アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

吉祥なる縁起

2018-11-30 03:41:46 | 究極というものの可能性
◎それを仮にニルヴァーナと名付ける

龍樹の中論の冒頭の帰敬偈。

『滅することなく、生ずることなく、
断絶することなく、常住することなく、
一つのものがなく(あるいは、一つのものでなく) 、
種々なるものがなく(あるいは、種々なるものでなく)、
来ることなく、去ることなく、
言語的展開(ブラパンチャ)の寂滅した、
吉祥なる縁起を説いた正覚者、説法者中最も勝れたかの仏に、
わたしは礼拝する。』
(空の実践 (講談社選書メチエ ブッディスト・セオロジー)/ 立川 武蔵/講談社P31から引用)

言葉でも語れない、来ることなく、去ることなく、滅することなく、生ずることもないもの、それを仮にニルヴァーナと名付ける。

非二元とネーミングするのは、簡単だが、何もかもなしということを想像し、観想するだけではだめで、哲学するだけでは届かず、自ら吉祥なる縁起となりきることができるかどうか、それを実体験することが胆なのだと思う。

実体験できるとも書いていないが、師がそれを生きていれば、自ずと目指すところはそれになると思う。

今ここは実体験してなんぼ。
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虚の情報を実に転換するマスコミ

2018-11-29 05:29:07 | マインド・コントロール
◎虚に踊る現代人の脳

ICT(情報通信技術Information and Communication Technology)あるいはITで、さらに豊かな社会を実現するなどというスローガンが最近掲げられている。

また膨大な個人情報漏洩問題と外国による選挙介入や人種差別など不適当な情報の削除責任問題に揺れているfacebookのザッカーバーグCEOは相変わらず、「今後さらに多くの人が発言の場を得るのは良いことだと思う」などと「SNSは、なんちゃっていいことだ」的な発言を繰り返している。

先週の台湾の4年に一度の統一地方選挙では、与党・民進党の惨敗。ハイライトとなった民進党の地盤であった高雄市長選挙では、国民党の落下傘候補韓国瑜が、逆転勝利した。

勝因は、ネット選挙で、対立候補を批判しなかったことや、自分は禿げ頭の野菜売りで、高雄を台湾一豊かな都市にするなどのわかりやすいスローガンだったことなどと言われている。

だがこの背景に中国のネット世論工作があったと言われる。韓国瑜の選挙宣伝用のネット動画は100万人以上が視聴し、それが実は中国の工作ではないかと言われる。だが、その大量アクセスが台湾メディアに大きく取り上げられ、それがさらに台湾全体で国民党への追い風となったとされている。

こうした国境を越えたネット工作は、日本を含め他のアクセス・ランキングでも広汎にあるのだろうと思われるふしがある。

どうみても大した中身のない外国系ブログやSNSが毎日更新されていないにもかかわらず常時上位にいるのは、よく見るところである。

音楽のヒット・ランキングでもそれと思しきことを国家ぐるみで推進している国もあり、ゆるキャラグランプリで組織票が問題になった。

だが、そうした虚の情報を実に転換するのはマスコミであるというところが問題の肝であるように思う。

一言で情報操作、マインド・コントロールと片付けることは簡単だが、権威あるべきいろいろなランキングがネット広告アクセス数を含め、国家、大企業、大組織、官憲などIT強者により大きく介入され、結果的に実態とはかけ離れていることは、そろそろ常識となってよいのだろうと思う。

20世紀、21世紀は、マスコミが人の頭の中を支配している時代。頭からマスコミをとったら何も残らない時代。それは空恐ろしいことでもある。

今やそれは、キャッシュレスという金の世界にも及ぶ。金のために働く人は多く、命の次は金の人はあまりにも多い。だが、一方で北海道の電力ブラックアウト、ソウルの基幹回線火災による現金を持たないことは致命的である事件も時々起きている。かつては、新円切り替えなど政策によるそれに類することはあったが、こんどは現金データが通信途絶で使えないという新たな危機が現実化した。

