アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

水銀の取り扱い

2018-08-31 05:06:21 | 錬金術
◎ささいな誤りひとつで命を失う技法

クンダリーニ・ヨーガは、死を扱う技法なので、ささいな誤りひとつで命を失う技法である。

さて水銀が中国の煉丹、西洋の錬金術、インドの錬金術でも重要なファクターになっていることをスワミ・ラーマは承知している。

だが水銀は常温で液体だが、猛毒であり、水銀化合物が水俣病となったなど、水銀の扱いに関しては、ささいな誤りひとつで命を失うことは知られている。

一日、スワミ・ラーマは、弟子の求めに応じ、水銀による覚醒そのものは実演しなかったが、ペニスから水銀を吸入し云々という技法があることに言及したところで、実際に体温計を割って水銀を取り出し(当時は体温計の中に水銀が封入されていた。)、手のひらからその水銀を吸収し、いつでも水銀を尿とともに排泄できると宣言して、直後に尿の中に排出してみせた。

スワミ・ラーマは、水銀を体内に吸収する技法の存在は肯定したが、その手法ができる人間は一握りであり、その手法の体系は消失したと強調した。

現代に残る文献では、水銀を治療に用いるにも覚醒に用いるにも不十分であり、わずかに残るその手法の継承者は、現代の人類がこうしたテクニックの誤用、乱用、歪曲するのにたけているから公開することはないとも彼は説明している。

(参考:ヒマラヤ聖者最後の教え -伝説のヨガ・マスターの覚醒と解脱 スワミ・ラーマその生と死-下 パンディット・ラジマニ・ティグナイト/著ヒカルランドP197-206)

だが、世界核戦争後、多かれ少なかれ被曝している人類にとっては、福島以後の東北関東の人にとって放射能の体外排出がテーマだったように、再びこのテクニックが真剣に求められる時節があるのだろうと思う。

こうしたテクニックができるには、猛毒を摂取しても耐える肉体と猛毒を意図的に排出するテクニックが必要だが、それは、ささいな誤りひとつで命を失う技法でもあるのだ。
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パラ・カーヤ・プラベーシャ

2018-08-30 06:05:28 | エクスタシス 夢の夢なる
◎ガネーシャ

パラ・カーヤ・プラベーシャは、肉体乗り換えのこと。

スワミ・ラーマは、チベットにいたグランド・マスターが洞窟内で、肉体を蒸発させ、木のトレイに肉体を移し、再び肉体化した事件について、後に次のように解説している。

洞窟内には空いた肉体がなかった。そこで彼は肉体を出て少量の水分になるまで非物質化した。それを雲のようにして一時的に意識をそこに乗せておいた。それ以外の物質はエネルギー変換して木のトレイに入れたのでトレイが重くなった。

そこからエネルギーを引き戻し、雲状となりついには肉体にもどった。

スワミ・ラーマはさらに適当な死体がその場にあれば、その死体を動かすこともできるとも語っている。

月並みではあるが、スワミ・ラーマは、このパラ・カーヤ・プラベーシャの目的は、死とは役にたたなくなった家を捨てることで、誕生とは他の空き家の居住権を得ることであることを知り、これにより自分とは純然たる意識であることを理解することという風に語っている。

肉体を出て他の肉体に移ることは、とりかえばや物語や、新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』などで昔から扱われてきたテーマではあるが、熟達した修行者の関心事は、異性の肉体と心理ではなく、カルマと肉体と生と死の秘密である。

スワミ・ラーマは、この点も慎重に説明しており、肉体を持ち自分のすべきことを果たしなどと、体外離脱だけがメインでないことも言い添えている。

弟子のパラ・カーヤ・プラベーシャは何から始めるべきかという質問に対し、スワミ・ラーマは、ガネーシャ崇拝から始めるべきだという。彼はムラダーラのそばに眠る三回半とぐろを巻いているクンダリーニがガネーシャのことだと断言する。
(参考:ヒマラヤ聖者最後の教え -伝説のヨガ・マスターの覚醒と解脱 スワミ・ラーマその生と死-上 パンディット・ラジマニ・ティグナイト/著 ヒカルランドp241-244)

最近国宝指定された埼玉県北部妻沼の聖天、歓喜院聖天堂の本尊は秘仏の黄金のガネーシャ像だと言われる。某カルトのガネーシャ崇拝もあった。

ガネーシャはインド渡来の異邦神などではなく、わがボディの内のものであった。
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まっすぐ座る

