アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

垂直飛行と水平飛行

2018-06-30 06:31:21 | エクスタシス 夢の夢なる
◎生の世界と死の世界のバランス

七つの身体とは七つの次元であり、これを貫いて飛行することを垂直飛行という。これに対してアストラル体で体外離脱してアストラルの次元のみ徘徊することを水平飛行という。

真正な師匠や、真剣な求道者たちは、水平飛行を全く評価しない。その痕跡は、世界中のあらゆる宗教シーン、文化シーン、オカルト・シーンの中に発見することができる。

ところが、真正なグル・達道の師たちは遠慮なくアストラル・トリップを使用しているから、あたかもアストラル・トリップにも何か前向きの価値があるかもしれないと誤解されやすいのは、注意すべきである。

ダンテス・ダイジもアストラル・トリップを駆使していることに言及し、出口王仁三郎は、実際に肉体で旅行するよりアストラルで行った方が楽だとも語っている。

更にこうした人たちは、アストラル・トリップなどで、マスコミ報道がしばしば事実どおりでないことも知っており、周辺の人が彼らの発言でマスコミ報道にはなかった事件のディテールや未実現(その後実現した)の事件に関する話を聞いて当惑することもしばしばあったという。

さてダンテス・ダイジのクンダリーニ上昇システムの開示により、われわれは、水平飛行に実質的な意味はなく、垂直飛行こそ本筋であると知っている。

古代ギリシアの壺絵には飛び魚が描かれていることがあり、それは水平飛行を揶揄あるいは警告するものである。

OSHOバグワンこれについて更に細かい説明を加えている。

OSHOバグワンは、最初の4つのボディに対応する冥想技法を当てている。曰く、
肉体からスタートするのは、ハタ・ヨーガ
エーテル体からスタートするのは、マントラ・ヨーガ
アストラル体からスタートするのは、バクティ・ヨーガ
メンタル体からスタートするのは、ラージャ・ヨーガ。

これら4ボディは、OSHOバグワンに言わせると水平的であり、第五身体のコーザル体に至るところが垂直移動となる。つまり最初の4つのボディ内での移動は、水平移動だから横超であり、古代ギリシアの壺絵では、トビウオ(水平にしか飛べない)として揶揄される動きにすぎない。

さらにOSHOバグワンは、第一身体から第四身体では、心は下方を向いており、上方を向かない。この状態で、心身のバランスが保たれている。ところが、第四身体(メンタル体)から先を目指す(第四身体からの跳躍)時、はじめて上方を見る(アジナー・チャクラを見る)。

※ババジの挿絵で両目が上を向いていたことを記憶している人もいるだろう。

OSHOバグワンは、初めの4身体を超える前に上方を目指してはいけない。というのは、他のボディは下方に向いているのに一部のボディが上方を向いているということになると、統合失調症を起こしやすいからだとする。

そういう人には中心がない。そこでOSHOバグワンはダメを押す。私たちもそんなものだ。統合失調症と私たちの差は社会に適応しているかいないかの差があるだけだ、と。
(参考:秘教の心理学/和尚/学研P158-164)

無意識とは死の世界であり、アストラル体以上は死の世界に属す。肉体とエーテル体(経絡と重なる)である生の世界とアストラル体以上の死の世界、この七つの次元を同時に生きている我々は、死の世界をかいま見ると精神のアンバランスを起こしやすい。

アンバランスを起こさないためには中心が必要である。その中心は、愛であり、智慧であり、自由であり、力であるが、それを手に入れるためには死なねばならない。

ところが、現代社会は死を忌避する文化であるから、素直に育った人ほど精神のアンバランスに苦しむ。

そこに冥想という解法があり、それは垂直飛行の道である。シャーマンもかもめも最後は垂直に飛ぶ。

◎エクスタシス 夢の夢なる-72
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-61
◎死の世界からの復活-6

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クンダリニー覚醒のプロセス

2018-06-29 03:12:21 | エクスタシス 夢の夢なる
◎宇宙全体のあらゆる現象を知覚

ダンテス・ダイジのニルヴァーナのプロセスとテクニックのP93から105までクンダリニー覚醒のプロセスの2.具体的なプロセスの見出しのみ引用する。

『1.一般的に1~3人の神霊がやってくる。

2.3人のいずれか1人が本人の頭に手をふれる(導師がアストラル体かメンタル体で空中から、本人の封印を切る。)

