アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

薩摩藩士田中河内介

2018-09-30 06:32:27 | 古神道の手振り
◎中山家

2018年9月29日日本経済新聞の【日本史ひと模様/大久保利通=著者 本郷和人】に明治天皇がらみで微妙なことが書いてあった。それは、薩摩藩士田中河内介のことである

寺田屋騒動は薩摩藩内での切り合いだったが、薩摩藩士で蜂起参加者として身柄を拘束された一人が田中河内介だった。

田中河内介は、公家の中山家に仕えていたのだが、その際に若や姫の世話をしていたという。その姫が中山慶子であって孝明天皇の御子をご懐妊。やがて祐宮(さちのみや)をご出産あそばされた。

祐宮は、後の明治天皇だが、宮が4歳で宮中に帰るまで教育係を務めたのが田中河内介。

寺田屋騒動後に薩摩藩は、田中河内介とその息子の磋磨介(さまのすけ)らを乗せて船で日向に向かったが、船中で河内介は斬られ遺体は海に投げ捨てられ小豆島に漂着して村民に葬られたという。

祐宮は元来蒲柳の質だったとかが後に話題になっているのだが、そうした微妙な話のからみで、一旦寺田屋騒動では助命されながら船中で切られたのではないかということが想像される。

私は維新史には疎く、旭形の件とか、和宮の件とか断片的に知っているだけだが、優秀な学者さんや作家さんはとうに全容の調べがついているのだろうと思うが、皆だんまり。

薩摩方も一枚かまざるを得なかったのだろう。
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そのような方法はあり得ない

2018-09-29 05:36:46 | 現代冥想の到達点
◎何かのついでに神を見つけたいだけ

私だけが神を探し求めているのではない。神もまた私を探し求めていると聞いている。それを踏まえて、実際のところ自分の探求はかりそめのうわべだけのものに過ぎない。

私は、神を探求することについて語りはする。けれどもそれを本気で言っているのではない。
私は、何かのついでに神を見つけたいだけなのだ。

私は、どんなものも危険にさらしたくはない。私は、そのために金を払ったり、努力を傾注することは望まない。私は、あらゆる犠牲を払い頑張って神をつかみ取るなどということは望まない。
私は無料で、タダで、楽に神を手に入れたい。

だが、そのような方法はあり得ない。
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有相三昧、無相三昧

2018-09-28 05:10:41 | 究極というものの可能性
◎知的理解さえ意図的に拒む

佐保田鶴治のヨーガ・スートラの訳。
『<有想三昧>
1.17 三昧のうちで、尋、伺、楽、我想などの意識を伴っているものは有想とよばれる』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治P49から引用)

『<無想三昧>
1.18 もうひとつの三昧は、心のうごきを止める想念を修習した結果、止念の行だけが残っている境地である』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治P51から引用)

これらが、OSHOバグワンのヨーガ・スートラ講話Yoga: The Alpha and the Omegaの第二巻では、
『1.17有相三昧は、理性、反射、腐敗、純粋な感情が付随するサマディーである。

1.18無相三昧では、すべての精神的な活動が止められており、心は未知のインパクトを残している。』

OSHOバグワンの説明では、究極のサマディー(三昧)は不可分なのだが、便宜的に二つに分ける。(英訳は該当する単語がないので役に立たない、などとも言っている)どちらにしても個人が何かの坐法で冥想をしている状態のことをサマディーと呼んでいるわけでなく、世界そのものの究極の状態を仮に有相三昧、無相三昧と呼んでいるだけというようなニュアンスである。

そういう文脈では、佐保田訳の思念を止めようとする想念とはどうなのだろうと思う。

英訳の方も、OSHOバグワンの解説を読むとなんとなくニュアンスは伝わってくるものの、スートラ本文の英語だけ読むと様々に誤解が広がるだけというような感じがする。

有相三昧、無相三昧は、ある程度の知的理解さえ意図的に拒んでいるトラップのようにも思える。
まず体験があってなんぼ。
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スワミ・ラーマと左道タントラ

