アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

達磨が芦の葉に乗り洛陽に入る

2018-10-31 04:53:42 | 丹田禅(冥想法8)
◎達磨の軽さを見る

論語で孔子が高弟顔回清貧を賞賛する。

『子曰く、
「賢なるかな回や。一箪の食、一瓢の飲、陋巷に在り。
人は其(そ)の憂ひに堪へず。回や其の楽しみを改めず。賢なるかな回や」。』

顔回は、瓢箪で済ませるワン・ドリンク、ワン・フードで下町に住んでいるが、そんな粗末な生活に普通の人は堪えられない。顔回のことを賢だと褒めるが、そういう孔子はどうか。

一日、利休が巡礼が腰につけている瓢箪をもらいうけ花入れを作ったことがあるが、孫の宗旦にも瓢箪花入れがあって、その背面に狂歌が書き付けてある。

瓢箪の達磨になるは道理なり 芦の葉にのるかろき身なれば


これは、瓢箪の軽さを達磨の軽さにかけてあるだけだが、誰が達磨を軽いと観じたのだろうか。

達磨は中国入りし、まず梁の武帝に説法し、さらに洛陽を目ざし揚子江をのぼったが、その時、一葉の蘆の葉に乗って魏に渡った。

その軽さは、エル・グレコの見た昇天のイエスの軽さでもあろう

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捨壺

2018-10-30 05:22:37 | 究極というものの可能性
◎作り物が現実よりも出来栄えがよい

茶人小嶋屋道察が、さる見事なを手に入れた。この壺はかねて名品であるとの評判の高い壺であった。

人々の拝見させて欲しいとの声が高かったが、道察は、有名ではない壺であるからと、これを断り続けていた。

ある茶会で、客人達が腰掛待合(茶会では何回か場所を変える)まで入りながら「今日はかの見事な壺を見せてもらわないとこの場所から先には入りません」と駄々をこねた。

道察は、床に飾って見せるべきだが、ことさらに躙(にじ)り口を入った脇に口覆だけをしてこの壺を転がしておいた。
(この趣向が捨壺と呼ばれ、当時流行した。)

この茶会では、客の懇請を受けて、この壺をついに床に移したという。

この壺は後に銘「時雨」という名物となった。

神仏は床の間に飾るというのは、「ひれふしおろがむ」のだから当然ではあるが、人間として謙虚、謙遜であるという側面を示すには、捨壺な姿勢も当然ではある。

茶道では、名物など道具を珍重する。これは、現代ではブランド信仰であって、偶像崇拝の一バリエーションであることには変わりない。

作り物が現実よりも出来栄えがよいというのは、映画や写真や仏像、彫刻などでよく見るところだが、その称賛の背後で撮った人間、作った人間がほくそ笑む場合もあることを古人は忘れてはいない。
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求道者は他人の是非を言わない

2018-10-29 04:46:34 | 丹田禅(冥想法8)
◎内側の成熟を待つ

他人の是非、善し悪しを言わないのは求道者にとっては、ごく当たり前の作法である。

「六祖壇経」の慧能の偈頌に「若し真の修道の人ならば、世間の過を見ず」とある。

臨済録にも
『若し是れ真正の学道人ならば、世間の過を求めず、
切急に真正の見解を求めんと要(ほっ)す。』

本物の求道者ならば、当代の政権の政策が悪いとか批判しないし、マスコミが悪いとか、社会が悪いとかも言わない。

ひいては、他の求道者が悟っていないとか、言っていることが間違っているなどとは言わないものだ。

まことにそういう点では、他人の批判や時事批評を事とするfacebookやSNSからは、真正の求道者は出てこないということにもなる。

水平飛行者同士が集まっても、垂直飛行の知恵などは出て来るものではあるまい。

よく誤解されるのだが、特定の秘密のあるいは公開された秘伝とか奥義とか、スローガンとかキャッチコピーを唱えたり、叫んだり、信じ込んだとしても、その人たちのほとんどが「今ここ」という非二元なる体験とは言えない体験に進むわけではない。

入口の言葉そのものに何かあるわけではない。

窮極から回帰した人は、世界全体とこの世とあの世の始まりと終わりを語る言葉を残す。しかしそれは、事が後わった後のことである。

人はきっかけを求めるが、内側の準備が整って初めて、いろいろなものがきっかけとなる。

求道者は他人の是非を言わなかったり、無言にあるのは、それが熟するのを待っているから。
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それはロシア戦から始まる