3.サハスラーラ(頭頂)が盛り上がると同時に肉体は機能停止を起こす(盛り上がり確定)。

4.ヨニ・ムドラーを始める。肉体感覚は消えてゆく。(意識だけでヨニ・ムドラーをやっていることになる)

5.サハスラーラとクンダリニーだけが光っている。

6.クンダリニーの覚醒

7.クンダリニーの各チャクラへの上昇

8.絶対性をもつアートマの光の輪が自分自身であったことに目覚める。

9.コーザル体の離脱

10.アートマンの上昇

11.ブラフマンとアートマンの合一

12.回帰の直前

13.モクシャ(実在、意識、至福)

14.肉体への帰還』

人は、漠然と微細身が上昇して、中心太陽に突入するかのように思い込んでいるかもしれない。だが七つの身体は別の次元にあり、意識は、肉体からスタートし、メンタル体が上昇し、コーザル体が離脱し、アートマンがブラフマンに合一し、モクシャ(実在、意識、至福)に至り、神人合一を遂げる。

一度(ひとたび)は霊肉脱離の境越えて 夜なき国に住む人の身よ。
(出口王仁三郎)

本当に肉体から離脱したことがあるなら、君は、初めて、真に生きる。
(ダンテス・ダイジ))

こうしてすべてのすべてが私自身であることに目覚める。次に言葉で表現することのできないモクシャ(実在、意識、至福)という体験とはいえない体験を経て、肉体に帰還する。

これをまだ体験していない者にコメントする資格はない、と改めて自戒。

◎エクスタシス 夢の夢なる-71
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-60
◎死の世界からの復活-5
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クンダリーニ覚醒の道

2018-06-28 05:58:11 | エクスタシス 夢の夢なる
◎マーヤからニルヴァーナへのジャンプ

ダンテス・ダイジは、クンダリーニ・ヨーガの独修を禁じている。クンダリーニ覚醒実績のある正師につくのが絶対条件とする。その理由は、精神病になる可能性や生死の危険すらあるからである。

その危険で困難な道を極めた一人である釈迦は、クンダリーニ・ヨーギたちから英雄と呼ばれる。

ダンテス・ダイジがクンダリニー覚醒を説くに、まずクンダリーニ・ヨーガの窮極とは何かを寓意で示し、韻文で表現する。

最後は逆転するのだから、ロジカルに全体を説くことなどはできない。だが、七つの身体が七つの次元に照応することを説明し、メンタル体チャクラの重要性に着目する。

そしてルドルフ・シュタイナーの説き得なかったコーザル体の機能についてもクンダリニー覚醒の中できっちり説明してみせる。

次に彼は、坐法を説明し、覚醒のプロセスへと進むのだが、クンダリニー覚醒の説明として、プロセスだけを以て概要とするのは片手落ちであり、大いに誤解を招くだろう。

彼は、クンダリニー覚醒とは、
天国と地獄の結婚すらも超えるところであるものであり、ジャンプ・アウトであると位置づけている。

天国と地獄の結婚すらも超える・・・・・
『苦しみを苦しもう。
楽しみを楽しもう。』
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック/ダンテス・ダイジ/森北出版P54から引用)

ジャンプ・アウト・・・・・
『ジャンプ――――
われとうつし世を超えて、
すべてのすべてであり、
何ものでもない限りない空(くう)に達する。
マーヤからニルヴァーナへのジャンプ
プラクリティからプルシャへのジャンプ
これが、クリヤ・クンダリニー・ヨーガ
大周天
ニルビカルパ・サマディー
シャーマンの呪術的飛行の極点』
(上掲書P55から引用)

◎エクスタシス 夢の夢なる-70
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-59
◎死の世界からの復活-4
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ダンテス・ダイジのクンダリーニ上昇

2018-06-27 05:26:14 | エクスタシス 夢の夢なる
◎ニルヴァーナのプロセスとテクニック

ダンテス・ダイジのクンダリーニ上昇は、「ニルヴァーナのプロセスとテクニック」という薄っぺらい本にきっちりと描かれている。

だがその内容は、深遠崇高かつ奇想天外そのものであって、ほとんどの読者は、ところどころにある自分の理解できる文章をつなぎ合わせて、漠然とした「クンダリーニ上昇の秘儀」に思いを馳せるというところではないだろうか。

知的に理解するだけでも、七つの身体論とチャクラの基礎知識が必要であり、個から全体にどの時点で逆転するのかという間合い、おまけにモクシャという体験とは言えない体験を経て、肉体に帰還する。

