その横顔

2019-03-28 05:37:59 | 古神道の手振り
天の浮橋

植芝盛平には、著作はなく、口述本が残っているのみ。技も2回やると盗まれるとし、2回連続で同じ技をやることはなかった。
合気神髄というのが、唯一の武道哲学の解説書のようなものだが、ちょっと見てもらうとわかるが、ほとんどの彼の内弟子でも理解できなかったほどに相当に大本教の教義と世界構造をわかっていないと何を言っているのかわからない内容の代物。

出口王仁三郎は、その人生のクライマックスの一つである蒙古遠征に植芝盛平を帯同し銃殺寸前まで行って、辞世まで残している。

植芝盛平が、銃の弾が来る前に、撃とうという心が白い気になって来るので、それをよければ弾には当たらないという体験をしたのはこの時ではないかと思われる。
ちょっとでも自分が残っているとやられるのを知っていたのだろう。

植芝盛平は、簡単には試合をやらせなかったという。試合は死合であって、命のやりとりだからだそうだ。

植芝盛平がある弟子に、まじめというのを知っているかと問い、『マジメは間を締めること。マヌケは間が抜けているからだぞ』と戒めたという。

この間は隙間でしょうね。
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合気道 植芝盛平 天之鳥船と振魂

2019-03-27 05:26:49 | 古神道の手振り
◎巨人軍の荒川博バットとともに吹き飛ばされる

王貞治の師匠である巨人軍の荒川博。ある日、植芝盛平が持っている木刀めがけて、荒川がバットを横なぎに振った。その瞬間に植芝盛平が気合を入れたら、荒川はバットもろともに吹っ飛んだ。それが2回あって、荒川は植芝盛平に弟子入りした。

植芝盛平は、80過ぎだったが、門人と一緒に30分くらい丁寧に身体をストレッチしていた。80過ぎの老人とは思えないほど身体が柔らかく、古神道独特の体操である天之鳥船も大変柔軟だった。

植芝盛平は、天之鳥船を三回と振魂一回をセットで3セットやっていた。(振魂では右手を下に左手を上に組む)(以上出所:開祖の横顔 14人の直弟子が語る合気道創始者・植芝盛平の言葉と姿 月刊秘伝編集部/編 BABジャパン)

※振魂:振魂の行事なり。之には種々の方式あれども、普通の場合には、両掌を臍あたりの前方に於て十字形に組み合せ、渾身の力を籠めて神名を称へながら、自己の根本精神を自覚して、盛んに猛烈に数十分乃至数時間連続して全身を振ひ動かす行事なり。神代の禊には神々何れも天之峯火夫の神の御名を称へ奉られたるが、現代にては吾人の禊には天之御中主之大神の御名を称へ奉るなり。(霊界物語第75巻)

※天之鳥船:いわゆる船漕ぎ体操

植芝盛平は稽古前には、祝詞など1時間半ほどの神事を行ったと伝えられる。
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ペットを可愛がるのをペット本人はどう思っているか

2019-03-26 05:13:30 | 冥想アヴァンギャルド
◎人道的とは何か

出口王仁三郎が、ペットを可愛がることについて、可愛がられている本人の立場でコメントしている。

これによるとペットを可愛がるというのは、形式上動物愛護ではあるが、ペット本人の立場から見れば、ペットとしての人生修行の目的を果たしえないために、虐待のようなものだとしている。

『動物愛護について

一切のものは輪廻転生の理によつて形を現はして居る。動物は畜生道に堕ちた霊がそこに現はれて居る、故に動物は向上して人間に生れかはらうとの希望をもつて居るものである。

愛護されて居る動物、虐使されて居る動物、一見甚だ不公平の如く見えるが、虐使されつつある動物は、其修行を経ねば向上する事が出来ないやうに出来て居るのであるから、人間が殊更に愛護すると言ふ事になれば、修行が完成せられないで、死後再び動物界に生れ来て、修行の仕直しをせねばならぬ事になる。

故に形から見れば愛護であつても、其霊性から考へると一種の虐待になる。今日の世の中は動物愛護よりも、神の生宮たる人間で畜生道に堕ちやうとする危険のものが沢山あるから、この方を救うてやることが、より急務である。動物愛護会などは形に囚はれたる偽善である。如何となれば多くの人はそれを食物にしようとして居るから。』(月鏡/出口王仁三郎から引用)

