アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

2017年の終わり

2017-12-31 05:59:20 | 時代のおわり
◎神殿に神は在さねど人々の斎むたびに天降りますかも

この一年間のご来訪ありがとうございました。

今年は、まず夏場の台風の連発、10月の異常な長雨、12月の厳寒の連続、そして北朝鮮をめぐる軍事情勢の緊迫が印象に残りました。そしてハタ・ヨーガと冥想に関心を寄せる人が増えてきたこと。さらにスマホ・ケータイのゲーム・SNS中毒は、どんどん深みにはまっていること。

マスコミも、依然としてオウム真理教事件の影響か、宗教系のテーマや冥想系のテーマには、どうしてもメンタルと肉体の健康増進という視点か、興味本位の視点のいずれからも抜け出せてはいません。

この一年はいくつかのトライアルをやってみました。印象に残っているのは、次のようなものです。
1.パタンジャリのヨーガ・スートラの読み直し
2.現代人が悟りに向かわないボトルネックの洗い出し
3.江戸時代から明治にかけての禅者のエピソード発掘
4.隙間あるいは裂け目と天国と地獄の結婚の位置づけの明確化
5.クンダリーニ・ヨーギ本山博の「日本の怨みを解く」、「不動明王ステージ」などの再検討
6.両性具有の深堀り
7.タロットの図像研究

このようにテーマには、バリエーションがありますが、年末近くになって、アクセス数が増えてランキング500位くらいになってきたのは、時代が変わってきて、やや切羽詰まってきたのかなと思います。

特に1、2、4、5、6、については、相互に関連しており、それらのつながりをさらにうまく説明するのが来年のテーマになると思っています。
天国希求から「天国と地獄を超える」ということです。

悟りへのプロセスは、禅の十牛図うしかひ草などで説明できているとは言え、食い足りないことも事実であり、また人は頭でわからないと行動に向かわないというのもまた法則だからです。

いよいよOSHOバグワンやクリシュナムルティの本は読まれなくなってきています。それも時代の流れ。若い人には新たな革袋で新たな葡萄酒が要るのだろうと思います。


出口王仁三郎の霊界物語第三巻第十八章の余白歌から
『信仰


神殿(かむどの)に神は在(ま)さねど人々の
斎(いつか)むたびに天降(あも)りますかも』
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ダンテス・ダイジ没後三十年

2017-12-30 06:11:23 | 究極というものの可能性
◎魂の正統的な発達プロセス

毎年12月、関東では初雪が短い時間に舞うことがある。

ダンテス・ダイジは亡くなる直前に、自分が死ぬ時は、華が降ると予告しており、ある冬の日にその純白の無数の華が地上を覆ったのを見て、弟子はその死を確信したという。

20世紀の覚者たちといえば、出口王仁三郎、クリシュナムルティ、OSHOバグワン、そしてダンテス・ダイジ。そしてスワミ・ラーマもそうだし、その師ババジも入る。

いずれも1990年代初頭には、すべて亡くなっている。以後大物覚者の世に出ない時代となって三十年近くなる。

暁闇は、ひとしお暗いというが、暗さが暗ければ暗いほど、反転した時の光輝は譬えようもなくまばゆいものになる。ただ必ず反転するかどうかは、定まったものでなく、一人一人の取り組み具合による。

どんなひどい時代にも覚醒した人はいたものであるが、その数は極端に少ないものであった。今地球人口が70億であれば、地球ロゴスが地獄に陥らないために必要とされる覚醒した人の数は相当な数となるだろう。

ゆえにこの時代大物覚者は数人出てきたとしても、あるいは数人の救世主が再臨してもどうにもならないほどに、人間の数は増えた。

増えた人間たちには、恋人や妻子が与えられ、やがてそれは奪われ、嘆きが与えられる。

奪われる前までは、天国的な状態は人を癒し、解放されたような気分に昂揚する。しかしそれは永続するものではなく、やがて願望実現、欲望満足のような天国的な状態が通用しないステージに上ることになる。