この始発駅から終点まで行って、きっちりと肉体まで帰ってこれる一部始終を詳述できるのは、ほとんど人間技ではない。

またその真偽や評価についてコメントできる人間は、同じ体験ができた人間であり、それは、神人合一してかつ再度人間として生きるルートを選択した人間のみである。

チベット死者の書は原初の光を視認することが重要なポイントになっているが、ダンテス・ダイジでは、一歩進んでそれに飛び込んでしまうことが核心であるとし、過去何万年の様々な宗教のエッセンスにあたる部分を惜しげもなく披歴してしまっている。

だから冒頭に、世にクリシュナムルティの言が聞き入れられればこの書を世に出す必要はなかったと慨嘆が出されている。

この書では、肉体死とともにそれが起こり、個なる人は神秘に取り殺され、すべてのすべてが自分として現れる戯れとして帰還することが描かれる。

出版されてから30年以上経過するが、驚異の目では見られるが、まともな批評や追体験記などは一個も出ていない。

◎エクスタシス 夢の夢なる-69
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-58
◎死の世界からの復活-3
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出口王仁三郎の霊魂の輪廻転生

2018-06-26 03:21:54 | エクスタシス 夢の夢なる
◎無限絶対と合一

出口王仁三郎の霊界物語の霊の礎は、彼の霊的人間観世界観を披歴した部分。
以下のパートは大体すらすら読めるのだが、一か所だけひっかかるところがある。

『霊界物語第二十巻
霊の礎(七)

 凡ての人は死して後  天国浄土に昇り行く
 無限の歓喜に浴すべき  人間特有の資質あり
 これ神ごころ大和魂  仏者の所謂仏性ぞ
 そもそも人は色々と  輪廻転生の門を越え
 禽獣虫魚の境涯を  渉りて現世に人間と
 生れ来たりし者もあり  高天原の天人が
 男女情交のその結果  霊子となりて地に蒔かれ
 因縁ふかき男子女子  陰と陽との水火の中に
 交はり入りて生るあり  人の霊魂は至精至微
 過去と現在未来との  区別も知らず生き通し
 幾万劫の昔より  生死の途を往来し
 善果を積みて人間と  漸く生れたる上は
 如何でか高天の天国へ  昇り得られぬ事やある
 アヽ惟神々々  神の仁慈ぞ有難き。』

引っかかるところは、『人の霊魂は過去現在未来との区別も知らず生き通し』という部分である。

本当にそうならば、時間の流れはなく、今ここだけがあらゆる事物を変化させているという世界観であり、そこには時間などない。

この文全体としては善因善果悪因悪果を説き、人は天国的行動をとるべきとするが、霊の礎(三)では、さらりと『天国を自ら造り開くのは、神を愛し神を信じ無限絶対と合一しておかねばならぬ』などと神人合一に言及している。

「いまここ」で、無限絶対とは第六身体であるアートマンの属性である。

改めて冒頭の2行を読んでみよう。
『凡ての人は死して後  天国浄土に昇り行く
 無限の歓喜に浴すべき  人間特有の資質あり
 これ神ごころ大和魂  仏者の所謂仏性ぞ』

無限の歓喜つまり神と合一するためには死なねばならぬ、とも読めるのである。出口王仁三郎は6度死んだと公言している。

昭和の初めまでは、死後楽な生活ができるから善行を行おうなどという理屈で信者をキャッチできていたのだろうが、出口王仁三郎の本意は、そこにはなかったのではないか。ここに死からの復活を前提とする冥想手法が隠されているように思う。

◎エクスタシス 夢の夢なる-68
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-57
◎死の世界からの復活-2
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復活を前提とする冥想手法群

2018-06-25 03:23:53 | エクスタシス 夢の夢なる
◎密教、古神道、道教など

チベット死者の書は、字面だけ読めば、死からの速やかなる蘇生復活はない、一方通行の死出の旅路である。だが究竟次第では、第五ステップに原初の光を置いているので、死からの復活を想定しているのではないかと推測できる。

同様に呼吸停止、心拍停止の死からの復活を前提としていると考えられる冥想法は、古神道の鎮魂、クンダリーニ上昇、道教の出神が挙げられる。

チベット密教の究竟次第で死の8ステップを進み、8番目に原初の光が現れる。ここで肉体をメンタル体で頭頂から脱出すれば、原初の光である「仏=アートマン=第六身体」を目撃するのだろう。
頭頂以外から離脱した場合でも原初の光を見れるかどうかは知らない。
ここでは精密な感性と清明な意識が求められる。朦朧としていてはダメ。

