アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

愛は争わない

2017-11-30 05:40:36 | 古神道の手振り
◎愛という宇宙の心

只管打坐型の高さの悟りの一展開である「愛」。合気道開祖植芝盛平は、自分が宇宙そのものとなり、時間を超越した速さの世界にあり、かつ敵がないとする。

なぜならば、愛という宇宙の心が自分の心となっているからであると。

以下、合気神髄から。

『合気道の極意は、己れの邪気をはらい、己れを宇宙の動きと調和させ、己れを宇宙そのものと一致させることにある。合気道の極意を会得した者は、宇宙がその腹中にあり、「我はすなわち宇宙」なのである。

そこには速いとか、遅いとかいう、時間の長さが存在しないのである。
この時間を超越した速さを、正勝、吾勝、勝速日(まさかつ、あがかつ、かつはやひ)という。正勝、吾勝、勝速日とは、宇宙の永遠の生命と同化することである。

では、いかにしたら、己れの邪気をはらい、心を清くして、宇宙森羅万象の活動と調和することができるであろうか。

それには、まず宇宙の心を、己れの心とすることだ。
宇宙の心とは何か?これは上下四方、古往今来、宇宙のすみずみにまで及ぶ偉大なる「愛」である。

愛は争わない。愛には敵はない。何ものかを敵とし、何ものかと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。

宇宙の心と一致しない人間は、宇宙の動きと調和できない。宇宙の動きと調和できない人間の武は、破壊の武であって真の武ではない。』
(合気神髄 合気道開祖・植芝盛平語録 /植芝盛平〔述〕/八幡書店P34-35から引用)

北海道に北朝鮮の不審船が停留し、日本海沿岸に北朝鮮の船や人が続々と上陸するのは、もはや組織的であって、もう始まっているのかもしれない。身長160cm以下のやせた男たち。

平和憲法を偉大なマントラとして護持してきたこの70年は平和だったが、それもいつかは破れる。

植芝盛平の語るようにこの一つながりなる宇宙の心アートマンにあって、愛が遍満すれば、争いも戦争もないが、そういう境地にある人間が少なければ、そういう世界にはなりはしない。

愛なき人間ばかりなるこの日本がこういう事態を招き寄せているということはあるかもしれない。

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チャクラの2分類

2017-11-29 03:39:36 | チャクラと七つの身体
◎高さと深さ

ダンテス・ダイジは、チャクラを2つに分類している。

天国志向型として、3チャクラ
アナハタ・チャクラ:愛
マニピュラ・チャクラ:歓喜
スワジスターナ・チャクラ:安心

天国と地獄の結婚志向型として、3チャクラ
アジナー・チャクラ:智慧
ヴィシュダ・チャクラ:自由
ムラダーラ・チャクラ:力

愛、歓喜、安心、智慧、力、自由と平板な言葉が並んでいるように見えるが、その語感と語られている文脈を考えると、次のような感じである。

只管打坐的な高さの悟りは、純真さ、純粋さ、素直さ、清らかさ、崇高さの極みだが、彼に失うべきものはなく、彼には、それを失わないと悟りに到達できないような人生経験はこの悟りには不要であり、それを味わう受動性さえあれば悟りが可能なところが特徴である。それが愛、歓喜、安心。

これに対してクンダリーニ・ヨーガ的な深さの悟りは、現実全体が不安定であるという現実認識の人間(例えば最愛の子供が惨殺されたり天災で亡くなった母親のような)にとって到来してくる。これは、彼(彼女)にとっては大きな失うものが発生し、そこで虚無と向き合うことによって、このような現実認識に至ってしまう。

こうなってしまうと、彼には天国的な癒しは通用しなくなる。何も確かなものがない、諸行無常なる空こそリアルである世界に生きているからである。こうした虚無・ニヒルを超えるのは、天国と地獄の結婚であるが、そこに欲望から発していない智慧、力、自由がある。