核爆発で強力なEMPが発生し、データが消えるというのもある。

便利は危ない
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何もかもなし-2

2018-11-28 05:02:45 | 現代冥想の到達点
◎月もなく、太陽もなく、カイバリヤ

釈迦は、感興の言葉(ウダーナヴァルガ)で何もかもなしを敷衍する。

『二三
それの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらきの静まった安楽である。

二四
そこには、すでに有ったものが存在せず、虚空もなく、識別作用もなく、太陽も存在せず、月も存在しないところのその境地を、わたしはよく知っている。

二五
来ることも無く、行くことも無く、生ずることも無く、没することも無い。住してとどまることも無く、依拠することも無い。―――それが苦しみの終滅であると説かれる。

二六
水も無く、地も無く、火も風も侵入しないところ―――、そこには白い光も輝かず、暗黒も存在しない。

二七
そこでは月も照らさず、太陽も輝かない。聖者はその境地についての自己の沈黙をみずから知るがままに、かたちからも、形なきものからも、一切の苦しみから全く解脱する。

二八
さとりの究極に達し、恐れること無く、疑いが無く、後悔のわずらいの無い人は生存の矢を断ち切った人である。これがかれの最後の身体である。

二九
これは最上の究極であり、
無上の静けさの境地である。
一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』
(ブッダの真理の言葉 感興の言葉/中村元訳/岩波文庫P243-244から引用)

温泉の源泉は、ぬるすぎたり、熱すぎたりするもの。そして湯量が下流のホテルに行きわたるには少なかったりするもの。
そうした中で釈迦は、まさに源泉である。それも何千年も尽きぬ源泉。

ここに『さとりの究極』『最上の究極』という言葉が躍り、例の最終解脱という発想はこの辺から来た表現なのかもしれない。

月もなく、太陽もなく、という言葉で霊界でもなく、二元を超えた世界であることを示し、あったものが存在せず、虚空もなく、形からも形なきものからも抜けた境地は、カイバリヤ(独存)。言葉では表現できない『なにもかもなし』。

釈迦はこれをニルヴァーナと呼んだ。
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何もかもなし-1

2018-11-27 05:18:17 | 現代冥想の到達点
◎事物そのものが消え失せ、もはやそこには何物もない

至道無難の道歌も一休の道歌も何もかもなしは印象的である。

本来もなき 古(いにしえ)の我なれば
死にゆく方も何もかもなし
一休

三世不可得(過去現在未来のことはわからない)
いろいろに あらはれ出ずる心かな 心のもとは 何もかもなし
至道無難

ドイツのゾイゼの、没我の説明。
『その一は、自我の完全な消滅で、影が消え跡形もなくなるように、事物そのものが消え失せ、もはやそこには何物もなくなるといった状態。』 (出典:ゾイゼの生涯/ゾイゼ/創文社P191-192)

ダンテス・ダイジ遺稿の一つ老子狂言から『悟りが夢であるように』から

『神よ、
「何もかもなし」それ自身よ
悟りが夢であったように
私という夢をことごとく
あなたの中に消し去りたまえ』

これだけの表現では、イマジネーションの乏しい人には何のことかわからない。

だが、釈迦は、感興の言葉(ウダーナヴァルガ)で、細かく具体的に説明している。
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男色、女色、人の悪も善もSNSなどで語る

2018-11-26 05:32:02 | 丹田禅(冥想法8)
◎至道無難の龍澤寺所蔵法語から-3

至道無難の龍澤寺所蔵法語の続き。

『非常に若かった時、あるイケメン稚児がこのあたりに居た時に、心がうつることを確かに覚えたので、迷いということをよく知り申した。

ものすごい美女のあたりに居て、何とも思わなかったので、悟りということをよく知った。』

当時は、戦国時代の終わりの頃で、武将の男色は普通だった時代。今は男色は、LGBTというマイノリティであると主張する人も出てきている。当時はいわば社会全体がLGBTを認める時代。だからこんな覚者のメモにも男色が平気で登場してきている。

