アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

天の時今や迫りて

2018-01-31 05:26:05 | 冥想アヴァンギャルド
◎よしやよし巨万の富を積むとても

出口王仁三郎の歌う富。

天の時今や迫りて 人人の慾の皮剥ぐ声なやましも

私利私慾のみをはかりて蓄(たくわ)ヘし宝は烟(けむり)となりて消えゆく

はらからの悩みをよそにみなしたる悪魔の悩む時とはなりぬ

よしやよし巨万の富を積むとてもまこと一つの光にしかず

諺(ことわざ)に金が敵(かたき)の世ぞといふ 金故(かねゆえ)なやむ時は来にけり

わが命縮むるものは黄金ぞと
知らざるまがをあはれとぞ思ふ

黄白は山と積むとも玉の緒の命の糧の米にはしかず

世の人を先にわが身を後にして つくすは神の心にかなヘり

陰徳を朝な夕なに積みて来しわれは神国(みくに)に救はれにけり』
(『神の国 昭和7年11月号から引用』)

日本の貧困化もサラリーマンの副業をも認める方向になってきた。貧困化の手始めは、社会進出の名のもとに女性を広汎に働かせることに始まり、次に副業をも認める。これぞ金の余裕のない貧困層の蔓延である。その一方で貧富の官民格差は広がる一方である。

仮想通貨やネットワークビジネスで、私利私慾のみをはかって蓄(たくわ)ヘた宝は烟(けむり)となって消えてゆく。

政治家にもマスコミにも、神とともに生きるなどというのは、金もうけのだしにしか見えず、『誠ひとつ』とか『神の心』では、何のメリットもないなどと思っている人が99%。

こうした土壌ではカルトに非ざるまともな宗教は育たないとも思える。

それでも日々坐る
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ダライ・ラマの大ストレスと解消

2018-01-30 05:21:26 | 密教
◎覚者にも俗人にもストレスがある

ダライ・ラマは、自分自身亡国の流浪の民でありながら、中国に政治・軍事の自主権を奪われた故国チベットで、日夜チベット民族が圧制や拷問に苦しむ様子を自分のストレスとして甘受する。

これに対してダライ・ラマは、この困難な状況は自分の未熟な行いが原因であると見て、楽観的な見方と希望をもって、絶望的な問題を受け入れるならば、ひどいこともいつしか徐々になくなっていく、とする。

ダライ・ラマは、このような苦を受け入れるという心構えで、こうした問題に苦しむすべての人々の重荷を軽減していると観想する。
彼は、この観想を毎朝早くに行っている。

それでも中国によるチベット人に対する拷問や殺害は繰り返され、その都度彼は、その報告を聞かざるを得ない。そこで、いらつきや怒りや憎しみが起こるのだが、『それは無意味なことなのだという思いにおさまる』(ダライ・ラマ実践の書/ダライ・ラマ14世/春秋社P42から引用)

中国共産党政権は、相手がチベットのような少数民族の場合は、民族絶滅政策、僧尼僧の殺害、伽藍の破却など宗教破壊をも全然容赦しない。

ところが自国民に対してもそれ以上に無慈悲だったりする。1950年代の大躍進時代に餓死した者2千万人とか1966-76年の文化大革命時代に亡くなった者数千万人とか。最近天安門事件で亡くなった者は実は1万人という報道があったが、その意義は別にして、人数としては、1万人は中国の現政権にとっては、大したことでもないのかもしれない。

観想に習熟していない人でも、湧き上がる不如意、理不尽のストレスをオームなどのマントラを繰り返すことで、そのストレスにすべてを投げ込みつつ唱えるというやり方もある。

短い時間ではなかなか、ストレスの根源が何も出てこないところまではならないが、それでもやることは大切。

ダライ・ラマのストレスほどではないが、皆大きなストレスとともに生きている。ストレスは生きている以上日々生まれるので、その都度なんとかしないといけない。

祓い清め言い直し聞き直し
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現代科学が人を神から遠ざける

2018-01-29 05:27:35 | 究極というものの可能性
◎最後の最深の願望へ

科学は人の夢を育み、生活改善もしてきた。しかし、ここにきて、現代科学こそが、人を神から遠ざけている元凶の一つであると考えざるを得ないところがある。

スワミ・ラーマが本山博と思われる、チャクラのことを研究しているモトヤマ教授に出会った時、本山が『物質のコントロール法を知れば知るほど、その社会からは宗教がなくなっていきます』(ヒマラヤ聖者の教え/ジャスティン・オブライエン/徳間書店P475)と語っているシーンがある。

