アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

肉体死、自我の死、あらゆる宇宙の死

2018-04-30 06:25:34 | エクスタシス 夢の夢なる
◎肉体死、自我の死、あらゆる宇宙の死

死とは、狭義には肉体の死のことである。人は孤独にあって、スマホ・モバゲー・テレビ・酒など何か気晴らしをせず、居眠りもしないのであれば、自分の生のことを思い、死のことを思う。

しかし、この時代にあっては、自分と向き合うことは、生活習慣的に忌避されるように仕組まれていることから、自分と向き合うことは不慣れだったり、ぎこちない感じがするかもしれない。

さて、人が向き合うべき死とは第一義的に人間の死であるが、自分にとっての肉体死がほとんどの場合、大悟覚醒とは連動しないことを見ると、肉体死ではなく自我の死というものがどういうものであるかということと、自我の死とはあらゆる宇宙の死でもあるそうだから、あらゆる宇宙の死というものを説明しなければならない。

◎エクスタシス 夢の夢なる-13
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-2
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進化した肉体と感性

2018-04-29 06:25:53 | エクスタシス 夢の夢なる
◎進化した肉体と感性

かくして、現代文明あるいは現代人のウィークポイントは、天国と地獄の結婚、つまり神とコンタクトできていないことであることは、万人が内心認めるところとなっている。

この精妙な感じのあることが、現代人の肉体は、神を迎えられるほどに進化したと言われるところなのだろうと思う。

この肉体進化により、天津金木、易、おみくじ、占星術など器物・媒介を用いなくとも今世界に何が起きており、未来に何が起きるのかですら感じ取れる人が多いのだと思う。

明鏡止水、平静さと先入観なく、意識が清明であり、昏沈でない。こうした意識の部分があって、初めてそういうことができるのだろうと思うが、それがアカシック・レコードにコンタクトするということである。

アカシック・レコードは、個人的潜在意識からのアクセスは時間がかかるが、アートマンつまりダイレクトにアクセスするとリアル・タイムでアクセス可能だそうだ(ダンテス・ダイジ)。

個人的潜在意識からのアクセスとは、霊がかりであり、人が普通にものを思い出すやり方ではあるが、前世記憶などにさいしては、この時代にあっては慎重に排除すべきやりかた。

かくして肉体の準備は整えられ、天国と地獄の結婚の成就を待つばかりなのだが、結婚相手の様相は、不気味に見える。それはこの文明においてタブーとされている「死」を受け入れるということだからである。

現象・現実には、生があり、朗らかで、楽しく、愉快で、ほっこりする部分があれば、死や滅び、病気、老化、腐敗、消滅もあるが、後者については、気分がふさいだり、うつっぽいので、しゃべったり、表現したりすることは、極めて少ない。これが、現代風というもの。

◎エクスタシス 夢の夢なる-12
◎現代文明あるいは現代人のウィークポイント-1

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世界の裂け目 冥想編

2018-04-28 06:17:20 | エクスタシス 夢の夢なる
◎意図的人為的アプローチ

以上偶発的にスピリチュアル・エマージェンシーが起きるケースについて述べたが、これに対し意図的人為的アプローチがある。

人間が幸福と悲惨の両方に同時に対峙するやり方には、その内的圧力をどんどんガス抜きしていく方針と、逆にその矛盾から来るところの内的圧力を極限まで高め破裂させていく方針がある。

冥想手法には両方のやり方が見られるものである。だが前提として一人の人間はたった一つの冥想法ばかりやっているものではなく、複数の冥想手法を組み合わせて取り行っているのが普通(メディテーション・コンプレックス)であることも念頭に置かねばならない。

どんどんガス抜きしていくやり方は、たとえばクンダリーニ・ヨーガであり、只管打坐である。それに対して内的圧力を破裂させようとするやり方は、例えば公案禅やキリスト教の行き方である。カトリックでは、その中間段階として「暗夜」に着目しているのがその証拠みたいなものだろうと思う。暗夜からの逆転を図るのだ。