これには、単なる受動性のみでは行きつけず、虚無・ニヒルに至る人生経験に出会ってそれをも超えていこうとする能動性が必要。

サハスラーラは別格で、他の六チャクラは同一平面上に見がちだが、そうではないようだ。

現代は、マニピュラ・チャクラの歓喜からアナハタ・チャクラの愛への移行期間。

時代の課題は、只管打坐型の身心脱落で十分とみているわけだ。

両チャクラとも成立条件は、純真さ、純粋さ、素直さ、清らかさ、崇高さなどであるが、それすらもうまく行っておらず、大混乱の状態にある。

大震災、原発事故、第二次朝鮮戦争は悪夢だが、それが現実化する場合は多くの人が虚無を見る。おろおろせずに、それですら、とあるチャンスに転じるには、日頃の冥想訓練が要る。

人は一足飛びにチャンピオンになることなどない。同様に、人は、何かショッキングな事件に遭ったからといって、ある日皆が突然大悟覚醒するわけではない。


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悟りを表現すること

2017-11-28 05:15:42 | 究極というものの可能性
◎三手の読みの先

悟りは、言葉では表現できない。だが、クリアライト、道、などの暗喩でもって表現することもある。それでも表現してしまった瞬間に悟りの香気は消え失せる。

そういうことを一休は、

釈迦といふ いたづらものが世に出でて
多くの人を迷はするかな
と歌う。

表現には、音楽、絵画、曼荼羅図や錬金術書の挿絵のようなシンボリズムというものがある。それであってもニルヴァーナそのものを表現することなどできない。山川草木は、ニルヴァーナの現れであっても、そのものではない。

およそ世間のことは、三手先が読めるだけでも相当なことができるものだという。それはそうだ。三手先を読むだけでもマスコミの情報操作にひっかかることは少なくなるし、世間的に儲かったりすることもあるだろう。

今をときめく将棋棋士は、100手でも200手でも先を読む。中原誠永世名人のテレビ発言では、若いうちは、脳裏に浮かぶ盤面が明るいが年を取ると暗くなってくるという。

人間の推論は、このように与えられた情報さえあれば、100手先でも200手先でも読むことができる。しかしそれは何手先であっても水平面上の推論にすぎない。また与えられている前提条件が操作されているものだったり、嘘だったり、必要な情報が不足している場合は、結論は大きくぶれる。

およそ悟りは人間の頭の水平面上になく、よって三段論法は最後は通用しない。だからそのために禅の公案みたいなものがある。

下世話な表現を聖者の発言に求めれば、悟りとは垂直方向のジャンプである、水平面からのジャンプ・アウトであるなどという。

そしてジャンプなのに、なぜかひっくり返る

その実際は、他人が教えられるものでなく、自分で取り組まなければならない。

教えてほしいと求道者は言うが、教えたくても教えられないもの。この点で万人に役に立つカリキュラムはない。

だが一方で、世界のライフ・スタイルはこれほどまでに共通化している現代では、必ずや世界人類のほとんどが覚醒することをサポートするメソッドがありそうだというのも世の趨勢なのである。
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意味がないもの、意味があるものの違いを超える-4

2017-11-27 05:27:33 | 現代冥想の到達点
◎トマス福音書から

イエスも意味がないもの、意味があるものの違いを超えることを説く。
新約外典トマス福音書から。

『イエスは乳を与えられている小さな者たちを見た。彼は彼の弟子たちに言った、「乳を与えられているこの小さな者たちは、御国に入る人々のようなものだ」。

彼らは彼に言った、「私たちが小さければ、御国に入るのでしょうか」。

イエスが彼らに言った、「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、

あなたがたが、男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、

あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは、〔御国に〕入るであろう」。』
(荒井献著作集 7 トマス福音書 荒井 献/著 岩波書店P121から引用)