それが魂の正統的な発達プロセスというものだろう。

天国的なものが本当に通用しないことを見切るには、イエスですらその直前に悪魔に誘惑され、釈迦ですら涅槃に入る直前に悪魔と会話を重ねた。

このように大物覚者ですら、切羽詰まった対応を強いられる。いわんや凡俗においてはさらに厳しい試練となる。

こうしたカルマという長い映画のフィルムのコマとコマの隙間に天国的なものが本当に通用しないパートが混じっている。

それは恐ろしいものだが、一人一人が自分で向き合わねばならない。

大物覚者がすべて隠れてしまったというのは、そういうシチュエイションに大衆一人一人を追い込んでいくトライアルなのだと思う。

ダンテス・ダイジ没後三十年。その機が熟したかどうかは、自分自身がよく知っているのではないか。
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絶望からの信仰は正しい態度ではない

2017-12-29 05:39:32 | 冥想アヴァンギャルド
◎生活上の不安の少ない人たち

イエスも釈迦も在世中の教団は貧しくて、貧乏人、窮迫者にも説教していたので、しばしば生活困窮者のための心理的自己満足のあり方が宗教だ、信心だなどと誤解されやすい。

その一方で、イエスの荒野の断食40日とか、出口王仁三郎の高熊山の断食一週間とか、食べるものも何もない状態が、驚きの目で強調されがちなので、そのような絶望的な状態でも平常心で神仏を確証できているのが宗教者のあり方だなどと思われがちなものである。

だからこそダライラマは、わりと豊かな生活をしている人の無宗教的生活態度をとがめる。

『絶望からの信仰は正しい態度ではない


ところが、今日、物質的に恵まれない人々に信仰心の篤い人が多く見られ、
豊かな人々があまり宗教を顧みないと思われる場合が多々ある。そこで、信仰心、宗教的献身と物質について考えてみよう。

貧しい人々、しいたげられた人々が宗教に帰依するとき、純粋な信仰心からというよりも絶望から身を信仰に捧げる場合がある。これは正しい態度だとは言えない。

もし、あなたがたいへん貧しく、物質的にひじょうに窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう。まるで何も持たずに、すべて所有していると信じるのは愚かだろう。あなたが今、現在、その手のうちに所有するものが不足していて、より多くのものを望む、その望むことの中に信仰の意味を見出しているなら、あなたの信仰とは、それが満たされている状態のことである。

あなたがまだ物質的な充足の限界を知らない、信心の限界も、宗教的な献身の限界も、心的世界の限界も知らない、それこそが正しい状態だと言えるだろう。』
(ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議 14世ダライ・ラマ/著 クレスト社P130から引用)

ハタ・ヨーガの最終的狙いは、ラージャ・ヨーガクリヤ・ヨーガであるように、冥想修行者にとって日々の安定したペースでの衣食住と肉体の健康と快適さは基本である。できれば専門道場のように働かなくとも食べられる環境が良いのだろうが、誰もがそのような場所で修業できるわけではない。

一木一草百均の一商品、一滴の水ですらも無駄に使わない。生死事大、人間の寿命はいつ突然に終わるかもしれないので、一瞬一刻をもゆるがせにせず、時を惜しんで使う。自分のために物事を費やすときには自分があってはいけない。等々、冥想修業は、フランクで真摯で快活な中に、細かく守っているルールがあるもので、それは他人の目からは見えにくいし、他人に披歴するようなものでもない。

物質的窮乏のない環境にあって、さらに豊かな他人と比較するのは、妬みそねみが根底にあるものだ。不足していることを憂えずというのは、折れた椅子の足を縄で縛って使っていた禅僧趙州を引くまでもなく基本的姿勢だ。

この引用文の標題は、貧しい人がターゲットではあるが、豊かな人もターゲットになっている。

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五木寛之の寺社巡り番組

2017-12-28 06:09:10 | 冥想アヴァンギャルド
◎日本の万教同根

五木寛之の寺社巡り番組を見ることがある。

日本の寺社は、蘇我氏物部氏の争いの結果、仏教が入ってきて、仏教優勢のまま推移したことで神仏習合が起こる。

平安時代から鎌倉時代にかけて、空海、最澄、法然、親鸞、一休、宗峰、道元、日蓮など主要仏教各派が出そろう。

応仁の乱から織豊時代を経て、仏教の国家管理の時代が来て、ここで仏教は幕府と一体化してしまう。

明治維新で廃仏毀釈が起こり、それは短期間で収まるものの、僧の妻帯が認められるなど、その後の仏教の行く末に大きな影響を残した。

明治中期から政府は国家神道の体裁を整えていき、日本は昭和に入ってからは、国家神道によるカルト国家のようになってしまった。仏教各派も戦争協力させられ、敗戦は宗教各派に大きな爪痕を残し、仏教各派は、戦後本山乱立による分派の時代となる。