冥想手法には向き不向きや好みというものがあり、また冥想以外にも芸道、武道などを通じてその境地に至ることもできる。

つまり人為的意図的に、最終的なダブル・スタンダードに至る手法には次のようなものがある。

1.継続的な努力、精密な仕事を積み重ねる(事上磨錬)
2.お題目や念仏、無字などを死ぬほど唱え続けたマントラ・シッディ
3.空や無常の観想法
4.ひたすら人間の死体に直面させる不浄観
5.現実を直視することにより人間として生きることの不条理に直面させようとするもの(禅)
6.すべてを阿弥陀仏、カーリー女神などの太母の前に帰依し投げ出すこと。
7.呼吸を見つめる(ヴィパッサナー)
9.合気道
10.茶道
11.剣道

こうしたやり方は、もとより黒でも白でもないが、現代では自分のメリット、自分の利益のためにこういうものをやろうとする動きがあまりにも激しく、それでは地獄行きとなるか、はずれてしまうかする。

目的や期待を持たず坐ることが基本。

◎エクスタシス 夢の夢なる-11
◎天国と地獄の結婚-5

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誰でも適度の分別をもつのがよい

2018-04-27 03:38:50 | 冥想アヴァンギャルド
自分の運命を前もって知ってはならない

『小さな湖にはわずかばかりの砂しかなく、人人の分別も同じようにとぼしい。人々はひとしく賢いわけではない。世間はどこででも賢者愚者の二つにわかれている。

誰でも適度の分別をもつのがよい。もちすぎてはならない。多くのことを知りすぎる者は、たのしく世を送れない。

誰でも適度の分別をもつのがよい。もちすぎてはならない。あまりに分別をもちすぎれば、心の晴れることはない。

誰でも適度の分別をもつのがよい。もちすぎてはならない。自分の運命を前もって知ってはならない。知らなければ、心に憂いはない。

薪(まき)はもえつきるまで、ほかの薪によってもえる。火は火により、人は人により活気づく。会話をまじえるうちに物知りになるので、つんとだまったままでは利口にはなれない。』
(筑摩世界文学大系 10 [中世文学集] エッダ 筑摩書房P21から引用)

ブログを始めないでいれば、もとの暗愚のままだった。ブログを書くことで、どの程度自分がわかっていないかを見極めることが徐々にできていった。

人生上の悲惨なこと、残酷なこと、無慈悲なことは、あまり知りすぎると殺伐とした気分になり、生活も荒れがちになったり、性格がひねくれるものだから、世間の目からは隠されていることが多い。

知らなければ、心に憂いはないが、老いと死からは逃れられない。
知れば心に憂いはあるが、モチベーションあるいは燃え盛る生のエネルギーがあれば、老いと死に向き合い、それを超越するチャレンジが起こる。

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幻想を捨て無慈悲な現実を受け入れる

2018-04-26 05:48:49 | エクスタシス 夢の夢なる
◎自分の準備

その平易な原理を受け入れるのは自分である。

世界の裂け目の偶発的きっかけは、外的要因だが、次に、内的なもの、自分の準備こそが問われる。

すなわち、準備ができているかどうか、時期が熟しているのかどうかということが課題となる。

逆に準備ができていないならば、それは起こらないということでもある。
恐怖の到来におののく人に、耐えられない出来事は起こらないと優しく語りかけるのもその裏返しの表現である。

一般にそれは向こうから来る。

大地震などの大災害は、その被害を受ける人が悟った人か悟った人でないかなどおかまいなしなものだ。

だが神話、伝説、伝承などでは、日々善行を積み神を知っている人だけが大災害を切り抜けるみたいな風にまとめていることが多い。それは、不安におののいいていない平時の読者向けに切り口をやさしく見せているだけというところがあるように思う。

だから禅語録の代表格無門関でも第二則は、因果は昧(くら)ますことができない、つまり「因縁からは逃れられない」になっている。

全く耐えられない現実に直面すると、人は次のような反応となる。

1.現実とはこんなものではないと、起こったことを例外的な不運と考えて、いままでどおりの現実感で生きようと頑張る。

2.起こったことに心を閉ざして無反応になる。

3.その出来事に困惑するあまり、足元の大地が崩れるなど自分の立ち位置を喪失し、発狂したり、自殺したりする。

4. 幻想を捨て現実を見て、その無慈悲な現実を受け入れる。

この4が天国と地獄の結婚に至る道だが、その選択肢を採るには、準備が必要になる。

そして戦争や大災害は、一見、人の準備の有無にはおかまいなしに発生するもの。

東日本大震災の直後にアメリカの覚者ケン・ウィルバーは、オープン・マインドを呼び掛けた。現実に直面しなさい、直視しなさいということ。

それは感情的に困難な道だが、超克するかどうかもわからないのに悲惨な現実に目を向けよとは、「今ここ」「天国と地獄の結婚」を見ている超越者からの的確なアドバイスだった。