これは謎かけのような文だが、「小さな者」は、死から復活した白髪の赤子

「二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにする」ところこそ、イエスも意味がないもの、意味があるものの違いを超える部分。

「男と女を一人にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にする」とは、男女の違いをも超えるということ。

「一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像の代わりに一つの像をつくる」とは、自我の死と再生を意識している。公案のような表現である。

ここで出てくる御国とは、天国のことではなくて、天国と地獄の結婚である第六身体、アートマンのイメージである。

こんな禅問答のようなものが弟子たちに効果的であったかどうかはわからないが、イエスの頃はこうした覚醒に向かう素直な議論も師弟間で為されていた。
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浦和レッズ 再びアジアを制す

2017-11-26 07:12:24 | 時代のおわり
◎紙一重のデュエル(一対一)の積み重ねが勝利を呼ぶ

浦和レッズ アジア・チャンピオンズ・リーグ優勝おめでとう。

10年前は、アジア全体のサッカー熱も大したことはなくて、Jリーグのお荷物と言われた浦和レッズがアジアチャンピオンズリーグを制したことは、他のJリーグチームをして逆に浦和が取れたのならうちもという気分にさせたことも事実だった。それが翌年のガンバ大阪の制覇や、開催国枠で出場の柏や鹿島の活躍につながっていく。

また世界クラブ選手権で、浦和レッズがACミランと体験したのは、Jリーグチームが初めて欧州チャンピオンとガチンコで戦った試合となり、いわば黒船到来みたいな位置づけの試合となった。0-1の敗戦だったが、試合後のレッズの長谷部(今の日本代表キャプテン)が「点差以上の差があった」と述べたほどの衝撃だった。

それから10年、Jリーグの若手は毎年何十人と欧州に渡り、アジアも中東、中国が金に飽かせてビッグネームを補強し、国内リーグを充実させたことで、以前とは比べ物にならないほどアジア・チャンピオンズ・リーグ(ACL)優勝の難易度は上がった。

こうした中、浦和レッズは、決勝トーナメントでは、初戦のアウェイをボロ負けし、ホームで大逆転するという戦いが続いた。一回戦の対済州2回戦(アウェイ(0-2)ホーム(3-0))は、逆転された済州が最後はサッカーでなくレッズへの集団暴行に及び唖然とさせられたり、準々決勝(アウェイ(1-3)ホーム(4-1))の対川崎第二戦では、レッズの高木のキーパーの頭を超える超絶シュートが逆転ゴールとなったり、これぞ神憑りを思わせるものがあった。

準決勝(アウェイ(1-1)ホーム(1-0))は新旧ブラジル代表を要する中国の上海上港戦であったが、ボールを圧倒的に支配されるも戦略的な守備で、キー・プレイヤーのフッキ、オスカルを封じ込め、内容的にはレッズペースで勝った。

決勝のアルヒラル戦では、またも神風が吹いた。まず第一戦(1-1)の前半早くにアルヒラルのボール回しの中心のカルロス・エドゥアルドが故障で下がって、第二戦も欠場した。

更に第二戦(1-0)では、大型フォワードで得点王のハルビンが試合早々のファールによる故障のためか動きに精細を欠き途中交代となったこと。

おまけにアルヒラルは、後半の終盤一人退場になり、それがラファエル・シルバの決勝点の呼び水となった。

これを運やツキと見るか、流れと見るか、神慮と見るかは人それぞれだが、事前の保有戦力で圧倒していてもひっくり返るのは、源平のひよどり越えや、北条の河越夜戦、織田今川の桶狭間などいくつも先例がある。

いずれにしても人は自分の力だけでは髪の毛一本白くも黒くもできない。

アルヒラルはアルヒラルで、試合前は、正しい者が勝つなんて言っていたことも忘れてはいけない。(現代宗教の諸相ではある。)

選手はインタビューでは、サポーターのおかげで勝ったと感謝するが、神様の力もある。

そして、紙一重のデュエル(一対一)の積み重ねが、最後に勝利を呼んだと思う。人は一足飛びにチャンピオンになることなどないのだ。
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悟れる人悟れない人

