アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

見ている自分と見られるもの-3

2017-09-30 06:27:02 | 冥想アヴァンギャルド
◎見ている自分は純粋な意識

さて、世界が与えてくれるあらゆる経験は、見ている自分が解脱するために存在していた。

パタンジャリのヨーガ・スートラでは、見ている自分は、純粋な意識であるとする。

現代科学は、他の事物や他人は自分とは独立したものであって、自分は孤絶した観察者の立場で、それらを評価したり論じたりできるというのが建前である。しかし現代では、自分と他人や他の事物は相互に影響を与え合っているのが次第に知られるようになってきた。このことは伝統的な宗教の見方であり、山川草木悉皆成仏(山川草木みな仏)、アカシック・レコード(世界はひとつながり)などと言う。

あらゆる知識や考え方は個人的なものであって、分断されているのが、この社会の通念。

自己と他者、見ている自分と見られるもの、生と死、男と女は両極であり、この両極の分断という苦しみは、つらいトレーニングなしでは通過することはできない。

そのトレーニングの成功確率は、それに自分を捨てられる比率、賭けられる比率に対応して高まる。

ヨーガ・スートラから
『2.20 見る者は純粋な意識であるが、見る者はマインドの幻影を通して見る。

2.21 見られるものは、見ている自分だけのためだけに存在する。』

自己と他者、生と死、男と女、子供と老人、巨富と貧困ですらマインドの造り出す幻影である。こうした幻影という現実は、見ている自分のためだけに存在する。

肉体ですら幻影という偽物だが、肉体こそ現実、金こそ現実、美醜こそ現実のように、その偽物たちでもって真剣に訓練を重ねないと、偽物であることを見抜きそれが偽物である世界に逆転して生きることはできない。


逆転して初めて、『見ている自分は純粋な意識』と言えるのであって、覚醒以前に『見ている自分は純粋な意識』と言うのは、空念仏である。

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見ている自分と見られるもの-2

2017-09-29 05:32:14 | 冥想アヴァンギャルド
◎見られるものは見ている自分を解放するために経験を提供する

見られるものである花は、見られることで、その外貌を変える。ここに、見られるものは、見ている自分に影響されて変化を起こすことで、見ている自分と見られるものが一つながりであることに気づく。

花の側に見られた経験は残っている。だが、見られた経験者はもはやそこにはない。見た人間が、世界が一つながりであることに生きていれば、花と人との両極性は消え、写すレンズと被写体が消え、すべての境界が失われる。

ヨーガ・スートラから
『2.18要素と感覚器官で成る「見られるもの」は、照明、活動、および慣性という性質を有し、「見るもの」に経験を提供し、「見るもの」からの解放という目的のためのものである。』

人は解放されるために存在している。何からの解放か。

人生がこのような苦しみの連続であれば、その目的は何のためだろう?神が存在するとすれば、なぜこの混乱を収束させることができないのだろう。

こうした苦悩、苦痛、混乱から、見ている自分を解放するために「見られるもの」が存在しているとパタンジャリは解く。見ている自分に対して見られるものは、経験を与えることで終極には解放を与えるとする。

密教では、入我我入と表現し、只管打坐では、意識を清明に保ちながら深まっていく。

アダムとイブの与えられた知恵の木の実が経験の始まり。

諸行無常とは、空の悟りであり、「見られるもの」には実体がなく、永遠不壊のものはない。なぜ変化し実体がないものを人間に与えねばならないのか。

いきなり、ある人間に対し、あなたは何も問題がない、あなたは既に完璧で、パーフェクトであると語りかけても誰も納得などしない。あなたは、今ここで悟っている、生きながらの神そのものであるなどとおだててみても、まともな大人なら信じはしない。

