アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

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2019-01-31 00:39:53 | 古神道の手振り
◎ここにいよいよ神の道 のどかに進む春の空

霊界物語第26巻総説歌から

【こ】こにいよいよ神の道
【の】どかに進む春の空
【よ】は紫陽花の七変化
【お】にも悪魔も忽ちに
【つ】きの光に照らされて
【く】に常立や豊雲野の
【り】やう神魂に神習ひ
【し】仁至愛の魂となり
【か】みの教に叶ひつつ
【む】つび親しみ五六七の世
【な】が鳴鳥の鳴き初めて
【ほ】のかに開く岩戸口
【ひ】の大神は美はしく
【こ】ころの儘に出でまして
【こ】こに岩戸は開けにける
【ろ】西亜亜弗利加大洋洲
【も】ろこし山の果までも
【ひ】かり輝く神の国
【ろ】く地は水に包まれて
【き】たなき曲津の影もなく
【を】さまり居たる磯輪垣の
【ほ】妻の国もいつしかに
【な】みを渡りて進み来し
【ほ】とけの教を誤解して
【ひ】に夜に汚れし現世を』

古事記の神代七代のうちの第一番国常立之命、第二番豊雲野命は独神成坐(になりまし)て隠身也(すみきりなり)。

これについて、大本略義の幽之幽では、曰く、「独神成坐而、隠身也」とは、聖なる眼でもこれを見ることができず、賢なる口でもこれを語ることができない。だが、不生不滅、不増不減、至大無外、至小無内の極徳を発揮されている。これを仰げば益々高く、これを探ればいよいよ深く、之を望めばいよいよ遠く、その威力は常に不可抗の天理天則と成りて、宇宙万有の上に圧し来る。

古事記では、「独神成坐而、隠身也」の神が
・天之御中主神
・高御産巣日神
・神産巣日神
・宇摩志阿斯訶備比古遅神
・天之常立神
・国之常立神(クニノトコタチノカミ)
・豊雲野神(トヨクモノノカミ)
と列挙され、その機能の違いについては、古事記ではほとんど何も説明がないが、出口王仁三郎は、そこを詳述したのは、クンダリーニ・ヨーギならではであって、空前絶後と言える。
「独神成坐而、隠身也」とは、一言でいえば大神なのだが、その違いを見分けられるのは大変なことであって只管打坐との違いを見せつけている。
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紀野一義と不発弾

2019-01-30 05:27:45 | 冥想アヴァンギャルド
◎やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

紀野一義は、名僧列伝という文庫本の著者。この日蓮の段に、ご自分が、千数百発の不発弾の信管をはずす作業をしたことが出てくる。

彼は学徒出陣で太平洋戦争には陸軍工兵士官として応召。レイテ島に送られる予定であったが輸送船団が壊滅し、台湾に送られる。台湾では米軍爆撃機が投下した不発弾1752発の信管を外す作業を命じられた。

最近でも時々住宅街で発見される不発弾処理作業の最後は、独身の一人だけが残って信管はずしをやるのだそうだが、それを一人で、1752発やったという。

一発やるのでも、来し方行く末のことが思い出され、生死が間一髪の境にあって、人の本心が露見しやすい。OSHOバグワンのいう“本当に意識的な”状態になるのだろう。

日蓮は、『妻を狙ったり窃盗などで撃たれる人は多いが、法華経の故に殺された人は一人もいない。ただ日蓮だけが、ちゃんと法華経を読んでいる。
我不愛身命但惜無上道是也(身命を愛さず、無上道だけを惜しむ)。』と言う。法華経には、法華経を信じ行ずる者は、ひどい目にあうと書かれているが、実際にひどい目にあっているのは日蓮一人だから、日蓮こそ正しい法華経読みだというロジックである。

紀野一義は、信管はずし作業の時に、常に日蓮のことを念頭に思い。必ず信管をはずしてやると思い、絶対に死ぬものかと思い、死ぬなどという気は毛頭なく、信管をはずし切り、生きて還ったという。そして生還できたのは、日蓮の不惜身命の生きざまを見習ったからだとする。

