アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

実践する宗教と仏像・神像

2018-07-31 05:33:00 | 冥想アヴァンギャルド
◎仏像・神像の弊害

仏教でも釈迦入寂後数百年は、仏像はなかった。道教でも当初は神像はなかったが、5世紀末頃から神像が現れた。イスラム教にも神像はない。

古神道は、おかげさまで、神像はない。伊勢神宮内宮参拝時の幔幕が吹き上げられる時の「幕の奥には神像はないのだ」と自覚する時の微妙な気持ちを感ずる人も少なくないのではないか。

行が内側に向くには、神像はかえって邪魔であると感じるのは自然なことと思う。

プロ修行者、出家者であれば、神・仏が自分の外側にあるなどとは思うまいが、そうした素養のない一般市民、俗人にあっては神仏は自分とは別であり、外側にあると誤解する原因になりがちである。

もっとも虚空蔵求聞持法を行ずる堂内にも仏像があったり、ラーマクリシュナのように神像にカーリー女神を見たりするというケースもあるので、ひたすら否定というわけにもいかない。

だが、この自分で冥想をするのが求められる時代に仏像・神像は、弊害の方が大きいと感じられる時期に入ってきたのではないだろうか。
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達磨の壁観

2018-07-30 05:48:09 | エクスタシス 夢の夢なる
◎空すらも棄てる

禅メディテーションには、3種ある。数息観、公案工夫、只管打坐である。今の臨済宗ではあまり只管打坐をしないのかもしれないが、禅の開祖達磨の壁観では、只管打坐が意識されているように思う。というのは、達磨の二入四行論では、坐り方の注意事項が挙げられているが、それを見ると明らかに只管打坐の坐り方が意識せられているように思われるからである。

その注意事項のいくつかは次のようなものである。
1.冥想にあってにとらわれてはいけない。

空の境地ですら、チベット密教でも禅でも到達、通過すべきマイルストーンである。だが空ですらとらわれてはいけないと達磨は説く。
達磨は、改めて「ものは空だ」と説くのは、ものがあるという偏見を除くためであるが、空すらも棄てねばならないとする。

2.『法身は、身体を持たない、だから見ないという見方で法身を見る。
正法は音声を持たない、だから聞かないという聞き方で、初めて正法を聞く。
般若は分別知を持たない、だから分別知を使わないで、初めて般若を知る。』

これを読むと真理・仏法にアプローチする手段などはない。だが、そこに至る坐り方がある。それこそが壁観=只管打坐である。

3.達磨は、『悟らぬ時、人は法を追いかける。悟ってみると、法が人を追いかける。悟ってみると意識が現象を取り込む。迷いにあるとき現象が意識を取り込む。』と言った。
現象は最初から現象としてあるわけでなく心によって現象がある。現象を見るのは心を見ること。

現象は迷いの世界。この論理でいけば、自分こそ迷いそのものである。

壁観では、まことに自分を棄てることを求められるのであるが、そのメソッドと目的に論理的連動はない。それが只管打坐=壁観というものだと思う。

◎エクスタシス 夢の夢なる-84
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-73
◎生の世界から死をクリア-2
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99パーセントは、ロボット、もしくはブタ

2018-07-29 06:06:24 | 道教
◎本物のブタ

自分がブタ小屋から出たブタであることは知らぬが花。だがブタであることに気づいたら本物のブタになるしかない。

ダンテス・ダイジの未刊行の老子狂言の最後から2番目の詩を引用。

『格言5

知らぬが花なのよ、
少なくともブタ達にとっては。
言い古された言葉だが、
民主主義も共産主義も、
衆愚政治に他ならない。
不幸は、
ブタをブタ小屋から出したところから始まる。
現在の人間進化のステップでは、
99パーセントは、ロボット、もしくはブタである。
現文明の崩壊は、とっくの昔に始まっている。
そして、それは逃げるすべのない宇宙的テストでは、あるのだが・・・

ところで、ブタが本当にブタであり、
ロボットが本当にロボットなら、
それはそれで素敵だ。
賢者といい聖者といい超人というも、
結局、本物のブタでありロボットであることに違いはない。
老子よ、あなたは何という俗物なのか!
他のありとあらゆる者と同じように。