坐っているその姿が悟りである修証一如などと古仏が言ったとしても納得感などはない。

だがその納得を与えてくれるものは、「見られるもの」が提供してくれる経験であるとパタンジャリは云う。

そこで初めて、覚者は、あらゆる実感を経た者であるとか、あらゆる経験を経たものであるという説明がしっくり来るものとなる。

あらゆる体験を窮めるだけの好奇心と情熱が足りている者だけが、到達できるのだ。

人は何十年でも何百年でも、ともすれば同じライフ・スタイルを繰り返しがちなものだという。そこから抜け出そうとする情熱がある者が縁を呼ぶのだろうと思う。

どうやって真正のマスターに出会うか、それは縁による。

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見ている自分と見られるもの-1

2017-09-28 05:48:54 | 冥想アヴァンギャルド
◎見ている自分と見られるものの結合

見ている自分と見られるものによって、修行方法は、自分に神が入る、神が憑依するタイプと、自分が神になるタイプとの2種類に分かれる。

前者はシャーマニズムやチャネリングであり、後者は、ラージャ・ヨーガ、クリヤ・ヨーガに分類されるものであり、キリスト教、仏教の密教、禅、道教などもそれである。

ヨーガ・スートラの2.15には、わかっている者にとっては、すべては苦であるというこの世の見方が登場し、一切皆苦は、仏教の定番ではなく、インド伝統の見方であることを知る。

『2.16 未来の苦は、避けることができる。

2.17 避けなくてはならない(苦の)原因とは、見る者と見られるものの結合である。』
(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックスP6から引用)

自分とは自分個人であり肉体人間であると思い込む人にとって、生老病死は避けられないものであり、この世には何一つ確かなものなどない。

ここに一切皆苦の立脚点があり、この原因をパタンジャリは、見ている自分と見られるものの結合だとする。

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ヨーガスートラのAUM

2017-09-27 05:27:41 | 冥想アヴァンギャルド
◎マスター オブ マスター

ヨーガスートラの全195句中の、オーム関連部分は以下。

『1-25 至高の存在は、すべてを知っている点でまさるものがない。

1-26 時間の制限を受けることがない至高の存在は、他の師たちにとっても師である。

1-27 至高の存在の表現が、聖音オームである。

1-28 オームを繰り返し、その意味への念想がなされなければならない。

1.29 この実践によって内なる自己を知り、障害はなくなる』
(現代人のためのヨーガ・スートラ グレゴール・メーレ/著 ガイアブックスP4から引用)

これが、佐保田鶴治訳だとこんな感じ。
『1-25 自在神には、無上最勝な、一切知の種子が備わっている。

1-26 自在神は太古のグルたちにとってもグルなのである。なぜかといえば、自在神は時間に制限されたお方でないから。

1-27 この自在神を言葉で表したものが聖音「オーム」である。

1-28 ヨーガ行者は、この聖音を反復誦唱し、そしてこの音が表示する自在神を念想するがよい。

1-29 上記の行法を修するならば、内観の力を得、三昧に対する障害をなくすることができる。』
(解説ヨーガ・スートラ/佐保田鶴治/平河出版社p58-63から抜粋)
※自在神は、唯一無上の神。


どうして日本語にするとこんなに違うのか。そして、この訳だけで何か崇高なイメージが湧くとすれば、その人は相当デキる人だと思う。凡俗には想像するのも大変。


それはさておき、ここで注目すべき表現は、オームとは、マスター オブ マスター、グルの中のグルであるというところ。

なぜか。

帰ってこーい』『戻ってこーい』をオームによって確認するからだろうと思う。
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地獄的なこの現代を解消する

2017-09-26 05:50:37 | 冥想アヴァンギャルド
◎人は天界の流れで善を為し、地獄の流れで悪業を為す

人間の生存行為は、食物を自然界から奪って食べるということで、利己的に他のものを消費するという意味では地獄的である。およそ物質的なもの肉体にかかわるものは地獄的な行為となることが多い。
しかし人間は、精神において天国を実現し得る。

このような見方を前提にすると、
世の中の人は天界の流れを受けて善行を為し、地獄の流れを受けて悪を業を為す。よって天界も地獄もアストラルなので、すべての事物は霊界のスピリチュアル精霊の為すわざであると言える。