このディテールは、経典に書かれている以外の法則によるのだろうが、それはまずネットなどでは出てこないと思う。

神仏の許しを得た」内容だけが、外部に出るのだろうと思う。そして師弟間の口伝。
こうした伝授の仕方、公開のやり方では、科学的検証などするべくもない。

そして死から復活できるかどうかなど、誰が保証できよう。それこそ神のみぞ知る。だが、死の恐怖を乗り越えてその道を進んだ者たちは、近年でも出口王仁三郎、ダンテス・ダイジ、ババジなどが挙げられる。

もちろん誰もが成功し死からの復活を遂げるわけではない。

◎エクスタシス 夢の夢なる-67
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-56
◎死の世界からの復活-1
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究竟次第について

2018-06-24 07:25:11 | エクスタシス 夢の夢なる
◎利他、死の修行の非社会性

密教修行者にあては、他の人間をよりよく生きさせたいという利他の気持ちが根底にあるものだ。

チベット密教修行での最後のホーム・ストレートは、生起次第と究竟次第。生起次第とは、観想により自分が本尊になること。究竟次第は、究極を究めること。

ダライ・ラマは、これについて以下の説明をしている。

〇生起次第:空性に心を向け、死の8段階のしるしを観想して『本尊ヨーガ』を修める。
〇究竟次第:空性に心を向け、風を中央脈管に導き入れて、より深いレベルの意識をあらわにし、『本尊ヨーガ』を修める。

この二次第によって、あなたは仏陀の境地――――完全なる利他の状態―――に至る残りのプロセスをすべて修めることになります。』
(『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』地湧社P215から引用)

※本尊ヨーガ:本尊の観想を中心とした修行

本尊とは、そのシンボルはいくつかに分かれているが、アートマン、第六身体のことである。

究竟次第については、公開していない本が多いのだが、「チベット密教 ちくま新書  ツルティム・ケサン著 筑摩書房 P151」では秘密集会聖者流の究竟次第を明かしている。

それによると
1.定寂身
2.定寂口
3.定寂心
4.幻身
5.光明
6.双入
の6段階。

5の光明は原初の光。よってここで心拍停止、呼吸停止が起きるのだろうと思う。
6の双入は、ちくま新書では、ほんとうの光明と清浄な幻身を両方同時に成就させることなどと書いてある。だが逆転の雰囲気はない。

だいたい密教系、クンダリーニ・ヨーガ系の秘伝は断片的にしか公開されていないのであって、その理由は公開されることの弊害、悪用の害が甚だしいためだろうと思う。ここもそういう風に読んでおきたい。ダライ・ラマが、ここの説明で、空性を強調するのは、現世利益に陥ることを戒めるためだと思う。


さはさりながら、死ぬことは怖い。パンチェン・ラマ一世の十七偈にも「死の恐怖を克服する勇気」を祈っているが、一方ダンテス・ダイジは「恐怖の恵み」とも言っている。

サッカー・ワールド・カップでもそうだが、アディショナル・タイムで負けていて、その恐怖の真ただ中にあっても、勇気と冷静さを。

死の修行とは、実に現代人の想像を絶したものであり、本質は弱肉強食ながら私権と法治が優先するこの民主主義社会では、大いに誤解され迫害されがちな素地を備えている。

それでも真摯なチャレンジャーは少数派だがいる。

◎エクスタシス 夢の夢なる-66
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-55
◎死のプロセス-9
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一方通行の死と死からの復活

2018-06-23 06:47:01 | エクスタシス 夢の夢なる
◎すべてを棄てる

説明の舞台は、チベット死者の書では、一方通行の死。
これに対し、一般的な大悟覚醒シーンでは、死とそれからの復活再生が舞台となっている。

死にゆく人の修行法であるチベット死者の書のテクニックを生ける修行者に適用しようとするのはなぜだろうか。

およそ冥想手法には2種類あり、生の側から極める行き方と死の側から極める行き方。

只管打坐は生の側から窮めるのだが、生の側をクリアすることで死の側もクリアできるというベクトル。これに対して、クンダリーニ・ヨーガや、チベット密教は、死の側をクリアすることで結果的に生の側もクリアしようとするベクトル。

ダライ・ラマがパンチェン・ラマ一世の十七偈で、死の世界との取り組み方を『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』という本で解説しているのだが、その概要は次のようなものである。