産まれて生きて死ぬというのに、
君は
この上、何を問題だというのかね?』

自由な石屋さんものを読むと、現代の大衆は、洗脳された奴隷だったり、マインド・コントロールされた子羊であるというように描かれている。

誤解を恐れずに言えば、洗脳される側と洗脳する側とに大した違いはない。

どうして自分はブタ小屋から出てしまったのだろうか。どうしてアダムとイブは楽園から追放されてしまったのか。

この時代は、人を効率的にブタにするシステムが発達、完備していて、ブタ王なるマスコミが四六時中提供するニュースに、民主主義的なあるいは共産主義的な教育カリキュラム、個人の人権を先験的に認める神なき私権擁護の法体系、そして人間とは肉体人間であるという大前提を疑わない現代科学と、あらゆるブタをブタ小屋の外の柵から逃さない工夫がこらされている。

最近は、世界中ほとんどの人がスマホを持って移動するようになり、スマホこそは窮極のブタ管理マシーンである。スマホを持つ限り、ブタはブタの悲劇から逃れられない。

そうした時代も長くは続くまいが・・・。

最近の洗脳手法はすごい。人を覚めた意識のままでトランスに入らせることなく、言うことを聞かせてしまう。これがアメリカ流の実験心理学の成果というものなのだろう。

意識の側の洗脳と無意識の側の洗脳を効果的に組み合わせれば、人は見知らぬ第三者に金も渡すし、人も殺してしまう。それがオレオレ詐欺であり、オウムの洗脳でもある。
意識の側の洗脳と無意識の側の洗脳のサンドイッチとは、かくの如く恐ろしいものだ。

こうして人はロボットとして生き、ブタとして生きる。意識の側の洗脳とは、偽情報や情報の一部や都合の良い情報しか出さないこと、情報操作。
無意識の操作とは、最初直接本人には関係のない情報として与えるが、恐怖・驚愕・意表をつくなど情動を揺り動かして、本人が判断する時に大きな要素として働く暗示。

さて99パーセントの先には一厘の仕組だが、それは1%の側の話なのか、99%の側の話なのか。


この詩は、ネットで出回っている老子狂言では、最後の詩だが、原作ではこの後ろにもう一つ詩がついている。
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宗派によらない黙照枯坐

2018-07-28 06:46:04 | エクスタシス 夢の夢なる
◎垂直な背骨

黙照枯坐といえば、日本では只管打坐の代名詞だと思われており、日本ではどうしても禅宗の座り方の一種みたいに思われている。

臨済宗の白隠は、黙照枯坐を批判したが、一方黙照枯坐の方では身心脱落という大悟徹底した境地がある。たまたま黙照枯坐で身心脱落というメソッドが中国から日本に伝承されたかに見えるが、それは達磨以降の流れに限定したものでなく、源流はインドにも見える。

バガバッド・ギータから。
『ヨーギは人里離れたところに隠遁して孤独な生活を送り、心と肉体を克服し、願望と執着を捨てて常にアートマンを瞑想しなければならない。

ヨーギの坐る場所は堅固で、高からず低からず、清潔な場所でなければならない。まず神聖な草を敷き、次に鹿の革を置き、その上に布を敷かねばならない(註3)。

ここに坐り感覚と空想をおさえて心を一点に集中させる。このように瞑想すればヨーギの心は清らかになる。

胴・頭・頸を垂直にして不動の姿勢をとり、鼻頭を凝視して内観する。眼を四方に動かさない。』
(バガヴァッド・ギータ/ヴェーダーンタ文庫P85から引用)

いろいろ書いてあるが、不動にして垂直。

道元の普勧坐禅儀では、もう少し具体的。
1.結跏趺坐は、まず右の足を左の腿(もも)の上に置き、次に左の足を右の腿の上へのせる。半跏趺坐は左の足を右の腿の上へのせるだけ。
2.衣服はゆったりしたものできちんとしたもの。
3.右の手を左の足の上にのせ、左の手を右の手のひらの中に置き、両方の親指の先をつける。
4.左右に傾かず、前後に片寄らず、正身端坐。
耳と肩、鼻と臍がそれぞれ一直線上になるように。
5.舌は上の歯茎につけ、唇と歯を着ける。
6.目は開いておく。
7.ポスチャーも固まり、呼吸も整う。
8.思念が起こったら、気をつけて相手にしない。こうして『久々にして縁を忘ずれば、自ずから一片となる』