2018-08-29 05:42:10 | 冥想アヴァンギャルド
◎ヨーガでも禅でも共通

「ヒマラヤ聖者最後の教え -伝説のヨガ・マスターの覚醒と解脱 スワミ・ラーマその生と死」を読み返しているが、その中で、背骨をまっすぐにして座るくだり(P156)があり、毒素排出と健康回復(P177,178)が個人のことだけではなく、世界全体にもつながっていく原理であることが示されている。

まず、まっすぐ座ることについて。

頭、首、胴をまっすぐにして座るのが、最も健康的で、最も快適な座り方。そうすると、脊柱の基底部に圧力がかかり、熱が生じる。その熱が強まると、プラーナのエネルギーが広がり、上へ上へと上昇していく。脊柱をまっすぐにし、神経系がリラックスしていくことで、プラーナのエネルギーは脊柱に沿って、頭に向かってのびのびと上昇していく。この座り方では、怠惰やぼんやりした状態を避けられる。

これは、まっすぐ座っている人は毎度実感されていることではないか。その感じを知らない人に伝えるのは難しいので、やってもらうしかないのだが。

禅でも背骨をまっすぐは変わらない。

帰宅してから、疲れて頭の中がごちゃごちゃのところで座れるかというところでも、一つ自発的意志力は必要となる。
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チベットのグランド・マスターの肉体乗換え

2018-08-28 05:45:17 | エクスタシス 夢の夢なる
◎雲のような人型が消え

ババジ直系のスワミ・ラーマには、肉体乗り換えの話が二つ出ている。
一つは、チベットにいたグランド・マスターと称される人物との出来事。

グランド・マスターは、ある朝、弟子たちに肉体から出て他の誰かの肉体に入り、それから再び自分の肉体に戻ると宣言した。

彼は出入口が一つしかない洞窟に住んでいたが、実演の前に、出入口がひとつしかないことを改めて確認させた。グランド・マスターは、弟子たちに木のトレイを持たせた。

するとグランド・マスターの肉体はかすみはじめ、雲のようになり、その雲は弟子たちの方に移動して数秒で消えた。それと同時に木のトレイが重くなるのを弟子たちは感じた。

25分くらいたって、グランド・マスターが声だけで、立ち上がってトレイを持つようにと命じたので、そうするとトレイはまた重くなり、目の前に雲のような人の形が出現し、やがてグランド・マスターの肉体に戻った。

これだけ読むと、奇術の一種に騙されたのだろうと思う人もいるのだろうが、グランド・マスターは、肉体を変成して一時移動させ、また元に変成して戻すという技をやってのけた。

こういうことを師が実演するのは、弟子の側に準備ができているからである。洞窟で共同生活する彼らに奇術を見せるほどの不真面目なところがあろうはずもない。

生も死も同じというからには、そこを超えることを実演してみせようという心意気を感じられる人だけが、この話を評価するのだ。

世間的にはこのエピソードは突っ込み所が満載だが、それを承知でスワミ・ラーマはこのことを公表している。

現代のマスコミではこのことを評価するのは相当に困難ではある。

(参考:ヒマラヤ聖者とともに -偉大な霊性の師と過ごした日々- スワミ・ラーマ/著 ヒカルランドP388、P389)
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クリシュナムルティと肉体乗り換え

2018-08-27 05:36:14 | エクスタシス 夢の夢なる
◎高級神霊路線から只管打坐へ

21世紀も20年になんなんとするが、未だに高級神霊に何かあるように期待している人が多いのは奇妙なことである。

クリシュナムルティは、初期の頃、星の教団にあって、マイトレーヤ=ミロク菩薩の乗り物として自分の肉体を明け渡すということを予定されていた。

クリシュナムルティは、神智学協会で大師とされていた高級神霊クークフーミーにもマイトレーヤにも会ったことがあった。

そしてそのような神智学協会の思惑とは裏腹に、クリシュナムルティは、自分の肉体をマイトレーヤに明け渡し、マイトレーヤの化身として生きることを拒否し、只管打坐の悟りを終生説き続けた。

密教系、クンダリーニ・ヨーガ系にあっては、高級神霊あるいは、先賢に教えを伝授されることは珍しいことではない。そうしたルートですら何を伝授されたかが明らかにされることはほとんどないのであるが。

