アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

何ものをも所有しないこと

2017-10-31 05:44:23 | 冥想アヴァンギャルド
◎過去世、現世、来世を知る

パタンジャリのヨーガ・スートラ2.39から。
『2.39修行者が、所有しないことを確立したならば、過去世、現世、来世を知ることができる』

OSHOバグワンは、この部分について、こんなたとえ話をしている((”Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 6から))。

あるヨーギが、王宮に留まって王としてヨーガ修行しているナーナクの歓待を受けた。ナーナクはヨーギでありながら、すべてを捨てず、豪勢な生活をしているのはけしからんなどと思いながら。

かの客であるヨーギは、宮殿で贅沢なグルメや酒、踊りなどの接待を受けた。ところが、客間に入ってベッドに入ると頭の上に細い糸で吊るされたがあるのに気づき、一晩中まんじりともせず眠ることができなかった。

巨富、豪奢を享受していても、ナーナクにとっては、何の意味も成さなかったのだ。ナーナクが王宮にいるということすら、それを所有することなどできないと知るナーナクにとっては一人叢林で飢えつつ修行するのと全く変わりはなかったのだ。

死んだら財産をあの世に持っていけないとみんな頭では知っている。だが、何物をも本当に所有できないと、なにひとつ、髪の毛一本自分の力で白くも黒くもできないことを知っている者だけが、三世を見通すことができる。
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神風ぞ吹く

2017-10-30 05:11:49 | 時代のおわり
◎クリスタル・ピープルへ

10月後半に入ってから2度目の台風は勢力も1回目よりは弱く、雨も前のほどではなかったが、風は吹き返しもなかなかの強さである。

この夏は海水面の温度が上がり、地表の気温は下がる地域が多かったものの平均気温は着実に上昇している。

この結果海水面は着実に上昇。2大炭酸ガス排出国の米中が規制に本腰を入れない以上は、この気温と海水面の上昇の趨勢は変わることなく、行きつくところまでいかないと、本当に反省することはないのだろう。

最近町で黒いマスクをしている人にたまに出会う。中国製マスクなのだろうと思うが、中国の大気汚染は、特に11月から春にかけてひどい。

中国や世界的自動車メーカーはこの大気汚染対策のためか、こぞって電気自動車開発にいそしんでいるが、低コストなバッテリーの長寿命化がうまくいっていないらしい。たとえば10年トータルでガソリン車より電気自動車の方が経済コストが少しでも高ければ、結局ガソリン車に回帰していくのだろうと思う。

日本の気候は熱帯雨林化しつつあるという。昔アマゾンに行ったことがあるが、アマゾンでは、午後2時半から3時頃にかけて毎日決まってスコールがあり、スコールの降り方はものすごいが、それなりに安定した気候といえるものだった。

ところが、これが昨今の台風のように風速60メートル、80メートルも当たり前になってくると話は違ってくる。

出口王仁三郎の主たる予言歌集にいろは歌があり、九分九厘の主戦場である日本周辺海域で、日本に侵攻してきた敵国軍を、神風みたいなものが吹き散らすのではないかとおぼしきビジョンがあって、そんな大風があるものかと鼻で嗤う人も多かったことと思う。

出口王仁三郎は、仏説での大三災は、風水火と挙げていた。水火はわかるが風はどうなんだろうと思っていたが、実際に毎年風速80mの台風が起きてくると、風もあるなと思い知らされる次第。

飛行機、ヘリとも空気の揚力で浮く。上空で揚力を乱されれば金属の乗り物はひとたまりもないかもしれない。

時代は極まれば動き出す。

※瑞能神歌のいろは歌から「に」

『にし東南と北の荒海に、艦充ち続け寄せ来る、醜(しこ)の荒びの猛く共、御空に震ふ鳥船の、羽音は如何に高くとも空より降らす迦具槌(かぐづち)の、三ツの都を夜藝男(やきはやお)、