わかりにくいかもしれないが、上記の4が、背骨を垂直にするということ。

心理状態が座る姿勢を決めるという冥想ならではの発想があることを考えると、背骨を垂直にするとは、実はそれ以上の意味があるように思う。

黙照枯坐での垂直な背骨は、宗派によらず起こってきたし、只管打坐でのように連綿と繰り返し行われてもきた。

◎エクスタシス 夢の夢なる-83
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-72
◎生の世界から死をクリア-1
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虚空蔵求聞持法 行者日誌

2018-07-27 05:38:05 | 密教
◎トランスの50日と現世利益

これは、50日間でマントラ百万遍を唱える行、虚空蔵求聞持法を、満行された方の話。

睡眠3時間で50日を通すのだが、正気を維持できるかというのも一つのポイント。

行中は、まとまった体裁の文章など書けなくてメモの山しかできなかったのを後に整理して本の形にされたとのことで、さもありなむ。

しばしば発生するトランスの中で、もちろん様々な魔にも遭遇するのだが、魔であると認識し、進む。

沐浴の時に鏡もないのに行を行う自分の姿を見て、非常に驚いた。この時肉体から出たようだが、そうだとは書いてはいないが、そういうところだろう。

虚空蔵求聞持法のキャッチコピーのように、満行した瞬間に超聡明になってスーパー記憶力をゲットしたなどとは書いていない。

そういう現世利益最優先でトランスの50日を正気で過ごせるものではないということなのだろうと思った。
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逍遥訣解読-3

2018-07-26 05:37:46 | エクスタシス 夢の夢なる
◎無何有郷=どこにもない場所

太乙金華宗旨の逍遥訣から
『第七句
そして奥義中の奥義をしめす一句がある。

第八句
どこにもない場所こそ真の家である。
(無何有郷は是れ真宅なり)』

呂洞賓の解説では、この二句は、訣中の訣、つまり核心である。常にこれから離れてはだめなもの。いわゆる心を洗い、想念を浄化し、沐浴を行うことである。
沐浴こそは、大周天の奥秘である、と。

沐浴は、太乙金華宗旨の文中に3箇所出てくるが、逍遥訣以外のもう一箇所は、第十二章周天。

第十二章周天では、周天とは気をメインにするものでなく、心で到るもの。周天とは、(もともと動くものへの)サポートであり、無心にして守り、無意にして行う。

更に薬とは有形のものでなく、性光(本性の光)であって、先天の真気であり、これは大定という深い瞑想の境地において必ず現れるものだから採薬という言い方は間違っている、とする。

このように第十二章周天では、個人における薬の現れ方を説明しながら、そんな周天が成功しようがしまいが、自分の立ち位置は常に正位にあって、万物はただちにのびのびとした状態にある、これこそが、様々な内丹経典でいう沐浴であり、これぞ大周天であるとする。

つまり個は一つながりのもの=アートマンに変ずることこそが沐浴であり大周天だとしている。

最後に無何有郷、つまりどこにもない場所とは、OSHOバグワンは、ずばり『今ここ』、時間も空間も物質も誰も彼も一つながりの場所であると、一言で片付けている。

◎エクスタシス 夢の夢なる-82
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-71
◎死の世界からの復活-16
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アンバランスを生きる

2018-07-25 05:12:55 | 究極というものの可能性
◎天国と地獄の両極に振れる

冥想修行者の立ち位置は、奇妙なものだ。
地にあって日々の生業をこなしながら、天にあって苦悩も悲哀もない生活を生きようとする。

そのバランスは常に不安定であり、自分はこの世にも属さず、あの世にも属していないことを自覚している。

一日の大半を過ごす、世俗の世界では、そんなアンバランスの分野のことはおくびにも出せず、ただ家族だけがそのことの気配を感じているだけ。

大悟を経た覚者は、聖性の側だけを生き、世俗の成功を捨てているケースは少なくないが、人間とはもともと両方が実現可能なものだ。西洋錬金術で一つの胴体から太陽の頭と月の頭が出ている人間があるが、それは、聖と俗の両方を十全に生きることが可能であることを指し示す。