只管打坐では、大悟を経た後は、マイトレーヤらしくなるわけでなく、その人は自分らしくなる。クリシュナムルティも結局自分らしく生きただけだった。

20世紀にいわば釈迦の再臨みたいになることをペザント夫人とかリード・ビーターは期待したのだろうが、そうはならなかったのだ。

この一件は、肉体乗り換えのトライアルではあったかもしれないが、未遂に終わった。

肉体乗り換えは、誰が何のために行うのか。

個別人間の死とそれに引き続く輪廻転生というのは、それ自体肉体乗り換えのプロセスでもある。それをことさらに生存中にやってみる意義があるのかということには疑問があると思う。
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密教の四転

2018-08-26 06:48:18 | 密教
◎石ころから人間愛へ

密教では修行のステップを四転とする。
曰く
1.発心
2.修行
3.証菩提(悟りだが、証するものがあるので、自分が残っているので、一瞥、見仏)
4.入涅槃(これも悟りだが、モクシャ、ニルヴァーナ、即身成仏)

時にモクシャから出て、人々に親切なことを行う利他行を行うことを方便究竟と呼び五転とすることもある。

この分類の特徴は、自分が残っている境地と自分が既にない境地をきちっと区分していること。

また密教は、人間という視点を離れることはないが、それがゆえに利他行を行う五転が、禅の十牛図の第十「入鄽垂手(にってんすいしゅ)」と同様の位置づけで表れている。

インドでは、もともと四転であり、最後は人間という視点がなくてもよかったのだろうが、中国、日本と渡ってきて、五転という考え方が出てきたのではないかと思う。

モクシャ、ニルヴァーナは、そのままでは「石ころ」なのだが、そこから人間が流れ出す「人間愛」が唐宋の中国、日本ではまだあったということなのだろうと思う。
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人間や世界を知るきっかけ

2018-08-25 07:05:06 | 冥想アヴァンギャルド
◎○元論に惑わされない

親と学校のくびきから解き放たれる青少年の頃、人は多かれ少なかれ人間や世界全体を知ろうと意識する。

進学に就職にあるいは浪人・ひきこもり・家事手伝いとその進路は分かれる。

人間はホロスコープ流に見れば、外的世界と私生活に二分される。生活実感でみれば、肉体で感得できることと、頭の中で考えることに二分される。

少年期以前はこの区分が混沌としている場合が多いが、だんだんその黎明を経て世の中のいろいろなことがわかるのではないかと期待と興奮に駆り立てられ、学問や宗教の世界に入る人もいる。

20代の頃、向いに呂洞賓のことを研究するんだと言っていたフランス人が住んでいたが、彼は今どうしているんだろうか。
本当に自分は20代の頃は全くわかっていなかったと思う。当時その呂洞賓のことは何一つ知らなかったし、今でも彼が何を成し遂げたのかすらわかっているわけでもない。

光と闇のゾロアスターの二元論、古代インドにも二元論あり。易経も陰陽二元。
サットヴァ(純質)、 ラジャス(激質)、タマス(惰質)の古代インドからの三元論、地水火風の四元論(ホロスコープなどもこれ)、それに空を加えた五元論。

だがその五元論は、支那では同じ五元でも五元が陰陽に分かれ十干に転じ十二支をも組み合わせる全く異なったものを用い、黄帝以来の九元(九星)もある。

それぞれの○元論でもって予言する占い者は必死にその正当性、妥当性を主張する。さらに、時に大悟覚醒を経た聖者もその○元論に言及してお墨付きを与えるので、まじめな探究者にとっては何が本当に正しいものかわからないという羽目になる。

現象の世界は、いろいろな○元論があってよいと思う。これは初学の青年たちの好奇心を満足させるために置かれているのと、またジュニャーナ・ヨーガ(知識のヨーガ)へと向かう人々のために置かれているのだろうと思う。

出口王仁三郎の怪しい四元論や、ダンテス・ダイジの時間・空間・物質という妙な三元論もあまりに露骨であり、そういうことに気づかせるトラップなのかなとも思う。・・・覚者は宇宙全体を説明したがる。

○元論は現象の世界、色の世界だが、現代科学の相当部分はそればかり研究している。民主主義で私権擁護が基本だからそうなるのも仕方がない曲学阿世。


何の木の花とはしらず 匂ひかな
(芭蕉)


そして、もちろん世界の仕組みなどということは気にせず、性欲や金のゾンビみたいになる人も少なくはない。
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武器と洪水

2018-08-24 05:14:39 | 冥想アヴァンギャルド
◎ギリシア神話テティスの結婚

テティスはギリシア神話に出てくる海の女神の一柱。
テティスをめぐってゼウスとポセイドーンが争った。

神託の女神テミスがこの結婚の将来について、「テティスがゼウスまたはポセイドーンに身を委ねるときには、ゼウスの武器である電光やポセイドーンの武器である三叉戟よりも強大な武器を持つ息子を生むであろう」と予言した。