しかしそのメカニズムを知らないがゆえに、人はその行為を残らず自分の身から出たものだと信じている故に、その為せる悪はみな自分のものであるとして、心中深くこだわり思い込むものである。

それゆえ人は、自分から悪と虚偽との原因となっている。自分が悪と虚偽であると自認するところに神は何も関わってはいない。

人の身魂に包有している悪と虚偽とは、その人の心の中の地獄である。 だから地獄というのも悪というのも皆同一の事である。

古人は、こういうのを指して『こころの鬼』といったのだろう。

世間では、アプリオリに地獄というものがあって、悪行を積めばそこに人は落ちるという通念の中に暮らしているが、地獄とは各人が有史以来大神に反抗した積み重ねで作り上げてきた結果だそうだ(出口王仁三郎説)

なればこそ地獄的なこの現代を解消するのは各人の日々の努力にかかっているのであると思う。

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ヨグマタ相川圭子のTV番組

2017-09-25 04:43:07 | 冥想アヴァンギャルド
◎パイロット・ババジのお弟子さん

ヨグマタ相川圭子のTV番組をちらりと見ました。

彼女はもともとハタ・ヨーガのインストラクターだったのですね。パイロット・ババジがマスターだそうだが、パイロット・ババジの悟境は如何に。インドでマスターしているといっても、十牛図の第三図程度のマスターが多いそうだから。

彼女の講演の一部が放送されていたが、すべては光だとかピースフル系の教説でしたね。彼女の本は2冊くらい読んだことがあるが、あまりピンとは来なかったことを覚えている。

インド政府公認のヨーガの母って行政府公認のヨーガ・マスターってこと。それってどうなんだろう。

どんなに大悟徹底しても、それはそのような公的資格でもなんでもないから、そのこと自体食えることとは何にも関係ない。それでも究極を目指すのが、求道者のあり方ではある。

ヨグマタ相川圭子の価格設定は高めの印象。

驚いたのは、バンバン来訪者の頭頂に手を当てまくっていたこと。
アンマのハグは有名で、全員ハグするのに結構時間がかかるというが、これはどうなんだろう。

TBSでラジオ番組まで持っているそうだが、マスコミの寵児であることと真贋は別物ではある。
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冥想とオルゴン

2017-09-24 07:05:52 | 現代冥想の到達点
◎OSHOバグワンのライヒ評価

OSHOバグワンは、”Yoga: The Alpha and the Omega, Vol 8”において、心理学者フロイトの弟子にして、アメリカで不幸な晩年を遂げたウィルヘルム・ライヒを高く評価している。

OSHOバグワンといえば、人間は、肉体で酸素と二酸化炭素を呼吸し、エーテル体でプラーナ、気を呼吸し、アストラル体で好悪などの感情を呼吸し、メンタル体で想念を呼吸するという区分があるが、ライヒへの言及はプラーナの話である。

プラーナの特質は半物質であること。

フロイトは、心的エネルギーをリビドーと見たが、リビドーとライヒの言うオルゴンは同じものだとOSHOバグワンは説く。リビドーは性がらみで語られるが、オルゴンは、肉体からも大気中にもあるので、オルゴンの方がリビドーよりも広義である。

ライヒは、後にオルゴンを集積するボックスを製作して、オルゴンを集めすぎたと思われるような実験をやった。

OSHOバグワンによると、ヨーガ修行者は、古来換気設備のない、小さな扉が一つしかない箱型の洞窟のようなところに住むのが常だった。現代人の感覚からすると、空気は悪いし、非衛生的なのだが、ヨーギはそこで快適に健康的に過ごすものだ。

その訳は、オルゴンは、特定の場所にとどまる性質があり、かつオルゴンの層の上にオルゴン層が堆積し、エネルギーは活発化するからであるという。

ところが風が入るとオルゴンは吹き散らされる。

さてライヒは、病気治療用のオルゴン・ボックスを製作し、ここに病人が1時間でも入るとたちまち効果が表れたという。これに自信を得て、ライヒはオルゴン・ボックスの量産を始めたが、アメリカ食品医薬品局(FDA)に違法として摘発された。オルゴン集積による治癒の証明ができなかったからである。