◎エクスタシス 夢の夢なる-10
◎天国と地獄の結婚-4

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世界の裂け目 偶発編

2018-04-25 05:24:43 | エクスタシス 夢の夢なる
◎きっかけ

世界の裂け目には、次のようなものがある。

・突然肉親を奪われるというような不条理。両親早世。
最愛の人の死やペットロス
・突然の災害ですべてを失う
・霊能力の開顕、心霊体験
 アストラル・トリップ(ヘミシンク)
・統合失調症における変化した世界観
・ドラッグ

さらに、くしゃみ、失神などもその一種に挙げられる。

くしゃみは何日かに一回はするものだし、ペットロスの人は結構いるものだし、天災の被害者は少なくないし、霊能力者も統合失調の人もそこそこいる。

だがそれはきっかけに過ぎず、そうした状況に立ち至った大概の人が、二元を超えて、神を垣間見るということになるわけでもない。

禅ではそこに注目して、どんなきっかけで大悟するかを記録しているのだが、小石が竹に当たったり、暗闇でろうそくを吹き消されたり、花の咲くのを見たり、座っていて後ろに倒れたりなど、日常でありがちな出来事が並ぶ。

きっかけあるいは、シチュエイションは、それが発生する要素には違いないのだが、いくつか必要であるピースの一個に過ぎない。

あるいは、それはその時発生しているのだが、それを毎度取り逃がしているのかもしれない。

だから本当はきっかけそのものの深浅高低を論ずるのは意味がないのかもしれない。

けれども世界の有名覚者の一生を見ると釈迦にしても道元にしてもOSHOバグワンにしても肉親の早世という深刻なシーンがほとんどあるものであり、彼らはそういうスタートを意図して選んで出生してきたことは見逃すべきではない。

きっかけそのものの軽重は問えないというものの、ノンデュアリティ・天国と地獄の結婚への道は理不尽、不条理の先にあるものだろうってことを覚者たちは先刻承知だということ。

この辺が、原理は単純だが、それを人間が現実に受け入れるのは、なまなかなことではないということでもある。

◎エクスタシス 夢の夢なる-9
◎天国と地獄の結婚-3
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原理の平易さと現実での受け入れがたさ

2018-04-24 05:29:29 | エクスタシス 夢の夢なる
◎根本から揺るがされる体験

七つの身体は、現代人なら演繹的に肉体の側からスタートしニルヴァーナに至ると考えるのだが、古代秘教なら帰納的にニルヴァーナからアートマンが発出し、最後には肉体に至る。

どちらの順序でも説明はできる。逆順の天国と地獄の結婚の説明が老子にある。

【老子 第42章 道生一】
『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。 云々』

訓読『道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は陰を負いて陽を抱き、沖気(ちゅうき)以(も)って和を為す。』

天国と地獄の結婚については、なぜだか説明がなかったり、短かったりする。

老子ではこのように『一は二を生じ』とあっさりしたものである。

古神道の伊都能売は、両性具有なのだが、古事記では、何の説明もなく神名だけが登場する。

このようにその原理はあまりにも平易だが、それを人間が現実に受け入れるとなると、きわめて受け入れがたい。よって、その原理のポイントは、知的に理解することではなく、体験なのだろうと思われる。自分の存在そのものを揺るがされるそのエマージェンシーな事態。

だからこそ、この天国と地獄双方に直面しかけることを人生の裂け目などと呼ぶ。

世界の裂け目とは、日常生活が安定しているものだという安心感、先入観が足元から崩れおち、心理的混乱や恐怖・怯えている状態で、異様なものを見ている状態とでも言おうか。入り口は心理だが、起こっていることは、心理を超えて、立ち位置としての世界が変わっている。