科学には、社会科学や人文科学もあれば、自然科学もあるが、この発言では、どちらかといえば自然科学方面のことを指す。

だが、主観をほとんど排斥した分析・推論の手法では、神の立ち位置はない。

伊勢神宮で例えれば、外宮だけ参拝して内宮には立ち寄らないみたいな。

出口王仁三郎の人間論では、肉体意識の権化として副守護神というのが登場し、本人が悪を行うのをそそのかす元凶みたいに霊界物語では繰り返し登場してくる。だから出口王仁三郎は、副守護神は悪玉でなく肉体機能維持のために必須の役割も持っているとも弁明している。

現代科学というのは、この肉体側、物質側のみを『客観性』がとれるという点で第三者に容易に証明し得るという簡便さから、偏重しすぎてきた。

捨象された主観は、躍動する生命全体からみれば、実は客観以上に、大きな位置を占める。ダライ・ラマもまさにここを指摘してきている。

本当の主観、人間の最深部の主観は、実は万人に共通であって、神仏につながってくる。

それを自ら確認する手段は、自分自身で体験するしかない。それが、冥想に取り組むということである。

人は、他人の深い体験を伝聞で知ったり、洗脳で植え付けられたりすることでは飽き足らなくなり、自ら体験しようという、最後の最深の願望が、ようやく浮き出ようとしてきているのである。

その体験とは言えない体験を。
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雪の跡

2018-01-28 06:02:26 | 時代のおわり
◎放っておくと危険

雪が降って6日目になるが、毎日の最高気温が上がらないせいか、雪のない道を曲がると突然アイスバーンが広がっているのに出くわし、どの氷のないルートを通ろうかと立ち止まることがある。

関東南部は、冬でも晴天の続く世界でも稀な快適な冬を過ごせる地域。
関ケ原では、冬型の気圧配置が強まると降雪になり、京都神戸は、雪雲が市街を覆うので、東海近畿の晴れ具合は、関東南部ほどではない。

関東南部の雪は、降って2、3日たてばほとんど消えるのが常だったので、これにはみな難渋している。

雪かきは、降り始めの固まっていない時期に雪を寄せておけば、アイスバーンになることもなく、すぐに乾いた地面になるものだが、その時期に何もしなかった道路がアイスバーンになっている。

また日陰の雪もアイスバーンになっているもので、融雪剤がなくとも雪国では表面に灰をまいたり、土や砂をまいたりして融雪を促進させる知恵があるものだ。

放っておくと危険であることがわかっていながら、放っておくのは、雪の跡だけではない。人類の運命も同じこと。人類の運命は自分の運命のことであり、ヨセフの息子の大工のイエス一人に任せても、すべて解決するわけではない(再臨したとしても)。一人では手が回らないので、万人が自分で手を出していかないと。それと神助を恃むという姿勢も要る。





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ヒトラーはわたしたち全員の中にいる

2018-01-27 06:07:55 | 究極というものの可能性
◎『叫び』や『怨み』など

死の探究者エリザベス・キュブラー・ロスがナチス時代の強制収容所跡のひとつであるポーランドのマイダネックを訪問したのは、まだマイダネックにの異臭がほのかに漂ってくる戦後まもない頃のことだった。

ここでは30万人以上が殺されたのだが、ガス室の扉が閉まる寸前に外に追い出されたせいで、家族は皆殺しとなったが、一人生き残ったゴルダという若い飛び切りの美人に出会った。

ゴルダは、ナチスの目を逃れるため、暖房も食べものない年月を土を掘ってそこで寝泊まりして過ごしたという。彼女が、キュブラー・ロスに対して、『ヒトラーはわたしたち全員の中にいる』と叫んだのだ。
(出典:人生は廻る輪のように エリザベス・キューブラー・ロス/著 角川書店)

