アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

北朝鮮による日本核攻撃の被害をシミュレート

2018-02-28 05:03:24 | 時代のおわり
◎動物の入れ物に成り果ている人間たち

スプートニク通信というhttps://jp.sputniknews.com/politics/201802264617595/メディアで『北朝鮮による日本核攻撃の場合の被害をシミュレート』という記事が上がっている。
これによると、横田基地と霞が関に北朝鮮からの核攻撃が行われた場合、それぞれ約1万3000人が死亡し4万5000人がけが、2万4000人が死亡9万1000人がけがをすると予想。

この分析にはスティーブンス工科大学で開発された核爆弾被害シュミレーションサイト「Nukemap」http://nuclearsecrecy.com/nukemap/が用いられたそうだ。

そこでNukemapに飛ぶとgooglemapみたいな画面になり、そこで爆心をドラッグして、核爆弾のキロトン数を指定する。ここでは15キロトン(広島原爆と同じ)を指定し、市ヶ谷駅付近を爆心として、Detonate(爆発)をクリックすると被害円は、新宿、茗荷谷、六本木、丸の内がすっぽりカバーされる。

被害円は六重になっており、中心が火球で、一番外側は、放射能付き爆風。被害人口推計は画面にはないので、別のデータベースを組み合わせたのだろう。

こういう絵が必要なのは、軍事専門家なのだろうが、直接の死傷者数よりも、それ以後の放射線による健康障害に悩む者が何百万人も出ること、都市インフラが完全に破壊されること、電磁パルス(EMP)により、パソコン、スマホ、車両などが使えなくなることも問題である。

これが文明破壊

文明破壊の要因は、いくつかあるが、人間が、人間らしい分別を失い、狐狸牛馬のように動物の入れ物に成り果ている者が多数出ていることである。

動物の入れ物になっている人間とは、ヴァーチャル・リアリティのような下層霊界意識に生きている人のこと。身近にいることでしょう。

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いまここに真正の覚者がいたら

2018-02-27 03:54:17 | 究極というものの可能性
◎カルトに見えないカルトの悪影響

今ここに一人の大悟覚醒した人物がいるとする。その人が「万人は須らく冥想により神人合一すべきである」と唱える場合、以下のような問題がある。

1.カルトでないことを証明できない。
2.偽宗教でないことを証明できない。
3.マスターの本物であることを保証できない。
4.体験の真正を他の人に証明できない。
5.世の中には、文化系サークルやSNSやちょっと儲かる仕事や、明るい雰囲気の友人グループ、ヨーガサークルなどで釣ってくる「宗教の体裁をとらないカルト」が多い。たとえそれがまともな求道グループであっても、「宗教の体裁をとらないカルト」との見分けはつきにくい。

6.現世利益を肯定する既成組織宗教が多いが、それと現世利益と支配欲、超能力指向を前面に出した悪質カルトとの違いは、厳しく見れば、本質的にはほとんどない。そうした中で現世利益にあまり関心を向けない求道の方向は、きついマインドコントロールをするのではないかという疑念を持たれる可能性がある。

7.冥想修行における基本姿勢である清貧・禁欲を説くことは、カルト的収奪メカニズムやマインドコントロールの現れであると一方的に決めつけられても反論しにくい。

8.教祖・マスターへの服従を求めることは、ほとんどの宗教ではあたりまえだが、カルトでは反社会的な行動を信者にやらせる場合は、これを最大限に利用する。一方でまともな宗教において教祖・マスターからのアドバイスや指示をないがしろにするのならば、修行は進まない。

9.カルトにおいては、一般信者、平信徒は金を貢ぐマシーンに過ぎない。彼らからまともな判断力を奪い、教団に金を払い続けるようにしむけるために、時に感覚遮断実験並みの無茶な修行をさせたり、麻薬を与えたり、理不尽な要求をしたりして、想念と感情と欲望で作り上げられた閉鎖的な洞窟のような意識空間に閉じ込める。この結果、妄信となり、まともな判断をできないようにし、組織の論理で行動を強制させる。
だが、まともな宗教での修行シーンでも魔境が起こったり、妙な心境になったりすることはある。ゆえに魔境や妙な心境をもって、まともな宗教でないと判断されても反論しにくい。