死の側をクリアすることで、今生、中有、後生での恐れから解き放たれる。

生の終わりは死であり、それは必ずやってくる。冥想修行をおろそかにし無駄にできる時間などない。

いまわの際に肉体がいよいよ動かなくなり、蘇生の望みもなくなったときに、師の教えを思い出しなさい。しかしその道は簡単ではなく危険な道でもある。

死である肉体から離脱しようとするときに、
『この世には実体がないと見られないことから発する苦悩』を脱するべきである。

その道での最後の障害は、認識するものと認識されるものが別であるという誤解である。

その時に輪廻と涅槃の空性を悟り、自分の真実の姿を悟る。

・・・・・・

ダライ・ラマは、原初の光(母光明)を感知するだけでなく、それを高い境地の意識に変容できると説く。

このパンチェン・ラマ一世の十七偈では、自分があって意識があってボディがあってという調子で書かれているので、逆転は示唆されていない。

だから、これは専門修行者向けのテキストではあると思う。
ただ文字通り今生の終わりを最大の修行目標として修行を進める修行法であることを改めて確認した。

死の後に再生復活を保証してくれているのであれば、それは本当のすべてを棄てるとかあらゆるものに別れを告げるということにはならない。
死においてすべてを棄てるとは、復活の期待なしに本当にすべてを棄てるということである。

イエス・キリストの悪影響か、修行すれば死んだら復活できるみたいなことを漠然と思う人が多いのだが、死というものに復活という付帯条件などはついていない。本当に死んで帰って来ない。

その覚悟の上で、いまわの際のファイナル・ステージの原初の光にすべてを賭けようという不退転のワン・ウェイ。これが死の修行ということなのだろうと思う。

チベット密教の修行で、どうして生に帰って来ないのだろうと思うのは、いわば邪念なのだろうと思う。チベット密教者の修行に向かう純粋さは、そこなのかなと思う。

だが、この部分こそが現代人に最も理解しがたい部分ではある。

◎エクスタシス 夢の夢なる-65
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-54
◎死のプロセス-8
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OSHOの父の死

2018-06-22 03:14:43 | エクスタシス 夢の夢なる
◎第七の扉から飛び立つ

死に際して、肉体からメンタル体で離脱する時にサハスラーラ・チャクラから出ることだけが、窮極に到達する可能性を持って出ることになる。

それをチベット密教とは関係のないOSHOバグワンが実証しているエピソードがある。それがOSHOの父の死。

クンダリーニが、頭頂(サハスラーラ・チャクラ)を通過しなかった場合は、左右いずれかのイダー管かピンガラー管を通じてその他の開き口(へそ等)を通って去っていく、(チベット死者の書)そうなので、OSHOの父のケースでOSHOが言及しているように、たとえアジナーから肉体を出たとしても、窮極に至る可能性はないことになる。

OSHOは、父の死体を点検して、父が肉体をサハスラーラ・チャクラから出たことを確認して、二度と輪廻転生しないと語っており、再びの肉体への帰還はないことを良しとしている考え方がうかがえる。

OSHOは、死の瞬間に無意識に陥ることなく、完全に醒めたままで死ぬことができれば、死のあらゆる段階を目の当たりにするとも指摘しており、これは、チベット密教の考え方と一致している。

死の世界とは、無意識の世界のことであるが、その行き着く先は、人間の生は死の世界(スピリチュアルな世界)の一部分であることを知ることで、死の恐怖から解放された、余計な緊張感のない、素直で自然な人生を送ることである。それが本当の意味で当たり前の人間として生きる姿であろう。

だが、それは、霊能力や超能力の有無とは全く関係のない流れの先のこと。

「わたしは父のからだに二カ所触れた。ひとつはアッギャ・チャクラだ。というのも、可能性はふたつしかなかったから・・・・。彼がアッギャ・チャクラを通って肉体を離れていたら、もう一度生を受けなければならなかったろう。もう一度だけだ。しかし、もし彼が第七チャクラ、サハスラーラを通って離れていれば、もう生を受ける必要はなかった。

まず私はアッギャ・チャクラを調べてみた。ちょっと心配しながら、手をアッギャ・チャクラに置いてみた。そこを通って生命が離脱するチャクラは、つぼみが花へと咲くように開くものだからだ。そしてチャクラの経験がある人なら、触れただけで即座に生命がどこから出て行ったかを感じとることができる。彼の生命がアッギャ・チャクラを通って行っていなかったので、私はとてもうれしかった。