◎エクスタシス 夢の夢なる-8
◎天国と地獄の結婚-2


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いやなものといやでないもの

2018-04-23 05:28:56 | エクスタシス 夢の夢なる
◎天国志向の功罪

このように人は七つの次元にあり、どこにいても神へのアプローチが可能であり、アプローチの手法もある。

だが、それでは、何千年も前からの伝統宗教と何の変哲もない。

現代人と神との問題は、宗教の方向性を天国志向と天国と地獄の結婚志向に2分類した場合、あまりにも天国志向に偏重している点である。

天国と地獄の結婚とは、耳慣れないかもしれないが、いまここのことであり、ノンデュアリティであり、両性具有のことである。両性具有という言葉にも奇怪な印象を持たれるかもしれない。だが人間は肉体という絶望の種と歓喜の種を持っている。

人間は邪悪に落ちると出口を見つけ出しにくいものだから、基本は善志向、天国志向で生きるものである。

そうやって頑張って生きていても、突然の災害や事故や病気により、最愛の人を喪失するというようなことはあるものであり、日本人は、阪神大震災や東日本大震災などでそういうことに直面させられてきた。

そうした目にあうと、現実とは天国ばかりではなく、自分の存在自体を揺るがされ、足元の大地が崩れ落ちるような感じを受ける人がいるものだ。

そうした状態からの解放が天国と地獄の結婚である。天国も地獄も超えてゆくのだ。

ウィリアム・ブレイクは、長編散文詩「天国と地獄の結婚」を著した。

その中で、存在の一面は栄えであり、もう一面は滅びとし、滅びの者は、存在の一部をもってすべてとしているというところがある。栄えとは永遠不壊なる光輝であって、神的天国的な部分。滅びとは肉体をまとう人間が代表であって、生成化々しては滅していくあらゆる個的存在と現象を指す。

存在のすべてとは、その両面をカバーするということであり、人間の感覚から言えば不愉快、不都合なあらゆることが入ってくる。

不愉快、不都合なことは、聖なる宗教シーンでは、真実の一アスペクトではあるが、大衆の不興をかうことにもなるので、あまり前面に出てくることはなかった。
聖書でヨブ記はそういう観点から当惑されつつ読まれてきた。古事記では、スサノオの冥界探訪のところがそれにあたる。

ウィリアム・ブレイクは、それを善悪双全であり天国と地獄の結婚と表現し、なおかつそれが、体験すべきものであり、この詩の最終行に『生きているすべてのものが神聖』と記し、あらゆるものがあらゆる悲惨にあっても何の問題もないことを明かす。

だが、善悪双全などと言うと、悪事のし放題などと勘違いする輩も出てくるのだが、真人間の行動規範は、諸悪莫作 衆善奉行であって、『善いことをする、悪いことをしない』であって、それは揺るぎもない。人の生きざまは天国的であるべきなのだ。

◎エクスタシス 夢の夢なる-7
◎天国と地獄の結婚-1

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七つの次元で神に出会えるか-2

2018-04-22 03:22:05 | エクスタシス 夢の夢なる
◎ヘルメス

ピュタゴラスの冥界めぐりのエピソードは知られている。

『魂を一つにつなぎとめている紐帯は、血管や動脈や腱である。しかし魂の力が強くて、自分だけで静かに落ち着いているときには、魂(内部)の比(均衡)と活動がこれを一つにつなぎとめているのである。

しかし、(肉体との結合が解けて、)魂が地上へ放り出されると、魂は空中を肉体と同様にさ迷うことになる。そしてそのときには、ヘルメス(神)が魂たちの監視者になるのである。それゆえに、(地下の世界まで死者たちの魂に)「付き添うヘルメス」とか、「門の前に立つヘルメス」とか、「地下の世界のヘルメス」というような言い方がなされているわけである。

このヘルメスが、肉体から(分離した)魂たちを、陸からも海からも(定められた場所へと)送り届けるからである。

そして清浄な魂たちは、最も高い場所へ連れて行かれるが、不浄な魂たちは、清浄な魂たちにも、あるいはお互いにも近づくことが許されないで、エリュニス(復讐鬼)たちによって破ることのできない束縛のなかにつながれるのである。』
(ギリシア哲学者列伝(下)/ディオゲネス・ラエルティオス/岩波文庫P34-35から引用)

これはヘルメスが至るところに登場するところがミソ。地獄でも、中有の入り口でも、死んだばかりの取り込み中のところにも、ヘルメスが同伴しているのを見ることができるということ。