これらを総合的に見ると、まさに終わりの世には偽予言者が多数出ていると見える。

縁という側面からみれば、真正のマスターとの出会いは、積年の求道の努力の結実である。そこを疑わない直観に恃むしかないのではないか。馬を水辺に連れて行っても、水を飲むかどうかは、馬の問題なのである。
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道を行う者:西郷隆盛

2018-02-26 06:10:33 | 究極というものの可能性
◎意の誠否は、須らく夢寐(むび)中の事に於いて之を験すべし。

西郷隆盛は、西郷南洲遺訓の中で自分のことを「道を行う者」と見ている。
彼は、天に直接相対する姿勢のことを誠と呼び、あらゆる発想、行動の根本に置く。

西郷南洲遺訓の中に江戸時代の儒者佐藤一斎の言志四録から抜き書きした部分がある。

「意の誠否は、須らく夢寐(むび)中の事に於いて之を験すべし。」

【大意】やろうとしていること思っていることが誠か否かは、夢の中、寝入りばな、あるいは寝起きに浮かんでくるもので、これをチェックすべきである。

西郷隆盛は、若い時に盛んにをやったが、沖永良部島の流刑時代のように狭い獄舎で冥想するしかない時期もあったろうけれども、実務の忙しい時期には、毎日ある程度冥想する習慣があったかかどうかはわからない。

よって、このように誰でもわかる表現である、「夢でチェックせよ」と書いているが、実は意識と無意識の境目に、それが「誠」つまり天意・神意に適っているものかどうかわかるコツがあると言っているように思う。

儒家の言は、荘子が盛んに揶揄したりネタにしたりするところではあるが、易経繋辞伝のように時間のない世界から書かれたものもあり、全部が全部おろそかにしてよいわけではなく、このように採るべきものもある。中庸の未発の中などもその一つ。


※西郷南洲遺訓は、国会図書館デジタルアーカイブからダウンロードしました。ありがたい時代です。
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中国の私有財産制度消滅

2018-02-25 06:59:24 | 時代のおわり
◎中国之夢・一帯一路とチャウシェスク

日経ビジネスオンラインに、「中国「私有財産を消滅させよ」論争の不気味」(福島香織、2018年2月21日(水))という記事が出て、中国共産党理論誌「求是」傘下の微博発行コラム「旗幟」に著名経済学者・周新城の「共産党人は自分の理論を一言で概括できる:私有制度を消滅せよ」という文章が上がっていたそうだ。

最近の日本に来たり居たりするような中国人の生活ぶりから想像すると、中国では、1億円の資産を有する小金持ちはざらにいるような印象を受ける。

ノーベル文学賞受賞作家パール・バックの小説「大地」には、冬になると広東などの暖かい地域に、貧困のあまり村ごと乞食ツアーに出る話が出てくる。都市と農村の収入格差から、今もそういうのはあるかもしれないし、貧富の格差は戸籍アパルトヘイトだけが原因ではないだろう。だが、主として共産党員とその周辺が利権やわいろで巨富を得ているというのは、中国ではマスコミでは報道しないが、暗黙の常識なのだろうと思う。

日本ではそういう人々をひとくくりにして中国人富裕層と呼ぶが、一皮むけばなんとやらである。

文化大革命時の人民公社では、事実上の私有財産制度消滅に近いことが行われていたが、うまくいかなかったので、大寨に学べキャンペーンもいつしか立ち消えたことは皆知っている。それを承知しながら私有財産制度消滅をぶち上げねばならないほど、中国共産党への突き上げは危機的なのだろう。

江沢民政権でも習近平政権でもチャウシェスク型崩壊を懸念して、自由主義的な言辞は、SNSだろうが、紙文書だろうが、集会だろうが徹底的に取り締まるようになって、ノーベル賞作家劉暁波が、授賞式に出られないまま亡くなったのはその典型例である。

さはさりながら、米国の中国に対する軍事的優位はいつまで続くかについては、論者によって数年という人もいれば数十年という人もいる。米国の中国に対する軍事的優位がなくなるということは、核戦力の寡占によって構築されてきた米英主体の国連が機能しなくなるということ。

さて1983年のザ・デイ・アフターという映画を見て、米ソの熱核戦争が勃発し、カンザスシティがの直撃を受け、生存者が壊れたビルに集まって、雨露をしのぐシーンを覚えている。