この考え方は、自分が殺されようが、傷つけられようが、そんなことは自分には関係ないという考え方とは異なる。

だが紀野一義は広島の原爆で両親をはじめ留守家族のほとんどを失ったという。生還してもやがて死に、非戦闘地域で非戦闘民でも原爆で死ぬ。

やがて死ぬけしきは見えず蝉の声
芭蕉


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2019-01-29 04:38:27 | 古神道の手振り
◎天津日嗣と祭政一致

霊界物語第26巻総説歌から
『総説歌(二)

【か】みが表に現はれて
【み】ろくの神世を開かむと
【か】らの身魂も諸共に
【を】さめて救ふ神の国
【も】も八十国の果までも
【て】らす霊界物語
【に】しや東や北南
【あ】まつ日嗣の御稜威に
【ら】く土と変る四方の国
【は】らし助くる皇神は
【れ】ん華台上に鎮まりて
【て】ん地を清め世を浄め
【せ】かい一度にかむばしく
【む】めの莟(つぼみ)のここかしこ
【と】えうの紋の忽ちに
【あ】らはれ出でて開くなる
【く】に常立の大御神
【と】きは堅磐に五六七(みろく)の世
【を】さめ給ふぞ有難き
【た】か天原に隈もなく
【て】り輝きし御光に
【わ】が身の雲を晴らしつつ
【け】しき卑しき心鏡を
【る】り光如来に研かれて』

天津日嗣とは、天皇陛下のこと。皇道を世界に宣布するには、祭政一致が必要であると出口王仁三郎は唱える。
だがその前段で世界全体の武装解除と天皇による軍備の保有が予想されている。
いずれも世の大峠の後のことであって、人口が激減した後のこと。
世界全体が、日本の天皇を崇拝するような心眼を開くようにならなければ、天皇中心の祭政一致など夢物語である。

世界全体が熱核戦争に巻き込まれて、ほぼ同時期に極ジャンプなどの大変動があって、神の力に対して人の力など及ぶべくもないと反省したからといって、宗教バラバラで無神論も多いこの世界各国が、いきなり天皇中心のみろく神政が実現するとは思えない。

何かが起きないとそうはならないし、何かが起きるのは準備ができていた人だけであると思う。

大本神諭に「神が表に現はれて、神力と学との力競べを致すぞよ、学の世はもう済みたぞよ、神には勝てんぞよ」とある。これは大時代な表現であって、現代科学の最先端と物質を超えた神力とが優劣を競うということ。現代科学の最先端といえば、軍事、バイオ、IT、金などいろいろあるが、その確実性が揺らぎ技術の信頼性そのものが問われるシーンが出てくるのではないかと思う。

現実は、霊界にて先に実現し、のち現象界に移写されて実現するのであって、霊界優位、微細ボディ優位は動かない。だが、広義では、そうした霊界の事象すらも本来善悪のない白地なものであるから、悪として利用可能。そこで、素な神そのものと人間の極大化した欲望の相剋みたいな実もふたもないようなところまでいかなければならないのかも知れない。

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日蓮の虚空蔵求聞持法

2019-01-28 05:16:08 | マントラ禅(冥想法7)
◎マントラときっかけ

日蓮は十二歳で、安房小湊に近い天台宗清澄寺に入り、その年からこの寺の虚空蔵菩薩に願をかけ、「日本第一の智者となし給え」と祈っていたという。一六歳で出家。清澄寺の本尊は虚空蔵菩薩。

虚空蔵求聞持法は、虚空蔵マントラの連唱。清澄寺から旭の森に行く途中の切り立った崖の下に小屋があって、これこそ慈覚大師円仁の求聞持修行の地であり、日蓮の法華修行の霊場だという。

『五十五歳の日蓮が、身延から清澄寺の大衆へ書き送った手紙『清澄寺大衆中』の中
にこういう言葉がある。

「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思(おぼ)し食(め)しけん。明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候し故に、一切経を見候しかば八宗竝に一切経の勝劣粗(ほぼ)是を知りぬ。」(『昭和定本日蓮聖人遺文』H・一一三三頁)』
(名僧列伝 3 念仏者と唱題者/紀野 一義/文芸春秋P210-211から引用)

