アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

縦から読んでも横から読んでも-5

2019-02-28 04:54:00 | 古神道の手振り
◎ただ何事も人の世は 直日に見直せ聞直せ

ここでは、大本宣伝歌の末尾『ただ何事も人の世は 直日に見直せ聞直せ』
が歌い込まれている。

直日とは、字義は、大神。だが、神直日は神様の直霊であり、アートマン。大直日は人間の直霊であり、メンタル体を指すと考える。

以下の歌では、至福千年。七福神の宝船の時代を謳歌している。

霊界物語第26巻総説歌から
『【た】て直さむと現はれし
【た】てと緯との二柱
【な】みに漂ふ民草を
【に】本の元の大神の
【こ】ころの儘に救ひ上げ
【と】しも豊に賑ひつ
【も】も千万の神等に
【ひ】かれて遊ぶパラダイス
【と】みたる人も貧しきも
【の】どかな園に睦び合ひ
【よ】しとあしとの岩垣を
【は】らして暮す神の御世

【な】がき命を保ちつつ
【ほ】まれ目出度き神人の
【ひ】かり天地にさえ渡る
【に】しきの機の御仕組
【み】づの御魂や厳御魂
【な】らびて爰に現世に
【ほ】ろびを救ひ助けむと
【せ】き込み給ふ大御声
【き】く人さへもあら風や
【き】ぎのもまるる有様は
【な】みなみならぬ風情なり
【ほ】妻の国と謳はれて
【せ】界に轟く葦原の』

今更ながら、人間は肉体を有している以上は、厳しく見れば何がしかの悪事は犯しがちなもの。そこで内なる神に照らして、日々見直し、聞き直しが要る。

一方、見直し、聞き直しが不要な、悪事を行わない、善事ばかりを行う姿こそ惟神(かむながら)。
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ゾイゼの母の苦しみの克服

2019-02-27 04:55:23 | キリスト者の秘蹟
◎神に対する熱い愛慕

母は、死に臨んで息子ゾイゼに対し、主イエスの苦痛と母マリアへの心からの同情のため、30年間ずっとミサに与る都度激しく泣き続けたと告白した。

また母は、このような神に対する熱い愛慕の念が高まりすぎて、12週間病床にいたことまである。

そして彼女は、自らのあらゆる苦しみを、主が受けた甚だしい苦難に思いを込めて移し入れ、そうすることで彼女自身の苦しみを克服するという方法を身に着けていたという。

そこまで観想を徹底し、情動をイエスやマリアと同じものにしていけば、スティグマタが出たり、人間としての苦悩からの救済の道が開けるということはあるのだろう。

彼女は30年間、神への愛に立ち返りつつ生きることができた。

この母にして、自分の肉体を実験台にしてあらゆるトライアルを行ったゾイゼが出たわけだ。
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ポリュカルポスの殉教

2019-02-26 05:11:30 | キリスト者の秘蹟
◎サディズムを楽しむ系譜

ポリュカルポスは、2世紀のスミルナの主教。ローマ官憲に捕らえられ、棄教を促されたが、肯ぜず、処刑のために円形競技場に引き出された時は、既に86歳だった。

彼は、ローマ兵に「無神論者を取り除け」と棄教を迫られたが、「無神論者を取り除け」と応対したことから、汎神論風のローマの宗教を実質無神論とみていたことがわかる。
さらにローマ兵は、カエサルは主なりとか、カエサルの守護霊にかけて誓え、などとも言っており、家康というただの人間が神として崇められたようなこともやっていたようだ。

さてローマ官憲は最初野獣に彼を襲わせようとしたが、野獣競技は既に終了済であったので、野獣は見送りとなり火刑をすることとなった。

薪が組まれ、その上に縛られたポリュカルポスが乗り、点火された。すると不思議なことに炎が風をはらんだ船の帆さながらにアーチのような形に広がり、ポリュカルポスの体をぐるりと取り囲んだ。炎の中には炉の中で精錬されつつある金や銀のようなものが見えた。