この映画では、アメリカも被爆国になるのだなというイメージが鮮烈であって、それを見た知人が将来そういうことも現実化することを予言していたことも思い出される。

それは、ソ連の核だったが、今や中国もそうした能力はあるのだろう。

極まろうとする場合に、極まらせて破裂させる方向と、ガス抜きして破裂させない方向がある。

冥想はガス抜きして破裂させない方向の道である。
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人の行う政治

2018-02-24 06:42:25 | 時代のおわり
◎神事(かみごと)

中年から老境に差し掛かると、世の中のことがよく見えてくる。

およそ大小を問わず、組織ではトップ側近が企画し、立案し、遂行するが、その結果が芳しくなければ、誰かが責任をとらされて、いなくなる。信賞必罰は、トップに近いほど激しく端的に行われる。

企画そのものも、その立ち位置に応じて複数の利害関係者全員の思惑が入交り、必ずしも最初の企画者が考えた筋書き通りになるとは限らない。大きな企画ほどそういう面はある。同床異夢な人たちの呉越同舟な姿が大きな企画では必ず現れる。

日本の政治は内閣総理大臣が仕切っており、対国内ではほぼオールマイティな動きを見せるものだが、役所のトップだけに、また動かしている組織も大きいだけに、同床異夢で呉越同舟という傾向はより顕著に現れるものだ。

ところが日本は、第二次世界大戦の戦敗国であり、国連憲章の敵国条項適用国であるがゆえに、外交上の制約は大きく、アメリカの意向は、日本国民の箸の上げ下ろしにまで影響を及ぼしている。

日本は、外交だけでなく内政ですらアメリカを始めとする諸外国の思惑を踏まえて動かざるを得ないのだろうと思うシーンが多々ある。

利害関係者の相異なる要求や、諸外国の様々な意向を踏まえつつ、日本国の政治は、その根っこのひ弱さをマスコミの傘で隠しながら、ひょろひょろと動いている。

こういうのを人治、人による政治という。

出口王仁三郎は、一億火の玉として国民を煽りながら神助を頼まぬ東條英機を批判したが、彼だけが悪いわけではない。

組織の機能のメカニズムが本質的に事大主義、弱肉強食であれば、いわば誰がトップをやってもそうした結果になったのだろうと思う。そのメカニズムは、戦後70年の今も、日本の津々浦々、大都会から僻地の山村まで同じ姿で機能している。

神を恃むとは、神を知ってこそ初めて頼めるのであって、神知らぬ人では「神を頼む」など空念仏となる。

組織の構成員の大半が神を知ってこそ組織は初めて神を意識した天国的なパフォーマンスとなる。

組織の論理自体が変わるのはそうしたステージになってからだと思う。そこで政治も神事(かみごと)となる。
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真剣な質問をしても棒で打たれる

2018-02-23 03:25:03 | 丹田禅(冥想法8)
◎自分の出来の悪さはわからないもの

臨済録から
臨済が上堂すると僧が尋ねた。「仏法の極意とは何ですか」

臨済は払子を立てた。
僧はすかさず一喝した。
臨済はすぐに僧を打った

また別の僧が問うた。「仏法の極意とは何ですか」
臨済は前と同じように払子を立てた。
僧はすかさず一喝した。
臨済はまた、すぐに僧を一喝した。
僧は何か言おうとしたが、臨済はすぐに打った。

そこで臨済は、「諸君、そもそも道を求める者は、生命を失うことを辞さないものだ。私は30年前に黄檗先師のもとにいた時に、三度仏法のぎりぎりの極意を尋ねて三度とも先師に杖で殴られた。それは、柔らかなヨモギの枝で殴られたようだった。

今もう一度あの時の棒を食らうことができたらと思う。誰か私のために一発やってくれないか」

その時中から一人の僧が出てきて「私ならできます」と言った。
臨済は棒を取って僧に差し出した。
その僧が棒を受け取ろうとするや否や臨済はすぐにその棒で僧を打った。』

臨済は黄檗に命まで差し出したが、この日の弟子たちには、命まで差し出せた者はいなかった。

禅では教えないことが徹底しており、自分で会得するまで待つしかない。それをどうゲットするかは、自分でつかむしかないのだ。


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水の豊かな国、水の乏しい国

2018-02-22 06:29:05 | キリスト者の秘蹟
◎キリスト教の清潔・不潔

海外に行くと、蛇口から出てきた水が飲めないのは当然として、水道水に臭いがあったりしてがっかりさせられることが多い。

イタリアやスペインに行くと、テルマエ・ロマエで見たような古代ローマ時代の水道橋も公衆浴場もあり、古代ローマ時代には、現代並みの清潔な暮らしをしていたのだとわかる。