ところが中国なんぞは、昔から人間の欲望は何でもありと認める国なもので、こうした性倒錯だろうが、窃盗(大盗)だろうが、人間の欲はなんでもあるものだとする。そういうのは、酒池肉林から則天武后の男妾とっかえひっかえまで、至るところで見ることができる。

『修行する人は第一に身のカルマを去るということを、今よく知った。

修行者は身を痛めるということを、今よく知った。

天下国家を治める人に仏道を教えよということ、今よく知った。

天下国家の主は、自分であるという事、今よく知った。

時の至ると至らざるということ、今よく知った。

むくいのあるということ、今よく知った。

例えば、我が子に教えて曰く、
君によく仕えよ。人の悪を言う事なかれ。
万事の道を心得よ。というだけのこと。愚かな事である。

大道に至る人は、人の悪をも善をも言う事なし。君に仕え、親に孝を積むものだ。万事を置いて、人はただ常の心を知らせたいものだ。
何もなくなれば、何をも云うことがないものである。』

時の至ると至らざる、報いのあること、世界の主、こうした述懐がとても重要なキーワードであることを実感として語る境地とは何か。これを一片の感慨と見れば誤るように思う。

今は、その報いも考えず、人の悪も善もSNSなどで語るというとんでもない時代である。
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至道無難の龍澤寺所蔵法語から-2

2018-11-25 05:16:30 | 丹田禅(冥想法8)
◎山風も里の嵐も身にしみて

至道無難の龍澤寺所蔵法語の続き。

『あらゆるものを捨てよと言えば、無念無心にして、石やのようになると思う。
あらゆるものの元を見よと言えば、また見るものになる。

何もなきものはこの身の主(ぬし)なるを
何とて人はそれと知らずや


ある人が悟らないで山居していたのに詠んでやった。

思うままに捨て 山路に入りぬれど
その身の主(ぬし)はもとの主なり

ある人が悟って山深く入っていたのに詠んでやった。

山風
も里の嵐も身にしみて
同じ色なる秋の夕暮れ

坐禅の大事を問うた人に、『そうするのも悪い、そうしないのも悪い。悪くはないものを常に養い給え』と言ってやったたら、(その人が)詠んでよこした。
『とどまるも行くも帰るも常なれば
常の心の常だにもなし』

私は、そのとおり、そのとおりと云った。


ある人につけて云った。本来、道ということもない。ものにまかするばかり也。

道という言葉に染めて迷いけり
本来は只何もなきなり』

『ものにまかするばかり也』という言葉が出ているが、これが天機、天意ということなのだろうと思う。

何かがある世界と、『本来は只何もなき』このパラレルな世界を我らは生きている。パラレルという表現をとると間違いになるので、そうした表現をとる覚者はいない。

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至道無難の龍澤寺所蔵法語から-1

2018-11-24 05:55:03 | 丹田禅(冥想法8)
◎朝夕のご飯の味を知る人は稀

妙心寺関山国師は、公案一則だけで悟道したが、今三百則をやらせるのはどういうことなのかと問う人に、

至道無難
「朝夕ご飯を食べているが、その味を知る人は稀である。もし知る人があれば、それは食べない人である。」。

若い法師に、「善悪は同じか不同か」と問うた。口を動かそうとする時に、一棒を与えて「何の邪正かある」と言ったら悟った。

ある貧乏な人が、身のカルマと言って苦しむ。無難は、「その苦しみを去れ」と。
あるリッチな人が、過去のカルマを喜ぶ。無難は、「その喜びを去れ」と。
あらゆるもの(万法)を捨て、何事かあるのか。今の世で捨て、捨て果てなさい。捨てた後捨てるものがなくなって、それから私に聞きに来なさい。


とてもわかりやすく、かみ砕いた問答である。だが、「龍澤寺所蔵法語」などというタイトルがついた途端に、今なら読まれないことが多いだろう。

功過格の善の方に、捨てられた文章を拾い起すのも善行の一つに挙げている。このスマホで何でも調べられる時代ではあるが、禅籍とか、キリスト教の古典とか、西洋錬金術書とか日本の現代語文献については、意外に検索しても出てこないことが多い。