伊勢神宮には外宮と内宮があり、外宮は、豊受であり、肉体の側である。人は精神と肉体そろって人間である。

肉体を持つ以上は、生滅があり、殺される展開もあり得る。だから、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が黄泉平坂を逃げ延びようとする時、伊邪那美命(イザナミノミコト)が日に千人取り殺すなどという応酬が神話に登場したりもしてくる。

ゴルダは大量殺りくはなぜ起こるかという疑問に対して、『ヒトラーはわたしたち全員の中にいる』と回答を立てた。これに対して、黙示録では、『叫び』のゆえに起こるとし、朝鮮の神人姜甑山は、『怨み』のゆえに起こると見る。

『叫び』や『怨み』が、人と人とのいさかいや国と国との争いの原因でもあろうから、『叫び』や『怨み』を解く工夫がいる。

それが日々坐ることである。
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聖者が友人として現れる

2018-01-26 05:24:11 | 冥想アヴァンギャルド
◎モラトリアムの終わり

悟っていない者が、聖者に会えば、師匠として崇めこそすれ、気楽な友人として付き合えるはずのものでもない。

ラーマクリシュナが、どんな悪人にも神性のかけらを見たように、聖者の側から見れば、万人は彼の友人である。だが、未悟の者が、聖者をして気を使わなくてもすむ友人の一人だと思っているならば、聖者と自分が対等であるという思い上がりの内にあるというだけ。

ここには、謙遜はなく、神への道は遠い。

最近は、皆アクアリアン・エイジャーになってしまったせいか、改めて聖者とその他諸人が友人として言祝(ことほ)ぐアクアリアン・エイジなどとは言わなくなってしまった。

だがアクアリアン・エイジ(水瓶座時代)にはなったものの立替え立直しは、未だ到来せず、クリスタル・ピープル予備軍のクリスタルは曇ったままである。

こうして1960年代に起こったアクアリアン・エイジの担い手たちは、70代80代となり、長いモラトリアムの時代を老いさらばえていっただけに見られても仕方のないところがある。

現代文明の良いところ悪いところを知悉していて、気力があるならば、そこに冥想メソッドとポスチャー(坐法)があるべきである。

そうやって、ある日の柔軟体操と五分間の冥想から新時代が始まる。

外は零下8度の厳寒である。
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タントリズムの4段階と3つの気づき

2018-01-25 05:23:11 | 究極というものの可能性
◎マーヤから無心へ

OSHOバグワンは、タントリズムには、4段階があるとする。

第一の状態 無心:すべてが潜在。ニルヴァーナ。

第二の状態 非発生:何も具現化していないが、具現化する準備はできている。妊娠。

第三の状態 非記憶:2歳から5歳頃までの、子供の状態で、その体験はすべて現実。だがその記憶はない。認識がないから知識も記憶もない。

第四の状態 記憶、思考:木の実を食べたアダム以降の状態。輪廻。

以上のようにニルヴァーナからマーヤまでが尽くされている。マーヤから悟りに戻るには、3段階の気づきが必要となる。

第一の気づき:記憶から非記憶へ。
あらゆる思考を観照するが、こだわらず、浮かんで過ぎ去っていくままにする。そのうち思考と思考の間に隙間が現れ始める。やがて思考が何時間も消える時間が出てくる。

第二の気づき:グルジェフの言う自己想起。思考は客体だが、客体と思考する主体の両方に気づき続ける。これが自己想起。

第三の気づき:主体を忘れ、客体を忘れ、純粋な気づきだけがある。焦点は合わせず集中していないが、注意深く、覚醒している。眠りやすいが眠らない。
(以上:タントラの変容/和尚/講話 市民出版社P201-218から抜粋)

ニルヴァーナは、言語に尽くしがたいとされるのだが、単に眠らないで覚めているなどと書くと大いに誤解される羽目になりがちだが、あえて、このようなわかりやすすぎる段階説を持ってきたインド人のフランクさを高く評価したい。

それを達成するのは、むづかしい、困難、大変と言い立てるよりは、日常性の延長の中でニルヴァーナは普通にあったと言った方が、プレッシャーなく入って行きやすい。意識に圧力をかけることなく、圧力をかけないままに覚醒に出入するというのは、東洋的であり、精神文明の揺籃の国ならであると感じる。