ところが、キリスト教が優勢になったことで、不潔な生活習慣に転じ、その不潔な影響は、19世紀まで西欧では続いた。

こう書くとキリスト教関係の人は色めき立つかもしれない。

もともとヒンドゥー教、仏教、イスラム教、古代ローマ人や古代ギリシア人は、みな儀式化された水を用いた清潔な生活習慣を持っていた。だが、これは4世紀にキリスト教が隆盛になる頃から、破壊された。

『ヒンドゥー教徒は、礼拝の前だけでなく、さまざまな「不浄」とみなされる行為のあとには洗い清めなければならない。イスラム教徒は、日に5回の礼拝の前に少なくとも3回、手や顔を洗わなければならないし、ほかにも洗う必要のある場面は多数ある。ユダヤ教徒は、各食事の前後、礼拝の前、用を足したあとに洗うことを要求された。

対照的に、キリスト教は水を用いる手の込んだ衛生的な儀式は何も定めなかった。よきキリスト教徒がしなければならないのは、パンとワインを聖別するために聖水をいくらか振りかけることだけである。なんといっても、イエス自身、座って食べる前にまず手を洗うなどということはしなかった。

著名なキリスト教徒たちが、水の洗浄効果を見せかけだけで無駄で、退廃的だとして公然と否定した。「清潔な体と清潔な衣服は汚れた魂を意味する」と述べた人もいる。シラミのたかった硬い毛織のシャツを着たもっとも敬虔なキリスト教徒たちは、地球上でもっとも体を洗っていない人々だった。』
(感染源/ソニア・シャー/原書房P85から引用)

キリスト教徒は、537年にゴート族がローマ水道を破壊した後再建しなかった。その結果、中世ヨーロッパ人は、浅い井戸、泥で濁った泉、よどんだ川の水をそのまま飲んだという。

山秀水明。水清く、山は青い。そういう言葉が息づいているのは、水の豊かな国だけである。欧州は、そういう場所が少ない。中東も少ない。だが、そんな場所でも健康を維持するためにもともとは清潔な儀式があり、水道インフラがあった都市すらあった。

近代西欧文明は、キリスト教がバックボーンであって、その負の側面はこうしたところにあり、14世紀以降のペストの蔓延などの遠因となった。

水の豊かな国というのは、世界的にも珍しく、それだけでもとても恵まれている。
現代の日本人は、清潔は当然であり、更にウォシュレットの普及や消臭剤の広まりで、未曽有の潔癖国家となった。

肉体の健康は結構だが、わが心の清潔こそ優先事項のはずなのだが。ねたみ、そねみや他人の悪意に寛容であるのは、心の潔癖さにやや欠けるのではないか。
それは、ハタ・ヨーガだけやって冥想しないみたいな片手落ちな感じを受ける。恵まれた環境のあるうちに冥想を。
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泣き暮れる友人に寄り添う

2018-02-21 05:09:42 | 究極というものの可能性
◎小平奈緒とイ・サンファ

平昌五輪、女子スピード・スケート500mで、金メダルを獲得した小平奈緒は、開催国韓国の期待を一身に背負いながらも3連覇を逸し銀に留まり涙に暮れるイ・サンファを、ウィニング・ラン中に肩を抱いて寄り添い、言葉をかけた。

絶望の淵にあって泣き崩れる人にはそばにいてあげることしかできない場合もある。

それができるために、勇気が必要だ。そういうシーンを逃さず行動に移すのは平素の心構えと相当なフランクさがないとできることではないとつくづく思う。

ババジは、勇気をもって行動しようと盛んに言ったが、その勇気とはこのような勇気なのだと思う。

禅語録の無味乾燥な文脈には寄り添って泣いてあげるなどというシーンはまず出てこないが、ひとたび達道した冥想家には、そうした流れの場面が出てくる。

一緒に死んであげるということ。

西郷隆盛は、行き場を失った僧月照と一緒に薩摩の錦江湾に入水してあげたし、ダンテス・ダイジは、竹富島のトイレで首つりをした友人の求めに応じて一緒に死んであげた。

東日本大震災では、多くの人が寄り添いに行った。日本では、まだそうした美風が残っている。
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虚室生白