それから次に「千枚の花弁のハス」としても知られるサハスラーラにさわってみると、それが開いているのがわかった。彼は第七の扉から飛び立って行ったのだ。」
(反逆のブッダ/ヴァサント・ジョン/メルクマール社P297-298から引用)

※アッギャ・チャクラ:アジナー・チャクラのこと。

◎エクスタシス 夢の夢なる-64
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-53
◎死のプロセス-7

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メンタル体での離脱

2018-06-21 03:36:48 | エクスタシス 夢の夢なる
◎頭頂からの脱出

チベット密教では、死に際しての頭頂からの脱出を最優先とする。これぞメンタル体の重視である。

チベット死者の書では、中有に入った後も、いろいろとチャンスがあるという書きぶりで再誕生までの出来事を記述してくれているが、悟りを得るという観点からは、一旦中有に入ってしまえば、もう一度一から人生をやり直すしかないということになり、再誕生までの途中に悟りのチャンスはほとんどないのだろうと思う。要するに死んで中有に入ったら求道トライアルとしては、実質的に失敗なのだと思う。

よって、ハイ・レベル修行者として、メンタル体でサハスラーラ・チャクラから肉体を離脱できるかどうかが最大の関門であると、チベット密教は見ていることがわかる。

というのは、チベット死者の書の冒頭に、頭頂であるサハスラーラ・チャクラからの離脱サポートテクニックが置かれているからである。


○メンタル体での肉体離脱のサポート

『喉の左右の動脈の動悸を圧迫せよ。またもし死に赴く者が眠りにおちいろうとするば、それは妨げられねばならない(←意識を清明に保つための工夫)。そして動脈がしっかりと圧迫されるべきである。

そうすることによって、生命力(クンダリーニ)は、中枢神経(スシュムナー管)から帰って来ることができず、ブラフマの開き口(サハスラーラ・チャクラ)を通って逝去することは確実である。』(チベット死者の書)
(※スシュムナー管は背中を通る3本のエネルギーコードの中央の1本。)


〈参考〉
○アストラル体での肉体離脱

残念ながらクンダリーニが、頭頂(サハスラーラ・チャクラ)を通過しなかった場合は、左右いずれかのイダー管かピンガラー管を通じてその他の開き口(へそ等)を通って去っていく。(チベット死者の書)

これはアストラル体での肉体離脱だろうと思う。そして、これが大多数の人の死後のルートであると考えられる。この後、輪廻転生の通常ルートに流れていく。チベット密教ではこれを『無知の状態で死ぬ』と呼ぶ。

フツーの人においては、「(8)光明」は指を鳴らす時間しか続かないともいう。「(5)顕明 (6)増輝 (7)近得」は、指を3回鳴らす時間しか続かないとされ、光明(原初の光)が消えてから3日半は無意識の状態に投げ込まれる。

◎エクスタシス 夢の夢なる-63
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-52
◎死のプロセス-6
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死と神仏とのコンタクトあるいは神人合一

2018-06-20 03:32:12 | エクスタシス 夢の夢なる
◎原初の光という神仏

死と神との接点については、要点は次の点。

自分という個は、最初は神あるいは仏とは別なものである日常に始まる。

これが神あるいは仏を見るあるいは感得するという一瞥あるいはコンタクトという神仏を認知する状態がある。

さらに深化した状態になると神仏と自分が一体化した状態、換言すれば、全体である神仏が自分として表れている状態となる。

以上のように人間と神仏の関係性は、3種類ある。禅の十牛図でいえば、それぞれ第一尋牛第三見牛第七忘牛存人に該当する。

神仏の相には、有と無があり、有が第七忘牛存人、無が第八人牛倶忘

人の死に際しては、チベット死者の書の分析によれば、8段階の死のプロセスの最後に原初の光明といわれる永遠不滅のものが登場する。これが神仏である。

ほとんどの人はこの原初の光明を感知することはできないが、万人がこの大悟のチャンスに遭遇していることは間違いない。

つまり死のプロセスは、すべての人間に対して神仏と直接コンタクトする機会を提供しているということ。死は神仏との出会いである。

熟達した冥想修行者は、原初の光明を神人合一にまで高める。だが、多くの人は、そこを無意識のうちに気づかぬうちに通り過ぎる。

ただしこれは、死の入り口の部分のことを語っているに過ぎず、現代人に対して死の真価を解くためには、死のポイントから万有が、愛、知恵、歓喜、力、自由をもって展開していくことを述べないとならない。