おそらく日蓮は、空海などと並んで虚空蔵求聞持法に成功して、この一なるもの、アートマンにコンタクトし得たので、この手紙になっている。

何でも記憶できる虚空蔵求聞持法は受験生のあこがれだが、記憶力優先の大学入試の時代ではあるが、日蓮は、そんなところに関心なく、いきなりあらゆる経典を見てしまい、世界の構造まで把握したのだろう。

虚空蔵求聞持法は真言宗系の行法だが、日蓮は、真言亡国などと真言宗を批判するプロパガンダを行っているのは、よくよくのことなのだろう。

彼自身もマントラとしてはやや長い虚空蔵マントラでなく、南無妙法蓮華経というマントラでの可能性を確証し、布教したのだろう。

2019年1月27日人気アイドルグループ嵐が突然活動休止を予告。国内のトレンドワードでは“嵐”が急上昇(Google Trendでは2百万件以上)。何で今の時期にという声は多いが、日本の嵐が予告されたのだろう。嵐マントラが大勢念唱されている。

東京都心では、2018年12月24日以降ほとんど1か月降雨がなく、異常乾燥が続いているが、これぞ“嵐”の前の静けさか。

複数の関係ない事象を関係づけていると思う人もいるかもしれないが、シンクロニシティというのは、こういうものである。今眼前に起こっている事象をきっかけとして、自分の内部をのぞき込むということ。易占の原理も、タロット占いの原理も同じ。
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ボディ間移動の所要時間

2019-01-27 06:19:21 | 究極というものの可能性
◎刹那

人間の意識の連続の間には隙間があるという。

七つの身体のうち、時間のあるボディは、第一身体肉体から第五身体コーザル体まで。一方時間のない身体は、第六身体アートマンから第七身体ニルヴァーナである。

この最初の五身体が同時並行に存在するものと仮定して、クンダリーニ上昇にみるように次々にボディ間を移転する場合、例えば、肉体からアストラル体に行く所要時間は何秒なのだろうか。

仏教には刹那という概念がある。指を弾く時間の1/65を刹那とする説や1/75を刹那とする説がある。この刹那の間に発生と消滅があるという考え方もあり、なんとなれば消滅とは(時)が過ぎ去っていくことだとする。

各ボディ間の移動に時間がかかるとすれば、意識が入っていない場合のボディとは何か?本当に並行して存在しているのか?などの疑問がわき起こる。

ルドルフ・シュタイナーを読むと、夢を見る時、体外離脱するというが、肉体から離脱しきるまで何秒なのか。

アストラル・トリップでは、瞬時に思った場所に行けるなどと言う。

また第五以下の時間のある身体から時間のない身体に移動するには時間がかかるのかという疑問も出る。

ボディと別次元のボディ間の移動時間も重要な疑問だが、その一方で意識の連続と連続の間の隙間が何秒かという疑問も重要ではある。

意識は生であり、隙間を無意識とみれば隙間は死である。こういうのをもって刹那の間に意識も生滅ありと見たのかもしれない。

また時計などで、デジタル計測できない時間をどう図るのか。エーテル体という半物質は半物質だから物質による計測の手段はあるかもしれない。

だが、アストラル体以上の非物質を物質で計時することはできない。

そうするとアストラル体以上を計時する手段は、非物質である精神か意識に万人に共通のものがあって初めて計時できるのだろう思う。

だが、連続的な予言の当たり外れとか、実現の順序から推察するに、順序が前後して入れ替わったり、起きる事象そのものが微妙に変わったりということはあるものなので、
計時そのものの必要性とか意義自体が問われるということはある。

しかしながら、次の時代の科学は、この辺をも突破口にしないと物質のくびきを逃れることはできない。
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2019-01-26 06:03:10 | 古神道の手振り
◎マントラ惟神霊幸倍坐世

惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)は、出口王仁三郎のメインのマントラ。霊界物語第一巻の幽界巡りの何度かある苦境で、これを唱えるシーンがあり。神助を求めるマントラであることがわかる。

だが、マントラである以上は、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などと同様に、繰り返し繰り返し何時間も(何日も)唱え続けて、マントラシッディを狙うのが王道。