2018-02-20 03:30:46 | 道教
◎道は虚に集まり、虚こそ心斎である

荘子の内篇人間世篇では、孔子が弟子の顔回の冥想のやり方について注文をつける。

顔回は、孔子に心斎とは何かと問うと、孔子は、アートマンたる『気とは、虚しくして物を待つものだ』(この『気』は一気の意味にて個別性の分化以前)とし、『道は虚に集まり、虚こそ心斎である』と答える。

さらに孔子は、『あの闋(むな)しきものを見れば、虚室に白を生ず。吉祥は止に止まる。』とする。

はニルヴァーナであるので、虚はアートマンと読めば、『道は虚に集まる』というのは、無と有の関係性を示すと解く。

『虚室に白を生ず』とは、アートマンたる本来の自分に居れば、白で表象されるあらゆる肯定的なものが発生する。

『あの闋(むな)しきもの』とは、道=ニルヴァーナのことだろうと見当がつく。そこで不退転の善と至福を吉祥と評す。
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苦労しないで物を得る

2018-02-19 06:33:21 | 冥想アヴァンギャルド
◎モバゲーからオリンピック金メダルまで

現代文明では、苦労しないで情報を取ったり、苦労しないでゲーム(スマホ、携帯、ゲーム機)をしたり、炊事をする手間なくスーパーのデリカやコンビニで食事を手に入れたり、ボタン一つで資金を運用して利益を得ることが当たり前になった。

それの極みが、北インドのババジの伝記などに頻出する、必要な物を何もない空間からポンと出す現象である。

だが、そういうことができる人物は、物欲やモノから卒業している人物である。

あらゆる現象や出来事には実体がないというのは、あらゆる面白いこと、つまらないこと、みじめで情けないこと、思い通りのことが体験されてしまって、もはやすべての通俗的人生体験、聖なる人生体験、地獄的人生体験には飽き飽きした人間に起こる実感の先にある。

要するに物欲、名誉欲、出世欲、支配欲、所有欲などを問題にしなくなるほどに、十全な人生の実感を蓄積しえた人間だけが、何もない空間からタオルや毛布や魚やワインや紙幣を出すことができるようになる。

だがそうしたあらゆる実感を得ていない人間が、苦労や努力なしで、ものを引き寄せようなどと思うのは、この世の様々な争闘やら物欲のぶつかり合いから全く自由どころでなく、自ら好んでもっとこの世界の切った張ったの鉄火場を味わって、もっと地獄と虚無を見たいということである。

このスタンスの人には、無私なる行動を日々積み重ね、一瞬一瞬を愛に生きようなどという人たちの気持ちは理解できない。

2018年平昌五輪では、小平奈緒選手がスピードスケート500mで日本の女子として初めて金メダルを獲得した。

これは、苦労と努力を積み重ねて大目標に到達したものであり、便利の名のもとに、楽に手早く、あわよくば自分の手は下さない引き寄せの法則とは対極にある。

便利には優れた面もあるが、他方人間を堕落させやすい。便利そのものは白でも黒でもないが、そのメリットを享受するのに謙虚さを忘れるとこんなことになりがちである。
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掛け声と呼吸そしてマントラ

2018-02-18 06:34:09 | マントラ禅(冥想法7)
◎ハンマー投げから羽生結弦のフィギュアスケートまで

ハンマー投げの室伏広治は、ハンマーをより遠くに飛ばすために、まずハンマーを磨くことを始めた。

また掛け声が心理も肉体の状態をも変えることに気がついた。

そして彼は大事な試合の前に独自の呼吸法により、できる限り集中力を高めて本番に臨む呼吸法を実践していた。

それは背筋を真っすぐにしてリラックスして力を抜き、さるポーズで手を組み、意識を丹田に持っていくというもの(詳しくは『ゾーンの入り方/室伏広治/集英社新書』)。

眼目は、そのポーズで、いきなりゾーンに入れるかということなのだろうと思うが、それこそ選手控室の喧騒の中やフィールドで自分の順番を待っている時に平常心でこのルーティーンに取り組み、このポーズに1~3分いることで、ゾーンなるトランスに入れるかどうかは、練習を積む必要があるのだと思う。