チベット死者の書は、最初の原初の光を取り逃がした人に対しても懇切丁寧に対応する方法を案内している。

◎エクスタシス 夢の夢なる-62
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-51
◎死のプロセス-5
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チベット死者の書での死-2

2018-06-19 03:05:23 | エクスタシス 夢の夢なる
◎本物の死のプロセス-2

呼吸が止まって、心臓も止まったところから、肉体と意識が分離する直前までです。

2.内なる溶解
(5)80の概念からなる粗いレベルの意識がすべて溶解すると『鮮やかな白い心』(まばゆい光にあふれた秋の空)が現れてくる。(顕明)

※80の概念からなる粗いレベルの意識とは、五感と五感よりやや深い程度の、思考を伴う粗いレベルの意識。五感、恐怖、執着、飢え、渇き、喜び、驚きなど。

(6)『鮮やかな白い心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな朱色の心』が現れる。真っ赤に輝く太陽のように見える。(増輝)

(7)『鮮やかな朱色の心』とそのプラーナ(ルン、気)が溶解すると、『鮮やかな黒い心』が現れてくる。次第に真っ暗闇になる。(近得

(8)プラーナ(ルン、気)の動きが弱まって、もっと微細なプラーナが起きると、失神したような状態は消え去り、まばゆいばかりの透明な光、もっと微細な『光明=原初の光、一切空』が現れてくる。

これは、別名母の光明と呼ばれる。これとは別に観想法の修行(イメージ・トレーニング)によって類似の窮極のイメージを培っている場合があるが、これを子の光明と呼ぶ。そして母の光明に子の光明を合致させることが、チベット密教の修行の目的になっており、これは空を悟る高い意識とされている。

この段階は、意識のポジションが肉体から出ていないことが特徴である。なんとなれば、肉体と意識の分離はこのあとで発生するからである。

従ってここで見ている母の光明とは、メンタル体から、窮極(中心太陽、神、仏)の属性を見ていると考えられる。換言すれば、『原初の光』は、窮極(中心太陽、神、仏)そのものではないかと考えられる。

『原初の光』はチベット密教最大のポイントである。

◎エクスタシス 夢の夢なる-61
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-50
◎死のプロセス-4
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チベット死者の書での死-1

2018-06-18 03:02:00 | エクスタシス 夢の夢なる
◎本物の死のプロセス-1
 
まず最初は、五感の感覚がなくなり、呼吸が止まるまでのプロセスです。これは、ゆっくりと死が訪れる場合は、どんな人にも平等に起こる部分です。

ただし意識がはっきりしていること(清明であること)、肉体をメンタル体で離脱することが、この後のプロセスで『原初の光明』(神、仏、窮極)に出会う絶対条件となります。

1.四元素と五感の溶解

(1)地の元素が衰え、水に溶け込む。(陽炎)
身体から力が抜けぐったりする。
視界が暗くなって、ものの輪郭がぼやけ、目を開けることも閉じることもできなくなる。
陽炎のようなものが見える。

(2)水の元素が衰え、火の元素に溶け込む。(煙)
快さも苦しみも感じなくなる。
唾液がでなくなり、口、喉がかわく。
音も聞こえず、耳の奥のかすかな耳鳴りも止まる。
漂う煙が見える。

(3)火の元素が衰え、風の元素に溶け込む。(蛍)
生前善行が優位の人は、下半身が最初に冷たくなる。生前悪行が優位の人は、上半身が最初に冷たくなる。   
匂いを嗅ぐことができなくなる。
呼吸が苦しくなり、吐く息がだんだん長くなり、吸う息がどんどん短くなる。
鍋底で光る火花のようなものが見える。

ソクラテスも下半身が最初に冷たくなった。ソクラテスは、人が何人かいる前で、毒を飲まされて、死のプロセスが進行している最中に、『まだ足に感覚はありますか』などとテレビの突撃レポーター並の取材を受けているのだから、お気の毒としか言う他はない。(プラトン/パイドン)


(4)風の元素が衰え意識に溶け込む。(燈明の炎)
身体を動かすことも、肉体的な接触も感じられなくなる。
鼻を通る息は、止まります(呼吸の停止)が、エーテル体の息はある。
燈明や松明の炎のようなものが見える。

呼吸が止まれば心停止するので、(4)は、世間で言う死のこと。でも続く以下の記述を見ると身体反応はできないけれど、意識は残っている。

※『チベット死者の書での死』で参考とした本
『ダライ・ラマ 死と向き合う智慧』地湧社
『三万年の死の教え』中沢新一/角川書店
『チベット死者の書』講談社
『チベット生と死の書』ソギャル・リンポチェ/講談社
『ゲルク派版チベット死者の書』学研M文庫