やがて刑吏たちは、火が効果がないことで、結局剣にて彼を刺殺した。

さてこのポリュカルポスの最期は、不動明王段階だったのだろうか。

また周囲には観衆という、他人の不幸を見世物として嗤う人々が集まった。他人の不幸を嗤うコント・漫才というのは今でもテレビなどで生き続けているのは恐ろしいことだ。だがその背後には苦しみですらまんざらでもないという心性も見てとれる。

この事件は、キリスト者にとっては、苦難からの解放という殉教クライマックスだが、それを観覧した異教徒にとっては、それほど一本調子には事は進まない。その人間心理の状況は、サディズムを楽しむテレビ番組や他人の不幸を報道し続けるマスコミによって2千年間変わらなかったとも言えよう。

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君達が遭遇する事件はすべて

2019-02-25 03:31:59 | 究極というものの可能性
◎君達自らが招き寄せたものである

他人のせいにしたりするのは簡単だ。

『誰の人生にも起こる様々な出来事は、
すべて自らが招き寄せたものである。
それをどう処理するかは
本人が決めることだ。』
(リチャード・バック/イリュージョン/集英社P134から引用)

これが、原典『救世主入門』だと、やや変わっている。
『君達すべての者に告げる
君達が遭遇する事件はすべて
君達自らが招き寄せたものである
その事件の発展の方向を決めるのは
もちろん君達であって
神ではない』
(十三番目の冥想 雨宮第慈(ダンテス・ダイジ)講話録/渡辺郁夫編P112から引用)

これだけ読めば、何か切羽詰まった事態に追い込まれている人に対してのアドバイスとしては、やや冷たいかもしれない。

だが、第六身体、有、アートマン、この一つながりのものを前提とすれば、今ここしかない今において、このアドバイスを取り出してくるのは、至極当然なのだ。だが、人間の都合は、おかまいなしのところはある。

自分自身のアップグレードを要求されているのだ。
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洗礼者聖ヨハネの首

2019-02-24 06:27:40 | ザ・ジャンプ・アウト
◎アミアンの大聖堂

聖ヨハネは、斬首され、その首は、長いこと行方不明だった。日本でもミイラになった上人を聖遺物として扱うことはあり、仏舎利は代表的な聖遺物である。だが、古神道ではそのようなものはなく、徹底している。ただ古神道では、聖遺物ではないがご神体とされるものがある。

1204年十字軍がコンスタンチノープルを攻略。十字軍は市中の略奪と破壊を繰り返し街の各所に放火した。

この時あるアミアン出身者が、焼け残った教会で、箱に入れられた首を発見した。その首は洗礼者聖ヨハネの刻印のある銀製の皿に乗せられていた。

1206年洗礼者聖ヨハネの首は、フランスのアミアンに持ち帰られ、以後数多の巡礼者の群れを引き付けることとなった。

1218年アミアンに大火が起こり、教会も焼け落ちた。これを奇貨として、アミアンにはフランス最大の大聖堂が建設された。これに王族、諸侯が競って寄進を行い、14世紀の王妃イザボーは、黄金の皿を寄進し、この上に洗礼者聖ヨハネの首が安置されることになった。
更にこの皿は、いくつものルビーで装飾され、この上ない価値のものとなった

ところがフランス革命時に、このルビーははぎ取られ、黄金の皿も溶かされたのだが、首はかろうじてアミアン市長が持ち帰り、ほとぼりが冷めるまで教会に返還しなかったという。

さて、この首は審神されたのだろうか。まともな聖職者は、その首から聖なるバイブレーションを感得したのだろうか。
そんなことはタブーだから知ってても言えなかったのだろうか。

アミアンの大聖堂は、写真で見ても出色の出来栄えの建築である。人は正統性を求めるのだが、それを外に求めるのと内に求めるのとがある。
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パエトーンと天の馬車