練習を積めば、それに入る時間は短縮されるが、深まり具合は人によるのではないか。

室伏広治は、『人は意識をほんの少し変化させたり、意識を別のところに移したりすることで、呼吸も変化し、そして動作も変化するのです。』
(ゾーンの入り方/室伏広治/集英社新書P44から引用)
などと宣う。

冥想修行者にとっては、心理状態が坐相ポスチャーを変化させ、呼吸もそれに応じて変わるのは、いつものこととして自明である。

合気道の開祖植芝盛平は、稽古の前に神事を1時間半もやっていたという。ゾーンなるトランスに入るのは、日々都度都度の冥想の繰り返しによる深まりが先になければ、むづかしいだろう。

2018年2月17日平昌五輪での羽生結弦選手のフィギュアスケート金メダルの演技では、足の痛みをこらえながらやっていた由だが、肉体の痛覚を後退させて、できる限りの演技をするというのも一つの超能力みたいなものである。ゾーンに入らなければ、ああいう演技はできまい。

兵士やスポーツ選手の中にはマントラを用いる人もいる。『南無八幡大菩薩、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経・・・・』、周りが許さない場合は、心の中で唱え、発声しないマントラもありだ。繰り返し繰り返し念唱する。マントラ・シッディもゾーンだが、その深まり具合が意外な世界を開示してくれることがある。

植芝盛平には著作はない(口述のみ)が、そのゾーンは宇宙そのものであって、試合での勝ち負けなどではない。立ち合った瞬間に勝っているのだ。


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リンカーンは三度死ぬ

2018-02-17 06:32:13 | 究極というものの可能性
◎リンカーンの二度の臨死と業績

臨死体験のほとんどは、ハズレ体験と思われるが,まれに精神変容の機会となるケースがある。

アメリカ大統領リンカーンは5歳の時に雨で増水した小川で溺れたが、年上の友達が岸に引っ張り上げて、一生懸命背中を叩いてくれたので、水を吐いてのたうちまわって意識を取り戻した。

リンカーンは、これ以後知識を渇望し、あらゆる本を手当たり次第に読むようになったという。

その5年後、リンカーンは荷馬車に乗っていて、馬に急げと命令した時に頭を蹴られ、一晩中生死の境をさまよった。後年自らその時のことについて振り返って、その時自分は馬に蹴られて死んでいたとコメントした。
(出所:臨死体験未来の記憶 精神世界への新たなる光 フィリス・アトウォーター/[著] 原書房P288-289)

リンカーンの最大の業績は奴隷解放宣言。それからわずか150年でアメリカには黒人大統領が誕生するまでになった。

移民の心理として一旗揚げたいというのは、移民国家アメリカでは抜きがたいものであり、そのポジティブな理想がアメリカン・ドリームである。

逆にそれを基盤にネガティブな制度も起こるが、それが黒人奴隷制度。

一旗揚げるというのは社会的に他に優越したいということであり、社会的弱者の権益を制限して、ある種族や階級階層が制度的にメリットを享受する例は枚挙に暇がない。インドのカースト制度、現代中国の都市と農村住民の厳しい戸籍移転制限や少数民族圧迫、日本の江戸時代の士農工商などなど。

こうした広汎な既得権益を逆転させるのは、一つの革命であるが、一人の風変わりな人間が独力で成し遂げるのは容易ではない。

それは、チベット密教の開祖パドマサンバヴァがチベット土着の宗教勢力を駆逐したり、空海や役行者が、日本のスピリチュアル・シーンを仏教融合型に変えていったりした事績と似ている。

米国大統領といえども、こうした大事業を成し遂げるには、神仏の主導がないとできるものではないが、リンカーンは2度の臨死体験で、そのサポートを得ていたのだろうと思われる。

人は臨死体験によって大悟することは稀だが、大悟できる人間は、ある程度準備ができていないとそういうことは起きない。

その準備こそが日々の冥想である。

リンカーンの冥想習慣の有無はわからないが、二度の臨死体験をきっかけに彼が大善行である奴隷解放に進んだことは事実であり、そのモウメンタムを与えてくれたのが臨死体験であったろうことは想像できる。