霊界物語第26巻総説歌から

【か】みが表に現はれて
【む】かしの神代に立直し
【な】らくの底に落ち込みし
【が】き畜生の身魂まで
【ら】く土の園に手を曳きて
【た】すけむものと三五(あななひ)の
【ま】こと心を振り起し
【ち】しほ吐きつつ雲霧を
【は】らはせ給ふありがたさ
【へ】だてなき世の神の国
【ま】つの五六七(みろく)のうまし世を
【せ】かいに照らし給ふこそ
 実に尊さの極みなれ。』

※神が表に現はれて:霊界では大神が表にお出ましになるかもしれないが、現世で神知らぬ身では何にもなりはせぬ。
※三五(あななひ):三五=掛け算で15。十五夜は満月であり、一円相。大神のこと。

言霊、言霊というが、神知る者の言が言霊であって、それなくしていくら声が良かったり、声が大きかったりしても言霊ではない。

惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)の用例では、苦境に陥った時に2度唱えなさいというのが多いので、神頼みの時に唱えるものと誤解されがち。だが、随筆集『月鏡』の「悪魔の世界」の段を読めという出口王仁三郎の示唆(新月の光)があることから、恐怖の最中に意識レベルが低下し、言霊の活動するレベルが露見するようなタイミングにあって、初めてかむながらたまちはへませという言霊の効果があるのだろう。・・・・・・・・恐怖の恵み


<参考>
『月鏡 悪魔の世界/出口王仁三郎

吾嘗て霊界に或夜誘はれて、幻怪なる夢魔の世界に入つた。その時自分は無劫の寂寥と恐怖に襲はれた。右も左も真の闇で、面前も背後も咫尺を弁ぜざる斗りの暗黒裡に落ち込んだ。そして何んとなく寒さを感じ、戦慄止まずして非常に怖ろしい、頭の頂辺から脚の爪先まで吾神経は、針の如うに尖つてゐる。

闇の中から黒い翼を拡げて、黙々として迫り来る凄まじい物の息を感ずる。慥に何物かが迫つて来る、地震、雷、火事、親爺よりも海嘯よりも、噴火よりも恐ろしい怪物が、虚空を圧し、大地を踏み躙つて、今にも吾身心に迫り来るかの如くに思はれて、大蛇に睨まれた蛙、猫に魅入られた鼠の如うに、自分の身体は微動とも出来ない。果然真蒼な剣の如き光が闇を劈いて、吾目を射貫した。其光は次第にメラメラと周囲に燃え拡がり、八方に飛び散らかつて、狂ひ初めた。さながら光の乱舞、火焔の活動で、何とも形容の出来ない厭らしさであつた。

そして此の物凄い火焔の海に、蒼白い横目の釣つた鬼と、赤黒い巌の如うな鬼とが、灰紫に煮えくりかへる泥の中に絡み合ひ、縺れ合つてゐる。やがて其の鬼が一つになつて、振り廻される火縄の様に、火焔の螺旋を描きつつ、幾千台の飛行機が低空飛行をやつてゐるやうな、巨大な音を轟かせながら、天上めがけて昇つて行く、その幻怪さ、実に奇観であつた。

真暗の空は、忽ちその邪鬼を呑んで了つたが、やがて大きな真赤な口を開けて、美しい金色の星を吐き出した。一つ二つ三つ五つと、百千億と刻々数を増す、金色の星は降るわ降るわ、始めは霰のやうに、雨の如うに、果ては大飛瀑のやうに降つて来る。

しかし其の星瀑の流るる大地はと見れば、白いとも白い、凝視すると一面の白骨で、自分も既に白骨を踏んで居る。何方向いても髑髏の山、散乱したる手や足の骨からは、蒼白い焔がめらめらと、燃えに燃えて何とも云へぬ臭気が、芬々として鼻を衝くのであつた。

自分は斯んな幻怪なる世界から一刻も早く脱れ出でんと、一生懸命に走り出した。足首が千切れる斗りに突走つた、併し幾ら駈けても白骨の広野は際限が無く、疲れ切つて思はず打倒れたが、忽ち深い深い渓河へ真逆様に落ち込んだ。

河水は悉く腥い血であつた。自分は逆巻く血の波に翻弄されつつ、河下へ河下へと流されて、正気を喪なつて了つた。その瞬間、何物かに強たたか五体を殴りつけられて、我に復つたが、雲衝く斗りの、一大摩天楼が頭上にそびえ立つてゐるのであつた。そして自分は、其の門柱に衝突した途端に、助かつた如うな心持になつた。