表層意識に神なき時代よ。


先日、ロス・アンゼルスの最高級レストラン(マライア・キャリーが別の番組でそこで食事しているのを見たことがある。)で、最も流行っているメニューというのがテレビで出てきていて、それが穀物を主体に肉を使わず工場で形成したステーキもどきなどいわゆる「精進料理」なのには笑った。オーガニック、自然食、菜食もここに極まり、それを外に求める形の一つ。

だが、ロスのハイソサエティにすら、ロハスが徹底して、大衆がある程度の肉体感覚の精妙性を得て、そういうメニュー、食材のニーズになっている点では、日本より、求道の心、冥想の環境は上であると認めざるを得ないと思った。
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殉教者ペルペトゥアのチーズ

2018-11-23 06:11:56 | 究極というものの可能性
◎殉教者フェリチタスとともに

3世紀初めの殉教者ペルペトゥアのことは、ユングの本で読んでいた。後にイスラムの殉教者の刑執行時の反応がとても似ているのに気づき、その一方でそこまでの受苦を迫られなければならないものかと、人間の使命と幸福、運命について様々に思い巡らせることになったものだった。

カルタゴにおいて、彼女と同時にフェリチタスも同時に殉教した。ペルペトゥアは貴族出身であったのに対し、フェリチタスは、奴隷。

フェリチタスは既婚であって、懐妊中だったので、出産を待って刑執行となる決まりだった。彼女は早産となり、激しい痛みに苦しんだ。これを見た牢番は、その苦しみ様では、これから野獣の中に放り込まれるときはとても痛みに耐えらまいと彼女を揶揄する。

しかし、フェリチタスは、「処刑で獣に放り込まれるときには、別の方がわたしの中で苦しんでくれるでしょう。私の苦しむのはその方のためだから」と揺るがぬ信仰を披歴したという。

彼女たちは、満員の群衆の集う闘技場に引き出され、そこには豹や熊や猛る雌牛がいたのだが、最初は鞭で打たれ、雌牛の角に突き上げられ、最後は刑吏に切り殺された。

ここまでされなければならないのか。こういうのを釈迦が見れば、鞭の影を見て悟るのは上根などと言うのだろうと思った。

ペルペトゥアは、青銅の梯子を天まで登り、羊の乳を搾る一人の羊飼と出会ったが、それはイエスだった。彼女は、そこでフレッシュ・チーズを食べ、輝く白い服を着た群衆が「アーメン」と唱えたところで目が覚めた。

このイエスの賜物がパンとワインでなく、チーズだったのは後に教会内で物議をかもしたという。
(チーズと文明/ポール・キンステッド/築地書館P162)
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イエスの黄泉下り

2018-11-22 05:02:26 | キリスト者の秘蹟
◎イエスの多忙な復活前の三日三晩

イエスは、十字架にかけられて亡くなったので葬られ、黄泉に下り、三日目に死人の中からよみがえった。
だが、このことは、
ペテロの第一の手紙4-6に『死人にさえ福音が宣べ伝えられた』とか、
マタイ伝27-52,53に『また墓が開け、眠っている多くの聖徒たちの死体が生き返った。 そしてイエスの復活ののち、墓から出てきて、聖なる都にはいり、多くの人に現れた。』などと漠然と死者の間にも宣教したと書かれているにすぎない。

キリスト教には、転生がないので、天国に入り損ねた人々は、煉獄と地獄にどんどん積みあがっていく。生きていく環境が厳しければ厳しいほど弱いものを虐げて奪うという悪事を行いやすいものだから、煉獄と地獄に吹き溜まる人数は時代と共に増えていく。
こうした人々は、最後の審判の時に上昇のチャンスがあるが、それをひたすら待たねばならないという過酷な運命が待っている。

そこで、イエスが再生までのわずか三日間を利用して、アダムとイブ、そしてその他の煉獄と地獄に苦しむ人々を、引き上げたという見方が登場した。

これは、マリア信仰みたいに本来その教義からすれば正統的なものではないが、集合的無意識にもともとインプットされていたものが、バランスをとるために浮かび上がってきたものの一つなのだろうと思う。