2018-09-27 05:36:42 | 密教
◎俗気を卒業した後

スワミ・ラーマの自伝に自分自身がタントリズムの手ほどきを受けたことが書かれている。

なぜだか訳文は「性行」などと訳しており、そのままでは見落としやすい。要するにスワミ・ラーマはセクシュアル・ヨーガを学ぶ機会があったのだ。

タントラには3種あり、右派?は普通のクリヤ・ヨーガみたいなので、その他には左道タントラと、右と左を混ぜたような真ん中の道の3種ある由。

スワミ・ラーマは、なんと左道タントラのイシニシエーションまで受けたと書いている。

スワミ・ラーマは、若年のうちは、高級車に乗り高級服マニアだったのだが、そんな状態では、左道タントラのイシニシエーションを受けることなど及びもつかないので、これは相当に修行が進んだ後のことだったのだろうと思う。

イケメンのセクシュアル・メディテーションの修行者だった時期もあると書けば、聞こえは良いが、冥想修行は、修行者から見れば、もとよりいろいろな妨害や障害の連続であり、セクシュアル・メディテーションにあっては、パートナーもあり、セックス自体の持つ魅惑に耽溺しやすいという大きな問題点もあり、修行を窮めるというのは、生半可なことではない。

結局、彼もそれを窮めたわけではなかったようだが、イニシエーションを受けただけでもすごい覚悟であると思う。

セクシュアル・メディテーションという言葉は、真言立川流を引くまでもなく、現代のカルトでも盛んに語られるのだが、乱倫乱交のことと誤解されがちな事件があまりにも多いことは、ふつうの人々が左道タントラの概要すら想像できない原因になっているのだろうと思う。
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プラーナ・ヤーマ

2018-09-26 05:30:43 | 冥想の準備
◎血行改善と肚を作る

スワミ・ラーマは、アメリカに行く直前の11か月間、山の洞窟それも一本の光しか差し込まない洞窟で、食事は支援者が差し入れてくれ、排せつ物を流す溝がついているタイプの洞窟で冥想を繰り返した。

その洞窟には、出入り口はなく、封鎖されているので、冥想をしない限りは、精神に異常を来すとは、スワミ・ラーマ自身が述べていること。

実験心理学なら長期の感覚遮断実験であり、こういう環境で、冥想しないとどうなるかは、20世紀から知られている。

チベット密教行者は入り口を塞いだタイプ山の洞窟で何か月も冥想するのだが、どのような洞窟かあまり詳述していないので、関心を持っていたのだが、スワミ・ラーマのこの記述で大体わかった。

ヒマラヤの斜面にある岩に座って冥想しているわけではない。

このスワミ・ラーマの冥想三昧の日々で関心を惹いたことがある。毎日プラーナ・ヤーマをやっていたことである。

肚を作るというのは、丹田=スワジスターナ・チャクラの強化だが、社会で活躍するには必須のことである。頭ではわかっていたが、こういうシーンで日々プラーナ・ヤーマをやるというのは、渡米の準備でもあったかと思いあたる。単に血行を良くする健康法をやっていたわけではないのだろう。