こうした揺れ動きを経ているから日本の寺社は、一つの宗派をかたくなに守れているところは数少ないのではないか。

そうした仏教寺院で、万教同根とはいかぬまでも宗派の別にあまりこだわらない寺院がある。

その代表格は、長野の善光寺、大阪の四天王寺など。

恥ずかしながら五木寛之さんの番組を見なければ知らなかった。

東大寺や比叡山延暦寺は、宗派の別は立てているのだろうが、各宗派の開祖を出しているということでは別格である。
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ダライ・ラマのマンツーマン輪廻否定

2017-12-27 05:28:45 | 密教
◎一つの輪廻から十の輪廻

ダライ・ラマ「死の謎」を説く」から。

『一つの輪廻から十の輪廻を実現する形態がある

飛び抜けて深く、強い精神的な経験、実践を重ねて来た魂、そのような存在にとっては、一つの生命がついえたからといって、また新たな一つの肉体が必要というわけではない。むしろ、そんなものは不必要である。

そうした存在は、一つの輪廻から十の輪廻を実現するだろうし、ときに数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行なうものなのだ。深く深く精神の最深部にまで到達した存在にとっては、こうした輪廻転生の形態もありうる。もちろん、これは言葉で表現できないほどに困難な道ではあるのだが。

複数の輪廻が同時に可能になるという思想の形を信じることは容易なことではない。こうした考えを受け容れることは誰にとってもむずかしい。学び、経験し、相当の水準に達した者にとってさえ、これを思い描くことは困難であり、大きな苦労を伴うものだろう。そう言う私自身も、ときにむずかしいと感じることがある。輪廻思想は奥深いものだ。』
(ダライ・ラマ「死の謎」を説く 輪廻転生-生命の不可思議 14世ダライ・ラマ/著 クレスト社P72から引用)

人の誕生において、ダライ・ラマは、このように一つの輪廻から複数の輪廻があり得ることを語る。反対にダンテス・ダイジは座談の中で、一つの肉体に複数の輪廻が共存することもあり得ることも語る。

今読んでいる、「ヒマラヤ聖者 最後の教え」では、老ヨーギが自分の老いさらばえた肉体から自発的に脱出し、以前から目をつけていた若者の肉体に乗り移るという話が出てくる。
このケースでは、一つの肉体に先住輪廻者と後発輪廻者が共存する。

これは、ダライ・ラマともあろう方が常識はずれなことを語るものだと読み飛ばさないで、現代社会が一つの精神に一つの肉体という固定観念に毒されすぎであることに対して、ことさらにこのような話を出してきていると読むのだろう。

神の心は石ころの心。神は、時に人間の都合などまったく顧みないが、そこから流れ出すのも愛なのである。その流れの中に生と死がある。

この時代は、基本的人権の尊重で個人の権利がアプリオリに保護されるせいか、無意識にマンツーマン輪廻が当たり前と思い込んでいる人が多いが、生命の実態はこのように予想に反するものである。

まともな感性の人ほど、心配しすぎとか、気にしすぎとか、どうでもよいことにこだわるとか見られがちなものではある。

また真剣な求道者ほど、俗人にわからない細かく微妙なルールでもって生きているものである。
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知ることと体験すること

2017-12-26 05:35:17 | 冥想アヴァンギャルド
◎悟りそうな人たちへ

まず人は、経典を読んだり、言行録を読んだりして、その教えがどのようなものかを知る。

理屈でわかった気になっても、実際に体験してみると、結婚、交際、海外生活、事業、出家神秘体験などなど、世の中の物事には深みや落とし穴や慮外の美点があるもので、かつまた実際に体験した後でも足を踏み外すことすらあるものである。

こうして体験することで、熟達と安定がもたらされる。

しかしその至高の体験にこだわったり慢心したりすると、罠にはまったりするものだ。

体験を得た人に対して、これからは、それを忘れて生きて行きなさいとか、そのことを棄てて生きて行きなさいとか、師匠は妙なアドバイスをするものだ。

覚醒は人に莫大なエネルギーを与えるが、それをどこにつぎ込むかは自分の自由である。しかし些細な気まぐれから、名誉や評判や世間での成功に関心を見せた途端、世間の方がほっておかず、その世俗なものすごい勢いに巻き込まれて失敗するということはあるものだ。