現代において冥想をするとは、内的には古い秩序を捨てた身でありながら、未だ新たな秩序をゲットできていない、黒雲の如き混沌を生きるということである。

まだ悟っていないということは、天国と地獄の両極に大きく振れながら生きるということであり、狂気と常に隣り合わせであるということである。

世間には、まともな師匠が稀にいる他、時間のない世界のことを書いた真正のテキストが存在する。それは、太乙金華宗旨、バガバッド・ギータ、釈迦の大般涅槃経、古事記、北欧神話エッダなどであるが、そうしたリアルなテキストを生きようとすると、ともすると人は天と地に分裂し、狂気の闇に陥りがちになる。

この辺が、真正の師匠なしで冥想道を修行するのが危険であると言われ続けてきた所以である。だが、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」や「慧命経」に大きくそのノウハウの一端が開示されているように、時代がその秘密をオープンにするよう迫ってきている。それはリスクと裏腹ではあるが。

さらにメンタルを病む人間の比率が極めて高い現在、その不安定な状況は、天候をも大きく変動させうる心的エネルギーとしても現れており、その意味でもまともな冥想修行が日常化しないということも既に時代の危機であると断言できる。

このところの熱波、豪雨もその現れではあると思う。
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逍遥訣解読-2

2018-07-24 03:18:35 | エクスタシス 夢の夢なる
◎天上に遊び帰って行く

太乙金華宗旨の逍遥訣から
『第五句
水中にそよ風が吹く

第六句
天上(中心太陽)に遊び帰って行き、死の世界の至福(坤徳)を味わう。』

呂洞賓の解説では、この二句は、7チャクラ(北斗七星の柄)と昇降のすべてのプロセスを説く。
水中とは坎である。目がそよ風(巽風)のこと。目光が坎宮に照らし入り、太陽の精を摂召するとはこのことである(坎=水。水の卦は陰陽陰で成り、陰に挟まれた陽が太陽の精)。

天上とは乾宮(サハスラーラ)のこと。
『遊び帰って行き、死の世界の至福(坤徳)を味わう。』とは、精神エネルギーが気の中に入り、天が地の中に入り、火を養うこと。

「天が地の中に入り」についてOSHOバグワンは、神があなたのもとに既に到達した状態と読む。ここであなたは消え失せた、と。

結局、7チャクラをどう昇降するかは書いてはいないが、天が地に入り、坤(地)徳を味わうということで、一つながりのもの(アートマン)は、個なる自分を呑み込んだ。

◎エクスタシス 夢の夢なる-81
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-70
◎死の世界からの復活-15
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逍遥訣解読-1

2018-07-23 06:22:26 | エクスタシス 夢の夢なる
◎日月合体のプロセス

昨夜は、戸外の気温が遂に30度を下回らずに終わった。25度以上は熱帯夜というが、
来るところまで来ている感がある。

火力文明の末路は、風水火の威力を目の当たりにするのだろうと思う。海水面の上昇は、埋め立て地や海浜都市の放棄につながっていくことは、科学者が予想していることであり、似非オカルティストの大予言などではない。


太乙金華宗旨は、気を回していく初めはこうなって、その次はこうなってなどという初歩や中間段階の説明はほとんどない。

いい線を行っているケースに関してのメタファーと、最終段階についての解説ばかりであり、ちょっとかじりたいアマチュアに呈示できる情報とすれば、これが限度と思える。

OSHOバグワンの「黄金の華の秘密」は、英訳で読んでいるようなので、(易経・八卦の素養のない人が訳したみたいで)変な英訳の部分もあるようだが、彼の実地の経験に即した解説であり、参考になる部分も多い。