グルジェフ・ワークもそれだけでは、荒っぽいことをいろいろやらせるものだと思われがちだが、OSHOバグワンの位置づけにより、その意図がはっきりする。

この4区分は、ボディの区分でも、個から全体へという区分でもないが、意識の発展という観点からであり、有用なもののひとつではある。
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胃と堪えがたい感情を抑えつけること

2018-01-24 05:21:39 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
◎自己実現できないストレスのチャクラ

マニピュラ・チャクラは自己を社会で実現するチャクラ。ままならないこの世では、学校などで思い描いた自分の社会における人生航路がすんなり思惑どおりいくことはなく、まま予定外の障害や困難に出会って、怒ったり、貪欲さ凶暴さをあらわにしたり、嫉妬したり、憎んだり、攻撃的になったり、と様々な否定的感情に襲われる。

こうした不愉快な感情は、抑え付けられ、表に出さないようにするものだから、マニピュラ・チャクラをかき乱し、胃を痛め、吐きたい気分になったりする。

マニピュラは、自己実現のチャクラとされながら、自己実現できないストレスのチャクラにもなっている。

だから、ハタ・ヨーガでは、胃の対策として、塩の入ったぬるめのバケツ一杯の水を飲んで吐くという技があったりする。体内浄化とストレス浄化を水を吐くということで達成しようとする。

南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、オーム、などマントラにすべてを流し込む方法も結構行われている。事上磨錬などのカルマ・ヨーガ(一つ一つの仕事、家事を精密に行う)も一行専心となっていけば、そうした効果もある。

こういうのは、対症療法であって、根本的な対策ではないが、こういうのが役立つタイミングもある。

最もまずいのは、アプリでゲームもその一つ。何も改善しないばかりか、さらにストレスを高めることになる。

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インドの洪水伝説

2018-01-23 05:20:54 | 時代のおわり
◎魚は自らマヌの手に飛び込んできた

関東は4年ぶりの大雪。全土が禊をしたように白銀に覆われている。

インドにも洪水伝説がある。
『ある日の朝、人祖マヌが水を使っていると、一匹の魚が彼の手の中に入った。その魚は、洪水が起こって生類を全滅さすであろうと予言し、その時にマヌを助けるから自分を飼ってくれと頼んだ。

マヌは言われた通りにして魚を飼った。その魚は大きくなり、マヌはそれを海に放った。
その際、魚は洪水が起こる年を告げ、その時には用意した船に乗って自分から離れずに来るようにと言い残した。

果たせるかな、魚が予告した年に洪水が起こった。マヌが船に乗ると、魚が近づいて来たので、マヌはその角に船をつないだ。

魚は北方の山(ヒマーラヤ)でマヌを下ろした。

マヌは魚に言われたように、水がひくに従って少しずつ下に降りた。
その場所は「マヌの降りた所」と呼ばれている。洪水はすべての生類を滅ぼし、この地上にマヌだけが残った。』
(インド神話 上村 勝彦/著 東京書籍P37)

マヌが神に備えた供物からやがて女が発生し、マヌはそれにより子孫を得る。

この神話はノアの洪水によく似ているなどと言われるが、同じように万人が神をないがしろにする時代になれば、遠からず洪水は起きるものだと言っているだけ。

洪水は、地球という神の被造物のバランスが物質・肉体・人間の方に偏りすぎた揺り戻し。

人間と神とのバランスは、洪水などの天変地異に依らなくても、個々人が自分で調節することができる。

一旦は世界的大洪水により文明全体を滅ぼすほどのインバランスに立ち至ったとしても、名もなき一人一人が、日々冥想することで、世界のバランスの自動調節を重ね、最終的には大規模なカタストロフィーを回避することすらできる。