自分は覚えず其楼へ飛び込んで、矢庭に玄関へ駆け上つた、すると目眩しいばかりの電燈、否神の大燈が、恐怖に閉されて居た自分の魂の渓間を、皎々と照らし居るのであつた。吁々過去数十年の自分の幻影は、この恐ろしかつた夢の絵巻物となつて、今猶時々自分の魂に刺激を与へたり、鞭撻を加へて呉れる。吁々惟神霊幸倍坐世。』
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2019-01-25 06:28:23 | 古神道の手振り
◎天の数歌

縦から読んでも横から読んでもそれなりにちゃんとした文になるのは、長時間かければできないことはないのだろうが、短時間で仕上げるのは自動書記しかないのだろうと思う。

霊界物語第26巻総説歌から
『総説歌(一)

【ひ】の神国の中心地
【ふ】うふの神が現はれて
【み】ろくの神世を開かむと
【よ】つ尾の山の山裾に
【い】つきの神の口をかり
【む】かしの神代の有様を
【な】にから何まで説き諭し
【や】まと魂の養成に
【こ】ころを尽し身をつくし
【と】きは堅磐の言の葉を
【百】の神等諸人に
【千】から限りに宣りたまふ
【万】代変らぬ神の愛
 嬉しみ悦び奉る。』

『一二三四五六七八九十百千万』は、天の数歌。審神したり、邪霊を霊縛する時に用いる。
神様や祖霊等を鎮める。

以下の引用文では、そうした通り一遍の効果に止まらず、一旦死亡した人間をこの世に引き戻す魂返しの鎮魂でも用いるという。

神の毛一本自分の意志で白くも黒くもできないのだから、いわんや自分の生死をや。生死簿というのがあるように説明している。

『天の数歌はその結びの句が総て百千万といふ事になって居りますが、『ふるべゆら』といふのは喜ぶ、祝福する、勇む言霊で、病気癒しだけに唱ふるのであり、神様や祖霊等を鎮める時は皆百千万と奉唱するが良ろしい。

(中略)

魂返しの鎮魂には天の数歌でよい。帰る人は帰つて来る。生死簿について居ない人は活きて来るものであつて、死なない人は何うしても死なぬ。まだまだ現界で使はうと思召すと決して死ねないものであります。』
(大本史料集成2 運動編 池田昭/編/三一書房P460から引用)
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悟った人たちの著作と自動書記

2019-01-24 05:07:02 | 究極というものの可能性
◎既成概念を壊して語れないものを逐う

悟った人には2種類あって、神仏を見たりワンタッチしただけの人と神人合一体験のある人である。その著作はどちらの人が書いたのか。

釈迦は、言行録は多数あるが、自らの著作はない。OSHOバグワンも講話録は、多数あるが著作はない。クリシュナムルティも講話録は多数あるが、著作はほとんどないようだ。イエスも言行録は多数あるが、自らの著作はない。

道元には正法眼蔵がある。

出口王仁三郎には、多数の著作があるが、主著霊界物語は、自動書記であったためか、第一巻から順に第八十一巻まで読んだとしても、演繹的に積み上げた論理構成で順序よく書かれているわけではないから、一読してもわけがわからないのが常。

ダンテス・ダイジには、ニルヴァーナのプロセスとテクニックとアメジスト・タブレット・プロローグという著作がある。項目は立てていて、実体験も書かれているが、そのままでは何のことかわからないほどに詳細の説明はなく、随所に言葉では説明できない部分が登場する。

悟りというのは、本来言葉で説明などできないものだから、自ずと自動書記風にならざるを得ないものであり、人が悟りに至るには、徐々に既成概念を壊していく準備作業が必要なものだから、論理の積み上げではどうしても無理な部分が出てくる。そこが詳述できない部分なのだろうと思う。

パタンジャリのヨーガ・スートラは、インド・ヨーガの精髄だが、全体の書きぶりは自動書記風である。何千年の伝統のあるインド精神世界なのだから、消化してエッセンスだけ素人にも簡単に一読してわかるようなテキストはなく、せいぜいがヨーガ・スートラであるというのは、象徴的である。