テミスはこの予言により、ゼウスとポセイドーンにテティスを諦めさせ、テティスは結局人間の英雄であるペーレウスと結婚することになった。

ペーレウスとテティスの間にトロイア戦争の英雄アキレスが生まれたのはこの後続く数々の大戦争の始まりとなった。これは、人類の正統な成熟プロセスの始まりともなった。

ゼウスとポセイドーンは、核兵器を超える絶滅兵器の出現を回避し、その代わりに人類に長い成長期間を与えたのだ。

ギリシア神話では、この後人類が滅亡する大洪水が繰り返されたことを記録しているが、出口王仁三郎も大洪水がまたあることを予言している。
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ヴィパッサナー呼吸を見つめる

2018-08-23 05:05:02 | 冥想アヴァンギャルド
◎グルの必要性

坐って息を感じる。大方の呼吸法では、吐く息は意識するが、吸う息は無意識のままでよいとされる。

ヴィパッサナー=呼吸を見つめる冥想法は、釈迦はこれで覚醒したとも言われる重要な冥想法。

吸う息は誕生で、吐く息は死。坐って呼吸を感じると、吐いて吸う間に呼吸のない時間帯がある。深まってきて呼吸の回数が落ちると呼吸のない時間も長くなる。

OSHOバグワンは、その呼吸のない時間、すなわち隙間を感じ取ることがヴィパッサナーの眼目だという(新瞑想法入門 和尚/講話 瞑想社P165)。

彼は、息と意識が一つにならねばならない、息とともに内に入り、息とともに外に出ることによりその隙間をつかむことができるとする。

これは、アナパナサティー(安般念)と呼ばれる冥想法。

ところが、呼吸を見つめ続けると、眠れなくなるらしい。そのせいで発狂もしやすいという側面もあるらしい。

そのことはOSHOバグワンが他の本でつぶやいているのだが、新瞑想法入門でも、井上ウィマラ氏の著書「呼吸による気づきの教え」にも大安般守意経にもそんなことは書いていない。

その意味でヴィパッサナーこそまともなグルの指導なしでは危険な冥想法ではある。

だが今の時代は、メディアとスマホ・ゲームで人間精神を操作しまくっている時代。それだけでも容易に人を耽溺と依存と倒錯に追い込みやすいのだが、精神マニピュレイトという点では同類の冥想もグルなしでは危険な側面がある。

グルを求める気持ちの真摯さは、生得のものもあろうが、環境、教育の影響も大きい。そこがなくして真正のグルにも出会えないとほとんどの経典は口をそろえている。
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危機と唯物論者・無神論者

2018-08-22 05:34:23 | 究極というものの可能性
◎喪失する禅的文化・伝統

聖者が生まれる風土というのはあって、地域全体が篤信者が多く、その風土にいると儀式と神話が風俗、習慣の中に根付いていて、無意識のうちに宗教の最高の部分と準備段階の部分を見分けられる知恵を備えることができる。

その一例は、江戸期の日本であって、武士道という禅の名の下に全く見事な無私が当たり前である世界を、第二次世界大戦終了後までの3百年超にわたって現出せしめてきた。

最後は不幸にもその無私の成果を国家神道によって横取りされる形になったが、その禅的文化伝統はいまだに日本人に生活習慣に息づいている。

さて、そのような正統的な神話、象徴、儀式のあるところに、多くは両親早世という無常な生い立ちでもって聖者が登場してくる。

しかしながら現代は、ネット依存、ゲーム依存、ギャンブル依存などあらゆる人を倒錯に釣り込む精神的トラップがいたるところに仕掛けられている時代であって、特に青少年にとっては、まともな精神でいることが難しい時代なのだと思う。

いわば江戸期時代以来のまともな宗教的雰囲気を、快楽追及を標榜した洪水のような手段(マスコミ、スマホ)でもって日夜破壊しているのが今の時代であると言える。

こうして残されるのは、砂漠的な精神状態であるが、快楽追及を標榜することに抵抗なく育った精神は、おおかた唯物論者や無神論者となるものであり、そこに本源的な不自然さを感得する微妙な感受性を持った人しか冥想に向かわない。

