アヴァンギャルド精神世界

冥想により、限りなき知性と底知れぬ優しさを。そこに次の時代が・・・。この世はドリームでもあり、リアルでもあり。

ギルガメシュの不死の探求

2017-08-31 01:13:15 | 究極というものの可能性
◎不死とは、他者である神のものなのか。


親友エンキドゥを失ったギルガメシュは、自分もエンキドゥのように死ぬのではないかと不安に駆られた。

そこでギルガメシュは、不死を得た人物であるウトゥナピシュティムを訪ねて、太陽が日毎に通る門を見つけ、その中の暗闇のトンネルを12時間歩き、あらゆる食欲、肉欲、感覚刺激の享楽の誘惑も退け、死の海を越えて、ウトゥナピシュティムに出会うことに成功した。

ギルガメシュは、彼にどのように不死を得たかと尋ねると、ウトゥナピシュティムは、六日七晩眠らずにいなさいと命じた。

結局ギルガメシュは、すぐ眠ってしまい、目覚めてから死の不安におののくことになった。


六日七晩眠らずにいるとは、インドでよく言われるところの「熟睡中の夢も見ない状態」のことだろう。

不死とは、自分のものなのか、他者である神のものなのか。

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外国が同腹になりて

2017-08-30 05:32:57 | 時代のおわり
◎一旦皆引寄して、其後で地震、雷、火の雨降らして

「外国が同腹になりて攻めて来る」とは、外国が日本だけを敵とみなして一斉に攻めかかってくるということだが、これは、大本神諭に出てくる未来ビジョン(幻視)。

これは、今まで実現などしたことがなかったかのように思われるが、実は一度あった。

第二次世界大戦の末期1945年5月ナチス・ドイツが降伏して以降は、事実上日本一国だけが世界の敵として世界中を相手にして戦う、文字通りの孤軍奮闘となった時期である。

以下の出口ナオの予言では、第二次世界大戦の日本とは様子が違い、外国の日本侵攻時に『一旦皆引寄して、其後で地震、雷、火の雨降らして、外国を往生いたさす』などとものすごいことが書いてある。

平和憲法を護持する日本だが、世界の終わりは、日本が軍事政権になったタイミングなどと、今からは想像もつかない事態も予言されている。

北朝鮮が盛んに陽動してくるが、日本人は守るべき何かはあるのだろうか。

最近は、「寺と坊さんはあるが仏教がない」とか、「教会と神父はあるがキリスト教がない」とか、「神殿伽藍と幹部はあるが宗教がない」とかいうそうだ。そんな日本人に守るべき何かはあるのだろうか。

将棋にはハメ手筋というのがあるが、いよいよそのハメ手筋にかかって戦争に巻き込まれるようなことにならなければよいが・・・。

そのような流れは、聖徳太子未来記でも感じ取られていて、出口王仁三郎の入蒙となっている。


大正6年旧11月23日の大本神諭には、次のように世界同腹が示されている。

『支那から昔攻めて来た折には、夫れでも見せしめの為に三人だけは還してやりたなれど、今度外国が同腹になりて攻めて来た折には、只の一人も還してはやらんぞよ。

日本へ外国の兵隊を一旦皆引寄して、其後で地震、雷、火の雨降らして、外国を往生いたさす経綸であるぞよ。

日本も霊魂の悪い人気の良くない所には、何が在るとも判らんから、神の申す中に一時も早く改心を致さんと、取返しのならん事が出来いたして、ヂリヂリ舞を致さな成らんと申して、二十七年の間知らして在りたが、其知らした実地が出て来るのが近寄りて来たぞよ。』
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沢庵禅師の太阿記-1

2017-08-29 05:19:21 | 丹田禅(冥想法8)
◎活人剣

太阿とは、活人剣のことである。悟りを以って世を渡るということであって、銃刀法に登録した名刀を持って時々振り回すことではない。

沢庵禅師の太阿記の本文。
『蓋し兵法者は勝負を争わず、強弱に拘わらず、一歩を出でず、一歩を退かず。

敵、我を見ず、我、敵を見ず。
天地未分、陰陽到らざる処に徹して、直ちに功を得べし』

天地未分、陰陽到らざる処とは、第六身体、アートマン、密教でいう空のことであり、過去現在未来すべて一つながりのもののことである。ここに立って初めて、我と敵は一身同体であるから、敵も、我を見ないし、我も敵を見ない。