多くの人にとって、この世の生きづらいことよ。物の生産力が遥かに上がったこの21世紀になってすら、地獄に生きている人が多いことはどうしたことだろうか。


イスタンブールのコーラ教会の脇教会(parecclesion)のフレスコ画「アナスタシス」

※画像は、https://en.wikipedia.org/wiki/Chora_Church#/から。
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主観と客観

2018-11-21 05:23:19 | 究極というものの可能性
◎カルトや邪教、邪境にあっても悟りを開くことは可能

OSHOバグワンが、主観と客観について、説明する。
『対象と主観の認識は、悟った者でも、
悟っていない者でも同じだ。
しかし前者には偉大な点が一つある。
それは、つねに主観的な姿勢の中にとどまり、
物事の中に失われないことだ。』
ヴィギャンバイラブタントラ10空の哲学/OSHOバグワン/市民出版社 P17から引用)

これは、タントリズムの経典ではあるが、あらゆる宗教に共通な要素が語られている。

例えば臨済には、こんな言説がある。
『師臨済は夜の説法で、修行者達に教えて云った、
「私は有る時は人を奪って境を奪わない(奪人不奪境)。
有る時は境を奪って人を奪わない(奪境不奪人)。
有る時は人境ともに奪う(人境倶奪)。
有る時は人境ともに奪わない(人境倶不奪)」。』

悟りというものを自分と自分を取り巻く状況という2要素で考える。ヴィギャンバイラブタントラでは、自分は、主観で、自分を取り巻く状況は客観。
臨済にあっては、自分は、「人」で、自分を取り巻く状況は「境」。

人は、自分を変えて、状況を打破したいなどと思う。今ビジネス・パーソンの間では、マインドフルネスとかフルフィルメントとか瞑想みたいなのが流行っていると聞き、やってみたりする。

そこで精神に変容が起きない場合、瞑想の座法が悪いだの、先生が悟っていないからだの、座る時間帯や空調が悪いせいだの、座っている場所が悪いだの、体調が整っていないだの、一緒にやっている仲間がダメだの、運営が悪いだの、いろいろな理由を思いつくものだ。

これが、「状況」であり、「境」。

本気でやっているのか、生死を賭しているのか、目的をもって坐っているのではないかなど突っ込みどころは満載である。

ところが、気の利いた本物の聖者ならたとえ、カルトや邪教、邪境にあっても悟りを開くことは可能だと請け合うものだ。(これは大いに誤解を招く発言だが、そんなものだ。OSHOバグワンもそう言っている→ヴィギャンバイラブタントラ10空の哲学/OSHOバグワン/市民出版社 P11)

伊勢神宮の伝統が消えそうだった時に、その道灯を守ったのは神道からみれば異教徒の仏教の尼さんだった。

その本気度の純粋さがまず問われる。

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芭蕉、無庵を庵とす

2018-11-20 05:17:12 | 究極というものの可能性
◎絶対的な孤独

芭蕉の幻住庵記には、ここ5、6年旅心が日常の心となってしまって、深川の芭蕉庵も住み捨ててしまい、庵のないのを庵とし、どこにも住まいのないことをもって住まいとしている、というくだりがある。(無庵を庵とし、無住を住とす)

漂泊と言うのは簡単だが、覚者の代表的心境に絶対的な孤独というのがある。

イエスもそう。
マタイによる福音書8章20節
『イエスはその人に言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。されど、人の子に枕する所なし」』

ダンテス・ダイジの詩にもある。

かつて、南極点や北極点を若者たちが貧弱な装備と犬ぞりで目指したが、何も知らぬ俗人が大悟覚醒を目指すというのはそのようなものなのだろう。

それについていろいろ言われている情報を集めて次第に近づいていく。

一足飛びに飛び込んでいける人も昔からいたが、それは数の上からいえば極レアで、誰もができるものではなかった。

万人が悟るというのは、そういうものなのだろうと思う。
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自分だけのための冥想