2019-02-23 06:16:31 | 冥想アヴァンギャルド
◎神話ではなく身近な予言

ギリシア神話では、太陽神の子パエトーンが父の制止を聞かずに、一日天の馬車を借り受けて暴走した。

林も野原も、山も森も燃え、多くの都に大火が起こって焼かれ滅亡した。高山の雪も消え、やがて世界中が火に包まれた。

熱気と黒煙が立ち込め、大河も干上がり、砂漠も増加し、海の水もどんどん蒸発した。

天地を支える巨人アトラースも気息奄々となり、神々の宮殿は全世界と共に、今や崩壊せんとしていた。

これを見たゼウスは天頂に上り、雷電をパエトーンに向けて発射。馬車は破壊され、髪に火のついたパエトーンは、長い炎を引いてエリダノス川に落下して亡くなった。


地球温暖化の進行とこの神話が異なっているのは、地球温暖化では海水面の上昇が言われるが、この神話では海水面が低下しているところ。

乾燥した時代と天からの火によって、大自然と都市が破壊されるのは定番。だが、この話では、至福千年への転換が見えないのは傷である。

また天に尾を引く大流星の出現も予定されている。

こうした神話が神話でなく身近な予言として読める時代になってきた。
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ノストラダムスの諸世紀

2019-02-22 05:19:09 | 占星術  (冥想法6)
◎息子に親切なノストラダムス

マスコミは、他人の不幸や他国の不幸で耳目を引く。ネガティブ予言は、カルトや宗教教団が信者を集める手段ではある。

予言というのは、時と場所と事象で成る。だが今ここしかない今、将来のある事件を予言してみせても、その事件の内容が変わってしまったり、発生する順序が変わってしまうということはあるものだ。

ノストラダムスの諸世紀を読み解くガイドは、息子セザールへの手紙。セザールへの手紙では、息子が諸世紀を読み解く力はないであろうこと、金属変成の錬金術を研究して時間を無駄にしないことなどが書かれている。

さらに諸世紀を読み解く手がかりとなる書籍はすべて燃やしてしまったなどと、不親切であり、親切なアドバイスまで添えられている。

諸世紀の予言詩は、場所だけが特定できるとし、事象は、悲劇的なものが多いが、7千年紀である至福千年を意識して、自動書記されたものである。

至福千年、みろくの世の前段で起こる悲劇の予言といえば、瑞能神歌があるが、一番ネガティブで悲惨なところについて、ほとんど書いていないのは、出口王仁三郎は、「あまり悲惨で、よう言われんわい」と詳述を避けている。

これに対して、諸世紀では、欧州各地で起こる新時代直前の悲劇群を、時間が特定できないようにして、詳述している。順序は、まま変わるものである。

ホロスコープを見れば、その人の一生が浮かぶように、ゆかりのある地名の章を読めば、その地の最期が直観されるということはあるのだろう。

20年前、1999年7の月のカタストロフィーだけが世間の耳目を惹いたが、そろそろそれに続く至福千年、7千年紀の終わりに思いを致す時期となった。

ドナルド・シモダは、救世主をやめてしまった飛行機乗りだった(リチャード・バックのイリュージョン)が、悲惨な最期を遂げた。悲惨な最期が問題ではなく、どう生きているかが問われる7千年紀。


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千早振る

2019-02-21 05:33:12 | 古神道の手振り
◎千早振る神の心にかなひつつ

千早振るは、広瀬すずの枕詞でもなく、perfumeの枕詞でもなく、神の枕詞。
最近の広瀬すず主演の「千早振る」という映画の主題歌がperfumeだったそうです。
その映画は、求道ものでなく、青春恋愛ものです。