これは、ノンデュアリティの理屈であるが、理屈であるうちは何も起こらない。

そこで、人は自我の死を通過し復活しないと、そこのところはわからない。ノンデュアリティは理屈の理解でなく、体験とは言えない体験を通らないと本物にはならない。

太阿記では、禅冥想(Zen Meditation)という行が前提となっている。坐ってなんぼ。

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一路居士

2017-08-28 05:32:57 | 丹田禅(冥想法8)
万事休すべし、如何なるか是れ一休

一路居士は、一休和尚の数少ないわけのわかった友人の一人。一路居士は、もと仁和寺の門主をされた方だが、和泉の国境に草庵を結んでいた。

その頃一休は、摂津の住吉におられ、一路居士を時々訪問していた。
一休が問うに、『万法路(みち)あり、如何なるか是れ一路』

一路『万事休すべし、如何なるか是れ一休』

一路居士の草庵にはいつももっこが吊るしてあって、その中に道行く人の志を受け、手取り鍋一つで粥を炊いたり湯を沸かしたりして、暮らしていた。

ところがある日、村の悪餓鬼がいたずらをして、もっこの中に馬の古沓(ふるくつ)を入れておいた。

すると居士は、『我が糧(かて)、すでに尽きたり』と言って、遂に食を断って死んでしまった。

この草庵跡が一路山禅海寺となっている。

もっこに古沓が入ったのを天意と見て、食を断つとは、自殺じゃないかと世間の人は言うかもしれないが、それが真正の道者の行き方である。

戦後のマスコミ報道や法曹教育のせいか、形式からみれば自殺ということが一律にダメ、という見方が、世間には徹底している。だが、そういう輩には、まともな禅僧の生きざまの機微など理解の外にある。

悟った者は、このように天意・神意を生きているから、その生きている姿は、諸悪莫作、衆善奉行なのである。

密教ではないが、禅であっても悟りは死の技術ではある。
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夢窓疎石のアートマン

2017-08-27 06:31:56 | 丹田禅(冥想法8)
◎アストラルでの訪中など

夢窓疎石は、天龍寺と相国寺の開山であって、日本の禅的芸術の源流でありながら、自分のことは、出来損ないのガキ(蕩子)と称していた。

夢窓疎石の詩

『客中偶作(旅にあってたまたま作る)

蕩子の生涯、貯蓄無し、
山雲渓月、これ青氈(せいせん)。
東西白く踏む一条の路、
途中と家舎の辺に在らず。

客中偶作
蕩子生涯無貯畜、
山雲渓月是青氈。
東西白踏一条路、
不在途中家舎辺。

(大意)

ぐれた子に財産はない。
山の雲と谷を渡る月がわが宝物。
東西へ連なる一条の白い道を踏んでいくが、
どこが途中で、どこが家という区別もない。』

一条の白い道は、垂直ではないので、クンダリーニのことではない。

『一条の白い道を踏んでいくが、どこが途中で、どこが家という区別もない』とは、アートマン=空のイメージであって、あらゆるものが一つながりである“これ“を指す。

夢窓疎石の疎石という名は、彼がアストラル・トリップで、中国の名僧疎山と石頭に案内されて達磨像をもらった事件に由来する。

禅僧だが、そういうこともできたのだ。
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勝海舟の禅

2017-08-26 06:03:22 | 丹田禅(冥想法8)
◎虚心坦懐、事変に処す

勝海舟は、19か20の時、島田先生から、剣術の奥義を極めるためには、まず禅だと言われて、手島の広徳寺に行って、大勢の坊さんと一緒に禅堂で坐禅を組んだ。

すると和尚が棒を持ってきて、いきなり坐禅をしている者の肩を叩く。すると片端から仰向けに倒れる者が沢山出た。

坐禅していても、金のこと異性のこと、グルメのことなどいろいろなことを考えて心がどこかに飛んでしまっているから、そこを叩かれるので、びっくりして転げるのだ。

海舟も最初は、ひっくり返る仲間だったが、だんだん修行が進むと少しも驚かなくなって、肩を叩かれてもただわずかに目を開いて見る位のところに達したので、4年位真面目に修行した。

この坐禅の功と剣術の功が土台になって、勇気と胆力となり、後年大変役に立った。明治維新で万死の境を出入りする時に、遂に一生を全うしたのはこのためだった。当時は随分刺客に襲われたが、いつも手取りにした。