このメカニズムを科学的に証明する手段はないが、出口王仁三郎預言、ババジ預言などいわゆるメイン・シナリオ系預言に通底するのは、この原理だと思う。

魚は自らマヌの手に飛び込み、縁を造った。これも神意である。


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ババジ予言-3

2018-01-22 03:09:23 | 究極というものの可能性
◎偉大な破壊の時代

地球全体の広範囲な文明破壊予言に対しては、人は自分の生活が破壊されるという視点から、その原因と結果、予防策について、あまり冷静に考えないものである。

出口王仁三郎予言もダンテス・ダイジ予言もババジ・予言も、その起こる原因については共通しており、人類があまりにも神から離れてしまったことであるとする。

『これは偉大な破壊の時代であり、どの時代もこれに匹敵することはない。

革命は数分どころか数秒しか続かないだろう。

破壊的な兵器を発明した国々は破壊されるだろう。彼らは自分達が安全だと考えるべきではない。神の足もとに完全に明け渡すものだけに安全がある・・・・』
(ババジ伝/ラデシャム/森北出版P237ら引用)

この革命は、この破壊的大変動のことであって、共産主義革命やフランス革命のような政権の変更のことではない。

数秒しか続かないことについては、出口王仁三郎予言にもそれと思わせるような部分があるが、おそらく人間の想像を絶したものになるのではないか。

破壊的な兵器を発明した国々は破壊されるというのは、出口王仁三郎のいう原爆は日本が発明したから日本に落とされたと同列の予言であると思う。まことに不昧因果である。

神は人に罰を当てないが、人は人に罰を与えると出口王仁三郎は言う。だが、イエスを殺害したユダヤ人のその後のディアスポラ以後の運命も不昧因果であって、民族差別はいけないと人と人の間では言うが、神の遣わした預言者を殺害するというのは、そういうリアクションを招くものだというのは、これも大きな歴史の教訓である。

神の与えたもうた偉大な物質文明を自らの享楽と他人や他国と奪ったり争うことに汲々とする現代世界。これも神をないがしろにする時代の日々である。これがどういうリアクションを招くものだろうか。

それは心ある人ならば容易に想像できるものだろう。

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寺を持たない枯禅の花亭と夾山和尚

2018-01-21 04:51:35 | 丹田禅(冥想法8)
◎身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠し

唐代の破仏の時代、花亭和尚は小舟で往来しながら、これぞと思う嗣法の大器を探していた。ある日少々見込みのある夾山(天門)を見かけ、夾山の方から質問が来た。

※まっすぐな釣針で魚を釣るのは、周の太公望の故事。

『「毎日、まっすぐな釣針で魚をつっていられる、先生のねらいは何なのです」

「わしが千丈の絲を垂れている、そのねらいは千丈の水底だ。水面の絲の動きと安定・有無など、そんな釣り道具のような、舌頭三寸のかけひきなしに、君はどうしてわたしに問わぬ」

そこで、天門が問いかけようとすると、花亭はオールで、かれを正面からつきたおす。しかし、天門は逆に進み出て言う。
「先生の言葉は深い道理を含んでいて、言葉の域を超えています。舌先で言ってみたところで、まったく答えになりません(話帯玄而無路、舌頭談而不談)」

「わたしは今まで、まっすぐな釣針で魚を釣って来たが、ようやく今日は、一匹かかりおったぞ(毎日直鈎釣魚、今日釣得一个)」

そこで、告げて言う。
「竿の端から垂れている絲は、あなたのあやつり方次第です、静かに澄んだ水面を乱さぬ、あなたの心はまったく見事です」

花亭が、天門にたずねる。
「学生よ、君はいったい、わたしを捨ててゆく気か」
「はい、わたしは参ります」
「行くことは勝手だが、いったいあの事実を、見とどけたか」
「見とどけました」

「どう見とどけたのだ」
「岸の草を、見とどけました」
花亭は再び、言いふくめて言う。
「君はこれから、くれぐれも身を隠して跡をとどめず、跡のないところに身を隠して、それらの何れにも、とどまってはならぬ(蔵身処没跡、没跡処蔵身、不住両処)、これがわしの教えだ」』
(純禅の時代 [正] 祖堂集 柳田聖山 禅文化研究所p39-40から引用)

夾山(天門)は、既にそれを得たが、ひらけらかしてもいけないし、それにこだわってもならないと戒められた。

今でも自宅の自室で坐るのなら。枯禅の時代である。
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ババジ予言-2

2018-01-20 04:34:48 | 究極というものの可能性
◎核兵器すらも役に立たない

明治30年頃に出口ナオ、出口王仁三郎が、世界の終わりを白昼に見て、ババジが人類生存率の似通った世界の終末を1970年代末に見るまで約90年。この間、この世界のバランスはそう変わりはしなかったのだろう。