2018-10-28 06:34:57 | 時代のおわり
◎日本対全世界戦

大本の神諭群は、最後に日本対世界の戦があって、神知る国民ばかりとなった日本が、九分九厘負けのところを最後の一厘でひっくり返すという結末は共通しているものの、どういうプロセスで進むのかは、文章を並列に読んでいる限りわかりにくい。

そのあたりを昭和青年会の神示の国防というパンフレットに砕いて書いてある。それによると


1.ロシアの日本侵攻
これが神と悪魔との最終戦の始まり。それは、日本対世界の構図をとる。
『いよいよ初段と相なればシベリア戦線を花道と・・・』

2.欧州戦と欧州戦終結後の列強の支那侵攻
『なおこりずまに向きを変え、良き支那物を奪わんと・・・』

最近中国がパキスタン、マレーシア、スリランカなど小国に莫大な借財を発生させて、返済できなくさせて、港湾などのインフラを実質的に割譲せしめようという挙に出て批判を浴びているが、第二次世界大戦以前はそういうことは、欧米列強が支那などに対し普通にやっていたことではある。


3. 英米露仏中の日本侵攻
『何程世の本からの悪神が、ヱベス大国や仏や豕児を使かふて、神国を色々の手段を廻らして攻めて来ても』(大正8年伊都能売神諭)

ヱベス大国は、英、米、スラブ(ロシア)でエベス。仏はフランス、豕児は中国。よって欧州戦後に英米露仏が支那とグルになって日本に攻めてくる。

4.アメリカの日本侵攻
日米軍事同盟は戦後盤石であったが、いつまでもそうとは限らない。

『ろ こく斗(ばか)りか亜米利加迄が、末に日本を奪る企画(たくみ)。金と便利に任しつつ。』(いろは歌)
ロシアとアメリカが北と東から日本を挟撃する。

『やがては降らす雨利加の、数より多き迦具槌に、打たれ砕かれ血の川の、憂瀬を渡る国民の、行く末深く憐みて』(大本神歌)
アメリカが日本を爆撃する

5.日本対全世界戦

日本は金貨、外国・世界は銀貨銅貨。日本対全世界戦の梗概はこれ。

『銀貨銅貨が凝まりて大きな一箇の丸となり、金貨の山へ攻め寄せて来るなれど、元から貴き光りの在る金は容積少なくも終には一の宝と勝ちほこるぞよ。』
(伊都能売神諭)

この日本対世界の対戦には生粋の日本魂の持主でないと役に立たないそうだ。


これらの予言は、その後日本が第二次世界大戦で主要都市が焼け野原になり、原爆も落とされ、満州、樺太、台湾も喪失したことから、既に実現したと考える信者が多かったようだ。

だが左に非ず。ロシアは、第二次世界大戦では、最後に侵攻してきたのであって、この予言のように最初に侵攻してきたのではない。

よって、これら一連の予言は未実現と見るのが妥当なのだろうと思う。
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唯肉体主義から七つの身体論への反転

2018-10-27 05:51:32 | 究極というものの可能性
◎振り子が反対側に振れるように

なるほど人文科学はあって、おおまかには哲学、宗教、心理学、社会学などであって、それは肉体を扱う自然科学とは連動しているとは言い難い部分がある。

体調が心理に影響を与えるのは夙に知られてはいるが、基本は人間とは肉体とそれに付随する心理・精神であるというのが、一般的な人間観といえる。

この人間観をもとに民法や憲法で個人の私権が保証されたり制限されたりする。

この肉体優先の人間観を体主霊従として否定し、霊主体従の万人が神を知っている人間観を肯定したのが出口王仁三郎だった。

出口王仁三郎のトライアルは、帰神(チャネリング)で、大神を憑依させることをメインに進めたが、大神のよりましである多数の信者の状態が天国的でなく、悪神の憑依を招くことが多かったことから、このチャネリングを主体とするやり方は大正時代の終わりにはとりやめになった。

古神道には、もう一つ鎮魂法というのがあり、それはクンダリーニ・ヨーガ的手法ではあるが、密教であるがゆえにその大要は明らかになっていないものの、脱身脱魂から、神人合一を目指しているものであろうことは、霊界物語などで内流という言葉を追っていくとわかるものだ。