危難に際会し、逃げられないと見たら、まず身命を棄ててかかった。そして不思議に一度も死ななかった。

ここに精神の一大作用が存在する。人、一たび勝とうとするに急なれば、たちまち頭は熱し胸が躍り、やることは却って顛倒して、進退度を失することになるのを免れない。

反対に、退いて防御の位置に立とうとすると、たちまち退縮の気が生じてきて、相手に乗ぜられる事になり、大なり小なりこの法則のとおりとなる。

海舟は、この法則を悟了し、いつも先ず勝負の念を度外に置き、虚心坦懐、事変に処した。それを、小は刺客乱入の厄を逃れ、大は、明治維新前後の難局に処し綽綽として余裕があった。これは禅と武士道の賜物であると感謝している、と。

勝海舟は、幕臣でありながら、明治維新に際しては、世渡りがうまく立ち回ったこずるい人物のように見られがちであるが、大悟したようではないが、それなりに冥想修行には打ち込んでいた。

「勝負の念を度外に置く、事に際しては逃げない、自分を棄てる」、というのは簡単な理屈ではあるが、実際に行うのは容易ではない。

夏の高校野球で優勝した花咲徳栄高校岩井監督が、決勝で広陵高校の本塁打6本の中村奨成選手に対する心構えとして、「逃げるな」をアドバイスしたのは、勝海舟に通じるところがあった。
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倶胝、見知らぬ尼さんを引き寄せる

2017-08-25 05:22:12 | 丹田禅(冥想法8)
◎倶胝和尚の発心

倶胝和尚が、自分の庵でいつものように看経しようとしていたら、一人の見知らぬ尼さんが、笠をつけてわらじ履きのまま堂に上がり込んで、倶胝和尚の周りをぐるぐる回りながら、「(悟っているのならば)ちゃんとしたことを言えれば、笠を取りましょう」と。

あっけにとられて、何も言えない倶胝和尚。

尼さんが堂を出ようとしたのを見て、「旅の尼さん、今日の宿もないことでしょうから、一晩ここに泊って行ったらいかがですか」などとズレたことを言うと、件(くだん)の尼さん「ちゃんとしたことを言えれば、草鞋を脱ぎましょう」と言う。

倶胝和尚が何も言えないままでいると、かの尼さんはさっさと堂を出て行った。

倶胝和尚は、自分の出来の悪さに呆れ、涙も出ず、寺も何もうち捨てて、その夜のうちに各地の名僧師家の門を訪ねる旅に立った。

やがて馬祖系の大梅法常禅師の法嗣の天龍和尚に参じ、この尼さんの出来事を話して、仏法の真意を問うと、すうっと一本指を立てた。これを見て倶胝和尚は豁然と大悟した。

公案に倶胝竪指の公案がある。

親切な尼さんもあったものだ。倶胝の出来が尼さんを呼んだ。
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エーテル体と雷

2017-08-24 06:08:15 | チャクラと七つの身体
◎雷電で世界を滅ぼさんとする

朝から熱風の吹く晩夏の一日の始まりである。

人間は、電気の肉体であり、電気とは神経や筋肉である。神経系とほぼ似た位置に経絡であるエーテル体がある。

エーテル体は半物質であって、物質の性質が半分であって、経絡であるが故に電気的な性質も有している。

最近の名古屋地区や東京の一時に何千発もの落雷があって、巨大積乱雲スーパーセル直下では何千発もの雷が発生することが知られるようになった。

ギリシア神話に、神はこの世を滅ぼそうとして、いきなり洪水にしようと思ったのではなく、最初に雷でやろうとしたというのがある。

時代は、金の時代、銀の時代、銅の時代、鉄の時代と進み、既に敬虔と正義は人の心から失われた。そこで大神ユピテルは、日々罪という罪を犯しまくり、大地の広がる限り荒々しい狂乱の支配している人類すべては罰を受けねばならないとし、いつも愛用の武器である雷電でもって人類を滅ぼそうと考えていた。

ユピテルは、既に無数の雷電を地上の至るところにばらまこうとしていた。

ところがユピテルは、雷火では、地上の火が天上に延焼し、天の軸が端から端まで燃え、海も地も天上の宮殿も燃え上がり、宇宙全体が滅亡するかもしれないと懸念し、急遽無数の雷電による人類滅亡から、洪水による滅亡に切り替えることにした。