こういうのをメイン・シナリオと呼ぶ。ネガティブ予言は、とかく下層霊界、つまり地獄を霊視しているのだと敬遠されがちなのであるが、霊界にあった地獄がこの現実世界に移写されるのを見ているだけだとすれば、日々の我々の生活が地獄的な要素が相当あるから、そういう予言を目にするのだということになろう。

ババジ予言。
『「新兵器の開発で自国を救えると信じる国々は、この考えを捨てた方がよい。それは可能なことではない。皆、現在(一九八三年)のイランでの出来事を知っているだろう。以前は誰もホメイニの名など知らなかったが、彼は突然に欲するもの全てを手に入れた」

「革命の炎は現在世界に広がっている。この火を止め、熱を下げることのできる力はどこにもない。ロシアとアメリカのよう超大国も、彼等の新兵器をもってさえ、この〔火〕に対抗することはできない。彼等の発明したものは何の役にも立たない。全ては破壊される」』
(ババジ伝/ラデシャム/森北出版P233から引用)

革命といえば、真っ先に共産主義革命をイメージする人が多いが、この革命は、自分が逆さまになることである。この革命では、武器や軍事力は使わない。自分がひっくり返るためには、ババジは、勇気と正義のために死ぬ覚悟が必要とする。

ババジは、何の保証もないが、勇気と正義のために死ぬ覚悟を求めているのだ。この革命は、精神の革命だが、それはすべてを破壊する火でもある。
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ババジ予言-1

2018-01-19 03:06:59 | 究極というものの可能性
◎世界を襲う「火」を止められる者はいない

世にネガティブ予言は多いが、その中でも厳しいのは、カタストロフィ経過後の人類の生存率が1割未満の予言である。

こういう縁起の悪い予言はなかなか伝播されないものであって、私の知る限り、出口王仁三郎予言くらいのものであって、これに今ババジ予言が加わった。ただイザヤ書の予言は人類絶滅であって、出口王仁三郎予言、ババジ予言とは一線を画すものである。出口王仁三郎予言、ババジ予言には人類を一人でも多く残そうという意図がある。

1979年7月のババジ予言。

『全体に及ぶ革命の余波で、大小に関わらず容赦される国はない。ある国々は完全に消滅し、何の形跡も残すまい。国によっては、3~5%の人口が容赦され生き延びるだろう。

(中略)

現在、悪鬼のような影響が人類を巻き込んできた。人は争い、むさぼり合い、互いを破滅させようとするだろう。
まず破壊が来る。それから小康が訪れ、平和に至るだろう。ある国々は完全に破壊される。』
(ババジ伝/ラデシャム/森北出版P230から引用)

この平和とは至福千年のこと。

ババジは、さらに『世界を襲う「火」を止められる者はいない。』として破壊が必要であることを説く。

出口王仁三郎予言は、日本の予言であって、ババジは完全に世界予言。

この文明の成果は、通勤通学や運転時に万人がゲームをできるようになったということだけなのか。外面を取り繕い、人前で悪いことをせず、自分一人いい目にあうことが文明生活なのか。自分らだけうまい儲け話に乗って甘い汁を隠れて吸い続けるのが文明人なのか。

ババジの危機感は、奇しくも全人類のみならずあらゆる生物無生物全体におよぶ。

要するに隠して行った悪事も、それによって迷惑を被ったすべての衆生・万有がすべて露見させられ、その総決算を求められる。それが文明破壊の必要性である。
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カトリック宣教師と戦国時代の禅僧

2018-01-18 05:35:29 | キリスト者の秘蹟
◎永遠不滅の霊魂説

ルイス・フロイスが、彼らの永遠不滅の霊魂説に対して、禅僧の反論を報告している。キリスト教では、人間には永遠不滅の霊魂があるが、動物にはないとする。

『『もし(私たち宣教師が)彼らに提示しようとする魂があるならば、そして人間の死に際して、何らかの動物の場合と同じように目撃され得ないのならどのようにして、肉体の外に分離し、生きたままでいるものの何らかの兆候を(私たち宣教師は)彼らに示すのか)』
(1565年3月6日書翰)』
(宗教で読む戦国時代/神田千里/講談社P43から引用)