如何なる神の猛びにも、少しも怖ぢぬ日の本の、国に幸ふ言霊の、ウとアの水火(いき)にカラ鳥の、胆を抜かれて落ち此方に、神の稜威(みいづ)の著じるく、

頭を地(つち)に逆様に、神の御国に何時までも、仇波立たぬ松の代と、駿河の国の不二の山、気高き姿を其儘(そのまま)に、世界の上に聳ゆなり。』

◇頭を地(つち)に逆様に・・・・ひっくり返らないとクリスタル・ピープルにはならない。

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関山慧玄のおもてなし

2017-10-29 06:10:46 | 丹田禅(冥想法8)
◎フランクでいまここ

臨済宗といえば、応、燈、関の三代(大応、大燈、関山)だが、関山の事績は見えにくい。

戦国末期の塵塚物語から。

天龍寺の夢窓国師が嵯峨より京都に入り、妙心寺の前を通りかかった。夢窓が、人をやって関山がいるかどうか尋ねさせると、折よく関山は居て、破れ衣を整えて走って出て来て、「まずは寺にお入りなさいませ」とて、自ら案内して住坊に入った。

気持ちよく対談され、「国師をおもてなし致したいけれど、貧賤なので、思うにまかせない」などと言って、破れた硯箱から銭四、五銭を取り出して小僧に近隣の店にやきもちを買いに行かせ、夢窓国師をもてなしたという。

夢窓国師は、この一生懸命な志に感じ入って、美味しく頂き、歓待を謝し、退出されたという。

お粗末ぞんざいなおもてなしというもおろかなり。

今ならVIP中のVIPの国師にコンビニのあんまんを出したってところ。

今でも破れジーンズは着ているなどと言わないで下さい。

貴人に対してもわが貧しい衣服や調度を卑しく思わず、饗応の材料がみすぼらしいなどと思わず、そのままで接することのできるフランクさが、まずは覚者のスタイルである。

これも、いまここ。
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禅と大脱身

2017-10-28 06:14:40 | 丹田禅(冥想法8)
◎乾いた道あるいは近道

禅でもヨーガでいうところの大脱身は意識せられている。

道元の師匠たる天童如浄も道元もその体験とはいえない体験のことを身心脱落と言う。

そして唐代の禅僧鏡清和尚の
『出身は猶お易かるべきも、脱体に道(い)うことは還って難し(出身猶可易、脱体道還難)』。

これは、大脱身そのものはまだ簡単だが、大脱身のことを言葉で説明するのはかえって難しいということ。
これは、碧巌録第四十六則に見える。

大脱身あるいは、中心太陽への突入がそんなに簡単なはずはないが、「猶お易い」と断言しきるのは、それを既に経た者だけに許された言い回し。

クンダリーニ・ヨーガにおけるニルヴァーナと禅のニルヴァーナは、ニルヴァーナそのものに違いはないが、還ってきてからが相違があり、西洋錬金術などでは、そのことを『乾いた道と湿った道』あるいは『(普通の)道と近道』と表現しているのではないかと感じられる。

禅のほうが『乾いた道』『近道』なのだろう。

『以心伝心』『不立文字』は、出身・脱体という身心脱落を経て、初めて意味が通ずる。悟っていない者が、その真髄を『以心伝心』『不立文字』と語るのは嘘だが、悟った者がそれを言うのは真実。

※鏡清道怤(八六八~九三七):雪峰義存の法嗣(悟った後継者)


碧巌録第四十六則:

鏡清が僧に問う「門外は何の音だ?」
僧「雨だれの音です。」
鏡清「人はひっくり返っている。自分を見失って物を追う。」

僧「和尚自身はどうなんですか。」
鏡清「かろうじて自分を見失わずに済んだわ。」

僧「かろうじて自分を見失わずに済んだとは、いったいどういう意味ですか」
鏡清「大脱身そのものはまだ簡単だが、大脱身のことを言葉で説明するのはかえって難しい」
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終わりの印と時を選ぶこと