『逍遥訣

第一句
天心(タオ/玉清)は、魂の逍遥する秘訣を留め下ろしてきた。

第二句
「無為にして為す」の教えとは、精神の働きを集中させて、サハスラーラ・チャクラ(気の穴・金華)に入ることである。』

呂洞賓の解説では、この第一句、二句については、金華の作用の全容である、と。

『第三句
六月に、にわかに白い雪が飛ぶのを見る。

第四句
真夜中に、日輪が輝くのを見る。』

呂洞賓の解説では、この句は日月が相互に交差することを示している、と。



太乙金華宗旨では、目光と耳光を言う。目光は外部であり離火、耳光は内部であり坎水とみれば、離火は、乾陽が純陽に変化し、坎水は、坎陽も上騰すれば純陽に変化するということか。

この火水が合体して、最初はもやもやもくもくと浮いたり沈んだり、恍惚として太虚が無量であるようであって、いわゆる雲千山に満つる状態。

火水の合体の次の段階は、行ったり来たりする痕跡もないままに浮いたり沈んりしても自覚はなく、脈拍停止し、気も止まる。これが合体の本番である。これをいわゆる月が満水を涵(ひた)すという。
これは肉体死の様態である。

更に呂洞賓は、この冥々の時に突然天心が一たび動き出すとする。これが死からの復活。

『六月に、にわかに白い雪』とは、離卦中の陰がまさに陰の極限である坤に帰っていこうとする動き。
一方『真夜中に、日輪が輝く』とは、坎卦中の陽がまさに陽の極限である乾に帰っていこうとする動き。
ここで『坎を取り去って離を填(うず)める』とは、坎陽も乾陽に転じて純陽・金華となることをいうか。

◎エクスタシス 夢の夢なる-80
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-69
◎死の世界からの復活-14
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孫登

2018-07-22 07:11:52 | 道教
◎竹林の七賢の嵆康、讒言で死罪となる

古代中国の隠者孫登字は公和は、汲郡北山の岩窟に住み、夏は草を編んで衣とし、冬は髪を解いて振り乱していた。

平生易経を好み、暇があれば一弦琴を弾じて無聊を慰め、山の崖や水辺にて吟詠長嘯を好んでいた。

性格は極めて寛容で、喜怒の色を顔に現すことはめったになく、例えばふざけて水に突き落とされても、少しも怒る様子もなく却って大声を上げて笑っていた。

三国時代の魏の竹林の七賢の一人である嵆康は、孫登につき従って三年ばかりいた。時々彼にその志すところを尋ねたが一向に要領を得なかった。だが彼の一挙一動を見ていると、何となく俗気を超越して、神気自ずから顔に溢れていたことは感じられた。

さて三年たって孫登の下を辞するにあたって、「今生の思い出に一言の教えを承りたい」とお願いした。

すると孫登は、
「あなたはあの火を知っているか。火はもともと光を持っている。けれど常に光を使用してはおらぬ。何か光を求めるようなものがあって後、初めてその光を用いる。

人もこれと同様に、生来才というものを天から付与されている。しかし賢才はその才を蔵していて、何か時機が来ないと用いない。

火が光を用いる時はまず薪を求めなければならない。薪はその光を永く保存しておく所以のものである。これと同じく、人が才を用いるためにはまず物の道理を知究めなければならない。物の道理を知究めるということは、長くその生命を安全にする所以である。」と。

嵆康は、さらに琴の技の伝授も頼んだが、孫登は、これを許さず、「貴殿は才に富んでいるが学識がまだ足らない。それで時とすると不慮の災いにかかって百年の命を縮めることがあるから、よく注意した方がよい。」と言った。

後に嵆康は、讒言により死罪となった。

古今を問わず、洋の東西を問わず、政治にからむと百年の命を縮めるようなことに会いがちである。

ここは、孫登が立身出世へのアドバイスをするはずもないので、政争に巻き込まれないように地味に生きて、冥想修行をすべきだろうと助言してくれたのだろうと思う。

嵆康は、当代随一のインテリだったが、それに対して、学識が足らぬ、物の道理を知究めていないとは、道を得ていないということ。

人は、自分の内側に入っていくためには何度も失敗せざるを得ないが、その途次で嵆康のような遭難もあり得る。
だが唐代の仏教禁令後の禅僧は山に隠れ、文化大革命以後の求道者も台湾に出たりしたように、修行者は、世の嵐をやり過ごさなければ、その一生の目標は果たせまい。
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不老長生