天皇陛下が現人神であらせられた時代にそんなことはあからさまには言えなかった。当時はまだ薩長の批判すらできない時代だったのだ。

肉体とは物質レベルのこと。なぜだかしらないが、物質レベルの研究が進むと、人類はどんどん悪くなり、地球の地獄化は進展する。物理学、医学、生物学、心理学、軍事、経済、ITなどの研究が進むのは、一見白でも黒でもないのだが、なぜだか人間は功利的に染まり、悪に陥る人間が増えていく。

その理由は人間が神を知らないからである。今や『神』とは迷信とか都市伝説の一つとまで言っても差し支えないほどである。

神のポジションは七つの身体では七番目。そこまで位置決めしてあげないと神を信じられないほどに、人間の知性は発達した。

肉体を主体とする人間観は、今がピークであり、微細身とその先に大神が併存する人間観にまもなく振り戻ろうとしている。微細身とその先に大神が併存する人間観とは七つの身体論である。

だが、神を論理的に証明できないように、神を含むヒエラルキーである七つの身体論は証明の手段を持たない。
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金と食料を奪い合う、分かち合う

2018-10-26 05:31:51 | 時代のおわり
◎巨富と貧困者

全世界の食糧生産が、70億人を優に養うに足りる量があり、日々余剰食糧は、家畜の飼料や自動車燃料のアルコールに転用されたり、廃棄されていることは知られている。

金もそうだ。金は日々相場が変わるものの、立って半畳寝て一畳の人間一人が生命を維持していくのに必要な金は、月〇万円もあれば十分である。

こうした中で一人で資産数百億円とか数兆円を抱える個人がいて、なおかつ彼らは更にそれを増やそうと目論んだり、その資産の多いことを世間やマスコミが称賛したりそねんだりするのは奇怪なことである。

人一人が天から与えられた食糧も衣食住も財産も一生分には限度がある。病人が食べられなくなってきたら、一生分の食が尽きかけてきたので終わりが近いなどと言うではないか。

人間のアスペクトは、公生活と私生活という区分、あるいは物質部分と精神部分、あるいは肉体と微細身などという区分があるが、金も食料も片方の面に過ぎない。

足ることを知るとは、今ここということだが、神を知りつつ公的生活もこなし私生活も充実させるということ。

イエスも釈迦も私財をほとんど持たず、わずかの私物は弟子たちへの形見となって消えてしまった。資産家の神人などいない。

ビジネスの風潮は、常にB/S、P/Lであり、その拡大する運命から逃れられないが、内に神を住まわせれば、別の視点があり得る。例えば貧困者をこれ以上増やさないという発想である。一握りの人間が資産を巨大化させるということは多数の貧困者を発生することであって、悪であるという発想である。

今の社会通念、社会体制からすればそれは現実性のない夢想にすぎないように思われるが、時代が要求してきているのはそこなのである。

巨富を許す以上は、金と食料の奪い合いを是とするしかない。ここに地獄的な争闘が拡大再生産されている。

人はあの世に積み上げた巨富を持っていくことはできないのだ。
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死後の転生を釈迦が説く

2018-10-25 05:34:44 | 冥想アヴァンギャルド
◎ニルヴァーナから戻らない

釈迦が、ナーディカ村で、何十人かの既になくなった在俗信者や僧尼が、死後どうなったかを問われ、ある者は在世中に心の解脱を達成し、ある者は三つの束縛をなくしたから、欲情と怒りと迷いが次第に弱まるので、もう一度だけ転生してきて苦しみを滅ぼし尽くすなどと答えているシーンが仏伝にある。

その中で尼僧ナンダーは人を下界に結び付ける5種の束縛(貪り、怒り、我執、誤った戒律や禁制への執着、疑い)を滅ぼしたので、ひとりでに生まれて、ニルヴァーナに入り、そこから戻って来ないというのがある。

この『ひとりでに生まれて』とは、死後どこにどのように生まれることなのだろうか。

とある定まったプロセスに沿って大悟覚醒し、ニルヴァーナに入るのだが、それが『ひとりでに』ということだろうか。
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上にある神、下にある神

2018-10-24 05:25:08 | 冥想アヴァンギャルド
◎西にある神、東にある神

ある宗教では神は上にあるという。その場合、神と人とはもともと別ではないが、神は優れ、人は劣ったものと思い込みがちになるので、自ずとその宗教での冥想手法は祈りの冥想となる。その場合、人と神がもとより一つだと語ると異端として排除されるようなことまで起きることがある。