このような現代は文明の危機であり、人類の危機であり、唯物論者や無神論者の跋扈するままでは、人類滅亡を免れるのは困難である。

このような殺伐たる環境にある人間を本来の自然に憩わしめるものは、日々の冥想しかなくなった。

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釈迦が罵られた時

2018-08-21 05:30:29 | 冥想アヴァンギャルド
◎それを受け取らない

サンユッタ・ニカーヤでは、釈迦が罵られた場面がいくつか出てくる。

そもそも罵られても罵られる原因がない釈迦ではあるが、それを耐え忍び、反撃せず諭す釈迦という面が出てくる。
(ブッダ 悪魔との対話 /岩波文庫P129-133)

これは不愉快だが、受け流すというどちらかというと人格の練られ具合の話。これは大悟覚醒とは何の関係もない側面の話である。罵られても決して傷つくことのない自分を承知しているし、他方聖者も泣き悲しみもすれば怒りもする。

さて罵った相手を諭すといっても、縁なき衆生は度し難しであり、釈迦といえどもどんなクレーマーをも改心させることなどできない。

非のない相手を罵るような手合いにその罵詈雑言は、釈迦が受け取らなければ自分に返ってくると諭すのだが、わかってくれるのかどうか。

この辺の議論は、やや本質とはズレた議論ではある。
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NHK「ねこねこ55」

2018-08-20 05:28:21 | 冥想アヴァンギャルド
◎野良猫の春夏秋冬

最近NHKで「ねこねこ55」というの魅力を引き出している番組も始まり、猫を飼ったことのない人にも、折からの猫ブームもあって、さらに猫の魅力が知られるようになっている。

猫を飼うといっても犬と同様に15年から20年程度のつきあいとなる。2~3年で飽きたというわけにはいかない。泊りの外出ができにくくなるなどいろいろな弊害も起きてくる。

だから意外に猫を飼っている人は少ない。朝のジョギングで野良猫の変遷を見ていると、パッと猫の顔ぶれが変わる時期がある。今の時期がそう。

昔は深く考えてはおらず、猫は屍解であって死体を残さず亡くなるそうだからそうやっていなくなるのだろうと思っていた。
最近気がついたのだが、それは生息地に藪や繁みがあってそこで小動物を捕獲できる地域の猫の話。

都会の猫はエサを人に頼るしかない。よって都会の野良猫は本当に宿無しであって、主な居場所は実は自動車の下ではないかと考えるようになった。都会猫の死因のほとんどは交通事故と語る人がいるのだが、私も実はそうなのではないかと考えるに至った。

一人の人間が20年間で飼える猫はせいぜい1~2匹。これに対して猫は、1年間で1匹の猫は37匹に増える。篤志の人がたくさんの猫を飼って気の毒な猫を救おうとしても限度がある。

だから野良猫の避妊・去勢は、不幸な猫ちゃんを増やさないためにも必要なのだという結論が出てくる。

出口王仁三郎は、外猫に「お前は〇年だけ飼ってやる」と言って猫に引導を渡すシーンがあるが、最初はなんて無慈悲な応対をするのものかと目を見張ったが、飼育限度をこえた高い繁殖能力を持つ猫のすべてを救済することなどできないと、彼は最初から承知していたのだと、最近わかってきた。

これも死の世界の一側面。日常的に死を扱う職業の人なら当たり前なのかもしれないが、なかなか慣れないものである。

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シャーマニズムの天界上昇

2018-08-19 06:27:46 | 究極というものの可能性
◎アルタイ・テュルク人のシャーマニズム

クンダリーニ・ヨーガでは、チャクラに沿って七つの身体を上昇する。シャーマニズムでも似たような話がある。
アルタイ・テュルク人がそのシャーマニズムで天界を上昇する。

アルタイ・テュルク人は、ほぼ主宰神であるバイ・ユルゲンに馬を捧げる。

シャーマンは、まず馬の魂を捉え馬を残酷に殺す。馬の肉は参会者と立ち会っている精霊たちにふるまわれる。
次にシャーマンは、白樺の木につけられた9つの刻み目を1段ごとに上りつつ、それが、9層の天界を上ることとシンクロしているので、一段上るごとにシャーマンは第一天界から第九天界までその天界で見たものを語る。

シャーマンは第九天界で主宰神バイ・ユルゲンに出会う。
シャーマンはここで持っていた太鼓を落として、悪霊から守ってくれるように天上の神に頼む。またいけにえの馬が受け入れられたかと他にどんないけにえを望むかを尋ねる。