2017-10-27 03:01:13 | 究極というものの可能性
◎霊照女からモンゴル

10月後半になってからの超大型台風など終わりの印には事欠かない。

唐代の禅僧ホウ居士の娘霊照は、臨終間近のホウ居士に「日の高さを見ていてくれ。正午になったら、知らせてくれ」と言いつけられた。

さて正午に霊照は、「正午になりました。しかも日蝕です。」と父ホウ居士に知らせてきた。

ホウ居士が、入り口を出て空を見ている隙に、霊照は、父の座に坐り込んで合掌し坐亡した。

父は、彼女の遺骸を見るや「すばしこい奴だ」と云い、自分の命日を7日後と決めた。

7日間で、月は90度動く。死は時を選ぶタイプの技なのだろう。

兆しを見て時を知れば、心得た者は、そこで覚醒に動く。

第二次大本事件前夜、笹目秀和が大本教のご神体を崑崙山中に奉還する旅の出発に際して、日本が、将来モンゴルに移ることが大本幹部から暗示されている。

時を感じた人は、坐り始める。
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孤独な生活と身だしなみ

2017-10-26 06:36:06 | 冥想アヴァンギャルド
◎心の社会性と正気

現代社会では、衣食住さえ安く手に入れば、ほとんどリアルな人と接触せずに日々を過ごすことができるほどに文明の利器はそろった。

そんな中で、通勤も通学も結構な量の家事もないとなれば、人は自分を飾ることを放棄するようになる場合がある。

すると、奇妙なことではあるが、その人間の本性とも言うべき潜在意識が表面に出てくる。

具体的には、深い意識に根付いた欲望が驚くほどストレートに現れた状態で、露出する。性欲、支配欲、金銭欲等々。

これを社会規範や法律や道徳やしつけなどで、厳しく自己規制しようとするモチベーションが働くと、更に大きなストレスが高じて、逆に先に挙げたような欲望がより強く呼び起こされて自分をコントロールしづらい状態にまでなることがある。

このような状態は、ひきこもりや出家生活など孤独な生活では出現しがちな状態である。

古来宗教家たちは、この状態のコントロールは心得ていて、オーム、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などのマントラを繰り返し念唱させて、すべてがマントラになりきる一念専心やすべてがマントラである世界までもっていくとか、心に浮かんでくるあらゆる想念を相手にしないとか、消えていく姿であると見るとか、激しい身体運動とかで肉体を消耗させて後坐らせるとか、空性の観想とか、様々な手練手管を用意していたものだ。

身だしなみとは社会性のことであって、着るものとか持ち物などファッションだけが社会性ではない。

このおひとり様が三分の一にも達しようとする時代、心の社会性こそ身だしなみである。心の社会性とは、真に厳密な意味で正気であることだが、ちょっとノイローゼ、ちょっと偏執的なのがまともとされるこの時代に、誰が真の正気を見分けられるのだろうか。

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ある王子の死

2017-10-25 05:46:54 | 究極というものの可能性
◎一人で坐る

OSHOバグワンの布教史で最大の転機というべきものは、米国進出。

1980年頃には、プーナが5千人規模となり、地元住民と信者のあつれきが絶えず、かつまたサンニャーシン内部でのセックス、薬物、暴力の規律の乱れも看過できないものになり、教団自体が、アメリカのオレゴンに進出した。

米国進出の前夜で大きな事件は、OSHOバグワン自身の父の死と、ベルギーの王子ヴィマルキルティの死だった。

ヴィマルキルティは、なんとイギリスのチャールズ皇太子の従兄弟にして少年時代からのポン友であった。

彼は、痩せた190cmくらいの巨漢で、妻も子供もいたが、家族もろともアシュラムに身を投じていたのだった。

ヒュー・ミルンの「ラジニーシ 堕ちた神」では、ヴィマルキルティは脳卒中で倒れ、生命維持装置で生きながらえていたが、そのスイッチを切る指示を出したのはOSHOバグワンだとの推測をしている。それは微妙な問題だが、危篤シーンではわりとよくある風景ではあろう。

社会的道義的問題はあろうが、OSHOバグワンにとっては、生も死も変わりはない。アシュラムというのは、そういう場なのだろうと思う。

野垂れ死にを恐れて出家する者など本来いないはず。

だが、僧団、教団、アシュラムが覚者の群れであったことは極めて稀れ。道元のいた天童如浄の所ですら、千人中2、3人などと言われていたのであって、五百羅漢いた釈迦はレア・ケース。

坐るときは一人なのだ。
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冥想行から隙間の世界へ

2017-10-24 05:31:30 | 現代冥想の到達点
◎ヨーガ・スートラの読みづらさ

パタンジャリのヨーガ・スートラ全文は、195句しかないのだが、これの読みづらいことはこの上ない。ウパニシャッドなどを世界古典文学全集で読んでいくと、全く逆の意味のことが書いてあったりして、統一的な思想が根本にあったわけではなく、平たく言えば悟った人と、そうでない人が、バラバラに口授、伝承したのをまとめたものと感じ取られるものだ。

これに対してヨーガ・スートラは、パタンジャリ個人がまとめたものであるが故に全体として統一感あるものだと思われる。

だが、その和訳は、テクニカル・タームがわかりにくかったり、統一感ない訳文だったりして、読みにくいものである。

今般の一連の記事は、「現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックス」と「解説 ヨーガ・スートラ 佐保田鶴治 平河出版社」を参考にして書いているわけだが(日本ヴェーダンタ協会のヨーガ・スートラは、本棚のどこかに埋もれて未発見)、どちらの本にしても文意が取れない句がある。