またこれは想像だが、このような出口のない洞窟や独房では抜けやすいということがあるのかもしれぬ。その意味でもプラーナ・ヤーマをやっているのかもしれない、と。

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王星

2018-09-25 04:54:44 | 時代のおわり
◎世界の立替立直しの開始

王星とは、太陽のように白昼に明るく光り輝く星のことだろうか。

藤原定家の名月記では、見慣れぬ星は客星とされ、超新星がそれに当たる。彗星は、ほうき星のことで彗星として客星とは区別していた。

王星とは、出口王仁三郎の造語の可能性がある。

出口王仁三郎が、王星に言及しているのは、2箇所ある。

霊界物語第一巻第24章附言

『(附言)
神世開基と神息統合は世界の東北に再現さるべき運命にあるのは、太古よりの神界の御経綸である。

天に王星の顕はれ、地上の学者智者の驚歎する時こそ、天国の政治の地上に移され、仁愛神政の世に近づいた時なので、これがいはゆる三千世界の立替立直しの開始である。

ヨハネの御魂は仁愛神政の根本神であり、また地上創設の太元神であるから、キリストの御魂に勝ること天地の間隔がある。

ヨハネがヨルダン河の上流の野に叫びし神声は、ヨハネの現人としての謙遜辞であつて、決して真の聖意ではない。国常立尊が自己を卑うし、他を尊ぶの謙譲的聖旨に出でられたまでである。

ヨハネは水をもつて洗礼を施し、キリストは火をもつて洗礼を施すとの神旨は、月の神の霊威を発揮して三界を救ふの意である。キリストは火をもつて洗礼を施すとあるは、物質文明の極点に達したる邪悪世界を焼尽し、改造するの天職である。』

霊界物語題五十二巻8章余白歌
『白昼に王星現はる今の世は
 人の心のはげしきを知る

曲神の世の終りかも思はざる
災厄ばかり次ぎ次ぎ臻(いた)るも

世の柱弥勒の神を苦しめし
邪神(まがみ)の亡ぶ節は来にけり』

1910年5月のハレー彗星は巨大で、5月11日には最も明るく、0.6等となり、尾は空の過半を占めた。

大正12年(1923年)には、王星の記録はないが、明治末のハレー彗星のイメージと、大正12年の関東大震災が念頭にあったのではないだろうか。

ここ1.2年の間に第三次世界大戦の陣営割が整備されて、今の米中貿易戦争の激化になっているのだろう。

物理的戦役の前に宣伝戦、経済戦はあるものだ。日本は米国陣営で参戦していくのだろうが、日本の軍国化の過程で、第二次世界大戦末期のABCD包囲陣のように日本が世界の孤児になる可能性を出口王仁三郎は懸念している。

それにしても世界が第三次世界大戦の入り口に立っているのに、マスコミも政治もほとんど騒ぎ立てず、出口王仁三郎預言も顧みられないことである。

そのようにきな臭い時代はいつのまにか始まり、戦前を上回る言論統制が敷かれる時代に入るのだろう。
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マギの礼拝

2018-09-24 06:26:18 | キリスト者の秘蹟
◎組織宗教の始まり

ヘロデ王の時代に東方からエルサレムに来た3人のマギが、ユダヤの王として生まれた子を探しにやってきた。やがてその子がベツレヘムにいると聞いた。

3人のマギは星の導きによりベツレヘムのマリアの家を訪問し、彼女に抱かれた赤子に黄金、乳香、没薬などのプレゼントを捧げた。

これは、ムリリョの絵だが、まるで3人のマギの赤子に対する姿勢は、まるで弟子が師に対するが如くである。

この師はやがて世界の師となり、以後2千年は西洋の組織宗教の中心として影響を与え続けたので、それはそれで成功だった。

この赤子を人間とみれば、師であり教師だが、神の化身と見れば、話はやや違ってくる。

その図式であれば、神と人は永遠に別であり、人が神になるなど恐れ多く、あってはならないこと。

だが、時代が21世紀に入り真に希求される宗教者のスタイルは、自分が神と合一する方のビジョンに変化した。

それは、みずがめ座の時代と呼ばれている。イエスは神秘主義的には魚であり、イエス以後の2千年は魚座の時代。今のみずがめ座の時代には、救世主と人とは友人であり、神と人とは合一できることがモチーフとなる。

キリスト教で、神人合一を語ったのは、何人かいるが、エックハルトもそうだが、そのままでは異端とされるので、弁解したり、とりなししてもらう場合がある。だが実際に異端とされた者もいる。