2018-11-19 05:16:30 | 冥想アヴァンギャルド
◎生きとし生けるものすべての孤独

釈迦は対機説法と言って、同じことを質問されても、相手が変わると全く違う回答をしてみせた。

禅家でも二人の人物が同じように御簾を巻き上げても、一人はだめで一人はOK。

そういうことは、まともな宗教家なら皆同じ。

OSHOバグワンは、釈迦も釈迦だけの道に沿って進んで行ったように、各人には、各人だけの冥想の道、各人のためのヨーガがあるとする。

そしてあれだけ講話を重ねたにもかかわらず、各人には各人のためだけのアドバイスしかできず、万人に共通のアドバイスなどはないと釘を刺す。

自分の道は、自分で進むしかなく、自分の生は他人が代わることはできず、自分の死も他人が代わって死ぬことはできない。

そうした絶対の孤独の中で人は修行する。その暗闇をアヴィラのテレサは暗夜と称した。

その孤独を押し詰めると、絶望と恐怖しかない。恐怖は欲望とペアで発生する。夢を携えて欲望はやってくるが、その先には絶望しかない。人間であることに永遠とか不壊不滅はない。築き上げたものはあの世に持っていけない。

今は『絆』という言葉が流行るが、いつの時代でも、どんな歓楽の席にあっても人は詮ずるところ一人でしかない。

あらゆる生きとし生けるもの、あらゆる死せるものは、すべて孤独であるしかないと知る時に『命の悲しみ』に出会うことがあるのだろうと思う。
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冥想の4か条-4

2018-11-18 05:34:46 | 冥想アヴァンギャルド
◎そもそもの最初から備わっているような何か

OSHOバグワンの冥想の4か条の続き。

『第四番は深刻さだ。瞑想について考えたり話したりする人々は、瞑想を深刻なものと受け取っている。彼らは、それを仕事のようなものとして受けとめており、遊びのようなものとしては受けとめていない。だが、もし瞑想を深刻なものとして受けとめるなら、瞑想が起こるような状況は創り出せない。深刻さとは緊張だ。そして緊張した心は、決して瞑想の中には存在できない。

瞑想をゲームとして、子供がやるようなゲームとして受けとめなくてはならない。瞑想する人々は、遊び心に満ちているべきだ。すなわち存在との戯れ、生との戯れ―――無重力で緊張のない心、何かをやっている気分ではなく、リラックスしている気分でなされるべきだ。リラックスした瞬間、遊び心に満ちた瞬間にのみ、そのハプニングは可能だ。

深刻な人は宗教的にはなりえない。すべての宗教家たちは、あれほどまでに深刻だ!まるで病的で、憂鬱な顔をしている人々だけが、宗教的であるかのようだ。だが瞑想とは、しなければならないような重大な何かではない。

それは、絶対的に無目的な何かだ。つまるところ、そもそもの最初から備わっているような何かだ。達成されるべき何かがあるわけでも、何かを通らねばならないようなものでもない。それは意味づけできないものだ。』
(グレート・チャレンジ/和尚/市民出版社P18-19から引用)

何のために坐るのか。

七日間押し詰めて坐れば、悟りが開けるかもしれない。

先師が死去したので、慌てて千日間坐ったら、覚醒するかもしれない。

一生をかけて周天を積み上げ、頭頂上に出神を出そうとしたが、今生ではちょこっとしか出なかったかもしれない。

一生をかけて毎日念入りに呼吸法を繰り返し、柔軟系のハタ・ヨーガを繰り返し、ボディの浄化を進めたが、その生ではクリア・ヨーガに進めなかったかもしれない。

毎日自分の呼吸を見つめるヴィパッサナーをやっていたが、発狂しちまって、何年か何十年か、戻って来なかったかもしれない。

皆真剣に我が人生をかけて坐っている。現代人に必要なのは、深刻さ、本気度の方であって、一旦たがを緩めればあらゆるマインド・コントロールの罠にからめとられる。テレビ、スマホ、モバゲー等々。