臨死からの生還は困難であり、生還しても肉体的に問題をかかえることが多い。それらをひっくるめて生還し、無私なる大業を成し遂げたところに、リンカーンが一人の人間としても偉大とされる理由がある。
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平昌五輪スノーボード男子・ハーフパイプ

2018-02-16 05:21:46 | 冥想アヴァンギャルド
◎おいおい、そんなに飛んでいいのかい

サーフィン好き、Xゲーム好きの身としては、ハーフ・パイプは見逃せない競技だ。ソチ五輪の時も見ていたつもりだが、技が更に進化していたのだろう。

平昌五輪スノーボード男子・ハーフパイプでは、ショーン・ホワイトと平野歩夢のプレイだけが突出していて、他の選手とは隔絶した世界を飛んでいた。二人とも、『おいおい、そんなに飛んでいいのかい』と見るものをして怖いと思わせるシーンが連続していて、5回あるいは6回のジャンプが終わるとほっとさせられる。

最高難度4回転といえば、フイギュア・スケートも4回転、体操白井の後方伸身宙返り4回ひねりとあるが、ハーフパイプのそれは、飛距離も回転速度も比較にならず、あたかも生還を期していない人間魚雷回天や特攻機桜花の覚悟にも似たものを感じさせられたほどである。

この競技についての専門家のコメントの中には、もはや人間の技の限界に到達したというようなものも見受けられたのも当然である。

二人の評価は金メダル銀メダルと別れたが、こうした技で着地を繰り返せるのは、既に神業であった。

そうした中、戸塚選手がリップに激突!腰を強打し救急搬送されていたのは不運だったが、チャレンジの結果として起こりえる現象の一つ。

生命をかけるスポーツには、閉息潜水、8千メートル級山岳への無酸素登頂、スキーの滑降などがあるが、今ここに新たなジャンル、スノーボード・ハーフパイプが加わった。マスコミ報道では死の恐怖と戦っているなどというコメントや報道はまず出てこないが、それを忘れてはいけない。

悟りの直前には、意識を清明にし、オープンにし、すべてを棄てることが求められる。こうしたスポーツには、似たような瞬間を見ることができる。

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命と性

2018-02-15 05:37:13 | 道教
◎修行者も人間

道教内丹家では、命と性という、命は身体・生命であり、ボディの側。性は、心・精神の側。

肉体・エーテル体と精神・心は日夜相互に影響を与え合っている。

だが、内丹家は、最後に元神は、肉体を離脱して昇天する主体とし、同時に元神は、あらゆるものが一つながりである、元気=一気=アートマンであるともする。

肉体からの離脱があることを思えば、体外離脱時には、心・精神は残っているが、肉体との連動は絶たれている。

命と性と言う場合、命=ボディの側は、肉体からエーテル体、アストラル体、メンタル体、コーザル体と遷移することを見れば、性(心・精神)の乗り物と例えるのが妥当である。

ただし、元神という用語は、最初は個々人としてボディに乗るが、最後は、もはや個性のない一気未分の元神(ア―トマン)に回帰する。

内丹修行者も微細身での火水のコントロールだけでやっていけるわけでなく、衣食住の手当て、呼吸法(気功)、柔軟体操(導引)、食事コントロール(菜食)など、ロハスな生活全体が修錬そのものになっている。

中国では、こうした無数の修行者の伝統から老子、荘子、列子、呂祖が出て、現代に至るが、共産中国初期には迷信の打倒と称して、宗教各派は徹底的に破壊・弾圧を受けたので、道統を継いだ人たちは、台湾などに流出したであろうと言われている。

特に親子でも批判しあった文化大革命のやり方は、まともな修行者であればあるほど大陸では生きられないと感じただろうと思う。
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列子の世界の始まり

2018-02-14 03:43:35 | 道教
◎万物がごちゃごちゃになっている渾淪

列子の天瑞篇に、世界の始まりは4段階あることが示されている。

1.太易:気もない状態
2.太初:気の始め
3.太始:形の始め
4.太素:質の始め。これは気形質は備わっているが、個別に分化しておらず、万物がごちゃごちゃになっている状態でこれを渾淪(こんろん)と呼ぶ。

太易は、ニルヴァーナ。太初から太素までは、アートマン。
渾淪とは、古事記の葦牙や、ゾーハルの一条の黒ずんだ焔というところか。

いずれにしても、この4段階を目撃した列子の眼は精妙である。

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