一方錬金術師たちは、厳格なキリスト教による思想締め付けの中で、金属精錬業に見せかけつつ神人合一の伝統を護持してきたのだろう。

キリスト教の伝統の中で神を見た人は、指導よろしきを得れば神人合一に進むこともできる。

彼らにとっても、今をどう見るか、今をどう感じ取るが重要なカギとなっている。


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一夫一婦、一夫四妻

2018-09-23 06:55:04 | 現代冥想の到達点
◎現代社会の慣行や法制、仕組みと合わない本来のもの

易経では、一陰に一陽が沿う。よって一夫一婦が当たり前であり、世界の平和は夫婦の和合からなどというキャッチコピーを無意識に受け入れ、それは、税制、相続などの法制度に及んでいるのが今の時代。

黒白、善悪、光と闇、明と無明などの二元はわかりやすいので、この世のものごとを理解するのに、とかく人は二元で考えがちである。

しかし人間もその文脈なのだろうか。

人間は、肉体、エーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体、アートマン、ニルヴァーナの七つの身体で成る。
個別性は、肉体からコーザル体までの5身体であり、全体として二元ではない。

最近OSHOバグワンの著書を読んでいたら、一夫四妻にも根拠があるようなことを言っていることを発見。ダンテス・ダイジも一夫四妻を否定はしていなかった。

イスラムでは一夫四妻。経済力がある夫が経済力のない女性を4人くらい抱えるのにも経済合理性はあるのだろう。

男と女は陰と陽。だが、陰陽をならべてみると大きな陽とやや小である陰のペアである。シンメトリーではない。

墓場に行くとよく見る五輪塔。それは地水火風空であって、地水火風と空は別次元である。

空を夫、四元素、四大を妻と見れば一夫四妻である。

だが、いまさらながら一夫四妻に根拠があるなどと言っても、乱倫不倫な人々を元気づけたり、家庭の不和をひどくさせたり、家庭内の分断、個人間の分断を激化させるだけではあり、かつまためくるめくロマンスを期待する人に可成り幻滅を与えるだけのことではある。

よって、彼らは魂のプロトタイプとしての一夫四妻については多くを語らなかったのだろうと思う。

現代社会の慣行や法制、仕組みと合わない本来のものは他にもいくらでもある。

そこで出口ナオにかかった丑寅(うしとら)の金神が、『いつまでも世は持ち切りにさせんぞよ』(この世を、いつまでも人間の好き勝手に切り回させはしない)などと言ったりするのだ。

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時はしぼみおとろえる

2018-09-22 06:33:00 | 冥想アヴァンギャルド
◎滅びざる焔

W・B・イェイツの1899年の詩から

『情調

時はしぼみおとろえる
燃えつきたろうそくのよう
山々にだって森にだって
終わりがある終わりが来る
だが焔から生まれた情調には
ひとつとして滅び去った
ものがはたしであったろうか』
(W・B・イェイツ全詩集 北星堂書店P31から引用)

冥想修行者でなくても、中高年になってもまともに生きようとする人は、柔軟体操、呼吸法、あるいは坐法は欠かさないもの。

それでも気分が落ち込んで滅入ることもある。体調が思わしくなく、何事もやる気が起きないようなこともある。特に今年の夏の異常な猛暑にあっては、意識するしないにかかわらずそうしたことが多かったように思う。