OSHOバグワンは、この効果は、現代科学では証明できず、経験的に知られるものとしか言わない。

ヨーギの住む四角い洞窟もそうだが、チベット密教僧が何か月も籠る山の洞窟も入り口を塞ぐ。
禅僧の坐る場所も風が入るのは不適とされる。

いずれも師匠・グルによる経験的な指導に留まる。

今物理学は量子に入ったが、これがプラーナと出会うのはこの時代ではないかもしれない。

見えないものをないものとして否定したり、あるいは心理現象と扱うこの時代の科学は、そこに限界がある。

心理は心理現象に留まらず、物質・肉体、現実の事物をも変化させたり生んだりするという証明は次の時代なのだろう。
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白隠と本山

2017-09-23 06:21:03 | 丹田禅(冥想法8)
◎紫衣と黒坊主

竹田黙雷の続黙雷禅話(1907竹田黙雷=国会図書館デジタルアーカイブで読めます)の『十七 白隠の述懐』に白隠と本山について書いた部分がある。

白隠は原の松蔭寺にいたが、松蔭寺は、興津清美寺の末寺であって、妙心寺の孫寺にあたる。

当時の清美寺の住職は仕方のない凡僧であったから(ママ)、始終本山風を吹かせていじめたらしい。白隠の述懐に、「小糠三合でもあったら、孫末の黒坊主になるものではないと、冗談半分で言われた」そうなので、孫末寺の黒坊主であった白隠は、カチンと来てたらしい。

黒坊主とは、紫衣の対極にある僧の地位のシンボルで、高位の僧に対する低位の僧の蔑称みたいなところか。

黒坊主派の代表格は一休であって、紫衣を着ることはほとんどなかったようだが、例外的に応仁の乱で廃墟となった大徳寺再興のために大徳寺の住職になったことがある程度。

大徳である白隠も本山にはこれだけやられるのだから、宗教組織の中では悟境とかは問題にされないのですね。

世俗の秩序とは恐ろしいもので、OSHOバグワンは、インドのカーストの最下層ハリジャン不可触選民の起源は、13世紀の仏教滅亡時に逃げ遅れた仏教徒だということを言っていたようだ(出典は不明)から、胸を張って仏教徒として生きれる日本はありがたい。

ただ日本の被差別の起源を調べていくと、熊襲の東遷してアイヌになったこと(出口王仁三郎説)などを見ても、千年とか1500年のタームではなく、もっと数千年の歴史をみないと真相はわからないのではないかという印象を持っている。

インドのそれについても単純に仏教徒だけのことではないように思う。

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文明破壊とEMP(電磁パルス)攻撃

2017-09-22 03:36:26 | 時代のおわり
◎謙遜、無私、自己反省、冥想に興味のない政治リーダー達の争う世界

北朝鮮の核ミサイル攻撃で有名になったEMP(電磁パルス)攻撃。これについては、主要メディアでも取り上げられるようになった。これは、地上30キロから400キロで核爆弾を爆発させた時に発生するガンマ線(γ線)で、地上の電子機器を、そのケーブル等に発生するサージ電流で故障させるもの。

これは、実際に発生すると、太平洋の離島の上空400キロで水爆を爆発させたところ、およそ1400キロ離れたハワイ諸島で停電が起きたように、日本列島の半分が影響を受けるようなことになる可能性がある。

問題となるのは電力、通信インフラはもちろん、自動車や家電や玩具の果てまでも今やマイコン制御の時代なので、これが発生すれば、日本の物資文明は一朝にして壊滅し、移動も煮炊きも原始時代に近いレベルまで戻るだろうということ。