よって両書とも通読などはできず、全句をななめ読みする程度しかできてこなかった。今般OSHOバグワンの英文Yoga: The Alpha and the Omegaを手に入れて、初めてヨーガ・スートラをまともに読んでみようという気になったものである。

晩年OSHOバグワンは、“禅”を推したが、彼は全く禅者ではなく、このヨーガ・スートラ講話Yoga: The Alpha and the Omegaを見ると極めて精密に修行を積み重ねてきたクンダリーニ・ヨーギにして、遊び好き、いたずら好きな人物であることがわかる。

特に見るものと見られるものとのかかわり、そしてプルシャ(アートマン)
からカイヴァリヤ(独存)へのルート説明は、通り一遍の覚者では語りえない部分であり、瞬間瞬間の隙間の説明なども文字通りかそうではないかは知らないが、モダンな現代人の現実認識の根幹を揺るがせる言及たり得るように思う。

もっとも、こうした隙間の応用は、既にサブリミナル広告技術として現れているが、広告として狙った効果があるのか、副作用がないのかなどは、ドラッグの効果・副作用と同様に、未だ人間が自家薬籠中の技術として評価できるような代物ではないと思う。

冥想修行、行による無意識のコントロールがあって、初めてこの隙間の認識であり、そこに至ればすでに大脱身のレベルであるなど、ヨーガ・スートラには書いてあるが、誰がこれを夢想として片づけないであろうか。

これをナンセンスとして一蹴しないセンスのある人だけが、この地獄的な時代において冥想修行をしようと思うのだろう。


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ヨーガの旅の終わり

2017-10-23 05:44:09 | 現代冥想の到達点
◎今帰ってきてください

パタンジャリのヨーガ・スートラの最後の4.34から。

『4.34アートマン(プルシャ)の目的の喪失により、グナは再統合され、これに伴ってカイバリヤ(KAIVALYA、独存)なる覚醒が起きる。ここにアートマン(プルシャ)は真の状態に回帰するが、それは純粋な意識である。』

三種のグナと、アートマン(プルシャ)が登場し、それが収まると、カイバリヤなる独存になる。

それは良い。だが世界の遊戯=リーラが終われば、世界は止まる。インドの精神世界は、冥想が終われば終わりと言われる所以はここにある。

人間が出てこないのだ、人間のことなど最後は関係なくなる。
この点、最後に人間に回帰していく日本、中国の世界とは全く異なる風光になっている。

世界は、なべて事もなし。だが人間もなし。

OSHOバグワン((”Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10から))の解説では、ここで世界が止まり、カルマが止まり、二つの瞬間の間を見ることができるようになる。こうなると、人は脱身し宇宙に飛び出し、宇宙の生成と消滅を目撃し、こうした現象の転変も終わると、言葉では表現できないカイバリヤとなる、とする。

老子は道と呼び、パタンジャリはカイバリヤと呼び、マハービーラはモクシャと呼び、ブッダはニルヴァーナと呼んだ。それは、名前もなく、形もない。

OSHOバグワンは、解説の最後に、そこに「今帰って来てください」という寓話を入れている。

帰ってこーい
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聖杯とヘンリー・シンクレア

2017-10-22 06:13:49 | 冥想アヴァンギャルド
◎聖杯とルーン文字

昨日テレビでヒストリー・チャネルテレビを見ていたら、聖杯とヘンリー・シンクレアの仮説をやっていた。

ヘンリー・シンクレアは、スコットランドのフリーメーソンの故地ロスリンの王子なのだが、彼は何か貴重なものを隠し持っていて、それがイエスが最後の晩餐の時に、イエスの血なるワインを弟子たちと回し飲みした金属製の盃Grailつまり聖杯だったのではないかという前提。

そしてそれを含むテンプル騎士団の消えた財宝を埋めたのがニューファンドランド島の中にある小さな小島ではないかということ。

テンプル騎士団は、シトー修道院と結びついて13世紀には極盛になったが、14世紀には、ローマ教会とフランスにより異端として壊滅させられた。異端認定からテンプル騎士団の一斉逮捕の1307年10月13日まで10日くらいあって、この間隙を縫ってテンプル騎士団は、主としてゆかりのあるポルトガルとスコットランドに向けて巨額の財宝を持って逃亡。