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◎死のプロセス-3
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死の際の幽体離脱

2018-06-17 03:37:06 | エクスタシス 夢の夢なる
◎霊になっても孤独は変わらず

死のプロセスについては、いきなりチベット死者の書ではなく、四国のリモート・ヴューアーがバス転落事故の死者たちの死のプロセスを描写した丹波哲郎の「霊界旅行」を見てみたい。

丹波哲郎の「霊界旅行」で紹介されている事例は、光の存在に導かれて、バスが崖から転落した事故で死んだ25名のあの世での一人一人の消息を追う様子を描写して、霊界、地獄界の実情を明らかにしようというもので、霊界好きの人には恰好の読み物になっている。

日本霊異記からスウェデンボルグ、霊界物語まで、霊界紹介ものは数多いが、その手っ取り早い位置づけは、「人間は肉体オンリーの存在である」という先入観を払拭するヒントになるということ。

というのは、霊界にあっても、人間は個人としての霊から抜けられない。つまり霊界においても、自分は他人とは別であるという実感が変わらないからである。自分が他人とは別である限り、神と人とは実は同一である、という自覚は絶対に起こらない。

さてバスから転落した一女性の死の推移を某氏は、リモートビューイングした。

『ふと気が付くと、彼女のつぶれた肉体から淡い煙のような、蒸気のようなものがモヤモヤ立ち昇っていました。そしてその煙ようのものは、そこでグルグル渦のような運動をしながら、灰白色の球のようになりました。

さかんに活動するその灰白色は光を放ちながら、次第に濃縮して密度を増しているのに、その容積は反対に大きくなるんです。

そしてこの煙のような蒸気の如き物質がたえず彼女の横たわった肉体の方から供給されているのでした。

この肉体から放出される煙状の流れは、直径10センチ位で、空間にかかる球は徐々に大きくなり、かつ変形しつつ、ついには五十センチ、1メートルと大きな卵形となりました。

淡灰白の半固体状で、さかんに活動しているうちに、次第に人間らしい各部分ができかけてきました

まず腰部、そして首のあたりと、やっと人間のかっこうになってきたんです。

僕が目を見張って驚いているうちに、いつも見なれている南川弘子の完全な姿になったのです。彼女は事故の前と少しも変わらない姿で浮かんでいました。』
(霊界旅行/丹波哲郎/中央アート出版P95-96から引用)

これは、肉体外へのアストラル体の形成というようなものだろうと思うが、死はこのように進んでいくのである。

この光景をリモートビューイングした人は25人の死者全員を見たようだが、それだけでも相当な練達の士であると思う。彼は死者たちが、あの世で人生全体のパノラマ再生を大画面で見るところまで確認したのだった。

◎エクスタシス 夢の夢なる-59
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◎死のプロセス-2
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死のプロセスへ

2018-06-16 03:32:01 | エクスタシス 夢の夢なる
◎覚醒と一般的な死

人間の輪廻転生は、第六身体と不可分であることを見た。

それは、この時代には、死や縁起が悪いことを直面、直視することを避ける心性にあっては、常識はずれのものであり、生活実感からかけ離れたものであり、理解や想像することすら骨が折れることでもある。

それでも事の真相は、その方向にしかない。

そうした理解が真実であることを確認するため、一般的な死のプロセスを概観してみる。

そして、輪廻転生というものをほとんど卒業しかけた人々にとっては、意図的な呼吸停止、脈拍停止の先に、その肉体に再び帰するやり方と、そして現肉体を捨て他の肉体に乗り換えるという手法すらあることなども紹介する。

一旦肉体死を経てその肉体に帰るのは、クンダリーニ・ヨーガでのクンダリーニ上昇であり、道教における出神である。いずれも大悟覚醒。

これらは、いずれも神知る者たちに許された技であり、俗人の容易に手を出すところではないが、人間の自由というものを考える上で、人間は最後肉体というくびきや自分の運命というくびきからすらも自由であることの証明ではある。

そして通例、肉体死では、人は悟るものではないことが知られているが、一般的な死のプロセスでは、どんな人にも何回かの大悟との接近遭遇チャンスがあることもチベット死者の書は明かしている。

◎エクスタシス 夢の夢なる-58
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◎死のプロセス-1
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