ヘルメスは、北欧神話なら全宇宙を貫いてそびえ立つ宇宙樹イグドラシルであり、また日本の神話なら別れ道に立つ猿田彦である。さまよえる魂を善悪立て分けて、相応の場所に送り届けるのは、閻魔大王のようでもある。

これは、人が七つの次元にあり、人が肉体レベル、エーテル体レベルなど次元にあって、どの次元にいたとしてもヘルメスを目撃できることを言うのであって、それを「ヘルメスが魂に付き添う」かのように見えるせいではあるまいか。

◎エクスタシス 夢の夢なる-6
◎七つの次元で神に出会えるか-2
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七つの次元で神に出会えるか-1

2018-04-21 02:54:28 | エクスタシス 夢の夢なる
◎庚申塔

繁華な街の一角に庚申塔を見つけることがある。山道でも庚申塔を見つけることがある。過疎の進んだ街はずれに苔むした庚申塔を見つけることがある。

庚申塔は猿田彦の神のシンボル。

辞典などでは、江戸時代以来の庚申信仰の名残などと書いているかもしれないが、覚醒への正当なルートをたどることのできた先駆者たちは、「それ」に至る分岐点でパイロット(水先案内人)に出会うことを記録している。

それは日本では、猿田彦の神であり、西洋にいくとミトラであり、ヘルメスであり、彼らがどの次元でも案内をかって出てくれるものだと書いているものを発見できるだろう。

皇孫二々岐命が豊葦原瑞穂中国の主として降臨あらせられた時に、猿田彦命は、天の八衢(やちまた)に出迎え奉り、日向の奇(くし)振るの峯に天孫を導きたまい、また伊勢の大神の先導に立ちたまいし忠勇無比の神様。天の八衢とは、中有のことだが、そこからどの次元へも進めるあの世のインターチェンジ。


中国では三尸は人の身中にあり、庚申の日(60日に一日はある)になると、いつも天に登って、天の寿命を司る神様である司命にその人の犯した悪事を報告し、処罰を求める。

三尸の居場所は、上丹田(頭頂/アジナー・チャクラ)、中丹田(ハート/アナハタ・チャクラ)、下丹田(スワジスターナ・チャクラ)とされ、各一匹づつ、計三匹いる。

ということから、日本では庚申の日に、肉体を脱けだした三尸という虫が、司命に悪事の報告にいかないように、眠らないで起きて宴会をやる習俗があった。

中国では上丹田、中丹田、下丹田、古事記では上筒男、中筒男、底筒男。いずれもクンダリーニの表象であるらしく、そのいずれのルートにも猿田彦のようなパイロットが関与してくれるものだ。

ここでは、パイロットの存在のみを語っているが、「それ」は言葉では語られざるものであり、パイロットの存在は傍証ではあるが、傍証しかありえないことも理解する必要があると思う。

一方で、これを追体験あるいは自ら証明ということになれば、七つの次元の七つのルートを通って神に出会うことになる。

七つの次元の七つのルートを通って神に出会うということは、一回の人生で七回は死んで蘇生するという荒業が必要となり、一人でそこまでできた人間などまずいないだろうし、肉体を持ってそこまでやる必要もないだろうと思う。

そうした実地の証明を求める気分というのは、神の力の証しを荒野の40日断食修行においてイエスに「エルサレムの宮殿から飛び降りてみよ」と求めた某の気分に近いのではないか。

◎エクスタシス 夢の夢なる-5
◎七つの次元で神に出会えるか-1


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神に出会う、神と一体になる、神を下ろす

2018-04-20 05:29:50 | エクスタシス 夢の夢なる
◎方法と立ち位置

人間が神にアプローチするには、三つの方法がある。神に出会う、神と一体になる、神を降ろす、である。

これに対して人間の立ち位置は、7種であり、7つのボディがそれに該当する。

ところが、学校で7つのボディを教えるならば、いきなり「人間には七つのボディがあります」から初めても詮無いことになる。

何しろ人間が七つのボディすべてを認識するのは、七番目のニルヴァーナを目前にして後ろを振り返ったら、6つのボディがあったみたいな具合だから。つまり何百回か、何万回かの輪廻転生の最終ステージ近くで七つのボディすべてがそろうことになるのであれば、七つのボディに何の意味があろうと考える利巧な人は少なくないからである。