スコットランドでは、元テンプル騎士団のヘンリー・シンクレアが中心人物であって、スコットランド王の直臣・貴族であった。

さてニューファンドランドなどに北欧バイキング勢がコロンブス以前にアメリカに到達していることは知られている。

1898年、ミネソタ州の農場で木を伐採していた農民がミステリアスなルーン文字が刻まれた巨大な石を発見した。現在、ケンジントン・ルーンストーンとして知られるこの石碑には、1362年におけるスカンジナビア人の探検や彼らが殺害された様子が詳細に記されている、とされる(碑文が難解)。

ヘンリー・シンクレアは、1398年米大陸に向けて謎の航海を敢行。この時にテンプル騎士団の財宝をアメリカに埋めに行った。この財宝伝説で、アメリカのお金持ちは日本の埋蔵金伝説同様何度もニューファンドランドで掘削を繰り返しては失敗してきたという。

ケンジントン・ルーンストーンの文字は、ただのルーン文字でなくて、カギ付きXだったりポチ付きRだったりするのだが、これが実はフリーメーソンの文字だった。ただ碑文の内容は、20人位の探検隊が半分くらい一斉に死んでいたという内容であって、いわゆる宗教的な内容ではない。

以上は、聖杯伝説とフリーメーソンとテンプル騎士団と米大陸のコロンブス以前発見を組み合わせた仮説ではある。

金属の聖杯はアメリカにあるかどうかは別として、この近代西欧文明の立替え立直しの引き金は、星の国アメリカが引くだろう。


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刹那の秘密

2017-10-21 07:09:06 | 現代冥想の到達点
◎現実の裂け目

パタンジャリのヨーガ・スートラの最後から2番目の4.33から。

『4.33 瞬間瞬間に起きる変化のプロセスであるカルマは、三種のグナの変容の最後に把握できるようになる』

普通の人は時間は連続していると思い込んでいるが、ここでは、連続しておらず、瞬間瞬間(刹那)で断絶しているとする。

瞬間瞬間の隙間についてOSHOバグワン((”Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10から))は、『この隙間があるからこそ、現象全体、世界全体は一瞬して無に帰すことができるのだ』ととれるような怪しげな説明をしている。

原子と原子の間に隙間があるようにこの隙間があるのだとして、その隙間により世界全体、現実全体は無となる、と。

そう言えるのは、パタンジャリが、その無になるシーンを見たからこそだ、とも言う。

すべては無から出て無に消える。これは空のことであり、現実の色即是空、諸行無常に加え、アートマンがニルヴァーナに晋(すす)むことをちらつかせている。

この現実、この世界全体が無から出て無に帰るのであれば、それは無用で無駄、非効率の極み、メリットなしである。この現実、この世界全体が無用なのだが、それは見る者であるあなたが覚醒するためだけにおいて有用である。

これぞ荘子のいうところの無用の用の秘義である。荘子に出てくる無用の事物のたとえは、恐ろしく役立たずな人や物を出してくる。そのことからこんなことを想像できる人は一生そういう問題意識を抱え続けてきた人だけだと思う。

最近映画もデジタルになったが、動画も多数のコマ静止画でできている。この世界も現実も刹那刹那の静止画の連続であり、静止画と静止画の間には隙間がある。

この刹那の隙間にこそ驚異の真理が秘められている。

OSHOバグワンは、この刹那の隙間に本当のスクリーンを見ることができるという。

世界の真実は、超高速に動く静止画の残像である映画・動画・youtubeの方にあるのではなく、静止画と静止画の刹那の隙間に見えるスクリーンの方にあったのだ。

手を動かしているように見えたり、足で歩いているように見えたり、何かしゃべっているように思えたりすることは、虚像であり、その連続した意識の隙間にこそ真実がある。

なぜ旗が動くのかと問われ、『風が動く』『旗が動く』と回答したのは不正解で、『心が動く』が正解となった禅問答の背景がここにある。

ダンテス・ダイジは、この刹那の隙間のことを現実の裂け目と呼んでいる。

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三種のグナの終わり

2017-10-20 05:47:29 | 現代冥想の到達点
◎無力と悲惨の終わり

パタンジャリのヨーガ・スートラの最後から3番目の4.32から。

『三種のグナは、その目的を達成し、その変化のプロセスは終わる。』

三種のグナは、サットヴァ(照明)、ラジャス(不安)、タマス(暗痴)で、この世の三元素であり、心の三元素。

これが真理かといえば、そうしゃちほこばることもなくて、仏教圏は、地水火風空の5元だし、中東から欧州は、地水火風の四元だし、中国へ行くと五行だしと、世界の元素は、お国ぶりみたいなものと考えてよいと思う。