この時点でシャーマンはトランスの極みであるエクスタシー=脱魂にある。このあたりでシャーマンは疲労困憊して、へたりこみ、天界から落下する。

しばらく身動きしなかったシャーマンは目を覚まして参会者たちに挨拶する。
(参考:図説シャーマニズムの世界 ミハーイ・ホッパール/青土社P23,24)

これは、神との一瞥であって合体ではなく、内心に神を保持しながら生活をするスタイルに戻るという点では見るべきものがあり、神に至るまで9ステップあることは、その段階性についてはクンダリーニ・ヨーガ的である。

シャーマニズムにはこの他に冥界下降というパターンもあるが、冥界が段階区分されているものもあればそうでないものもあり、天界上昇ほどポピュラーなものでないのだと思われる。

天国と地獄が結婚するためには、冥界下降も必要だが、それがテーマになるには、より人間の側に成熟が必要であって、シベリアなどアジア北東部のシャーマニズムはそこまで成熟はしていなかったのだろうと思った。
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柳は緑ではなく、花は紅ではない

2018-08-18 06:35:49 | 丹田禅(冥想法8)
◎一休咄から

一休咄(はなし)には、「男根」「女淫(陰)」などというそのものズバリの漢詩まで載っており、真面目でストイックな禅者の度肝を抜く。

人間の余剰エネルギーは、心に向くか肉体に向くかということがあり、心に向いて散乱すれば、退屈や倦怠やあらゆる憂さ晴らし倒錯に向く、他方肉体に向けば性欲に転ずる。

性欲を大悟の推進力に転ずるというのは、古くからのテーマだが、それを真剣に捉える人は少なく、エロ話のネタ程度に考える人の方が多い。

一休咄から。
『柳は緑、花は紅

柳は緑ではなく、花は紅ではない
ご用心、ご用心』

書かれているものや語っている言葉がそのまま真実とは限らず、その行間の方に真実があることがある。

起きていれば、自分の意識はずっと連続していると思い込んでいる人が多いが、連続した意識と意識の間には隙間があり、そこに真理が潜り込んでいる。
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宗教、それで食べている人たちのための

2018-08-17 06:56:38 | 冥想アヴァンギャルド
◎せめて一本の蜘蛛の糸を

宗教は、争いであり、ビジネスであり、金もうけ。

宗教といえばそういう目で見られる。最古のネットワーク・ビジネス(ねずみ講)と言われても仕方がない。

更に戦いや人殺しを是認する宗教はある。キリスト教、イスラム教などは代表格。日本でも戦国時代は念仏教団が軍団となって戦った。古代インドでもバガバッド・ギータでは、聖者クリシュナが王子アルジュナに殺せ、戦えと唆しもした。

こうして何千年をかけて、宗教は、「幸福や真理を与える」というプロパガンダのもとに人間を破壊してきたとも言える。

西洋では、神と人は別物であるという立脚点から、どうしても「人は罪人である」というように意識にハイ・プレッシャーをかけて破裂を狙う修行法をとらせがち。

これに対して東洋では、神と人とはより親和的であり、時に人は神となることも認め、漸進的なクンダリーニ・ヨーガのような道と急速な只管打坐のような二種の道が用意されているが、神と人とは対立的ではない。

このように西洋の宗教と東洋の宗教はアプローチは違うものの、信者数に比しそれほど多数の覚者を出したわけでもなかったためか、
現在では、宗教で食べている人たちの生業のための組織がいわゆる宗教だと思われている。

「私はその組織に金を払うという信心をするのだから、教団の一員であるという安心感としっかりしたブランドをゲットするのだ。」みたいな。これでは、店で有名ブランド品を買うのと何ら変わりはない。

このように宗教は、いわば有名ブランドの一つに落ちてしまった部分がある。

だが、本来の宗教は、個人に対し、安全も成功も富も健康も家族も名誉も定業も長寿も、保証はしない

本来の宗教は、真理、真如、正念がなんであるかを教えてくれなどしない。

だったら人間に救済などないだろう。
そこがスタート・ラインなのである。天国はあるらしい、この世は地獄のようだ。

時に経典を読めば、天国も地獄もないといい、仏教では、地獄は最低、天国は最上。

一方で、天国地獄はおろか、時間などなく、一なるものが変化し続けているだけともいう説まである。

こうして人は、宗教すら信じられず、何が正しいのか、何が善いことなのかすら判断できなくなっている。

さらにテレビ、スマホ・携帯電話の普及で、そういうことを考える余裕も与えられないのが、最近の流行のライフ・スタイルである。

こうした哀れな人々に、せめて一本の蜘蛛の糸を。
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