それでも七つのボディ論が重要なのは、現代人は理屈で納得しないと行動に移らない、つまり理論づけがないと冥想をしないだろうからであり、かつまた人間にとって愛・大慈悲、智慧、自由、力など真実であるもの、永遠に壊れないものはそこにしかないからである。

ここで手法が示され、立ち位置が明らかになった。

次に問題になるのは、七つのボディそれぞれの次元で神に至ることが可能かということになる。

◎エクスタシス 夢の夢なる-4
◎神に出会う、神と一体になる、神を下ろす
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誰も教えてくれない

2018-04-19 05:41:56 | エクスタシス 夢の夢なる
◎あるいは誰もが教えようとしてくれる

私は、田舎で生まれ育ったのだが、鮮烈に記憶している一風景は、8月の送り盆の夜、町内の通りの両側に数十軒の家が軒を連ねているのだが、家紋入りの提灯が軒先に一個一個ずらりと吊るされているというもの。各家の提灯の列が道を挟んで並んでいるのだ。

お盆では、町全体が仏教の街に変わる。後には家の前では送り火も焚かなくなったが、
当時の日本人の信仰は、自分も仏教、通りも仏教、街も仏教で何一つ揺るぎなく、仏教だった。

でもそういう土地柄であっても、覚者の香りはしなかったのだろうと思う。

高校生になって、洋書を注文することを覚え、英語の占星術教本を読んだり、バグワン(当時はOSHOではなかった)を読んだりして、自分なりにそれなりの「それ」へのアプローチはしたものだ。

それが、神なのか仏なのか道なのかは知らない。だが、その気配は、神社に満ち、寺の伽藍にあふれ、敬虔な住民の住む家々に漂っていた。
だが、「それ」を持つ人には、田舎では出会うことはなかった。

今思えば、自分はオカルト好きということでもなかったし、高橋信次本を熟読する、求道者の卵を出ることはなかった。

声に出して聞けば、誰もが教えようとしてくれるかもしれないが、それは本当っぽくなく、誰も教えてくれないだろうってのは、わかっていたのだ。

◎エクスタシス 夢の夢なる-3
◎誰も教えてくれない
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冥想の道と行動の道

2018-04-18 05:32:37 | エクスタシス 夢の夢なる
◎最後まで残るカルマ・ヨーガ

神に近づく手法には様々な分類法がある。インドでは、カルマ・ヨーガ、クリヤ・ヨーガ。ラージャ・ヨーガ、バクティ・ヨーガ、ハタ・ヨーガ、マントラ・ヨーガなどと分類する。

バガヴァッド・ギータにおいて、クリシュナはこれを敢えて2分類し、冥想の道と行動の道に分ける。

バガヴァッド・ギータの三章カルマ・ヨーガでは、冥想を好む者には知識の道があり、行動を好む者には私欲のない行動の道があるとする。

この私欲のない行動の道は、感覚的な欲望を意志の力でコントロールし、すべての行動を神への礼拝として行動し、最後はブラーフマン=ニルヴァーナとの合体へと進む。

これがカルマ・ヨーガであり、このような行動には、結果への執着はない。こうした原理が働いている実例をイエスや袁了凡などの布施・寄付のやり方にも見ることができる。

これは、王陽明の事上磨錬である。

だが人間は即身成仏しても最後に肉体が残るならば、金を稼いだり、家事をしたりしなければならないように、行動は残る。このようにカルマ・ヨーガは人生の最後までつきまとう。