さて、三種のグナが終われば、世界が止まり、現象の転変も終わる。現象は見られるものであり、現象の転変は見る者のために存在する。

人は、神によって世界に投げ込まれ、3種のグナで演じられる人の子の無力と悲惨は、現象全体、世界全体を見渡すところで止む。
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心と現実が一つになる

2017-10-19 05:22:19 | 現代冥想の到達点
◎心を通じて得られる知識は少ない

パタンジャリのヨーガ・スートラの最後から5番目の4.30から。
『4.30その時、障害とカルマから解放される

4.31 障害や不純なものというベールが取り除かれた覚醒における無限の智慧と比べて、マインドを通じて得られる知識は非常に少ない』

OSHOバグワンは、この部分において((”Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 10から))。、肉体にこだわらなくなると心=マインドは、健全に機能し始める。心=マインド経由で得られる知識はわずかなものであり、覚醒=悟りで得られるものは無限であるとする。

心が落ちるということは、これまで心経由で現実を認識していたのが、あるいは心を媒介として現実を認識していたのが、人が現実そのものになるということ。人と現実は一つになった。これを世界が止まるとも云う。

心が落ちて、第六身体、アートマンそのものとなる。
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水牛の尻尾

2017-10-18 05:37:02 | 丹田禅(冥想法8)
◎無門関の第三十八則 牛過窓櫺

禅問答集の無門関の第三十八則 牛過窓櫺(ぎゅうかそうれい)

『禅の五祖法演禅師が曰く、
たとえば、水牛が窓の格子越しに通っていくのを見ていて、頭、角、四本の蹄がすべて行き過ぎ終わったのに尻尾だけが残って行き過ぎない。』

これを無門が歌うに
『窓を過ぎ去れば、堀や溝に落ちてしまう
引き返すようでは押しつぶされる
この尻尾は、甚だ奇怪である。』

窓から見ている自分は、本当にすべてを捨てきることができたのか。
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天国の先

2017-10-17 05:15:11 | 究極というものの可能性
◎文明の進歩と人間の進化

人は、安らぎ、自由、力強さ、智慧深きこと、美しさなど天国的に生きるべきであって、それと対極の地獄的な生き方をすべきではない。求道というのは、禁戒や戒律の形やそれ以外の様々なシーンで、日々刻々天国的に生きること、正しく生きることを求めてくるものだ。

仏教や古神道という世界宗教が、最後のひと輝きのような形で残った日本。だが、日本ですらこの世は半ば地獄的様相を呈している。

終戦後の中途半端な個人主義的ライフ・スタイルの導入は、日本を精神病大国と転ぜしめ、高度経済成長のけん引役だった昭和一けた二けたと団塊世代は、却って社会保障支出により国家財政を圧迫する主軸と化した。

そして現役勤労世代は、4割とも言われる非正規労働者であり、その低い賃金水準は、官民比較で2.8倍にも差が開いたともいわれ、実質的に広汎な貧困層を形成し、生活苦はいわずもがな、一生の人生設計もままならぬ日々を送っている。

こうして時代は、中有的時代から地獄的時代に変貌しつつあり、何より今年の長雨の2017年8月とこの10月の冷夏は地球温暖化による異常気象もいよいよ本格化してきたと説明されるものの、暗鬱な人心の天に反映した印と捉えられる。

こうした日本を改める方向性は、日本は、自国内でやろうとすると血の気が多い民族だから血で血を洗う争い(壬申の乱、応仁の乱・戦国時代)になるものだから、外国勢力によって立て替え(明治維新、大東亜戦争)をすると説明したのは出口王仁三郎だった。

今度も外国勢力による立て替えになるのだろう。

宗教は、釈迦、イエス以来2千年、天国志向でやってきた。

たとえその真相は、実際に希求していくべきものが第七身体である言葉で表現できない何ものかであり、世俗人間にとって、金が儲かったり、気分がよくなるなどというメリットとは全然関係のないものであったにせよ、ことさらにその前段階である天国的状態を目標として大衆への布教を繰り返してきた。

いまやそのやり方では世がもたないのではないか。世俗人間にとって何もならないこと、実在・智慧・至福(Satcitananda)、ニルヴァーナ、これは天国の先にあるのだが、それを狙っていかないと文明にも進歩はなく、人間にも進化はない。
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