つまり無数の雷電とは核ミサイルのことであり、世界中に配備完了し、いつでも世界滅亡できるのだが、なぜだか、大洪水に切り替えるということ。

スーパーセル下の多数の落雷も核ミサイルも広義の雷電。大洪水前に雷電を見せるのは、スーパーセルだけでなく、核戦争も派手な雷電の打ち合いではある。

対エーテル体ということでいえば、スマホ、携帯電話の電磁波でエーテル体に影響を与えながら生活するのもプチ落雷のようなものである。

ギリシア神話もなかなかに意味深長である。
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般若智灌頂

2017-08-23 05:40:49 | 密教
◎本人の修行の核心

灌頂といえば、なんだ儀礼かと思いがちであるが、後期インド密教の影響の強いチベット密教では、灌頂に行の核心が見られる。

チベット密教では、一般に四つの灌頂を立て、
1.瓶灌頂
(行者に目隠しさせて曼荼羅上に華を投げさせて、本尊を決める云々)
2.秘密灌頂
(行者がマスターに若い女性をプレゼントし、マスターは彼女とセックスし、金剛杵(男性器)の中に蓄えられていた菩提心(精液)を取り出し、弟子の口中に投入する。これによって弟子に菩提心を植え付けると観想する)
3.般若智灌頂
(行者がマスターから与えられた女性とセックスし、射精せぬままで、菩提心の上昇と下降により四歓喜を得る(四歓喜については快感の段階的高まりとみる説と、死における意識の解体の4段階とみる2説がある))
4.第四灌頂
(マスターが行者に特別なサジェスチョンを与える)

四つならんでいるが、行者自身による行は、般若智灌頂だけであり、悟りは、他人によって惹起できぬことが知られている以上は、1,2,4のマスターによる行者への働きかけをことさらに灌頂儀礼として残しているのは、後に思い当たる人物が出ることを想定しているからだろうか。

よって、チベット密教の本人の修行の核心は、般若智灌頂と考えられるように思う。

性器とか、精液という文字が使われているが文字通りにとることはできない。秘密集会タントラなどでは、文章中に糞尿のオンパレードであり、明らかに世俗世界のことではないことを強く印象付ける書きぶりだからである。20世紀のオカルティストが、金星だ、土星だ、異星人だと、そういう言葉で異次元のことを語るように。



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身近な毒草

2017-08-22 05:34:18 | 時代のおわり
◎一線を越えた地球温暖化

東京近郊の宿泊施設には、ロハスな食事を提供する宿があって、その責任者が出てきて、宿の周りの植物を、手に取って、これは食べられる、これは毒、これは食べられるなどと語っているシーンをテレビで見かけた。

これだけ、食品添加物、保存料の入ったドリンクや食材を食べたり飲んだりしている我らは、ロハスな食材と聞くとそれだけで舞い上がってしまいがちだが、実際は、都市部にも郊外にも、食べてはいけない毒草は結構あるものだ。

夾竹桃、福寿草、スイートピー、彼岸花、スズラン、水仙、ポインセチア、シキミなど、いずれも毒草だが、野原や道路に自生したり、花屋で売っているようなものばかり。

北海道観光と言えばスズランだが、なぜかおひたしなどスズラン料理にはお目にかからない。スズランは花も葉も実も毒であり、花を生けた花瓶の水を飲んでも死ぬそうだから、食材どころではない。

この8月は、東京でも20日近く雨が続き、真夏のヤマセの威力を痛感させられた。この異常気象は世界的であって、イタリアのように異常高温と干ばつとなっている地域に加え、スーパーセルと呼ばれる超巨大積乱雲が世界各地で見られるようになったのが特徴的である。超巨大積乱雲の下では先日の東京のように何千発もの落雷、雹、豪雨、そし暴風。

地球の高温化も一線を越え、今後の主食の穀物が取れない時代は、日本も芋で食いつなぐ時期があるかもしれないが、そういう時期には、毒草を見分ける知識も必要になるだろう。
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白隠の悟後の修行