ある宗教では神は下にあるという。下にある神は立ち昇り、だんだん上がっていくと体験する人がいる。その場合、神と人とはもともと別ではないが、祈りではなく冥想の宗教となる。

またある宗教では、西にどんどん行けば神がいるなどという。あらゆるゴミにもがらくたにも神が宿り、地獄の果てでも神がいるのならば、あるいはすべてのすべてが神であるのだから、西も東も関係はない。

またある宗教では、神は上でもなく下でもなく東でもなく西でもなく内でもなく外でもないという。そして今日只今ここで神を体験せよ、感得せよ、神になれと坐らせる。

この時代は神仏に対するあらゆるアプローチが出そろった。ネットで探しでもすれば、その手法はどこでやっているかはわかる。

だが師匠なくして、到達するのは困難であり、ネットでは本物の師匠は見つかりやしない。

悟りは情報の質とか真正さということではない。
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根の国に落行く霊魂を救はむと

2018-10-23 05:35:03 | 古神道の手振り
◎出口王仁三郎のいろは歌から

明治30年頃のこと。高熊山で、あまりにも悲惨なこの時代の終わりと希望あふれる新時代の始まりを幻視した出口王仁三郎は、同様の幻視から来たる時代への危機感を持っているのが出口ナオだと直感し、彼女とともに布教することに決めた。

出口王仁三郎のいろは歌から。

『○ねの国に落行く霊魂を救はむと、厳の御魂の大御神、瑞の御魂と諸共に、綾の高天に現はれて、竜宮館の渡し場に、救世の船を浮べつつ、

待たせ給へど烏羽玉の、暗に迷ヘる人草は、取り付嶋も荒塩の、塩の八百路の八塩路の、浪に漂よい迷ひつつ、沖の彼方ヘ走せ行くを、

救いの船に棹さして、呼ベど叫ベど不知火の、浪のまにまに隠れつつ、海の藻屑と鳴戸灘、危ふき渦に近寄りて、行衛も波の底の国、流れ行くこそ悲しけれ。』

厳の大御神、瑞の大御神が地獄に落ちていく御魂を救い上げようと、竜宮館にお出ましになった。よって竜宮館は、天の八街(やちまた)であり、中有、バルドのことであることがわかる。

厳瑞の二神は、大々的レスキュー・チームを組成したが、その結果は、どうだったかと言うと、

呼ベど叫ベど不知火の
浪のまにまに隠れつつ、
海の藻屑と鳴戸灘、
危ふき渦に近寄りて、
行衛も波の底の国、
流れ行くこそ
悲しけれ。

どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

この予言のあった大正6年からは100年ほど経過。出口王仁三郎は、世界大戦はもう一度起こるとみて、そのためのご神業も行った。

だが21世紀の今、依然、時代も人も多くは、地獄的と言わざるを得ず、危機は去ってはいない。

出口王仁三郎の文語の文は、北村透谷などに比べればよほど読みやすいのだが、国会図書館デジタルアーカイブで無料で読めるけれども読む人は多くはいない。

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タントラの4段階

2018-10-22 05:25:07 | 究極というものの可能性
◎無から記憶・思考へ

OSHOバグワンは、タントラには4段階あるとする。

1.無
2.無心(非発生だが、発生する用意はある)
3.非記憶(世界は到来したが知識はない。出生後数年の記憶のない状態)
4.記憶・思考(アダムが知恵の木の実を食べた以降)

これに対応する姿勢が4つある。
1.カルマ・ムドラー(行為の姿勢)
行為は記憶だが、記憶を落とすことでエゴは消え、行う者がなくなることを究極とする。
※この段階では、思考・記憶がある。

2.ギャーナ・ムドラー(知る姿勢)
物事は起こるが、ただ観照者として観照する。これを「知る」とする。
※記憶は非記憶に溶けている。

3.サマヤ・ムドラー(純然たる時間の姿勢)
行為する欲望が消え、知る欲望が消え、時間が脇で流れ続ける。
万有万物は起こり続けるが、自分はただ座っている。
※マインドが落ちた。

4.マハー・ムドラー(偉大な姿勢)
行為も落ち、知ることも落ち、時間も落ち、自分もなくなる。
(以上参考:「タントラの変容/ OSHOバグワン/市民出版社」P200-215)