2017-11-25 06:57:16 | 冥想アヴァンギャルド
◎パラケルスス 自然の光

パラケルススの自然の光では、悟れる人悟れない人を次のように語り分けている。

『神は君を、翼の有無にかかわらず、飛ぶことができるようにして下さる。神は君に空想させ、推測させ、評価
させて下さる。・・・・・そして君が信じるならば、君はすでに第三の天にまで飛翔できたでもあろう。

だが君は野の草よりも高く自分の体をもち上げることもしなかったし、何ごとにもそのような力を用いなかった。君は、君自身から成長すべきだった果実を踏みつけ、圧しつぶしてしまった。

だからこの果実は、君とともに、価値のないものとなってしまった。うまくいかなかったからだ。

なすべきかなさざるべきかは、われわれの自由意志にかかっている、ということができる。しかし実情はそうではない。

神がそれを与えられなかったら、われわれは何をすることもできない。

悪をなす人に神はこれを与え給う、さもなければ彼は何もできない。善をなす人に、神はこれを与え給う、さもなければ彼は何もできない。

人間は一本の髪の毛を黒くも白くもできないのに、どうしてその欲することをなしえようか。』
(自然の光/パラケルスス/人文書院P261から引用)

※第三の天:永遠の天国

神は、人に飛翔する力、悟りに至る力を等しく与えてこの世に送り出すのだが、その力を用いるも用いないのもその人個人の生き方による。

逆に第三の天まで飛翔しようと、人が目論んだとしてもそれが可能となるかどうかは、神が許されるかどうかにより、それは人間の自由な意志とは関わり合いのないものである。

このような二面性はある。

人は、等しく大悟を目指すためにこの世に生を受け、文明は多くの覚醒者を出すために繁栄を求める。

だが、そのように思わない人がほとんどではある。

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悟りの説明=クリシュナムルティ

2017-11-24 03:09:44 | 只管打坐
◎悟っている人は少ない

クリシュナムルティの悟りは只管打坐によるもので、身心脱落だが、それは、クンダリーニ・ヨーガの悟りとは全く異なっている。

だが、最初に出てくる只管打坐による悟りについてすら、現代の社会人、学生が想像するのもあまり容易ではないみたいなので、改めてクリシュナムルティの悟りの説明を見てみる。

クリシュナムルティは、以下の文章で、悟りのことを「真の沈黙」「生きた心」と表現している。

『真の沈黙がどういう沈黙であるか、私がそれについて説明するのをあなたは待ちもうけている。そしてそれをきいてから後で、他の沈黙と比較し、解釈し、身につけ、あるいは捨てさろうとしている。

だが、言葉で説明できるのは既知のものであり、既知のものや精神的苦痛、へつらい、これまでにつくり上げたすべてのイメージ、すべての経験を毎日超越し、脳細胞が新しく若く天真爛漫になるように毎日死ぬときにはじめて、既知のものからの自由が存在しうるのである。

しかし、その新しさ、天真爛漫さ、優しさと柔和さは愛を生みださない、それはまた美や沈黙の資質でもない。

真の沈黙が騒音がないという沈黙ではないということは、問題のきっかけを与えるものにすぎない。

それは小さな穴を通り抜けて、巨大な広々とした大海―――測ることのできない時間を超えた状態に達するのと同じである。

だが、意識の全構造を理解し、快楽や悲しみや絶望の意味を把握しなければ、そして脳細胞自体が平静になったことを理解しなければ、そのことを言葉を通じて理解することはできない。

おそらくそのとき、あなたはだれもあなたに解き明かすことのできない、何ものも破壊することのできない秘密を知ることができるであろう。

生きた心は静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間ももたない心である。こうした心は無限の広がりを有しており、それは唯一の真理、唯一の真実である。』
(自己変革の方法/クリシュナムーティ/霞ケ関書房P230-231から引用)