こうした被害が世界の一地域限定であれば、時間をかければ復旧できるのだろうと思うが、世界中で発生すれば、近代西欧文明全体の破滅となる。

先般はからずも朝鮮中央テレビの映像で水爆の形状を見ることができたが、ダンテス・ダイジは、それらが、世界中で一斉に上がるところを幻視した。

いまや文明壊滅とは、人類の大量殺戮だけでなく、EMP(電磁パルス)効果による殆どの文明の利器の消失によっても起こることが知られるようになった。ところが人だけは生き残って文明の利器だけ消滅するという“人にやさしい”シナリオはないようだ。


この文明において、正気であるとは、ちょっと倒錯気味、ノイローゼ気味であることでもあるから、その文明により良く適応した政治リーダー達の正気とは、覚者の言うところの正気とは全く異なるものであろうことが容易に想像される。

覚者の言う正気とは、良いことだけをする、悪いことはしない、謙遜、無私、利己は図らない等々であるから、およそ今の社会での様々な規範とは相容れないところがあるので、当然そうなる。

さて、およそ“謙遜”とか“無私”とか、“自分を反省してよりよく生きる”とか、“冥想をさらに深める”というような言葉とは全く無縁の各国政治リーダー達が、原水爆という危険な兵器を弄べば、核戦争は起こりえる。

核ミサイルのボタンを押すのは狂人あるいは狂人に近い人かもしれない。だがその事態を招いたのは、この一つながりの世界(アートマン、アカシック)にあって、まぎれもなく自分たち一人ひとりの行為の結果でもあると思う。

旧時代の既成世界宗教が勢いを失った今、ここで冥想に大いに関心とエネルギーを注ぐ人が更に大勢出ることで、世界全面核戦争は回避され得るというのもまた一片の真実でもあるのだが、そんなことに取り合う人は未だとても少ない。
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死体に入る

2017-09-21 05:41:22 | 究極というものの可能性
◎ディテールは、グルあってこそ

日本には、九相図というのがあり、墓地で腐乱が進む死体の有様を観察し、肉体の絶対でないことに直面するという修行法がある。

OSHOバグワンが、“The alpha and Omega 第八”で、一歩進んで死体の中に入る修行に言及している。

まずパタンジャリのヨーガ・スートラ
「束縛の原因を緩め、その通路を知ることによって、心が他の人の身体に入ることができます」

OSHOバグワンの説明:
スーフィは、この方法で非常にうまくいった。彼らは死者がいる墓地に住み、新鮮な遺体が埋葬されると、彼らは埋葬された遺体に侵入しようとする。

こうして、一度修行者が他人の体に入ることができると、突然彼の見方は変化を遂げ、肉体はあなたが住んでいる“家”であることが絶対的に確かなものになります。

あなたが自分の家に住んでいれば、あたかも「私は家だ」のように考え始める。しかし、あなたが友人の家を訪問することができると、突然、あなたは“家”つまり肉体ではないことがわかる。自分の元の家は残されているが、あなたは別の家にいる。』

OSHOバグワンは、パタンジャリのヨーガ・スートラは、フレーム・ワークを示すだけで、ディテールは明らかにしない。ディテールはグルと弟子の親密な関係にしかない。

なぜならば、愚かな修行者は、ディテールの記述を残すとそれをそのまま実践しようとするからだ、と。

そうした好奇心旺盛な修行者は、肉体からは出れるが、他の肉体に入れはしないそうだ。
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悩み、苦しみを解決するには

2017-09-20 05:57:41 | 冥想アヴァンギャルド
◎現実的努力、冥想、ドラッグ

悩み、苦しみを解決するには、文字通り、悩み苦しみと現実的に逆の現象を起こさせて解消するやり方、悩み、苦しみそのものがなかったようにするやり方、そして悩み苦しみそのものが実体のないものであると知る空の悟りというようなやり方がある。

3種のうち2種は冥想による。だが、
日本人の大半は冥想という手法があることすら知らない。アメリカ人などは、冥想があることは、日本人より知っているが、冥想をはなから捨てて、ドラッグで行く人も少なくないようだ。