神が来臨し給う時に心に序奏を奏でる。千早振るには、そういう響きがある。

次の出口王仁三郎の千早振るの入っている歌は、流石の格調である。

(昭和八年十一月八日)
千早ぶる神の大道を余所にして
我日本の治まるべきやは

千早ぶる神代ながらのまつりごと
聖くはじむる春となりけり


(出口王仁三郎全集第7巻歌集巻下伊豆能売)
千早ぶる神の仕組は人みなを
天津御国にみちびかむため

(出口王仁三郎全集第7巻歌集巻下言華)
千早ぶる神より出でし智慧なれば
闇路行くとも過まつことなし

千早振る神の心にかなひつつ
老いず死(まか)らず生きむとぞ思ふ


以下は、千早振るではないが、感じ入ったもの。

(出口王仁三郎全集第7巻歌集巻下言華)
人の世のあらゆる艱苦をなめつくしはじめて悟る神の大道
※人間のあらゆる実感を感じえた者だけが悟る。


(昭和二年二月)
伊都能売のまことの神は人びとの
罪あやまちを審きたまはず
※出口王仁三郎は、最後の審判などとは言わず、大峠と言う。死後の閻魔大王の審判シーンで裁いているのは、閻魔大王ではなく、自分自身なのだろう。
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出口王仁三郎の祖父-4

2019-02-20 03:03:03 | 古神道の手振り
◎人間に他の神霊が来て助けるか

この祖父吉松は、執念が強く、死後6年くらい幽霊としてこの世に残り、子孫についていた。出口王仁三郎もこの幽霊を目撃している。

王仁が六歳の時、過って烈火の中に転げ込んだ事がある。其の時にも祖父さんが何処からとも知らず走って来て、火中から曳き出し助けて呉れた。王仁の左腕に大火傷の痕が遺って居るのは、其の時の火傷の名残りである。

(以上は、出口王仁三郎著作集第5巻人間王仁三郎第1部故郷の二十八年から)

ところが、これに対して、出口王仁三郎は、全く異なる見解を随筆玉鏡で披歴している。

『他神の守護

私は常に「上帝一霊四魂ヲ以テ心ヲ造リ、之ヲ活物ニ賦ス。地主三元八力ヲ以テ体ヲ造リ、之ヲ万有ニ与フ。
故ニ其霊ヲ守ル者ハ其体、其体ヲ守ル者ハ其霊也。他神在ツテ之ヲ守ルニ非ズ。即チ天父ノ命永遠不易」と説いてゐる。

「他神在ツテ之ヲ守ルニ非ズ」といふことは、自分の天賦の霊魂以外に他の神がかかつて守護するといふ事はないといふのである。

よく狐や狸が憑つて守るといふけれども、それは守るのではなくて肉体を害するのである。祖霊さんが守つて下さるとか或は産土の神が守られるとかいふのは、自分の精霊が祖霊或は産土の神と相感応してさう思ふだけのことである。

私の幼時、囲炉裏に落ちたときに祖父さんが現はれて私を助けて下さつたといふのは、私の霊が祖父さんと見せてゐるので、私が祖父さんと感じて見てゐただけである。

悪霊は人の空虚に入つて害悪を及ぼす。つまり滝に打たれたり、或は断食の修行などをすれば、肉体が衰弱して空虚が出来るから、そこに悪霊が感応するのである。空虚があつては正しい人といふことは出来ない。四魂即ち天賦の勇親愛智を完全に働かすことが大切である。産土の神が守るといふのは、村長が村民の世話をするやうなもので、決して人間に直接産土の神が来つて守るといふことはない。』

人の空虚とはトランスであり、最近は、モバゲーをしている時や、薬物摂取しているときでもあり得る。そうした土壌の中で、人間に他の神霊が来て助けるなどという千年一日の如き俗説に信を置くのであれば、人間に進歩はなく、通俗オカルティズムの泥沼から抜け出すことがないのではないだろうか。