だが気分も体調も天気のようなもので、それは永遠絶対のものではないから、それはやがてしぼみ衰え、別の相、アスペクトがやってくる。

それを横目に見つつ、一日に一度は、滅びざるものに視線を向け、振り子が正中に戻るように自分を立て直す。
背骨をまっすぐに立て。

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昭和天皇の伊勢神宮参拝

2018-09-21 05:48:32 | 古神道の手振り
◎伊勢神宮の公開

明治天皇は、生涯に4度伊勢神宮参拝などと言われているが、昭和天皇も節目節目に伊勢神宮を参拝されている。

昭和十五年(一九四〇年)六月、昭和天皇は伊勢神宮を参拝、この年は「紀元二千六百年」。

昭和十七年十二月、昭和天皇は戦勝祈願のため伊勢神宮を参拝。随行した総理大臣東条英機は、この天皇の姿を目にし感涙にむせんだという。

昭和二十年(一九四五)十一月、昭和天皇は、実質的な「終戦奉告」のために伊勢神宮参拝。

昭和天皇の昭和20年までの参拝は。国家神道と不可分なところがあり、一方戦後の参拝は、数年に一度程度行われている感じ。

ただ天皇家の菩提寺泉涌寺への参詣は私的なものとされほとんど報道されないことから、伊勢神宮への参拝も私的なものがないとも限らないので、参拝回数を数えるのもどうかというところはある。

伊勢神宮は長いこと私幣禁断とされ、サンクチュアリとして保護してきたが、大衆が信仰の主人公となる近代になって、伊勢神宮が大衆にも開かれたのは、国家神道のシンボルであった暗い時代もあったのは皮肉だが、国魂がその性格を変えたと見ることができると思う。

古神道でも一人一人が覚醒する時代になったのだ。
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世界の覇権国の盛衰

2018-09-20 05:37:56 | 究極というものの可能性
◎持統天皇の伊勢行幸

明治初年の頃は、大英帝国が世界の覇権国家であり、第二次世界大戦後は、アメリカが世界の覇権国家であり続けてきた。

そのアメリカもベトナム戦争、アポロ計画と世紀の無駄遣いを敢行した結果、1970年代には産業の衰微が現実化し、その後巨額の貿易赤字はアメリカの代名詞となって今日に至り、アメリカの衰退は隠れもないものになっている。米中貿易戦争は、アメリカの栄光の最後の輝きのようなものなのではないか。

出口王仁三郎の歴史観では、太古日本は、ユーラシアの東側の大半を有する覇権国家であり、次第に勢力を弱めて、東遷していくうちに、ソシモリ朝鮮に素戔嗚尊(すさのおのみこと)が根拠を一時置いて、最後は日本だけの領地に追い込まれたのが現今の日本。

かつての世界の覇権民族がすっかり衰微してしまったのは、日本だけではなく、中国のオロチョン族もそうであったと出口王仁三郎は説く。

出口王仁三郎は、太古において、八岐大蛇とはオロチヨン族のことで、出雲に割拠していたのを素盞嗚命が平定して、その頭目が持っていた剣(日本列島)を召し上げたとする。(新月の光下巻/木庭次守編/八幡書店P239、霊界物語第15巻第11章大蛇退治の段)

ところで出雲国とは、地球上一切の国土のことなので、オロチョン族は今でいえばアメリカみたいなものだったろう。

だがオロチョン族は、今では中国の少数民族の一つになってしまって、内蒙古自治区と黒竜江省の接するところにある大小興安嶺、特に内蒙古自治区フルンベル盟オロチョン族自治旗に数千人残るだけだそうだ。

かつて世界帝国であった日本には、世界帝国としての宗教と祭儀があったはずだが、東漸して縮小して日本一国となれば、その結果、宗教も身の丈にあったものにせざるを得ない。

古神道は、密教系であり、スサノオはアトランティス密教の流れとダンテス・ダイジは指摘するのだが、それが、ユーラシアの東の端に追いやられた時に、どうしても一国日本鎮護の宗教が必要と考えた。そこで持統天皇が、周囲の反対を押し切って伊勢行幸を敢行。

三輪高市麻呂は、伊勢行幸反対の急先鋒であり、中納言の職を辞して直諫、反対の意思を明らかにしたほどだった。

要するに伊勢神宮は、持統天皇以前は、国家第一の神宮ではなかったのだが、そうした日本ダウンサイジングの流れの中でやむなく伊勢神宮をそうした位置づけにせざるを得なかったのではないかと想像する。