日本人も向精神性ドラッグを処方してもらっている人は、少なくないから、今や日本人の精神状況はアメリカ人よりも危機的と言えるかもしれない。

問題解決の苦悩解決のカードが少ない日本人は、更に漂流するが、いつまでも漂流は許されまい。
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性エネルギーと頭人間

2017-09-19 05:38:22 | 冥想アヴァンギャルド
◎エネルギーの頭への集中と狂気

現代人は、性に向かうべきエネルギーですらも、頭に向かう。人間のボディには複数の代表的エネルギープールがあって、それは、生殖器、腹、頭なのだが、現代では文化的要因により、エネルギーは、ほとんど頭に向かう。

その結果、人の頭の中は、昼は思考、思考、夜は、夢、夢と休むことがなくなる。

手足も腹も頭に従属する機械に成り下がり、肉体では、頭だけが生きている。現代人は、頭人間である。

だから、とても多くの夢、とても多くの思考と、頭の中での沢山のトラフィックが発生する。

だが、それをやめる方法はないことはないが、もっと効果的な方法はある。それを全身に分散させる方法である。

もちろん、それは全エネルギーが頭にあるのであまりにも混雑している。頭は多くのエネルギーを運ぶように設計されていないので、あなたは狂って行く。

こうしたメカニズムで狂気は生み出される。狂気は私たちの文化によって生み出される文化的な病気である。

※頭に集中したエネルギーを全身に分散させる手法は、呼吸法、柔軟体操、ジョギング、禅の経行、気功、OSHOバグワンのダイナミック・メディテーションなどがある。


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神人和合の特徴

2017-09-18 06:39:32 | 古神道の手振り
◎大神から人間への内流と諸悪莫作

神人和合による人間の矯正についての出口王仁三郎の説明。

大神とはアートマンの謂いだが、大抵の人間は、肉体と神が直接コンタクトせず、微細身経由で大神とコンタクトしている。

つまり、人間は大神が微細身経由で肉体をコントロールしているというイメージがここにある。

そして大神から直接流れ出る内流。神から人間に流れていくように書いてあるが、これは私の想像だが、神人合一を果たす前は、『帰ってこーい』の神から人への流れであり、神人合一以後流路がはっきり出来、まともに大神から人への流れとなるのではないか。

出口王仁三郎は、神人和合以後は、人は大神からのダイレクトコントロールされ、神的順序に則った行動となる。これを仏教では、諸悪莫作、衆善奉行と言う。


霊界物語第50巻第2篇兇党擡頭第8章常世闇から以下引用。
『大抵の人間は、高天原に向つて其内分が完全に開けてゐない。それ故に大神は精霊を経て人間を統制し給ふのが普通である。

何となれば、人間は自然愛と地獄愛とより生み出す所の地獄界の諸々の罪悪の間に生れ出でて、惟神即ち神的順序に背反せる情態に居るが故である。

されど一旦人間と生れた者は、何うしても惟神の順序の内に復活帰正すべき必要がある。而して此復活帰正の道は、間接に精霊を通さなくては到底成就し難いものである。

併しながら此物語の主人公たる初稚姫の如き神人ならば、最初より高天原の神的順序に依る所の諸々の善徳の中に生れ出でたるが故に、決して精霊を経て復活帰正するの必要はない。

神人和合の妙境に達したる場合の人間は、精霊なるものを経て大神の統制し給ふ所とならず、順序即ち惟神の摂理により、大神の直接内流に統制さるるのである。』

※高天原は、不死不壊なる神的レベル。
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完璧な分断と絆幻想

2017-09-17 06:21:15 | マインド・コントロール
◎平時でも分断孤立した生活と意識

大規模災害の後は絆がスローガンになる。それは、大規模災害で、ライフラインが破壊されると、生活は分断、孤立しがちになるもので、生存を維持するためには、食料、水、情報などの絆が要るということ。

ところが、個々人の生活の分断は、ライフラインが整った日常にあっても既に常態化している。個人主義的生活とは、個々人が分離した生活スペースで暮らし、日常意識も他人と分離し、独立していることであり、常に孤独感、孤立の影が差す。