だが今万人が、知性により悟りへの道程を見渡す時期が来たのだろうと思う。悟りは体験できるものだから。

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たとへ大地は沈むとも

2019-01-23 05:35:07 | 冥想アヴァンギャルド
◎誠の力は世を救ふ

大地が沈むことを大きく取り上げている歌は、霊界物語の基本宣伝歌。それこそ何十回となく霊界物語中に出てくる。

大地が沈んで新たな大地が登場することは、黙示録や北欧神話などに暗喩されているが、古い大地が沈む方を強調しているのは、人に対してインパクトが強い。

『基本宣伝歌

朝日は照るとも曇るとも  月は盈(み)つとも虧(か)くるとも
たとへ大地は沈むとも  曲津の神は荒ぶとも
誠の力は世を救ふ

三千世界の梅の花  一度に開く神の教
開いて散りて実を結ぶ  月日と地の恩を知れ
この世を救ふ生神は  高天原に神集ふ

神が表に現はれて  善と悪とを立別ける
この世を造りし神直日  心も広き大直日
ただ何事も人の世は  直日に見直せ聞直せ
身の過(あやまち)は宣り直せ。』

直日とは、クンダリーニのエネルギー・コードの謂いであって、七つの次元、七つの身体を貫くもの。神直日、大直日とも大神のこと。

七つの次元のどこにいても神への入り口があり、そこへのパイロットすなわち水先案内人が必ず立っている。彼のことは西洋ではヘルメスであり、日本では猿田彦命

直日に見直すとは、神の基準に従って、自分の言動と思念を見直すということ。

神のことを社会、世間では表立って話題にできぬこの日本社会ではあるが、自らの内で『神が表に現はれて 善と悪とを立別ける』ようになって、ようやく自分の振りを神の基準に従って見直すことができようというもの。

ノストラダムスの大予言では、1999年7月の恐怖の大王だけが注目され、1999年8月以降は、予言がはずれたとしてUFOに乗った異星人大王は見向きもされなくなった。

予言にはメイン・シナリオの予言というのがあり、黙示録や北欧神話の新たな大地の到来、七福神が宝船に乗って千年王国、至福千年がやって来るというのが、メイン・シナリオ中のメイン・シナリオ。

この時代は、花の時代であり、次の至福千年は実の時代。開いて散りて実を結ぶ。

1999年以前は、恐怖の大王みたいな不安についての共通のシンボルがあったのだが、それ以後は、東日本大震災で、本当に一部大地を沈ませて、さらに昨年のスーパー台風によって、大三災の風水火では、風の被害が大きいことを身をもって感じた人も多かったのではないか。

人間の営為は、功利だけによるものではない。個人的な願望成就や、集団の願望実現だけ優先していると、国全体、地球全体が大いにバランスを崩すということはあるものだ。

バランサーとして、個人と集団を超え最深の根源につながるべく、日々冥想を。
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マクモニーグルの日本の地震予言

2019-01-22 03:35:23 | 超能力・霊能力
◎晩夏の東京

マクモニーグル
の予言は結構はずれている。
『ジョー・マクモニーグル未来を透視する ジョー・マクモニーグル/著 ソフトバンククリエイティブ』P158では、
『2007年晩秋 高槻市の北25km 震度6弱6強
2008年夏 伊勢崎市 南西20km 震度6弱
2010年初夏 長野市 北東35km 震度7
2012年夏 伊丹市 東北東5km 震度6弱
2018年晩夏 東京都 西40km 震度6弱』(上掲書からの引用)等であって、東日本大震災や熊本地震は予言されていない。

だが、この揺れ動く一なるものは時事刻々変動しており、予言した瞬間に外れる可能性を孕む。よって、メイン・ストーリーの予言とサブ・ストーリーの予言と分けて、メイン・ストーリーの予言だけ見るというのは、予言を見る上での生活の知恵である。

その点では地震予言はサブ・ストーリーの予言。

また逆に見れば覚者にとって予言とは、外れるのを最初から承知しながら予言しているところがある。

晩夏の東京地震予言については、三島由紀夫の作品の中で晩夏に水没した東京の高層ビル群を手漕ぎボートで進む青年を描いた作品があるが不思議なことである。

たとえ日本が水没するようなことがあっても、大和民族は、その矜持を保って惟神に生きることができるのだろうか。
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吉岡御啓示録