このように、悟りとは、生きた心であり、生きた心は静かな心であり、生きた心は中心も空間も時間ももたない心である。

悟りとは、こうした神秘体験であるが、解明不能で、破壊不能なある秘密があるがゆえに、体験とはいえない体験と称せられる。

今、仮にこうした人が、各小学校の学区に一人とか、各商店街に一人とかいれば、こんな時代にはなってはいない。
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開いているチャクラ

2017-11-23 04:25:29 | チャクラと七つの身体
◎準備ができているかどうか

女性道士孫不二は、すべての竅(チャクラ)が開いていたという。

OSHOバグワンとチャクラということでは、かの父が亡くなった時と高弟ヴィマルキルティが亡くなった時に亡骸の頭頂部などに手を当て、どこから離脱したかなど、チャクラ・チェックをした光景が思い出される。

OSHOバグワンは、何百人かの弟子たちのチャクラ・チェックをしたところ、ほとんどが二つしか開いていなかったそうだ(出所:隠された神秘/和尚/市民出版社)。そこで、彼自身のようにすべてのチャクラが開いていると、その生は最後の転生だなどと云っている。

チャクラを開くには、準備ができていないとだめ。OSHOバグワンは、そんなわけで、チベットで肉体上の第三の目アジナー・チャクラの位置を鋭い金属で刺激して(ティラク)、故意に開かせるのは邪道であるとする。

故意に霊道を開くのは、生命の危険すらあることは、デビッドニールも指摘しているとおり。

チャクラについて、明るい展望しか書いていない怪しい本もあるが、チャクラにからむ密教、道教、古神道、錬金術、クンダリーニ・ヨーガなどいずれも、正しいマスターは、弟子の準備ができているかどうかをまず問題にするものだ。

この肉体人間として生きることですら全身全霊でないと難しい時代。チャクラ半開きで生きるのは、なお難しい。
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孫不二の屍解

2017-11-22 05:37:24 | 道教
◎あるスーパー女性道士

孫不二は、金代の女性道士。全真教の開祖王重陽には、七真と呼ばれる七大弟子がいるが、孫不二はその中で唯一の女性。七大弟子の一人馬丹陽の第二夫人だったので、『二』の字があるという。

彼女は、洛陽のそばの鳳仙姑洞という洞窟に住み、髪はぼうぼうで、時に気ちがいじみた行動をとったが、既に内丹を極め、すべての(チャクラ)を開放し、弟子もいた。

1182年12月29日彼女は、自らの死期を悟り、斎戒沐浴し、遺偈を歌った後、蓮華座に座り、太陽が天頂に達したことを確認して後、屍解したという。

弟子にしてかくの如し。

屍解したのに棺があったのは、禅僧普化と同じ。日本では、火定はあるが、屍解は聞かないが、それは日本人の民族性の問題なのか、風土の問題なのか、いずれにしても理由のあることと思う。
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救世主の人手不足

2017-11-21 05:44:11 | 冥想アヴァンギャルド
◎生ける人も八衢(やちまた)の辻に迷へる

救世主は一人では足らない。イエスの時代は、救世主は一人で足りた。なぜならば、当時はマスコミもメディアもスマホもSNSもフェイク・ニュースもなく、人は究極から来た言説を素直に受け入れることができるほどに自意識の構造が素朴で単純だったからである。

イエスのやり方は、単純化すれば、超能力を見せてその力を信じさせ、その後に神の言葉を伝えるというやり方だったが、受け取る側の理由で、一対多が成立し得た。

今や情報を受け取る側の人間は、建前本音は分離し、感情と想念は複雑に絡み合い、自分の本音がどこにあるのか自分でもわからないほどに自意識の複雑化が進んできた。

こうした現代人に対して救世主の必要数は、OSHOバグワンは、全世界で二百人(和尚と過ごしたダイアモンドの日々/マ・プレム・シュンニョ/和尚エンタープライズジャパンP380)などと言っていたと記憶しているが、そんなところだろう。