2017-08-21 05:42:19 | 丹田禅(冥想法8)
◎上に向かって無上の悟りを求め

白隠のお婆々どのの粉引き歌に悟後の修行のことが書いてある。

沙石集によれば、春日明神が、笠置の解脱上人に告げて言うには、『たとえ天下の智者高僧といえども、菩提心ない者は、皆々魔道に落ちた。

それでは菩提心とは何か。上に向かって無上の悟りを求め、生きとし生けるものを教化救済することである(上求菩提、下化衆生)。』

これで見ると、白隠の悟りは、軽くて、シュンニャというように何度も何層も起こるようなものであることが前提のようにも見える。悟ったけれども無上の悟りを求めるのでは、その悟りの真価が問われる。

そうなっては、衆生を教化救済できるものではないのではないかと思う。

ここでは悟後と書いてあるが、悟前なのではないかと思う。  
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第三次世界大戦の組み合わせなど

2017-08-20 06:28:36 | 時代のおわり
◎大凶変じて一元に帰す

2017年初来の北朝鮮の核ICBM騒ぎは、第三次世界大戦の組み合わせを考える貴重な材料を提供してくれた。

おおざっぱに言えば、次のようなところか。北朝鮮には中国がつくが、ロシアは、中国寄りだが、反米ではある。もともと北朝鮮という国家はロシアが作ったものであり、ロシアにとっても東の不凍港という生命線ではある。

問題なのは、ヨーロッパ。ドイツは自動車を始め、中国と何か密約があるのではないかと思わせるほどの貿易面での蜜月ぶりであり、メルケルの姿勢でもある。中国の貿易相手国ランキング(中国からの輸出)では、以下オランダ、イギリス、フランスなどが続く。

第二次世界大戦は、日中戦争を導火線にして日独伊枢軸と米英などの連合国側の対戦となった。これをみると、今度は、中独X枢軸と、米英日連合国の対立が予想される。

今度はアジアでは、朝鮮半島の南北対立(休戦中)の他に中国自身の台湾進攻という大きな二つの火種があるが、どちらが燃え上がっても、日本は、対中国の火の粉をかぶらなければならない。

このような趨勢を見ると、出口王仁三郎が入蒙のきっかけとした聖徳太子予言に思い当たる。

元弘二年(1332年)8月4日楠正成は、戦勝の勢いに乗って大阪天王寺を参詣。宿老に、滅多に見せるものではないがと断られつつ聖徳太子の未来記を見せてもらう。

『当人王九十六代、天下一乱而主不安。
此時東魚来呑四海。
日没西天三百七十餘箇日。
西鳥来食東魚。
其後海内帰一三年。
如ミ猴者掠天下三十餘年。
大兇変 帰一元、云々。』

出口王仁三郎は、現代が当面するのは、西鳥来りて東魚を食すのところと見る。西鳥は中国・欧米、東魚は日本。
その後世界統一が3年、その後猿の惑星30余年。

大兇変じて一元に帰すは良いが、大兇の加減を人間が少しでも多く生き残れるようにとご神業したのが、出口王仁三郎の入蒙。未来記はネガティブ予言だが、よりポジティブにする努力はするものである。
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人の子に枕する所なし

2017-08-19 06:09:43 | 現代冥想の到達点
◎絶対的孤独、そして神秘

マタイによる福音書8章20節
『イエスはその人に言われた、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。されど、人の子に枕する所なし」』

人の子とはイエスのこと。枕するところ、つまり家を求めるというのは、帰る家がないことを感づいている人に起こる。

帰る家がないことは、道元も芭蕉も同じ。

道元の遺偈
『五十四年
第一天を照らす
箇の浡跳を打して(浡はさんずいでなく、足偏が正しい文字となっています)
大千を触破す
咦(いい)
渾身に覓(もと)むる無し
活きながらに黄泉に陥つ』

これの現代語訳
『五十四年の人生において、
天の最高位を知ることができた。

〔いまは、そこからもなんのこだわりもなく〕飛び跳ねて全世界を打ち破ってしまうのだ。

ああ

体全体、置き所に拘ることもない。
生きたまま黄泉の国に陥ちてゆくだけなのだから。』
(道元禅師全集第17巻/春秋社P271から引用)

身の置き所とは、枕する家である。

さらに芭蕉

此の道や 行人(ゆくひと)なしに秋の暮

此の道にもどこにも行人などいない。絶対的な孤独・・・・・。

ダンテス・ダイジはそうした心境を「私はわが家に安坐している」という詩において、
『帰る家がないからといって
家を求めてさ迷うには及ばない』と描く。

ノンデュアリティに生きるとは、その絶対的な孤独と寄る辺なさを生きることである。イエスであっても、ダンテスであっても、道元であっても、ことさらに、それを語りださねばならぬほど透徹したものなのだろう。