平均主義、平等主義、不公平なしを社会秩序の根底に据えている日本社会は、残念ながらねたみそねみが心情の根幹にある。

他人よりちょっと得をする」というのは、大いにやる気スイッチを刺激するが、これは、ねたみそねみを身上とする日本民族にとっては、諍(いさか)いの種である。

だから、人は「ちょっと足りない、ちょっと不足気味」で満足しなければ、際限のない他人との分捕り合戦の罠に落ちる。

核家族化と個人主義的ライフ・スタイルで、各個人は孤立し、こうした「ちょっと得」の罠にかかれば、その人たちは、最終的に親子など家族同士でも争うことになることは、古代の予言などでいくらでも予見されている。

古代ギリシアのオウィディウスの変身物語には、金の時代、銀の時代、銅の時代と進み最後は鉄の時代になる。

鉄の時代には、こっそりあるいは合法的に他人の物を奪うのが基本となり、主人は客の、婿は舅の安全を守らず、兄弟愛も稀であり、夫は妻の、妻は夫の死を画策し、息子も父の死期を探るなどと、現代の油断も隙もない時代が幻視されている。

こうした反作用のせいか「すべてはつながっている」「ノンデュアリティ」などと言い立てる人もいるが、「すべてはつながっている」観想や「ノンデュアリティ」観想をすれば、いつかわかることもあるのかもしれないが、孤独で不安でみじめで情けない自分から本当に解放されるのは、それとは全く別の事態かもしれないのだ。

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人の息を詰まらせ気晴らしを奪う

2017-09-16 06:29:48 | マインド・コントロール
◎日本的ライフ・スタイルと社会システムが精神病者を大量生産

昔コンピューターセンターみたいなところに行って、二重三重のチェックを受けて入ると、そこは真夏でも空調のガンガン効いた空間であり、「ようやく入ったが、出るのも大変だな」などと心理的な息苦しさを感じたものだった。

現代は、GPS、SNS、セキュリティの不幸のリンクにより、こうした心理障壁、物理障壁による空間が、至る所に置かれている。電車の中では、耳にイアホンを刺して独自の音響空間に孤立し、スマホでLineしたり、モバゲーしたり、SNSしたりと、個人個人が、これ見よがしに、その分断された態度を見せつけている。

学校でも職場でも、セキュリティ・システムにより、IDカードなどIDを持たないと、そこには入れないようになった。

また便利の名のもとに、ポイント加算で儲かるとの名のもとに、実質的に電車にも乗れない、バスにも乗れない、買い物もできないという、緻密なヴァーチャル空間が日本全体に出来上がった。

その反作用として、人の意識は孤立感を深め、気分は閉塞し、息が詰まる。息が詰まるのは、中国からの大気汚染物質の流入だけが原因ではない。

息が詰まれば、気晴らしが要る。
しかし、気がつかない間に気晴らしは奪われつつある。

代表的な気晴らしである喫煙をほぼ全面禁止にし、ヘルシー、ロハス、運転の名の下に飲酒する機会さえ減らしていった狙いは、こうしたヴァーチャル牢獄で暮らす人間たちの孤立感を深め、精神をより不安定にさせ、ちょっとの脅迫的かつメリットあふれる暗示を与えることで、大量の操作しやすいゾンビ仔羊を育てようと考えているグループがいるのではないかと思わせるに十分である。

気分をヴァーチャル牢獄に押し込め、気晴らしを与えなければ、かなりの確率で人は発狂したり、自殺したりするものではないのだろうか。

その結果が、うつ病などメンタルヘルス問題の増加。この日本的ライフ・スタイルと社会システムが精神病者を大量生産しているのだ。

聖書では額に印を押された者が神の国に入ると言ったが、現代は万人が額にIDなる印を押されたが、その印は、神の国とは何の関係もなく、単にヴァーチャル牢獄にいる証明みたいなものだ。

今日も冥想を。
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