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アヴァンギャルド精神世界はどんなブログか

2019-02-19 03:30:55 | 冥想アヴァンギャルド
◎自序

アヴァンギャルド精神世界は、2005年2月19日にスタートし、今日で満14年になります。この間の読者の皆様のご厚情に感謝致します。

◆アヴァンギャルド精神世界はどんなブログか

悟りを基軸に据えて、まず自分が悟ることが基本。悟るためには冥想が必要だが、冥想したからといって必ず悟れるわけでもない。

しかし、悟りに至る正統的メソッドはあるらしいので、そのメソッドの知的理解を促進する可能性が高いであろうブログ。

なぜならば、人はまず理屈で納得しないと行動に移すものではないから。理屈で冥想の必要性を理解しないと人は冥想に取り組むものではない。

人間は肉体だと思われているが、悟り、大悟覚醒、即身成仏を展望する上で、七つの身体論という構成は大いに理解と実践を促進する。

人が悟りに至るメソッドは、無数にあるが、代表的なクンダリーニ・ヨーガと只管打坐を比較するとその違いは明瞭に把握することができる。

七つの身体とは世界樹シンボルでも表されるのだが、世界樹の根の側が死の世界、樹冠の側が生の世界。悟りは根の側にある。

そうした社会常識と異なる世界観をまず認めて、さらに本来の冥想とは、世俗の願望成就とは別のところを狙ったものであるという基本認識がないと、冥想修業はまっすぐに進むまい。

そのために、多数の宗派、多数の冥想手法を管見し、さらに今まさに問題となっている現代人のライフ・スタイルとマインド・コントロールの癒着の危険性を指摘して、スムーズな冥想修業へのヒントを与える。

このマニュアル全盛の時代に、マニュアルなしで、自分自身で崖の途中に咲いていると聞く花をつかみ取りにいくようなもの。それが悟りであると思う。

悟りへはいろいろなアプローチはあるが、多くの宗派や分野の書籍にあたることで、敢えて回り道をしつつ、様々な仕方のあることを見せる。それが『アヴァンギャルド精神世界』である。
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出口王仁三郎の祖父-3

2019-02-18 03:55:07 | 古神道の手振り
◎祖父さんが死ぬ三日前

『祖父さんが死ぬ三日前に祖母に向かって云うには、「私も今死ぬのは厭わぬが、一つ残る事がある。是を遂行せなくては、産土様に死んでから申し解けが無い」と云って泣き出す。

そこで、祖母が「夫れは如何なる事が残るのですか」と尋ねると、驚くべし、「未だ屋敷と倭屋と小町田が残って居る。是を全部博奕を打って無く為て了わねば、私の使命を果たす事が出来ぬ」と曰うのである。』

祖父吉松は自分の生前の家の財産をなくす使命は果たせぬと観じ、祖母の子孫となって、その使命を果たすという宣言をした。

果たして、吉松は、出口王仁三郎の弟の由松として生まれ変わり、由松は十三、四歳の頃から小博奕を打ち出し、一旦は屋敷も小町田も全部スってしまい明治三十四年残った倭屋も火事にあって、ついに全財産を失って、祖父吉松はその使命を果たした。

その後、由松は、再び出口家より元の家敷を買い戻し、小さいながらも以前よりよほど立派な家を建ててもらい、元の屋敷で上田家の相続をして居た。

これを出口王仁三郎は、『皆昔から一定不変の神則であって、人間の智慧や考えでは如何ともする事が出来ぬと云う事の、実地の神証であると思う。』と評価。

これについての出口王仁三郎自身のカルマについての評価も、前向きである。
『「神の致す真の経綸は、人民では分らぬぞよ。何事も神に任すが良いぞよ」との御神示は、祖父と祖母とによって大部分実行された。その酬いで、王仁が至貴至尊なる大神の御用に召さるるように成ったのだと云う事を、忝なく思うのである。』