要するにペットだって、ペット人生を全うし、早く人間に転生したいのだから、ペットとして飼われるというのは、今生で人間に転生できるチャンスをふいにし、もう一度ペット人生をやらなければならないというひどい仕打ちであるということ。

この出口王仁三郎の見方は、野良猫、野良犬保護をされている人々からみれば、とんでもない見方でもあるし、多数のペットを飼っている人から見ても甚だ残念な見方でもある。

だが、一切衆生が仏になることを待っている釈迦牟尼。

出口王仁三郎もつれづれに子猫と戯れている歌を詠んでいる。出口王仁三郎だってペットを虐待しましょうなどと言っているわけではない。

人間それぞれに天命があり、ペットにもそれぞれ天命がある。生も人生だが、死も人生の一部。生も死もまとめて見れる立場、大神の立場でもってこういうことが初めて言えるのであって、俗人が単純にこの言葉だけを見ると無用の反発がある。

古事記に日に千人殺すが日に千五百人産むというやりとりがあるが、そういった種類のことと思う。

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映画『空海』1984

2019-03-25 05:38:22 | 密教
◎虚しく往きて実ちて帰る

映画『空海』は、弘法大師空海入定1150年を記念して1984年に制作された映画。この映画は、空海の一代記であって、時の真言宗の即身成仏観や曼荼羅観が出ていて面白い。

なお映画『空海-KU-KAI-美しき王妃の謎』は、長安を舞台に化け猫と空海が対決するというファンタジー映画であって、求道ものではない。

空海の入定が3月21日であって、この季節に映画『空海』を拝見するのは、高野山を参拝した時のことなど思い起こされて、非常に興味深いものであった。

平城天皇、藤原薬子の乱でがたがたしている時代に、最澄が一足先に時の仏教エスタブリッシュメント奈良を捨て、伽藍もなかった比叡山に入り、遅れて空海は、最初から修験で虚空蔵求聞持法にて唐留学の準備のため、山に入り、運よく唐上陸を成し遂げた。

野球のイチローは、一歩一歩積み重ねしかなかったが、空海は、晩年の恵果大師と出会い、805年5月から8月の3か月で伝法阿闍梨位の灌頂を受け、急速に密教の奥義伝授は完了、以後数か月かけて、恵果一門が空海帰国時に持ち帰る経典法具の制作に入る。

中国が外国企業に対し企業秘密の知的財産を中国企業に渡すことを強要していることをアメリカが批判しているこの時代。今なら無償で宗教の奥義秘密を伝授するなど、ありえない?(金で伝授できる?誰にでも伝授できる?)が、わずか35年後の840年には唐で仏教弾圧があり、禅も密教もダメになることを見越してのことだっただろう。

単に仏教東漸とか、気前の良い和尚の大盤振る舞いとは思えない。

密教には、稀に政権有力者が覚者と結びついて、その後の国家地域を安定させる動きをする場合があるのだが、チベット仏教王としてダライラマの成立や、元のフビライとパスパ師の関係などと比肩できるのが空海の件なのだろうと思う。
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日本教としての古神道

2019-03-24 06:17:44 | 古神道の手振り
◎古神道と他宗教とのコラボ史

日本書記には、仏教が日本に入ってくる時に、日本には、天地百八十神がおわしますのに、仏教を入れるなどは、これら先住の神々がお怒りになるだろうと恐れたり、疫病に乗じて仏像を投げ捨てたり、寺を焼いたことが記されている。

儒教の孟子が日本に入ってくる時も、易姓革命により万世一系の天皇制を侵すものとして、何度も中国の船が沈んだという。

日本は仏教を入れるには入れたが、習合して古神道を捨てることはなかった。

禅が入ってくる時に、栄西は他宗派から世俗の名利にさといなどと陰口を叩かれ、密教が入ってくる時に、空海は平城天皇と嵯峨天皇が争っていたところ、うまく嵯峨天皇を推して勝者の側についたとその立ち回りぶりをくさされるが、新宗教は常にそういう目にあう。

皇室は、空海以後すっかり葬祭がすっかり真言密教化してしまって、明治になるまでそれは変わらなかった。

明治中期から天皇は国家神道体制に取り込まれ、いつのまにか現人神になって、第二次世界大戦の敗戦を迎える。

出口王仁三郎は、ネオ古神道の復古を昭和10年までには完成し、それをもって、宗派のない宗教、あるいは、宗派の卒業を期していたふしがある(万教同根)。

キリスト教については、安土桃山、明治維新時、終戦直後にそれぞれ大規模に入り込もうとした時期はあったが、この宗派のない時代に入った。宗派にこだわらないまともな宗教と無数のカルトが共存する時代に。