こうした事情なのかどうかはわからぬが、持統天皇以後伊勢を参拝する天皇は少ない。

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ニュースを知らない人々

2018-09-19 05:38:27 | マインド・コントロール
◎ネオ情断な人間

最近、時事で起こっているトップ・ニュースすら知らない人に時々出くわす。

最初は、特殊な例であり、そんな人はまれにしかいないのだろうと思っていたが、時々出会うことから、実は相当にいるのではないかと想像している。

このテレビもあって、スマホ、ケータイも持っている時代に、大阪なおみを知らないのは、スポーツネタだし、ポッと出の選手でもあるから知らないのも仕方ないかもしれないと思ったが、西日本大水害も知らぬ、関西国際空港の水没も知らぬ、北海道の大地震も知らないときては、その人々は社会人でありながら、実際は半分の社会性を放棄しているのではないかとにらんでいる。

またスマホを24時間持っていながら、操作している時は、ポケモンGoや落ちものゲームなどゲームがほとんどな人が実は相当数いて、当然のことながら?ニュースは知らないままでやっていける。

昔「情断の時代」という言葉があったが、今や新たな「ネオ情断な人間」が続々と出現していることに気がついてしまったのではないかと怖気を振るう。

「ネオ情断な人間」とは、全くニュースを見ないし知らないままでよいとする人間のことだが、これは白痴化と同義である。

こうなった原因は、あまりにも生活と関係のないニュース、その人にとって重要と思われないニュースを延々と流し続けるマスコミの側にも責任の半分はある。例えば、高齢女性俳優の死がトップ・ニュースに並ぶなどは、明らかに他の重要なニュースを隠すためという意図があるのだろうと勘繰られても仕方ない。

もう半分は、この欲望強化とプチ欲望充足を至上命題とする無神論的ライフスタイルが、スマホなどパーソナル情報機器の発達により人間の関心・注意をそれにひきつけ続けることに成功したということではないかと思う。

何のために人類は、衣食住を手に入りやすいものにし、健康で文化的な生活を実現しようとしてきたのだろうか。

本当に必要な情報を流さず、どうでもよい情報ばかり流すマスコミと政府、そして関心、注意力、気力を手元のゲームで奪われる実質的に奴隷、ゾンビのような個人が多数闊歩するこの文明を構築するために皆営々たる日々の努力を重ねてきたのだろうか。

日々の冥想を。
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小人をして天下を治めしむれば

2018-09-18 05:55:01 | 時代のおわり
◎国家混乱すれば天災地妖到る

この夏から秋にかけては、西日本の大水害、超大型台風の来襲による関西国際空港水没と関西の風水害、北海道胆振東部地震と天災が相次いだ。

台風、ハリケーンということでは、今まさにノースカロライナのハリケーン「フローレンス」とフィリピン、広東を襲った台風22号が被害を出している。

出口王仁三郎は、随筆月鏡で、「古語に曰く「小人をして天下を治めしむれば天禄永く絶えん、国家混乱すれば天災地妖到る」」と引いている。

これは大塩平八郎の檄文「四海困窮せば天禄永く絶えん、小人に国家を治めしめば災害並び到る」と似ている。

論語の堯曰にも『四海困窮せば、天禄永く終わらん』とある。

アメリカの意向というのもあるのだろうが、小人を選挙で選んでいるのは国民であり、その「小人」について他人事とは言えないところはある。

出口王仁三郎は、うまし国日本であるがゆえに、その神の恵みに背いた場合の懲罰は一層激しいものだとして、その極罰が地震であるとし、そこまでひどくない場合は、「人震」が起こるとする。

彼は「人震」の例として、天草四郎、由比正雪、大塩平八郎、西郷隆盛を挙げる。

当時から西郷隆盛が、鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争、西南戦争の首謀者であったことは知られていたのだろう。