(以上は、出口王仁三郎著作集第5巻人間王仁三郎第1部故郷の二十八年から)

この話は、若い時に読んだ時は、とんでもない爺さんがいたものだくらいで読み流していたが、最近再び読んでみると、ゾクっとするところがある。

これは一家族の因縁話ではあるが、日本や国家、世界の流れにも通ずるところがあると感じる人もいることかと思う。

カルマは極まらなければ反転しないというが、極まらせないで反転する方が上策と思うが、そうはならないというのが、昔から一定不変の神則ということなのだろうか。いや極まり加減というのがあるのではないかと思う。

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出口王仁三郎の祖父-2

2019-02-17 03:47:43 | 古神道の手振り
◎先祖代々の深い罪障を取り払う

出口王仁三郎の祖父吉松は、五月の田植え時と秋の収穫期以外は、雨が降ろうが風が吹こうが、毎日毎夜、相手を探して賽ばかり転がし、朝に田地が一反飛び、タに山林が移転してしまうと云う惨状なので祖母が恐る恐る諌言すると、祖父の言い草がすごい。

「お宇能よ、余り心配するな、気楽に思うて居れ、天道様は空飛ぶ鳥でさえ養うて御座る。鳥や獣類は別に翌日の貯蓄もしていなが、別に餓死した奴は無い。人間もその通り餓えて死んだものは千人の中に只の一人か二人位のものじゃ。

千人の中で、九百九十九人までは食い過ぎて死ぬのじゃ。それで三日や五日食わいでも滅多に死にゃせぬ。私もお前の悔むのを聞く度に胸がひやひやする。けれども是も因縁じゃと断念て黙って見て居って呉れ。止める時節が来たら止める様に成る。

私は先祖代々の深い罪障を取り払いに生まれて来たのだ。一旦上田家は家も屋敷も無く成って了わねば良い芽は吹かぬぞよと、いつも産土の神が枕頭に立って仰せられる。

一日博奕を止めると、直ぐその晩に産土さまが現われて、何故神の申す事を聞かぬかと、大変な御立腹でお攻めに成る。是は私の冗談じゃない、真実真味の話だ。そうせなんだら上田家の血統は断絶する相じゃ。私も小供では無し、物の道理を知らぬ筈は無い、止むを得ず上田の財産を潰す為に生まれて来て居るのじゃ。大木は一旦幹から切らねば若い良い芽は生えぬ。その代わりに孫の代に成ったら世界の幸福ものに成るそうじゃ。

是は私が無理を言うと思うて呉れるな。尊い産土様の御言葉である」と云って、産土の森の方に向かって拍手する。斯う云う次第で在るから祖母も断念して、其の後は一言も意見らしい事は為なんだと言って居られたのである。

(以上は、出口王仁三郎著作集第5巻人間王仁三郎第1部故郷の二十八年から)
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出口王仁三郎の祖父-1

2019-02-16 05:38:15 | 古神道の手振り
◎賽の川原で賽拾う

出口王仁三郎の祖父の吉松は、明治四年の冬十二月二十七日に59歳で帰幽した。彼の実家の上田家は、七代毎に偉人が出るとして、円山応挙より七代目の出口王仁三郎が偉人となることを遺言したことで知られる。

だが、その吉松の博徒な性向は、今見てみると非常に興味深いものがある。
以下は、出口王仁三郎著作集第5巻人間王仁三郎第1部故郷の二十八年から。

祖父の吉松は至って正直で、清潔好きであったが、無類のサイコロ博打好きだった。そして酒も呑まず煙草も吸わず、農作業の合間には丁半々々と戦わして勝負を決するのが、三度の飯よりも好きであった。それが為に祖先伝来の上田も山林も残らず売り払い、只153坪の屋敷と破れ家と、33坪の買い手の無い蔭の悪田が一つ残った丈であった。祖父は死ぬ時も賽を放さず、死んだら賽と一所に葬って呉れと言ったそうである。