ご多聞に漏れず、救世主も人手不足なのである。
救世主とは悟った人のことである。

救世主の人手不足は、旧約聖書でロトがソドムを出る段で、町に神知る者が10人もいなかった話が有名だが、精神世界ランキングにまともなサイトがほとんどなく、カルトランキングみたいになっていることでも身近にわかるものである。

OSHOバグワンの「未知への扉」で、大物救世主は、周辺にその思想を伝達するグループとともに転生してくるのが普通だが、イエスは、周辺グループの転生が間に合わなかった、だからイエスは孤立し、十字架にかかった、というようなことを書いている。

今の時代で言えば、大衆である我々は、広義の周辺グループであるということになり、その周辺グループがほとんど覚醒しなければならない時代ということになるだろう。

親鸞の周辺グループ、日蓮の周辺グループ、道元の周辺グループ、イエスの周辺グループ、素戔嗚尊の周辺グループ、臨済の周辺グループ、法然の周辺グループ、空海の周辺グループ、最澄の周辺グループ、老子の周辺グループ、パドマサンバヴァの周辺グループ、クリシュナの周辺グループなどいくらでもある。

あらゆる宗派の周辺グループが神知る、仏知る、道知る時代である。

大物救世主は転生しているかもしれないが、見抜く目を持った人は稀であり、かつそうした人を探そうとする注意力をそらすタイプのマインド・コントロールが広範に行われており、大物救世主にいつも出会っていたとしても、ほとんどの人はまず気がつくまい。

出口王仁三郎が、霊界ツアーで、生きている人を中有で多数見かけて怪訝に思っている歌がある。

生ける人もみまかりし人も八衢(やちまた)の辻に迷へるさまを怪しみぬ

かくの如く、大物救世主一人ではどうしようもないほどに時代の地盤沈下は大規模である。救世主の数、悟っている人の数は絶対的に不足している。

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日本の揺り戻し、世界の揺り戻し

2017-11-20 05:29:14 | 時代のおわり
◎名もなき個人が立替立直し

日本の行く末は、現在の唯物主義、肉体人間主義全盛の社会観科学観から揺り戻すというのがメイン・シナリオである。

あまりにも冥想中心の神主主義からかけ離れてしまったからである。それは、日本だけでなく、世界の同様のインバランスから揺り戻す動きと全く無関係ではありえない。

というのは、この世界中スマホを手にした人間が闊歩し、同じような加工食品を食べ、かつまた同じような孤立した私生活を送る近代西欧文明型社会は、日本と先進国と先進国風のライフ・スタイルを営む発展途上国の一部で、揺り戻さざるを得ないだろうからである。

薩摩長州と英仏米で大きく揺らした明治以来のインバランスは、綾部亀岡の二度の大本教事件での調整はあったものの日本のほとんどの大都市が焦土になった第二次世界大戦の惨禍を招き、今また戦後の心に神なき民の経済発展は周辺国の妬みを呼んでいる。

過去、日本のインバランスの調整は、丹波篠山と関ケ原を軸に行われてきたが、今度は、美濃尾張、尾張半田がフォーカスとなるのだろう。

こうしたインバランスは、既に日本一国でなんとかなるものでなく、それは古事記仲哀天皇の段に西方の金銀本位制度の西洋諸国と表れているように、one way 一道なる神主主義に向かわざるを得ない。

第二次世界大戦後、冷戦終結を経て米国一強が完成したが、それから略30年、インバランス解消イベントとして、スマトラ沖大地震津波、東日本大震災と福島原発事故と天変地異と巨大人災は起こったが、人心はまだ正しい方向に向いているともいえない。