2018-07-21 06:36:31 | 道教
◎嬉しさの極み・悲しみの極み

日本人の寿命が80歳を越え、介護負担が国民的課題となり、ようやくただの長寿が幸福と同義でないことが知られるようになった。

中国古代の神仙伝説を読むと、俗人が仙人に出会って長生の術を授けてもらい、天上などで歓楽の日々を数日あるいは、数時間送る。そろそろ故郷に帰ってみようかと思って、帰宅してみるとなんと彼の出発から200年も経っており、かれを知る縁者は皆亡くなっており、子孫か古老が彼のことをかろうじて言い伝えで聞いておった、という話が多い。

長生そのものを得ることは難いのだが、たとえそれを得たとしても、それを地上に持ち帰ることなどできない。長生そのものに人間的幸福はないということを示しているのだろう。

それと中国の屍解・昇仙。道士は、最後は金丹を得て屍解し、仙人として白日昇天するのが、これのワン・パターン。だが俗世と比べて昇仙がどのように幸福かという説明はしない。

OSHOバグワンも大悟の実感としては、幸福感の極みと同時に悲しさの極みがあることを『黄金の華の秘密』で明かしている。ダンテス・ダイジも何兆倍ものうれしさと同時に悲しくて悲しくてどうしょうもない、何兆倍もの悲しみという実感であると述べている。

中国は古来民が生きるにはあまりにも厳しい生活水準であり続けてきた。そうした明日の糧をまず思い煩う民を相手に、嬉しさの極みと悲しみの極みが同時に起こるのが覚醒であるなどと説いても全く説得力はなかったろう。

スマホで情報武装した論理的思考の現代人に対して同じことを説いても同じような反応になるだろう。果たして人類は進化しているのだろうか。

古代中国の民が乗る渡し船に余りにもみすぼらしい身なりの人が乗ろうとするのだが、その身なり故に渡し船は乗船拒否する。
ところが乗船拒否されたボロボロなファッションの人は徒歩で川の上を渡って行くので、実は仙人だったということがわかるという話もよく出てくる。

精神的価値を理解する社会というのは、まず食えなければならないが、それだけであってほとんど先に行けていない社会が日本社会だと思う。
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尹喜が老子から道徳経を得る

2018-07-20 05:43:16 | 老子
◎聞き手のレベル

周の時代、尹喜は、眼光人を射る人物であった。

尹喜は、10月に函谷関を聖人が西に通過していくことを望見し、請うて函谷関の関守となった。

数か月後、老子は、果たして函谷関を通過しようとしたので、これを捉えて函谷関に何日か逗留させた。

さて老子が函谷関を去る日、老子は、尹喜の骨相を見るに、無為の妙道に合っていて、遠からず仙道の妙果を得るであろうから、一層冥想修行に励みなさいと言って、老子道徳経五千言を授けた。更に千日後に蜀の青羊に私を訪ねて来なさいと命じた。

尹喜は、言いつけ通り3年間冥想修行に打ち込み、千日目に蜀の青羊にて老子に再会し、印可された。


老子道徳経は、悟り寸前の高弟尹喜があって、文章に落ちてきたもの。音楽のコンサートですら、聴衆のレベルにより音楽は高まったり落ちたりするもの。

覚者は、マンツーマンか少数の弟子向けに説法はするが、不特定多数向けの講演などはまずしないもの。

OSHOバグワンでも、1970年代の講話には、聴衆のレベルが高いせいか出色のものがあるが、90年代に近づくにつれ、講話の中身のレベルは落ちている印象がある。晩年は聴衆に恵まれなかったのだろう。

不特定多数向けの説法は、クリシュナムルティも結構やっているが、平凡なものもある。

宗教、スピリチュアルものの文献資料は無数にあるが、的確に選ぶことも一つの縁であり、努力の結果とも思える。

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突然の喪失から

2018-07-19 05:29:21 | 究極というものの可能性
◎そのタイミングで坐る

東日本大震災では、津波や地震で、ある日突然、多くの人が生命を失い、財産を失い、更に福島第一原発の周辺の人は、自宅に住めないことになり、町ぐるみで故郷を棄てることになった。