2019-01-21 03:58:46 | 古神道の手振り
◎立替がいつ来ようと人間はすべてに最善を尽くしておかねばイカン

出口王仁三郎が戦後吉岡温泉で朝日新聞に語ったのが、吉岡発言。吉岡御啓示録は、それとは異なり信者に語ったものらしく、ネットで読むことができる。

内容的には目新しいものはないが、日本の生存率2分は、新月の光でだけ確認できていたが、吉岡御啓示録でも同様であることを確認できた。

一般的に、ネガティブ予言と霊がかりで信者を増やすことができるので、大本ではそれを盛んにやった時期があるが、立替(世の終わり)待望みたいな信者が潜在的に増えたので、そうした信者向けの戒めのための有名な歌が以下。

立替を指折り数え松虫の冬の霜先あわれなるかな

立替を世人の事とな思いそ立替するは己がみたまぞ

そこで出口王仁三郎は、立替がいつ来ようと人間はすべてに最善を尽くしておかねばイカンとする。

吉岡御啓示から略80年。2%は増加を見たのだろうか。
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OSHOバグワンの父親

2019-01-20 03:31:02 | 冥想アヴァンギャルド
◎はた目からは大不運を幸運として謝す

OSHOバグワンの父親は、息子が教団立ち上げ後に、彼の死を見取り、頭頂に手を当てて、父が肉体をサハスラーラから出たことを確認したシーンで知られる。

OSHOバグワンの父親は、貧しく無学だった。彼は非常に苦労してお金を工面して初めての家を建てた。家は完成した。

ところが、引っ越す前に雨が降って家は倒壊し、幼児だったOSHOバグワンはとてもがっかりした。

彼の父は、倒壊した新居にやってきて、町の人々にお菓子を配り、「私は神に感謝している。もし家が引っ越した後に倒壊していたら、子供は全員亡くなっていただろう。」と語った。父は新居が早く倒壊したことを生涯幸せに思っていたという。
(ディヤン・スートラ―瞑想の道 OSHO/P173)

同じような話が出口王仁三郎にもある。

神戸の空襲で家を焼け出された某氏が、出口王仁三郎を訪ねて、家を焼かれたが身体は無事だったとお礼を申し上げた。すると出口王仁三郎は、「お筆先に、今度は身体一つ助かったら一番のおかげとあるだろう」と教えた。(新月の光)

そして旧約聖書のヨブ記

そのような雰囲気の時代である。
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悪人は一人も残さない

2019-01-19 06:25:52 | 究極というものの可能性
◎みろくの時代は宗教のない時代

親鸞は悪人正機と唱えるが、悪人は一人も残さんと唱える人もいる。

次の時代は、全員が神知る時代なので、悪人はいない。次の時代は、全員は見神体験を有しているので、宗教がない。宗教の必要がないからである。

こういう時代が来ることを見越して、悪人は一人も残さないと言う。

さて何が神かわからない人の方がほとんどのこの時代において、「神を知らないから悪人だとか、悪人になりやすい」という議論をしても、神を知るということが共通認識としてないから、そもそも議論は成立しない。

悪人にも神の光あり、神性の輝きはある。そこがその人の本質であるという説もある。

だが、大半の人は何が善で何が悪かわからない。だから中国道教では善本と呼ばれる善悪の具体的基準を記した本が歴史上繰り返し出版されている。中国ではずっと何が善で何が悪かを問い続けなければならないほど悪が蔓延していたし、いるのだろう。

日本ではそういう本はまず売れない。大概、自分は善人だと思い込んでいるからである。その世界観のなれの果てがこの混乱したスマホ・ホリック、モバゲー・ホリックの時代。

(何十年繰り返してきた所業や習慣がある日、間違っていて悪であると気づくことがある!)