ダンテス・ダイジも体験至上を戒めて、悟りとは態度だなどと言っている。

悟りが遠い人には体験至上を言い、悟りそうな人には、体験至上を戒めるということはあるのだろう。

この坐ることに意義を見つけるのが困難な時代に、それでも坐る人が求められている。

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スワミ・ラーマの師の肉体死と離脱

2017-12-25 06:05:22 | 現代冥想の到達点
◎生と死の秘密

『ヒマラヤ聖者 最後の教え(上)/パンディット・ラジマニ・ティグナイト/ヒカルランド』P245には、スワミ・ラーマの師匠であるグランド・マスターが、意識的に肉体死となり、肉体から離脱したくだりが描かれている。

体外離脱することは、世間にはヘミシンク本があふれており、珍しくもない。しかし、それは肉体死を伴うものではない。

だが、この本では、ラサ近郊の寺院にいたグランド・マスター(ババジとは別の人)が、スワミ・ラーマの目の前で、心とプラーナのエネルギーを完全に統御することで、心臓の鼓動も脈拍呼吸も停止し、肉体死となった。

さらに事前に別の僧の肉体死も発生させておき、グランド・マスターはこの僧の肉体に乗り移ってその口で、自分のいなくなった肉体の手足の状況を説明し、それから自分の死んだ肉体にもどり、どう呼吸を再開し、体と心のつながりを復活させていくか解説した。

グランド・マスターは、物理の実験と同様に、このように生きながらにして死んでみなければ、誕生と死の原理を真に知ることはできないと語った。

結局、物理の実験で言われる再現性をここでやって見せたが、客観性の方は、第三者として見ている人間がそれを過去のそのシーンに行くことでしか追えない。

生と死の秘密を真摯に疑い学ぶ人だけにこういうシーンが到来する。

現代文明の根底は死の恐怖によって成っているからには、こういう場面が問題になるのが、正統な発達過程の一つだと思う。

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ババジの謎

2017-12-24 07:07:51 | 現代冥想の到達点
◎神でないものとの時間を一切持たぬ人物

インドでは、○○ババという人のことを尊称か愛称かわからないが、ババジと呼ぶらしい。

だからインドでは、ババジというのは掃いて捨てるほどいるので、ババジはありきたりと思うかもしれない。

ところがババジ中のババジがいる。

このババジは、サンジェルマンのように俗人の前には出現しない。出会う準備のできた修行者の前にしか出現しない。

その点では、ダンテス・ダイジも同じだった。出会う準備ができた人の前にしか現れない。

そのダンテス・ダイジが、インドのボンベイだかの町を歩いている時に、ババジと出くわして、思わずババジに対して「How did you get it?」(要するに、どうやってその高みを得たのかということ)と問うて、それをきっかけにクンダリーニ・ヨーガの真髄を伝授されたという。

先日、『ヒマラヤ聖者 最後の教え/パンディット・ラジマニ・ティグナイト/ヒカルランド』を読んでいて、このババジのことが出てきたので、この本は久々のスマッシュ・ヒットかなと思った。

この本は、著者のグルであるスワミ・ラーマのことを書いた本なのだが、スワミ・ラーマは、ババジに教えを受け、著者はスワミ・ラーマの侍者。

著者は、ババジのことをヒマラヤのいと高き頂から来た聖者であり、時折肉体で人の間を歩き、スワミ・ラーマのように完全に準備の整った求道者のみを指導する、と説明している。

著者は、スワミ・ラーマに「本当にいつもババジといらしたのですね!」と失礼な質問をしたら、「神でないものとの時間を一切持たぬ人物と、どうしたらともにいることができよう?」と返してきた(出典:上掲書P129)

これぞババジの本質を言い当てている表現だと思う。

さて書店に行くと、なんだかヒマラヤ聖者を冠した本が結構あるものだ。

ヒマラヤ聖者の生活探求』、『ヒマラヤ聖者への道』は、霊がかり系であり、悟っていないが単にヒマラヤで修業したことのある行者みたいな本も結構ある。ババジ伝という本もあまり感心しなかった。