宣教師の説が正しいのなら、その死者の魂を実地に見せてみよというのが禅僧の反論である。

仏教では、輪廻転生からの解脱がああり得るが、そうした苦からの解を与えないカトリックはまともな宗教なのかと禅僧は疑ったのである。

人間は、アストラル・トリップや死に際して、微細身が離脱する。しかしそれを証明するには、宣教師も禅僧も霊的感受性、霊が見えなければならない。

しかしそれが見えれば、霊魂の行く先も見え、仏説のとおり、動物も人に転生し、人も動物に転生する場合すらある。よって、カトリックの動物には霊魂がないという説は、いかにもとってつけたような説に見えたのだろう。

これは、現代の解釈だが、禅のアプローチとしては、ないものはない、あるものはあるという現実に直面することからスタートするので、いきなり神の実在や人間の霊魂不滅から入る教義には、このような「現実」から攻めるのが効果的だったのだろう。

この議論は、イエズス会で欧州向けに出版される「日本通信」からは、欧州信者には不適当とされたのか、削除されたそうだ。

どの宗教にもセールス・トーク的なものはあるが、言霊の幸はふ国日本で新宗教を起こすのは、他国よりむずかしい。
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日本人と奇跡への期待感

2018-01-17 05:23:48 | 冥想アヴァンギャルド
◎奇跡は突然には起こらない

ドストエフスキーの小説カラマーゾフの兄弟で、ギリシア正教会のゾシマ長老が周辺信者などから、死にさいして、死体が腐らないで芳香を発するなどの奇跡を期待されたのだが、予想に反して、ゾシマ長老の死体は腐臭を発し始め、周辺の人々に、奇跡が起こらなかった当惑が広がっていったくだりがある。

これに対して日本人の奇跡への期待感は、童話笠地蔵の話が一つのシンボルである。老人が、雪が降りしきる大晦日に、売れ残った笠を町はずれの地蔵様にかけて帰宅したら、老妻だけがそれを喜んでくれた。その夜地蔵様が返礼の宝を満載して自宅前に置いて帰っていったというもの。

そんなことは実際にはほとんどないかに見える。でもそれは一日一晩では起きることはまずないが、人は何十年かけて、細かなとるに足らないように見える善行を積み重ねて、大八車に満載された宝を得るということはわりとあるものだ。

時間軸を何十年と長くとれば、笠地蔵のような奇跡はよくあるし、一日一晩でそれが起きないことも日本人は生活の知恵として知っている。ロシア人と違って、その辺の分別はあるのが日本人というものだ。

本家ババジも人間にとって最も重要な修行法の一つはカルマ・ヨーガだとも言っている。因果は昧(くら)ますことはできない(不昧因果)。カルマ・ヨーガに一発逆転はないが、現世利益を積み上げることはできる。

だが、積み上げた現世的メリット、この世的幸福や金は、時間が経つにつれ変質し、死によってすべてを喪失することが見える。そこで人は、人生の空たるに直面し、それまでの頑なな考え方に飽くまで退行したり、絶望してうつや自殺に行ったり、オープン・マインドして直面して覚醒に向かったりする。

ゆえに万人にとって、この世で生活するというカルマを果たしつつ、この色即是空の局面に準備をするというのがノーマルな求道生活である。

出家者であったスワミ・ラーマなら、名前は肉体に付属するが、魂は死をはさんで継続するみたいに、はなからこの世的幸福を問題にしないのだが、凡俗はそうはいかない。

超人的能力を発揮する人というのはいるものだが、そうした人は前世から修行を積み重ねているものだと思う。

ハタ・ヨーガをやる人は、ハタ・ヨーガで鍛え上げた肉体でもって次の転生で覚醒しようと目論むものだし、出神を一生修行してきた気功の人もその人生ではちょっとしか出神しないこともあるので、次の転生で勝負をかけようと思うこともある。

音楽、絵画、将棋、囲碁、スポーツなどで、そういう超人的能力を示す人がいた場合、世間では生まれつきなどというが、一回の人生ではそうはなるまいと思う。それこそ何回も生まれ変わっては、同じ道での努力を積み重ねてきた人物なのだろうと思う。

奇跡は突然には起こらない。
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