日本の有名人シーンでは、政治家とか実業家という肩書の悪人も多いのではないか。金と権力と合法性が価値判断の最優先とされるこの時代よ。

そして今、悪人は一人も残さない時代が展望されている。
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大寒の時期と気功

2019-01-18 05:38:27 | 気功、導引(冥想法2)
◎気を回す

日本語には、気を使う、気を回す、気働き、気合を入れるなど、気にまつわる言葉が多い。

道教では、気を回すと言えば、下丹田(スワジスターナ)から中丹田(アナハタ)、上丹田(アジナー)へと観想しつつ気を循環させる周天があり、丹田から肩経由で指先まで気を行かせ丹田に戻すようなのがそれ。

白隠が病気を治したナンソの観は、頭頂のクリームが全身にしみわたると観想することで身体の不調を治癒させようとするもの。

アメリカ原住民のメディスンマンのヒーリングでは、乳白色の幕を用いるが、白隠の軟ソもメディスンマンの乳白色の幕も気なのだろうと思う。

冬、毎年1月下旬頃は寒気の影響で調子を崩す人が多く、この頃スーパー銭湯が大賑わいとなるのは、そのせいだろうと思う。

だが水の乏しいスーパー銭湯のない地域では、どうしてもこうした気を回す技に頼らざるを得ない。

共産中国では、医療環境が厳しく、気功太極拳系を全土で流行させたのは、気を回すことによる治癒効果を狙ったものと知識分子迫害で医者がいないくなった反作用でもあったのだろうと思う。

気はプラーナであり、半物質であるからこうしたことができるが、なくなった臓器や四肢が復活するわけではない。

聖書には超能力による治癒の例が多いが、気で治したり超能力で治したりしてもらっても、人生ドラマは、どこで幸福でありどこで不幸であるかということであり、病気治癒シーンは一つのクライマックスであるかもしれないが、人生の目的はそこではないのだろうと思う。

誰もが何とか食べていける時代自体、一つの恵みである。

節分前のこの大寒の時期、やったことのある人もない人も、白隠のように全身にイメージのクリームをしみわたらせるのも良いのではないだろうか。
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人は正統性を信じたい

2019-01-17 05:38:47 | 冥想アヴァンギャルド
◎体験する正統性へ

人は何を信じるかと言えば、正統性のあるものを信じる。自分が何が正統性あるものかを判別できなければ、合法であって自分にメリットがあって人気のあるものが正統だろうと考えがち。

こうして、西欧文明は、イエスの磔刑を最大のシンボルとして、一番弟子ペテロを教団トップに据え、イエス亡き後の正統性をペテロ以後のローマ教皇に付与し、世界宗教として成功するための骨組を備えた。

だが、これは自分が神を体験しないのが前提の時代のやり口。信者の大半が神を体験しないのが前提だから、闇雲に教祖と教団の正統性を聖書などの教義により下支えすることで、正統性を確保していく。

20世紀になり、時代は急速に、自分が神を体験しなければ、神を信じることができないほどに自我は膨張し、それに伴って知性は発達した。

キリスト教の輪廻転生のない人生観は、この人生は一発勝負という切迫感が強いものだ。その切迫感の背後に、容易に絶望に陥りやすいという心性が伴う。

そして欧州の長く農業生産性が低いことから来る飢餓の不安は、隣国(日本や中国から見ても小国の規模)との争闘の頻発を引き起こし、20世紀の2度の世界大戦の土壌となった。

キリスト教の神は第一身体ニルヴァーナでよいが、聖霊は、あまりにも意味が広く単純に第二身体アートマンと称するには問題があるが、キリスト教世界観における第二身体とは聖霊であると言わざるを得ない。

キリスト教では、母が不在で、「父なる神」。全能者に性があるのは異様であって、他宗派の覚者は、これをして二位一体と見ているケースがある。

それでも人は自ずと父・男性だけのバランスを調整するもののため、母なきキリスト教は、マリア信仰を認めてきた。

現代では、正統性を信じたいが信じきれない人ばかりで、自ずと自分で体験できる神仏道コーナーみたいなところがないとしっくりこない人が増えた。

正統性を求め、金やブランドやアイドルやスポーツ・ヒーローに熱狂する時期にも終わりが来ている。

自ら正統性を確認する時間だとアラームが鳴っている。その正統性は、個にはなく、全体にしかない。
個は第五身体コーザル体まで。全体とは、第六身体アートマンと第七身体ニルヴァーナ。

人は何を神仏と見るかと言えば、第六身体、第七身体だけでなく、第五身体コーザル体を神仏と見ることがあるそうだ(ダンテス・ダイジ)。
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