古神道だけ見れば、平安時代から江戸時代以降は、細々とやってきていたのだろうと思われるが、必ずしも天皇の近縁に覚者がおらずとも、周辺に身分の卑しい者やあるいは、仏教者であっても古神道を護持してくれるわけのわかった人が途切れずに続いたからこそ今の神道があるのだと思う。

明治以降国家神道として歪められ、大本教を弾圧する等のことはあったが、本来の清流を持つ人はどこかにいるのだろうと思う。

また古事記が残っているというのは、パドマサンバヴァがチベット土着神を帰順させたような荒業により古来の天津神、国津神が滅ぼされはしなかったということなのだろうとも思う。
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イチローの考えない野球批判

2019-03-23 06:21:16 | 究極というものの可能性
◎自分で考える

イチローの引退会見の中で、アメリカの野球は考えない野球に向かっているが、日本はそれを真似することはないというようなニュアンスの発言があった。

NYヤンキースの田中マー君の登板の時に、ヒューストン・アストロズは、球種、球速、コース、何球目にどんな配球をしてくるかなどを分析しきっており、アストロズのバッターは、ほぼ次にどういう球が来るかをかなりの確率で分かっているなどと解説される。一見アメリカ野球は、考えつくした野球だと誰もが思う。

そういう中で、名門ヤンキースで、5年連続2けた勝利する田中マー君は偉大であって、日本の野球は、未だに野村監督のID野球レベルなのかなと勘ぐってしまう。この辺は別の突っ込み所。

そうしたあらゆるデータを駆使したAI分析に立ち向かっているのが、メジャーリーガーなのであるが、データの収集と分析と予測を外部に頼っているがゆえに、選手個人は考えなくなっている。アストロズ打線は強力だが、それは、考えないバッター陣だと言っているのではないかと思った。

イチローは、自分が生の現実を感じ、結果を集積し、分析し、予測し、応用するという肌感覚の『考える野球』を何十年続けてきたのだろう。

日本のマスコミは根性論が大好きなせいか、試合前後の地味な激しいイチローの練習の積み重ねばかり強調するが、実は日々刻々自分で考えてきたほうが軸であって、その結果野球人として適切に練習を積み重ねて成功できたのではないか。

冥想でも適切な冥想法を学び、適切に冥想を積み重ねることが必要なのだが、日々自分で疑い、考えるのが基本。しかしそれは意外に簡単なことではなく、カルトに引き込まれたり、精神のバランスを崩したり、野狐禅となったり、独善となったりする。

今スポーツでもIT・データ分析が花盛りで、テニス大坂なおみのチームにも分析担当がいて、バレーボールでも監督の横にデータ分析担当がいて、サッカー、アメフト、卓球もそう。将棋、囲碁は、ITが人間の実力を上回るようになってますますその傾向は強い。

人間はどうしても、生データとその分析結果があると、それを信じてしまい、頼ってしまう。自分で疑い、考えることをやめるのだ。その信じ込みやすさでは、現実の一歩先に進めないことをイチローは感じていたし、そのことは相当に決定的な結果を招くことも承知していたのだろうと思う。

確かにデータ分析では相当な成功をゲットできるだろう。だが、本当に切羽詰まった場面では、過去データの類推でなく、ビビッドな今ここが求められることをいくつもの修羅場を通じて痛感していたのではないかと思う。

西洋占星術もコンピューターで予測した天体の位置をもとに予測することが当たり前になって久しい。実際の天体位置は、微妙に予測位置とずれる。実際とずれたホロスコープでは、ずれた予言となる。生の天体をみていないからである。

生の天体を見て、感じる、考える。孔子も学びて思わざれば則ち罔(くら)し、と。データで学んでも生き生きとした現実そのものを感じ、考えないと、突き抜けることはできないのだ。

2009年ワールド・ベース・ボール・クラシック決勝の韓国戦、3-3で迎えた10回表、2アウト2・3塁の場面で、それまで不振に苦しんでいたイチロー選手がセンター前に勝ち越しのヒットを放ったことを、皆忘れないだろう。それが彼の考える野球の証し。
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武闘派の白猫、神上がりましき