巷間言われているように、ハルマゲドン会戦などの最終戦争を経て、人類の大半が滅亡して、少数生き残りのシナリオはあるが、そうでないシナリオはある。大多数が生き残るシナリオである。それは、個々人が日々冥想を習慣とする先にある。一日30分坐ることが、自分も世界も救う。

これはロジカルに証明などできないが、そういうものだ。

こういったインバランスへの対応としてのご神業は、有名覚者だけができるものでなく、名もなき個々人ができるものであり、その集積は世界をもソフト・ランディングさせられる。

世界の立替立直しは、日々の冥想から。一日30分の冥想が世界と自分のバランス調整をする。

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自己愛と感情とマニピュラの連動

2017-11-19 06:15:31 | チャクラと七つの身体
◎相手の話をよく聞く

我流でチャクラをいじることは危険この上ないが、本山博がマニピュラについて、こんなことを言っている。

曰く、マニピュラは、感情と想念に関係するが、マニピュラは、感情にもいろいろあるが受容する側。マニピュラが開けてくると感情の細かい彩がわかってきて、人の話がよく聞けるようになり、話者の心理や気持ちに共感できるようになる。

そして腹が立っている自分を他人の目で見られるようになると、だんだん感情のコントロールができてきてマニピュラが動くようになっているといえる。

小さい人間ほど、自分を守るために用心するから、建前で話すのだが、そんな奴は下らないのが多い。そういう相手でも相手のいうことをよく聞いて、本音をわかっているなと共感すれば相手も本音を言うようになる。そうなったら既にマニピュラは動いている。

こういう状態は、好悪の感情は発生するがそれに落ちない状態。感情と自分を同一のものと見ない状況。

マニピュラは、気を吸い込む方で、アナハタは気を出す方。だから人込みなどで消化器に異常が起きやすい人、感情が不安定な人はマニピュラが不安定な人。この延長線上にそううつがある。

さらに本山博は、自己愛と感情とマニピュラの連動について、以下のような巧妙な見立てをしている。

自己愛が強い人間は、自己に執着が強いので感情が非常に激しく動く。それは恋愛の場合だったり、モノやカネや名誉が欲しいという場合に起こりがち。

それらは、表面的には恋人やモノ金への執着だが、実態は本当に相手や他のもののことを慈しむ気持ではなく、自分を守りたい気持ち、自己の執着や自己愛の裏返しである。自己への執着や自己愛が強い場合に、感情が激しく動くので、感情のコントロールができない。
(以上出典:「チャクラの覚醒と解脱」/本山博)

マニピュラと言えば自己実現だが、人間関係の不調の原因の一半がマニピュラにからみ、それも感情が大きく影響していることがわかる。

マニピュラ・チャクラを活性化させる方法について、本山博は、この相手の話をよく聞くことの他に、呼吸法、観想法を挙げる。

それにしても若いうちから相手の話をよく聞ける人は貴重だし、相手の話を親身に聞いているふりの上手な人が幅をきかせていたり、どうしても人間の幅がないと相手の話をよく聞けるものではないということもある。