同様のことは、阪神淡路大震災で起き、熊本地震で起き、今般の西日本大水害で起きた。すべてを失えば、たった一人でこの世に取り残される。

日本では斯くのごとく、天災が多いから、そういうことに出会ったり、見聞きする頻度が多い。そして、その都度、このことを思い出す。

私は、なぜここにいるのか?
私は、いったい何をしにやってきたのか?
私は、何を学び、何を得、何を知るためにいるのか?
私は誰であって、どこから来てどこへ行くのか。
私のやってきた源は、どこにあるのか。
私のこの世への旅を引き起こしたものは何か。

その時、自分が今までに成し遂げてきたもの、築き上げてきたものは、すべて完全に忘れ去られている。

そのタイミングで坐る。


蛇足:
これは、大災害という他律的な事件を契機にしているが、グルたちは、こういう心理が死の直前に起こることは知っている。

このように死により、家族、財産、地位、名声、権力などは一瞬にして失われることは誰もが皆知っている。だがグル達は、死が意識の連続、想念と想念の連続の隙間に発生していることを見ている。それをして「死は常にやってきている」などと言う。
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オーディンが片目を捨てて知恵を得る

2018-07-18 05:38:09 | 究極というものの可能性
◎すべてを捨てて世界を見渡す

北欧は、氷雪の世界で花は少ないが、トネリコの世界樹イグドラシルがそびえている。イグドラシルの一つの根は霜巨人の世界ヨツンヘイムにも伸びている。

この根のもとにミミルという知恵の泉が湧いている。

オーディンは、窮極の智慧を得るため、神々の世界アスガルドから、はるばるとヨツンヘイムに下ってきた。そこで世界樹の根を伝って知恵の泉にやってきた。

その泉を守る巨人にオーディンは、泉の水を飲ませてくれるように熱心に頼み込み、もし飲ませてくれたら何でも望みのものをやろうと言った。

巨人ミミルは、目を一つもらい受けようというとオーディンはびびりつつ、それに応えた。

ミミルはその目を泉に放り込み、目は泉の底深く沈んでいった。
オーディンは隻眼になりながら、存分に知恵の泉の水を飲んだ。

泉は陰で、死の世界。オーディンが与えた片目は生の世界で陽である。ここに生と死、陰と陽、男性と女性が合体して、世界を見渡す目が生まれた。

世界を見渡す目は、第六身体=アートマンのこと。

片目で世界を見渡すのは古代エジプトのホルスの左目でもある。
アトランティス風のメタファーか。
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真理は光か言葉か

2018-07-17 05:33:47 | 冥想アヴァンギャルド
◎自分の体験としての神、仏、道

真理は言葉では表せない。だから禅で究極を指し示すシンボルは、一円相である。

チベット密教では原初の光明と言い、キリスト教の聖書では、「光あれ」と言ったりするので、何か光の一種であるかのように思わされるが、シンボルとして光を用いるので、真理は光ではない。

また聖書では「最初に言葉ありき」と言い、なにか秘密で特別の言葉があるのかと思わせる。また出口王仁三郎は、この世には言霊ありとし、七十五声が現象を構成するがその根源は、ス字であるとし、空海の説くア字本義は間違いだとまで主張した。

大神、真理は、光ではなく、言葉、言霊なのかという疑問がここで起こる。

OSHOバグワンは、これについて、光も言葉も同じことだと説く。もとより言葉で表せないものを仮に光だ言葉だ波動だと言っているだけだと。

仏教にしてもキリスト教にしても道教にしても膨大な経典があるが、どれも文字・文章・マントラである以上は、それ自体は真理そのものではない。

そこには、〇〇は真理だ、〇〇は神だ、〇〇は仏だと書いているかもしれないが、〇〇を見たことも聞いたことも感じたこともないものをどうやって信じろというのだろう。

知性あふれる現代人はそんなことは信じない。

そこで自分の体験として登場した、神、仏、道だけが確認できるものだという理屈が登場する。

だが、神とは体験ではない、体験とは言えない体験だというのはその先のこと。
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