2019-03-22 05:29:55 | 冥想アヴァンギャルド
◎人になつかぬ野良猫でもかわいいことに変わりはない

時々庭で、えさをねだっていた野良の若い白猫がパッタリ来なくなり、近所の野良猫が一斉に変わる時期があり、またそういう時期を迎えたのかと思った。

この白猫は、年齢は、1歳半くらいで、目が深い青で、毛並みは純白であり、とても美しいオス猫だった。近所には他にODD EYESの白猫もいるのだが、それとは違う気品のある白猫だった。

1歳になるまでは、母猫(白猫)と兄弟猫のキジ白とで三匹で行動を共にすることが多かったが、最近は三匹とも独立して動くようになっていた。

この白猫は、昨年夏までは、傷一つない顔とボディであって、代表的イケメン白猫として見かけるのが楽しみだったのだが、秋のスーパー台風以後は、毎日顔や背中に生傷が絶えず、前足の内側が血の色に染まっていることが多くなり、いつのまにか胴体は白いが、顔は薄茶の猫となり、武闘派として、縄張りを犯す他のオス猫やボス猫とバトルを繰り返していたようだった。

ある午前、彼とODD EYESの白猫が顔と顔と2センチ位の距離まで近づけて、鳴きあっていたのだが、その音量たるや通りすがりの小学生の親子5人が思わず仲裁に入るほどの大声であった。
あの距離でひっかき合えば双方とも無傷では済むまい。

若頭を狙う猫として勇猛だったが、一方えさをねだる時は、借りてきた猫のように愛嬌たっぷりでかしこまっていたものだ。

冬は、マイナス5度の時期もきちんと来ていたのだが、先週位に両目じりに黒い目やにをつけて目をつぶったままえさを食べているのが数日続き、そして来なくなった。

交通事故でそうなってしまったのではないかと思う。

そしているはずのない隣のマンションの12階でものすごい奇麗な白猫を見かけたという話が聞こえてきて、12階でもあるし誰かの飼い猫が迷ったのではないかという推測にはなっているのだが、彼が神上がる前に姿を見せてくれたのではないかと思っている。

人になつかぬ野良猫は短命だが、かわいいことに変わりはない
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因果は感じるべきものか

2019-03-21 07:15:35 | 只管打坐
◎無相は空なく不空もなし

道元が師の如浄に「因果は感じるべきものなのでしょうか」と質問した。(宝慶記)

すると如浄は、「因果を否定してはいけない。
永嘉禅師は、証道歌で『闊達の空は因果を撥(はら)う、 莽莽蕩蕩(もうもうとうとう)として殃禍(おうか)を招く。(大意:現象には何も実体がないという理屈だけで世を処して行けば、そのメカニズムは明白にはわからないものだが、結局ひどい災いを招くものだ。)』と言っているように、(そんな人は)仏道修行という仏法の中において、善根を断った人であり、釈迦の子孫とはいえない。」

現象は実体がないから、どんな悪いことをしてもいいのだとか、あるいは有を捨て転変して変わり続ける空だけを信じるなどは、水に溺れるのを避けるために猛火に飛び込んでしまうようなものである。

だから証道歌のこの段の冒頭では、「無相は空なく不空もなし、即ち是れ如来の真実相。」とコーションを入れている。

空は第六身体だが、確かなものは何もないとか、現象には実体がないという一方通行の理屈で進む人が出てきがちだが、それで進むとひどい目に遭う。

なるほど、禅問答の代表的テキスト無門関の第一則の趙州狗子に『ワンちゃんに仏性があるのか』と問い、第二則の百丈野狐では、『キツネちゃんが『不昧因果』と断言された途端にキツネのままで大悟した』話が出ているわけだ。

へまをすると、死後500回もキツネの転生をやるはめになるぞ、と。
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七つの身体相互のエネルギー変換-1

2019-03-20 05:16:44 | チャクラと七つの身体
◎エネルギーという言葉ももどかしく

第七身体は、大神であり、仏であり、タオであり、言葉では表現できない。

あらゆる現象には実体はないが、一つながりにつながっている。過去も現在も未来も、男も女も、光も闇も、神も悪魔も。色即是空で一気通貫。これは第六身体であって、全体だが、個ではない。