それほど似非ヒマラヤ聖者は多く、もちろん中国領カイラス山に登ったり、そのふもとのマナサロワル湖観光したのが証拠ではないが、時に本物聖者も粛々と歩いていることがあるのだろう。

ババジはクリヤ・ヨーガ(クンダリーニ・ヨーガ)の大マスターであって、かのアメリカで活躍したパラマンサ・ヨガナンダは、ババジのことを「近代インドのヨギ-キリスト」と呼んだ。


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ドラッグと正気

2017-12-23 06:56:37 | ソーマ・ヨーガ(冥想法5)
◎音楽が見え色が聞こえ

向精神性薬物を投与すると、人は時間、空間の認識を失い見当識すら失うこともある。
LSDでは、アルチュール・ランボーではないが、音楽が見え色が聞こえるなどという。

出口王仁三郎の道歌
『耳で見て目できき鼻でものくうて 口で嗅がねば神は判らず』

クンダリーニ・ヨーガで見ているこのような世界は、私たち自身があるがままに世界を見ているのだろうが、その世界は、奇しくもラリッた世界に近いところがある。

クンダリーニ・ヨーガや、ドン・ファン・マトゥスのソーマ・ヨーガでは、いわゆる秩序とコントロールと正気のもとに、その世界にコンタクトし活動する。

一方このような師匠なしで、『科学的に』向精神性薬物を投与した場合、このような時間・空間の認知を失う状態が一時的に発生するが、元に戻ることになっている(戻らないケースもあるようだ)。

臨死体験ですら、その体験したとされる中身は、非常にばらつきがあり、こうした向精神性薬物投与でも、得られる状態は、バッド・トリップが多く、この一なるものやキリストや釈迦を見たなどの成功例は少ない。

シャクティ・パットはエネルギー注入などではなく、口を切るだけだといわれる。こうしたドラッグ投与も同様の位置づけなのだろう。ドラッグ投与は、不必要な霊道を開くことでもある。

クンダリーニ・ヨーガとかソーマ・ヨーガの師匠からみれば、真正の宗教体験を持たない人間がこうした危ない薬物を投与するのは、あらゆるろくでもない結果が待っているということなのだろう。

自分自身に準備ができているか、すべてを捨てる覚悟があるか、そのグルは本物か、など求められる条件は厳しい。

それでもそうしたドラッグを、無慈悲にも実験しようとした人はいたようだ。

『一九五一年、ポワンサンテスプリというフランスの小さな村が、一夜にして全村狂ったようになった。村のおえら方がいく人か、窓からロ一ヌ川へ身を投げた。かと思うと、ライオン、虎、そして「ロバの耳を持つ強盗」が追いかけてくると悲鳴をあげながら、通りを走り抜けた。たくさんの死者がでた。
生き残った者も、数週間はふしぎな後遺症に苦しんだ。
ジョン・C・フラーは自著『聖アントニウスの火がおそった日』で、このふしぎな事件を麦角菌がついたライ麦粉のせいだとしている。』
(アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命 マーティン・A・リー/共著 第三書館P49から引用)

こうしたものを群集鎮圧とか、都市ゲリラ戦などで使おうと発想する人がいるのもまた事実なのである。

このレベルはひどいかもしれないが、こういう意味でも、まことに人の意識・無意識は心理現象でなく、現実直結ではある。きれいごとでない部分がある。ノン・デュアリティとはそういうものである。
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愛の生ける炎-2

2017-12-22 06:06:36 | キリスト者の秘蹟
◎愛撫のような深傷!

十字架のヨハネの詩から。
『第二の歌

おお こころよい焼灼!
おお 愛撫のような深傷(ふかで)!
おお やわらかい手!
おお 軽やかな触れあい!