ゆくすゑに 宿をそことも 定めねば
踏み迷ふべき 道もなきかな
一休

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白隠禅師坐禅和讃-4

2017-08-18 05:31:33 | 丹田禅(冥想法8)
◎ノン・デュアリティでもない

『因果一如の門ひらけ
無二無三の道直し

無相の相を相として
行くも帰るも余所ならず
無念の念を念として
謡うも舞うも法の声

三昧無礙の空ひろく
四智円明の月さえん

この時何をか求むべき
寂滅現前するゆえに
当所即ち蓮華国
この身即ち仏なり』

因果一如とは、過去のことを知ろうと思えば、その結果が現在であり、未来のことを見ようと思えば、現在の行く末が未来であり、過去現在未来ひとつながりの、アートマンな世界観である。アートマンな世界観とは十牛図でいえば、第七忘牛存人。アートマン道は他になく、唯一の道である。


ここの無相とは一定の相がないことであり、行くも帰るも、謡うも舞うも
ダンテス・ダイジの、「一切万象、多様次元自身が目覚めている。」シーンを云うか。

したがってこの三昧無礙とは、サビカルパ・サマーディであろう。こうなれば四智のままに動ける。

四智とは、
大円鏡智・・・すべてのものをありのままにとらえる知慧。
平等性智・・・すべてのものを平等に見る智慧。
妙観察智・・・思いのままに自由自在に観察する智慧。
成所作智・・・状況に応じてなすべきことをなす智慧。

このオールマイティにあって、更に一歩がある。

ダンテス・ダイジは、この最後の一歩たる寂滅を峻別し、
『仏教なんぞの滅尽定でもない。
禅なんぞの無でもない。
隻手の音声なんぞ夢のまた夢
ヨーガの解脱なんぞでもない。』と説明する。寂滅とはニルヴァーナであるが、アートマンとは全く別の世界である。寂滅=ニルヴァーナとは、ノン・デュアリティでもないということになる。

こうして当処いまここが蓮華国であり、即身成仏となる。

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パラケルススのあらゆる宇宙の滅亡

2017-08-17 05:36:09 | 錬金術
◎神と人との合一について

悟る直前にはあらゆる宇宙が滅亡する。パラケルススは、そのことを、その文章だけ読んだのではわからないが、わかる人にはわかるみたいな書きぶりで、記している。

パラケルススは、かんしゃく持ちの気難しいお医者さんであって、時にその書いている文章からは聖性と全くかかわりのない医術パートもあるが、そのものズバリについて書かれたものも交じっている。

心理学者ユングが、パラケルススを高く評価しているのもこのせいかと思う。

パラケルススの「神と人との合一について」を見ると、現世の最後の時代には、裁きの日がやってきて各人はその犯した罪を問われ裁かれ、人は以後子を産むことはない。

というのは、裁きの後、人すべてとこの世が滅び去り、死すべきもの一切が消滅するからである。その後、死はなくなり宇宙は、永遠のパラダイスに変貌する。

この時、先の汚れたアダムは死に、第二の純潔なアダムが生まれる。キリストとは第二のアダムのことであり、永遠のパラダイス=千年王国に生きる人も、キリストと同様の業を行うようになる。この時、一人の羊飼いのもとにすべての群れが一つとなるとは、出口王仁三郎あたりの言う181位階のことだろうと思う。

そして現宇宙は火によって焼き尽くされ、そこにあった万象は一つとして存続するものはなく、エレメントも星辰もその中にあるものもすべて消滅する。そしてすべてが新たなものに作り変えられる。不死なる者だけが復活し、永遠に存在する。

パラケルススは最初に、裁きの日にはノアのような大洪水が起こるのではないと断っているので、この世界観は、神が人と万象に展開する世界全体の滅亡と復活のことだとわかる。

要するに、肉体と欲望の世界と意識の世界、無意識の世界全体のことを言っているが、ここでいう意識の世界、無意識の世界とは、心理だけのことでなく、世界を生成化々させている姿・パワーのことでもある。

『参考:キリスト教神秘主義著作集 第16巻 近代の自然神秘思想 教文館 パラケルスス 神と人との合一について』
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