この四段階の特徴は、行為と知識を軸にしているところ。

だが理屈と形式と技法を承知していても窮極には到達することはできない。

だからOSHOバグワンは宗教は「こつ」だなどとつぶやく。


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上林竹庵がぼろぼろのお点前を披露

2018-10-21 05:58:37 | 丹田禅(冥想法8)
◎茶の湯の極意

上林竹庵は、宇治茶の元締めの一人であったようで、利休からも良い茶葉を送ってくれなど依頼されていた。

ある日利休一行が上林竹庵の茶のもてなしを受けることになった。

ところが、茶の大宗匠を迎えたプレッシャーで、竹庵の手は震え、茶杓は滑り落ち、茶筅は倒れるなどさんざんなものに終わった。

これを見て招待客達は、目を見かわし笑っていたが、茶会が終わるやいなや、利休は「本日のお点前は天下一である」として賞賛した。

帰り道で、利休の門弟たちは、この賞賛をなじった。利休はそれに答えるに、竹庵は点前を見せるために招待したわけでなく、ただ一服の茶を振る舞いたいと思って招いたわけである。ただ湯が沸いているうちに一服の茶を点てようと、怪我、あやまちを顧みず、一心に茶を点て、おもてなしの心を見せてくれたことに感じいったのだと。


南方録で、茶の湯の極意を問われた利休は、「夏はいかにも涼しいように、冬はいかにも暖かいように、炭は湯が沸くように置き、茶は飲み加減のよいように点てる」と答えた。

質問者は、「そんなことは誰でも承知している」と憤然とすると、利休は、「それならそのようにやって見せてください」と返した。

善いことをする、悪いことをしない、それが仏教の極意であることは皆知っているが、そのとおりできる人は稀である。

諸悪莫作
衆善奉行
自浄其意
是諸仏教


二人の美人弟子が別々の時刻に全く同じお点前で、茶を点てたが、一人はよしとされ、一人はダメ出しされた。
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人間の性根には限りがある

2018-10-20 06:03:29 | 冥想アヴァンギャルド
◎人間の総決算

人間の性根には限りがあるから、あまり読書や学問に力を入れると、その結果実務には疎くなるとして、学者の論に至らぬところをかばったのは、勝海舟(氷川清話)。

人間の性根というか気力には限りがある。人間には、公生活の面と私生活の面があるが、両方がちゃんとできるのが望ましい。21世紀の人にあっては、神仏を知りつつ、公生活と私生活を両立させるのがベスト。

だが、気力は肉体が若い時が極盛であり、老いるに従って落ちる。

公私両立させ、さらに冥想もやり続けるには、かなりの気力・性根の維持が必要となる。

ダンテス・ダイジも、若い時には忙しいことを理由に冥想をしないで老境になってからしようと思っている人もいるが、いざ老人になると、冥想に打ち込もうとする気力は既に失われているというようなニュアンスのことを言っている。

老人は、ある日老人になるのでなく、少年、青年、中年の無数の日々の積み重ねの結果そうなる。

その点でも3分間坐禅の継続もばかにならないものであり、背骨を真っすぐに立てる時間を毎日設けるというのも、効果効果と言わずに行うことが大切だと思う。

人の一日の性根には限りがあり、性根こそ行動エネルギーの源泉なのだが、その限られたエネルギーを老人になるまで日々何に振り向けてきたかが、人間の総決算ということになろう。

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空海の死

2018-10-19 03:28:45 | エクスタシス 夢の夢なる
◎肉体を残す

空海は、亡くなる三年前から、五穀断ちをしている。832年12月12日に「深く世味を厭ひて、常に坐禅を務む」となり、五穀を食べないで、メディテーションだけをやる状態となって、残り2年ほどを過ごすのである。

こうして冥想三昧の2年が経過し、835年の正月に水や飲み物も受け付けなくなった。困惑した弟子たちは、なおも水や飲み物を勧めるが、空海は、「やめなさい、やめなさい、人間の味を使わないで下さい」と峻拒する。

十万枚大護摩供でも、断水七日が限度であるが、空海は3月21日に亡くなるまで、凡そ2か月、これを続けるのである。

熟達したクンダリーニ・ヨーギは、肉体を変成して「霞を食べて」も生きられるものだというが、水分をとらなくなる正月の時期には、既にそういう肉体に変成し終えていたのだろう。