ここで言うリラックスとは、連続的な緊張、努力の先にある、とあるリラックスのことだと心得たい。

まずは、本気が先だと思う。現代は、本気でやらない時代、深刻なことを我がことと考えない時代。

このOSHOバグワンの4つめの条件は、大いに人を誤らせる。クリシュナムルティは、おちゃらけたところはほとんどなかった。

遊戯、戯れを言えるのは、神を知り、
耳で見て目できき、鼻で食べて、口で嗅ぐような連中だけだ。


耳も目も口鼻もきき手足きき 頭も腹もきくぞ八ツ耳
出口王仁三郎
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修道院でのパンの施し-2

2018-11-17 06:20:35 | キリスト者の秘蹟
◎死者への施し

イエスの言葉の中に修道院でのパンの施しの原因となる言葉が見られる。

マタイ伝25-31~36『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。

あなたがたは、わたしが飢えていたときに食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、牢獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

さらにマタイ伝25-40
『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』

上の2段を踏まえ、兄弟である『最も小さい者』である小児、子供、老人、貧者、虚弱者、病人、寡婦、社会的に恵まれない者等に対して、施しを与えれば救済があると説いた。

兄弟である者とは、この一なるもの、一気通貫、アートマンであり、万人を指す。

だが厳しく見れば、右の手のしたことを左手が知らないというルールを犯しているので、施しをして救済を求めるというのはまずい。だが大衆向け布教にはこういう面は付き物。

修道院では、明らかに死者のための施しとみられる機会があった。
一つは、11月1日の万聖節(聖人となった死者の日。あまり有名でない殉教者の日)。

一つは、11月2日の万霊節(一般の死者の日。輪廻転生のないこの宗教では、天国に入れなかった死者はここで思い出される。)

そして葬式と死者の命日。

この日に死者のためという名目で施されたパンは、貧者、困窮者など最も小さい者に与えられた。

欧州では、貴族が近親者の死を悼むために修道院を建立し、パンを盛大にふるまうことがあったが、最近は、基金設立に代わり、ダイアナ基金はその例の一つ。

死者に食べ物を供えるのは日本ではごく普通。欧州ではお下がりを頂くことの方が切実だったのですね。

それにしてもイエスは、磔刑の時以前にも牢獄に入ったことがあったのですね。
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修道院でのパンの施し-1

2018-11-16 05:29:02 | キリスト者の秘蹟
◎生者への施し

欧米キリスト教社会では、クリスマスなどに富者が多額の金銭を救恤団体に寄付したというニュースを目にして、いささか鼻白む思いがするのだが、中世ヨーロッパでは、修道院が、大量の寄進を受けていたことから、修道院自体が富者であり、大規模な施しを行っていた。

僧といえば、托鉢、寄進を受けて暮らすものという先入観から抜けられない頭では、これは意外なことでもある。ただ一方でアッシジのフランチェスコのように托鉢メインでやった僧たちもいた。

中世修道院は、「祈りと労働」をスローガンに掲げ、穀物庫、脱穀場、粉ひき場、パン焼き場、醸造所を敷地内に抱え、一大食糧生産工場でもあったから、生産力には余剰があった。

こうした修道院は、高位聖職者から、王侯貴族、修道僧、旅人、乞食、放浪者、病人、虚弱者、寡婦にまで、パン、ビール、ワインの他、宿泊場所まで提供しており、この宿はホスピティウムと呼ばれていた。(出典:パンの文化史/舟田詠子/朝日新聞社P259-260)

中世欧州は、生産力が低く、慢性的飢餓状態に加え、しばしば飢饉が襲ったことから、修道院は年中こうした施しをした。それでも飢餓の時期には、一日に何百人が修道院の門前で餓死していったこともあったという。

修道院はキリスト教組織として当然のことをしたのだが、一方で真理を伝承することも大切な義務でもある。

こうした富める者の習いが、現代の派手な寄付競争や寄付集めイベントに転化したとみれば、個人主義の徹底し、輪廻転生がない欧州人にとっては、まんざら弊害ばかりではなかったと思う。
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