第六身体と第七身体に相互の影響は、語られたことはないことはないが、梵我一如などあまりとりあってはいけない説ばかりのように思う。

日本神話で言えば、天之御中主神が第七身体であって、高御産巣日神 、神産巣日神が第六身体。

ここから個が打ち出される。個の最初である第五身体に行住坐臥のような日常性はみられず。ダンテス・ダイジによれば、コーザル体と思しき自己意識は頭頂から離脱して地球の次元、宇宙の次元の壁をも越えて現象宇宙を上昇する。
この部分が、コーザル体とアートマン第六身体との関連部分と呼べるものだろうと思う。コーザル体の自我が死ねば、第六身体に出るのだろう。

それでは改めてコーザル体とは、OSHOバグワンによれば、自我の死について、「自我」とは「私=エゴ」と「在る」に分解され、コーザル体では、「私=エゴ」だけが死ぬという。

この辺は、実体験してみないと始まらないことはわかっているが、敢えて彼らの説明を見てみた。
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感情には生理的変化が伴う

2019-03-19 05:35:00 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
◎身体と感情

人間が、神仏に向き合っていくモチベーションを理性と感情に分けてみると、どうしても感情のエネルギーの方が勢いがあることは誰もが感じているところである。

ところで、感情と肉体は密接に絡むことを野口整体の野口晴哉が語っている。
『怒りっぽいとか、気が散るとかいうのも体と関係があって、みんな鳩尾が硬くなっています。鳩尾が柔らかければ、怒ったといってもそれは怒ったふりをしているだけで感情は発動していない。顔が赤くなるとか、心臓がドキドキするとか、手足がブルブル震えるとか、怒りには怒りの生理的変化があるのです。悲しみには悲しみの生理的変化がある。それが伴わない感情というのはないのです。

「腹が立つ」という言葉があります。直腹筋が緊張するのです。裸にして観ていますと、本当に腹筋が立つのです。こういう時は頭が草臥れた場合で、頭部第二整圧点-目の中央と耳の前からの線が前頭部で交わる処-を何かで軽くコツコツと叩くのです。叩いているうちにお腹が柔らかくなって、直腹筋の立ったのがなくなってきます。』
(愉気法1/野口晴哉P44-45から引用)

感情には肉体変化が伴うことは、ライヒも指摘したところだが、肉体をほぐして感情をもほぐすことをライヒもやった。

ライヒはオルガズム研究したが野口晴哉はやらなかったのだろうか。
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本山博のクンダリニー覚醒のステップ

2019-03-18 03:34:36 | クンダリーニ・ヨーガ
◎心身霊のすべてがクンダリニー+神力で焼き尽くされる

「スピリチュアリティの真実/本山 博/ PHP研究所」にクンダリニー覚醒のステップが書いてあり、アストラル・プロジェクション、カラーナ・プロジェクション(メンタル体・プロジェクションのことか)の次に不動明王段階が置いてある。

この段階では、心身霊のすべてがクンダリニー+神力で焼き尽くされるという。不動明王体験を経ると霊の世界を超えて宇宙も包める次元に入れるようになり、過去、現在、未来が一体となってわかり、さらに神様と一つになると空がわかるという。

本山博は周辺に霊能力者が多かったせいか、霊能力者は、自分を残しているが、悟った人は自分がないと断言しているところ。
実はここが肝なのだが、あれこれ理屈で説明してもわかってもらえないという雰囲気の書きぶりである。
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芭蕉の出羽三山

2019-03-17 06:26:30 | 丹田禅(冥想法8)
◎シンクロニシティとトータル・コントロール

出羽三山は、羽黒山、月山、湯殿山。いずれも修験の修行で有名な山であって、冬季は月山、湯殿山が、積雪のため閉山となる。
湯殿山は、いわゆる「語られぬ湯殿」がありがたい。

人は、食べられて孤独でなければ、何十年でも何百年でも同じ生活パターンを繰り返すものだというが、それに飽き足らぬ思いがある一定の閾値を越えたときに求道に向かうのだろう。

奥の細道で、芭蕉の出羽三山の句。

涼しさやほの三日月の羽黒山
雲の峰幾つ崩れて月の山
語られぬ湯殿にぬらす袂(たもと)かな

三日月は白い実相の片鱗、背景に羽黒のマーヤの森の闇のコントラスト。
雲の峰なる転変する現象が崩れて正体である月輪を望む。
真理は言葉で語られぬので「語られぬ湯殿」、袂はマーヤ。

芭蕉の句は、その句でもってその時点でのあらゆる現象のうつろいをシンクロニシティとして映し出す。そしてその句は、個を超えて過去も未来も現在も含む今ここしかない今ここを、自然に力みなくトータル・コントロールしている。
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