永遠の生命の味わいをもち
負い目のすべてを支払う!
それは死なせながら、死をいのちにとり換えられた。』
(愛の生ける炎/十字架の聖ヨハネ/ドン・ボスコ社P59から引用)

モーゼは、『主なる神は焼き尽くす火』(申命記4.24)と語ったが、これは愛の火。人を焼き尽くすイメージは、サラマンダーであり、不動明王。またノストラダムスの最後の大火災でもある。
『私たちのうち、誰が焼きつくす火の中に止まることができよう』(イザヤ書33.14)
『われらの神は、実に焼きつくす火である』(ヘブル人への手紙12.29)

それは深傷でありながら、上方に向かう力を有し、やわらかで軽やかである。だが、その深傷は、致命傷であり魂の最深部まで貫いてしまう。

ここで、子あるいは個なる自分は死に果て、永遠の命というまったく別次元の再生に顛倒した。子あるいは個である限り、永遠不壊は属性ではない。

自分が死ぬことにより、苦悩と引け目というカルマをすべて帳消しにした。(不昧因果

この名状しがたいなつかしさ、甘美さ、ここちよさよ。愛のあじわいよ。
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無意識を薬物で表面化させる

2017-12-21 05:32:34 | 究極というものの可能性
◎個人的な秘密のくずかご

1950年代アメリカでは、効果的な自白剤の開発に余念がなかった。

『真実を吐かせるドラッグという概念自体が、最初から少々荒唐無稽ではあった。これにはまず、精神のほうが自己検閲をする傾向を、化学薬品でバイパスし、精神を裏返してしまい、かくしていた秘密をどっと吐きださせる方法があるはずだという考えが前提になっている。

そして吐きだされた個人的な秘密のくずかごから、求める「真実」に近いものを手にいれられるという前提が
あった。

この点で、CIAが求めていたものは、鉛を金に変えるとされた「賢者の石」とか、デソトら探検家がさがし求めた「不老の泉」など、おなじみの神話の歪曲版といったおもむきがあった。

つまりなにかにふれたり、摂取したりすれば、たちどころに知恵、不死、永遠の安らぎがえられるといったたぐいの幼稚さが見られたのだ。』
(アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命 マーティン・A・リー/共著 第三書館 P18から引用)

この開発がうまくいったかどうかわからないが、現場では、あまりにも膨大な個人的な秘密のゴミ情報に当惑し、目指す価値ある情報にたどり着くのは大変な労力が必要になったのではないかと思う。

こういった、個人的な秘密のゴミ情報は、冥想シーンでは、雑念、妄想であり、相手にしない、棄てることを励行されるものである。

個人的な秘密のゴミ情報は、個人的無意識とも呼ばれ、その情報群は多重であり、複雑にからみあっており、想像や嘘や思い込みや推測や真実もがんがん入り混じっている。

これに不安、恐怖、喜び、爽快さ、生きづらさなどの情動も加えられて、そんなゴミためを覗いても労多くして益少なしではないかと思う。

だが無意識の世界は、死の世界でもあり、無意識の心理現象は、その奥底で、現実そのものの形成力となり、現在と過去と未来をも構成している。

忙しい現代人にゴミ箱のゴミをチェックしている余裕はなく、ただ確かなもの、本当にしっくりくるものを求めるというのが、まともな情熱というものではないかと思う。

ヨハネによる福音書8-32
『真理はあなたたちを自由にする』
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日本人の習い事第一位がヨーガ

2017-12-20 05:26:48 | ハタ・ヨーガ(冥想法3)
◎目的を持たない冥想へ

NHKによると、日本人の習い事第一位がハタ・ヨーガだそうだ。サッカーの長友や、ゴルフの宮里藍などそうそうたるアスリートの他、片岡鶴太郎、ジョブズなど、芸人やIT長者でもハタ・ヨーガに取り組む人は多い。

しかし、スポーツ・ヒーローでも、一流芸人でも、彼らがハタ・ヨーガに取り組んでいるとしても、本当に行きついているか、本当の幸福を実感しているかどうかは、全く別のことであり、社会的に上り詰めるほど、本当の幸福を実感していないことから来るプレッシャーは強いものである。

冥想の準備として、身体の柔軟性は基本であり、体内のガス抜きもまた基本である。よって柔軟体操、ハタ・ヨーガ、呼吸法は大体日課に入っているものである。

そこで窮極を視野に入れた只管打坐かクンダリーニ・ヨーガに取り組むというのが、21世紀のスタイルだろう。

いつまでも社会的成功を目的とした邪道な冥想、それに伴うストレス解消目的冥想や、快適な生き方のみを目的としたファッション冥想をやっている場合ではないだろう。

快適な生き方は天国志向だが、社会的成功も天国志向っぽいが反面地獄も作り出す。天国志向だけでは、通用しないことを、この知性の発達した現代人は皆内心わかっている。
(天国志向で愛に出会う人もいますけれど。)