禅の十牛図の第十図入鄽垂手(にってんすいしゅ)は、最後まで残るカルマ・ヨーガを示している。

20世紀の大聖ババジが、カルマ・ヨーガ重視を説くのもそのあたりなのだろうと思う。

ところが、古代インドのように切羽詰まっていない時代には、時間のかかる行動の道でもよかったので、冥想の道と行動の道を対等に置くことができた。

核戦争の時代になって70年。今や世界は、累卵の危機と言われて久しい。この危機の時代には、もはや冥想の道しか適当と言えるものはない。

◎エクスタシス 夢の夢なる-2
◎冥想の道と行動の道

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全く見知らぬ風光の国へ

2018-04-17 05:24:20 | エクスタシス 夢の夢なる
◎未だ「それ」を得ていない時代

「それ」は、体験ではないが、古来ほとんど体験だとは考えられて来なかった。

神人合一という言葉はあっても、それが文字通りの神人合一であることを認めるのは密教だけだった。

時代も下ってくると、「現世利益が、真の宗教だ」と唱える宗教も登場し、真正な宗教という言葉は死語になってしまい、いまやカルトが猖獗を極める日常となった。

科学は、証拠のあるもの、客観的証明のできるものだけを追い。その結果物質と時間と空間を追う大きく平板な世界観だけが力を持ち、人間のほとんどの努力は水平に広がり、垂直ジャンプの可能性を見ないようになった。

世界が水平方向にだけ広がり、物質方面の研究が進めば進むほど、人間は神から遠ざかる。そうなると、人は人間であることの絶望と苦悩からの解放を見出しにくい。

そして99%以上の人が「それ」を得ていない。そうした時代に神と人との逆転と七つの身体論は、多くの人に「それ」に向かうインスピレーションを与えてくれることだろう。

神と人は別ではあるが、別ではないと誰もが思う時代。それを至福千年とか、七福神の到来とか鼓腹撃壌ななどという。

それを迎えるまえに大きな峠がある。まさに今、その時代の大峠に差し掛かっており、ギリシア神話で神を神とも思わなかったパエトーンの天の車は、太陽に近づき過ぎて墜落したように、そういう局面も近づいている。

今や人間の自我の肥大化は、神などいないという実質無神論者がほとんどの時代となった。そういう人々だらけの時代は人類にとって最大の危機が起こりがちなものである。

海を西へ西へと進むと最後は崖になって海水が滝のように下っているという伝説が残る大航海時代に、クリストファー・コロンブスは敢えて大西洋を西へ西へと進んだ。

そのような世間的には無用、無駄と見える努力が今の時代は本当に求められている。それが日々の冥想である。

世界は交通手段が発達したから一つなのではなく、もともと一つだった。それを見ている人は、神を知る人だけだが、今や神を知る人が爆発的に増える時期となった。

その全く見知らぬ風光の国の入り口へのガイド・ブックみたいなものを始めようと思う。

◎エクスタシス 夢の夢なる-1
◎全く見知らぬ風光の国へ


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阿育王寺

2018-04-16 06:58:26 | 丹田禅(冥想法8)
◎中国から日本への禅の脱出口

中国の寧波のそばの杭州湾に臨む古刹が阿育王山阿育王寺。阿育王は、インド古代のアショーカ王のことであり、お決まりの如く仏舎利を収めてある。

平清盛も後白河法皇もここ伝来の仏舎利を保有していたという。

平安、鎌倉、室町の日本人にとって、この寺は、イスラムにおけるメッカ、チベット密教におけるポタラ宮のように最高に崇拝された寺であって、一生のうちに一回は参詣するのが知識階級の夢だった。

東大寺の大仏再建の際の首を鋳造した仏師陳和卿は前世において阿育王寺の寺男だったのだが、その当時の住持が三代将軍実朝であったことを告げ、それを受け実朝は、阿育王寺参りの船を製造させようとする。

実朝は1219年、暗殺されて本懐は遂げられなかったのだが、実朝の歌が残っている。

世も知らず 我も得知らず唐国の
いはくら山にたき木こりしを

それから数年、嘉定16年(1223)秋と宝慶元年(1226)に道元がここを訪れる。

日本臨済宗のルーツ、虚堂智愚は、74歳にして阿育王山の住持であったのだが、1256年(宝祐三年)讒言にあい、僧籍を剥奪されて一か月獄に入った。

その直後の1259年大応国師南浦紹明は、虚堂智愚に出会い、嗣法して帰国。その後大徳寺隆盛の端緒となる。

さて虚堂智愚は、入獄して、臨済より伝わる伝法の衣を破れ草鞋のように捨て去った。臨済自身も自分の法を伝える弟子がないことに怒って死んでいった。

伝えるものなどない。

なにもかもなし。

禅は、肉身のマンツーマンで伝承され、一休は虚堂七世の孫と称している。

虚堂-大応-大燈-徹翁-言外-華叟-一休

伝わることは伝わったが・・・・。
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