今の日本を見ると、外国勢力などによって揺すぶられているのが、沖縄であり、北海道であるのだろう。
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夏目漱石の神経症から

2018-09-17 07:03:16 | マインド・コントロール
◎現代的ライフ・スタイルの蟻地獄

夏目漱石はロンドンに留学して、神経症(ノイローゼ)になった。下宿先の大家に、真っ暗な室内で泣いている姿を目撃されたり、勉強する意味を見失い、「何も書くべきことがない」として、文部省への報告書を白紙で提出したりした。

私欲、エゴは神経症の原因である。神経症の根源には他人からの注目、他人からの関心への強い渇望がある。

神経症の治療には二方向があり、患者に注意・注目を払って上げる方向と、逆に全く患者に注意・注目を払わずに無関心でいることにより、患者自身を自分自身の内面に向き合わせる方向がある。

禅は後者であって、禅問答では表面的には問答になっていないのがそれである。

質問「達磨がインドからはるばる中国へ来られた真意とは何か」
回答「庭の前の柏樹である」


質問者の「はぁっ?」という声が聞こえるようだ。

この問答の代わりに「自分の内面を見つめよ。内面にこそ真実がある」とストレートに指図する方法もあるが、禅ではそれでは徹底しないと見たのだろう。

禅では、覚醒への理屈、メカニズムを知的に理解しても何も進展がないことを教訓に成立したに相違ない。

現代の若者は自分にしっくり来る仕事があるなどと思っていて、それが自己実現だなどと、アメリカ流の個人主義を土台にした社会的自我確立手法が疑う必要もなく正しいものだなどと思い込んでいる。

その根源は私欲である以上は、社会で行き詰まれば、神経症になりやすいことになる。

その神経症の根治は、自分というものに向き合うことを繰り返していく方向にしかないのだが、現代人のライフ・スタイルでは、スマホを24時間持ってゲームに依存することで、逆に病を深める方向に進んでいる。
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明智光秀の妻が髪を切る

2018-09-16 06:17:33 | 冥想アヴァンギャルド
◎髪と指

毛髪には呪力があり、禰宜は髪長であり、髪を伸ばす。仏僧は、剃髪して髪を切る。

インドでも中国でも日本でも古来長いは商品として販売することができた。だが単なる商品価値ではなく、を切る方には、神仏の加護が薄くなったり、外見が女らしくなくなるという女性としては致命的な問題も派生する。

明智光秀が元旦に朝倉家を立ち退き、柳が瀬の知人方に逗留していたが、ある日連歌の会を催すことになった。

人数が集まるので妻にもてなしを言いつけた。妻は、日々の食事も貧しいのにどうしたものかと悩んで、自分の黒髪を売って銀二十目に替え、その日の饗応を盛大に行うことができた。

光秀はこの仔細を知らず、妻ののないことを怒って、このようにするのは離縁してくれということかと罵りまくった。

そこに下女が出てきて、かくかくしかじかと事情を話したところ、光秀は、そのような事情があるとは夢にも知らず感情のままに言い過ぎたことを許したまえ。その代わりに私が天下を取ったとしても、生涯妾は持たないと誓った。

果たしてその後、光秀は一生他の女を近づけず、妻に先立たれた時には、彼女を武将でありながら徒歩で見送って、周囲の人々を感服させたという。

明智光秀は主君を裏切った不忠義者だが、なぜだかこの話だけは光秀を賞賛する話として伝わっているという。


松尾芭蕉が明智光秀公一族の菩提寺である西教寺を訪れた時の一句

月さびよ 明智が妻の 咄(はなし)せよ

出口王仁三郎は、光秀=利休説をとっている。

経絡は、エーテル体と重複するが、経絡の手のラインも足のラインも指で終わる。髪は頭部にあるが、手足に対する指のような位置づけが髪であるのかもしれない。

仏足頂来は、足指から放射するエネルギーを頂くのだともいう。

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