そこで天国と地獄の結婚とか、無用の用が待望されるのだが、これはなかなか知的理解の及ぶところではない。


さて禅には呼吸法はあってもヨーガはない。そのせいか老冥想家は、しばしばちゃんと足を組めない。

天童如浄は、他人の只管打坐指導ばかりしているが、自分はちゃんと坐れないと言っているし、大燈国師は、足が曲がらないので、逝去時は、足を骨折出血させながらも足を組んで坐ってみせた。
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ありのままに、あるがままに

2017-12-19 05:46:54 | 究極というものの可能性
◎憑依型の霊能力者など

『私たちはものごとをありのままに見るのではない、
私たち自身があるがままに、ものごとを見るのである

タルムード
(アシッド・ドリームズ CIA、LSD、ヒッピー革命 マーティン・A・リー/共著 第三書館 巻頭から引用)


チャネリング、帰神では、神を降ろすのだが、よりましの状況に応じて降りてくる神の純雑が変わってくるし、よりまし自身には、どんな神が降りているのかわからないという特徴がある。

チャネリング、帰神はよりましのための修行法なのだろうか。

よく霊能力者が感得する神霊とは本当に神霊なのかは疑問のあるところであって、本当に神がかりであれば、どんな神霊かは自分では判別がつかないのがノーマルと言える。

憑依型の霊能力者、チャネリングの最終ステージでも、見ている自分が残ってしまうのだろう。見ている自分を残さないと降りない?

憑依型の霊能力者は、肉体と微細身のインバランスによって発生しがちなことは知られている。

この時代は、ゲームのやりすぎやSNSのやりすぎで肉体と微細身のインバランスを既に起こしている人が多く、またインフルエンザ薬の副作用でも異常な現実感覚に入ることがあることが知られるようになった。

こうした人間が闊歩する時代には、『あるがまま』を外に求めることはとても難しい。神社仏閣のご朱印を集めても『あるがまま』になることはなく、まして『あるがまま』になるため坐るというのは、その動機の不純さの自覚の故に、あるいは自分に対する恐怖の故に恐ろしいことでもあるのだろう。
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柳生の無刀取り

2017-12-18 05:33:59 | 究極というものの可能性
◎柳生宗矩 兵法家伝書

柳生宗矩の兵法家伝書に無刀取りの段がある。

『無刀の術といっても、必ずしも相手の刀をとらねばならぬという意味のものではない。また刀を取って見せて、それを手柄にしようというものでもない。

自分が刀を持っていないときに、相手に切られまいとするための無刀の術なのである。さあ、取ってみせるぞなどという心が本来のものではない。』(武道秘伝書 吉田豊/編 徳間書店P56から引用)

合気道の植芝盛平のyoutube動画を見ると、なるほど相手を取ってみせるぞという驕りなく、相手に次々と対していく。

時代劇では真剣白刃取りにお目にかかることがあるが、既に振り下ろされた刃をかわして両手のひらで抑えるのだから、タイミングとか見切りなどの、技術論ではないところが主であるが、この文では敢えて技術と心構えから説明して見せる。

『相手がとられまいとしている刀を、
ぜがひでもとろうというのではない。とられまいとしている刀を、とらないのもまた無刀の術である。

というのは、とられまい、とられまいと思っている相手は、切ろうとすることを忘れて、刀をとられまいとばかり思うから、人を切ることはできないからである。

こちらとしては切られなければ、それが勝利なのである。人の刀をとることが目的なのではない。こちらに刀のないときに、人に切られぬための鍛錬なのである。


無刀の術というのは、相手の刀をとるためのものではない。さまざまな道具を自由につかいこなすためのものである。

刀を持っておらぬときに相手の刀をとって、自分の刀とすることができるほどならば、何を手にしても役に立たぬということはあるまい。

たとえば扇を手にしても、刀を持った相手に勝つことができるだろう。
これが無刀の術の本旨である。

刀を持たず、竹の杖をついて行くときに、長身の刀をひきぬいて切りかかられても、竹杖であしらい、相手の刀を奪いとり、または必ずしも奪いとらずとも相手を制圧して切られなければ、それが勝利である。