確かにマニピュラに特化した行法やり方はあるものの、只管打坐や何も期待しないタイプの日々の冥想が基本だなと思う。


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不動明王とサラマンダー-2

2017-11-18 04:35:17 | クンダリーニ・ヨーガ
◎賢者の石について

クンダリーニ・ヨーギ本山博によれば、人は不動明王段階に止まれば死の危険があるという。

西洋錬金術書『賢者の石について』では、最も卑賤な者が王位に上った後にサラマンダーが登場する。

すなわちマニピュラ・チャクラの社会的自己実現を成し遂げた後、天国的な幸福を満喫した後に、火蜥蜴サラマンダーが登場する。

ここまでいかないと先祖の因縁も解消しないとは、一人道を得れば九族昇天できる段階とは、まさにこのレベルであるということ。カルマ・ヨーガの極点である。

『旅する人がみな語る。
火とかげは火から生まれる、と
その食物と生命は火の中にある。
火とかげの本性からして当然なのだ。

それはまた山奥にも棲んでいるので
効験あらたかな四種類の火を燃やす。
第一の火よりも第二の火が強く、
まず火とかげはその中で浴(ゆあ)みする。

第三の火は、まこと他の火よりも強力で
火とかげはその中で体を洗い、身を清め、それから自分の穴へ急いで行く。

だが、すぐに捕らえられ串刺しにされる。
なぜならそれは死に、白くなるまで血を絞られなければならないから。
これはじつは火とかげ自身のためである。

なぜならこの動物は、自分の血を代償に永遠の生命を得なければならないのだから。
以後彼はもう死ぬことがない。

彼の血よりも高貴な医薬は地上にない。
この世にはこれ以上の薬は見つからない。
どんな病もこの血にはかなわないのだ。
それは金属と動物と人間の体を癒す。

賢者の知恵のもとはそこにあり、
賢者の石と呼びならわされる天の賜物を
神から授かったのもそれによる。
石にはあらゆる効力と力が宿っている。

賢者は好意からそれをわれわれに贈ってくれる、
われわれはそのため賢者の思い出を
讃えなければならないのだ。』
(賢者の石について 生ける潮の水先案内人/白水社P61-64から引用)

本山博は、こうしたレベルに達した人物について、ヨーガ以外でも十字架のヨハネエックハルトゾイゼ、道教の呂巌(呂洞賓)などを挙げる。これらの人物の共通点は、神と人間という二元論を超えたところつまりノンデュアリティまで行っていることであるとも指摘する。

つまりノンデュアリティでは、不動明王段階、サラマンダー段階を越えねばならないのだ。

もちろんサラマンダーは外になどない。昔のキリスト教世界で、人間が燃えるなどと公言したら火あぶりの刑なので、伝説の動物サラマンダーが燃えることにしたのだろう。

賢者の石は赤いとは火の色なのだろう。


十字架のヨハネ、エックハルト、ゾイゼ、呂洞賓、本山博を心から讃えます。

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脳神経外科医がオームを聞く

2017-11-17 05:35:59 | 究極というものの可能性
◎プルーフ・オブ・ヘブン

エベン・アレグザンダーという脳神経外科医が、感染症による臨死体験の中で、オームの響きを聞いた。

臨死体験の最初は、肉体意識を感知している部分もあったが、闇の中から白い光を感知し、トンネルに入った後、田園地帯上方を飛翔するという天国に入った。

その後パイロットとして女神が現れ、「あなたは永遠に深く愛されている」みたいな大悲メッセージのいくつかを受ける。

その次に広大な闇の虚空に光を放つ球体があり、それを彼は宇宙の根源である神と感じ、その属性は無私の愛、全知全能、言葉では表現できないものであり、その響きを彼はオームと表現した。
(以上プルーフ・オブ・ヘブン/エベン・アレグザンダー/早川書房から)

偉大なるかな聖音オーム。

しかし、彼れはその体験を世界のすべてを見たとまでは言えないと評価する。

彼は、見神体験はしたが、起こったことのすべてを理解するには至らなかったのだ。

この点で、世界のすべての秘密を見たマサテコ族のシャーマン、マリア・サビナよりは劣る。

だが、オームは、ヒンドゥー教、仏教の独占物でなく、世界人類共通のバイブレーションではあった。
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女性であるデメリットを免れる

2017-11-16 05:35:11 | 冥想アヴァンギャルド
◎永久に苦海に沈む

趙州は、乾いていない。

ある時、おばさんが趙州に尋ねた。
「女性は五障の身だと申しますが、それはどうすれば免れることができましょうか」

趙州「誰もかれもみんな極楽に行ってくれ。あなただけは永久に苦海に沈むように。」と。

耳ざわりの良いことを期待していた彼女は驚いたことだろう。

いまこことは、そういうものだ。外にあるものを探し求めない。

極まらなければ反転しない。

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