あれだけ超能力を使いこなせる空海のことだから、肉体の変成などはお茶の子だったのだろう。最後の数年を冥想に生きたのは、一流の神秘家として当然の生き方だったのだろう。列仙伝などの仙人を思わせる行状ではある。既に肉体に執着なく、アストラルな生き方が中心になっていたのだろうか。

3月21日に右を下にして亡くなるのだが、空海としては、肉体を残す死に方を選んだということになろう。水分も取らずに生きられるのだから、やろうと思えば屍解もできただろうが、殊更に肉体を残して死んで見せたところに、空海の意図を感じる。
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空海の死亡予告

2018-10-18 00:11:23 | エクスタシス 夢の夢なる
◎スピリチュアリストの作法

超能力を使えるイエスがその予見された磔刑を回避しなかったり、他人の病気治しは結構やる出口王仁三郎が、自分の持病は治さなくて、卒中か何かで死んだり、親鸞の死には奇瑞は起こらず、超能力者や有名宗教家の死は時に物議をかもす。

空海の死もそうしたものの一つ。
宗教に何かあるとか、超能力に何かあるとか期待してはいけない部分がここにある。


空海が亡くなる6日前に書かれた空海御遺告によれば、

1.真言の法は、大日如来、金剛薩タ菩薩、龍猛菩薩(三祖)と伝えられ、唐の不空で6代目、恵果が七代目で、空海は8代目で、いずれも師匠から弟子へ師資相伝されてきた教えである。
2.高野山は、自分の冥想(入定)の地として、朝廷よりもらい受けた。
3.832年11月12日より穀類を摂るのをやめた。私はもともと100歳まで生きて仏法を護持しようとも考えていたが、835年の3月21日の午前4時に逝去することにした。62歳である。

師匠から弟子へ師資相伝は、クンダリーニ・ヨーガでは当然の作法。クンダリーニ・ヨーガでは、一対多のいわゆる大衆仏教的な伝法はあってはならない。秘密にされないと危険だからである。

冥想の場所として高野山を選定したこと、逝去日に春分付近を使っていること、そして穀断ちをして肉体改造(あるいはエーテル体改造)を数年前から行っているのは、まさしくスピリチュアリストの作法である。

高野山では、バスに乗るといきなり観光案内アナウンスが流れて他との違いを感じさせられるものだが、高野山は観光地ではなく、もともと冥想の適地として選ばれたのだから、一本坐って空海の臨在を感じるのが本当は望ましいのだと思う。
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死と現代文明のウィークポイント

2018-10-17 05:15:38 | エクスタシス 夢の夢なる
◎既定路線からのズレ

これまで、死を受容し、マンツーマン輪廻説の妥当性を検証し、輪廻の主体と死のプロセス、死からの復活、そして肉体乗り換えから屍解まで語ってきた。

現代文明のウィークポイントとは、死と向き合わず、死を無視し、死がまるでないかの如く振る舞っていることである。

現代文明とは、いわば人間はほとんど肉体のことであり、金や地位や名誉や恋愛が最優先である通念のもとに組み上げられているもの。

この文明において、神仏という体験とは言えない体験をする人は、極小となり、神仏を肌感覚として知る人は稀になり、特に日本では、深まって神仏を見たり、感得したりしようとする話題すら恥ずかしいことのように思われる、ほぼ無神論者の社会になっている。

こうした社会、こうした世界は、神仏と人とが共に生きる既定路線からすれば大きく針路をはずしたズレたルートに入っている。

これでは、個々人が日々冥想を習慣とすることで、矯正を始めないと、地球滅亡は遠くないということになる。

米中貿易戦争の勃発で、第三次世界大戦は既に開始された。戦争とは物理戦だけでなく、経済戦、情報戦も立派な戦争である。

異常な猛暑の連続や、スーパー台風の来襲、大規模な水害発生、地震の多発も現代社会のウィークポイントに対する反作用と見ることができる。

現代で客観的真理とされていることは、多くの場合、多数決によるもの。自分たちが人間の姿、自分のあり方と考えているものすらほとんどそうだ。

冥想の窮極にある自我の死の先に全体あるいは神仏との合一があり、すべてがひっくり返ると言われる。その時多数決による通念は崩壊し、人が神とともに生きる、人が一個の神として生きると言われる。

今日も空海と同行するお遍路さんは行く。「現代文明あるいは現代人のウィークポイント」のパートの最後に空海の死を上げたい。

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