これが無刀の術の本来の意味であることを心得よ。』
(武道秘伝書 吉田豊/編 徳間書店P57-58から引用)

合気道の植芝盛平が満州で張作霖軍の銃撃に遭った時、相手の射手の撃とうとして引き金を引く気持ちを感じ、弾の来る前に白い光を感知して、次々に弾を避けることができたというのがあるが、これは映画マトリックスでも出てきた相手の銃の弾をかわしあうのと同じシーン。

この文章では、扇にて相手を制圧することを挙げているが、白隠の師匠の正受が、剣術の相手を団扇でした話と同じである。

この一つながりのもの、一気を感得すれば、時間も空間も自分も相手も同じである世界から、次の動きを知ろうと思うことなくわかり、身体が自然に動くのだろう。
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40年ぶりの巨人出口王仁三郎

2017-12-17 06:51:13 | 古神道の手振り
◎在家の菩薩が道を説くようにならな、みろくの世はこない

40年ほど前の学生の時に、『巨人出口王仁三郎/出口京太郎』を読んだのが、私と出口王仁三郎の出会いだった。それ以前に高橋和巳の邪宗門を読んだのだが、あまりピンとは来なかった。

これ以後、大本神諭の天の巻、火の巻を大学図書館で閲覧したが、内容があまりにも世紀末的なのにドキドキしたことを覚えている。

大本教の信者であったことはないのだが、大学生の一時期霊界物語を一冊持ち歩いて外出時にも霊界物語を寸暇を惜しんで(それなりに忙しかった?)読み進めた時期もあった。

いま巨人出口王仁三郎を読むと、内容があまりにも濃厚、かつ出来事の分量も膨大すぎて、通常の偉人でいえば、30人前くらいの仕事を一生でこなしている印象がある。

まして出口王仁三郎の周辺知識を持たない学生がこれを読んでも、まともに理解できるのは、超能力のところと、二度にわたる教団への弾圧のところくらいだったろうと思う。

出口王仁三郎を理解する道具立てとしては、
1.明治維新の薩長米英仏主導の経緯
2.出口王仁三郎の有栖川宮ご落胤説
3.明治天皇も西郷隆盛も写真がない理由と孝明天皇、14代将軍家茂の早世の原因
4.軍部、右翼、皇族との関係
5.戦後の大本系新興宗教教団(神道天行居、生長の家、世界救世教、三五教など)の隆盛と日本会議への流れ
6.国家神道の発展と解体
7.薩摩出身の古神道家本田親徳との出会い
8.チャネラー出口ナオ
9.二度の大本教弾圧事件
10.信者への帰神メソッド(チャネリング)の放棄
11.七福神の位置づけ
12.第二次大本教事件前夜に教団のご神体をすり替え、それを笹目秀和をして崑崙山中に返還せしめたこと。(巨人出口王仁三郎にすり替えシーンの記述がある。また笹目秀和の「神仙の寵児」はその経緯である。)
13.昭和神聖会
(対フリーメーソン姿勢の転換)
14.古事記復興としての霊界物語と日本の予言である瑞能神歌
15.戦後世界の未来のプロトタイプとしての第二次大本教事件
16.霊界宇宙の呈示(霊界物語)
17.言霊の大要の呈示(霊界物語)
18.死の技術としての古神道再提示(出口王仁三郎は六度死ぬ
19.超能力の使い過ぎ
(アストラル・トリップ、自動書記、霊縛、透視、未来予言、念力、他心通)

今の学生さんや若い人に必読書を挙げるとすれば、次のようなところだろう。

・巨人出口王仁三郎/出口京太郎
・モンゴル神仙邂逅記/笹目秀和
・霊界物語
・新月の光/木庭次守
・道の大原
・瑞能神歌
・出口王仁三郎全集全八巻(国会図書館デジタルアーカイブからダウンロードできるやつで天声社)
・惟神の道(国会図書館デジタルアーカイブ)

『巨人出口王仁三郎/出口京太郎/講談社』の中に「在家の菩薩が道を説くようにならな、みろくの世はこない」(上掲書P311から引用)という出口王仁三郎の発言がある。

在家の菩薩とは、在家で神知る人、仏知る人で悟った人のことである。

平素から坐るようにならないと。コンビニのお兄さんお姉さんも坐る時代にならないと。

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