その時の辞世に、「打ちつ、打たれつ、一代勝負、可愛賽(妻)子に斯の世で別れ、賽の川原で賽拾う、ノンノコサイサイ、ノンノコサイサイ」。

祖母によれば、女房が米が無くて困って居ようが、醤油代が足るまいが、借金取りが攻め寄せて来ようが、平気の平左衛門で、朝から晩まで相手さえあれば賽を転がし、丁々半々と日の暮れるのも夜の明けるのも知らず、打ちまくり、臨終の際に成っても、博奕の事を云っていた気楽な爺さんだったという。
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佛はとたづぬる声を聞く時は

2019-02-15 04:32:21 | 丹田禅(冥想法8)
◎耳もけがるる心地こそすれ

至道無難禅師の道歌集から。

1.佛道に 入らんと思う 人はまづ 身より敵は なしとしるべし
※他人ではなく自分が敵。

2.人の身の 消え果る時 天地と ひとつになるを 道心と云ふ
※アートマンである第六身体で、天地と合一。道心は、既に悟りえた心。

3.無しと云えば 有るに迷える 心かな それをそのまま それと知らねば
※無しと有るとの違いを残しているようではまだまだ。

4.佛はと たづぬる声を 聞く時は 耳もけがるる 心地こそすれ
※佛を口や文章で説明することは、自分が汚れるような感じがするのだろう。自分で実体験するものであって説明はできない。

5.本来は 確かに無きと 知る人の 何の為にか 身は残るらん
※大悟覚醒してもボディは残る。

6.十悪に 五逆の罪を 作りそえて 地獄の釜の 底は抜けけり
※人々の罪が重くなりすぎて地獄の釜が抜けた。

7.老僧が 思い出とては こればかり 見る事もなし 聞く事もなし
※見ることも聞くこともない

8.萬法は 只一如なる 法の道を 迷ひてたつる 宗旨なりけり
※口や文字で説明できぬものを、説明するという無明マーヤの中で立てた宗教。

9.佛道に へだつるものは なかりけり 良きも悪しきも 我があらばこそ
※この我は、第六身体、このひとつながりのもの。
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全体を感じ取る

2019-02-14 05:38:52 | 超能力・霊能力
◎タダで手軽に毎日できる前向きのこと

世界全体、宇宙全体を感じ取ることはできないが、その場全体を感じ取る人はいるものだ。

何十人も働いている職場で、「〇〇さんどこへ行ったの?」と問うと、その人は別の場所で別の作業をしているので、〇〇さんが出ていくのを見たはずもないのに、どこどこと答えるとそれが当たっているというようなことに何度も出くわした。

それ以外に、その人は、職場全員が今どこで何をやっているのか感得しているに違いないと思わされるシーンは何度もあった。そしてそういう人は時々いるものだ。

サッカーの王様ペレのすごいところは、味方のほぼ全員の位置と動きを見ていなければ出せないようなパスを出すこと。ノー・ルック・パスの極み。

そういうパスを出せる人はいつの時代も存在し続けてきた。マラドーナ、ジダン、デル・ピエーロ。これは、サッカーや仕事の例だが十分に超能力だと思う。

以前、誰にでもある超能力として他人の視線を感じることを挙げた。誰にでもできるわけではないが、これも超能力だと思う。

サッカー選手はよく言うが、考えてから動き出すと遅れるので、考える前に動き出す、と。

こういったものには、深浅高低あるので、例えば職場全員の位置を把握している人が善人だとか言うつもりはないが、きっかけは持っている人なのだろうと思う。またサッカーでの天才が覚者であるかどうかとは別問題である。

こうした天賦の超能力を有している人だけが、何かいい目を見るということでなく、万人が、冥想により自分を深めて、本当の自分により近づいていく習慣は必要なものだし、そのくらいしかタダで手軽に毎日できる前向きのことはないのではないか。
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